篁(たかむら) 東陽 著「東條英機と世界維新」
第二篇 世界維新論
第五章 赤色ソ聯の興廃
一 獨ソ戦の動向
ウクライナを平定してそのまま膠着していた獨ソ戦も、南はドン渡河に成功して今やロストフを陥れ、ここで愈々 コーカサス石油地帯へ突撃の第一歩に入った。 同時にモスクワ攻略を指す、ドイツ側最高責任者たるフオン・ポツク元師は、いまや25萬の精兵と、戰車の大集団を繰出し、中部のモスクワ包囲線は、北部カリーニンより、南部ツーラ、オガ河に至る戦線において、大進撃を開始したドイツ軍と、必死の抵抗を試みるソ聯軍との間に、目下空前の大激戦が展開されつつある。もしこの両市を陥れると、地上凍結の時機と相俟ち、モスクワ包囲も一段の進展を示すであらう。
この時ベルリン電報は 「ドイツ政府は来る25日の防共協定第5周年記念日にあたり、ベルリンにおいて反共列国会議を開催する』と發表した。
それは反共諸國のポルシェヴイズム打倒の確乎たる決意を世界に再闡明するための会議であるとされ、同会議に列席する各國代表は、いま相次いでベルリソに到着しつつある。 我々はここで獨伊側から見た『共産党のからくり。』なるものをまずゲッベルス宣伝相をして語らしめよう。
『共産党は、賎民を煽動し、國民の暗き本能を刺戟して國家と國家の理想とに叛かせ、専ら政権の掌握につとめる。かれ等は時として他の政党と妥協するも、これは政見についての妥協でなく、政権を壟断するための手段である。共産党と妥協する政党は猟場の狗である。狡兎盡て良狗煮らると同様に、一度目的を遂げて政権を手にすれば、共産党は昨日の友党を葬ることに何等の遠慮もない。
今や西欧諸國の政治家は、所謂人民戰線の禍害を中和し得ると考へているが、世にこれほどたよりにならないものはない。共産党主義は 劣等漢の獨裁である。共産党は政見をとるまでは欺瞞をこととし、一度政権を得れば暴力によってこれを支持し、決してこれを離さうとはしない。共産党特意の壇場はブロパガンダである。
彼らは虚言と阿謟により、共産党の眞相と目的とを隠蔽して各國民を陥れるのだ。共産党の父レーニンの公言するところによれば、欺瞞は許されたる手段であるのみならす、又最良の武器でもある。嘗てショペンハウエルはユダヤ人は、うつきの親玉であると言った。今日共産党とユダヤ人とが一つになっているのは毫も怪しむに足らぬ。共産党のプロパガンダは國際的であって且侵略的であり、その目的とするところは世界の赤化である。
しかしモスクワ政権は、これがため惜しげもなく多額の資金をまき散らすが、その資金は皆ロシア國民を搾取して得たものである。共産党はこれにより各國における共産党を支持し、世界赤化の運動に従事せしめる。蓋し各國の共産党なるものは、モスクワコミンテルンの別動隊であって、モスクワの指令によって動くものである。
各國の共産党は、豊富なる資金と一流なる宣伝により、共産主義の眞相を隠蔽し、ロシアの眞事情が自國に伝わるのを防止する任務を授けられている。何となればロシアの眞相を暴露することは、モスクワ政府の最も畏るゝところであるからだ。共産党の行く手には屍の山を築き、血と涙の川が流れている。彼等には人命の如きものは三文の値打ちもないものとされている。テロ、暗殺、暴行は共産主義革命にはつきもので、これによってロシアは成功した。
凡そ共産党の政権を得るところ、そこには共産主義の実際と矛盾があるが、かれ等はそれには頓着しない。かれ等はただ単に機闘銃にものを言はせるだけである。そして他の方面では巧みな宣伝によって事実の相違を明かさない。共産主義者は相手をだましてその姿を見せない。しかも相手を取扱ふことが頗るうまい。
例へばどこか大國の代表者がモスクワに来ると、地下鐵へ案内する。今の世界の大都市では地下鐵のないところはなく、敢て珍らしいものではないが、スターリン御自慢のものだけに来たものは感心する。
次に盛んに歓迎会を催し、その國の國歌なぞを歌ってきかせると、一行はわけもなく嬉しくなって、今迄抱いていた共産主義の鍋害はどこへやらすっかり忘れ去り、忽ちロシア贔屓になる。恐らくモスクワでは、あとで腹をかゝへて笑ひ崩れていることであらう。
