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『戦争史大観』 第三篇 戦争史大観の説明 第二章 戦争指導要領の変化 第六節 ナポレオンの戦争

2018-08-16 16:45:46 | 石原莞爾


 石原莞爾 『戦争史大観』 
 第三篇 戦争史大観の説明


   第二章 戦争指導要領の変化


六節 ナポレオンの戦争

 フリードリヒ大王の時代よりナポレオンの時代へ


1、持久戦争より決戦戦争へ

   18世紀末軍事界の趨勢。

 七年戦争後のフリードリヒ大王の軍事思想はますます機動主義に傾いて来た。
一般軍事界はもちろんである。

 1771年出版せられたフェッシュの
『用兵術の原則および原理』には
「将官たる者は決して強制せられて会戦を行なうようなことがあってはならぬ。
  自ら会戦を行なう決心をした場合はなるべく人命を損せざる事に注意すべし」とあり、

 1776年のチールケ大尉の著書には
「学問に依りて道徳が向上せらるる如くまた学問に依り戦術は発達を遂げ、
  将軍はその識見と確信を増大して会戦はますますその数を減じ、
  結局戦争が稀となるであろう」と論じている。


 仏国の有名な軍事著述家でフリードリヒ大王の殊遇を受け、
1773年には機動演習の陪観をも許されたGuibertは1789年の著述に「大戦争は今後起らぬであろう。
もはや会戦を見ることはないであろう」と記している。

 七年戦争につき有名な著述をした英人ロイドは1780年
「賢明なる将軍は不確実なる会戦を試みる前に
 常に地形、陣地、陣営および行軍に関する軍事学をもって自己の処置の基礎とする。
 この理を解するものは軍事上の企図を幾何学的の厳密をもって着手し、
 かつ敵を撃破する必要に迫らるる事無く戦争を実行し得るのである」と論じている。

 機動主義の法則を発見するを目的として地理学研究盛んとなり
鎖鑰さやく、基線、作戦線等はこの頃に生れた名称であり、
軍事学の書籍がある叢書の中の数学の部門に収めらるるに至った。


 ハインリヒ・フォン・ビューローは
「作戦の目的は敵軍に在らずしてその倉庫である。
 何となれば倉庫は心臓で、
  これを破れば多数人の集合体である軍隊の破滅を来たすからである」と断定し、
戦闘についても歩兵は唯射撃するのみ、射撃が万事を決する、
精神上の事は最早大問題でないと称し、
「現に子供がよく巨人を射殺することが出来る」と述べている。

 かくて軍事界は全く形式化し、
ある軍事学者は歩兵の歩度を一分間に75歩とすべきや76歩とすべきやを一大事として研究し
「高地が大隊を防御するや。大隊が高地を防御するや」は
当時重大なる戦術問題として議論せられたのである。


 2、フランス革命に依る軍事上の変化

  「最も暗き時は最も暁あかつきに近き時なり」と言ったフリードリヒ大王は1786年この世を去り、
後三年1789年フランス革命が勃発したのである。

 革命は先ず軍隊の性質を変ぜしめ、
これに依って戦術の大変化を来たし遂に戦略の革命となって新しき戦争の時代となった。


 3、新軍の建設

 革命後間もなく徴兵の意見が出たが専制的であるとて排斥せられた。
しかし列強の攻撃を受け戦況不利になったフランスは1793年徴兵制度を採用する事となった。
しかもこれがためには一度は八十三州中六十余州の反抗を受けたのであった。

 徴兵制度に依って多数の兵員を得たのみでなく、
自由平等の理想と愛国の血に燃えた青年に依って
質に於ても全く旧国家の思い及ばざる軍隊を編制する事が出来た。


 新戦術

 革命軍隊も最初はもちろん従来の隊形を以て行動しようとしたのであるが、
横隊の運動や一斉射撃のため調練不充分で自然に止むなく縦隊となり、
これに射撃力を与えるため選抜兵の一部を散兵として前および側方を前進せしむる事とした。
即ち散兵と縦隊の併用である。

