Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

なぜ葬儀の前に火葬にされる

2007-11-27 12:11:53 | 民俗学
 調査もしないから原稿が書けるはずもないのだが、すでに「あきらめ」のようなものもある。今だから書ける、あるいは調べられることがあるのだろうが、それもできずに年は過ぎ、また正月を迎える。

 福澤昭司氏は、「長野県民俗の会通信」202号において、日本民俗学会年会の報告をされている。長らく年会なるものも縁がなく、すでに別世界のものとなりつつあるが、福澤氏もいうように、民俗学は「大学に属していない地方の普通の人が、その学問で飯を食べる人と同じ土俵で議論できる」学問である。ようは素人でも自らが生活する世界において、その自らの土俵を研究対象として捉えることができるわけで、大学にある空間はなんら学問としての土俵にはならないというわけだ。

 そんな視点で言うのなら、普段の暮らしに問題意識を持っていなければ、研究題材も見えてこないし、人に対してその問題意識を展開することもできなくなるというものだ。福澤氏は、年会の発表要旨を一覧して「なかなか聞きたい発表がみつからない」と思ったという。もちろん発表内容が多種多様ということもあって、自らの興味のないものに目が向くわけではないのだが、それにもまして、発表者の問題意識が感じられないという。

 その問題意識について、福澤氏自らの最近の生活で感じたものを事例としてあげて、「問題意識とは内なる経験と呼応するものでなければならない」と述べている。

 身内をお二人、この一年で亡くした福澤氏は、葬儀にかかわるなかで、身内とはいえ死者とともに夜を明かす経験のなかから、「生き返ってほしいと思いながら、死んだまま死者が起き上がってきて自分も死後の世界に連れて行かれるかもしれないという不安」があったという。だからこそ、通夜は大勢の近親で起きていようということになるのだろうが、死者の遺体とともに同じ空間に同居するという事実は、身内なれどもなかなか複雑なものがあるだろう。身内を亡くしたという悲しい事実、そして別次元での遺体との同居、そんな環境が正常なものでないことは簡単にわかることだ。不安定な精神世界だからこそ、福澤氏の言うように「自らも引き込まれそう」な黄泉の国。大往生ならともかく、不慮の事故で亡くなったり、自ら命を落としたような環境がますます不安定さを招くことは当然なこととなる。正常な死者とは別に、そうした不慮の事故で亡くなった者や、年少で亡くなった者を無縁仏といって別に捉えるのも、人々の精神的な必然だったのかもしれない。往生であれば、生前の逸話を取り上げて酒を酌み交わすことで、死者が安心して黄泉の国に発てるだろうし、送る側も過去を振り返りながら、あらためて故人の業績を確認することになる。世の中が死者に対して冷たくなったのも死者と生きている者のプロセスを欠いてしまったことによるものかもしれない。もちろん家族が少なくなれば近親者総体が少なくなるわけで、死者にとってのこの世は、安心して旅立てるような世界ではなくなっいる。にもかかわらずそうした不安定さを暗示してくれるような死者のいたずらはなくなった。この現代びとの精神のありようは計り知れないほど変容を続けているように思うのだが、どうなんだろう。

 福澤氏は、そんな死者と同じ部屋で過ごすなかで、「いつ死者を火葬にするか」という疑問にぶつかったという。葬式の日取りを決めるのにあたって、まず火葬場の都合に合わせ、次いで坊さんの都合に合わせたという。葬儀は火葬後という大前提があるから、最優先されるのが火葬場の空き具合となる。坊さんが都合よくても火葬されていなければ葬儀はできない、となるわけである。以前よりこの疑問を抱いていたというが、身内の葬儀に関わってより一層その疑問が大きくなったようだ。言われてみればその通りで、土葬時代には「火葬」という段階がなかったから、現在最優先されている都合はまったく気にすることはなかったわけである。葬儀の際に死者とお別れすることができないから、親しい関係で拝顔したいとなれば、通夜にでも訪れないと死者とのお別れが実現できないわけだ。この「死者とのお別れ」という言い方も不思議なもので、本来ならば葬儀において死者へお別れを告げられるはずなのに、葬儀そのものがまったく意識の中で形骸化してしまっているようにも感じるわけだ。わが家の中で、お互いの葬儀は「近親者のみのごく身内でやろう」という共通認識が生まれたのも、形骸化した儀式にやってくる形ばかりの線香をあげる人たちなど用がないという意識が生まれているからだ。葬儀の変容はともかく、土葬時代のように死者とのお別れの場であるという意識が強ければ、自ずともっとも重要な場になるのだろうが、「火葬」という形ですでに死者は「旅立ってしまった」という印象が流れていると、葬儀は仏になるための階段の一つにすぎないわけだ。

 福澤氏は、こうした大前提を覆すことなく続けられている長野県内のやり方は、全国的なものではないと述べている。よその葬儀に関わったこともなく、このやり方が当たり前だと思っていたわたしには意外に感じたのだが、確かに葬儀の後に火葬にするのが一般的なようだ。「北海道の一部、東北地方等の関東北部以北、甲信越地方の一部、中国地方や九州の一部では、葬儀・告別式に先立って火葬が行われています」というものをHPで見つけた。では、なぜ葬儀の前に火葬にしなくてはならないのか、福澤氏のいうようにこれは大きな疑問である。「今回の経験をして、自分は葬式とはいえ会葬者が死者と同じ屋根の下で過ごす緊張感と関係がありはしないかと思っている。では、他の地域の人々はそうした緊張感を感じていないのか」という。問題意識とは、自らの経験の中で見出すからこそ、より一層共感を持てるものとなるわけで、このことは以前より福澤式が述べている研究のスタンスだ。先ごろの長野県民俗の会総会において、代表委員の細井氏も、共感できるからこそ意味があるというようなことを述べた。福澤氏のスタンスは、着実にわたしたちにも伝わっているような気がする。共通の課題をそうした問題意識の土俵に載せ、それぞれが意識してみる。そこからどういう問題意識に個々が展開していくかも楽しみではあるが、また教わるものも多い。

 さて性格上こんなヒントをもらっても、そのときは意識しているがすぐに忘れてしまう。損なことをしたものだと思うのだが、ヒントを一瞬だけでも得たことが「しあわせ」だと思っている。まさに共感こそこの世界の始まりなのだ。

 追記
 前例のHPにこんなことも書かれていた。「かつての葬儀は、通夜は近親者で営み、葬儀・告別式に一般の人々が参加するというのが通例でした。しかし最近は通夜に一般の会葬者が多く出席し、葬儀・告別式よりも参加人数が多いという逆転現象が生じています。通夜の告別式化です。こうなると近親者が死者と別れの時間をゆっくりもつことができなくなります。参列・会葬者の出席の都合が夜がいいというならば、通夜は近親者だけでもち、翌日の夜に一般の人に案内して告別式を営み、翌朝は近親者だけで葬儀・火葬を営むという方式も考えられます。」というものだ。前述したように葬儀の形骸化という雰囲気が一層に強く感じられる。「葬儀が楽しくない」なんてふしだらな言葉はいけないが、いったい葬儀とは何なの?ということになる。
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