政治も人気商売に成り下がってそれを下支えしている国民が成しえたものだから仕方のないことであるが、このごろは維新の会の勢いが収まらない。そもそも「維新」などといわゆるこの国の歴史の上でも戦国と二分する人気の時代のキーワードを用いて改革イメージを作り上げるあたりはビジュアル的なこの世の映しえともいえる。その維新の会が表した「維新八策」という単語も、流行語になりえるメディア指向のものであることは誰にでもわかることだ。しかし中身は気になることが多い。たとえばTTPへの参加をうたっているが、このごろ維新の会へ合流するとした「七人の侍」にもTTPには反対の者がいるというのにすんなり受け入れられた。道州制がメインテーマなのか、などと勘ぐる。そもそも橋下は役所そのものの機構改革に積極的だ。あれほど財源を捻出するといって事業仕分けで注目を浴びた民主党も、今は見る影もない。いっぽうで消費税に絶対的財源依存を見せる。何がそうさせたのかはいまだ説明がないような気がする。そんな変貌振りが、よりいっそう「維新の会」というビジュアル指向のコトバに操られている。
本日の信濃毎日新聞1面のコラム「斜面」にこの維新の会への不安が少しばかり記されている。やはり道州制だ。議員半減をうたう橋下の案に沿えば、長野県など衆議院議員は2人ほどのもの。もともと地域選出という方法は地元への利益誘導型の政治を招くから、地域代表などという意識は薄い方が良い、というのが理想だ。しかし地方と大都市に格差が生じてしまった以上、被災地に手を差し伸べるような意識で政治をしてもらっては困る。そのためにも地域のことをよく知っている者が政治の場に立って欲しいのは地方の願いだ(とはいえ地方選出の議員もその地元を知らない人が今は大勢立っているが-地方に政治的有能な人間がいなくなったという解釈もできるが)。そこへ道州制が実施されれば、より一層人口の少ない地域が絶たれることは必至。わたしは道州制がダメだとは思っていないが、彼らがイメージする道州制は、徹底的な行財政改革が土台にある。「日本維新の会が地域政党の結集を目指すとはいえ、中心にあるのは大都市だ。小さな自治体と、そこで暮らす人々の思いが置き去りにされないか」とコラムには書かれている。今までの政治も同じ言葉で表現できるのだろうが、維新の会の成長は、より一層それに拍車をかけることは確かといえよう。この国の現状を見る限り、今までの政治ではダメだという印象は拭えない。多額な負債を背負っているからなおさらのことだ。しかし真っ当な主張に流れたとしても、人々の実生活はさらなる逼迫した状況に進むことだけは避けられそうもない。国民が二分された世界に分けられていくのだろう。それが幸福への道なのか、幸福を知らない人々の国になるのか、それもまた国民の意識次第というものなのだろう。さすがにすでに老後へ向かうだけの人生半ばを過ぎた者には、こんな逃避感が似合ってしまう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます