夢のもつれ

なんとなく考えたことを生の全般ともつれさせながら、書いていこうと思います。

我に触れるな(ノリ・メ・タンゲレ)下

2006-09-19 | art

 ドイツの画家・版画家のデューラーAlbrecht Duerer(1471-1528)です。彼はルネサンスの芸術をイタリアから持ち込んだ人物で、自画像に自分の署名をドイツで初めて入れたという点で、「芸術家」としての自意識も輸入したわけで、ドイツの美術史において画期的な人です。また、ダ・ヴィンチ以上に数学に堪能で、有名な「メランコリア」には幾何学と魔法が一体となっていた時代を想い起こさせるものがあります。この1510年の木版画では朝日を消失点にした遠近法に基づく、堅固なデッサン力を見ることができます。鋤をかつぎ、帽子をかぶったイエスはドイツの農夫そのものですが、威厳を失ってはいません。遠景の墓の前にはイエスの死体がなくなって騒いでいる弟子が見えます。Dの文字を鳥居マークが囲っているように見えますが、これはAで彼の署名です。




 フィレンツェのデル・サルトAndrea del Sarto(1486-1531)です。彼の作品は我が国ではあまり知られていないかもしれませんが、清潔感のある穏やかな画風で優れたものだと思います。この1509-10年の作品では光の輪が控えめながら描かれています(マリアの上にも何か薄く描かれているようです)。また、杖の先に十字を描いた旗(十字軍の旗なのかもしれません)と十字架を着けていて、神としてのイエスを強く打ち出しています。しかし、それが強くなりすぎていないのは二人の服の青が落ち着いた美しさを見せているせいでしょうか。構図は最初のイワノフのものと似ていて、ひょっとするとこのデル・サルトの作品を下敷きにしながら、人間としてのイエスを描こうとしたのかもしれませんね。




 コルネリスツ(発音はかなりあやしいです)Jacob Cornelisz Van Oostsanen (1472-1533)はオランダの画家ですが、伝記的事実はあまり知られていないようです。教会の祭壇画などの宗教絵画が多く、イタリアの画家に比べて中世の職人的要素を強く残しているようです。代表作をざっと見た印象ですが、ボッシュ、デューラー、クラナッハといったほぼ同時代の天才たちと部分部分が似ているなって思いました。この作品は1507年頃の制作で、構図や遠景の描き方には新しさがありますが、服や草の描写はありきたりで、何より表情に魅力を欠いています。マリアを拒絶してるって言うより、祝福を与えてるようにしか見えないし、また自分から触ってるしw。



 
 メムリンクHans Memling(c.1430-94)はフランドル地方で活躍し、ブリュージュで没しました。彼の絵は多くの死者が天国と地獄に選り分けられる様子を描いた「最後の審判」のような題材としてはドラマティックな作品でも穏やかな、悪く言えば緊張感のない表情が特徴です。この1480年頃の作品でも救いを求めるマグダラのマリアにイエスが祝福を与える日常の風景を描いたように見えます。右下に十字架が描かれているのはこの作品が宗教的な実用性を持っていたことを示すものでしょう。




 バルトロメオFra Bartolomeo (1472-1517)はフィレンツェの画家です。彼は宗教画を主に描きましたが、ダ・ヴィンチやミケランジェロの影響を受けていると言われています。この1506年の作品を描いた頃には修道院の工房の主任になっていたようです。イエスとマリアの赤と緑の服が目を惹きます。ポントルモとサストリス(色褪せてはいましたが)などにも見られた配色で、上下の色が逆になっている(ホルバインの場合は赤と暗い青でした)ところが二人が通い合いながら相反するものがあるのを暗示しているように感じられます。後ろで兵士たちが天使の前で倒れているのはマタイ福音書の第28章第4節の記事「番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」を受けたものでしょう。




 リーメンシュナイダーTilman Riemenschneider (c.1460-1531) はハイリゲンシュタットで生まれ、ヴュルツブルクで活躍したドイツの彫刻家です。この作品は1490-92年頃のものですが、この時期のドイツのしかも祭壇の扉に飾られたものとなるとかなり中世的な色彩が強くなってきますね。でも、イエスの体や後ろの樹木の表現は優れた工芸品だと感じさせます。




