Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

現代の蛍

2007-09-21 08:27:36 | つぶやき
 それほど遠方をながめることがなければ、闇の中に浮かぶ明かりに気を引かれることもない。高速道を走っていても、普通車の場合は、遮音壁があるから、その向こうの世界までは望めない。中央自動車道の場合、外は山また山なのだから、それなりに景色にはなる。しかし、その景色を見るのもままならないこととなる。同じことはけして自然豊かな世界だけに限られるものではない。首都高速を走っても、名古屋高速を走っても、壁が立って外が見えないと、それだけで圧迫感があって、もっといけないのは田舎モノにはどこを走っているかがまったく見当がつかない。そんな世界に陥ってしまったら、事故寸前の状態になりかねない。事実、かつて名古屋高速を走っていて、分岐箇所の見当がつかず、急に右折分岐が見えて慌てて車線変更をしようとして大型車に衝突しそうになったことがあった。壁が途切れることなく延々と続き、加えて外が見えないのにカーブがあると、頭の中は酔ったような状態になる。よくも判断ミスもなく、この道を通る人たちは平然と走っているものだと感心したものだ。

 ということで、周りが見えないということは、檻の中に入っているようなもので精神的な不安定を招く。それが目線が高くなって開放的になるだけでずいぶんと雰囲気は変化する。一時期、オフロードタイプの車が大流行したのも、視界という面で重要な選択ポイントであったに違いない。もちろん今でもファミリーカーに高い視線を有す車が多いのも、意識としては乗車している人たちへの配慮があるからだろう。1人しか乗っていなかったら、それほど周りの風景を意識する必要もないし、またそれほど余所見をしていてもいけない。しかし、同乗者がいるともなれば、高視界というものは、気分的にも視野を広げることとなる。さらにそういう視点でいえば、バスといった乗り物にいたっては、高速道路の遮音壁を越えた世界へ到達する。

 檻の中に入ってしまったらなかなか外を見ることができないが、その外の空間を見ることのできる高速バスに乗りながら、ルート外の様子をうかがうと、いつになく目につくものがある。特に暗闇に浮かぶ明かりほど目立つものはないわけだ。闇の中に浮かぶ異空間といえば、コンビにである。ふだん車でその前を通過しているとそれほど気がつかない明るさが、遠くから眺めるとより一層際立つ。昼間のような明かりを放つ姿は、現代の蛍と言えるほど何ともいえない光だ。点滅でもしていたらまさに蛍かもしれない。いや、10年スパンくらいにこの明かりをながめていれば、きっと点いたり消えたりする。ようはコンビにの世界も浮き沈みが激しく、永遠ではない。そう考えれば蛍のようなものだ。何より田舎の水田地帯に、異様に明かりを放つコンビには、見事である。

 そんなことを思いながら、通勤していると、コンビニほどの明るさではないが、田舎を照らす明かりにグランドの照明がある。大人たちが、この明かりを求めて、スポーツに励む。競技するのに耐えうる明かりは、コンビニのそれよりは、遥かに暗いが、質が異なるから遠くまで照射する。
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