夢のもつれ

なんとなく考えたことを生の全般ともつれさせながら、書いていこうと思います。

史上最大の発明

2005-04-01 | philosophy


 世界三大発明というと活版印刷、火薬、羅針盤だそうで、ヨーロッパの覇権確立という観点から言って肯けるものがありますが、私は現在のアメリカの隆盛とイスラム世界の台頭ぶりを見ると、一神教こそが人類史上最大の発明ではないかとひそかに思っています。宗教が発明品だなんてとんでもないことを言ってるようですが、(仏陀やキリストやムハンマドのように)宗祖のいる宗教はそう理解した方がわかりやすいでしょう。
 キリスト教もイスラム教もユダヤ教から分離したり、それに触発されたりしてできたものですから、大本は古代ユダヤ人の発明です。誰が宗祖かと言うと紀元前10世紀より前の話のようですから、よくわからないところが多いのですが、モーゼがいちばんの候補でしょう。ただ旧約聖書では当然のことながら、モーゼ以前から唯一神ヤハウェ(エホヴァ)への信仰があったことになっていますから、「発明者」が誰かははっきりしません。
 神が唯一だという概念自体は、今となってみれば不思議でも何でもないかもしれませんが、それを最初に主張するのは天才のみが可能な思想的飛躍だと思います。前回でも少し述べたように畏怖の念を抱くものにそれぞれ神や霊が宿るというアニミズムの考えの方がわかりやすいですし、現に他のほとんどの古代宗教はそうなっています。つまりアニミズムから相当程度の抽象的思考を経なければ神の数は減りません。リストラは常に痛みを伴いますw。神の数を減らすことは、例えば家や部族のそれぞれの守護神を滅ぼすことでもあったはずです。
 数が減ってきても最大の問題があります。それは二項対立の克服です。最古の超民族宗教だと思われるゾロアスター教が善と悪、古代中国の陰陽五行説が男性原理と女性原理となっているように、抽象化が進んでもなかなか一つになりません。なぜなら神が唯一であればそれは善なる神でなければならず、善なる神だけがこの世界を支配しているとすれば、なぜ悪や不幸があるのだということになってしまうからです。これに対し、二項あればお互いの闘争とか、交代とかで説明できる、つまり最終的に善が勝つまでの過渡期とかなんとか言っておけばいいからです。
 ユダヤ教が神を一つに絞り込んでいったのは、それだけ古代ユダヤ人の置かれた状況が厳しかったことが大きな要因でしょう。出エジプトだとかバビロン捕囚だとか、まあ強大な民族の通り道で民族のアイデンティティーを維持するのは容易ではなかったでしょう。強力な権力の確立が困難だったので、強力な権威を創造し、求心力を保ったのです。そして、それは現代に至るまで(最強国家のアメリカの中で強いポジションを占めているという意味も含め)有効なわけですから、ユダヤ教は宗教的天才であり、かつ政治的天才の産物なのです。
 ただ、全知全能の神の下でなぜ悪や不幸があるのかというテーマは残るわけで、いわゆる弁神論として追求されていきます。嚆矢は有名なヨブ記ですが、悪魔が敬虔なヨブにありとあらゆる不幸を与えて信仰を試すという極めて文学的な内容で、現世利益がなくても信仰は可能かという、殉教までつながるような永遠のテーマを含んでいます。「主は与え、主は奪う」というヨブの叫びは、ユダヤ民族全体の声であり、一神教の特徴を端的に表わしています。
 ユダヤ教は民族宗教として排他的であったからこそ、一神教として成長できたのだと思います。キリスト教もイエスの存命当時は、ユダヤ教内の分派活動で、仏教ふうに説明すれば出家(パリサイ人など)への在家からの批判運動です。
 それを超民族宗教に拡大したのは広く知られているようにパウロであり、その地盤を作ったのは超民族国家であるローマ帝国、つづめて言えばカエサルです。つまりイエス個人とキリスト教は無関係だというニーチェの指摘は、正しい面があると思います。
 ただ超民族宗教への脱皮も一挙にできたわけではもちろんなくて、教父と呼ばれる人たちの地道な布教活動と公会議による分派活動の抑圧と正統的権威の確立によるところが大きく、外典・偽典の存在自体が聖書の編纂が政治的意味合いを持っていたことを示しています。また、アリストテレスや「一者からの流出」という重要な概念を提示したネオ・プラトニストたちの影響を受けて、トマス・アクィナスに至る多くの人の努力により思想的に洗練されたことが挙げられるでしょう。トマスによってキリスト教神学=ヨーロッパの中世思想は頂点に達したのです。
 他方、イスラム教についても同じような状況があったようです。すなわち、急速な版図の拡大と思想的な分裂、危機を乗り越えて、ムハンマドの教えはイスラム教として確立してきたのです。イスラム教哲学については、私は井筒俊彦の著書を通してしか知りませんが、アリストテレスから出発しながらキリスト教とは違った非常に高いレヴェルの思想を形成していたようです。
 さて、ずいぶん退屈な説明を続けてしまいました。要約して言えば、超民族的な一神教の確立には、強力な政治権力と哲学的な鍛錬が必要だった、それだけ人工的なものだと言いたかったのです。
 ただユダヤ教やイスラム教と比べて、キリスト教は現実的というか、妥協的というか、まあいい加減なところが多いように思います。クリスマス自体が土着信仰の冬至祭に由来するものですし、その他の年中行事も古ゲルマンなどの信仰を取り入れたものです。そうすることによって、信者を獲得しやすくしたわけです。日本のお寺がお彼岸やお盆に祖先の霊を弔うようになったのとちょっと似ています。キリストの磔刑像を拝む偶像崇拝や聖母信仰や多くの聖人のような多神教的傾向は、絵画を始めとした文化の発展に大きく寄与しましたが、プロテスタントを産む背景にもなっているように思います。
 現在では、活版印刷がDTPに、火薬が核兵器に、羅針盤がGPSにそれぞれとって変わりました。しかし、アメリカとイスラムという一神教勢力どうしの妥協を知らない葛藤は、十字軍対ジハードの昔と変わりないように見えます。日本みたいな国にとっては迷惑千万なことです。強固な信仰は人間の偉大さを見せてくれる一方で、核兵器以上に危険なこともあると思います。

