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日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

篁(たかむら) 東陽 著「東條英機と世界維新」第二篇 世界維新論 第五章 赤色ソ聯の興廃

2022-12-22 20:48:49 | 東條英機  



    (たかむら) 東陽 著「東條英機と世界維新」
 


  第二篇 世界維新論   
 
  
五章 赤色ソ聯の興廃  

一 獨ソ戦の動向
 
 ウクライナを平定してそのまま膠着していた獨ソ戦も、南はドン渡河に成功して今やロストフを陥れ、ここで愈々 コーカサス石油地帯へ突撃の第一歩に入った。 同時にモスクワ攻略を指す、ドイツ側最高責任者たるフオン・ポツク元師は、いまや25萬の精兵と、戰車の大集団を繰出し、中部のモスクワ包囲線は、北部カリーニンより、南部ツーラ、オガ河に至る戦線において、大進撃を開始したドイツ軍と、必死の抵抗を試みるソ聯軍との間に、目下空前の大激戦が展開されつつある。もしこの両市を陥れると、地上凍結の時機と相俟ち、モスクワ包囲も一段の進展を示すであらう。
  
 この時ベルリン電報は 「ドイツ政府は来る25日の防共協定第5周年記念日にあたり、ベルリンにおいて反共列国会議を開催する』と發表した。
 それは反共諸國のポルシェヴイズム打倒の確乎たる決意を世界に再闡明するための会議であるとされ、同会議に列席する各國代表は、いま相次いでベルリソに到着しつつある。 我々はここで獨伊側から見た『共産党のからくり。』なるものをまずゲッベルス宣伝相をして語らしめよう。


 『共産党は、賎民を煽動し、國民の暗き本能を刺戟して國家と國家の理想とに叛かせ、専ら政権の掌握につとめる。かれ等は時として他の政党と妥協するも、これは政見について
の妥協でなく、政権を壟断するための手段である。共産党と妥協する政党は猟場の狗である。狡兎盡て良狗煮らると同様に、一度目的を遂げて政権を手にすれば、共産党は昨日の友党を葬ることに何等の遠慮もない。
 今や西欧諸國の政治家は、所謂人民戰線の禍害を中和し得ると考へているが、世にこれほどたよりにならないものはない。共産党主義は 劣等漢の獨裁である。共産党は政見をとるまでは欺瞞をこととし、一度政権を得れば暴力によってこれを支持し、決してこれを離さうとはしない。共産党特意の壇場はブロパガンダである。

 彼らは虚言と阿謟により、共産党の眞相と目的とを隠蔽して各國民を陥れるのだ。共産党の父レーニンの公言するところによれば、欺瞞は許されたる手段であるのみならす、又最良の武器でもある。嘗てショペンハウエルはユダヤ人は、うつきの親玉であると言った。今日共産党とユダヤ人とが一つになっているのは毫も怪しむに足らぬ。共産党のプロパガンダは國際的であって且侵略的であり、その目的とするところは世界の赤化である。

 しかしモスクワ政権は、これがため惜しげもなく多額の資金をまき散らすが、その資金は皆ロシア國民を搾取して得たものである。共産党はこれにより各國における共産党を支持し、世界赤化の運動に従事せしめる。蓋し各國の共産党なるものは、モスクワコミンテルンの別動隊であって、モスクワの指令によって動くものである。

 各國の共産党は、豊富なる資金と一流なる宣伝により、共産主義の眞相を隠蔽し、ロシアの眞事情が自國に伝わるのを防止する任務を授けられている。何となればロシアの眞相を暴露することは、モスクワ政府の最も畏るゝところであるからだ。共産党の行く手には屍の山を築き、血と涙の川が流れている。彼等には人命の如きものは三文の値打ちもないものとされている。テロ、暗殺、暴行は共産主義革命にはつきもので、これによってロシアは成功した。

 凡そ共産党の政権を得るところ、そこには共産主義の実際と矛盾があるが、かれ等はそれには頓着しない。かれ等はただ単に機闘銃にものを言はせるだけである。そして他の方面では巧みな宣伝によって事実の相違を明かさない。共産主義者は相手をだましてその姿を見せない。しかも相手を取扱ふことが頗るうまい。

 例へばどこか大國の代表者がモスクワに来ると、地下鐵へ案内する。今の世界の大都市では地下鐵のないところはなく、敢て珍らしいものではないが、スターリン御自慢のものだけに来たものは感心する。

 次に盛んに歓迎会を催し、その國の國歌なぞを歌ってきかせると、一行はわけもなく嬉しくなって、今迄抱いていた共産主義の鍋害はどこへやらすっかり忘れ去り、忽ちロシア贔屓になる。恐らくモスクワでは、あとで腹をかゝへて笑ひ崩れていることであらう。

 更に特に一言せねばならぬのは、共産主義とユダヤ人との関係である。共産主義の源を開き、引きつづきこれを維持して来たものはユダヤ人である。ロシアでは以前の支配階級は皆一掃されてユダヤ人の獨り天下となった。

 そして共産党の争いなるものは畢竟するに ユダヤ人同志の内訌にすぎない。モスクワに於ける過般の公判も政権奪取のためにユダヤ人がユダヤ人を殺したまでである。世間ではユダヤ人は団結が強いといふが、これは大きな誤りで、ユダヤ人は互に排斥をこととする徒輩で、団結が強さうに見へるのは他國に流寓している時だけで、政権を握り天下を自由になし得る時が来れば忽ちに仲間割れをなすこと、ロシアの現状が序実にこれを証明している。  

 共産主義の目的は、人類の道徳文化を破壊し、総ての國を滅亡へと陥れんとするにある が、かくの如きも亦ユダヤ人の頭でなければ考へ出せない。共産党の実際に行ふところは 惨忍を極めているが、これはユダヤ人でなければ出来ない芸当である。
 しかも西欧にいるユダヤ人は、口を拭ふて世を欺き、共産党の横行などは夢にも知らぬような顔をする。共産党のプロ・ハガンダは相手によって術が変わる。即ち或るときはラヂカルであり、或る時は中正であり全く相手次第である。

 或る時は宗教を崇ふが如く、ある時は神などを馬鹿にする。何れもその時の都合によるのであって、目的の前には手段を選ばない。かれ等には各國に聯絡のある巧妙な中央機関があって、ポタンーつ押せば世界の共産党を?動員し得るのである。モスクワの指令を奉ずる共産党を有する國こそ災難だ。いつかは共産主義に蝕まれて倒壌するに至るであらう。』

 ルーマニヤ駐在ソ聯公使テオドロ・ブランコは、ソ聯政府の逮捕からのがれてローマに逃げこみ、現実のソ聯を暴露した手記をジョルナール・デ・イタリア紙上に發表して曰く

『「ソ聯には人類史上未曾有の兇悪なる奴隷制度がある。個人の自由と意思とは銃火の威嚇 の下に奪はれて、農民の意志は全くコルホーズ制度で、手かせ足かせをかけられている。土地も個人の所有権は喪失し、産業の各部門に於て、人々は全く鐵の答に恐怖に戦いながら馬車馬のように督励され、単なるバイオーク(労働能率)のために哀れな存在に過ぎない。
 學理的には意見正しく見える社会主義は、ソ聯に於ては餘にも残酷なる資本主義の形態となって実践されている。


 しかもその支配階級は百パーセントユダヤ入である。大工場、事務局、軍需工場、鐵道、大小工業の総てはユダヤ人の掌中にある。かくてかれ等の妻子は素敵な自動車を乗り廻はし、豪著な邸宅に住み、夏はクリミヤ、コーカサスの最上の療養地で暮し、アストラカンを着て、宝石をちりばめた金指環腕環をつけ、まるでパリジェンヌのやうである。


 しかるに労働者はーケ月400乃至500ループルの賃金であり、粗末なスリッパはー足は200乃至250ルーブルであり、最も廉い食が6乃至8ルーブルだ。


 しかしユダヤ共産主義の鐵則は、労働者に何等の事情をも知らせず、現制度下に盲目たらしめることに狂奔し、労働時間外時間も缶詰主義をとっている予の知れる労働者はこれがために尚も将来に於てかれ等の生活が好転することを空頼みにして、馬鹿になりきっているものもある。
5年も7年も同じものを着、肉は贅沢品として買へず、酒は殆んど飲めない。
 
 しかもソ聯の指導者はいふ。ソ聯以外の國に自由はなく、諸外國民皆ソ聯に入國したがっている」と。何たるでたらめであらう。
 スターリンは科學工業航室兵器重工業の中心をモスクワ、レニングラード、シべリヤ、ウラル極東國境、ハバロフスク、コムソモルスク等に集中した。かくてウクライナはその点モスクワの植民地たるに甘んぜなければならなくなった。といふのは、ウクライナの民は、古き伝統を失はず、ウクライナ國民運動を持続しているからでむる。かくてウクライナの数萬の民は、この理由で殺戮され投獄された。しかもポルシェヴキは云ふ。ソ聯こそはデモクラシーの理想境であると。何たる皮肉であらう。
 
 ソ聯にはかかる不合理に批判のメスを加へるただ一つの新聞も雑誌もない。反スターリンの聲が口から出た瞬間、その人の前に地獄の門は開かれるものと見なければならぬ。ス ターリンの指示する方向からーミリでも間違った人間は學者でも技術家でも捕縛される。

 幾千の科學者、工場技師がこの世から姿を消した。内政問題の犠牲者だけでも数千に上 る。外交官の犠牲も数へきれない。軍部においてもトハチェフスキー、ガマルニック将軍などの銑殺されたのに顕著な実例だ。かかる裁判に於ては、唯一人としてこれに異存を唱へ弁明する人はない。國家を裏切った罪によるとの一條が数萬の法令を超越し、幾萬の習慣を抹殺するのだ。

 予は結論する。ソ聯は現代國家から脱落した変態國であると。眞の野蛮國の眞相がソ聯にある。予はソ聯に育ち、これを見、これを知った。今確実に我良心の名において宣言する。社会主義のイデオロギーは嘘八百であると。』
  
 
 今やスターリン戰破れて、モスクワの危機は迫りつつある。スターリンは大きな誤算を した。去る5月から6月にかけ、獨軍が続々獨ソ國境に500萬の大軍を終結しつつあった 時、モスクワでは、獨ソ不可侵條約締結の時の如く、リッペントロップ外相が、ドイツの要求を携へてのロシアへの訪問が伝へられ、モスクワはその歓迎の準備をなしつつあったと伝へられる。

 スターリンは獨軍集結をもってヒツトラー一流の脅しの手であり要求を貰徹するための威嚇としか考へなかった。 かくて当然なされるであらうドイツの要求を感知して自ら首相となって対独外交の矢面に立たんとした。しかもこの時ヒツトラーは何等の要求も出さず、ドイツ國民すら半信半疑の中に突如ソ聯領に嵐の如く殺到したのであった。
 スターリン老いたり!

 しかもこの対外危機にあって、國内の内的矛盾は、暗澹たるものがあり、スクーリン政権はかの蒋介石の如く崩壊せんとする危機にある。
 この苦悩と戦火の中より新たなるロシアが生れて来なければならない。われ等は手に汗握り、固唾をのみながら、獨ソ戦争の成行を注目し つつ、ここにしばらくロシアの歴史の跡を概観して見よう。
 或はそこには次に来るべき声の大いなる暗示が見出されるやも知れない。

 

二 人民の自由のために      

 旧ロシア帝國は、内部に大きな病患を内蔵せしめつつ、単にそれを強力に抑圧し乍ら、外部に發展膨張せし大社会であった。 ロシアの中心をなす東スラヴ民族は、太古、力ルパチヤ山の東北麓に住んでいたアジア民族であり、彼等は東北に移住して、ドニエプル流域の森林地帯に移住し、毛皮、蜂蜜等をもって生活の条件とした。

 古代のスラヴ民族は、遊放の民であり、地方自治村落(オプシチーナ)が組織され、それ等の諸村落からの代表が集って会議する機関ウェーチェなるものが形成されていた。かくしてそれは大なる自治部ウオーロスチをもって一大自治社会が存在して、それが永続したのがロシア農村時代の姿であった。

 しかれどもこれを強力に統治するロシア帝國がリユリツク(リユーリク)により始められ、 987年ウラヂーミル帝は東ローマのギリシャ正教を入れてこれを統一の原理となし、ロシア國教に制定したが、これとともに所謂農奴制が形成されるのであった。

 1206年突如アジアの嵐となって疾風の如く西進した成吉思汗は、今日のソヴェート・ロシアたる阿羅思(オロス)へ侵入し、キプチヤク汗國を建ててそれより約270餘年、蒙古族の支配下にあった。

 かくてその軍事的政治的継承により、ここにロシアは強大となるのであった。 16世紀後半より、ロシアの農奴制は殊に酷烈となり、農民は苦悩の餘り盛んに脱走するや、1606年これを抑制する為に法令を出し、農民の自由民たるを認めす、農民は永久に農民たることを規定して逃走の刑罰を定めた。


 かくて農奴制は、1796年小アジアー帯からドン州、コーカサスに及んで農村の苦悩 は極度に達し、ドソ河、ヴオルガ河地方にあって、農村の反乱は『人民の自由のために!』を叫んで、コサツクの首領ステパン・ラーヂンによって蜂起し、モスクワ政府に反発を翻すにいたった。


 しかもステハン・ラーヂンは、時にモスクワの防禦固きを知るや、南下してコーカサス ー帯を征服、更に進んでトルコからペルシヤに及んだが、この時捕虜とせるペルシヤの王女の美貌に迷ひ、彼はその雄図空しく遂にベルシヤを征服せずして帰るのであった。

 ロシアそのものの象徴たるヴオルガ河、『ロシアの母』なるその名にふさはしく広く、 大きく、そして静かなるヴオルガ河、穏やかな流れにのって『ヴオルガの船唄』 の悠長なるメロデイーが、夢の如く、涯しなく郷愁をのせてつづくあたり、いま数十艘の河船を浮べ、ラーヂンが正に宿願のモスクワに進撃せんとする前夜であった。 

 ラーヂンは部下の兵が、『我首領はベルシヤ王女の美に迷ひてすでに戰意を喪失せり』と 私語するを聞くや、ここに憤然と、彼が傍らなる美しき王女を、途に大河の中に投げ入れるのであった。これにより部下の士気は大いに擧り、シムビルスク市で政府軍と激突、ラージンの大軍は遂に利あらず大敗した。

 かくて彼は裏切り者の手によって政府に渡され、モスクワに於いて焚刑に処せられるのであった。 彼の死後百年聞は、何らの大反乱もなく、農民はただ逃亡に次ぐ逃亡をなすのみであった。ペートル大帝立つや、彼は西欧主義を全面的に採用しロシアは全く近代西洋國家に転化した。

 しかも、ロシア農民社会の統制は益々強大を加へ、忍びに忍んだ農民は、再びブガチョフの乱に動揺したが、彼も亦捕へられてモスクワで四つ裂の死刑に処せられた。プーシキンの小設『土官の娘』の中には、この時代の彼の片影が、詩人の非凡なる手によって生きるが如く描写されている。

  

三 農奴解放 
 19世紀初頭ニコライー世は、その即位の初めに帝政排撃の12月党事件起るや、彼の 圧制は極度の酷烈さを加へていった。彼は秘密探偵政策を縦横に用い、この秘密政治は『空色の制服』として恐怖された。 当時、すでにインテリゲンチャの社会運動は活發となり、西欧派とスラヴ派の対立が激化された。 モスクワの西欧派には哲學的ロマン主義派なるスタンケウイチ派と、サン・シモン主義なるゲルツェン派とがあった。

 殊に1829年以来モスクワ大學で世界歴史の講義を占めたグラノフスキーはこの派の指導理論家であり、親友には詩人オガリョーク、文率者ツルゲーネフもこれに属していた。

 
 この団体に関してゲルツエンは『我々の中のある者は大學の講座を担当し、ある者は論文を書き、ある者は新聞を發行し、ある者は捕縛され、休職され、追放されるものが屡々であった。しかもかくも教養に富み才能を有する純潔な団体をその後に見たことがない。極めて迅速に我々は思想や ニユースや知識の交換をなした。会員はすべて自分の読んだ思想や、学んだ知識を発表した。
 かくて会員の一人の考へ出したことは、全会員の共有となった。學界にあっても、文壇 にあっても、芸術界にあっても、我々の中の何人かが知らぬ現象はなかった。そして一切の現象は忽ち全会員に伝へられた。』

 この雰囲気の中からゴーゴリは生れ、それ以後のロシア文壇の大作が創造されるのであった。 かくてツルゲーネフの『狂人日記』は、1850年に農奴解放のために書かれ、異常なる感動を全ロシアに與へた。
 
 またゴンチヤロフの『オプローモフ』は57年に出で、当時の地主的インテリゲンチャの日常性を暴露しその他の文學思想は、ロシアの社会問題を切実に分析し、その苦悩の直現であった。

  農民が地主の邸宅を焼打する事件、主人を殺害する農奴の事件、等は刻々と激發し、1836年から5年の間地主殺害未遂事件は75件、殺害は144件に上った。 かのドストエフスキーの最大傑作『カラマゾフの兄弟』も実にこの事件に手材せるものであり、實に19世紀末のロシアの眞相であり、これは来るべきロシア革命の必然性を示すのであった。
 
 しかもこの小説は他面西洋文明の腐敗の徹底的暴露であり、時代の悪魔の書であり、かくて彼は一切のものを全否定するのであった。現実の世界も、西洋文明も社会も歴史も、人間も恋愛も、ここにトルストの『復活』において酉洋をすてて遠く東方シベリヤに救ひを求める如く、彼も亦西洋文明の没落を力強く断言し、そして東方よりの新しきものの出現現を奇跡的に要望するのみであった。

 かくて19世紀最大の作家は共に、西洋文明を痛烈に否定しつつ、アジアの黎明を心から求めて、空しくシベリヤの曠野に彷徨しつつ逝くのであった。

 ここにインテリゲンチヤに対する圧迫は酷烈となり、農奴解放の最大指導者ゲルツエンンは追放され、ツルゲーネフまたパリーに逃れ、かくて『ルージン』『パザロフ』等の典型的インテリゲンチャの生活苦悶を摘出するのであった。
  
 欧州各地を放浪、ロシア農奴解放を絶叫したゲルツェンは、フランスの歴史家ミシユレーに送った手紙の中にかう書いている。
『ヨーロッパ文明は今や社会主義によって自己否定に到達した。吾々ロシア人(インテリゲンチャ)は西歌文明を通過して来た。われわれは媒介者であり、醗酵素でありロシアプ國民と、革命されんとするヨーロッパとの間の媒介者である。而してロシアに於ける将来の人間は農民である。それはフランスに於ける将来の人間が労働である如くに』
  
  
 かくて彼は西欧の諸都市文明に幻滅して  
『いづくに行くも退屈だ。パリーでは楽しさに退屈する。ロンドンでは安全に、ローマでは壮麗に、マドリツドには窒息する如き退屈があり、ウイーンには退屈が窒息する。』
 
    

  彼は實に本来のスラヴ的なロマン的農民主義者であった。ここに我々は共産主義は新しき文化の一運動かのごとき錯覚を人々に與へるのであるが、これは即ち西洋個人主義のロシアに於ける末期的發展であり、自由主義、民主主義の変形に過ぎす、これをユダヤ人的科學主義によって擬装するも、それはユダヤ人の世界的制覇を確立せんとする陰謀に外ならず、ここに共産主義の誤謬と限界を明確に示すを見るのである。