 さて、「春」や「ヴィーナスの誕生」で有名なボッティチェリSandro Botticelli(1445-1510)です。彼はギリシア・ローマ神話に基づく作品だけでなく、こうした宗教画も多く描いています。これは1491年頃のテンペラ画ですが、痛みが激しいようです。一般にテンペラ画はフレスコ画よりも保存性がいいとされていて、ペルジーノやこれから出てくるジオットなどが多く用いた技法なんですが。そのためか人物も背景の描写も、さらに構図さえも力がないように見えてしまいます。




 ションガウアーMartin Schongauer (c.1448-91)はドイツ生まれですが、イタリアで "Bel Martino" and "Martino d'Anversa"として知られました。この1480年頃の作品はさっき見たデル・サルトの作品と構図がよく似ています。背景の果物や花をつけた樹木を覆っている蔓で編んだ籠のようなものや木の門はが何を表しているのかわかりません。イエスがこれから向かう天上の世界と関係があるんだろうとは思いますが。




 フラ・アンジェリコ(1395-1455)は15世紀にルネサンス期の芸術家の伝記を書いたヴァザーリによって「稀な完璧な才能」と評されました。ポーズも構図もこれまで見てきたルネサンス以降の強い自己表現と比べると、取り立てて言うほどのことがないような作品ですが、イエスのやさしさに満ちた拒絶とマリアの抑制された感情は聖なる静寂とでも言うべき雰囲気を醸し出しています。これは1440-41年頃のものだとされています。

 


 ドゥチョDuccio di Buoninsegna (c.1255-c.1319)はシエナで生まれ育ったフィレンツェのジオットとともに初期ルネサンスを代表する画家です。ボッティチェリ以降の作品と比べると、1308-11年頃のこの作品はマリアが修道女のように髪の毛を覆っていたりして、ずいぶん中世ふうに見えるでしょうが、イエスの体の力強い表現はやはり新しいものです。バルトロメオのところで述べた赤と緑の衣装が早くもここで見られます。背景の険しい山は天国に至る道の厳しさを暗示しているのでしょうか。




 ジオットGiotto di Bondone(1267-1337)は貧乏な農家に生まれたそうで、ヴァザーリによると12歳の時に岩にチョークで羊を描いたのをティマブエが見て、弟子にするよう彼の父親に頼んだそうです。人物も風景もそのままに描くという彼の革新性はフィレンツェにおいてルネサンスが花開いた最大の要因で、「西洋絵画の父」とさえ言われます。……え? あるがままに描いてるようには見えないですって? そうですね。この作品は1304-06年頃のものですが、16世紀の作品に比べると硬いと言うか、登場人物はみんな光の輪を背負っていて古臭く見えますし、ドゥチョの方が生き生きとしていると思う人もいるでしょうね。墓の前にいる天使がやがて飛んでいくのを一枚の絵に描いちゃうのも絵巻物みたいだし。




 でも、この1070-1100年頃のまさに中世にスペインで作られた作者不詳の大理石のレリーフを見ると違いがおわかりいただけるでしょう。下が「ノリ・メ・タンゲレ」で、上がルカ福音書第24章にある「エマオへの旅」という記事に基づくものです。これを紹介しましょう。女たち(マグダラのマリアとヨハンナとヤコブの母マリア)は「まばゆいばかりの衣を着た二人の人」に会い、イエスの復活を告げられました。しかし、これを聞いた弟子たちは信用しませんでした。最初にイエスに会ったのはエマオという町に行く途中の二人の弟子で、しかも目は遮られていてずっと一緒に歩いていたのにイエスだとはわからなかったのです。……目をつぶった二人の人物の間で書物を持っているのがイエスでしょう。エマオへの道すがら「イエスは、モーゼ及びすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてあることがらを彼らに説き明かされた」という記述があります。聖書といってももちろん旧約聖書のことで、それに書かれていることを実現するためにこの世に自分は来たのだとイエスは繰り返し言っていて、これがイエスのいわば正統性の証だったわけです。二つのレリーフの間の文字は“D(OMI)S LOQVITVR MARIE”(主がマリアに語る)です。……それにしても登場人物はみんな当時の聖職者のような豪華な格好をしていて、しかもほとんど無表情です。そういった意味で写実性はないのですが、枠組みの中で狭苦しさを感じさせずに人物を配置し変化を持たせているのは、造形的にはなかなかの腕前かなと思います。

