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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

稲核風穴その後 前編

2022-12-14 23:22:13 | 地域から学ぶ

 旧安曇村稲核は、現在は梓川のダム湖の段丘上にまとまって集落がある。『安曇村誌』第4巻「民俗」によれば、昭和40年に着工された電源再開発事業によって発電所やダム建設に関わる人々が流入し賑わったといい、昭和43年には249戸を数えたという。昭和44年にそれら工事が終了すると戸数は減少し、平成6年には127戸となったという。もちろんその後も減少を続けているのだろうが、環境的には南側に急峻な山を背負っているため、日陰になることが多い。そして何といっても「風穴」だろう、その特徴は。しかし、その風穴も実際のところよく活用されているかと言えばそうでもない。それらを見直そう、あるいは次代に残そうという意識は少なからずあるものの、集落の盛衰がそのまま風穴にも繋がっているようにもうかがえる。

 この風穴が最も利用された時代が蚕種の孵化調整に風穴が使われた明治30年代から大正時代にかけてであったという。全国への発送のため稲核に郵便局ができたのもその時代である。この風穴がそれ以前いつごろ発見され利用されるようになったか明確なことはわかっていない。「宝永年間」(1704年から1711年)に発見されたと書かれたものがよく見受けられるが、この元は蚕種業で栄えた前田家が大正時代に発行した『前田風穴案内』に記されていることから引用されたものだろう。蚕種で栄える前は、稲核菜などの貯蔵用に利用されていたようである。

 さて、風穴とはいえ、形式的には「穴」ではなく小屋である。斜面を掘削してできた壁面に石積みを築き、その上に木造の切妻屋根を構えるという形式で、石積の小屋と言えばわかりやすい。半堀込み式で、完全に彫り込んだものは少ない。もちろん背後から冷たい風が流れてくるから自然な冷蔵庫として利用できる。繰り返すが何といっても風穴が栄えたのは蚕種の貯蔵用に利用された時代のことであり、すでに100年ほど前のこと。前田家のもののように大型の風穴も造られたが、多くは小型の家庭用程度のものだったことは、現存している風穴からうかがえる。これを登記簿から眺めてみると次のようなことが言える。

 諏訪神社周辺には家庭用の風穴群が存在するが、前田家の風穴もそれら風穴群と隣接する。稲核に限られたことてはないが、かつては今では山となっているような場所に畑がたくさん存在していた。したがって閉鎖登記簿といったかこの登記簿も眺めていると諏訪神社背後の現在針葉樹となっているような空間も「畑」であったことがうかがえる。そのほとんどは国土調査が実施された昭和54年に「畑」から「山林」に地目変更されている。山の斜面の山林は、縦長に細長く地権者が分けられていることが多いが、現在風穴が残されている場所は、意外に小さく分筆されている例が多い。そして明治期から売買による所有権の移転がされている例が見られる。また抵当権が設定されていたりするのも風穴が建てられている場所であったりする。そうしたなか共有名義の土地に風穴がある筆が一筆ある。7名による所有となったのは昭和8年のことで、当時は「宅地」であった。現在も共有ではあるが、国土調査の際に「原野」に変更されている。その近くには昭和6年に「畑」から「宅地」に変更した些少な土地があり、ここにも風穴が建っている。さらに諏訪神社西方には、やはり昭和6年に「畑」から「宅地」に変更された風穴が所在する筆があり、売買は明治37年に行われている。いわゆる蚕種による風穴利用が盛んになったころ、売買や足並みを揃えるように「宅地」への地目変更が行われたことが登記簿からうかがえる。

続く


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