 散兵や縦隊は決して新しいものではない。
墺国の軽歩兵(忠誠の念篤いウンガルン兵等である)はフリードリヒ大王を非常に苦しめたのであり、
また米国独立戦争には独立自由の精神で奮起した米人が巧みにこれを利用した。


 しかし軍事界は戦闘に於ける精神的躱避たひが大きいため
単独射撃は一斉射撃に及ばぬものとしていた。


 縦隊は運動性に富みかつ衝突力が大きいためこれを利用しようとの考えあり、
現に七年戦争でも使用せられた事があり、
その後革命まで横隊、縦隊の利害は戦術上の重大問題として盛んに論争せられたが、
大体に於て横隊説が優勢であった。

  1791年仏国の操典(1831年まで改正せられなかった)は依然横隊戦術の精神が在ったが、
縦隊も認めらるる事となった。


 要するに散兵戦術は当時の仏国民を代表する革命軍隊に適するのみならず、
運動性に富み地形の交感を受くる事少なくかつ兵力を要点に集結使用するに便利で、
殲滅戦略に入るため重要な要素をなしたのである。

  しかし世人が往々誤解するように
横隊戦術に比し戦場に於て必ずしも徹底的に優越なものでなかったし
(1815年ワーテルローでナポレオンはウエリントンの横隊戦術に敗れた)、
決して仏国が好んで採用したものでもない。

 自然の要求が不知不識しらずしらずの間にここに至らしめたのである。
「散兵は単なる応急策に過ぎなかった。
 余りに広く散開しかつ衝突を行なう際に指揮官の手許に充分の兵力が無くなる危険があったから、
 秩序が回復するに従い散兵を制限する事を試み、
 散兵、横隊、縦隊の三者を必要に応じて或いは同時に、
 或いは交互に使用した。

 故に新旧戦術の根本的差異は人の想像するようには甚だしく目立たず、
その時代の人、
なかんずく仏人は自己が親しく目撃する変化をほとんど意識せず、
また諸種の例証に徴して新形式を組織的に完成する事にあまり意を用いざりし事実を窺い得る」と
デルブリュック教授は論じている。


 革命、革新の実体は多くかくの如きものであろう。
具体案の持ち合わせもないくせに
「革新」「革新」と観念的論議のみを事とする日本の革新論者は冷静にかかる事を考うべきであろう。


 4、給養法の変化

 国民軍隊となったことは、
地方物資利用に依り給養を簡単ならしむる事になり、
軍の行動に非常な自由を得たのである。

 殊に将校の平民化が将校行李の数を減じ、
兵のためにも天幕の携行を廃したので1806年戦争に於て
仏・普両軍歩兵行李の比は1対8乃至1対10であった。


 5、戦略の大変化

 仏国革命に依って生まれた国民的軍隊、縦隊戦術、徴発給養の三素材より、
新しき戦略を創造するためには大天才の頭脳が必要であった。
これに選ばれたのがナポレオンである。


 国民軍隊となった1794年以後も消耗戦略の旧態は改める事がなかった。
1947年仏軍は敵をライン河に圧して両軍ライン河畔で相対峙し、
僅か23万の軍がアルサス[#「アルサス」はママ]から北海に至る全地域に分散して
土地の領有を争うたのであった。


 ナポレオンはその天才的直観力に依って事物の真相を洞見し、
革命に依って生じた軍事上の三要素を綜合してこれを戦略に活用した。
 兵力を迅速に決勝点に集結して敵の主力に対し一挙に決戦を強い、
のち猛烈果敢にその勝利を追求してたちまち敵を屈服せしむる殲滅戦略により、
革新的大成功を収め、全欧州を震駭せしめた。
かくして決戦戦争の時代が展開された。

