Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

玄関廻りのお札

2007-11-04 10:08:34 | ひとから学ぶ
 毎朝同じ道を歩けば、頻繁に顔を合わせる人も出てくる。田舎だからその数は少なく、毎日ということにはならないが、軒先へ出ている機会に遭遇するからこちらは「この家の人」と認識することになる。稀ならともかく、頻繁に顔を合わせれば、当然挨拶という行為もあるわけだが、最初に顔を合わせた際に挨拶を交わした人とは、その後も毎回挨拶を交わすこととなる。いっぽう最初に挨拶をしなかった人とは、会うたびに挨拶を交わすことはなく、いつまでたっても初めて遭遇する「よその人」という空気がお互いの中には流れる。相手はそこに住む人、こちらはよそ様の前を通過していく人。もちろんこの関係でいけば、こちらは相手がどこに住んでいるか解っている、ようは個人情報を認識しているが、相手にとってこちらの情報はまったくない。その関係からいけば、相手が警戒するのも無理はないから、こちらが挨拶しているのに「向こうは返事をしないどころか、こちらを無視している」という認識をして引いてしまってはいけないだろう。あくまでも情報を持っているこちらは低姿勢で対応する、それが道端で会って情報量が異なっている際の対応の仕方だろう。

 とはいえ、毎日前を通っている人と目も合わさずにずっといるのも、相手にとってはストレスになるだろう。となれば姿をみたら身を隠す、と言うことになりえるだろう。人はそれぞれ家によってもそれぞれだから致し方ないことだが、この時代に道を歩いている人と言えば、そう遠くない場所に住んでいる人と言うことはわかるだろうが、その辺の解釈も人それぞれである。こんなことを考えなくてはならなくなるきっかけは、やはりすぐ近くを歩いて「おはようございまいす」と言うのに返事がないことが続くからそういうことになる。

 このごろの家は屋敷周りに垣根があったり塀があったりして玄関口が道を歩いていても見えないから、その地域でどういう玄関構えをしているかはよく把握できない。わが家の近辺では、玄関周りにお札を貼っている家は少ない。また魔除けのようなものを掲げる家もあまりみない。ようは古い家並みがないから、その地域の様子をうかがい知れないということになるが、たまたま挨拶の返ってこない家の玄関は邪魔をするものがなく伺うことができる。すると玄関の上に木札がいくつも並んで貼られている。ちよっとこのあたりでは見ない光景である。何のお札なのか良くは見えないのだが、このあたりの家を訪れて木札が掲げられている姿はあまり見ない。例えば大工さんとか職業柄のものなのか定かではない。短絡的につなげることはいけないが、こうした玄関周りが少し周辺と異なるだけで、いろいろ想像してしまうものである。

 このあたりでもっとも一般的に見るのは角大師の紙札である。このあたりといっても、飯田市周辺の地域ということになるだろうが、これは元善光寺という寺で厄除け札として配布されているためにこの地域に多いわけだ。著名なものでは伊勢へ行くと、どこの家の玄関先にも魔除けが掲げられるというものがある。という具合に地域ごとに玄関先に掲げられる魔除けが異なるわけだが、そうした地域の中で異なった趣を見せる家は、今回のように印象深くなるわけで、そんな印象深さがあるから、また地域を眺めて「よその家はどうなんだ」という見方ができるわけだ。
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