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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

橋供養塔・後編

2012-09-10 23:49:39 | 民俗学

橋供養塔・中編より

 「埼玉県の橋供養碑~分布一覧と考察」(以降「HP管理者」という)によると、埼玉県においては「石橋供養塔」という銘文が大半を占めるという。先の平出一治氏の報告では旧小淵沢町の例はすべて「橋供養」であり、「石橋供養」という銘文はない。実際供養した対象が石橋であった可能性はあるが、このあたりは埼玉県の流れとは少し異なるようだ。ところが隣接する富士見町に「石橋七ケ所供養」があるところから、埼玉県の流れがまったくないとも断言はできない。なぜ石橋供養だったのか、というあたりは不思議でならない。HP管理者も指摘しているように、かつて石橋が橋の主流だったわけではなく、土橋や木橋が橋の主たる構造だった。このことについて「江戸時代の橋は大半が木の橋であり、腐朽しやすく耐久性に乏しかった(耐用年数は10年程度)。街道や農道に架けられた木の橋は、幅が狭くて牛や馬(農作業に使われた)が渡れなかったり、幅が充分でも頻繁に牛や馬が渡るために、橋板が破損してしまうことも多かった。また木の橋は川の増水で頻繁に大破したり、最悪な場合は流出してしまうこともあった。一方、石橋は永久橋であり、一度造ればそう簡単に壊れるものではない。」と構造による違いについて触れている。近代以降コンクリートによって永久橋というものが造られるようになるが、近代以前には石橋が永久橋として捉えられていたというのだ。確かに頑丈であることは事実だが、埼玉県の石橋についてHP管理者が武蔵国郡村誌から集計した1700もの石橋の平均規模は、長さ2.7m、幅1.9mだったという。その形式が桁橋だったというところから察しても比較的橋は低く、長い橋は橋脚を設置して設けていたようで、果たして石橋だけを特別に捉える意図が単なる永久橋としての願いだったのかは疑問が残る。

 「橋供養」について「供養」という文字からして弔いを意味するもの、墓標であるという説明がされるというが、HP管理者はそうではなく、橋が長持ちをするように祈ったもの、あるいは通行人の安全を祈願するために建てられたものだったのではないかと推測する。となるとやはり石橋が主たる対象であるところの解説にはいまひとつ弱い。実際にどのような橋を造ったら橋供養塔が建立されたのか、現存する橋と橋供養塔の両者を見てみないとイメージは湧かない。さらにHP管理者は前編でわたしが思ったことと同じことを記述している。「石橋供養塔は石橋の竣工を記念した碑なので、本来は橋の傍に設けられているべきなのだが、残念ながら、そのような例はあまり多くない」と言うのだ。もちろん現存している橋供養塔の位置が建立時と同じばかりとは言えないが、どうも橋とは無縁なところに建てられているケースもあるのではないかと想像する。そして「塞ぎ」の意味を込めて橋供養塔が建てられた可能性を説く。そもそもなぜ「供養」だったのか。供養塔の建立意図とどの程度かかわっているのか、違和感の多い課題が多い。

終わり


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