更に特に一言せねばならぬのは、共産主義とユダヤ人との関係である。共産主義の源を開き、引きつづきこれを維持して来たものはユダヤ人である。ロシアでは以前の支配階級は皆一掃されてユダヤ人の獨り天下となった。
そして共産党の争いなるものは畢竟するに ユダヤ人同志の内訌にすぎない。モスクワに於ける過般の公判も政権奪取のためにユダヤ人がユダヤ人を殺したまでである。世間ではユダヤ人は団結が強いといふが、これは大きな誤りで、ユダヤ人は互に排斥をこととする徒輩で、団結が強さうに見へるのは他國に流寓している時だけで、政権を握り天下を自由になし得る時が来れば忽ちに仲間割れをなすこと、ロシアの現状が序実にこれを証明している。
共産主義の目的は、人類の道徳文化を破壊し、総ての國を滅亡へと陥れんとするにある が、かくの如きも亦ユダヤ人の頭でなければ考へ出せない。共産党の実際に行ふところは 惨忍を極めているが、これはユダヤ人でなければ出来ない芸当である。
しかも西欧にいるユダヤ人は、口を拭ふて世を欺き、共産党の横行などは夢にも知らぬような顔をする。共産党のプロ・ハガンダは相手によって術が変わる。即ち或るときはラヂカルであり、或る時は中正であり全く相手次第である。
或る時は宗教を崇ふが如く、ある時は神などを馬鹿にする。何れもその時の都合によるのであって、目的の前には手段を選ばない。かれ等には各國に聯絡のある巧妙な中央機関があって、ポタンーつ押せば世界の共産党を?動員し得るのである。モスクワの指令を奉ずる共産党を有する國こそ災難だ。いつかは共産主義に蝕まれて倒壌するに至るであらう。』
ルーマニヤ駐在ソ聯公使テオドロ・ブランコは、ソ聯政府の逮捕からのがれてローマに逃げこみ、現実のソ聯を暴露した手記をジョルナール・デ・イタリア紙上に發表して曰く
『「ソ聯には人類史上未曾有の兇悪なる奴隷制度がある。個人の自由と意思とは銃火の威嚇 の下に奪はれて、農民の意志は全くコルホーズ制度で、手かせ足かせをかけられている。土地も個人の所有権は喪失し、産業の各部門に於て、人々は全く鐵の答に恐怖に戦いながら馬車馬のように督励され、単なるバイオーク(労働能率)のために哀れな存在に過ぎない。
學理的には意見正しく見える社会主義は、ソ聯に於ては餘にも残酷なる資本主義の形態となって実践されている。
しかもその支配階級は百パーセントユダヤ入である。大工場、事務局、軍需工場、鐵道、大小工業の総てはユダヤ人の掌中にある。かくてかれ等の妻子は素敵な自動車を乗り廻はし、豪著な邸宅に住み、夏はクリミヤ、コーカサスの最上の療養地で暮し、アストラカンを着て、宝石をちりばめた金指環腕環をつけ、まるでパリジェンヌのやうである。
しかるに労働者はーケ月400乃至500ループルの賃金であり、粗末なスリッパはー足は200乃至250ルーブルであり、最も廉い食が6乃至8ルーブルだ。
しかしユダヤ共産主義の鐵則は、労働者に何等の事情をも知らせず、現制度下に盲目たらしめることに狂奔し、労働時間外時間も缶詰主義をとっている予の知れる労働者はこれがために尚も将来に於てかれ等の生活が好転することを空頼みにして、馬鹿になりきっているものもある。5年も7年も同じものを着、肉は贅沢品として買へず、酒は殆んど飲めない。
しかもソ聯の指導者はいふ。ソ聯以外の國に自由はなく、諸外國民皆ソ聯に入國したがっている」と。何たるでたらめであらう。
スターリンは科學工業航室兵器重工業の中心をモスクワ、レニングラード、シべリヤ、ウラル極東國境、ハバロフスク、コムソモルスク等に集中した。かくてウクライナはその点モスクワの植民地たるに甘んぜなければならなくなった。といふのは、ウクライナの民は、古き伝統を失はず、ウクライナ國民運動を持続しているからでむる。かくてウクライナの数萬の民は、この理由で殺戮され投獄された。しかもポルシェヴキは云ふ。ソ聯こそはデモクラシーの理想境であると。何たる皮肉であらう。
ソ聯にはかかる不合理に批判のメスを加へるただ一つの新聞も雑誌もない。反スターリンの聲が口から出た瞬間、その人の前に地獄の門は開かれるものと見なければならぬ。ス ターリンの指示する方向からーミリでも間違った人間は學者でも技術家でも捕縛される。
