
陸奥 宗光 (ウィキペディア)
〔手紙88〕
陸奥宗光あて 慶応三年八月十六日
坂本龍馬
彼吉田の千両を以て、家を御求の御論 おもしろ(面白) そふなれども、
是必、前門の虎は退ぞけしに後門の狼の入り来り候咄しならんか。
はたして大兄ニも御見付ハ無キ事と奉レ察候。
草々、奉レ対二早々ニ一頓首。
十六日
楳
陸奥大先生
〔手紙105〕・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
陸奥宗光あて 慶応三年九月十三日
坂本龍馬
三四郎及、龍も一所に大兄の御咄し相聞しに、
芸州の方へは別段に三四郎が参るに不レ及かのよふ存込ミ居候。
然ニ今日右よふの手紙が参り候得ば、
もし つがふ(都合) あしくはあるまいかと存候へバ、御相談申上候。
今日は三四郎も病気に候得バ、たれでも代人つかハし候間、御同行奉レ頼候。
御帰り次第、佐々木の宿ニ御成奉レ願候。早頓首。
十三日
龍
〆 楳太郎
奥陸(ママ)元二郎様
左右
〔手紙115〕・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
陸奥宗光あて 慶応三年十月二十二日
坂本竜馬
此書や加七来りて是非手紙かきて、陸奥先生に送りくれよと、
しきりにそふだんゆへ、目前ニしたゝむ、かしこ。
御案内の沢やの加七と申候ものゝ咄、(是ハ御手下のひしや某が聞得所なり。)
度小弟ニ参り相談致し候。
某故ハ仙台の国産を皆引受候て、商法云云の事なり。
小弟が手より金一万両出セとのこと也。
上件を是非と申相願候間、商法の事ハ陸奥に任し在レ之候得バ、
陸奥さへウンといへバ、金の事をともかくもかすべし。
然る右よふの大金をスワというて出すものにてなし。
よく/\心中ニもわかり候よふ、陸奥に咄し致しくれ候よふと申聞候所、
加七曰ク、仙台の役人及河内の郷士ら相会し候得バ、
加七が自から下坂と云わけニハまいらずゆへ、
陸奥先生義(ママ)早上京の上、右人々に御引合奉レ願候との事なり。
此上よく 御考合可レ被レ成(おかんがへあはせなさるべく)候。
小弟ガ論ニ竊(ひそか)ニ大兄に言、
目今御かゝりの丹波丹後の一件云々
大坂四ツ橋大仏や門前御談の事万 不レ可レ被レ忘(わすらるべからず)、
十分右の所に御心お御用第一なり。
右のよふ御用心、先は早頓首。
十月廿二日
龍
元二郎先生
御本
〔手紙120〕・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
陸奥宗光あて 慶応三年十一月七日
坂本龍馬
追白、御手もとの品いかゞ相成候か、
御見きりなくてハ又 ふの(不能) と相成。
世界の咄(はな)しも相成可レ申か、
此儀も白峯より与三郎より少うけたまハり申候。
此頃おもしろき御咄しもおかしき御咄しも実に/\山ニて候。かしこ。
拝啓。
然ニ先生此頃御上京のよし、諸事御尽力御察申上候。
今朝与三郎参、咄聞候所、先生の御周旋ニて長崎へ参り候よし、
同人の事は元ト大(太)郎が船の引もつれより、
我々共御案内の通のセ話相かけ候人ニて、
ことに海援隊外の者ニも在レ之候。
先生御一人御引うけなれバよろしく候得ども、隊中人を見付ケ且、
長崎ニ於、此度取入候屋鋪(やしき)ニて養なふなど少御用心無レ之候得バ、
近(ちかく)立行カザルの御セ話がかゝり候と存候。
小野生らが一条にかゝる事ハ小弟ラ多少の儀論(ママ)有レ之候。
先承り候ニ付、早一筆さしあげ候。
十一月七日
謹言
〆
後ト丙丁中
四条通室町上ル西側沢屋御旅宿
陸奥源二郎様
才谷楳太郎
御直披
内用ナリ御独見
〔手紙120〕・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
陸奥宗光あて 慶応三年十一月十三日(推定)
坂本龍馬
一、さしあげんと申た脇ざしハ、まだ大坂の使がかへり不レ申故、わかり不レ申。
一、御もたせの短刀は(さしあげんと申た)私のよりは、よ程よろしく候。
(但し中心(なかご)の銘及形。)
是ハまさしくたしかなるものなり。
然るに大坂より刀とぎかへり候時ハ、見せ申候。
一、小弟の長脇ざし御らん被レ成度とのこと、ごらんニ入レ候。
十三日
謹言。
陸奥老台
自然堂 拝