 この殲滅戦略は今日の人々には全く当然の事でなんら異とするに足らないのであるが、
前述したフリードリヒ大王の戦争の見地からすれば、
真に驚嘆すべき革新である事が明らかとなるであろう。

 ナポレオン当時の人々は中々この真相を衝き難く、
ナポレオンを軍神視する事となり、
彼が白馬に乗って戦場に現われると敵味方不思議の力に打たれたのである。


 ナポレオンの神秘を最初に発見したのは科学的な普国であった。
1806年の惨敗によりフリードリヒ大王の直伝たる夢より醒めた普国は、
シャルンホルスト、グナイゼナウの力に依り新軍を送り、
新戦略を体得し、
ナポレオンのロシヤ遠征失敗後はしかるべき強敵となって遂にナポレオンを倒したのである。

 フリードリヒ大王時代の軍事的教育を受け、
ナポレオン戦争に参加したクラウゼウィッツはナポレオンの用兵術を組織化し、
1813年彼の名著『戦争論』が出版せられた。


 6、1796~97年のイタリア作戦

 1805年をもって近世用兵術の発起点とする人が多い。
20万の大軍が広大なる正面をもって千キロ近き長距離を迅速に前進し、
一挙に敵主力を捕捉殲滅したウルム作戦の壮観は、
18世紀の用兵術に対し最も明瞭に殲滅戦略の特徴を発揮したものである。

 しかしこれは外形上の問題で、
新用兵術は既にナポレオン初期の戦争に明瞭に現われている。
その意味で1796年のイタリア作戦、
特にその初期作戦は最も興味深いものである。

 クラウゼウィッツが
「ボナパルトはアペニエンの地理はあたかも自分の衣嚢のように熟知していた」と云っているが如く、
ナポレオンはイタリア軍に属して作戦に従事したこともあり、
イタリア軍司令官に任ぜらるる前は公安委員会作戦部に服務してイタリアに於ける作戦計画を立案した事がある。


 ナポレオンの立案せる計画は、
当事者から即ち旧式用兵術の人々からは狂気者の計画と称して実行不可能のものと見られたのである。

 ナポレオンは1796年3月2日弱冠26歳にしてイタリア軍司令官に任ぜられ、
同26日ニースに着任、
いよいよ多年の考案に依る作戦を実行することとなった。


 イタリア軍の野戦に使用し得る兵力は歩兵4師団、騎兵2師団で兵力約4万、
主力はサボナからアルベンガ附近、その一師団は西方山地内に在った。
縦深約80キロである。


 軍前面の敵はサルジニアのコッリーが約1万をもってケバ要塞からモントヴィの間に位置し
墺軍の主力はなおポー河左岸に冬営中であった。


 ナポレオンはかねての計画に基づき、
両軍の分離に乗じ速やかに主力をもってサボナからケバ方向に前進し、
サルジニア軍の左側を攻撃、
これを撃破する決心であった。
当時海岸線は車も通れず、騎兵は下馬を要する処もあった。

 海岸からサルジニアに進入するためには
サボナから西北方アルタールを越える道路(峠の標高約500メートル)が最良で、
少し修理すれば車を通し得る状態であった。

 ところがナポレオン着任当時のイタリア軍の状態は甚だ不良で、
ナポレオンがその天性を発揮して大活躍をしても整理は容易な事でなかった。


 ナポレオン着任当時、
マッセナはゼノバに於ける
(ゼノバは当時中立で海岸道不良のため同地は仏軍の補給に重要な位置を占めていた)外交を後援するため、
一部をボルトリに出していたのである。

 ナポレオンは墺軍を刺戟する事を避くるため同地の兵力撤退を命令したが、
前任司令官の後任をもって自任していたマッセナは後輩の黄口児、
しかも師団長の経験すら無いナポレオンの来任心よからず、
命令を実行せず、
かえってボルトリの兵力を増加し、
表面には調子の良い報告を出していた。