幾千の科學者、工場技師がこの世から姿を消した。内政問題の犠牲者だけでも数千に上 る。外交官の犠牲も数へきれない。軍部においてもトハチェフスキー、ガマルニック将軍などの銑殺されたのに顕著な実例だ。かかる裁判に於ては、唯一人としてこれに異存を唱へ弁明する人はない。國家を裏切った罪によるとの一條が数萬の法令を超越し、幾萬の習慣を抹殺するのだ。
予は結論する。ソ聯は現代國家から脱落した変態國であると。眞の野蛮國の眞相がソ聯にある。予はソ聯に育ち、これを見、これを知った。今確実に我良心の名において宣言する。社会主義のイデオロギーは嘘八百であると。』
今やスターリン戰破れて、モスクワの危機は迫りつつある。スターリンは大きな誤算を した。去る5月から6月にかけ、獨軍が続々獨ソ國境に500萬の大軍を終結しつつあった 時、モスクワでは、獨ソ不可侵條約締結の時の如く、リッペントロップ外相が、ドイツの要求を携へてのロシアへの訪問が伝へられ、モスクワはその歓迎の準備をなしつつあったと伝へられる。
スターリンは獨軍集結をもってヒツトラー一流の脅しの手であり要求を貰徹するための威嚇としか考へなかった。 かくて当然なされるであらうドイツの要求を感知して自ら首相となって対独外交の矢面に立たんとした。しかもこの時ヒツトラーは何等の要求も出さず、ドイツ國民すら半信半疑の中に突如ソ聯領に嵐の如く殺到したのであった。
スターリン老いたり!
しかもこの対外危機にあって、國内の内的矛盾は、暗澹たるものがあり、スクーリン政権はかの蒋介石の如く崩壊せんとする危機にある。
この苦悩と戦火の中より新たなるロシアが生れて来なければならない。われ等は手に汗握り、固唾をのみながら、獨ソ戦争の成行を注目し つつ、ここにしばらくロシアの歴史の跡を概観して見よう。
或はそこには次に来るべき声の大いなる暗示が見出されるやも知れない。
二 人民の自由のために
旧ロシア帝國は、内部に大きな病患を内蔵せしめつつ、単にそれを強力に抑圧し乍ら、外部に發展膨張せし大社会であった。 ロシアの中心をなす東スラヴ民族は、太古、力ルパチヤ山の東北麓に住んでいたアジア民族であり、彼等は東北に移住して、ドニエプル流域の森林地帯に移住し、毛皮、蜂蜜等をもって生活の条件とした。
古代のスラヴ民族は、遊放の民であり、地方自治村落(オプシチーナ)が組織され、それ等の諸村落からの代表が集って会議する機関ウェーチェなるものが形成されていた。かくしてそれは大なる自治部ウオーロスチをもって一大自治社会が存在して、それが永続したのがロシア農村時代の姿であった。
しかれどもこれを強力に統治するロシア帝國がリユリツク(リユーリク)により始められ、 987年ウラヂーミル帝は東ローマのギリシャ正教を入れてこれを統一の原理となし、ロシア國教に制定したが、これとともに所謂農奴制が形成されるのであった。
1206年突如アジアの嵐となって疾風の如く西進した成吉思汗は、今日のソヴェート・ロシアたる阿羅思(オロス)へ侵入し、キプチヤク汗國を建ててそれより約270餘年、蒙古族の支配下にあった。
かくてその軍事的政治的継承により、ここにロシアは強大となるのであった。 16世紀後半より、ロシアの農奴制は殊に酷烈となり、農民は苦悩の餘り盛んに脱走するや、1606年これを抑制する為に法令を出し、農民の自由民たるを認めす、農民は永久に農民たることを規定して逃走の刑罰を定めた。
かくて農奴制は、1796年小アジアー帯からドン州、コーカサスに及んで農村の苦悩 は極度に達し、ドソ河、ヴオルガ河地方にあって、農村の反乱は『人民の自由のために!』を叫んで、コサツクの首領ステパン・ラーヂンによって蜂起し、モスクワ政府に反発を翻すにいたった。
しかもステハン・ラーヂンは、時にモスクワの防禦固きを知るや、南下してコーカサス ー帯を征服、更に進んでトルコからペルシヤに及んだが、この時捕虜とせるペルシヤの王女の美貌に迷ひ、彼はその雄図空しく遂にベルシヤを征服せずして帰るのであった。
