Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「休みたい」

2012-09-11 12:52:38 | ひとから学ぶ

 駅に向かう段丘を下る道端に、今年もツルボが盛んに咲き始めた。この花を知ったのは今から6年ほど前のことだ。災害の現場に訪れた際、天竜川の護岸に盛んに咲いていて気がついた花だ。珍しい花ではないが、印象に残って、石積護岸の間にあった株をいくつか引っこ抜いてきて我が家の畑の隅に植えた。一反出た葉っぱが1度枯れて姿を消したあとに、再び花の茎を伸ばしてくる種の花である。その後毎年我が家の庭にも少しばかり紫色の花を見せているのだが、今年は我が家の庭があまりの草だらけでもし花を咲かしたとしても草の中に埋もれていてその姿は拝めそうもない。

 このごろ妻の口から「休みたい」という単語がしばしば漏れる。勤めに出ているわけではないが、実家通いはけして主婦業の一環ではない。このごろは父母の世話でこれまで務め上げてきた農業すらままならない様子だ。先日も「オムツの世話をしていないだけ、まだましなんだろう」と自らに慰めの言葉をかけていたが、こういうときは鸚鵡返しでもよいから「そうだね」と肯定する言葉を返せばよいのだろうが、自らもなかなかその余裕もなく日々をおくっている。以前は夫を立てていた妻が、夫が弱音を吐き、かつての面影などまったくなくなったあたりから、夫婦という実態は消え、お互いにお互いをののしったりするようになる。そんな言い争いの世話をしているのに疲れたようだ。

 今最も訪れているブログの主は、地元で会社を経営している方のようで、日々忙しく働いている。ちょうど息子と同じ年の娘さんがいるようで、それに気がついたころからちょくちょくうかがっているのだが、ご本人はわたしのことは認識していない。もちろん向こうは会社の社長、こちらはしがない“平”、立場も違うし見ている世界が違うと思わされることも度々だ。そんな彼が日々午前零時過ぎまで働いているというのに、出張先のひと時に写真を撮影してブログに毎日のようにアップする。もちろんカメラ好きというか写真好きのようで、ライカはもちろんのこと、国産の高級カメラを何台もお持ちのようだ。わたしも会社ではカメラ好きでかつては知られたが、ライカや数十万もする高級機はとても手が出せなかった。何台も買ったものだが、高級を夢見ながら中級で我慢をした“三流”派なんだろう。人生もそんな性分が十分に出てしまう、というか彼のブログを拝見していると、やはり夢は夢なんだと気づかされるし、もちろん今は夢など求めていないが、だからこそ自らの人生に満足し、かつ違う世界を実感するのだ。わたしとは異なる忙しさにあっても、ときおり小さな旅をされているようだし、出張の合間で十二分に癒しを体感しているようにもうかがえる(こちら側の判断でご本人はそうは思っていないだろうが)。ブログからうかがえる人物像は高級感溢れているのは言うまでもないのだが、それほど忙しくてもその高級感を堪能できる人生は、わたしにはない“余裕”である。この性分というか時間の使い方の下手さが、今の自分の立ち位置を描いてしまっているのだろう。そして何を言われようが自分の価値判断を作り上げようとする。残念ながら人間はこうなると、幸せかもしれないが、周りからの見方はそれまでとは変わっていくものなのだ。


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