  しかるに4月に入って墺軍前進の報を耳にしたナポレオンの決心は変化を来たし、
4月2日ニースを発してアルベンガに達し、
マッセナに命令するにボルトリを軽々に撤退する事無く、
かえって兵力増加を粧うべき事を命令した。

 蓋けだしナポレオンは墺軍の前進を知り、
なるべくこれを東方に牽制してサルジニア軍との中央に突進し、
各個撃破を決心したのである。

 マッセナは敵兵増加の徴しるしに不安を抱き、
同日は狼狽してこのまま止まるは危険な旨を具申している。


 主力をポー川左岸に冬営していた墺軍の新司令官老将ボーリューは
ゼノバ方面に対する仏軍活動開始せらるるを知り南進を起し、
3月30日にはゼノバ北方の要点ボヘッタ峠を占領して
仏国の突進を防止する決心をとったが、
その後仏軍の行動の活発でないのに乗じ、

  更に4月8日にはボルトリを占領して敵とゼノバの連絡を絶ち、
かつボルトリにあった製粉所を奪取する事に決心した。

 同時に右翼の部隊をもってサボナ北方のモンテノット附近を占領せしめ、
サルジニア軍と連絡して要線の占領を確実ならしむる事とした。


 行動開始前の4月9日に於けるポー川以南にある部隊の位置、右図の如し。

 即ち約3万の兵力が攻撃前進を前にして縦深60キロ、正面約80キロに分散しており、
しかも東西の交通は極めて不便で
ボルトリから右翼の方面に兵力を転用するためにはアックイを迂回するを要する。

 ボルトリの攻撃にはビットニー、フカッソウィヒ両部隊のうち、
9大隊を使用してボーリュー自らこれに臨み、
モンテノットの攻撃はアルゲソトウ部隊に命令した。

 アルゲントウは後方に主力を止め、
攻撃に使用した兵力は5大隊半に過ぎなかった。
これが当時の用兵術である。


 ナポレオンは10日サボナに到着、
この日ボルトリは墺軍の攻撃を受け同地の守兵は夜サボナに退却す。

 ナポレオンは11日更に東方に前進して情況を視察したが、
ボルトリを占領した敵は相当の兵力であるが追撃の模様がない。

 然るにこの日モンテノットも敵の攻撃を受けて占領せられたが、
ランポン大佐はモンテノット南方の高地を守備してよく敵を支えている事を知った。

 ナポレオンはこの形勢に於て先ずモンテノット方面の敵を撃滅するに決心し、
僅少なる部隊をサボナに止めてボルトリの敵に対せしめ、
主力は夜間ただちに行動を起して敵の側背に迫る如き部署をした。

 この決心処置は
迅速果敢しかも適切敏捷に行なわれ
ナポレオンを嫉視ないし軽視していた諸将を心より敬服せしめるに至った。

 ある人は
「ナポレオンはこの命令で単に墺軍に対してのみでなく、
 部下諸将軍連に対しても勝利を得た」と言っている。


 かくて12日、
ナポレオンは約1万人を戦場に集め得て、
3、4千の敵を急襲して徹底的打撃を与えた。
ナポレオンはこの戦闘の成果を過信して墺軍の主力を撃破したものと考え、
予定に基づき主力をもってサルジニア軍に向い前進するに決し、
その部署をした。

 前衛たる部隊は13日コッセリア古城を守備していた墺軍を攻撃、
14日辛うじてこれを降伏せしめたが、
ナポレオンはこの間敵の部隊北方デゴ附近に在るを知って該方面に前進、
14日敵を攻撃してこれを撃破し、再び西方に向う前進を部署した。


