Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

顔と顔の商売

2008-11-11 12:30:29 | ひとから学ぶ
 世の中にはふたつのタイプの人間がいる。ひとつはどれほど期待されようとも自分にとって無駄だと思うことは打算的に手を出さない人。ひとつは人のために奉仕を惜しまない人。これは対峙したものだから「ふたつ」という両極端に置くが、もちろんどちらでもない人もいるかもしれないし、どちらにも判断しがたい曖昧な人もいる。「ふたつ」という言い回しは意図的であることに違いはない。

 どちらも同じ商品があって、その値段に差があれば、安いものに手を出すのは当たり前のことである。もし高いものに手をだしているとしたら、安いものに手を出す人には「信じられない」人と映るだろう。もちろんそれが別の店に並んでいるから商売は成り立つが、もし同じ棚に並んでいたら高値のついた商品を買うのは「うっかり」手を出す以外ありえない。もし売り手側が間違えていたのならともかく、それでも値段に差をつけるとなれば、そのサービスに差があるということになるのだろう。そう思うのは当然のことである。これは同じ棚に並んでいるからのことであり、異なった店だとすれば、そこには明らかに差がある。売っている人の顔が異なるというのは大きな違いだろう。それを判断する人としない人には、やはりふたつの人間性が見える。人の顔だと思わずに自動販売機で買うように物を買うか、人の顔、視線を意識して買うか、そんな人の心理が働くか働かないかという違いになる。割り切っている人間は、必ず安いものを買うし、はっきりしない人間は顔色を見て買ってしまう。それを計算づくで商売をする人もいるし、商売人とはそんな世界の人間といえるだろう。量販店においても「他店と比較して高ければ安くします」と掲げるような店は、ようは人の顔色を逆手にとったものといえる。「まけられないか」あるいは「安くしろ」という会話がない以上、値引きのありえないものだとすれば、そこにも顔色の違いが垣間見える。まけずに買った者は「まぬけ」という人もいるだろうし、それでも「よい」という人もいる。駆け引きの世界であって、こと商売人だけではなく、ちまたの社会生活でも十分に存在する関係である。かつてなら顔と顔のつながりがあったから、まけずに買っていった人には、後の買い物でサービスするということもできた。量販店や大型店、チェーン店、そうした構図でなくとも商品と支払いが明確に情報化された店では、人の気配はない。レジを打つ人も、そこへ品物を持ち込む人も、人ではなくモノといっても差し支えない。機械的な関わりである。

 日々の同じ繰り返しにおいて、自らの顔と売り手の顔が親密であると、もしかしたらそれは随意契約と同じような馴れ合いと言われるのかもしれない。しかし、その商品だけをとってみればそういうことになるだろうが、そうしたその時々での損得を後々まで情けと言う形で勘定するから、それぞれに責任を持とうとする。現代ではそうした関係を引きずることさえ鬱陶しいと思う人も多い。どちらもどちらだとは思うが、わたしは顔と顔の解りあった商売が良いと思う。そうした関係をたくさん持てると幸せだと思うものの、最近はなかなかそうした関係を持てない、また売り手側もそうした関係を望まないようだ。時代は一般競争入札の時代。曖昧な関係を辞めろという時代にあって、そんなものをねだるのは反社会的と非難されるのだろう。しかし、現実的にそういうかかわりをこれ幸いと利用してきた人たちもいた。機械的な関係を、より一層これからのものだとするならば、これほど息苦しい社会はないと思う。
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