夢のもつれ

なんとなく考えたことを生の全般ともつれさせながら、書いていこうと思います。

今日聴いた音楽~マーラー:交響曲第10番(クック補綴版)

2005-07-08 | music

 朝比奈隆がブルックナーの第9番第4楽章の補綴版について、ミロのヴィーナスに腕をつけるようなものだという趣旨のことを言っていました。Nicola SamaleとGiuseppe Mazzucaによる補綴をインバルが指揮したCDを聴くと、確かによけいなことをしたものだという気がします。いくら資料的に根拠があっても聴く方として納得できなければ「こんな音楽があの深遠なアダージォの後に来るわけがない」と言う権利はあるように思います。

 かと言って、そういう試みが無意味だとか、神聖な大音楽家を汚す行為だとか思っているわけではなく、悪食の私としては取りあえず聴いてみたくなります。マーラーのデリック・クックによる補綴版は昔、ウィン・モリスによる演奏で聴いたことがあって、あの第4楽章の消防士の葬列にヒントを得たという太鼓の音がなんとも凶々しい感じが印象的でした。
 今回はインバルによるCDが図書館にあったので、久しぶりに聴いてみたのですが、十分意味のあるものだと思いました。もちろんマーラーならこういうオーケストレーションにはしなかっただろうというところはありますが、それはクックがやりすぎなかったのを裏付けていると理解すべきでしょう。ちょっと脇道に逸れますが、私は指揮者とか演奏家とか、誰がいいとか、悪いとか鑑定できるような耳はもってないですし、そういうことが得意な方はブログにはいっぱいおられるみたいなので、お任せしてるんですが、インバルって指揮者は、以前(4/25)にも触れたブルックナーの0番とかその前の習作も録音していて、かつ廉価版なので、必然的に聴くことが多いんですが、まああんまり大したことないなって気がします。でも、巨匠だと全集(Complete Edition)とかいっても退けるようなのも、何でも取りあえず演奏して、録音するというのも立派な芸だと思います。

 それはともかくこの第1楽章しか通常演奏されない曲は、全5楽章からできていて、4分足らずのPurgatorio(煉獄)を2つのスケルツォが挟み、更に両端楽章が2つのアダージォでできているシンメトリカルというか、サンドイッチみたいな構成になっています。バロックのコンチェルトは、ほとんどが急、緩、急の3楽章構成で、ハイドンも最初は同じような構成でシンフォニーを書いていたのをスケルツォ(又はそれに類した舞曲)を加えて、4楽章構成にしたことで、シンフォニーの基本骨格(マックス・ヴェーバーのいう理念型)ができたと思うんですが、それらとマーラーの構成方法は似て非なるものだと思います。
 空間芸術なら3楽章もこの5楽章もシンメトリカルな点は同じですから、先祖帰りみたいに見えるかも知れませんが、時間芸術である音楽ではそうは聞こえません。全曲が一望できず、前の楽章が順に記憶の中に残っていくため、両端楽章の印象が強くなるはずで、4楽章の前作第9シンフォニーと同じようなイメージ、すなわち死への恐怖と憧れに彩られた内容を、シンフォニーの基本骨格(とソナタ形式)から汲み取れるものはすべて汲みつくし、崩れていくフォルムの中で表現しているように感じられます。

 そうした基本トーンの中で、ハプスブルク帝国の辺境でユダヤ人として生まれた自分の出自やウィーンでの成功と達成できなかった想いといった、彼の音楽のelementが次々と浮かび上がり、去って行きます。マーラーはボヘミア、現在のチェコのイフラヴァに近い村に生まれたのですが、ウィーンからそう遠いわけではないものの、ハイドンやブルックナーが田舎出身でもハプスブルク帝国の中に育ったことは変わりないのと比べ、あの辺りは今でも端っこ、辺境という感じがあります。その中でのユダヤ人という存在はカフカなどとも通じるものでしょうし、指揮者としての激務をこなしながら律儀に夏休みだけ作曲するという生活も上昇志向の現われのように思います。カトリックに改宗したことも、20歳近く年下の才色兼備のアルマと結婚したことも同様に思えますし、そうした様々なcomplexがフロイトの診察を受けるような症状と関係があったのでしょう。

 そんなことを考えていると、この曲が#が6つもつく嬰ヘ長調という調性であることが気になりました。管楽器などはずいぶん演奏が大変でしょうし、sonorityに問題が生じることはマーラー自身が百も承知だったでしょう。例えば第1楽章の不協和音の効果を挙げるために、あえてそうしたと考えた方が順当でしょう。しかし、それだけでしょうか。バッハのマタイ受難曲などでは、十字架と結びついた歌詞が登場するときに、シャープ系の調性が用いられます。20世紀に書かれたシンフォニーにこれを適用するのはおかしいのかもしれませんが、”煉獄”が真ん中に置かれていることなどから言っても的外れとは言いきれないのではないでしょうか。私には“死神が弾くオルガン”のような不協和音を作曲する一方で、意識的ではないにせよ、たくさんの十字架を楽譜に書きつけている彼の姿が思い浮かぶのです。


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1 コメント

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ここに変人が一人・・・・・ (yuhoto)
2005-07-12 18:57:59
夢のもつれ-san へ



こんばんは!

コメント、ありがとうござ! です。



唯一、手許にあるサティのCDは、彼の大ファンである友人が我が家で聴く時のためのもので、どちらかと言えばボランティア精神に溢れた1枚なのです。



〔ジムノペディ第1~3番〕〔おまえが欲しい〕〔グノシエンヌ第1~6番〕と言った、それこそ“こじゃれたお店”で鳴らしているポピュラーな曲も、聴いていて感動しないんですよ! どれも同じに聴こえて、飽きてしまう!

リピートする気が起きないんで~す。



こんなことから、我が家から歩いて5分程度の所にあるサティへも買い物に行ったことがないんですから!(これは冗談!)

でも、こんな変人が一人ぐらい居ても良いんじゃない!



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