 しかるにデゴ戦闘後に狂喜した仏兵は、
数日の間甚だ不充分なる給養であったため掠奪を始め、
全く警戒を怠っていた所を、
15日ボルトリ方面より転進して来た墺軍の急襲を受け危険に陥ったが、
ナポレオンは迅速に兵力を該方面に転進し遂にこれを撃破した。
 しかも軍隊は再び掠奪を始め、デゴの寺院すらその禍を蒙る有様であった。


 ボーリューは12日の敗報を受けてもこれは戦場の一波瀾ぐらいに考え、
その後逐次敗報を得るも一拠点を失ったに過ぎないとし、
側方より敵の後方に兵を進めてこれを退却せしむる当時の戦術を振りまわして泰然としていたが、

 16日に至って初めて事の重大さに気付き、
心を奪われてアレッサンドリア方面に兵力を集中せんと決心したが、
諸隊の混乱甚だしく、
精神的打撃甚大で全く積極的行動に出づる気力を失った。


 ナポレオンは17日主力をもって西進を開始したが、
コッリーは退却してタナロ川左岸に陣地を占めた。

 仏軍はケバ要塞を単にこれを監視するに止めて前進、
19日敵陣地を攻撃したが増水のため成功せず、
21日攻撃を敢行した時はサルジニア軍は既に退却していたが、
これを追撃してモントヴィ附近の戦闘となり遂にコッリー軍を撃破した。

 サルジニアは震駭して屈伏し28日午前2時休戦条約が成立した。

 この二週間の間に墺軍に一打撃を与えサルジニア国を全く屈伏した作戦は
今日の軍人の眼で見れば余りに当然であると考え、
ナポレオンの偉大を発見するに苦しむであろうが、
フリードリヒ大王以来の戦争に対比すれば始めてその大変化を発見し得るのである。

 このナポレオンの殲滅戦略を戦争目的達成に向って続行し得るところに
即ち決戦戦争が行わるる事となるのである。

 サルジニアを屈したナポレオンは再び墺国に向い前進、
ポー川左岸に退却せる敵に対し
ポー川南岸を東進して5月8日ピアツェンツァ附近に於てポー川を渡り、
敵をしてロンバルデーを放棄の止むなきに至らしめ、
敵を追撃して10日有名なるロジの敵前渡河を強行、15日ミラノに入城した。

 5月末ミラノを発しガルダ湖畔に進出、ボーリューを遠くチロール山中に撃退した。


 当時の仏墺戦争は持久戦争でありイタリア作戦はその一支作戦に過ぎない。
ナポレオンは新しき殲滅戦略により敵を圧倒したが結局ここに攻勢の終末点に達した。
殊にマントア要塞は頗る堅固で
ナポレオンはこの要塞を攻囲しつつ四回も敵の解囲企図を粉砕、
1797年2月2日までにマントアを降伏せしめた。

 1916年ファンケルハインが、
いわゆる制限目的を有する攻撃としてベルダン攻撃案を採用しカイゼルに上奏せる際
「若し仏軍にして極力これを維持せんとせば
 恐らく最後の一兵をも使用するの止むなきに至るであろう。
 若し斯くの如くせばこれ我が軍の目的を達成せるものである」と述べている。

 1916年ドイツのベルダン攻撃はこの目的を達成しかね、
ドイツ軍は連合側に劣らざる大損害を受けて戦争の前途にむしろ暗影を投じたのであったが、
ナポレオンのマントア攻囲はよくファンケルハインの企図したこの目的を達成したのである。

 墺軍は4回の解囲とマントアの降伏で少なくとも10万の兵力を失った(仏軍の損失は2万5千)。
マントア攻囲前の墺軍の損失は2万に達するから、
一年足らずの間に墺軍はナポレオンのために12万を失ったのである。
これは当時の墺国としては大問題で、
これがため主戦場から兵を転用し、
最後にはウインの衛戌兵までも駆り集めたのである。

 墺国の国力は消耗し、
ナポレオンは1797年3月前進を起し、
4月18日レオベンの休戦条約が成立した。

 