四 マルクス主義の發達 
 マルクス主義は近代西欧経済獨裁における内的矛盾の自己暴露であり、それは西洋近代社会及び文化の内面的批判と否定となってあらわれ、その限りこの思想は甚だ力強い 破壊作用を示すのであった。

 かくして表面、甚だ高度の如くして難解に見えた西洋思想、西洋文明も、これを背後(裏)から見ることによって、眞の本質がその地盤より暴露され、ここに全世界の前にその限界を明確に把捉せしむるのであった。
 
 しかもレーニン主義と言はれるものは、末期西欧金融獨占における、その必然的崩壊の行動であり、資本主義的世界大戦によって、マルクス主義はレーニン哲學への現實的組織化をもち、第三インターナショナルは、プロレタリアートの獨裁國家、ソヴイェト・ロシアを獲得し、かくて 近代西欧の崩壊は、ロシア・マルクス主義によって実践され破壊されたのであった。

 さて、ロシアに厳冬の如きニコライー世の恐怖政治が去ると、春の柔かき日の如き、 アレキサンドル二世の温情主義の時代がやって来た。帝はすでにツルゲネフの『猟人日記』等に深く感動し、自由思想の弾圧を緩和し、遂に1861年2月即位一週年記念日に、奴隷制度変更に関する宣言を發表し、解放された農民に関する法令を出した。

  が、農奴解放は名のみにて、農民の幻滅は甚しかった。 時に1866年4月アレキサンドル二世がネワ河畔のレートニイ・サード(夏の庭園)を逍遥して、各宮に帰らんとする時であった。カラコーゾフは帝を狙撃せんとしていままさにピストルの引金に手をかけた瞬間、傍の百姓が反射的に彼の右手を打ち、ピストルは發せられたが銃丸は外れて帝は危難をまぬがれたが、これ以来、彼の温情主義は一変して、猛烈なる弾圧政治となり、言論はすべ抑圧されるのであった。

 社会思想を抱いていたインテリゲンチャは、殆んど海外に亡命した。
 第一インターナショナル派のバクーニンも、チューリツヒにあって、アナーキズムをもって『民衆の中へ!』と強張した。
 
  彼ははじめマルクスの指導する『國際労働組合』に加入したが、マルクスのプロ レタリアート獨裁に反して、農村を基礎とし、両者の間に激しい闘争がつづけられた。
 遂に第一インターナショナル派は分裂し、バクーニン派の中から出でたアナーキズムの最大の指導者クロポトキンは、青年層の中に最大の力を有っていたが、彼は、バクーニンの否定的破壊主義に反して、相互互扶助による共産社会の建設を求めるのであった。
 
  
  また、バクーニン派からマルクス主義に転向したブレハーノフはロシア・マルキシズムの父と言はれ、『労働解放団」を組織し、1870年代以後、ロシア社会運動において彼の 指導は驚くべく強力であった。19世紀の80年代に於いて、ロシアの資本主義は大いに發展し、そのため各工場には 大規模なストライキが頻發し、その嵐の如き労働大衆の叫びを統一したのは若きマルキ スト時代のプレハーノフの姿であった。
 
 彼はロシアに於けるブロレタリアートを正しく認識した。彼の業蹟は、彼のこの透徹し た理論研究によるものであり、幼稚なロシアの社会理論に、弁証法的基礎づけをなすとこによって、ロシアのマルスク主義が、始めて其の本質を把握し実践し得たのであった。

  彼は世界大戦の時には第ニインターナショナルの如く愛國主義から政府を支持し、1917年ソヴェート革命となり、彼は直ちに帰国したが、レーニン等と封立して、ソヴェー ト政府から排撃され、ロシアの未来が限りなく暗澹と予想される孤独の中に、当時獨軍の
占領していた、フインランドにあって、痛ましい晩年の死を迎へたのであった。
 

五 ロシア革命    
 1904年日露戰争は勃發した。 日本が三國園干渉によって遼東半島を還附するや、ロシアは北満浦に鐵道敷設権を握り、更に旅順、大連の租借権を公然と奪取した。しかもロシアの魔手は愈々朝鮮にまで伸び、寵巌浦の租借を要求した。我極東の生命線、日本の運命はまさに危険の最大なるものであった。
 われに対し50倍の國土、3倍の人口、5倍の兵力を有する世界最強の陸軍國に対し、今や國運を賭しても戰はねばらない。一刻遅れれば、それだけ危機は増大する。十年の臥薪嘗謄は、明治37年2月6日の國交断絶の宣言なった。


  全世界は日本の減亡を予想した。時に欧洲の侵略は全アジアをまさに分割せんとする危 機にあった。白人に遂に全地球を完全に征服せんとするか? これぞ國運を賭した最後の 一大決戦であった。 日露戰争の意義を正しく認識し得ざるものは、眞の世界革命家ではあり得ない。
  
 欧州大戰―ソヴェート革命―シベリヤ出兵―共産主義の范濫―満洲事變―支那事變― 張鼓峰事件―ノモンハン事件―これらは日露戦争より引かれたる、世界史変革の脈々として続くーつの糸である。
 
 日露戰争によって、始めて有色人種は白人に対する勝利を示し、数世紀間、圧制と拘束の鐵鎖の中に植民地化され、奴隷化された、アジア民族の解故と、有色人種の全面的覚醒はこの日露戰争によってもたらされたのであって。

 ここに20世紀の初頭、近代世界史はヨーロツッパ白色人種の世界史たることをやめ、眞の世界史の第一頁を繰りひろげた。実に日露戰争こそ白人侵略の最後の終曲であり、同時 に日本による世界人民解放の輝しき序曲であった。



  然らばこの日露戰争にあって、ロシアの國内はいかなる変化をなしつつあったであらう うか。1904年日露戰争は、ロシア社会の内部的矛盾を俄かに大にし、この年の夏には、西部都市の失業労働者は、全労働者の50パーセントに上った。


  かくて至るところ社会的不満は勃發し、内相プレーヴェは7月15日モスクワの大學生 - サゾーノフなる一青年に暗殺された。

 このことはプレーヴェの自由主義に対する寛大なる懐柔政策の失敗なりとして、極度の 弾圧政策の断行となった。しかも社会的困窮はいよいよ激化し、今や厳冬の時期を迎へん として、生活は逼迫し遂に1905年1月9日ペテルブルグ市にプロレタリアートの示戚運動が行はれた。ペテルブルグの罷業労働者は実に14萬に上った。

 時恰も東方日本は連戦連勝によって、攻勢愈々強化し、ロシア軍は連戰連敗の悲境にあった。このことはロシア国民の不滴を益々増大し、社会情勢は日に日に険悪を加へて行った。今や直接皇帝に直訴して労働者の苦痛と、その主張する正義を言上せんと決意するのであった。上奏文は各支部で読み上げられ、全労働者はこれに賛同し、1月9日、日曜日を期して人民の実情を訴へんとするのであった。


  1月9日、その日は雪のチラチラ降る間から、時々にぶい太陽が冷たく人間の悲愴な顔を灰かに照らして広場は灰色の憂麗に閉ざれて、来るべき悲劇を予期するものの如く陰惨なる光景に満たされていた。

  11部の支部は早朝から続々と冬宮の広場に進み、この労働者群れの中には、多数の學者、社会党員も参加した。

 正午には一大群衆は広場を埋め、ロシア労働協会長ガーポン司祭は、ナルワ門より僧服の正装をなし、手に十宇架を捧げ、20萬の大群集の先頭に立って進んだ。 この時ペテルブルグの市中には、すでに戒厳令が布かれ、銃剣はきらめき、兵士は右横左横して、暗澹たる状態であった。
 突如! 労働者の一群は軍隊によって冬宮に赴くことを妨げられ、彼等は遂に軍需工業を占拠し、檄文を撒布した。 いつのまにか、どこからともなく血の如き赤旗が翻っていた。

 ああ!今やロシアの大軍隊はこの労働者の大群に向って轟然と發砲した。
白雪は黙々と眞紅の生々しき血潮に色彩られ、総て河の如く流れ出すのであった。累々 たる屍体は、黒々と冬宮の広場を埋めた。
 この悲報一度び全國に飛ぶや、ロシア全土の労働者の反抗となり、ここに革命はもはや必至の如く見えるのであった。

 ポーランド、コーカサスの國境には反乱が起きた。 戰闘艦ポテムキン号の乗組水兵は一撃に反軍と化し た。しかもロシア政府には日露戰争の敗報相次いで来り、ここにこの國内反乱を押へんために2月18日全國民に議会開催を誓約して、人心を懐柔せんとした。

 これは一時ロシプの國内動乱を静め、レーニン派の革命運動は失敗に帰した。 しかもこれが挫折したのは日露戰争において、その休戰が成立したためであり、もしそ の東部戰線が持続されたならば、ロシア革命は1917年を待たずして、この時すでに断行されていたであらう。

 

六 共産ロシアの出現  
 プレハーノフと共に19世紀の最も困難な時代を、マルキシズムをもって闘争したものはレーニンであった。 彼は1900年12月ドイツのミユンヘンでロシア社会主義労働党中央委員の機開紙『イスクラ』(火花)を發刊、1903年プレハーノフと分離、彼はポルシェヴイキの主宰者とたり、常に國外にあって大衆を指導した。

 かくて世界大戰が發展して、1917年2月ロシアにケレンスキーの革命勃發するや、ドイツ國内を通過し、同年12月ケレンスキーを排撃、ここにプロレタリア獨裁のソヴェート致府を樹立した。

 カメーネフ、ジノヴイエフ、トロツキー等はこの革命の最大指導者であって、彼はその後、ソヴェート聯邦の確立に努力し、新経済政策を布き過労の為、1924年1月モスクワに近い、ゴールキ村で多難なるロシアを永久に去った。(ここに第三インターの危機始まる。)  


 彼の理諭は明快であり、『経験批判論』において彼の唯物弁償法哲學を確立し、『ロシア に於ける資木主義の發達』はその経済理論の基礎となり、彼は常に時代の現実に敏感であり、これが革命の成功をなした最大の理由であった。

 レーニン死後、ソヴェート革命は、プロレタリア獨裁の20年間を経過し、その第一次、第二次、第三次五ケ年計画が發表され、レーニンの、農村電化トラクターの大量使用、大水力發電所、大運河等、プロレタリア社会建設が盛んに行はれつつある一方、 軍首脳部にあっては、異常なる内部分裂を深刻に実現するのであった。


 今やロシアの中央委員は、トロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフ、スターリン、ルイコフ、ブハーリン等によって結成されたが、遂にトロツキーとスターリンの先鋭なる対立となり、1925年トロツキーはスターリン、ジノヴイェフ、カーメネフの三頭結束によって、赤軍の統制権を奪はれ、さらに1927年にはコミンテルン、及ロシア共産党中央委員から除名され、小アジアに流刑、29年遂にロシア本国を追放されて、諸外國を転々 放浪する苦悩の中に絶命した。
 

 しかもトロツキーの赤軍編成時代以来の勢力は、牢固として容易に抜くことを得ず、反スターリン戰術が盛んに計画され、遂に1934年には大規模な反スターリン派のクーデターが断行されんとし、遂にその清掃のためにキーロフ條令が制定された。以来、ジノヴィエフ、カーメネフのソヴェートの元勲を銃殺し、これよりスターリンの棲愴たる粛清の嵐が全世界を驚倒せしめたのであった。  


七 スターリンの方向  
 スターリンはトロツキー派の勢カを駆使する為に『世界革命主義』を否定し、ここにスターリン獨裁制を確立した。この間の幾多の粛清工作は、すべてマルクス・レーニン以来 の世界革命の方向に進まんとするトロツキー派に対するものであった。
 東西の両正面作駿の主動者トハチェフスキー等を始めとする恐るべき大量の内的清掃は、すべスターリン獨裁のソヴェート確立のための犠牲であった。しかも今や赤軍の弱弱体化と内部抗争対立の激化は、日獨伊同盟の強化と共に東には支那赤化に失敗し、西にはドイツとの死闘によるスターリン戰の敗退となり、モスクワはドイツ軍の猛攻の前に最大の危機に直面しつつある。
 赤軍は果してモスクワを死守し得るか。早くもスターリン遷都説が話題に上らんとす。

 今次支那事變に於いて、ソ聯は支那においては民族解放、救國を名とする、赤化戰線を構成し、日本の大陸政策を帝國主義的侵略として排撃、一方英米ソの人民戦線的協力をもって、対日共同戰線を張り、ひそかに日本の消耗戦の深刻化を計り、さらにコミンテルンによる反國家的唯物赤化思想をもって、自由主義、民主主義と協力しつつ、我が日本の根本原理を破壊せんと策動するのであった。 

 しかもソ聯は植民地民族の非合理性を、プロレタリア的非合理性の中に塗り潰し、アジア文化圏の解体と侵略を敢行するのみならず、アジア文化の何ものたるやも知らずして、アジアの主体たらんとする欺瞞性を有し、今や却って英米の援助の陰に蠢動するのみになった。

 しからば、このポルシェヴイズムは、如何にしてこれを根絶し、スターリン的変革獨裁の下に、ソ聯内部の封鎖によって世界情勢に対する盲目化に呻吟する農奴的ロシア人は、いかにしてこれを救うべきであろうか。 

これに対しては、
1 ソ聯が極東に使用し得る兵力に相当するものを備へ、大陸兵備の完全と共に、全軍の補給に必要なる生産能力を大陸に保持する。

2 支那西北角における赤軍の徹底的清掃をなし、日本の進出は、シベリア・ロシアの中央部に対し、最も効果的なルートを開くこと。シベリアは本来アジア人のものであり、アジア・ロシアをしてアジア人のものたらしめる。

 
3 ソ聯内部の重大なる矛盾はロシアはそれ自体、広大なる農業生産國であるに拘らず、小数のプロレタリアートのために大部分の人民は悲惨なる圧迫の下に苦しみ、ロシア社会主義はロシア人の90パーセントを貧農とし、まさに一部の獨裁者と奴隷とによって組織されたロシア社会制の復活である。
 しかもコミンテルンの唯物的反宗教政策は、ソ聯の反回教政策となり、これに対し、外蒙、シベリア、新疆、青海、中央アジア全般に亘る全回教徒を背後より支援し、猛然たる反共戰線を結成する。

 しかもソ聯は、まさに迫りつつある世界戰争を契機として、一挙に世界赤化を決行せん とする、恐るべきコミンテルンの眞に世界破滅の暗躍に、今や全面的に方向を転換せんと しつつあるかに見らるるのである。

 即ち戰争を通じて革命へ! 外戰をして内戰へ転ぜしめんとする。今や自らの最後の死 闘の前にあって、世界革命による復活を計らんとする。 しかも、共産ポルシェヴィズムとは近代西欧崩壊の最も大なる未期的現象であり、民主主義、個人主義、自由主義の西欧諸國は、遂にすべてこの赤化的徴候を示すを見る時、眞に世界平和のため、人道のために、共産ロシアを抹殺することこそ、我日本に與へられたる崇高なる使命である。
 
  スターリンは何処に行くか? これは目下の彼の遷都問題よりも日本國民にとって重大でなけれぱならぬ。我々は英米ユダヤ金権の策動は、ソ聯を薬籠中のものとなし若し、今 日本が或地鮎に南進するとせば、日本兵力の分散による間隙地帯に、今尚500萬兵力を有する蒋介石を進出さすであらう。

 ここに印度への方向を遮断されたソ聯は、死地回生の地を求めて東方に出口を求め、かくてコミンテルンの思想戦は、支那及日本内部に、英米的ユダヤの第五列と共に、赤化思想を蔓延し、日本内部の崩壊をはかるであらう。


 この時日本にして寸隙たりとも彼等の乗する隙あらんか、米國の大艦隊はここに初めて、日本攻略の攻勢に出づるであらう。

 この日本世界戦争の性格はかくて、四方両作戰の最大の危機の中に、日本國民の決意を要求しつつ展開されるを予感するのである。この為にこそ我々は一億一丸の燃ゆる如き決意を要求するのである。
 しかも我々日本戰争為に最も必要なる物資を充足するために、物資の般も豊なる南方―佛印、蘭印、英印南洋諸島一帯に対する進展を、その戰略の根本方針よりして、絶対至上命令とするのである。

 


篁(たかむら)東陽 著「東條英機と世界維新」第四章 アメリカの挑戦(下) 

2022-12-20 10:03:09 | 東條英機  



    (たかむら) 東陽 著「東條英機と世界維新」
 


  第二篇 世界維新論  

 
   第四章 アメリカの挑戦 (下)

   

七 アメリ力のユダヤ化とその正体 
 『我寿はすでに全アメリカの出版を支配し、影響を與へている』これはニユーョークのあるユダヤ人の言葉である。現代に於ける最後の非ユダヤ的的新聞王であつたハースト・コ ンツェルンは、今日ではユダヤ人の為に完全に解体せんとしている時、我々はユダヤ人の 謀略がいまアメリカに於いては完全に実現されて居るのを知るのである。

 現在書籍出版界、ニユーョークの全劇場もユダヤ人の掌握しているところであり、尚、ラジオ放迭局、音楽界の興業元、劇場、俳優組合事務所、大學講師の98パーセントがユダヤ人であり、銀行界、産業界、商業界を支配しているユダヤ人の名を擧げることは無用な程である。 

 合衆固の聯邦調査局は最近次の事を發表した。『アメリカ合衆國に於ては9分毎に掠奪が、2分毎に押込みが行はれ、2分毎に自動車が 盗まれ、40分毎に殺人が、40秒毎に窃盗が行われる。強奪による損失額は年に約6億マークに達する。法律違反は甚だしく、之に要する合衆國の費用は毎妙1000マークに及ぶ。』と。
 
 
 またこのユダヤ世界都市が道徳的に腐敗している事を示す『堕落の花園』を一見しよう。
 『大体に於てこの魔窟には合衆國の凡ゆる地方から集めて来た約3000人の娼婦達がいた。
マンハツタン区、及びブルツクリン区にある約200の娼家で娼婦達は、毎日12時問(午前11時から夜中の3時迄の間)毎週に6日間働かされ、各々週に150ドル乃至300ドル稼がねぱならない。しかも、この金額の五分の四は上前としてはねられ、結局娼婦達は、週に僅か30ドル位受け取るだけである。其の上彼女等は1日に2回はびっくりする程高い食事を娼家でとらせられ、巻き上げられる一方である。結局彼女等の手に渡る金では生活を続けてゆく事は出来ないのである。

しかもこの魔窟から首領(ユダヤ人 幹部連中)が受けとる金額は年に約24,000,000ドルに上ると見られている。ま た娼婦達は事があった場合警察の圧迫、干渉から逃れる為に、彼女達はギャングの裁判所会計課に弁護士料を払ひ込んで置かねばならぬ。そして事が起ればユダヤ人弁護士は被告を無罪にする為に活動を開始するのである。』
  これがアメリカ文明の頂点たる、然も之は法律で売淫を禁止して居るニューヨークで行はれているのである。1908年当時の警視総監ゼネラル・ビンガムは『此の都市の犯罪者の50パーセント はユダヤ人である』と明言した。
 

