Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

食べてしまう女たち

2007-11-05 12:08:28 | ひとから学ぶ
 しばらく前のことである。妻が頭痛で寝ているということで、農業をしに行っている実家から今日は帰れないという連絡が入った。朝がたに作った弁当の残り物から、冷蔵庫の中身の余りモノを取り出して夕飯を取ることになるのだが、弁当を作った残り物を食べているうちに、そこそこ満腹にはなるのだが、まだ皿の上には余りモノがある。このまま残して冷蔵庫にしまったとしても、これ以上保存しておくには問題もありそう。ということで、「このくらいなら」と思って無理をして腹の中に納めようと努力を始める。たくさんのおかずが残っていればあきらめもつくのだが、それぞれが少しずつ残っていると、その少しずつをクリアーしていくうちに、しだいに皿の上は残り物がなくなっていくのだ。それほど食べる意識もなかったはずなのに、皿の上がきれいになっていくと、気持ちのよいもので、空腹で食べたがっているわけでもないのに食が進むのだ。ふだんは残しても妻が残せるものはラップを掛け、残せないものは犬のえさに廻したりと処理をしてくれるが、そうでないから自分ですることになる。

 こんな具合に処理をしていて気がつくのは、女たち、とりわけ母親にとっては残したものが食べられると判断すると、自らの腹の中に納めていくという行為がごく日常的に行われているのかもしれない。まだ子どもが幼いころ、子どもが食べ残したものを母親が食べていくという光景は毎日のように見たものだ。幼子の食べ残しならそれほど量は多くはないが、そこそこ成長してくると食べ残しも量が増えてくる。

 そういえば母は家族の食事が始まると、少しばかりのおかずを皿にとって食べ、残ったものを端から処理するように食べていったものだ。もちろん家族の食事ともなれば、個別の取り皿に分別されたものではないから、山になっていたおかずが処理できそうなくらいに減っていると、まずそれから平らげていくのだ。宴会場に出された盛り合わせなり料理が、少なくなった皿から片付けられていくのと似たようなものだ。処理できると判断した段階で、女たちは自らの胃の中へ始末していくのだ。わたしが食べたくもないのに食べてしまう気分になったのは、どこかそんな気分に似ているに違いない。台所を任されている人間なら、そうした意識を持ち合わせるだろう。なにより「もったいない」という気持ちがあればあるほどそういう意識を持つはずだ。「食べてしまう女たち」、そのあとにやってくるのが食べ過ぎてしまった後悔とつながるのだろうか。主婦、母親、そんな絶滅危惧的な存在が懐かしいものた。
コメント (2)


**************************** お読みいただきありがとうございました。 *****