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4 コメント

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TBありがとうございました。 (tenjin95)
2005-04-01 16:00:04
> 夢のもつれ さま



読み応えのあるログをありがとうございます。非常に勉強になります。



> イエス個人とキリスト教は無関係



まさにニーチェの言うとおりですね。宗教者は、本来共同体を批判したわけですが、それが教団として運営されていきますといつの間にか共同体に回収されてしまうわけです。したがって、この言説は非常に納得できるものです。



また、勉強させていただければ幸いです。それから、先にいただいた表現に関するコメントもありがとうございました。こちらで御礼申し上げます。
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コメントありがとうございます (夢のもつれ)
2005-04-01 23:23:39
過分のお言葉、恐縮いたしますとともに、自分の乏しい知識を整理しただけだったなぁと感じております。

ニーチェは牧師の子どもでしたから、彼のキリスト教批判の近親憎悪的な鋭さと人間としてのイエスへの深い愛情は、余人を寄せつけないところがあります。

とは言え、キリスト教が組織としての論理で動くことで、イエスの教えと矛盾していくことは、ドストエフスキーがあの大審問官において、つとに告発しているところです。
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大発明ですね (8マン)
2005-06-14 22:24:01
一神教は悪魔のささやきだったのではないかと思います(笑)。二項対立という思考の様態は案外、根源的で宿命的なあり方だと思いますよ。
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それを言っちゃぁ…… (夢のもつれ)
2005-06-14 22:33:28
身もフタもないじゃありませんかw。

ほとんど世界を敵に回しちゃいますからね。



私は二項対立を行ったり来たり、足がもつれてるんですよ。
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