 今日、ニューヨークは実に世界の政治、経済、金融、通信、文化、百般の中枢であり、 世界の重要な出来事に対する好悪、賛否はこの都市で製作されて世界に宣傳されるのである。いまこの世界動乱に際して世界はあたかもアメリカが凡ての決定権を持つが如くに喋々する。

 しかもこのアメリカを動かすものこそ実に偉大なるユダヤの金権政治力であり、日々の金融市場を決定し、幾多の人命を一夜にして悶死せしめ地球全土に亙る戰争と暴動とを企画しつつあるニューヨーク、今日このユダヤの実体を捉へずして、アメリカ問題の解明も、『世界はどうなる?』と騒ぎ廻るのは迂遠も甚だしいといはねばならない。

 ルーズヴェルト自身フリーメーソンの最高の位たる第三三階級であり、彼をめぐるユダヤ勢力は、完全に大統領を支配し、かくてルーズヴェルトはアメリカ國民の福祉のためよ りも、ユダヤ金権の傀儡となってその代弁者となりつつあるのである。


 大統領の側近者たる某ユダヤ人は、米國の非ユダヤ系市民に対して放言して曰く。

 『謂ゆる言論の自由なるものが、若し我々の適当と思って行ふことを批判乃至戒告するに於ては、諸君には最早言論の自由なるものはなくなるであらう。
 我々 は凡ゆる批判、不正 利得の告發、公的私的の慮待の上に君臨するであらう。
 我々の支配力は、今や諸君の言論機関、演劇、映画、ラジオ其の他の全般に及んでいる。諸君の公表機闘を巧みに左右し、諸君の聯邦準備銀行の支配者として我々の代理人を置くが故に、諸君の全金融組織の完全なる猫占をなし得る地位にある我々は、今後あらゆる法律の上にあって、侵すべからざる民族と考へられるであらう。

 我々の命令に順応せざる時は、我々の思ふがままの経済的苦痛を與へしめる力を有する、現に我々の下僕を諸君の大統領の側近者として、我々の専制力の依って立つ現行制度を危険に瀕せしめる如きことは些も行はざるやう監視させることすら出来るのだ。我々はこの國土をして公けに絶封的なユダヤ人の世界とするのである。
 
 もし非ユダヤ系の諸君が承知せぬなら、我々 は諸君を飢えさせて承認させる。それは諸君も
其の和政体と諸君自身の法律とを利用して我々の脅迫力を發動させて長びかせれば、全く平穏に暴力を用ひずして為し得ることなのだ。何人でも我々に反対を宣するならば、自身の危険を覚悟して掛るがよい。』と。
 或るわが在米同胞は、アメリカは『革命の前夜』に等しいと次のやうに語って呉れた。
  
 『米國人の腐敗堕落振りは、完全にユダヤのニュース政策(スポーツ・シネマ・セツクス) の謀略が効を奏している実例をお話しませう。 米國のハイスクール(中等學校)は男女共學で、これを見撃して来た日本の有名な或る女史は『米國は男女共學によってお互に異性を理解する訓練を施しているから、日本の青年男女の様に間違を起さない。

 日本も速かに男女共學にすべきである』と本國に皈ってまで気焔を擧げていますが、その皮相な観察には全く驚きます。何んぞ知らん米國のハイスクール内に於ては日毎に出づるチリ取一杯の〇〇〇サツクを自由の女神は何と説明するで ろう。米國にあっては結婚の條件に処女を求めてはならぬ。

 何ぜならば処女を求めては一生結婚出来ないと言ふのが公然の鐵則ですから。 次に軍隊の堕落です。米國軍人の殆んどは、祖國の國防に任すると言ふ崇高な精神をもつているものは殆んど居らない。
 陸軍の軍人に「君は何故軍人になったのだ」と言へば必ず贅沢をする為めと答へる。海軍の軍人に問へば「世界見物の為め」と答へる。殊にふるつているのは軍人慕集の方法で、軍人慕集のポスターの前には頗る美人が立ってキツスさせるから申込書にサインせよと言ふのです。
   
 我外務省の役人は我々に向って、「お前違は 早く米國に同化せよ。同化しないから迫害されるのだ」と言はれるのですが、「米國はこんなに堕落している。こんな國にどうして同化が出来よう」と云ふのが、まあ我々日本人の心意気とでもいふのでせう。それから米國にいて痛感したことは、日本の宣伝のだらしなさです。

 日本の海外報導程
無味乾燥な、まあ中學校の「修身」のやうです。
 そこへゆくと支那は心得たもので、ア メリカ的好奇心を刺戟し、煽情するデマ宣伝は、スペクタクル映画を見るやうに、眞実でないこともセツトで實在化して、アメリカ人的心理を巧みに掴んで、事質を幻想せしめる 様に表現するので低級なアメリカ人は忽ち慮構の錯覚に迷はされ、これが一つの恐るべき流行的與論となって全米を風靡するのです。

 アメリカ人は事賞の正確性程は必要ではなくただ一時的に昂奮を與へ、次から次へとスリルを間断なく連続さしてくれること、この 虚偽とスリル、これがアメリカ人の最大の享楽で、この彼等の趣味に適するものがアメリカの一般人気を博し、支持を獲得するのです。
 その間の事情を支那人は最もよく知っていて、實に老巧に支那人的デマ性を何悼ることなく過大に放送し、アメリカ人の浮薄な心情に、支那人一流の表情技巧をもって誇大にアビールするのです。アメリカ人はあくなき刺戟を求め、その一種の慢性的神経衰弱症は、支那的ユダヤ的毒々しさを愛好し、これに耽 溺し、陶酔するのです。

 これて反して日本の親善文化使節は多愛もない、アメリカの場末の十流以下の少女歌劇であったり、三味線、茶湯、生花の末梢的な日本趣味ばかりでは彼等が日本を侮辱するのも当然です。

 日本がアメリカ人を尊敬さすには日木の愛國的、悲批な忠義の英雄的行動、戰争への情熱と犠牲的意志、いかなるものにも絶封卓越せる日本精神と國体、この日本の最も誇りとするものを、堂々と遠慮することなく表現したら、アメリカ人は『好戦的』として排撃するよりも、始めて日本人の偉大性に驚嘆し、侮蔑は一變して恐怖となり、反って尊敬するやうになるのではないでせうか。

 實際アメリカ人の日本認識は、「日本に飛行機があるか」程と言ふのは最も進歩的な分子で大低は「電気があるか、ガスがあるか、」と聞く程度ですよ。こんなアメリカ人には下手に出れば、きっと黒人のやうに侮蔑し、圧迫されるのです。日本の宣伝は、このアメリカ人の愚劣極まる心理を害せざらん様に汲々として、甘心を買んとするから、彼等の増長心を強め、侮日排日心を強化する逆効果になるのです。

 
八 太平洋争奪戰    
 アメリカ陸軍は殆んど國内防備と、中、南米に対する兵力にて、それ以上の積極力を有していない。かくて今やアメリカ海軍は、まさに空前なる大海軍建造に着手した。 支那事變の始まる前に、蒋介石軍を指導していたデユェットといふ米國海軍大佐は 「日本は自國製の飛行機で我流の訓錬をやっている。支那は米國製や欧洲製の飛行機で、 われわれの訓練を受けている。空軍に関する限り勝利は支那のものだ』 といった。


 かくて数年前まで『量においてもはたまた質においてもアメリカ海空軍は世界一だ』と豪語していた米國は、第一次上海事變の直後、支那と所謂航容密約を結んで、支那に技術と材料を惜気もなく供給し、支那空軍の建設に着手し、約3ケ年にして見事に所期の目的を貫徹した。

 それは支那をして抗日戰争を起させ、アメリカは自ら日本の矢表に立つことなく、支那をして火中の栗を拾はせ、米國は支那との商買でしこたま儲けると同時に、日本の發展を阻止しようとする魂胆であった。

 
 このアメリカの宿望は、支那事變勃發後間もなく、アメリカ海軍が軽蔑し切っていた、日本の海空軍によって、ものゝ見事に完膚なきまでに叩きつけられた。慢心は退歩の先駆けだ。しかるに米國海空軍士官は安価なるアメリカ第一主義による、恐るべき自負心の持主 である『アメリカ海軍は未だ負けたことはない』
と彼等は提言する。

 しかもこれは全アメリカの言はんと欲するところである。 思ふにアメリカ海軍は、これに従事する學者も、戰術家も、戰略家も、多く読み、多く書き、多く弁ずることが彼等の本領であり、勝敗を決するものの如く確信しているらし い。彼等は日本海軍の不言実行の伝統精神を言へば恐らく噴飯一番するであらう。

 しかるに日本の無敵海軍力は、日支事變の發展と共にアジア大陸制覇、海南島、新南群島の占領等により、香港、シンガポールはすでに無力と化さんとし、戰はすしてまさに太平洋、黒湖圏を全面的に、厳然と確保しつつある。しかるに世上俗論の横行は、数さへ多ければ、すべての戰争は、机上の統計によって勝敗がつくかの如く錯覚すること、まさに米國の海軍士官の如き観がある。
 今アメリカは、自ら作製せる国際危機を呼号し、國民に宣伝しつつ、徒らに軍艦の数と飛行機、兵員の量のみを並べて日木威嚇をなしつつある。

 ノツクス海軍長官は11月11日の休戰記念日に次のやうに暴言した。
『米國民は近く重大問題が決定されようとしていることを知らねばならぬ。これを決定すべき時は来た。現在は甚だ危険なるときである。太平洋のはるか彼岸では今や重大事態が發生する可能性がある。』

 対米政策は、今日の日本には根底的に不可能である。もし日本にして彼等と妥協せんか それは日本が大陸政策、東亜新秩序を一切放棄した時である。


 世界満目今やこの日米折衝を注硯しつつある。我々の最も監視しなければならぬことは アメリカは日本の決意の強固的なるを見るや、荏苒時日を遷延し、これを英米を含む6ケ國会議に發展さし、外交交渉によって日本を去勢せんと企みつつある。

 戰争の要諦は敵を致すか、敵から致されるかによってきまること、現在のドイツに見るべし。事變以来四歳切に我々に思はれたことは、我國の『討ちてし止まむ』の決意の欠如といふことである。

 皇道の本義は『服(まつ)ろはぬは斬る』にある。不純、兇悪、非法なるものは断乎叩かねばならぬ。我々はこの悲批なる日本の決定の時を前にして、東條首相の胸中には、すでに断乎たる決意と信念あることを信じて疑はぬ。敵に対する妥協は、全面的敗北なるを知るべきである。
 いやしくも武士の為さざるところ、かくて来るべき太平洋争覇は、日本國民千年の運命を決定するであらう。


 我等はこのために総力を擧げて決意し準備しなければな らぬ。

  明治大帝には、『一日ヲ緩クスルトキハ或ハ百年ノ悔ヲ遺サン』と仰せられた。
明治の英傑大西郷は遺訓に曰く。
『正道を踏み國を以て斃るの精神なくんば、外國交際は全かるべからす。彼の強大に畏縮し、円滑を主として、曲げて彼の意に従順する時は、軽蔑を招き、好親却て破れ、終に 彼の制を受くるに至らん。

 國の凌辱せらるゝに当たりては、俄我國を以て斃るとも、正道を踏み義を盡すは、政府の本務なり。然るに平日金聲利財の事を議するを聞けば、如何なる英雄豪傑かと見ゆれども、一朝血の出る時に臨めば、頭を一所に集め、目前の苟安(注:コウアン。一時の安楽をむさぼる)を謀るのみにして戰の一字を恐れ、政府の本務を墜さば、これ商法支配所と言ふべきのみ。更に政府にはあらざるなり』

  言辞痛烈にして、意厳然たり。百年の後、何ぞ現代の日本を指適して餘りあるものぞ。



篁(たかむら) 東陽 著「東條英機と世界維新」第二篇 世界維新論 第四章 アメリカの挑戦(上)

2022-12-20 09:52:05 | 東條英機  



    (たかむら) 東陽 著「東條英機と世界維新」
 


  第二篇 世界維新論  

   

  第四章 アメリカの挑戦 

一 日米交渉の成否  
10月17日の臨時議会に於いて、東條首相は實に日木帝國として断乎排撃せねばならぬ

三大鐵則を明かにし
一 帝国の所期するところは、帝國の存立を確保し、支那事變の意義を完途するにあり

二 今や重慶抗日力を支持する唯一のものは、活發なる第三國の経済的、軍事的補給である。

三 帝國の要望するところは、帝國の企図に対する第三國の妨害と脅威を除き、禍乱の東亜波及を防止するにあり。
今や帝國は実に悠久二千六百餘年の歴史上、空前の國家隆替の岐路に立ち、一大飛躍をなさんとする秋に際会し、
政府は國民と共に一丸一苦、艱難突破を期せんとす。と。


 
 また日米交渉にあたって東郷外相は、事理すこぶる明白に、すでに彼我の見解は、半歳に亘つて委曲を盡し、技術的にも今後更に長時間を費す要なし、問題の楔子は今やアメリカ政府の反省互議の精神如何に繋っている。
 しかも我が協調的態度にも自ら限度あり、事奇くも帝國の生存を脅かし、大國としての権威を毀損さるるごときことあらば、敢然としてこれを排除すると喝破した。
 かくて来栖大使の米國派遣となり、日米交渉は逆睹し難い風雲をはらんで、太不洋の波愈々高く、日本國民の最後の断を要望する。

 『敵を知り、己を知らば百戰危ふからず。』と。我等はこれより米國の歴史的發展を叙し、太平洋争覇の運命を凝視せんとするであらう。

二 アメリカの建國    

 アメリカ大陸は新世界にあらずして、有史前よりアジア系日本人系の領有せる地であった。
古代アメリカ大陸に生存した人種は北アジアより移住せるHomo Amoricanusであり、蒙古人種の一種であつた。なほ黒潮の流れによって、アジアより、メキシコ方面に漂着したアジア石器人種もあり、これ等が『塚造り』と呼ばれ、アメリカ・インデアンの祖とされる。
  
 上代日本文化圏に属する古代アメリカ人は、日本古代の塚と全く同じ形式の『塚』 を多数に残してカる。西はロッキー山系より、東はミシシツビィ河まで、北は大湖地方より、北はメキシコ湾におよぶ北米一帯に發見された圓錐塚、実に北米古墳分布図を一見すれば、いかに古代アジア系の人種が全アメリカを領有せるかを知るのである。

 アメリカ大陸は決して白人の所有ではなく、数千年大いなる森林と豊かなる土地とは美しき平和な楽園として、眞に自由の大自然に恵まれつつ、インディアンによつて守られ来つたのであった。

 古代のアメリカ人、それは、すべて東洋的アジア精神の所有者であり、高度の清き精神帥生活と、つつましき物質欲、彼等の太陽に対する大いなる神話、山上に立ち日出日没における太陽への讃歌は、美しき自然との交感であり、彼等は自然を崇拝し、何等自然を害することなく黙々として自然の防衛者の如くそれを愛し育てていた。

 15世紀、スペイン・ポルトガルのユダヤ人迫害に端を發し、両国より追放せられたるユダヤ人は、70萬余に達し、彼等は『さまよへるユダヤ人』として全欧を放浪した。 ここにユダヤ人コロンブスは、ユダヤ人の新しき世界を求むべく、マルコ・ポーロの
『東方見聞録』に記された、黄金の島ジパングに向って進まんとした。
    
 これを援助せる のは、スペイン王室財政官たりしヴアレンシヤ商業会議所長ルイス・ド・サンタンゲルといふユダヤ人にして、彼は同じユダヤ人なる蔵相と共に、女王イサベラを巧みに勧誘し、主室より30萬圓を無利子にてコロンブス(彼は本名をクリストバル・コロンと呼び、父はドミン・コロン、母はフオンタナザロにてユダヤ人である)に貸し與へ、1
492年コロンブスのアメリカ到着によって始めて、ヨーロッパの一般的認識となった。

 ここにスペイン、フランス、イギリス等より盛んに移住し始め、また欧州より追放せられたユダヤ人は数十萬南、中米に移住を始め、なほ北米にも入って、1654年ニュウヨークの前身なるニューアムステルダムを建設した。

 ことにエリザベス女王時代植民地政策を大いに奨励し、1620年『五月花』(メーフラワー)号に乗れる清教徒は、クロムウエル革命の同志の集団であり、英本國の圧迫より、イギりス國教に反対して、自由を求めて新大陸への移住となり、マサチユーセッ州のプリマスを中心に自由なる信仰と生活とを始めたのであつた。
   
 豊潤なる大自然、鬱々とそびゆる大森林、素朴善良なるインデイアン、無数の生物の群、其処は旧ヨーロッパの偏狭にして陰惨なる社会とは全く異なり、洋々たる希望に満ちた新世界の展望が、いかに彼等の貪欲な瞳を輝やかさしめたことであらう。
     
 始め原住民は、これ等の白人に敵意を抱くよりも、むしろそれを歓迎した。彼等は白人の無一物たる移住者に対し、食物を與へ、器具:農具を貸し、猟具を使はしめ、苛酷なる冬季、暖かき家を貸し與へたのは、まことにこれらインデイアン自らの家であったのである。しかもこれ等白人は(彼等は殆んど荒々しい前科者か海賊であった。)大陸に移住するや、その本國に於いて迫害せられし性格は、イギリスより送られた凶悪なる犯罪者の植民とあひまって、不和なる生活に対し、悪魔の如き変革を與へたのであった。  
  
 この欧洲移民群は、憧れた自由の天地の開拓が、彼等の希望したよりも甚だ困難なのを知るや、その希望実現の為にまづアフリカ土人を奴隷として開墾に酷使した。
  
 黒人の奴隷買易、それはアメリカ發展の最大の力であった。さらに白人は忘恩にも、彼等に食を與へ呉れし土着のアメリカ・インデアンに対しては 彼等の有つ物質に対する括淡、純潔に対する要求、素朴にして善良なる、平和的原住民の純粋なる心を逆用して、彼等を欺瞞し、排撃し、圧迫し、奸計をもって彼等の土地財貨を奪取し、見る見るインディアンの生活権を奪ひ、その生命線を低下さしていった。  
  
 しかも 彼等は絶対に白人に屈従して奴隷と化さず、後退し得ざる場合は、いさぎよく戰って死するのみであった。かくて見るも悲惨な圧迫により、平和で豊穣な田園山林はすべて白人の手に強奪され、それを防がんとすれば、一挙にそれを機会に全部落さへ潰減されるのであった。

    
 この哀切極まるアメリカ土人の没落は、空しき悲歌に涙しつつ、懐かしい故郷を捨てて 西へ、西へと移住し、その山奥に逃避して僅かに、かすかな魂の反響をつたへるのみである。 しかも『西方へ!』『西方へ!』、この白人の狂ほしき叫びこそ、まことに近代欧米侵略主義のスローガンであった。
  
 数千年平和なる大陸を我が家として300萬平方哩の地を占有せしアジア的原住民は、僅か近々200年の中にあらゆる暴力と欺瞞によって、今や彼等の領有する地は5萬平方哩に過ぎない。
  
 この間イギリスにおいては、このアメリカ植民の自由を認めす『航海条例』等を出し、植民地の通商を高速し圧迫は、益々激しくなった。
 かくて植民地側にも大なる反対が生じ、パトリック・ヘンリー等の『自由か、而らずんば死』かの愛國者の叫びは、イギリス反対の與論となり、漸く一般の與論は反英的に転化した。
  
 かのワシントンは当時イギリス政府から土地測定技師として派遺されたものであり、彼はそれを利用して土地の利権を獲得したのであった。かくて後年の彼の革命行動の中には明かに土地利権の喪失に反対する意見を否定し得ないのである。
  
 植民地アメリカはイギリスの圧迫に対し、極度の反感を示しつつも、尚イギリスの國力 に対し絶封的な恐怖を抱いていた。 が、今やインデイアンの魔大なる地盤を奪取するや、ここに鬱積せる反抗心は遂に猛然 と爆装し、1755年獨立革命の火は燃え上った。
  
 イギリス軍は革命勃発と共に、ゲーヂ将軍に率いられてボストン占領、バンカーヒルの悲壮な争奪戰、イギリス軍は刻々と兵器乏しく訓錬なき烏合の衆たる植民地軍を圧迫、ここにワシントンが革命軍の総司令となり、直ちにボストン包囲攻撃に進んだ。
   
 この時フランスはアメリカ獨立を承認し、これを援助するため艦隊はすでにフランスの埠頭を出でたと報じられた。フランスにこの決意をなさしめた功勢者こそベンヂヤミン・フランクリンの存在であった。1781年佛将ラファイエットはヴージニアに来りて獨立軍を援け、かくて米佛両軍はクロオンウオリスを攻囲し、英軍は屈し遂に米軍に降った。

  
 この勝報来るや全米國人は歓呼し、フイラデルフフィアの公会堂の鐘聲は高らかに自由の鐘を奏し、祝火は遠く夜を照し、獨立の功業を照り輝かした。

 かくてアメリカの獨立戦争は、フランス革命の自由思想家による同一のイデオロギー思想体系、自由、平等、人権の宣言によって、すべてのものはルソーの言ふ如く社会的契約としてアメリカの國は、形成され、近代的自由共和國が確立し、『契約の國』アメリカは生誕した。
  
 かくしてアメリ力は、世界諸民族の集合地帯であり、それ自らの内的統一性を有せず、単に利益的結合による共同体を続けるものである。


三  アメリ力の發展   

 アメリカ獨立の自由の鐘は、これこそあくまでも白人のみの自由であり、移入奴隷の圧迫はますます激烈を極めた。奴隷は鐵鎖に固く縛られ、自殺することも出来ない。奴隷船 はそのまゝ生ける墓場であった。この奴隷船によるアメリカ國富の蓄積を知れ!
   
