Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

地域、そして「家」

2010-04-03 12:18:36 | ひとから学ぶ
 地区の御柱祭の朝早く、息子と母は引越しで出かけた。地区の芸能に関わって3月のあたまからその日のために時を費やした6年前とは大きく異なる今回の御柱祭である。そもそもがこの地で生まれたわけではないわたしには、その地区に浸透するにはそれなりの関わりが必要だ。地区の芸能に参加するというのも一つなのだろうが、仕事の都合で合わせるのも大変なこと。とはいえ、気持ちさえそこに持っていけさえすれば、仕事など調整可能なことなのだろうが、その気力を持ち合わせるだけの境遇にいないのも事実。やはりその地で生まれ育って、そこに腰を下ろしている人との違いがどこかに出てしまう。役割があってどうしても必要とされるのならともかくその他大勢の一片は正直なところいてもいなくても変わりはない。ここへ来て3度目の祭りは、縄打ちなど準備には出向いたが山出しとか里曳きといった祭りそのものにはまったく関わらないで終わった。何をするか解らずに関わった最初、そして芸能に参加した前回、そして今回と、三様であるから経験は乏しい。よく妻が言う言葉が「生まれたところの祭りには熱心になるけど、ここの祭りには冷めてるね」というもの。と言うより生まれたところの祭りも毎年訪れるものの、やはりその地に住んでいないと結局その中には入り込めないもの。おそらくかつての農村にはそうした不安定感というものはあまりなかっただろうが、今はわたしのような思いを持つ人は少なくはないはず。日々の暮らしに追われながら、その地の人たちと関係を深めていくというのは容易ではないし、かつてのように熱心に誘われるということもない。

 加納亜由子氏は「近世後期小農の二男三男をめぐる家督継承戦略と他国稼ぎ」(『信濃』62巻2号)において、江戸時代における農家の二男三男の存在について解明している。現代ではかつてのように出生数が多くはなく、せいぜい2人とか3人程度の子どもしかおらず、加納氏が解明している江戸時代とは様変わりしているわけだが、当時の家のこと、そして継承するということのためにどういう意識があったかが、そこから垣間見ることができる。越後国頸城郡長岡村(現上越市長岡)に現存する宗門人別帳の移動をみながらその家の継承がどう行われていたか、あるいは行われようとしたかという想定をしている。それによると、「結婚と同時期に男性が「改名」する特徴が見られる」とし、「長男だけでなく、二男三男でも「改名」経験者がいる一方で、結婚未経験者の多くは幼名から成人名に改めることがなかった」と指摘している。長男の妻が亡くなった場合、2人の間に子どもがいればよいが何年も経過していて子どもがいなかったりすると、二男三男に嫁取婚をしたようで「家の相続や後継ぎが生まれることを重視する「家」意識の下で、二男三男が予備の相続候補者として位置づけられ、未婚のまま家に残されていたのだろう」と言う。家を継承するために、子ども達はその時の変化に柔軟に対応できるように控えていたわけである。もちろん未婚のまま生涯を終える子ども達も多かったのだろう。

 現代は医療進歩によって、不慮の事故などなければ長生きができるようになった。出生数が減っても家を継承するだけの背景があるわけだ。意外に江戸時代には離婚率も高かったという。「家」意識が消滅する中で、継承のための策はこの時代には模索されない。しかし、冒頭のわたしの意識ではないが、やはりその地で生まれ育つという確かな経験と実績は今も評価の対象であることは言うまでもない。

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