下曽倉でのお囃子
原いきいき交流センターでの「悪魔っぱらい」
原いきいき交流センターでの「オネリ」
下曽倉の辻での獅子舞
本曽倉改善センター前の「オネリ」
御坂山神社前での獅子舞(令和6年9月28日撮影)
御坂山神社の氏子は、およそ120戸という。集落でいえば本曽倉と原の二つの集落が氏子域にあたる。中沢には7つの氏神があって、諏訪神社が多く、前編でも記した通り、御坂山神社も主祭神は諏訪神社である。獅子舞については、永禄5年(1562)に穴山梅雪が駿河に移る際に妻子を預かっていたという北原家に女神楽獅子が、祝いの獅子舞に驚いて孫娘がショック死してしまったという言い伝えがあるという。江戸時代以前から今の形の獅子舞が舞われていたとは考えにくいが、古い時代より伝わっていて、どこから伝わったという言い伝えはないという。
7か所で舞われる獅子舞は、ほぼ同じことの繰り返しで舞われる。獅子舞の前にお囃子が奏でられるが、ここでは東伊那に多い三味線は加わらない。鼓と締め太鼓、大太鼓に横笛という構成で、次の6曲が囃される。
かぞえ唄
高遠囃子
スッテケ
チャンチャラ
オン琴
追いまわし
獅子舞は2種類で、最初に悪魔っぱらい。幌の端を絞って両手で持ちくるくると回しながら前進しながら舞は始まる。そして絞っていた幌を拡げて両手で持ちゆったりと右へ左へと舞い、
やれ三尺の御幣を持っては 悪魔を払うと ありゃせー
と言葉が入ると右手に御幣、左手に鈴を手にして右へ左へと舞を繰り返す。その際、後方のヒョットコが扇子で獅子を仰いでいかにも暑さを払うような仕草をしながら、獅子の様子をうかがう。
太平楽よと あらたまると ヤッセ
ことしゃよがよで 穂に穂が咲いたと アリャセ
土手のかわずの 鳴くのもおどりと アリャセ
といった言葉が入り、同じ舞が繰り返され、
これでとめおく お供えの ごはんじょと アリャセ
で幌の中にもう二人加わって幌を大きく広げてよそでいう「蚤取り」のように頭が自分の身体を噛むような所作をし、太鼓が小刻みに叩かれる。
そして
おっと坊さん危ないしょ
と声が掛けられると、大きな動きで右へ左へと舞い始める。
お先はなんと、なかは
あとはおやじの借金払い
といった言葉が掛けられ、獅子は左右に動きなくとどまっている子獅子に近寄ってあやすような所作をする。もちろん子獅子が無かったころは、こうした獅子同士が相対することはなかったのだろうが。
これで悪魔っぱらいが終わり、オネリとなる。オネリの際は幌の中に3人入り、やはり幌を高く上げて大きく見せながら前進するが、各所で行う際はその場で舞うにとどまる。唯一、本曽倉改善センターの前で舞う際は、オネリが悪魔っぱらいより先に舞われる。それは参道に当るからなのだろう、参道の入口から神社下の入口まで、まさにお練りをして進んでいく。その後改善センターの前で悪魔っぱらいが舞われ、最後の神社での奉納に向かうことになる。この改善センターまでは北原さんが造られたという頭で舞われ、ここで頭を交換し神社に上って行くのである。
神社では神殿のある段でお囃子と悪魔っぱらい舞わされ、最後は神殿に向かって入り込むような仕草で舞は終わる。この後役員、保存会の皆さん、そして参拝者も含めてお神酒をいただき、宵祭りは終了となる。
オネリは単調な流れの曲で難しいらしく、この日下曽倉で舞われる際にはお師匠さんが加わった。また、女獅子と言われていて、赤い袴を着ており、やはり刀を持つ舞は伴わない。この日は曇り空の下であったが、天候が良いと、下曽倉の辻からはおそらく木曽駒の山々が望めるし、参道を練る際にも対岸の中沢の集落やその背景の山々が写り込んで農村らしい光景が見られたはず。傾斜地ならではの周辺環境と併せ獅子舞が楽しめるのではないかと思う。
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