 しかも白人の植民は老獪を極はめ、時に土人が憤怒すれば忽ち精鋭の武器をもって、大量的に殺害、掠奪し、その残虐の跡を全く止めぬために、新しき虚構の事実を作り、これを眞の歴史として配す為め、眞実の事象をば悉く虚偽として抹殺し、かくて土人の虐殺、圧制の史実は、ただ僅かに土人の物語り記憶にのみ残り、それも遂に土人の減少と共に散ぎれ行く雲の如く、悲しき消滅をなすばかりであった。
  
 現代アメリカに於けるヨーツッパ文化の移植發展といはれるものは、まさに驚異すべき言語に絶した残忍の上に形成されたのであり、彼等はこの多くの虐殺の上にキリスト教的人道主義のヴェールをもつて装飾したのである。


 アメリカ人でさへ『インデイアンには好いも悪いもなく、只、彼等には死滅して行くインデイアンがあるのみである』といひ、1877年のアメリカ大統領ヘースの国書には『わがインデイアン戰争の大部分は我々アメリカ人が条約に違犯し、利己的であったことから起きたものなり』と記したのである。

 筆者はここに哀心より我知識階級インテリ諸君にお伝へする。
 
 最近アメリカ映画の中で、白人が西部開拓史上、英雄化される人々こそ、実はもと放埓兇暴の人間が、たまたま西部のインディアンに対し、いかに残忍極まる非人道的な虐殺を敢て為し、その土地を強奪したかの『名誉』を表微するものに渦ぎないものであることを。 
  
 しかもユダヤ資本による映画の中で、殊更にインディアンの要望を凶悪に誇張し、これに毒矢を持たせ、一方観客の喜びそうな美男俳優を英雄に仕立てて、かくて世界の人に向かってアメリカ人はインディアンの兇暴に抗して、人道の為に起こったのであるとの思想戰を構成するのである。
  
 が、すでに時代はかわりつつある。まことにリンカーンの言へる如く、『すべての人を総べての期間欺くことは出来ぬ。』
 横暴なる闖入者、貧慾なる掠奪者、非人道的なる侵略者といま日本誹誘に対してて彼等の用ふるこれらの言葉は、天に唾する者の如く、そのまゝ彼等白人に対して叫ばれてこそ、最も正しき意味を有するのを知れ!
 その純情なるインデイアンに対する血ぬられし忘恩と殺戮こそ彼等の發展を為し来れるものであり、今や歴史は其に第一頁より新しく書きあらためられねばならぬ。
  
 さて、これに比し、日本よりアメリカに移住せる開拓者のいかに高度にして、眞の開拓者としての無限の功蹟を示したことであらう。この最善なるアメリカの移住者に対して、アメリカ政府は却ってこれを圧迫するのであるが、これこそ白人アメリカの開拓当初の政策に外ならないことを知るであらう。
  
  個人主義的自由思想と、利己的資本主義によって、建設されたアメリカは、その多人種の結合体であり、ただ利益を共有することによってのみ統一されているのであり、それに反する限り離反するものである。かくて、アメリカのイギリスよりの獨立こそは、まさに眞個のこのことの最大の表示に外ならなかった。
   


四 南北戦争の正体    

 南北の対立は、白人労働者対黒人奴隷の戦であった。当時黒人は南方において大なる経済的地盤を占め、これに対する白人の政治的武力的侵略が眞の南北戰争の原因であった。

 黒人奴隷の廃止とは、黒人に対する人道主義的解放ではなく、かへってその新しき抑圧であり、かの南北戰争にて人道の守りとされる、ある佛國のユダヤ人史家が、『リンカーンの偉大は、シーザーに勝る』と言った、リンカーンはその名の示す如くユダヤ系なることを知るべきである。

 
 彼は人道上から奴隷を廃止せんとするよりも、彼がイリノイ州共和党大会に於て試みたる演説の如く『家内両分したる家は存立する能はす。』として、過去の政治家が南部と北部 との妥協によって、一時を子で糊塗し来たれる白人アメリカ将来の一大危険となし、この問題を解決して北米合衆國を完全に統一せんと決心したのであり、彼は南北戦争進行中も愈々最後までは決して奴隷解放宣言を出さず、ただ忠実に南北統一の為に戰っていたのでも明かである。
 
 さらにストウ夫人の記した小設『アンクル・トムス・ケビン』は、かのユダヤ的宣伝と共に、全米國を風靡して、甚だしく民心を感情的に刺戟した。
 しかも南北戰争中、黒人は自らの自由のため何らの反抗運動をも起さなかったが、これは北方の奴隷解放が決して黒人のためによる運動にあらざるを明白に示す事責であり、奴隷解放は白人自らの利益以外の何ものでもなく、南部の大土地所有に対し、北部の資本主義的挑戦であり、侵略であった。

 かくして北方軍はむしろ黒人奴隷の、より深刻にして有利なる賃銀奴隷の使用を企てたにすぎない。
 
 この戰争において、『戰争はマツコーミツクの刈取機によって勝たれた』と言はるゝ如く、農業機械が農場労働者の力にまさり、一躍アメリカ経済を大量機械生産に移動せしめ、機械の時代に入るのであった。
 かくてアメリカは、南北戰争によって、大資本大産業の統一としてのアメリカ帝國建設の段階に入った

 黒人奴隷は戦争終結とともに、ますます悲惨なる生活に落ち、彼等には何らの自由による幸福はなく、以前より遥かに高き死亡率を示して、『楽しかりし昔』を悲しく回想するの みであった。

 しかも解放され公権を與へられた黒人に対し、すべての必需品は拒否され、 黒人はその生活圏を白人勢働者によって奪取されたに過ぎなかった。

  荒蕪の広大な未墾地に対し、血と汗とをもって全生命を犠牲にする黒人の労働の苦悩によって開拓された豊穣肥沃の新しき大地は、今彼等を奴隷解放の美名の下に追放すること によって、白人自らがその利益を悉く獨占せんとするのであった。


 これは獨り黒人ばかりでなく、日本、支那の移民、労働者もすべて同じ運命にさらされたのであった。
 かくの如く、人道と平等、自由の國アメリカにおいて、最も大規模な奴隷制が実現され 幾多の有色人種を、新しき機械労働奴隷、或は開拓奴隷として酷使し、その悲惨なる血と 汗の犠牲の上に、アメリカの富は蓄積され、その低級な物質文明は繁栄したのである。

 今我等はここにこれ以上アメリカの侵略罪悪史を列擧するの余裕をもたないが、しかも彼等の屡々口にするモンロー主義が、それぞれの時機に応じ、最もその利己的政策を示す如く、もし彼等の口にする自由、平等が眞実ならば、なぜに黒人、アメリカ・インデイアン等にかゝる残虐なる抑圧奪略を加へ来たのであるか、さらに日本人、支那人等のアジア移民に対し、なぜに不法極まる排撃搾取を為し来ったのであるか、これをもって彼等の
人道主義が憎むべき虚偽に充満し、その美名の下に世界侵略獨占をなさんとする最強力たる武器なることを知らねばならぬ。


五 日米戰争 

 アメリカの植民地政策は太平洋方面に進出し、ここにペルリの来朝となり、彼は和親條約を口にすれども、彼の意志は飽迄アメリカ植民地の獲得を目的としていたことを彼の手記は明白に物語っている。

 彼は海軍を卒いて威圧的にその條約を結んだのであり、『黒船来る!』にの驚愕は、明かに彼の武力的侵略の恐るべき野心を直覚した日本人の叫びであり、浦賀の砲聲こそ東洋の平和を破る合図であった。


 しかも彼は琉球か、小笠原島の何れかを占取せんとし、すでにその占領を宣言したが、日本國内の熾烈なる攘夷的態度と、木國大統領の更迭のためこれを果たさなかったのである。


 かくて1898年の米西戰争において、アメリカはその凶悪なる侵略行動を暴露し、ハワイ、南洋、フィリッピン等のあくなき領土獲得に邁進し、その資本主義的獨占を実現せんとするのであった。


 このアメリカの方向は、今や必然に日本の發展と先鋭なる対立をもたらし、殊に日露戰争以後、日本の國力の急激な強大化とともに、排日運動は俄かに激化し、遂に日米戰争の危機は幾度か迫った。


 第一次欧州大戰において、アメリカは厖大なる、富を吸牧し、一挙にヨーロッパを抑圧し、かのユダヤ的なウイルソンの國際聯盟は、全世界を制せんとするかに見えた。
 しかも
アメリカは、日本の太平洋進出を抑止するために、四ケ國條約を結び、また支那大陸への發展を拒否するために九ケ國條約を結び、さらに英米が戦後の疲弊に苦しめるため、軍備縮少に名をかりて、日本の國力を不合理に圧迫するのであった。

  突如! この欧米侵略による國際不合理に対する反撃として、満洲事變勃発するや、アメリカはスチムソン外交をもって、日本の正義を認めず、あらゆる侵略よばはりをしつつ イギリスと共にあらんかぎりの阻害をなすのであった。

 アメリカの反日政策は、営時すでに日米戦争の危機を呼んだが、この時、彼等の挑戦を完全に撃破し得たのは、上海における日本海軍の絶対威力と、満州における現地軍の断乎たる態度によるものであった。

 このことはアメリカ海軍当局の自ら言明せる如く   
『海軍力の不足なる理由をもって、東洋遠征を中止せざるを得なかった。』のであった。
かくて彼らの狂熱的軍備拡張となるのである。

 ここに幾度か叫ばれた日米戦争は今やその最後の段階に達し、今次来栖大使の派遣は日本の最後の決意を彼等に宣言するためであり、かくて尊皇接夷による明治維新は、再びその同一の方向の強大化たる、世界維新と直ちに関聯するを見るのである。
  
  
六 日米経済戰     
 支那事變勃發以来、アメリカはイギリスと協力して授蒋政策に全力を盡し、反日宣伝を世界的に試み、支那租界問題にては、日本と正面的に衝突し、また幾度か対日経済封鎖、輪出禁止をもって日本を脅威せんと企てるのであった。

 しかも今日獨伊の三國同盟強化さるるや、アメリカはそれに対しあくまでも反抗せんと
欲するも、その力関係の不足のため、止むなく孤立中立をなさんとするが如くであった。
 しかもアメリカの最大の不安脅威とは、常に太平洋と日本との問題であり、ここにアメリカは自ら日本通商條約破棄を聲明し、九ケ國條約廃棄に反対し、日本の所謂東亜共栄圏 の主張を根本的に否認する。


 かくて日米会談に際しては、表面『太平洋の平和』なる理想主義を掲げて日本を慰撫し傍ら大西洋方面と睨み合せた戦略的見地から会談を遷延せしめんとする。この間イギリスをワキ役として日木をして獨伊よりの離間を計り、孤立的な獨自の立場に還元せしめんとして、老獪且つ巧妙極まる戦法を行っているのである。


 このことはルーズヴルト大統領が 一方においては日米会談を継続せしめ、他方重慶の徹底的援助をイギリスの対日包囲陣強化と並行せしめつつ行っている如き、あきらかにこれを証明するものである。日本は今こそ一切の現象的浮動的見方を排し、東亜に於けるアングロサクソンの完全なる共同謀略の正体を直視しなければならぬ。
  
 然らば今次支那事變の現段階において、英米の経済封鎖がまさに、宣戰布告と同一の情勢を惹起しつつある時、果して日本経済はこれに封抗し得るであらうか?果して眞に困窮するものは誰であらうか?

 これについては世上流言区々たるものがあるのであるが、我々はここに於いても我國の各指導者層、特に官僚、財界の一部に於ける対英米的認識と対英米工作に関して、滑憾ながら甚しき誤謬と迷妄とを示していることを指摘しなければならぬ。

   
 日本の従来の親米政策は、あまりにも日本の弱味、しかもこれを科學的に検討する時 何等存在せぎるものであるが…を表面に出しすぎ、財界・官僚の指導的の地位にあるものにして、みだりに之を口にし却って商人國アメリカをして『日本怖るるに足らず』となし、今一押し威せば日本は戦はずして参るであらうとして、全艦をハワイに集中し、或はニユーョークより全世界に向って対日強硬脅威のゼスチアをなしつつある現状である。

 我々 は今日米経済戦に対し、次の如き呈言をなし、識者の考慮を患はしたいのである。

 一、鐵、鋼材、銑鍍、鐵鍍石、屠鐵等は、殆んど英米より輸入していたのであるが、すでに占領地域の莫大なる鐵資源は、それを開発することによって何等他國よりの輪入を必要とせざるは勿論、なほ其の他の鉱石においても支那の埋蔵量は巨額であり、それを検査、 採掘するならば、必ず近き将来においてむしろ強大なる輸出國たることも考へられるのである。

二、占領地帯の農産物はその広大なる面積と地味を有し、日本科學力によって大規模に治水電気工事を實現し、水力電気工事をなし、農業設備の萬全を期せば、支那の農産物は無限であり、これ等の豊富なる食糧物質をもつてドイツ、イタリアの工作機械と交換するならば、相互の利益は頗る莫大なものとなる。
    

 三、今や一刻も速かに大陸開発を必須とし、大陸経営に於ける人的資源は、支那民衆の心を把握し、これに確固たる生活の安定を與へることによって容易に得られ、熱情的多数の有為な冒険者を、國家が積極的に大陸に進出さし、英米等の対日経済封鎖に対せしめる。  

 

 四、東亜新秩序建設に対し、援蒋政策を積極化せる英米に対し、経済的に大陸の中南支より彼等をシヤツト・アウトし、彼等の支那権益は断乎として没収、破棄し、維新政府の言ふ如く、租界に対しても英米等に対し顧慮するとこなく断乎これを清掃する。

 

五、アメリカの繁築は1939年をもつて最高潮とし、その10月のウオール街の大恐慌により俄然悲惨なる世界恐慌の中に没落した。しかも合衆國の貿易の、大特徴はその輸出超過を示すにあり、貿易の相手國の第一は隣國力ナダであり、第二は我日本である。

 故に対日経済封鎖をなすことによって、日本物資を訣乏せしむるに有効なるかに見え乍ら、却って日本に対する輸出禁止は、日本の國家よりもむしろアメリカの経済混乱を生ずることはるかに大である。

 何となれば 
イ、西部における日本人による農業、工業發展の中絶  

ロ、アメリカの水産業が殆んど日本人の手によって行はれつつあることの為に受くる損失

ハ、アメリカの海運労働者の不満 、日木はアメリカより石油、鐵等を輪入しているのであるが、これを新しく南洋及蘭印、支那占領地帯に求める

ホ、アメリカ経済力の地盤は全体主義國家との共同戰線により、さらに日本によるアジア経済封鎖の断行こそ、アメリカの貿易に致命的打撃を與へるものである

六、金の超過せる流入は、アメリカをしてこれを死蔵せしめ、その金融力を硬化さし、却って自らを拘束し、窮迫せしむる必然性を暴露する。ルーズヴェルトは33年の銀行大パニックに対し、ユダヤ的プレイン・トラストの計画によりN・R・A政策を断行し、失業者を救済、統制復興法を実施したが、決してそれは成功せず、ユダヤ的財閥の、欧米没落の為に企図せる世界大戰に対する厖大なる軍需工業によってのみ辛くもその経済不況を防ぎつつある。

 しかも現在労働問題の激化を阻止することは出来ない。

七、九ケ國條約は破棄と同様であり、今や太平洋問題に対する四ケ國條約を積極的に否定し、アメリカの南洋・太不洋に関する政治的経済的勢力圏の保証を否認する。ここにアメリカの経済は最大の不安と危険に直面し、かくてアメリカの功利的民衆は、その東洋、南洋貿易の途絶により、莫大なる損失を蒙り、その必要なる物資は輪入せられず、棉、鐵等の輸出は激減し、アメリカ産業経済の崩壊を必然化す。

 この経済的恐慌こそ、アメリカ民衆はすべて分裂、対立し、アメリカ國家形式の消滅さへ予測せられる。

 時恰も、日米交渉は、アメリカの敵性を、その本然より露呈するに役立ちつつある。支那事變を眞ッ向から否定し来った敵性の暴露によって、事變は一大飛躍の段階に到達せんとする。かくしてアメリカ及イギリスの『反省』は今や求めて不可能なるものに属し、決定的反英米闘争を通じてのみ、大東亜の安定、秩序は期し得べき現実段階に到達した。

 かくてここに日本の自衛権の發動により、イギリスの法幣を否定して、圓ブロツクを強化し、支那金融貿易のイギリス的支配を根本的に打破し、英米の挑戦には敢然として、徹底的に非妥協的に行動せよ!  