ロシアそのものの象徴たるヴオルガ河、『ロシアの母』なるその名にふさはしく広く、 大きく、そして静かなるヴオルガ河、穏やかな流れにのって『ヴオルガの船唄』 の悠長なるメロデイーが、夢の如く、涯しなく郷愁をのせてつづくあたり、いま数十艘の河船を浮べ、ラーヂンが正に宿願のモスクワに進撃せんとする前夜であった。
ラーヂンは部下の兵が、『我首領はベルシヤ王女の美に迷ひてすでに戰意を喪失せり』と 私語するを聞くや、ここに憤然と、彼が傍らなる美しき王女を、途に大河の中に投げ入れるのであった。これにより部下の士気は大いに擧り、シムビルスク市で政府軍と激突、ラージンの大軍は遂に利あらず大敗した。
かくて彼は裏切り者の手によって政府に渡され、モスクワに於いて焚刑に処せられるのであった。 彼の死後百年聞は、何らの大反乱もなく、農民はただ逃亡に次ぐ逃亡をなすのみであった。ペートル大帝立つや、彼は西欧主義を全面的に採用しロシアは全く近代西洋國家に転化した。
しかも、ロシア農民社会の統制は益々強大を加へ、忍びに忍んだ農民は、再びブガチョフの乱に動揺したが、彼も亦捕へられてモスクワで四つ裂の死刑に処せられた。プーシキンの小設『土官の娘』の中には、この時代の彼の片影が、詩人の非凡なる手によって生きるが如く描写されている。
三 農奴解放
19世紀初頭ニコライー世は、その即位の初めに帝政排撃の12月党事件起るや、彼の 圧制は極度の酷烈さを加へていった。彼は秘密探偵政策を縦横に用い、この秘密政治は『空色の制服』として恐怖された。 当時、すでにインテリゲンチャの社会運動は活發となり、西欧派とスラヴ派の対立が激化された。 モスクワの西欧派には哲學的ロマン主義派なるスタンケウイチ派と、サン・シモン主義なるゲルツェン派とがあった。
殊に1829年以来モスクワ大學で世界歴史の講義を占めたグラノフスキーはこの派の指導理論家であり、親友には詩人オガリョーク、文率者ツルゲーネフもこれに属していた。
この団体に関してゲルツエンは『我々の中のある者は大學の講座を担当し、ある者は論文を書き、ある者は新聞を發行し、ある者は捕縛され、休職され、追放されるものが屡々であった。しかもかくも教養に富み才能を有する純潔な団体をその後に見たことがない。極めて迅速に我々は思想や ニユースや知識の交換をなした。会員はすべて自分の読んだ思想や、学んだ知識を発表した。
かくて会員の一人の考へ出したことは、全会員の共有となった。學界にあっても、文壇 にあっても、芸術界にあっても、我々の中の何人かが知らぬ現象はなかった。そして一切の現象は忽ち全会員に伝へられた。』
この雰囲気の中からゴーゴリは生れ、それ以後のロシア文壇の大作が創造されるのであった。 かくてツルゲーネフの『狂人日記』は、1850年に農奴解放のために書かれ、異常なる感動を全ロシアに與へた。
またゴンチヤロフの『オプローモフ』は57年に出で、当時の地主的インテリゲンチャの日常性を暴露しその他の文學思想は、ロシアの社会問題を切実に分析し、その苦悩の直現であった。
農民が地主の邸宅を焼打する事件、主人を殺害する農奴の事件、等は刻々と激發し、1836年から5年の間地主殺害未遂事件は75件、殺害は144件に上った。 かのドストエフスキーの最大傑作『カラマゾフの兄弟』も実にこの事件に手材せるものであり、實に19世紀末のロシアの眞相であり、これは来るべきロシア革命の必然性を示すのであった。
しかもこの小説は他面西洋文明の腐敗の徹底的暴露であり、時代の悪魔の書であり、かくて彼は一切のものを全否定するのであった。現実の世界も、西洋文明も社会も歴史も、人間も恋愛も、ここにトルストの『復活』において酉洋をすてて遠く東方シベリヤに救ひを求める如く、彼も亦西洋文明の没落を力強く断言し、そして東方よりの新しきものの出現現を奇跡的に要望するのみであった。
かくて19世紀最大の作家は共に、西洋文明を痛烈に否定しつつ、アジアの黎明を心から求めて、空しくシベリヤの曠野に彷徨しつつ逝くのであった。
