Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

ヒイラギ

2008-11-20 12:32:40 | 自然から学ぶ


 指先を地面に這わせる。すでに冷たくなったそこは、冬を迎えるかのように冷たさをわたしの指先へ伝える。枯葉の中をまさぐりながらまだ青々とした草を取り除く。衰えはしたが、この季節にも十二分に草は伸びる。そうした草を今取り除くことで、整然とした庭は師走を迎えられる。そう思いながらもなかなかその準備ができないのが常なのだが、せめて枯葉を片付けようと、地面に指先を這わすのである。

 植えたくはなかったヒイラギの葉が、幾枚か枯葉の中にまぎれている。葉に棘を持つヒイラギは、ずいぶん昔に枯れ果てた葉にも棘は残る。地に這ったわたしの指先に、その痛みが当然のように感じられる。棘のついた葉の始末に苦労するから、植えたくはなかったのである。ところが母は「一本は植えとけ」といって造成された庭に持ち込まれた。落葉する枯葉はともかく、それまで冬も青々とした葉の始末の経験がそれほどなかったわたしは、ヒイラギの処理がこれほどめんどうだとは知らなかった。

 妻はそんなヒイラギの剪定をすると、いつも剪定枝はそのまま地面に残す。すぐ始末をすればまだしも、枯れてくると葉は枝から落ちる。すると葉だけが地面に散らばるから、枝を持っただけではすべてを移動することもできない。棘だらけの葉だけを手で集めるのは気乗りしない作業となる。

 ヒイラギは節分に登場する。鰯の頭をヒイラギの枝に刺し戸口に掲げた。またヒイラギの生枝の上で髪の毛、こしょうなどをいぶした。これほど棘のあるものは、外からの訪れる者にも嫌われる。ようは「賽ぎ」の意味を持つ。悪霊なり災厄を防ぐためにも棘のあるものが植えられる。しかし内からもそれは嫌われるから、とても厄介なものなのだ。

 雪の舞い始めた野に、冬の彩が埋め尽くされる。霞んだ山々は冷たい風を里に贈る。すると、どこか寒々した光景に心は冷やされ、灯りがとても温かく感じるのである。心は温かさを求めるが、野にある自分は身をそこに置きながら人生の冬を過ごすのである。歳を重ねるほどに冬は重くなる。その重さは春にならないと失せない。冬を越せることが、歳を重ねるということなのだと、まだ何度もそんな冬を越すことになるのであろう中年が思う。

 落葉すると確かに日差しは抜けてくる。ところが、同じく風も抜けてくる。寒々した光景を描けば、そこには遮る葉がないのである。透き通るような生垣では意味がない。しかし、冬も青々とした生垣も、葉を少なくして風を迎え入れるのである。そこまでやってきた冬を前に、凍てつく身体を揺さぶり、耐えている自分が、人生の傍で止まっている。ヒイラギは老木になると棘がなくなり葉は丸くなる。まもなく花をつけるヒイラギは、家に、また人に、人生という物語を季節になぞらえて語ってくれる。
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