 かくして日満支一体的経済力はアジア、南洋より英米の金融費本、権益一切をシヤツト・アウトし、輝やかしき勝利を獲得し得るのである。 この最後的確信を日本に自覚せしめないことが、まさに英米等の対日謀略であり、之に誘惑されて、もし百害あって一利なき彼等との妥協をなさんか、日本は千年の恨を千載に残すのである。

 


篁(たかむら)東陽 著「東條英機と世界維新」第二篇 世界維新論  第三章 大英帝國の崩壊(下)

2022-12-15 22:27:22 | 東條英機  



    (たかむら) 東陽 著「東條英機と世界維新」
 


  第二篇 世界維新論  

   

  第三章 大英帝國の崩壊(下) 

 

六 世界獨裁     

 イギリス自ら主張せるリベラリズムの諸矛盾は、軈(やが)て英佛の対立となり、フランスの積極的援助の下に、フランス革命と同一の思想体系イデオロギー、自由、平等、人人権の宣言によって激發せられた双生児として、ここにアメリカ合衆國の獨立となった。 フランス大革命の血と砲炎の中より、コルシカ人ナポレオンは古代ローマ帝國の復興を要求し、海洋か大陸か、自由主義か統制主義かの英佛の対立抗争は、一度び大陸に於いては自由主義は撃退されたかに思はれた時、再びユダヤ的経済力によって勝利を占め、ナポレオンの『我勝てり!』のワーテルローの突撃も、グルーシーの来援と思はれしは、 プロシァ軍3万の右方よりの突撃となり、万事休す! 

  
 彼は鬼哭啾啾(注:シュウシュウ、すすり泣く声)恨みを呑んでセントヘレナの暴風雨の中に散っていった。
 ここにイギリスはアダム・スミスの自由主義経済の実現として、アジア、アメリカ等への植民地獲得侵略となり、一方サラセン科學文化の奪取は、インド攻略による、産業革命の機械生産の發達となり、資本と機械との二つを備へて、英國は無人の野を往くごとく世界市場を横行闊歩し、世界の富は洪水の如く英国に流れこんだ。
 かくて日の没せざるといはれるイギリス帝國主義世界獨裁の時代に入ったのである。
  
 富の蓄積がここに新しき階級を台頭せしめた。それが銀行家であった。製造家と商人が工業と商業とが昇天破竹の勢で英國支配の王座に上りつつあった時、1810年に突如として大恐慌が来た。物価が下落した。多くの工業家と商人が倒産した。 
 
 金融資本家は常に恐慌の波に乗って支配権を把握する。この恐慌以後、英國経済界の実験は銀行家の手に移った。この多くの破産者の死骸の上に大きな怪物が立っていた。

 それがネーサン・ロスチヤイルドであった。

 一方イギリスの世界植民地獲得とその拡大化によって、本國に於ける労働者の悪化し、ここに悲惨なるプロレタリアートの出現となり、その彼等の上に立つイギリス資本家の豪奢なる階級対立となった。この両者の諸矛盾こそかのカール・マルクスの『資本論』の内容をなすものであった。


 『資本論』は一般経済社会の理論的分折といふよりもむしろこのイギリス経済社会の解剖に外ならなかったのである。

 イギリスはこの社会内部の矛盾と対立を、常に世界の外部に転化し、彼等不平分子を世界問題に進出せしめ、かくて彼の世界征服は社会的破局を救ひ、その機械力によって全世界を征服し、市場を求め資源を獲得し、彼等はそこにイギリス文化のみを示して、それ以外の文化をすべて否定した。
 こ
こに19世紀後半より20世紀にかけて、世界文化はーつの色盲となり、殊に東洋古代文化は痛ましい拒否の下に死減せんとした。
 


七 英國の没落   

 我々はすでにイギリスの發展過程を一瞥した。先を急がう。 かつてリツトン調査団なるものが組織され、出所不明の満洲建國反対の盤を捏造して、ジユネーヴに引きあげた。

 この満洲事變こそ、イギリスにとって恐るべき新事態であると同時に、反日運動激化の好個の機会でもあった。かくして軍縮会議に軍備縮少を承認した日本に、かの二・二六事件が惹起した時、『日本怖るるにたらず』と誤認し、蒋介石
の國民政府を自己薬籠中のものとなしたイギリスは、英・ソ國民政府によって、遂に支那事變の勃發となった。

 イギりスの願ふととろは、在支両國の相互消耗であり、このことによって英國の在支利益を維持せんと策したのである。何ぜなら阿片を飲まして獲得した支都の利益と対支借款とを喪失することは、やがてイギリス経済の崩壊を意味するからである。かくてイギリスの血は支那に通っている。すでに経済的にイギリスの植民地と化した現代支那の出来事は、イギりスにとって「ひとごと」ではない。

 
 今皇軍が駐支イギリス軍と化した支那兵と交戰しつつある時、その本拠はシンガポール要塞にあって、世界の情報に耳をかたむけ乍ら、印度、ビルマ、チベツトを拠点とする大陸横断ルートの建設、温州、寧海、福州、厦門、海州等に海軍並に空軍の根拠地建設と拡充を企図しつつある。

  彼等の謀略は支那國民を犠牲として日本を消耗せしめ、ノモンハンに見る如き日・ソ戦争の危機をもたらし、日本とソ聯との消耗を計り、支那を減し、ソ聯を弱化し、日本消耗に全奸智をしぼったのである。

 今又アメリカを使嗾して日本に当たらしめ自らはその背後に立って最後の伝統的欺瞞外交政策を盡しつつある。 試みに英國の外交史を繰り披げて見よ!

 いかなる一頁にも非道なからくり、或はからくりらしからぬからくりが、秘められていない所があるであらうか! 『英國との條約締結國は、それ事態が扼殺の段階を上りつつあることを知らない。條約による桎梏は英國に常に甘く、これが峻厳なる覇絆として拘禁するは常にその相手國である。

 これ等の哀れむべき愚信者が、己れの四肢を縛りつける桎梏と、絞首豪とが同一用材であると感知した時には、その哀れむべき者の足元の篏(注:ケン、カン。はさむ)板は、奈落の眞ッ暗闇に向って落されている・・・・』
 
 我々はも早八方美人的英國の微温的な麗句で頭を撫ぜられながら馬鹿にされて得意になっている時代ではない。しかも彼等が対日経済制裁をもって日本を威脅する時、果して眞に困窮するものは何れであらうか? 日本か? 英国か?結論の前に我々は今英國が策しつつおる手を見よう。


一 イギリスは最も老獪に日本の経済的エネルギーを自覚発せしめず、また新しく軍事占拠せる大陸の莫大なる『物費』を獲得せしめず、経済開發はまづ投資資本が必要であるが日本には到底その力なし』として寧ろそれを放棄せしめんことに萬策を盡しつつある。

 
 二、未だ貿易関係において金本位方法の残存せる為、彼は米國と共に日木の物資の必要を熟知し、軍事資源、生産力拡充物資の殆んどが英米経済ブロックの上に依存せるを以て、支那経済開發に対しても、責本の必要あり、英米金融資本の移入を絶対必須たるかの如く宣伝して日本の経済界を脅かし、日本の経済人の悲観説を造り上げ、其上に経済制裁のいかなるものかをもってますます我を脅かし、彼等の最も好む条件にて一刻速かなる妥協を實現せんとする。
 
 これに対する我々の答へは次の通りである。

一、我等は我が軍事占拠の地帯に悉く軍政を布き、全総力をもってこの膨大なる物資開發につとめるならば、我が軍事生産資源に欠乏するとは絶対に考へられない。この場合日満支一体の経済力はアジア、南洋より英米の金融資本の権益一切をシャット・アウトし、遥かに大東亜共栄圏確立を期する時、全世界の英米獨占経済体制は、その根本より没落するであらう。

  何とならば英米資本主義はアジアを基礎として成立している以上、彼等の受くる打撃は、まさに致命的であり、却って自らの経済混乱に自壊せんとする弱点があるからである。日本の大規模なる大陸の占拠は漸く執拗なる英米ユダヤ資本力を支那より切断せんとする脅威を示しつつある時、大東亜共栄圏の確立は、恐るべき世界金融力の最大の動脈を切断せんとするからである。


二、現在英米資本産業は貿易関係をもってのみその経済組織を維持しつつある。従って英米が貿易関係において金本位方法を固守するは当然なるも、我日本経済界において「金」が訣乏すれば海外物資を購買し得ないとなす、噴飯すべき時代錯誤的幽霊が、公然と闊歩しているのを見るのであるが、我々はすでに全く没落せんとする金木位的観念は、金に対する経済的迷信が作用して生ずるものであり、何等の力なき「残夢」なることを自覚せねばならぬ。

 彼等はこのことを知悉し、しかも彼等の金融資本組織は、その主要なる東亜経済市場を失ふことによって、内的崩壊を出現する脆弱性を有してカるが故に、却って彼等の経済ブロツクの没落するを陰蔽せんために、逆に之を誇示し、擬装せる匁によって、それは自らの弱点を誤魔化す為の弾圧、空しき脅威であるに過ぎないのに、日本経済自らが今やその彼等の刃にかかって死なんとする。

 ある経済人は著者に語って曰く『若し日本が眞に大戰争を始めるならば〇年にして日本の石油はなくなるであらう』と。かかる愚かしき風説が今やまことしやかに、彼等が地位ある経済人なるが故に、かかる言葉が、一般國民に瀰漫(注:びまん)せんとするを見る時、我々は断乎、我等の主張を強張するものである。このことは眞に東亜新秩序の建設がなされる時、根本的に暴露せられるであらう。我等はかかる彼等の謀略に乗ってはならぬ。
 
 今や「國力』こそが『金』にまさる最大の経済力たるを知るべきである。さて結論に移らう。ここにーつの寓話的テーマがある。我々は小さい時、お伽噺に温和な叔母さんの聲色を眞似て幾人かの子供を1人づつ咥(くわ)えていったた狼の話を聞いたことがある。『おお!可愛いゝ坊や、叔母さんだよ。おみや をたんと持って来ましたよ。さあ早くこの扉を開けて御覧なさい!』
との甘ッたるい叔母さんの聲色に、無心の子供植民地人)は嬉々として扉を開け、そ の度毎に一人づつ くはへ去られていった。 

 そして、終に最後の一人(日本)となった。 優しい狼の聲が扉をたゝき、惰愛に満ちた叔母さんの聲色が聞こえて来た。その時お伽噺の賢明な子供はどうしたか。彼は扉を開ける前に叔母さんの手を扉の覗穴から挿し込ませて検査する。そしてその手が眞黒な毛で掩はれた狼のものであることを知ってしまふ。!
 
 この寓話はお伽噺の世界にのみあるのではない。現實の生々しい今日の世界にあるのである。
 尊敬すべき我國の先輩及指導者は、そのあまりにも純眞であり、あまりにも日本的美徳、単純であったがために、優しい甘ったるい聲色に幻惑され、時にこれを本当のの叔母さんの如く錯覚した。 
 
 そして片手を取られ目鼻をかきむしられるといふ、さんざん馬鹿な目にあった。が、我等は紳士の美衣の下にかくされた狼の如き毛むくぢやらたな手が、得意気に『我等の英國を見よ!自由よ!平和よ!人道よ!』と叫んでも、もう何等の魅力も感じない。

 我等は目覚めた!日本は偉大となった。
しかも英國も亦生死の関頭に立って、今やあらゆる悪辣な魔手を、如何に多面的に、大手から捌手から、日木の弱体化を目指して働きかけていることか!

  我々はイギリスが人類史上になし来った罪悪の数々を思ふ時『アジア人のアジア』建設の為には、新しきアジアの光として、この悪しき妖雲を払い、大なる嵐となって一擧にこれを清掃すべきである。
 イギリスは何慮へ行く? 力ナグか? 濠洲か? 


篁(たかむら)東陽 著「東條英機と世界維新」第二篇 世界維新論 第三章 大英帝國の崩壊 (上) 

2022-12-15 22:17:21 | 東條英機  



    (たかむら) 東陽 著「東條英機と世界維新」
 


  第二篇 世界維新論  

   

  第三章 大英帝國の崩壊(上) 

一 イギリスの対日態度  

 旧世界体制の最後的防衛に汲々たる英米、特に英国近来の対日的攻勢は、最近愈々陰険さを加へ、今や最も老獪にも人道、文化、知性等の美名の下に、あらゆる謀略と方法をもって全世界に宣伝し、誹謗し、また日本内部に深刻なる悪影響を蒔かんとする策動を敢てする。

 

11月12日、チヤーチル首相は

『日米若し戦はば英國は一時間以内に対日宣戦を布告するであらう』と恫喝し、『事熊を極く冷静に判断すれば、日本國民が対米戰争を開始し、全く無用と覚しき世界戦の渦中に身を投ずること』の危険を強調、
『かくては日本は全人類の殆んど四分の三を含括する諸國民の抵抗を受けることを悟らねばならぬ。』と、暗に強迫し、

 更に説明して『若しも鋼鐵が近代戰の基礎だとすれば、年産九千萬の銅繊を有し、これにイギリス帝國からも予力の寄與を受けるアメリカとの戰争を、日本が全くいはれもなく挑発することは、賢明なる政治家のとらざるところである』と日本國内に於ける旧体制政経人及諸領域指導者層に呼びかけ、

 我國の英國植民地人的親英一般文化知識人に向っては、しかし乍らイギリスは従来常に日本に対し平和的且、好意的態度を持し来ったのであり 日本と英國國民との間に紛争ぼ勃発を見るが如きことあらば、余にとってもっとも深き悲しみである。(ああ、この白々しき言辞を聴け!彼は巧みに言辞を弄し、日本の決定的方
向に『一種の疑惑を與へしめんとする謀略を為している。)、

 他方重慶政府が過去5年間に亘り獨力で(今や蒋介石自ら英米の傭兵と化しつつある時、我々はこれ等の言辞を何と聞くべきであらうか?)

 奮闘を続けつつあるのをわれわれはいかにして冷酷に傍親することが出来ようか、もし重慶の抗戦にして支那社会の解放に終らないならば、それは世界文明に対する最大級の惨禍たるものである。』


  見よ!このことは蒋介石もこれと全く同様なことを述べていたではないか、しかも 支那事變とは果して何であるか、単に支那との戰争でない事は今さら言ふまでもなく、実にその背後の第三國に対する抗争なるを知る時、まさにイギリスの暴慢は嗤(あざわらう)ふに堪えたるものがある。

 しかもこの日本侮蔑の言論を、かくも公然と發表しているチヤーチルの言辞は、これが 重慶政府に翻訳されると、『結局日本は支那の弱い者いじめはするけれども、英米等の圧力の前には、支那を占領せんとしても占領し得ないのだ!』となり、これが彼等の反日的言論の中心であり、これによって支那の排日抗戦は限りなく煽動されるのである。


 かくの如く英米の対日戦略は、一方には恐嚇し、他方には懐柔し、かくて日本の経済的圧迫を暗示し、或は日本の國際孤立化を企図し、遂には日本をしてやむなく後退せしめ、しかも更に無意義なる彼等との妥協を敢ててなさしめんと奸策するのである。


 かくてチヤーチルは、今や文明の名に於いて自らに有利なる煙幕を張り、所謂文化人なるものに目つぶしをくれ、裏面には陰険なる排日的支那観を製造し、日支事變を誹謗し、無意義なりとする積極的思想戰によって、巧妙に老獪にこれを合理化して宣伝し、
 さらに日本人をしてかく信じることが知性あり進歩的なりとする奸策を弄し、日本自ら自國の力を過小視さすことによって日本エネルギーの後退を策し尚且和平攻勢の毒汁をもって人道的なりとし、日本と支那とを飽迄分離し、

 今次日本の幾多の血と涙と汗によってて戦はれつ
つある支那事變をして、更なる日支の悲劇に終らしめんとし、日本の支那統治をあくまで放棄せしめて、自らの支那権益を擁護し搾取し挑戦的態度をもって旧秩序を極力保持せんとする、

 實に日本をかく後方攪乱することによって、支那事變をウヤムャに葬り去らんとし、ここに日本の世界史的任務を忘却せしめ今次の聖戦の世界維新的意義を抹殺せしめ東亜新秩序を實現、創造せんとする日本の純粋なる理想を巧みに暴圧、挫折せしめんとするのである。



 我々は今尚我國内の親英分子が、彼等の傀儡となって、自らの墓穴を掘るが如き、最後の暗躍をなしつつあるを知る。が、彼等がいかに策動するとも、全日本國民は、今次事變を通じて、幾多の戦没英霊の護國の忠誠心によって、その無私なる正しき直感に よつて、何にが眞に日本の敵であるかを確知する。

 しかし乍ら、日本國民によって炎々と燃え上った反英の嵐が、アメリカ問題の急転によって、まさに忘却されんとする現状にある時、共にアングロ・サクソンにして、血は水よりも強しといはれる英國の出店の観あるアメリカを、その背後よりあやつるものがィギリスなることを知悉するならば、

 我等はここに、今新しく対英問題を論じ、所謂『英國的平和』なるものの正体を科學的に分析して読者の前に展開し、今後彼等に対して採るべき対策日本の態度を明確にする必要を痛感するのである。


 我々は今まであまりにも英國紳士を買ひ被っていた。が、現在アジアの盟主たる日本は、太陽の没する時なき大英帝國の建設の蔭に、極端なる重商主義の樹立の下に、幾十萬の人類が牛馬の如く屠殺され、幾十億の民の血涙が搾られたかを、全人類の為に静かに想到せねばならぬ時に至ったのである。 


二 イギリスの性格    

 その昔アジアの嵐として全欧を震憾した英傑アツチラが、かのヨーロッパ全土を席捲し了ってより、ブリテンの島はローマ帝國の一部であった。ここに後代イギリスの 文化に世界國家たらしむべき、大いなる傳統を残存せしめたのであった。
 次にヘンゲストとその軍隊のサネット島の海濱なるエツグスフリイトに於ける上陸をもって、イギリスの歴史は始まるのである。

 以来150年イギリス人とブリトン人は激烈なる闘争をなし、遂にイギリス人により、ブリトン人は殆んど死滅し、少数は奴隷化された。かくてイギリスの上陸後一世紀を得ても、ブリトン人にとりてはイギリスは實に『野蛮人』であり『狼』であり、『神と人に悪まれたる悪魔』であり、彼等の勝利とは、これ以後の植民地獲得もそであるが、悪と罪との暴虐残忍なる勝利であった。

 これよりイギリスの歴史に、最も陰惨を極めた、陰謀と掠奪と侵略の暗澹たる展開であり、恰もミルトンの『失楽園』に出でくる「悪魔の國』の如くである。

 恰も悪魔ルシファーが蛇となってエデンの園に入り、純眞無垢のアダムとイヴを誘惑没落せしめたことこそ、これぞ、東方アフリカ、アジア、南洋等に、植民地侵略のためにあらゆる姦策を弄した、イギリスの罪劫の数々の運命的象徴であり、かくて今迄楽園の如き平和なる世界は、 彼等によって鐵鎖につながれた奴隷の如き、全人類の苦悶が始まるのである。
  
 かくて5世紀以後アングロ・サクソン人の侵入は幾多の小國を形成し、9世紀頃アルフレッド王によって統一されたが、当時、北方よりはデーン人の来襲あり1066年ノルマン族王ウイリアム(彼は世界の掠奪物の中に生きた海象といはれる海賊に外ならない。)によって征服され、ここに始めて掠奪行為を罪悪とも思はぬ、否正当なる職業の如く考へている。 

 海賊國イギリスが、建設されたのである。

 

三 エリザベス女王   

 イギリスのエリザベス女王とロシアのカザリン女帝を研究することは、両国を知る上にある暗示を我等に與へて呉れるものであるが、それはともかく近代イギリスの世界制覇は処女王と言われたこのエリザベスの冷腕によって發端した。

