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祟り→妬み 後編

2021-08-01 23:12:22 | 民俗学

祟り→妬み 前編より

 いっぽう「不幸せな死」とはどのようなものか、といえば、「幸せな死」ではないもの、となる。まつる者がいない「死」は、自ずと「不幸せ」となる。したがって「家」が継続されなくなったこの時代、結婚せずにいれば「死」を看取ってくれる人はいなくなる。孤独死は、まさにかつても今も「不幸せな死」で間違いないだろう。いわゆる昔なら行き倒れの「死」は無縁仏となり、縁もゆかりもない人々が葬ったのだろう。どうみても、「不幸せ」と捉えられがちだか、昔もそうした「死」をけして「不幸せ」だと思わない人々もいたはず。あくまでも「家」が継続し、人々に看取り、見送ってもらえれば「幸せ」だという当たり前にある意識の上に成り立った「幸せな死」である。しかし、必ずしもそれが幸せかどうかは、故人のみしるもの。例えば自殺者がけして少なくないなか、自ら死を選ぶ人々は、それが自らにとって最善な「死」と捉えない限り自らに答えを出せないだろう。もちろん周囲はそれを「不幸せ」と言うかもしれないが・・・。

 倉石氏はこの「不幸せな死」を迎えた人には、特別な葬法があったという。もちろんこれは民俗の世界ではよく耳にするものではあるが、例えば幼児の場合葬儀は簡単な埋葬とされる。妊産婦にはかつて「流れ灌頂(カンジョウ)」という弔い方があった。また、変死者は屋内に入れずに軒先に亡骸を置いたともいう。こうした普通とは異なる葬法を行った原点には、祟りを恐れるという意味もあった。ふつうの葬儀でも、いまもってさまざまな作法が残る背景には、同様に「恐れ」のようなものがあったからだ。「不幸せ」であったなら、「幸せ」を模して見送る方法もあった。例えば結婚せずに亡くなった者には「死霊婚」、いわゆる結婚したこととして供養するということが行われた。絵馬の中に戦死された息子が結婚式を行っている場面を描き奉納する。この世に未練を残さないように、という思いがそこにはあるが、「悪いことが続いて起こっているのは、未婚で亡くなった者の霊が祟っているからだ」といういわゆる宗教者の関与があったりして、「祟り」を恐れるようにもなる。そうした伝承が広まり、ふつうではないことへの「恐れ」が、かつては強くあったといえる。

 かつての社会では、ほぼ皆がみな同じことをし、同じ方向を向いていた。したがって「普通ではない」人々はムラハチブにされたし、「普通ではない」死は恐れられた。「祟り」を恐れるが故の共同歩調、それがムラやイエを形成していた。では、今はどうか。「死」にしても、その経験は親しい家族に限られる現代。ようは他人の「死」に立会い、「死」を考える場面の希少性は高まった。ようは当たり前の「死」を垣間見ないし、その環境すら、地域社会の繋がりが希薄になるにしたがい他者からうかがう事はできなくなった。こうした精神的な部分は、身内に委ねられているといっても良い。倉石氏は最後こう語られた。

よりよく生きるということは、よりよい死を考える事であり、よりよい死(理想的な死)を考えることはどう生きたらよいかを考えることである。

与えられた命をどう生きるか。

日常生活の「あたりまえ」を「あたりまえ」に活きることが重要。

でも、現在はあなたの「あたりまえ」は私の「あたりまえ」ではない=多様化する日常をどう生きるか

と。それぞれの「あたりまえ」を「あたりまえ」ではない、そう捉えられない人々が、身内に委ねられたため理解できない人々は多い、そうわたしは思う。その結果が「妬み」なのである。かつての「祟り」を思う人は、今は多くはない。むしろ現代ではかつての「祟り」の姿が「妬み」にとって変わられたのではないだろうか。


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