ここにインテリゲンチヤに対する圧迫は酷烈となり、農奴解放の最大指導者ゲルツエンンは追放され、ツルゲーネフまたパリーに逃れ、かくて『ルージン』『パザロフ』等の典型的インテリゲンチャの生活苦悶を摘出するのであった。
欧州各地を放浪、ロシア農奴解放を絶叫したゲルツェンは、フランスの歴史家ミシユレーに送った手紙の中にかう書いている。
『ヨーロッパ文明は今や社会主義によって自己否定に到達した。吾々ロシア人(インテリゲンチャ)は西歌文明を通過して来た。われわれは媒介者であり、醗酵素でありロシアプ國民と、革命されんとするヨーロッパとの間の媒介者である。而してロシアに於ける将来の人間は農民である。それはフランスに於ける将来の人間が労働である如くに』
かくて彼は西欧の諸都市文明に幻滅して
『いづくに行くも退屈だ。パリーでは楽しさに退屈する。ロンドンでは安全に、ローマでは壮麗に、マドリツドには窒息する如き退屈があり、ウイーンには退屈が窒息する。』
彼は實に本来のスラヴ的なロマン的農民主義者であった。ここに我々は共産主義は新しき文化の一運動かのごとき錯覚を人々に與へるのであるが、これは即ち西洋個人主義のロシアに於ける末期的發展であり、自由主義、民主主義の変形に過ぎす、これをユダヤ人的科學主義によって擬装するも、それはユダヤ人の世界的制覇を確立せんとする陰謀に外ならず、ここに共産主義の誤謬と限界を明確に示すを見るのである。
四 マルクス主義の發達
マルクス主義は近代西欧経済獨裁における内的矛盾の自己暴露であり、それは西洋近代社会及び文化の内面的批判と否定となってあらわれ、その限りこの思想は甚だ力強い 破壊作用を示すのであった。
かくして表面、甚だ高度の如くして難解に見えた西洋思想、西洋文明も、これを背後(裏)から見ることによって、眞の本質がその地盤より暴露され、ここに全世界の前にその限界を明確に把捉せしむるのであった。
しかもレーニン主義と言はれるものは、末期西欧金融獨占における、その必然的崩壊の行動であり、資本主義的世界大戦によって、マルクス主義はレーニン哲學への現實的組織化をもち、第三インターナショナルは、プロレタリアートの獨裁國家、ソヴイェト・ロシアを獲得し、かくて 近代西欧の崩壊は、ロシア・マルクス主義によって実践され破壊されたのであった。
さて、ロシアに厳冬の如きニコライー世の恐怖政治が去ると、春の柔かき日の如き、 アレキサンドル二世の温情主義の時代がやって来た。帝はすでにツルゲネフの『猟人日記』等に深く感動し、自由思想の弾圧を緩和し、遂に1861年2月即位一週年記念日に、奴隷制度変更に関する宣言を發表し、解放された農民に関する法令を出した。
が、農奴解放は名のみにて、農民の幻滅は甚しかった。 時に1866年4月アレキサンドル二世がネワ河畔のレートニイ・サード(夏の庭園)を逍遥して、各宮に帰らんとする時であった。カラコーゾフは帝を狙撃せんとしていままさにピストルの引金に手をかけた瞬間、傍の百姓が反射的に彼の右手を打ち、ピストルは發せられたが銃丸は外れて帝は危難をまぬがれたが、これ以来、彼の温情主義は一変して、猛烈なる弾圧政治となり、言論はすべ抑圧されるのであった。
社会思想を抱いていたインテリゲンチャは、殆んど海外に亡命した。
第一インターナショナル派のバクーニンも、チューリツヒにあって、アナーキズムをもって『民衆の中へ!』と強張した。
彼ははじめマルクスの指導する『國際労働組合』に加入したが、マルクスのプロ レタリアート獨裁に反して、農村を基礎とし、両者の間に激しい闘争がつづけられた。
遂に第一インターナショナル派は分裂し、バクーニン派の中から出でたアナーキズムの最大の指導者クロポトキンは、青年層の中に最大の力を有っていたが、彼は、バクーニンの否定的破壊主義に反して、相互互扶助による共産社会の建設を求めるのであった。
また、バクーニン派からマルクス主義に転向したブレハーノフはロシア・マルキシズムの父と言はれ、『労働解放団」を組織し、1870年代以後、ロシア社会運動において彼の 指導は驚くべく強力であった。19世紀の80年代に於いて、ロシアの資本主義は大いに發展し、そのため各工場には 大規模なストライキが頻發し、その嵐の如き労働大衆の叫びを統一したのは若きマルキ スト時代のプレハーノフの姿であった。
