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祟り→妬み 前編

2021-07-31 23:16:49 | 民俗学

 長野県民俗の会例会(第226回)に久しぶりに参加した。例会報告については後日触れるとして、午後は例会に参加された方たちと豊科郷土博物館の企画展に合わせて行われた講座に参加した。「幸せな死・不幸せな死」は倉石あつ子氏が講師。昨年の満願寺にかかわる展示に引き続き、本年も満願寺にかかわる展示をされている。満願寺については昨年も記したが、安曇一帯において、ホトケムカエの寺として知られる。8月9日、新盆の家では栗尾道を通って朝暗いうちにホトケムカエに行ったという。帰りには卒塔婆を受けて帰ったということで、いわゆる施餓鬼法要にあたるようなもの。しかし、現在はかつてのような姿はなく、施餓鬼の卒塔婆をいただいていくという。おそらくかつてのような満願寺への意識は、今は廃れているのだろう。とはいえ、満願寺がホトケムカエの寺であったことは今も多くの人々が認識している。

 ということで、今回は「死」を扱った講座。「幸せな死」は「理想的な死」、「不幸せな死」は、裏を返せば理想的ではなかった「死」をいう。かつての「家」が中心であった時代は、家が継続されることが当たり前であり、自ずと理想的な死は、故人が「家」を継続させる行為を当たり前に行えば周囲もそう捉えた。子孫を残し、かつ後継者を家に留めるのは言うに及ばず、長生きをすればムラの人々こぞって見送ってくれた。我が家でも父や母が亡くなった際、家から火葬場に向かう際には、隣組のみなさんはもちろん、近在の親しかった方たちが「見送り」といって集まっていただいた。ただし、さすがに長寿社会。あまり長生きをされると、親しかった時代が過去のものとなり、見送りに集まる方たちが減少していくのは、これは時代性ではなく、致し方ない現実ともいえる。このように、みなに見送られて送られるのは、理想的な死のカタチとも言える。そうしたカタチを見てきたのが、かつてのムラ内の葬儀だったといえる。ところが今は、家に後継者が住まないのは当たり前で、見送る側のムラと、見送ってもらう側に接点がなくなっている。もちろん送られる故人はムラにかかわってきたから、「義理」としてかつての「見送り」は実践されるが、次世代にもそれが継続されるかはなんともいえない。おそらく隣組の関与がこの後、葬儀からなくなるに従い、「見送り」もなくなっていくのではないか、とわたしは見ている。

 このように「家」を重視された時代には、ムラの構成員である「家」をムラも尊重していた。だからこそ、最近触れている「制裁」にあるように、ムラの決め事を守らなければ「制裁」を受け、「家」としてムラハチブにされたわけだ。個人ではなく、「家」という単位で見られがちなわたしたちの社会の特殊性ともいえ、個人よりも集団を重んじる日本人の基礎になったのかもしれない。

 倉石氏は「畳の上で死にたい人は」と講義の中で問われた。挙手をされた方は1人だったが、自宅の畳の上で「死」を迎える人は、とても少なくなっているといえる。したがってこの問いにピンとこない方たちも、今は多いのだろう。かつては当たり前であった「見取り」は、自宅の畳の上で亡くなるというものであった。身近で見ても、わたしの父母は病院でのベッドの上で見取られた。いっぽう妻の父母は今時なので「畳」の上ではなかったが、自宅のベッドの上で見取られた。この違いは、終末期に家で介護を受けているか否かの違いといえよう。ようは倉石氏の問いは、「畳の上で死にたい」と言うよりも、「自宅で見取られたいか、否か」というものとなる。そしてその問いにあえて「自宅で」と答えたのは1人だったということ。いかに、世間では、すでに自宅で見取られる人が少ないか、あるいは自宅で見取られることが「幸せ」と考えられなくなっているか、を表しているともいえそうだ。

続く


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