日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

大川周明 「河本大作君を弔う」

2016-12-27 23:44:47 | 大川周明

               河本大作-ウィキペディア

河本大作君を弔う


       
大川周明  

 親しく河本大作君と交はり、その為人を知るほどの者は、晩かれ早かれ屹度再会の時あるを期して居た。
河本君は心身ともに不思議なほど柔軟にして強靭、屈伸自在で而も決して挫けたり折れたりしない。
極めて小心にして甚だ大胆、細密に思慮し、周到に用意し、平然と断行する。決して境遇の順逆に左右されず、得意にも淡然、失意にも坦然、努めずして随処に主となり得る性分であるから、設ひ収容所に監禁お憂き目を見て、時には君国の悲運に腸を断たれて血涙を注ぎ、時には想を妻子の上に馳せ慈涙を流すことがあっても、君子は悲しんで痛まず、無用なる気苦労に健康を損ずるやうなことはなく、無聊の折には得意の小唄でも低唱しながら、悠々と月日を送って居ることと思われた。

 そして昭和二十七年二月獄中からの通信によって、其時まで健在であることは明らかであったし、其後消息は絶えたけれども、同君の友人知己は、やがて何事も無かったように酒然として帰国する河本大作を品川駅頭に迎へる日の必ず来るべきことを信じて疑わなかった。
 それだけに河本君獄死の報が伝へられた時の驚きと悲しみは大きく且深かった。 

 そして昭和二十九年来日した中国紅十字会の李徳全女史が発表した死亡戦犯四十名の名簿によって、河本君は昭和二十八年八月二十五日、心臓衰弱のため長逝したことが判明した。
 河本君は、明治十六年一月二十四日の誕生であるから、満七十歳七か月を以てその多彩なる生涯を閉じたのである。その遺骨並びに遺品は昭和三十年十二月十八日興安丸で舞鶴に到着、翌十九日夜東京駅に到着して、知友の悲しみを新たにした。

 河本君は少年にして軍人に志し、大阪地方幼年学校、東京中央幼年学校を経て、明治三十五年、陸軍士官学校に入り、明治三十七年陸軍歩兵少尉任官直後、日露国交断絶して開戦となり、歩兵第三十七連隊小隊長として出征したが、遼陽会戦に重傷を負ひ、大阪陸軍病院で加療、三十八年傷癒えて再び出征、乃木軍の麾下に入ったが、幾ばくもなく休戦となった。 

 其後明治四十四年陸軍大学校に入り、大正三年同校を卒業、翌四年漢口守備隊司令部付として中国に赴任、翌五年帰朝して参謀本部員となり、支那班に勤務し、大正十二年には支那班長となり、陸軍大学校歩兵教官を兼任した。
 そして大正十四年関東軍参謀となり、陸軍大佐に昇任したが、昭和三年の張作霖爆死事件によりて停職を命ぜられ、五年一月現役に復した後、予備役に編入され、茲に河本君の軍人としての生涯は終わったが、日本陸軍は之によつて抜群に有為な人材の一人を失ふことになつた。 

 然るに昭和六年、河本君が陸軍から追われる事件を犯したその満州事変が勃発した。河本君は直ちに渡満して縦横に活躍し、存分その才能を発揮する機会を与へられた。
 昭和七年には満鉄理事となり、同九年には満州炭鉱株式会社理事長を兼任して非凡の技量を示したが、昭和十六年には山西産業株式会社々長となりて太原に赴任し、無尽蔵の資源を包蔵する山西省の産業開発の全責任を負いて渾身の力を傾注した。

 太平洋戦争に於ける日本の全敗によつて、満州並び中国に於ける日本の一切の経綸は尽く転覆し去るの悲運に際会したが、終戦直後山西省の支配者となれる閻錫山氏は篤く河本君を信頼し、旧山西産業を山西官業と改称し、河本君を顧問として事業の進行を委ねたので、同君は邦人千数百名と共に山西省に留まり、内には会社の経営に当り、外には次第に迫りくる中共軍の攻撃を防いで居たが、太原遂に陥落して中共軍に占領され、河本君は戦犯として太原の収容所に監禁され、其後昭和二十五年一月二十五日、太原より北京に移されて北京郊外に監禁され、遂に収容所内で病死したのである。 

   
 太原陥落に先立ち閻錫山氏は飛行機で南方に去った。其際河本君にも同乗を勧めたけれど、同君は断乎として応ぜず、在留邦人とその運命を共にしたことは、誠に立派な覚悟であり、同君の死を完うせるものである。
 茲に吾等相図り、粛かに故人を偲び、謹みて其霊を慰めるため、左時処に於て葬儀を営むこととした。希くは知友諸君の来たて霊前に香を焚き、その冥福を祈り給わんことを。

       (葬儀案内原稿、昭和三一年)


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