 自らイギリスと結婚すると公言したこの処女王の生活は、まさにシエークスビアの戯曲に見る如き、譎(ケツ、いつわる)詐と姦策、冷血にして貧焚なる野心の結晶体であり、その私生活は、極めて放縦なものであった。

  
 女王はあくまで、自ら孤独女王たる武器を、巧みに政略的に利用して、諸國の君主を篭絡し、その臣下の感情を操り、嫉妬と権勢欲の為には、スコツトランドの女王メリを殺害して、冷然たる復讐の快感を味わった如く、デンマーク、ロシア、オーストリア、スペイン王等々、すべてとの諸君主は彼女との愛情に関係し、英國貴族はすべて彼女の寵愛を受けて、我身を犠牲とした。
 かくの如く女王は最も残忍冷酷にその愛情を転々せしめたのであった。

  ヘンリー8世の多妻主義と性的放縦一身に遺伝したエリザベスは、幾多の男性を 翻弄する技巧を先天的に具有し、スペイン王は彼女の罠に陥り、スペインの無敵艦隊は、海賊の集団によって撃破された。
 
 この当時、世界帝國たるべき機運を最も多く恵まれていたものはスペインであり、その本國の領土の広大であった外に、コロンブスのために船を艤装し、資金人間を貸與した西班牙女王は、新大陸の大部分を自治領として取得し、かくて玖瑪、ジヤメイ力等の島々の螺列する西印度諸島を足溜りとして、中米及南米の金銀を掠奪して本国に運んで来た。 


 当時英國の海賊の限を着けたのは、この西印度より帰り来る西班牙船上の全銀であった。

 これを襲撃して掠奪することが彼等の儲け仕事であり、イギリスの大海賊ドレークは、1585年、25艘の帆船に、2500の海賊を積んで西印度諸島を襲撃し、或は、パナマ地峡で三個の隊商を襲った時程は、一頭の背に銀300封度を積んだ驢馬190頭を掠奪したと言はれ、いかにその収穫が莫大であったかが想像されるのである。

 この海賊ドレークによる西班牙無敵艦除の全滅は、遂に何憚るところなく西印度と米大陸との掠奪をほしいまゝにし、彼等がロンドンに齎し帰った金銀は莫大であった。

 ドレークが海上掠奪を続行しつつあつた時、ジョン・ホーキンスなる海賊は、南北米大陸の熱帯地耕作に労働者の訣乏せるを知り、ここにアフリカ大陸の善良無防備の黒人の無数に生存せるを見、茲に新商売として、黒人を掠奪して米大陸に奴隷として売却するといふ商法を發見した。

  かくて非道残忍の方法をもって、アフリカ土人を捕へ、積荷の如く鎖につなぎ、彼等を米大陸に輪出した。此イギリス的商売は一航海で七八十萬圓の純益をあげることが出来た。 しかも、一年に平均十萬人の黒人が米國に売られ、その取得したる金額は数億に上った。


 かくして英國には、海賊と奴隷資買とにより、年々数千萬圓の銀が流入し、俄然として欧州第一の富強國と化したのであった。


 エリザベス子王はこれ等多数の海賊を公然と認容し、更にこれを官廷に呼びよせ、自ら勲功を與へ、ここにイギリスの資木主義的發展、海外植民地獲得の時代が始まるのである。
  

 『知識は力なり』と叫んで旧イデオロギーの排撃を企て、唯物的個人主義を主張した、べ
イコン哲學こそ、彼の思想の上にイギリス世界制覇の根木原理は表示され、近代欧州 の自覚と方向とが決定されたのであり、更に、十字軍による東方サラセン科學文化の奪取により得た科學によって世界征服の実践が始ったのである。

  かくして宗教は全く國力發展の武器であり、老獪極まる利己的謀略であった。 また37篇の戯曲を通じ、シエークスビアの作品を貫く最大の赤き絲、中世の神より解放された新しき自由なる人間の行動とその意慾、(彼はその全戯曲を通じて、唯一言もキリスト教の神を口にせず。)この戯曲こそイギリス政治家の最も巧妙なる政治的訓錬、手腕等の具体的表現であり、暗殺、復讐、欺瞞等の恐るべき解明であり、ここにイギリスは世界制覇政策の人間的指導を與へられ、中世紀的封建制は、ここにイギリスの海賊的商業主義に破られ、さらにユダヤ財閥との結合による産業の発展となるのであった。
 
 かくしてアメリカには始めて、このエリザベス女王に因めるヴアージニアの地が開拓さるるに至ったのである。

 

四 資本主義の出現      

 これ等は必然に國内の階級的矛盾を生じ、カーライルの記した『神の外何ものも恐るるなき』自由主義的イデオロギーの実現者オリヴァー・クロムウエル(ユダヤ人)のイングランド革命となるのであった。

  彼は國会を武装蹶起せしめ、國王チヤールスの封建的騎士軍と抗争し、数年に且る内戰の後、逐に國王は死刑に処せられた。かくしてクロムウエルの清教徒革命により、新教とはイギリス資本主義的自由主義のイデオロギーとなり、クロムウエルは獨裁官となり共和制を実施した。彼は徹底せるユダヤ的
唯物論者であり、近代資本主義の基礎を確立した。
  

 イギリスの國力は愈々強大となり、当時世界最高のオラングを破り、東方貿易権を奪取した。
すでにイギリス王権は全く衰微し、人民の権力による議令政治が始められ、かの重商主義は、その政治的経済發展の武器となり、それはイタリア、フランス等の旧教文化権を崩壊せしめる思想戰であった。イギリスの自由主義こそ最も巧みなる自己保全と、植民地獲得の最大の武器であった。


篁(たかむら) 東陽 著『東條英機と世界維新』 第二篇 世界維新論  第二章 フアツショ・イタリア

2022-12-13 10:01:58 | 東條英機  



    (たかむら) 東陽 著「東條英機と世界維新」
 


  第二篇 世界維新論  

   

  第二章 フアツショ・イタリア

 ー イタリアの行動   
かつて國際的整理の策を討議せんために、世界各國の代表が集まってい会議の席上 で、合衆國の外相ケロツグは、

『世界の政治史に、今日より新しき時代が始まる』 と祝辞を述べた。

これに対し伊國代表は
『新しき時代は、各國民の有する進展の必要が、正当に認容される時から始まるであらう』

と応答した。
 今、ムツソリーニは、古代ローマ帝國の復興を企画し、大アフリカ主義、地中海制覇を着々実行しつつある。
 しかも我々は、このフアツショ精神の中には、ムツソリーニ自身屡々口にする如く、明かに我日本の武士道の影響があり、またそのイタリア國家観には、最も日本国体の模倣の大いなるを見るのである。
 かくてフアツショを問題とする時、まづすでにイタリア・フアシスタが日本文化を移植せることを知らねばならない。
  
 かの満洲事變において、日本が旧世界体制の一角を破壊して新國家を建設したることに 対する國際聯盟の反封、これに飽くまでも屈せず、それを拒否せる態度は、イタリア に異常なる衝動を與へ、かくてそれを模倣してエチオビア遠征となるのであった。

 しかも日本に対し、英米が最も積極的に反対せる如く、イタリアに対しても、英國が経済制裁をもつて対抗し、ここにイタリアの國際闘係は、明かに英國を敵とし、日獨の側に 急速度に接近するに至ったのである。
 
  時に、エチオピアを繞(めぐ)る英、伊の角逐が激發され、一触即發の危機を前にして、世界の眼が期せずしてこの一転に集中している時であった。ムツソリーニは、日本記者団を招待し、皇軍の忠誠勇武たるに讃歎しつつ、 次のやうに述懐して呵々大笑した。
 「今若し予にして、世界に冠たる日本軍隊を指揮し得るならば、予は世界統一を完成する ことも敢て難事とは思はない。』と。

 そして彼は喝破した。
『アジアの嘆いている不宰のうちに、アジアの覚醒のうちに、アジアの反撃のうちにこそ、 我々は「我々自らの顔そのもの」の反映を見るのである』
 さて我々はイタリアの行動の歴史の跡を、諸君と共に俯瞰するであらう。

 

二 青年イタリア同盟  

 大ローマ帝國の解体以後、イタリアは封建諸國に分裂し、或は他國の支配下にあって、 何ら國家的民族的統一を有しなかった。

 19世紀の初頭、ウイーン会議に対する國民の憤激より 「炭焼党」と呼ばれる秘密結社が、民族解放と國家統一のための革新運動を、地方的に勃発せしめたが、それは 南部イタリオアにブルポン朝を復活し、北部イタリアをオーストリアに與へて、ローマ法王の再興を企てたことに反対する反乱運動に過ぎなかった。 かくて1830年代より40年代に亘り、『イタリーとは、ただ地理上の名である』とオーストリアの専制政治家メツテルニヒが豪語したオーストリアの抑圧に抗し乍ら、盛大に民族獨立運動の実践となった。

 ここに『青年イタリア同盟』の生誕となり『我イタリーを愛する事の深きが故に却ってイタリーを追はれんとす』と慟哭した、熱情漢マヂニーが首領となり、ナポリ或はサルデイニア等に地方革命を起し、1860年5月熱血児ガルバルディはヂェノヴアのクアルト村より一千の手兵を率いて南下し、シシリアを平定し、ナポリを奪取しここにイタリア統一を為さんとした。

 『伊太利の自由の暁鐘、今、君の手によりてぞ鳴り渡る』と言はれたカヴール、クリスビーの政治力は更にその結合を大にし、ここに1870年普佛戦争によるイタリア 軍のローマ進軍となり、統一軍はピァ門より堂々ローマに入城、エヌマエル二世はイタリア王國の王冠を受け、イタリアの國家統一が實現されたのである。
 『イタリーは成りぬ。凡ては安全なり』と。
   


三 イタリア人の住む土地をイタリアへ   

 1914年欧洲大戦は勃毅した。『戰争か中立か』國内の動向は四派に分裂した。
 一は社会主義及カトリツク教徒による絶対中立派であり、
 二はこれに反対する絶対的な参戰派であり、
 三は所謂條件的中立派、
 四は條件的参戰派であった。

  大戰の初め、イタリアは何等参戰すべき理由はなかった。
 故にムツソリーニは飽迄反戰論者であった。しかるにイタリア民族の重圧はオーストリアであり、この大戰によってそれより解放さ
れんとする國民的要求は熾烈化し、『イタリアに自由を與へよ!』との呼びは、『イタリア人 の住む土地をイタリアへ!』のスローガンの發展となり、國民党の一部、及び詩人ダヌンチオ等の主張せる開戰論が勝利し、途に1915年5月聯合軍側に参職した。

 一度びイタリア参戰に決定するや、ムツソリーニは俄かに主戰論者となって、社会党の厳正中立の反対派と激烈に抗争し、ここにイタリア社会党より除名され、急転直下大いに 愛國的運動に全力を盡すに至ったのであった。

 

四 イタリア共産党    

 欧州大戰を契機とする1917年のレーニン等によるソヴェート革命は、猛烈にイタリアの地に侵入し、大いに社会党の力を強大にした。1914年には社会党は僅か五萬八千人に過ぎなかった、1920年には21萬6千人に激増したのである。
 しかもソヴェート革命の宣伝に全く中毒したインテリ的急進社会党は、完全に共産主義化し、盛んに各地にゼネストや騒擾が頻発した。
 北部イタリアの諸市は殆んど左翼化し、ミラノの市庁には三年間三色旗が翻り、さらにそれはいつしか赤旗に変わっていた。
 かくて赤色テロは至るところの街上にあふれ、時にヴェルサィユ平和條約が、全くイタリア國民の期待を裏切ったのを知るや、大衆は悉く激昂し、遂にそれは反ミリタリズ ムに進展し行くのであった。

 1919年社会党はポロニアに退会を開き公式に第三インターナショナルに加入を決議した。
1920年7月には『イクリア金属工聯合』が賃銀増給のためストライキを開始し、9月1日には工場占領を決行した、時に1919年『戦闘団』を結成せるムツソリーニのファッシストは、これを契機として 武力をもって罷業破行を敢行した。

 遂に1922年6月社会党は最後の決戰のため、勢働総同盟の全國的ゼネストを宣言した。 しかも地方的には無統一を暴露し、足並全く揃はず、これを見るやフアシストは蹶然起って政府に対し強硬宣言を發した。

 『四十八時間以内にストライキを終らしめないならぱ、ファシストは政府に代って自由行動をとるべし』と。 ここに政府は止むなくフアシストと提携してストライキを鎮圧せんとし、この機合に乗 じ、フアシスト一挙に社会党、共産党を圧迫し、これ等の系統に属する官庁、役所、新聞社、組合、住宅等を悉く襲撃、これに対し社会党側も武器をもって応戦し、赤々と照る南國の日の下に、愛國者の血潮は燃え、全国いたる所市街戰に色彩られた。  


五 ローマ進軍    

 これよりさき、1917年未イタリアはカポレットにて、オーストリア軍に大敗し、この國辱は却って全國民を憤激せしめ『國家防衛』のフアシストの結成となり、当時、戦争終結して帰國せる軍人は、一般國民に蔑視され、これを防護するために『戰闘団」が 組織され、ここにフアシスト党が成立した。

 時恰もダヌンチオのフユーメ占領は、その詩人的熱惰により、國民の愛國心の高揚となり、また北部ではトリノ大學総長ヴイダーリがフアシストに加入し、続いて王党の大學生がこれに従って加盟した。

 『フアシズムはボルシェヴイズムの絶対の敵にして、労働者の利益は絶対に尊重す』とのスローガソは揚げられ、1921年ローマ大会の開催と共に、始めて党として議会に進出、議席35を占めるに至った。

 1922年フアシスト戰闘団は休職陸軍中将デ・ポーノ、代議士デ・ヴェッキ、旧9戰闘団員バルポの三人を最高首脳部とし、フアシスト民軍の組織を固め、ナポリに全國大会を開きここに國王への忠誠を誓った。
 時に党員50萬。かくてローマに帰れるデ・ヴィエッキはフアクタ内閣に総辞職の弾劾演説を決行し、遂に内閣は互解した。

 時を移さす10月27日、フアシストは全國に宣言し、檄を發し、28日首都ローマへのデモが敢行され、都市の停車場、郵便局、官衙等は一切ファシストによ占領され、更に自由主義、左翼的な新聞社、翼左翼働者等を抑圧し、ローマ市の周囲は武装を整へたる五萬のフアシストが物々しく終結した。

 秘密裡に印刷され幾日もの間この日を待つていた檄文を積んだトラツクが、暗夜の市内を勢よく駆り、街路にはイタリー全土に散布され、辻々に張り出された檄が一陣の風に舞上つていた。 

『「フアシスト! 全伊太利人! 
 決戦の時はつひに来た! 今日、隊長と軍団は動員された。ファアッシズムの戒厳令が布かれたのだ。政椎が我等に手渡されるか、然らすんば我等自らローマに進撃せんのみ。時態は時開の問題となった。國家守護の任にある祖國の軍隊は、この戦闘に加はってはならぬ。
 フアツシズムは、ヴイトリオ・ヴェネトの軍隊に、最高の崇敬を拂うものだからである。
ファッシズムの攻撃せんとするものは、行政官庁、警察にあらずして、無智、無能、無力なる政治家共である。彼等は四年の長きに亘って、国民に眞の政府を與へることすら出来なかった。
 生産階級を形成する人々は知って戴きたい。我等はただ國民に秩序と規律とを與へ、以て経済的進歩と繁栄とを齎すカを、更新せんと欲するものである。

 労働者よ! 農園と工場に働く人々よ! 鐵道と船舶に従事する人々よ! 事務員よ、 吏員よ。
諸君はファシストの支配を毫も怖れてはならぬ。我等は忠実に諸君の正当なる権利を尊重するものであり、武器を持たぎる相手に対して我等は寛大だからである。されど我等に反抗するものに対しては寸豪の仮借なし。

 今我等はイタリアの生活を復雑怪奇、紛糾錯雑せしむるゴルデイアン・ノツトを切断せんがために剣を抜いた起こったのだ。全能の神と五十萬の戰死者の霊も照覧あれ。この唯一つの希望この唯一つの熱情のみが、我等を動かすのであることを。我が國家の救済と偉大、これぞ我等の目差す唯一のものである。

 全イタリアのフアシストよ!今ぞ!祖國の歴史の朝に、ローマ人としての汝の精力と力とを奮起せしめよ。我等は勝たねばならぬ。退歩は死だ。われ等は制服せねばならぬ我等は必す征服する。イタリア國民の運命は、今ぞローマに繋がっている。
伊太利萬歳!フアシスト萬歳!』

 永遠の都羅馬難へ!羅馬へ!城門はすでに我等指呼の間にあり。
その時『伊太利國王陛下は、貴下が直ちに羅馬に来らるることを希望せらる。陛下は貴下に内閣組織を御下命あらせられんとす。侍従武官長チッタデイーニ』

 恐ろしい程緊張の状熊にあったムツソリーニの許に、黄色い封筒の電報が配達された。ここに後継内閣の組織はムッソリーニに委嘱された。

 閉ざされた城門は、今、サッとばかりに八文字に開かれた。見よ!粛々として東、西、北の三門より、難馬の城門をくぐりつつあるフアシストの若々しき威容を!

 たとへ彼等の顔面は汗にまみれ、その身体は塵に染みていようとも、彼等の胸の中に燃えつつある焔こそ、一意ただ國を憶ふの愛國の至情である。われらの力をもって祖國岡イタリアを救はんの熱意はその眉宇の間に清く溢れ、彼等は昂然と天を仰ぎ見る。南國の光は燦々
として、その頭上に輝く、ああ、今ぞ我等勝てり!