彼はロシアに於けるブロレタリアートを正しく認識した。彼の業蹟は、彼のこの透徹し た理論研究によるものであり、幼稚なロシアの社会理論に、弁証法的基礎づけをなすとこによって、ロシアのマルスク主義が、始めて其の本質を把握し実践し得たのであった。
彼は世界大戦の時には第ニインターナショナルの如く愛國主義から政府を支持し、1917年ソヴェート革命となり、彼は直ちに帰国したが、レーニン等と封立して、ソヴェー ト政府から排撃され、ロシアの未来が限りなく暗澹と予想される孤独の中に、当時獨軍の占領していた、フインランドにあって、痛ましい晩年の死を迎へたのであった。
五 ロシア革命
1904年日露戰争は勃發した。 日本が三國園干渉によって遼東半島を還附するや、ロシアは北満浦に鐵道敷設権を握り、更に旅順、大連の租借権を公然と奪取した。しかもロシアの魔手は愈々朝鮮にまで伸び、寵巌浦の租借を要求した。我極東の生命線、日本の運命はまさに危険の最大なるものであった。
われに対し50倍の國土、3倍の人口、5倍の兵力を有する世界最強の陸軍國に対し、今や國運を賭しても戰はねばらない。一刻遅れれば、それだけ危機は増大する。十年の臥薪嘗謄は、明治37年2月6日の國交断絶の宣言なった。
全世界は日本の減亡を予想した。時に欧洲の侵略は全アジアをまさに分割せんとする危 機にあった。白人に遂に全地球を完全に征服せんとするか? これぞ國運を賭した最後の 一大決戦であった。 日露戰争の意義を正しく認識し得ざるものは、眞の世界革命家ではあり得ない。
欧州大戰―ソヴェート革命―シベリヤ出兵―共産主義の范濫―満洲事變―支那事變― 張鼓峰事件―ノモンハン事件―これらは日露戦争より引かれたる、世界史変革の脈々として続くーつの糸である。
日露戰争によって、始めて有色人種は白人に対する勝利を示し、数世紀間、圧制と拘束の鐵鎖の中に植民地化され、奴隷化された、アジア民族の解故と、有色人種の全面的覚醒はこの日露戰争によってもたらされたのであって。
ここに20世紀の初頭、近代世界史はヨーロツッパ白色人種の世界史たることをやめ、眞の世界史の第一頁を繰りひろげた。実に日露戰争こそ白人侵略の最後の終曲であり、同時 に日本による世界人民解放の輝しき序曲であった。
然らばこの日露戰争にあって、ロシアの國内はいかなる変化をなしつつあったであらう うか。1904年日露戰争は、ロシア社会の内部的矛盾を俄かに大にし、この年の夏には、西部都市の失業労働者は、全労働者の50パーセントに上った。
かくて至るところ社会的不満は勃發し、内相プレーヴェは7月15日モスクワの大學生 - サゾーノフなる一青年に暗殺された。
このことはプレーヴェの自由主義に対する寛大なる懐柔政策の失敗なりとして、極度の 弾圧政策の断行となった。しかも社会的困窮はいよいよ激化し、今や厳冬の時期を迎へん として、生活は逼迫し遂に1905年1月9日ペテルブルグ市にプロレタリアートの示戚運動が行はれた。ペテルブルグの罷業労働者は実に14萬に上った。
時恰も東方日本は連戦連勝によって、攻勢愈々強化し、ロシア軍は連戰連敗の悲境にあった。このことはロシア国民の不滴を益々増大し、社会情勢は日に日に険悪を加へて行った。今や直接皇帝に直訴して労働者の苦痛と、その主張する正義を言上せんと決意するのであった。上奏文は各支部で読み上げられ、全労働者はこれに賛同し、1月9日、日曜日を期して人民の実情を訴へんとするのであった。
1月9日、その日は雪のチラチラ降る間から、時々にぶい太陽が冷たく人間の悲愴な顔を灰かに照らして広場は灰色の憂麗に閉ざれて、来るべき悲劇を予期するものの如く陰惨なる光景に満たされていた。
11部の支部は早朝から続々と冬宮の広場に進み、この労働者群れの中には、多数の學者、社会党員も参加した。
正午には一大群衆は広場を埋め、ロシア労働協会長ガーポン司祭は、ナルワ門より僧服の正装をなし、手に十宇架を捧げ、20萬の大群集の先頭に立って進んだ。 この時ペテルブルグの市中には、すでに戒厳令が布かれ、銃剣はきらめき、兵士は右横左横して、暗澹たる状態であった。
