Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

火の見やぐら

2007-11-26 22:28:38 | ひとから学ぶ


 駅へ歩いていてふと目に入ったのが火の見櫓の脇にある桜の大木である。まだ陽が昇りはじめた逆光のなか、葉の落ちた桜の木がなぜか印象的だった。その背景に立つ火の見櫓、このあたりではずいぶんと高い櫓である。さすがに旧役場の近くにあるから、それなりに大きく、また地域を代表する大きさということも納得できる。「火の見櫓」といえば誰にでもわかるが、わたしの地域では「櫓」を省略して「火の見」といっていた。子どものころ遊び場の目安としてこの「火の見」という言葉がよく使われたものだ。近ごろそんな火の見が少なくなったともいうが、生家のある地域を思い浮かべると、よほどのことがなければ撤去されていない。鉄でできているからそれなりにメンテナンスをしないと錆びてしまうだろうから、維持費もある程度見込まなくてはならないのだろうが、あまり火の見の塗装作業をしている様子を見たこともない。

 火の見櫓には半鐘があって、火事が起きればこの半鐘を鳴らして人々に火事を知らせたものだ。かつての農村では半鐘は急を要するものであったことに違いはない。そしてそんな半鐘が鳴らされたことも記憶に何度もある。生家に住んでいたころには、年末警戒とか火の用心意味で半鐘が長い間隔で鳴らされたことを覚えている。ひさしくそんな音を聞かなくなったが、現実的に半鐘も含めて火の見の必要性がなくなったこともある。農村地帯といってもどこでもそうとは限らないが、長野県内では防災無線なるものが設備されていて、火事があるとその防災無線によって知らされる。どこで何の火事が起きたかというところまで解るから、半鐘に比較すれば情報量はまったく相手にならない。火の見には鐘の鳴る間隔でどういう意味があるか、といった看板が掲げられていたものだが、今やそんな看板も火の見本体からは消えている。現在の用途として、半鐘による火災予防運動期間中の防火広報などの発信、そして最も好都合ともいえる使用したホースの乾燥がある。訓練も含めて使用されたホースの乾燥は、そこらで簡単にできるものではない。高い場所から吊るすというのがもっとも乾燥させやすい方法である。そういう意味で自らのもつ施設に吊るすことができることは、意外にももっとも利用している人たちにはありがたい道具となっているはずだ。火の見なくしてどうするか、なんていう思いもある。そんなこともあって火の見が農村から消えないのではないだろうか。もちろんその背景には消防団の存在があることを忘れてはならない。

 新しく設置されるということはあまり例としてないだろうから、火の見のある場所=古い集落、そして集落の中心、そんな捉え方もできるだろう。火の見に関してはずいぶんとマニアもいるようで、火の見の写真を全国的にそろえたページがいくつかある。「火の見櫓っておもしろい!!」というページに旧美麻村の木の火の見が紹介されている。木の櫓というのも珍しいのかもしれないが、木となると鉄のもののように高いものはほとんど残っていない。半鐘と火の見の境はどこにあるのだろうというくらい、半鐘だけ木に吊るされたようなものは、長野県内でも山間に行くと時おり見ることがある。田楽のような電柱に横棒がさされた梯子の簡易的なようなものがけっこう散見できる。そんなところでは半鐘が今も何らかに利用されている可能性は高い。火災用のものばかりではなく、人呼びの意味を持つものもあるのだろう。集会所の脇に吊るされた半鐘を見たことも何度もある。大きな火の見に比較すれば、そういったものは知らないうちに消えている可能性が高い。

 写真のものは四つ足のいたってシンプルなもので、このあたりでは一般的なものである。先のページを閲覧してみると、上に屋根のないものもあるようで、「なぜないんだ」という印象を持った。半鐘が雨ざらしでは痛んでしまうじゃないかと思うが、田楽風のものもそれとは変わらないからあっても不思議ではない。さて、隣にある桜の大木、今でこそ葉が落ちてそれほど邪魔ではないだろうが、本気で火の見として利用するにはちよっと両者の関係は厳しいものだ。今だから存在しうる関係といえるかもしれない。
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