 さて、これでおよそ800年を溯って来ました。同じ主題で絵画を語るというのを一度やってみたかったんですが、イエスの誕生や磔刑などはあまりにも多くて不可能なんで、「ノリ・メ・タンゲレ」はちょうどよかったなと思います。また、ネットでしか見ていない作品をあれこれ言うのは印象派の絵画のように色合いや画面の肌合い(マチエール)などが決定的に重要な作品では不可能ですが、宗教画であれば何がどのように描かれているか(図像学Iconologyという言葉もありますが、私の言っているのと同じかどうかは知りませんw)を論じることである程度は可能です。つまり絵画を「読む」ということで、展覧会で腕を組んで鑑賞するより私はおもしろいと思っています。いずれにせよ日本語のサイトはもちろん海外のサイトを見ても「ノリ・メ・タンゲレ」をここまで集めたものはないので、かなり満足しています。……そうは言っても解説(と言うよりは私はこう読んだということですが)のお粗末さは言うまでもありませんので、美術関係のサイトにはごく簡単にしか触れていない聖書関係の話を最後にしましょう。

 途中でも触れたのですが、他の福音書ではイエスの復活がどう書かれているか見てみましょう。こういうのを平行記事と言いますが、これがかなり違いがあってあれこれ理由なんかを考えるのはおもしろいものです。……4福音書でいちばん古く成立し、マタイとルカの元になった(もちろん異論もあります)と言われるマルコ福音書ですが、第16章で御使いは「真っ白な長い衣をまとった青年」となっていて、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメの女性3人が見たとされています。しかし、復活したイエスが最初に姿を現した相手はやはりマグダラのマリアだったとされています。マリアの報告は弟子たちに信用されず、次に会った二人の弟子の報告も同様で、弟子たちが食卓に着いているところにイエスが行って、彼らの不信仰と頑なな心を責めたということです。ただマリアがイエスに会った以降の記事すべてを欠く異本もあるようです。

 マタイ福音書第28章では、御使いが天から降りてきて番兵が死人のようになったのはさっき述べたとおりですが、マグダラのマリアとほかのマリア(!)たちにイエスが復活したことと、このことを弟子たちに告げるよう言います。彼女たちの前にイエスは姿を見せ、出会って「おはよう」(!)とあいさつし、彼女たちは近寄って足を抱いて拝みました。その後、番兵たちから話を聞いた(反イエスの)祭司長が「夜、弟子たちがイエスの死体を盗んで行った」と言い触らせと命じたので、ユダヤ人の間にこの話が広まっていると書かれています。イエスはガリラヤの山で11人の弟子の前に姿を現し、「あらゆる国の人々を弟子としなさい。……わたしは、世の終わりまで、いつまでもあなたがたとともにいます」となっていて、マタイ福音書がユダヤ民族を超えて布教しようとする一派(つまり反ユダヤ的です)によって作成されたことがうかがえます。ルカ福音書についてはさっき述べたとおりです。
 
 こういうふうに見て行くと、①イエスの復活を御使いが予言した、②その予言はマグダラのマリアを中心とする女性にもたらされ、③ペテロをはじめとする弟子たちはイエスの復活に懐疑的だった(ヨハネ福音書でも手とわき腹の傷を示してようやく信用したように書かれています)、といったことがどの福音書にも共通しているのがわかるでしょう。ところが、ヨハネ福音書にしか「我に触れるな」というイエスの発言はないんです。この福音書は最も遅く成立し、かつ独自のエピソードを多く含むことで知られています。……「じゃあ、『ノリ・メ・タンゲレ』って事実じゃないんだ。なーんだ騙された」と思われるかもしれません。でも、元々処刑された人が復活するなんて「事実」のわけはないし、イエスの生涯については、誕生から死、復活まで科学的事実に反したようなことばかりが新約聖書に書かれています。しかし、そんなことに拘っていては、キリスト教やそれに基づく芸術に触れる意味がなくなりそうです。ということは、ヨーロッパの思想と芸術のほとんどを対象外にすることに等しいでしょう。