突如! 労働者の一群は軍隊によって冬宮に赴くことを妨げられ、彼等は遂に軍需工業を占拠し、檄文を撒布した。 いつのまにか、どこからともなく血の如き赤旗が翻っていた。
ああ!今やロシアの大軍隊はこの労働者の大群に向って轟然と發砲した。
白雪は黙々と眞紅の生々しき血潮に色彩られ、総て河の如く流れ出すのであった。累々 たる屍体は、黒々と冬宮の広場を埋めた。
この悲報一度び全國に飛ぶや、ロシア全土の労働者の反抗となり、ここに革命はもはや必至の如く見えるのであった。
ポーランド、コーカサスの國境には反乱が起きた。 戰闘艦ポテムキン号の乗組水兵は一撃に反軍と化し た。しかもロシア政府には日露戰争の敗報相次いで来り、ここにこの國内反乱を押へんために2月18日全國民に議会開催を誓約して、人心を懐柔せんとした。
これは一時ロシプの國内動乱を静め、レーニン派の革命運動は失敗に帰した。 しかもこれが挫折したのは日露戰争において、その休戰が成立したためであり、もしそ の東部戰線が持続されたならば、ロシア革命は1917年を待たずして、この時すでに断行されていたであらう。
六 共産ロシアの出現
プレハーノフと共に19世紀の最も困難な時代を、マルキシズムをもって闘争したものはレーニンであった。 彼は1900年12月ドイツのミユンヘンでロシア社会主義労働党中央委員の機開紙『イスクラ』(火花)を發刊、1903年プレハーノフと分離、彼はポルシェヴイキの主宰者とたり、常に國外にあって大衆を指導した。
かくて世界大戰が發展して、1917年2月ロシアにケレンスキーの革命勃發するや、ドイツ國内を通過し、同年12月ケレンスキーを排撃、ここにプロレタリア獨裁のソヴェート致府を樹立した。
カメーネフ、ジノヴイエフ、トロツキー等はこの革命の最大指導者であって、彼はその後、ソヴェート聯邦の確立に努力し、新経済政策を布き過労の為、1924年1月モスクワに近い、ゴールキ村で多難なるロシアを永久に去った。(ここに第三インターの危機始まる。)
彼の理諭は明快であり、『経験批判論』において彼の唯物弁償法哲學を確立し、『ロシア に於ける資木主義の發達』はその経済理論の基礎となり、彼は常に時代の現実に敏感であり、これが革命の成功をなした最大の理由であった。
レーニン死後、ソヴェート革命は、プロレタリア獨裁の20年間を経過し、その第一次、第二次、第三次五ケ年計画が發表され、レーニンの、農村電化トラクターの大量使用、大水力發電所、大運河等、プロレタリア社会建設が盛んに行はれつつある一方、 軍首脳部にあっては、異常なる内部分裂を深刻に実現するのであった。
今やロシアの中央委員は、トロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフ、スターリン、ルイコフ、ブハーリン等によって結成されたが、遂にトロツキーとスターリンの先鋭なる対立となり、1925年トロツキーはスターリン、ジノヴイェフ、カーメネフの三頭結束によって、赤軍の統制権を奪はれ、さらに1927年にはコミンテルン、及ロシア共産党中央委員から除名され、小アジアに流刑、29年遂にロシア本国を追放されて、諸外國を転々 放浪する苦悩の中に絶命した。
しかもトロツキーの赤軍編成時代以来の勢力は、牢固として容易に抜くことを得ず、反スターリン戰術が盛んに計画され、遂に1934年には大規模な反スターリン派のクーデターが断行されんとし、遂にその清掃のためにキーロフ條令が制定された。以来、ジノヴィエフ、カーメネフのソヴェートの元勲を銃殺し、これよりスターリンの棲愴たる粛清の嵐が全世界を驚倒せしめたのであった。
七 スターリンの方向
スターリンはトロツキー派の勢カを駆使する為に『世界革命主義』を否定し、ここにスターリン獨裁制を確立した。この間の幾多の粛清工作は、すべてマルクス・レーニン以来 の世界革命の方向に進まんとするトロツキー派に対するものであった。