『ああ清春!青春!』
 若々しいフアシヨの歌が楽隊につれて南國の寮に交響する。かくて颯爽たる市内行進に威風堂々と続いて行く。

この有名なローマ進軍の威力の前に、遂にフアシスト革命は成り、ムツソリーニ政権は一挙に樹立されたのであった。

   
六 國内改革    
 文芸復興期の短かき栄華を除いては、暗黒と圧制と戰乱と疫病と無智と虐殺とが、伊太利の地と民との運命であった。この悲痛なるイタリアの苦悩を、全身全体的に宿命として表白せるものこそ、多情多感な哀愁の天才詩人レオバルディであり、彼はこの永遠苦を誦する詩『復活』にあって
  あはれ我が涙わきしも、かのふるき愛なりしかな
   さはれ我が胸のものかに、なほあつき心消えざる  
  つかれたる幻影のうち、古き思ひ出を求めなば 
  げに我が悲しみこそ、なほつきぬ悩みなりしか  

 これぞ革命と熱狂と神秘と死との中にあって、新しきイタリア民族の復活を夢みる、哀愁詩人の悲痛な姿であった。

 この苦悶のイタリアは今、ムツソリーニによって再生せんとする。
1907年フアシズム大評議会の立憲化により、フアシズムの獨裁制は確立され、新憲
法の起草となり1928年5月28日法律として發布された。

 かくて反対党なき議会の成立は、唯一の政党たるフアシストに属しし、ここに全國一党と化するに至った。同年11月8日の大評議会の立憲化が決定するや、それは國家機関としてで大権を握るのであった。これよりさきムツソリーニの政権獲得後も、フアシスト対左翼の対立は極めて先鋭化し、流血の惨を見ること頻りあった。

 この間、社会党代議士ヂアコモ・マテオツテはフアシストの為に暗殺され、共産主義者ポルデイーガ、タスカ、レポツシの如きものは、い つしか行方不明となった。 かくて革命の嵐はイタリアのヘーゲル主義者にして世界的芸術哲學者クローチェ、歴史家フイレンッ、大學教授サレヴェミニ、財政學の権威にして前首相フランチエスコ・ニツ チィ、経済學者アルトウーロ・ラブリオーラ等はすべて國外に亡命した。

  ここにフアシストの運動はすべて國内的なものより、一般民主主義國、社倉主義的世界諸國に反響して、殊にソヴェート・ロシアとは劇烈な封立を継続した。すでにドイツにあつては、ヒツトラーのナチス運動として勃發し、オーストリアに対し てもフアシスト化は漸く大となり、社会民主党を圧迫するに至った。

 34年オーストリア の首相ドルフスがナチス党員によってて暗殺されるや、未だムツソリーニとヒツトラーの提携充分ならず、イタリアは直ちにアルプス國境に出兵し、一時風雲急を告げたが、この険悪の空気は却つて逆効果となって、フアシストとナチスの結合促進を示すに至った。 


七 戦争か平和か     

 1935年8月22日、英・伊をめぐるエチオピアの世界危機は、イギリスの硬化と共に深刻化し、風雲は地中海に急転して愈々 険悪化した。 憤激せるムツソリーニはこの非常時の最後の一線に立って、切實なる自己表白を宣言した。

 『今や聯盟理事会がジユネーヴに開かれ、再び伊・エ紛争を取上げこれを審議せんとしているが、イタリア政府としては、エチオピア問題の解決は、この際徹底的且最後的のものたらしめんとする断固たる鐵の決意をもって臨んで居る。
 たとへ聯盟が介在すると否とに拘らず、あくまで自己の所期の目的に向って邁進する。若し形勢の推移如何によっては、或は聯盟の意志に反して、自主的行動を採るの止むなきに至るであらう。』
 
 このイ・エ問題に対するイギリスの積極的介入は、その美しき仮面「人類愛」「正義」「平和主義」等によるものにはあらずして、英園は決してエチオビアの危機を救ふ為ではなく、否もともと英國はエチオビア黒人種は、人間とは思っていないのである。 

 当時宜博された人道主義的、或は、國際聯盟の理想主義的行為では少しもなく、自分の為にイタリアエンルギーを弾圧せんとしたに過ぎないのである。
 なぜならばイギリスの基礎はインド、アフリカに瓦る大植民地の上にのみ成立している ものであり、エジプトに及ぶ巨大なる支配権は今このエチオピア問題を契機として、俄然 不安動揺を来さんとする大事件が勃発するやも計り知れないからであった。  

 即ちイタりアの昂奮せるエネルギーを如何にせば沈圧することが出来るであらうか? それは全植民地人の耳目を集注して凝硯しているところだからである。 インドにガンヂーの叫びを聞くまでもなく、特に黒人種の敏感に恐き耳を立てている事件であり、若しイギリスの植民地政策の強化にして断手たる権威を表示しない限り、逆にイギリスの鼎の軽重を問はれる危険を内蔵していたからである。

 イギリスにとって、地方をイタリアに奪はれても、その植民地民族の反抗的獨立よりは忍び得る。英國はただ植民地民族の獨立、反抗を最大に恐れるのである。果然英國は全植民地に強硬なる抑圧をなし、外報を遮断秘かに老獪にもエチオビアを、自らイタリアと共に植民地的分割をなさんと企てたのである。

 ここに最も滑格なのは当時日本國内に於けるインテリ上層部言論機関がイギリスの吹く笛に踊らされて騒ぎ立てたセンチメンタリズムであった。 我々は当時盛んに論じられた一知半解の徒の歯の浮く様なイタリア反撃論を、ここに再現する余猶を持たない。

 が、唯一つ最も許しがたき行為として特筆すべきは、彼等が童話的傳説で固められたエチオピア國史や、王位纂奪幾百回か計り知れぬ主権者の推移を、皇統連綿たる正統系図を辿るものの如く作為し、しかも之を光輝ある我國体の歴史と対称して、野蛮國の主権継承を、畏くもわが御皇室のそれに比し泰るが如き態度をもって、自ら知性あるものの如く装ひ、臆面もなく論じ立てた、不忠・不敬の國賊漢の今尚教養階級として白日の下に堂々と闊歩している事である。 

 しかも彼等の謬見が、滔々として日本國民の中に流れこみ、一種の國論の如き観をなしたのである。然るに彼等は括として恥じるところなく、この重大誤謬は其の後の日木の國園策の上にもあらゆる失敗を繰り返さしめつつあるのである。
 
 当時ハイレ・セラシェー世は表面日本に救ひの手をのばし乍ら、裏面ではエチオピアの最も有望な姿源を彼れ自らが憎いと言ふ白人種のしかも英人リケツトの名義に書きかへ、英米二國にこれを譲渡せんとしつつあったのである。

 これは恰も今次支那事變に於ける蒋介石と英國の関係を彷彿さすものがあるのである。しかもこの間、イギリスは印度の動揺反抗を極度に怖れ、無数の爆撃機は非人道的ダムダム弾を満載して、武器なき無辜の民を、ただみせしめの偽に大量に爆死虐殺せしめつつあった事實を知るや否や。

 さて。然らばイタリアのエチオピア侵略は、果してエチオピアそのものの獲得であったであらうか?

否! ムツソリーニにして経済的に恵まれざるエチオビアを占有することに満足するものでは決してない。イタリアの其の敵はいづこにあったか? 

 これこそ多年忍びに忍んで来たイギリスそそのものに外ならなかった。 かくて東阿遠征、東阿はエチオピアにあらず、英領スーダン(ランカシァ綿業の原綿産地)、エヂプト、アデン地方、更にチュニスに及ぶ一帯、さらば征け!わが目的は東阿の獲得にあり! と心中ひそかにムツソリーニは叫んでいたのである。

 これこそ一見無暴に見える遠征軍が、意外に巧妙を極めた最初からの計画であった。
野蛮國 エチオピアを討て! 
この名目の下に、この旗の下に遠征、出兵・出兵、東阿はイタリア軍に充満する時、ムツソリーニの胸裡に、彼の胸中に、大シーザーの、ナポレオンの夢想が、今エヂプト征服、古代ローマ帝國復興、嗚!
イタリアは、大エヂプト五千年の文化の美しき象徴たる最後の華クレオ・パトラに感激したシー ザーの如く、或は若きナポレオンの如くいま若きイクリアの血を高鳴らせつつエヂプト遠征に出發する。
たとへ若し海戦でイギリスに破るるとも、我得意とする大空軍の威力と、あの大陸に派遺せる遠征軍が、大擧ナイル河を北上する時、誰か『五千年は汝等を俯瞰す』と叫ばぬと言へよう。

 ここに至ってイギリスは始めて愕然として色を失った。

 元来イタリヤは『持たざる國』であり
『地中海人の地中海』
『大アフリカ主義』を絶叫をしつつ、シザー、ナポレオン主義によるアフリカ侵略は、ムッソリーニ・ファッシズムんぼ本来の大主願である。

 かくて全欧の唖然たる中に、十萬の大軍は、イタリアはさながら火の手をあふる暴風の如く、十萬、二十萬の大軍は、『ムツソリーニ万歳、イタリア万歳』を絶叫しつつ東阿の危険地帯に進發する。

 『すでにルビコン河は渡った。ああ我が運命の賽は投げられたり。一歩退くこと、これぞ致命的没落を意味する。進め! ただ我等の未来は前進あるのみ! アルプスを越えよ! そこにイタリアの平原は諸君の来るを歓喜して待つであらう』と叫んだ、あの若きナポレオンを思ひ、
 エヂブト攻略に『我来たりり、我見たり、我勝てり』と叫んだ大シーザーの幻想は、今ムツソリーニの心奥に去来し、彼は自ら飛行機を操縦して、ナポリの港に赴き、東阿に出發する黒シャツ遠征隊を前にして、あの彫刻的風貌に、屹と前方を睨んで、 激越な火の如き演説を強調する。

『今や歴史上最も重要なる一頁が諸君の手よって書くかれんとする。イタリア兵は常に黒人種を敗北せしむるものであるといふ事實を、諸君の手によって更にーつ加へよ! 四萬のイタリア兵が十萬のエチオビア人に囲まれて孤軍奮闘したアドワの一戰を除けば、勝利、 常に我々の上にあったのだ。今全イタリアの子等は、諸君の背後に立ち、手を額にしてこの活動を凝視している。今日のイタリア人は徒爾なる生活を忌み、英雄的生涯を選ぶこと勿論であるが、将来の彼等は更に一層光輝ある歴史への貢献者たらんことを希ふであらう。

 全世界はファッショ・イタリアのこの厳粛なる勇気を否応なしに認めざるを得ない。實 に黒シャツ隊にこそ、不減の勝利は属するのである。藻命の星は今汝等の掌中にあり!』 との猛火の咆哮に対し、全軍は一斉に、『その勝利こそ、わが部隊に!らと絶叫しつつ港頭は涙と叫びと歓呼の興奮に、嵐の如く渦巻いた。

 船が港を離れると、ムッソリーニは吐き出すように獨語した。 
『外國の與輿などは無気力なあやつり人形にすぎない。
そんあものは、黒シャツ隊の熱意で焼き捨ててしまふまでだ! 
俺は彼等過去の亡雲者輩の強迫に怖れはせぬ!』と。  

 去り行く船からは、高く長く幾度かファシスト万歳の告別の叫びが、南國の太陽キキたる光の下に、紺碧の海波を大きくゆるがして行く。自信に満ちた徴笑が、ムツソリーニの目尻に浮ぶと、ひときわ彼の大きな顎から唇にかけて笑ひの影が流れる。と見る間にそれは救秒開の後、全身をゆり動かす爆笑となって行った。 


八 両巨頭の握手  

 これに反し老大國イギリスは、日頃の冷静と余裕とを全く失ひ、大戰以来の最大の緊迫気分の中に、英國が起って一戰をするか否かの、イギリスの運命を決する重大閣議は、歴史ある首相官邸で開かれた。

 やがて瀟洒(注、ショウシャ。さっぱりした薄い)たる夏服に老躯を包んで出て来たマクドナルドは、先程入る時の、世界運命の苦悩を刻んだ、憂鬱を深く胸中に秘めた、あの緊張した表情はどこへやら、上機嫌にステッキをあげて笑みかけた。
 
『極めて朗かだよ。 何、冷静だ。イギリス政府の方針は簡単明瞭、すっかり腹はきまった』と一言して去り、ポールドウインは直ちに8時20分の列車でエクス・レ・バンの避暑地に帰り、他の閣僚もまた夫々避暑地に赴いた。

 かうした平然を装へる偽装こそ、イギリス政治の傳統的な謀略的ポーズであり、従来の日本首脳者の常に欺瞞されたところである。

 この老獪な呼吸によって、彼は暫く最大の神経ををふるはしつつ、来るべき状勢を耽々と偵察するのである。
 しかも閣議の内容は、『今後フランス政府と密接ななる連絡協調を保ちつつ外交機関でイタリア政府と平和的解決策の發展に努力する』と言ったものであり、
 世界に向ってはあらゆ
る言論機関を動員し、「スエズ運河閉鎖」によって、一時的威嚇をなしつつ、しかも このことがイタリアに相当のショツク與へたと見るや、すかさずその一手販売の経済封鎖によって、あくまでイタリアを弾圧せんとし、一方では大英帝國未だ老いずの権威を示さんとする。

 所謂、英外交得意中の一手を用ひるのであった。然もこのスエズ紛争にあって、隠れたる強力な根本的原因こそ、これこそイタリアより以上にイギリスを苦悶さすものであったが、実にハイル・ヒツトラーの叫びに戦慄した全ヨーロツパの不安であった。
 
 ナチスの勃興は一時欧洲を全く不可解の紛乱につき落したのである。当時極度にナチスへの圧迫が加はると共に、ヒツトラーの神経は異常に顫(注:セン。ふるえおののく)動した。

 彼は遂に3月16日ヴェルサィュ條約を破棄する再軍備宣言の一大爆弾を全世界に投じ唖然たるイギリスはこれを黙認する如くであった。

 ここにヒツトラーの深謀は、政権獲得の途上において親英策をとり、むしろイギリスの支持を背後に有しつつ強大化し、一度び ナチスがドイツの派遣を確保するや、巧妙に一歩一歩従来の態度を一變しつつ反英政策に導いて行ったのである。

  凝と眼をすえて虎視眈々と機会を覗っていたヒツトラーは、このエチオピア問題を契機として、多年のイタリア・ドイツの対立を拒否し、その全体主義國家としての共同戦線をもって、英佛ソの民主主義國家に封立する両巨頭の水も濡らさぬ堅き握手となったのである。 

 とは云へ、ムツソリーニはエチオピア遠征をもって植民地鎮圧となし、とれこそ白人文明擁護のためと主張する。しかもこの目的のための遠征こそ、我々は却って白人相互の恐恐るべき内部闘争と化し、白人文明そのものの必然的崩壊をもたらす悲劇的自己矛盾たらんとするを見るのである。 

九 イタリアの方向

イタリアがエチオビアの獲得なるや、同時になされたことは、リビアの自動車道路建設であった。

そして彼は次のやうに宣言した。
『我々の祖國ローマは紀元前3世紀、地中海世界を所有せるカルタゴを敵にもつことによって、自己の基礎と國民意識の統一とを計ったのである。今日我々のイタリアは現在の世界を壟断せる大英帝國を敵となすことによって、将来の大イタリアの実現――古代ローマ帝國復興の鴻業を遂行し得るのである。リビアの自動車建設道路は、単なる一道路建設ではなく、ローマ帝固の重要なる大アフリカへの一線を構成せんが為である』

 ここにイタリアの発展方向は、トルコ、アラビア、東アフリカ等の回教徒に対する積極的な働きかけをなし、全面的な反英戦線を強化せんとする。

 かの有名なアラビア人煽動演説に於いて、彼は自ら白馬にまたがり右手に高く剱を捧げ左手にしっかりとコーランー巻を握って、回教徒諸民族に向って曰く、
『アラビア人よ!諸君の祖先は中世ヨーロッッパが輝けるエジプト、ギリシア並に小アジアの文明を中断せる 時に、最も高邁なる精神と闘争によって、それら人類の偉大な文化遺産を継承し研鑽し、以てヨーロツパの近世的勃興を対する架橋の大業をなしたのである。
吾々の近世ルネサンスも、欧洲の近世諸國家も、諸君の祖先より継承し来れる文化遺産によってはじめて成立し たのである。
 即ち諸君は我々近世ヨーロッパ人の恩人である。然るに今日、その諸君がイギリス帝國主義的侵略と搾取の下に坤吟せる睡史の事賓を、ヨーロッパの唯一の目覚めたる魂は凝視して来た。イタリアは今や、その魂の命令に従ひ、欧洲諸園家を代表して、そ
の正当なる報恩の義務を履行せんとする。今敢然と吾々は正義の名において、アラビヤ人の保護者たることを宣言す』と。

  この演説はアラビヤ系全回教徒に交響し、リビア、エヂプト、小アジアのみならす、西は佛領アルゼリア、モロツコ、セネガル、東は中央アジア、ウクライナ、印度、支那に跨る回教徒諸民族の間に、歓喜の電波となって広まっていった。

 なほ、フアシズムの思想は、自由主義民主主義國家体制に対立するに止まらす、赤化ボルシェヴイズムに対する果敢なる闘争をも決意するのである。

 イタリア精神は、その熱烈なる南欧的激情を民族國家の為に発揮する時その本質が明かに示される。ここにムツソリーニによるフアシズムの精神は、今や古代ローマ復興の偉大なる目的を有し、その民族的統一のために、個を犠牲にする、全体主義的情熱の積極的表現となるのであった。 

フアシズムの思想は、國家及民族の創造的統一的なることを主張することにおいて、最も日本的なるものへの近似性を示すのである。

 しかも、ムツソリーニをして、社会主義よりこの方向へと進展せしめたるものは、實に彼自ら屡々告白する如く、日本の國体研究、日木精神の把握にあることを思へば、ファシズムの実現はイタリアに於ける日本精神の移入であり、ことに日伊の精神的的統一としての同盟は結ばれるに至ったのである。


篁(たかむら) 東陽 著「東條英機と世界維新」 第二篇 世界維新論 第一章ナチス・ドイツの理念

2022-12-02 22:09:52 | 東條英機  



    (たかむら) 東陽 著「東條英機と世界維新」
 


  第二篇 世界維新論  

   

  第一章 ナチス・ドイツの理念  

一 獨逸目覚めよ! 