 問題は、ヨハネ福音書のこの記事が「事実」かどうかよりも、どう「読む」かの方だろうと思います。なぜ福音史家はイエスがマリアを拒絶するように書いたのか?……ダ・ヴィンチ・コードふうに言えばマグダラのマリアが妻で、イエスとの間に子もいたという「事実」を隠し、彼女の地位を貶めるよう画策した一派がいたからだとなるでしょう。これはわかりやすいですし、この福音書の最後にペテロを中心とする後継者選びwが無理に付け足されているように思えるので、マタイの場合とはまた違った何らかの政治的配慮があって執筆・編纂されたことは間違いないでしょう。

 でも、私はこう思います。女性たちだけがイエスの死を信じず、復活することを祈っていたからこそイエスはその姿を彼女たちの前に現したのだろうと。すばらしい教えに接し、奇跡を何度となく見せられてきたくせにペテロを始めとした男の弟子たちは処刑の前にも逃げ出し、裁判怖さにイエスを否定しました。復活後も同じように懐疑的です。たぶん頭でイエスを理解していたからでしょう。しかし、マグダラのマリアを始めとする女性たちは違います。何より愛するイエスに触れ、その足を抱きたいと望むのです。その愛がたとえ天上の神への愛とそぐわないものであり、神の下に行こうとするイエスに拒絶されたとしても。……優れた芸術家はこうしたある種の矛盾を直感的に見抜いていたんだろうと思います。



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7 コメント

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懺悔しますw (ぽけっと)
2006-09-19 22:44:45
時代が古くなるとともに絵が素朴になっていくようですが、それだけに却って神々しい感じがして、今回は下手につっこむことはいたしません、ごめんなさい、て感じです。ジオットのは解説ではあまり褒められてませんが、私は好きです。



そうですね、女性の盲目的な情熱や愛というものは、時に奇跡を起こします!…ような気がします。
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私も懺悔します (夢のもつれ)
2006-09-20 18:13:25
芸術としてはコレッジョが最も優れていると思いますし、私の得意なレクイエムに喩えるとモーツァルトのようなものかなと。でも、デューラーやフラ・アンジェリコの作品に漂う神々しさはシュッツやヴィクトリアを思わせるものがありますね。……最後の11世紀の作品はグレゴリオ聖歌の無私の信仰なんでしょうか。



ジオットは「キリストへの哀悼」という恐ろしくなるような高い宗教性を感じさせる名作があるのと近代性という点では(無名な)ドゥチョの方が勝っているかなと思って、辛い評価になりました。でも、作品そのものとしてどうかということからもう一度考えて、サイトに載せる時には改訂したいと思います(他もそうですが)。



イエスは二人のマリアを始め、何より女性に愛された人だったんだろうと思っています。

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まじめな追伸 (ぽけっと)
2006-09-20 18:14:16
上中下と見て来てもう一度見渡すと、私のノリタン大賞はコレッジョに決定~!

緊迫感が一番素直に伝わってきます。
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あり? (ぽけっと)
2006-09-20 18:15:56
何かほぼ同時に投稿した?
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神のお導きか (夢のもつれ)
2006-09-20 20:47:33
セレンディプティなんでしょうね。。これだけ宗教画を集めれば少々の奇跡は起こらない方が変です
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今回は (いちご)
2006-09-20 22:48:42
ボッティチェリの絵が一番気に入りました★

この怖いまでの愛情に答えたので奇跡が起きたのでしょうか。

そういうのもあるのですね
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なるほど (夢のもつれ)
2006-09-21 18:52:16
ボッティチェリは取り上げようかやめようか最後まで迷ったんですが、いちごさんの意見を聞いて載せてよかったと思いました。。ころw。



奇跡ですか。。うーん、縁がないんでわかんないです



……でも、あるような気もしますね
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