 その後の大観

 ナポレオンの天才的頭脳が新戦略を生み出し、
その新戦略に依ってナポレオンはたちまち軍神として全欧州を震駭した。
かくしてフランスはナポレオンに依って救われた。

 ナポレオンは対英戦争の第一手段として1798年エジプト遠征を行なったが、
留守の間仏国は再びイタリアを失い苦境に立ったのに乗じ、
帰来第一統領となって1800年有名なアルプス越えに依って再び名望を高めた。

 一度英国と和したが1803年再び開戦、
遂に10年にわたる持久戦争となった。

 1804年皇帝の位に即き、
英国侵入計画は着々として進捗、その綜合的大計画は真に天下の偉観であった。

 これは今日ヒットラーの試みと対比して無限の興味を覚える。

 海軍の無能によってナポレオンの計画は実行一歩手前に於て頓挫し、
英国は墺、露を誘引して背後を覘ねらわしめた。
ナポレオンは1805年8月遂に英国侵入の兵を転じて墺国征伐に決心した。


 ドーバー海峡に集結訓練を重ねた約20万の精鋭(真に世界歴史に見なかった精鋭である)は
堂々東進を開始して南ドイツに侵入、
墺、露両軍の間に突進して9月17日墺のほとんど全軍をウルムに包囲降伏せしめた。

 ナポレオンはドノー川に沿うてウインに迫り、
逃ぐる敵を追ってメーレンに侵入したが、
攻勢の終末点に達ししかも普国の態度疑わしく、
形勢楽観を許さぬ状況となったが、
ナポレオンは巧みに墺、露の連合軍を誘致して
12月2日アウステルリッツの会戦となり戦争の目的を達成した。

 1806年普国と戦端が開かれるとナポレオンは南ドイツにあったその軍隊を巧みに集結、
16万の大軍三縦隊となりてチュウリンゲンを通過して北進、
敵をイエナ、アウエルステートに撃破し、
逃ぐるを追って古今未曽有の大追撃を強行、
プロイセンのほとんど全軍を潰滅した。

 しかもポーランドに進出すると冬が来る。
物資が少ない。
非常に苦しい立場に陥った1807年6月25五日漸ようやく露国との平和となった。


 対英戦争の第三法である大陸封鎖強行のため1808年スペインに侵入したところ、
作戦思うように行かず、
ナポレオン失敗の第一歩をなした。

 英国の煽動により1809年墺国が再び開戦し、
ナポレオンの巧妙なる作戦は良くこれを撃破したが
一方スペインを未解決のまま放任せざるを得ない事となり、
またアスペルンの渡河攻撃に於ては遂に失敗、名将ナポレオンが初めて黒星をとった。


 この大陸封鎖の関係から遂に1812年露国との戦争となり、
モスコーの大失敗となった。


 1813年新兵を駆り集め、
エルベ河畔での作戦はナポレオンの天才振りを発揮した面白いものであったが、
遂にライプチヒの大敗に終り、
1814年は寡兵をもってパリ東方地区に於て大軍に対する内線作戦となった。

 1796年の作戦に比べて面白い研究問題であり、
彼の部将としての最高の能率を発揮したと見るべきである。

 しかも兵力の差が甚だしく、
殊に普軍がナポレオンの新用兵術を体得していたので思うに任せず、
連合軍に降伏の止むなきに至った
(この作戦は伊奈中佐の『名将ナポレオンの戦略』によく記されている)。


 1815年のワーテルローは大体見込なき最後の努力であった。


 対墺、対普の個々の戦争は巧みに決戦戦争を行なったが、
スペインに対して地形その他の関係で思うに任せず、対露侵入作戦は大失敗をした。
しかも、全体から見てナポレオンはその全力を対英持久戦争に捧げたのである。
 海と英国国民性の強靭さは天才ナポレオンを遂に倒したのである。


 ヒットラーは今日ナポレオンの後継者として立っている。


【続く】
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