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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

義理とは

2008-11-25 12:45:07 | 民俗学
 妻の伯母さんが亡くなって葬儀があるという。葬儀までの日々の行事をこなすごとに妻は愚痴をこぼす。とはいっても妻がその場に必要な人間ではないから直接的影響がそれほどあるわけではない。いわゆる隣組が寄り集まって葬儀の段取りを打ち合わせる会議。おおよそ亡くなって間もない日の夕方から開かれる会議であるが、今は葬儀屋がおおかたの段取りをしてくれるからそれほど時間を要すわけではない。先ごろあった我が隣組の葬儀でもものの1時間もあれば打ち合わせは終わる。我が家のあたりではお茶を飲みながら打ち合わせが行われ、終わればお開きである。ところが伯母さんの隣組では打ち合わせ後に酒が出される。そこまでは良いのだが、隣組の人たちが一向に帰らない。妻の父は兄弟の長老ということでその場に顔を出すが、老人にとってはそんな酒席は短いことにこしたことはない。

 さて、翌日は湯灌だという。一般的に湯灌は近親者で行われるのが普通なのだが、ここでも隣組がやってきて再び酒宴となる。故人を偲んでのものならともかくそれに疑問を呈すほど妻は「葬儀をよいことに飲み会をしている」とまでいう。加えてなかなか帰ろうとしない隣組に「なんなのこの人たち」という具合だ。

 湯灌とは流行の葬儀屋に言わせれば故人の遺体を洗浄し、身支度をするものだという。上伊那郡南部では、「今は目をおとすと同時に一切の処置が行われるので以前程ではない」と『上伊那郡誌民俗篇』(1980)に記述されている。この場合の「今」は1980年のことであるからだいぶ時は経っている。同書に記述される上伊那郡東部の項では、「臨終直後体を拭き清掃する。これが湯灌をかねている」とあり、神葬では「湯灌や旅支度はない」とされる。葬儀屋も地域ごと個人ごとの実情に合わせてやってくれるから葬儀屋に勧められるものでもないだろうが、最近は湯灌サービスなるものもあるという。そうしたサービスの質疑応答にこんなものがあった。「病院できれいにしてくれているのにどうしてお金をかけて湯灌をする必要があるの?」というもので、その回答として「基本的に病院ではアルコールなどを用いてお体を拭き上げるいわば消毒の意味合いが強くまた、お体の処置も十分になされていない場合が多いようです。病院様のご苦労もお察しできますが、湯灌とはイコールになりません。私どもが提供する湯灌サービスは日本人が大好きなお風呂を身内の皆様と共に故人様の「お別れ式」として昇華しより現代に合う手法を用いて行なうものであると認識して頂ければと思います。「やってあげたいけどできない」そんな思いを私共が成り代わりお手伝いさせて頂きます」という。わたしの印象では今はだいたいが病院で亡くなることが多いため、この内容にあるいわゆる消毒以上の洗浄ということをするイメージはなかった。妻の祖父が亡くなった際も、亡くなると新しい衣服を病院まで持って行き、それに着替えたと言う。死後硬直があってからでは着替えが難しくなるため、なるべく早い段階でここでいういわゆる清浄の行動をとっている。だから通常湯灌といえば、旅立ちの装束を整え納棺することを指して言っている。

 いずれにしても湯灌の意図からして「近親者で行う」という理由は解る。伯母さんの地域は昔からそうだったのかというと、この地域、高度成長期に住宅分譲されてできた新興地域。いったい誰の意見でそうなったのかは興味がわくところであるが、これを新たなる民俗の創生などとはあまり言いたくはない事例であるが、これもまた民俗という考えもあるのだろうか。今地方ではこうした不可解な現象がたくさん起きているのだろう。
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