Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

意識と、無意識と

2016-07-19 23:17:35 | ひとから学ぶ

 近くにある橋を渡って県道に出ようとしたら、県道を右からやってきた車が左折指示を出しわたしが渡ってきた橋へ入ろうとしたため、知らず知らずに橋の左に寄ってしまったのだろう、「ガタン」と音を発した。どこかに「ぶつけた」、そう思ったのは言うまでもない。この橋、「ゆずりあいの橋」と橋の両岸に看板が立っている。その意味はすれ違いができないから、橋を渡ろうとする場合、先に渡り始めた車を優先し、反対側の車はその車が渡りきるまで「待つ」ためにそう呼ぶようにしているようだ。軽自動車同士ならけしてすれ違いできない幅ではないのだが、基本的にそれはしない。だから「ゆずりあい」なのである。片側に歩道がついていて、幅は狭いが車道より20センチほど高くなっている。おそらくその歩道に当って音がしたのだろうが、あとで「どこにぶつけたのだう」と見てみたが解らなかった。軽自動車がすれ違いができる程度ということは、車道幅で3メートルほどあるから、歩道にぶつけるとはよほどのこと。自分でも音がした時は「何という」という自分の運転の下手さに唖然としたほど。なぜ左に寄ってしまったのか、しばらくはそんなことを考えていた。

 そもそもこの橋を渡る車は、わたしが渡ってきた方向から入るとたいがいは渡った後に左折する車がほとんどだ。それをわたしは県道から左折して橋を渡ろうとしていた車の方向に右折しようとしていた。ようは県道を走ってきて左折しようとした車も、一般的なルートではなかったということ。わたしのイメージでは、県道を右からやってきた車はそのまま直進するだろうと考えていた。ところが左折指示を出したため、少し意外性があってすれ違いを橋の上でするわけでもないのに、わざわざ左に寄ってしまったというわけだ。「ゆずりあいの橋」の上にいることを忘れて、いつも通りの左寄り行動をしてしまったわけである。加えて県道側は橋を渡るとすぐ県道という状況で、車を一旦停止しているにはスペースが狭い。そんな環境が無意識に車を寄せる結果になった。自分がそんな失敗をすることはない、と思っていても、ちょっとしたいつもと違う歯車が回ると、いつもはしない失敗をする。ひとの意識とは脆弱なものということだ。ちまたから事故がなくならないのはよく解る。事故が起きない方が不思議なのかもしれない。

 幹線道路を右折レーンに入って直進車がなくなるまで待っているケースは、当たり前のようにある。この時、直進車の列から飛び出るようにセンターライン寄りに膨らんでくる車がけっこう多い。左折する車を避けようと右に膨らむのかと思うとそうではない。ようは左折するためにわざわざセンターラインよりにハンドルを振ってから左折していくのである。こういうドライバーは、一旦右にハンドルを回してから、左に回すとしか考えられない。大型車のように内輪差がある車なら解るが、乗用車が幹線道路でするハンドリングではない。が、癖なのだろう、無意識のうちに左折する際に右に膨らませるドライバーは多い。よほど狭い道に入ることが日常的な人たちなんだろう。反対側で右折しようとしている車から見ていると、「こいつこっちに向かってくるのか」と一瞬動揺する。

 ひとのことを考えないドライバーなんぞ珍しいことではないのだが、わたしの前の車が左折して幹線道路に入った。右側から車が見えていたので、入れるかどうかを考えた上でわたしも引き続いて左折した。割り込みほどではないが、幹線道路を走っている相手側にしてみればそう思っても致し方ない状況。前に左折した車がふつうに走っていってくれれば良いのだが、幹線道路に入ってからなかなかスピードが上がらない。結局右側からやってくる車はまだしばらく向こうだったのに、わたしが入ったあとにブレーキを踏まないと調整できないほど車間がなくなる。ようはわたしの前に左折した車が、「割り込んで入ったのだから」、と意識的に幹線道路のスピードまで素早くあげてくれれば良いのだが、そこまで気が回らない。想定した判断は良くないとは言うものの、運転するということはいかに相手の動きを読むか、で左右する。


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