夢のもつれ

なんとなく考えたことを生の全般ともつれさせながら、書いていこうと思います。

風流夢譚とピースとハイライトとシャルリー・エブド

2015-01-12 | news
1960年というともう55年も前だが、その12月号の中央公論に深沢七郎の「風流夢譚」という短編小説が載った。天皇一家が処刑される場面を揶揄的に描いた内容から右翼の怒りを買い、右翼少年によって中央公論社長夫人と家政婦が殺傷されることとなった。中央公論社は掲載に不適当な作品であったと反省して皇室と一般読者にお詫びして事件の端緒となったことを遺憾とする「ご挨拶」を、同社の名義で新聞に出した。つまりテロに屈したわけで、同社に限らずその後、マスメディアが皇室報道について萎縮するようになったという。
「風流夢譚」は単行本にも全集にも収録されていないから、禁断の書のようなもので、大きな図書館に行って閲覧するしかなかったが、今は電子書籍で読むことができる。内容はある種のパロディだけど、神聖なものを穢してみたかったといった悪ふざけのような感じで、深沢の本領の巧妙な土俗性が出ていない。

サザンオールスターズが紅白で歌った「ピースとハイライト」が嫌中嫌韓の連中(だと思う)の怒りを買っているらしい。ぼくにしてはめずらしく紅白を生で見てて、そんなに怒るようなものだったかなと思って動画で確認してみたが、「ピースとハイライト」は安倍政権の歴史認識を批判し、「東京Victory」は震災復興と東京オリンピックを結びつけていて、政治的なあざとさを改めて感じた。しかし、肝心の音楽は昔ながらのサザン節の替え歌のようにしか聞こえない。
連中は不敬罪だの国体護持だの付け焼刃の批判をしているが、現政権への批判と天皇家への批判を一緒にされてはたまらない。安倍首相にそんな権威があるものか。うまく釣られてますねってことだが、テロに発展したりすれば事務所やレコード会社はあっさり自粛するだろう。

シャルリー・エブド(Charlie Hebdo)は長い歴史のある風刺雑誌らしいが、なぜムハンマドやイスラムを嘲笑の対象にし続けたのか、そのことの是非を問わずに表現の自由対テロという構図だけにしていいのか。





政治家やローマ教皇を風刺画にしても安全だがインパクトに欠ける。ロシアや中国の首脳ならどうだろう。「Charlie Hebdo+Putin」や「Charlie Hebdo+Xi(習近平)」で画像検索しても出て来ない。国内、せいぜいユーロ内のことしかネタにしてないのにイスラムを取り上げるのはイスラム系移民への直接、間接の攻撃だろう。彼らも無邪気な冒瀆趣味なのかもしれないが、同性愛者ネタも多くて、マイノリティに対する配慮もないようだ。



370万人もの群衆とオランド大統領、キャメロン英首相、メルケル独首相などの首脳が集まって追悼だか、抗議だかの集会を行うなんてびっくりで、さぞや対イスラム国戦争に勢いがつくことだろう。テロの犠牲者よりずっと多くの人間がさらに殺されるのは間違いない。

政治的には今回のテロはフランス社会にとってもっけの幸いかもしれないが、殺された12人にとっては命を懸けるほどのメッセージだったのか。いや、こういう風刺画雑誌がなく、菊タブーやその他もろもろのタブーに屈しっぱなしの国の人間が言う資格はないのかもしれない。



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