東西の両正面作駿の主動者トハチェフスキー等を始めとする恐るべき大量の内的清掃は、すべスターリン獨裁のソヴェート確立のための犠牲であった。しかも今や赤軍の弱弱体化と内部抗争対立の激化は、日獨伊同盟の強化と共に東には支那赤化に失敗し、西にはドイツとの死闘によるスターリン戰の敗退となり、モスクワはドイツ軍の猛攻の前に最大の危機に直面しつつある。
赤軍は果してモスクワを死守し得るか。早くもスターリン遷都説が話題に上らんとす。
今次支那事變に於いて、ソ聯は支那においては民族解放、救國を名とする、赤化戰線を構成し、日本の大陸政策を帝國主義的侵略として排撃、一方英米ソの人民戦線的協力をもって、対日共同戰線を張り、ひそかに日本の消耗戦の深刻化を計り、さらにコミンテルンによる反國家的唯物赤化思想をもって、自由主義、民主主義と協力しつつ、我が日本の根本原理を破壊せんと策動するのであった。
しかもソ聯は植民地民族の非合理性を、プロレタリア的非合理性の中に塗り潰し、アジア文化圏の解体と侵略を敢行するのみならず、アジア文化の何ものたるやも知らずして、アジアの主体たらんとする欺瞞性を有し、今や却って英米の援助の陰に蠢動するのみになった。
しからば、このポルシェヴイズムは、如何にしてこれを根絶し、スターリン的変革獨裁の下に、ソ聯内部の封鎖によって世界情勢に対する盲目化に呻吟する農奴的ロシア人は、いかにしてこれを救うべきであろうか。
これに対しては、
1 ソ聯が極東に使用し得る兵力に相当するものを備へ、大陸兵備の完全と共に、全軍の補給に必要なる生産能力を大陸に保持する。
2 支那西北角における赤軍の徹底的清掃をなし、日本の進出は、シベリア・ロシアの中央部に対し、最も効果的なルートを開くこと。シベリアは本来アジア人のものであり、アジア・ロシアをしてアジア人のものたらしめる。
3 ソ聯内部の重大なる矛盾はロシアはそれ自体、広大なる農業生産國であるに拘らず、小数のプロレタリアートのために大部分の人民は悲惨なる圧迫の下に苦しみ、ロシア社会主義はロシア人の90パーセントを貧農とし、まさに一部の獨裁者と奴隷とによって組織されたロシア社会制の復活である。
しかもコミンテルンの唯物的反宗教政策は、ソ聯の反回教政策となり、これに対し、外蒙、シベリア、新疆、青海、中央アジア全般に亘る全回教徒を背後より支援し、猛然たる反共戰線を結成する。
しかもソ聯は、まさに迫りつつある世界戰争を契機として、一挙に世界赤化を決行せん とする、恐るべきコミンテルンの眞に世界破滅の暗躍に、今や全面的に方向を転換せんと しつつあるかに見らるるのである。
即ち戰争を通じて革命へ! 外戰をして内戰へ転ぜしめんとする。今や自らの最後の死 闘の前にあって、世界革命による復活を計らんとする。 しかも、共産ポルシェヴィズムとは近代西欧崩壊の最も大なる未期的現象であり、民主主義、個人主義、自由主義の西欧諸國は、遂にすべてこの赤化的徴候を示すを見る時、眞に世界平和のため、人道のために、共産ロシアを抹殺することこそ、我日本に與へられたる崇高なる使命である。
スターリンは何処に行くか? これは目下の彼の遷都問題よりも日本國民にとって重大でなけれぱならぬ。我々は英米ユダヤ金権の策動は、ソ聯を薬籠中のものとなし若し、今 日本が或地鮎に南進するとせば、日本兵力の分散による間隙地帯に、今尚500萬兵力を有する蒋介石を進出さすであらう。
ここに印度への方向を遮断されたソ聯は、死地回生の地を求めて東方に出口を求め、かくてコミンテルンの思想戦は、支那及日本内部に、英米的ユダヤの第五列と共に、赤化思想を蔓延し、日本内部の崩壊をはかるであらう。
この時日本にして寸隙たりとも彼等の乗する隙あらんか、米國の大艦隊はここに初めて、日本攻略の攻勢に出づるであらう。
この日本世界戦争の性格はかくて、四方両作戰の最大の危機の中に、日本國民の決意を要求しつつ展開されるを予感するのである。この為にこそ我々は一億一丸の燃ゆる如き決意を要求するのである。
しかも我々日本戰争為に最も必要なる物資を充足するために、物資の般も豊なる南方―佛印、蘭印、英印南洋諸島一帯に対する進展を、その戰略の根本方針よりして、絶対至上命令とするのである。