Bernardo Bellotto(1721-1780)と言っても知っている方は少ないと思いますし、私自身、この絵と並んで展示されているシェーンブルン宮殿の絵とウィーン市内を描いた絵しか知りません。ヴェネチィアに生まれ、風景画家としてドレスデン、ミュンヘン、ワルシャワ、そしてウィーンで活躍したようです。これらの絵が描かれた1760年前後にマリア・テレジア(1717-80)のために13枚のウィーンの絵を描いたそうで、この時期はハプスブルク帝国の繁栄期であったわけです。
とは言え、マリア・テレジアの治世は平坦なものではなく、ハプスブルク帝国が女性の即位をそれまで認めていなかったので、父皇帝カール6世の没後、直ちにフランスやプロシアなどの列国が介入し、オーストリア継承戦争(1740-48)が勃発しましたし、後にも全ヨーロッパとアメリカやインドといった植民地までも巻き込んだ7年戦争(1756-63)に忙殺される日々であったのです。彼女が没した年に宿敵プロシアに生まれたクラウゼヴィッツの「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」という言葉は、この時期の戦争にこそ当てはまるのであって、戦争に明け暮れたということはウィーンの宮廷外交、文化が華やかなものになった原因であったと思えます。モーツァルトもその繁栄の中にチャンスを見出そうとやってきたわけです。
彼女の末娘がマリー・アントワネットで、かつて犬猿の仲であったブルボン王朝との関係改善に伴って嫁ぎました。クロワッサンは彼女がフランスに持ち込んだと言われていて、ハプスブルク帝国がトルコを撃退した記念だかなんだかで三日月形をしているということです。ウィーンの美術史美術館と同じデザインの自然史博物館が向かい合って建つ真ん中に“国母”という風情で、マリア・テレジアの像があります。
さて、この絵のベルヴェデーレ宮殿ですが、ウィーンを包囲したトルコ軍を撃退した救国の英雄、プリンツ・オイゲン公のために建築されたもので、“よい眺め”といった意味だそうです。その名のとおりウィーン市内が一望でき、もちろん現在は19世紀に進められた環状道路“リンク”を中心とした公共建築物の整備などによってもっと多くの建物が立っていますし、左手の池がないなど違いは多くありますが、たたずまいはさほど変わっていないことに驚かされます。右手の修道院、左手のドーム型の教会、その真ん中奥のウィーンの街の中心、ザンクト・シュテファンとリズミカルに視線を奥に誘導し、遠景にはウィーンの森、ホイリゲが多くあるカーレンベルクが見えます。ウィーン市内の観光地でこの絵の範囲に入っていないのは、夏の離宮として建てられたシェーンブルン宮殿だけでしょう。
古代ローマ帝国の軍団基地“ヴィンドボナ(風の吹くところ)”以来の歴史を持ち、今も100万人を超える人口を擁するウィーンが、フェルメールの描いたデルフトやエル・グレコが描いたトレドと同じく、一枚の絵に収められたというのは、彼らほど才能ある画家の手になるものではないとは言え、とても貴重なことのように思えます。
女帝マリアテレジアは20年に16人の子をもうけ、一人当たり5~10部屋与え1000人の召使を使ったとか!子達に教育と礼儀作法を徹底させヨーロッパの王家に全員嫁がせたとはすごいと思いました。マリアテレジアやアントワネットの肖像画、エリザベートの写真をみました。クロワッサンのルーツとは面白ーい!また読み返しさせて頂きまして、とても楽しく拝見いたしました(^^)
ウィーンに限らずオーストリアには、シェーンブルン宮殿と同じく黄色(マリア・テレジアン・イエロー)の壁と緑の窓枠の建物をやたら目にします。あの国の栄光を象徴しているのでしょう。