ムツソリーニは曾つて言った。
『ビスマルクが二十八年かかつて建設したドイッ帝國を、カイゼルが三十年かかつて壊してしまつたのだ。』と。


 第一次欧洲大戰以後、ヴェルサイュ条約の桎梏の下にあって、深刻を極めたドイツの社会的苦悩は、遂にドイツそのものを全く解体し、減亡するかに見えた時、鳶色シヤツに武装して、右手を高く差し上げ、俄然、狂気の如く『ドイツ自覚めよ!』と起ち上った
、ヒツトラーを中心とするナチスの進出こそ、今やドイツの驚くべき復活を示すに至った。

 ヒツトラーのヴェルサィュ条約の破棄と、ドイツ第三帝國建設の熱烈なる主張は、チエッコ、続いてオーストアの滅亡となり、ポーランド、デンマアク、ノルウェイは相続いて屈服し、オランダ、ベルギー二王國また崩壊し、ここにフランスの降伏によって世界 戰図はめまぐるしい程の慌ただしさをもって塗り變へられた。
 しかも戰火は第二次欧州大戰を必然化し、それはバルカンより獨・ソの宿命的死闘にまで登展していった。

 しかも若きドイツは國内にあつては、来らんとする時代への、エネルギー費展の主龍を 青年の中に求め、とれに呼びかけ、方向を輿へ、又少年に向つては、ゲルマン族のヨーロッパ發展への意志と矜持をこれに植えつけ、男女を問はず、階級を問はず、ドイツの青少年団の活溌な旅行編成隊となり、北海を過ぐる新装ドイツ船に溢れる青少年団は、自己の建設すべき世界を其処に映し見、血に塗れたドイツ國土再建を遍歴せしめては、鋤を自己の生命と思はしめ、或は地球に鮎在せるゲルマン族の活動を銀幕に映しては・明日のドイ ッ建設に歓呼せしめつつあるのである。

 然もこれ等は国庫負担の旅行委員曾の手によってなされつつある。かくてナチス・ドイツの活動に驚嘆し或は戦標する。今や日本国内に於いても、彼等を称賛し或は恐怖するかの二途しか知らないものの如くである。

 ヒツトラーは日ふ。
 『我民族の将来の目標は、新しいアレキサンダー大王の遠征を夢想するにあらずして、剣によって獲た地を、民族の鍬によつて耕やして行くことにある』と。

 かくてヒツトラーは今や世界風雲の中心に起つてカる。彼の指一太に世界の眼は集注しつつある。

 我々はここに、ヒツトラーの人物と、ナチス・ドイッ愛展の歴史を辿り、ヒツトラーの今後の方向と、日本との関係を検討して見なければならぬ。 



ニ ヒツトラー  

 眞の天才は、殆んど不可避的に自分自身で、その世界歴史への登場を告知する。ヒツトラーは幼年時代を、カトリツク教的に教育され、上部オーストリアの都リンツの実科學校に入學、十三歳の時父に死別し、十六歳の時に最愛の母を失ひ、淋しき孤独の少年期を送った。

 彼は画家を志し、建築家たらんとして、十六歳の時、『心には鐵の決心を抱いて、なにものかにならうとして』ウイーンへ出發した。かくてウイーンの五ケ年の生活は、悲惨と苦悩の暗澹たる時代であった。

 彼自ら語る如く、
『ウイーンは今もな私の心に悲しい思ひ出のみを目覚めさせる。五年のあひだ、私はパンのために戰った。最初は労働者として、後には小さなペンキ家として働いたが、しかも私は屡々飢餓に苛まれた。』

 
  常に空腹を満足せしむることが出来ず、しかもこの荒荒寥たる孤独の貧困にあって、
『書物が唯一の私の娯しみであった。私はあらゆる機曾を利用して、絶えず読書した。この當時の数年間に組立てた知識が、いまでも私に役立っている。
 それのみでなく、この時期に私は人生に対する、イメージをつくりあげたが、そのイメージは私のすべての行動の確乎たる指針となった。
 私がこの時期に學んだものに、その後の私は殆んど何物も附け加へていないし、またその後なにひとつ變へる必要も起らなかった。
 今日私は若し創造的な観念といふものが存在するとすれば、それらは殆んどすべて青年時代に現はれるものだと信じている。将来に対する計画は青年時代に形ち造られる。成人してからはそれを掴み、それを實行するに過ぎない』
 
 この苦難時代の読書こそ、後年彼の國家指導者としての世界的歴史的知識の極めて豊かな蓄積となったのである。 

 彼の教養は後年彼の國家指導者としての世界的歴史的知識の極めて豊かな蓄積となったのである。

 政治と芸術との不可分の統一であり、この創造的な意義は、必然に彼の全体主義園家観を、民族的本能の中に登見せしめた。

 後年彼の國家指導者としての世界的歴史的知識の極めて豊か一九一二年春、彼はミユンヘンに移った。 このミユンヘンに於ける生活こそ、彼の生長を大ならしめたものであり、彼は始めて幸福なる青春の歓びと、遥かなる人生の希望に燃えたのである。
 
 西部戰線の最も危険な、苦難と恐怖の中に、最期の一線を彷徨しつつ苦戰した。

 遂に一九一六年十月名誉の負傷を負って入院。更に病癒ゆるや十七年三月再び前線に立ちフランダース地方において、イギリス軍に対し、死線を越えて果敢なる死の突撃を幾度か決行した。

 かくて悲痛な塹壕戦の長年月、一九一八年の物寂しい秋、フランダースの戦闘は、まさに肉弾相うち一切を絶滅する死戰であり、十月十三日の夜、言語に絶した数時間に旦るガス弾砲弾の落下の中に、幾多の戰友は斃れ、彼もまた負傷し、ベルヴイックの南方に退却した。之の戰闘で彼は毒瓦斯榴弾によって一時に視力を失ひ、途にポンメルンの野戦病院に入った。
 
 見えぬ両眼を押へて、病院のベツトに転々するヒツトラーの心眼には、『もう我慢が出来ない』と、マスクを脱って、ミルクの様な毒ガスを、フーと此世の最後の息を吸ふかの如く、吸ひ、やがて太い息を吐いたと思ふと、地上をのたうち踠(もが)き、反吐を吐きながら死んでいつた戰友の顔が、次から次へと浮び上って来るのであった。

 しかも彼の耳には、『ドイツよ、すべてのうへに!ドイツよ、世界のすべてのうへに』と歌った彼等の聲が今尚ありありと響いて来る。

 この間、一九一八年ー戦線にドイツ軍のカが衰退すると共に、國内の財政経済力は、長期戰の為に全く消耗し、ことに甚しき食糧欠乏に苦しめられ、更にソヴェートよりの赤化宜傳は、ドイツの基礎を根柢から破壌し、十一月の革命によって、ドイッツは全くの耽戰國に没落した。

 祖國は亡び、民族は今絶えんとする。この恐るべき憎むべき赤化革命に対し、この絶對危機を前にして、苦悩の戦士ヒツトラーは嘆き悶えた。 

 我々は彼自身のロからその表白を聞かう。
『私は母の墓前であの時程、泣いたことはない。私の青年時代にあって、私の運命は冷酷であり、私は自らの運命と闘ひ来った。
長期の戰争において、愛する友は斃れ、戰友は地上から消え去った。この時私が徒らに悲しみの涙を流すことは寧ろ罪悪である。
戰友はすべて祖國のために、ドイツ帝國の為に死んだのだ!私が最後の日、恐るべき毒ガスのため両眼を犯され、永久に盲目にたるのではないかと戦慄した時、自らの不運に泣かうとした時、突如私の良心はかう叫んだ。
 憐れなる者よ!愚かなる者よ!幾多の同志は祖國の偽めに死せるのに、汝は無気力にも号泣するのか!卑怯者奴!幾千人ものものがお前よりも百倍も不幸であるのに、それでもお前は泣かうとするのか。と。

 かくて私は自ら進むべき運命の前途についたのだ。今や私は叫ぶ。祖國の不幸を前にして、個人的の一切の憂愁がいかに項末なるものか!
 恐ろしき日に、恐ろしき夜がつづく。私はあらゆるものが消滅することを知っている。
 しかし虚言者と、犯罪者に対する憎悪は永久に消えない。この日夜、弘はこの売国的革命行為の主謀者に対する憎悪を深く蔵し育てたのである。
 今こそ私は自分の運命をはっきり自覚した。そして自己の個人的将来について憂慮した古い考へを笑った。
カイゼル・ウイルヘルムー世こそ、マルクス主義指導者たちに手を差しのべた最初の皇帝であった。

 
そしてこれらのマルクス主義者建は、皇帝の手を握り乍ら、もう一方の手を匕首に伸していたのである。ユダヤ人には無慈悲といふ手段以外で接近してはならない。でない限り必らずその手を噛まれるであらう。かくて私は遂に政治家たるべく決心したのである。』 
 

三 ナチスの發展   

 一九一九年同志五名と共に今日の國家社会党を起したヒツトラーは、當時を回顧して かう言っている。

 『私は大政党には決して加盟しまいといふ昔からの信念をもっていた。従来の政党は最早何の役にも立たない。それはすでに歴史的使命を終った自由主義と同じである。必要なのは、新しい世界観、人を動かすに足る新しいスローガンでなければならない。
  
 とは云へ、尚未だドイツ労働党に入党する決心はつかなかった。私は自問自答した。果して私にどんな仕事が出楽るであらうか。私は単に一個の無名な人間に過ぎないではないか。尚その上に私は自己の學歴のないことより生ずる困難を考へずにはいられなかった。
 智識階級の人間は、小學校も出なかった人間を蔑視する。彼等にとっては人間にいかなることが成し能ふかが問題ではなく、たゝ彼が何を學んだかと言ふことが問題となるにすぎない。「教育ある」社会が果して私のことを何といふであらうかと想像して、私は暗然とした。 

 かうして幾日間落ち着かあない日が過ぎていった。私は恐ろしく眞剣であった。何ぜなら私は一度決心したことをあとから變更するといった種類の人間ではないから、私の決心は確乎たるものであり、しかも水久の問題として決心しなければならない。 
 これは私の生涯で最も重大な決心であった。が、最早再考の除地はなかった。私はドイツ労働党に入党した。』

 かくして第一回の演説に聴衆僅か七人、その翌年に至るも聴衆は百名前後に過ぎなかった。
 彼は熱叫した。

『ヴェルサイュ條約こそ、我が民族に対する空前未聞の掠奪的行為であり、それは我民族にとって最大の恥辱である。』

 彼がかくの如く、いかに戰争に対する責任を説き、ヴェルサイュ條約に反対すれば、却って大衆はそれを反動と呼び、猛烈なる反対と野次に圧倒されるのであった。


 ヒツトラーは馨も嗄れ、髪も乱れ、狂人の如く叫んだ。が、聴衆は、空うそぶき、彼の
言葉を聴く者とて無く、反って怒号し、遂に演説を中止せざるを得ないことが屡々であった。
 
ましてインテリゲンチャは彼を一介の半狂者として嘲笑し侮辱し去ったのである。

 彼は、常に彼の言はんと欲することとは反対の事を信じ、彼の信ずることとは正反対のことを欲する聴衆を前にして、唯いたづらに悲痛な叫びに聲をからすのみであった。


 眞にーつの新しき世界観を代表する運動は、決して一時的な民衆の喝采と妥協すべきではなかった。実に歴史的最大の効果を、将来長く獲得し實現するものこそ、却って世間一般の與論や見解と寧ろ鋭く対立するものなることを、ヒツトラーは意識した。

 彼はこれ以来、敵の武器を逆用する。
 即ち彼の主張に反対する馨に対し、論争的に演説する戰法を獲得し、賓践した。それは、演説に際し、予め敵對者の發するならん言説に対して、極めて精密なる駁論を為すべき作戦を立てたのであった。

 ここに彼は敵の手を見透き、それを一歩先んじて、敵の本拠を撃破するのであった。これは忽ち異常なる効果を示した。ここに我々の注意しなければならぬ問題がある。

 ヒツトラーは現代の所謂科學教育を受けた人間ではない。具体的に言えば大學を出た人間ではない。否彼には正統な學歴なるものはないのである。

 ではヒツトラーは何によって學んだか? 彼は直接現實に學んだのである。現實の戰争に直画して學んだのだ。塹壕の中で學んだのだ。今次のドイツの赫々たる電撃戰の勝利も、陸軍大學に於けるモルトケや、ナポレオンの戦争概念を頭に入れたのではない。

 戰場に於いて、現實に直面して、自らそれを兵士と共に体験し、近代戰に於ける戰争職を観を自ら作ったのである。

 ここにヒツトラーの意識している戰争観と、恐らく英佛の陸軍大學を出た将校の戰争観とは、ドイツ対英佛の戰線に見る如き開きが生じたのではあるまいか?
 
  英佛米の支配者は所謂インテリである。過去の社会科学、過去の基礎概念
の上に・経済學を、政治學を、戰術を習得し、過去に於ける最高軍略と最高経験と最高 學識とを持ったガムラン将軍やチエンバレンは、即ち彼等英佛のやることは、事毎に、現實とは遠いものとなり、
 反対にドイツの作戰は、定規を当てるが如く正確に、凡ては計画通り遂行されて行ったのである。

 実に世界は常に流転する。時代は今大いなる転換をなしつつある。若しも現代日本にして、過去の世界観に立脚して國策が立てられるならば、遠くに例を採るまでもなく支那事變以来の我國の政治外交に見らるる如き、大いなる失敗を繰り返すことになことになり、総べては英佛と同じ減亡の運命に陥るであらう。

 
 若し今日本にして眞に新しき原則を打ち樹てるに非ざれば、日本の将来は凡ゆる方面に行き詰まりを生ずるであらう。しかも、今日の壮大無比なる世界の変転を前にして、眞にその根源において指導し、方向づけ、規定しつつあるものを意識せず、単に事物の展開、現象の推移のみを追ひかけるならば、それはすべて多彩多変、到底その的確なる認識も、また何等の確乎たる自信も絶対に持ち得ないことは餘りにも當然である。

 
 今や一切の旧き尺度は否定され、昨日までの眞理とされしことも、全く一片の価値なき誤謬として化し去らんとする。しかも尚、その否定さるべき基準、不合理なる標軸をもって、それを依然として固守し、しかも愚かにもこの錯誤せる過去の公式と法則とに無自覚にも依拠し、その標準をもって、新しき事態を推理し、實験せんか、一切のものは悉く到底これ等の法則の力によっては捕捉されず、ここに自ら『複雑怪奇』なる語をもって茫然自失せざるを得ないのである。

 日本の政治家指導者、言論機関を擧げて、ドイツ対英佛の戰争においては、『フランス敗れたり』の獨軍パリー入場のニユースを聴くまでは、英佛の勝利を信じ、しかも得々と日本國民の前に宣傳しつつあった彼等の無恥無能を思ふ時、しかも依然として彼等の言論が日本國内に今尚横行するのを見る時、我等は祖國の将来を、思ひてただ慄然暗澹たるのみである。

 
  さて、ヒツトラーの政治闘争の集会は、決して静かな会合ではなく、二つの相異った世界観の怒涛の火花を散らす猛然たる相打ちであった。かくてヒツトラーは彼等がいかに嘲笑し、罵言し或は道化者、白痴とまで言はれやうとも、それ等を一切超越して、 我が信念に向って驀進していったのである。  

 一九二一年二月三日ミユンヘンの大会場チルクス・クローネにおける彼の演説こそ実にナチスの輝かしき勝利の道への最初の進軍ラツパであった。 
 この日、寒気巌しき冬の日、朝来の氷雨は條々として、彼は予め胸に刻んだ『未来か没落か』の演題をもって、烈々火を吐く演説が開始された。

 最初の一時間が過ぎると、拍手の聲が次第に大きくなり、彼の演説をさへぎったが、二時間過ぎると、再び静かとなり、いつしか聴衆は息をのみ、彼がその後、幾度この場所で体験した、あの神聖な静粛が会場を圧したのであった。巨大な群衆は、彼の精神と一体となり、吐息の外者音一つしなかった。 
 かくて彼の最後の言葉が終るや、突然胸もさけるばかりの『ドイチエランド」の歌を唄ひつつ、聴衆は雨の戸外に流れ出していったのである。

 

四 ナチスの全体主義   
  一九三三年一月ヒンデンプルグはヒツトラーを首相となし、ナチス中心の内閣を組織せしめた。同年三月の総選挙には二百八十八人の絶対多数を占め、ここにナチスの政権獲得は成った。

  ヒットラーは叫ぶ
『我々は一個の統一体であり、吾々はドイツ民族の新しい國民運動の輝かしい未来を確信する。愛の國民運動の為に我々は死守を誓ひ、我々は我々の闘士の忠誠をもって、新興ドイッを建設し、ドイツ國の未来のために祝福する。』

 彼の民族主義、ゲルマン主義は、徹底的なるユダヤ人排撃となり、ドイツを敗戦に陥れたのはユダヤの陰謀であり、赤化運動はユダヤの政治的破壊行動であり、これに対し徹底的的なる闘争を敢行する。

『ドイツをして再び十字架の死を急ぐること莫からしめんが為め、一切を傾倒するは、吾人の崇高の義務である。我々は生存の保證と我が種族と我國民の繁栄のため、我が子孫の生長と我が血族の純潔のため、そして祖國の自由と獨立の為めに闘争する。 
 かくてこそ我が國民は、字宙の創生主より與へられたろ我々の使命を實現することが出来る。』と。

 ヒツトラーの全体主義は、力の原理、即ちーつの物理的法則、個物のエネルギーは、それが不統一ならば、各相互に衝突し、牽制して物体の力は消滅する。これに反し、一個の物体の個々の力を一定の方向に動かすならば、その個々のエネルギーは、巨大なるものとなって外部に作用する。


 彼はその個々のものを全体に統一することによって、その個々の小なるエネルギーを統一して、大なるエネルギーを結成せんとするのであり、この原理を國民、民族、國家の中に展開し、強烈なるドイツ民族意識によって結合された合一体を創造せんとするのである。

 
 それはルイ十四世時代のフランスにおいて、大ナポレオンの統帥の下に、フランス民族意議の結合統一によって、偉大なるフランスの國家的發展を達成した如く、近くはイタリアが、國家意議なき時代は、列強のカに分割されたが、一度びムッソリーニのフアシズムの出現によって、急速なる國家的統一と、その古代ローマ復興の精神の下に飛躍的進展を示したことに見られるところである。

 もとドイツはゲルマンの神話的精神の盛んであった時代、すでに神聖ローマ帝國が堂々と建設されたのであった。

 然るに三十年戰争時代、ドイツが地方的に宗教を異にし、対立的な民族感を有するに至
るや、諸國の侵略なり、プロシヤの勃興となって、フりードリヒの啓蒙思想は、近代國家建設の基礎を作り、ついでかのヘーゲルが、かの処女作『精神の現象學』の最後の結論を、悲壮な不安極まる気分のうちに書き終った翌朝、折しも颯爽と白馬にまたがり、イエナに入城するナポレオンの姿を見やって
『今や世界史がわが目の前を過ぎて行く』と言った如く、一時全くナポレオンによって蹂躙されたが、これは却って哲人フイヒテの一代の熱血奔る愛國的な大講演『ドイツ國民に告ぐ』のドイツ精神の熱烈なる絶叫となって、全國民の精神を振作し、國民精神総動員を実現し、民族意識の復興となり、自由戰争によってドイツは、ドイツ精神の結成カをもつてフランス的勢力を排撃した。

 ここに大ゲルマン國家建設への發展は、ウイルヘルムー世とビスマークの國家主義政治となるのであり、このゲルマン精神の下に、急速度にドィツは發展し、オーストリアを抑へ、フランスを破り、まさにイギリスと世界征覇の第一次欧洲大戰をなすに至った。  

 この時イギリスはドイツ國内に於ける一つの致命的なる対立分子、ユダヤ人問題を最も老獪に利用し、之を煽動指嗾(しそう)して、遂にこのユダヤ主義は、ここにドイツの精榊力を唯物的に批判しこれを冷笑し解消せしめ、更に全体國家をブルジョア階級とプロレタリア階級に分析した。
  
 ここにユダヤの恐るべき経済力は、巧みにドイツの富有階級を、利益の為の利己主義者と化せしめ、一方食なき無産階級には、無神論と、反國家的革命思想を強制し煽動し、絶叫せしめた。


 これよりさき、大戰勃發するやイギりスはユダヤの経済力と妥協し、かのバルフォア宣言なるものをもって、ユダヤの故國パレスタインの解放譲與を約し、かくてユダヤ民族はこのイギリスの政策に操られ、猛然ドイツ國家の崩壊に全力を傾倒した。

 
  彼等はその豊富なる財力の武器をもつて、市民、労働者、軍隊に対し、反國家的思想を宣傳すべき、新聞社、公共機関等を忽ち獨占した。  

 ユダヤ人は一度びソヴェート革命に成功するや、直ちにドイツの労働働者階級に対し、『戦争とは一般大衆の福祉の為になされるにはあらずして、単にカイゼルと帝國主議國家との闘争のみ。一般人民は何等の利益を得ることなき最大犠牲に外ならぬ』と宣傳した。

 かくしてユダヤ的マルクス主義者の運動は、完全に効を奏し、労働者は四方にストライキを起し、ドイツ軍隊には猛烈なる反戰思想の氾濫となった。ここにドイツ國家は悲惨なる分裂と混乱に陥り、一方ユダヤの経済力は、一切のドイツの金融産業機関を獨占し、ドイツの政治的首脳部は、いつしかユダヤ人によって代はられ、彼等によって一切の國家行動が決定された。

 ユダヤ人は英米の経済カと内通し、ドイツ経済は遂に破産を宣言され、 ドイツの學校はすべてユダヤ人の手に掌握され、彼等はドイツ精紳は全く軍國主義の残滓に過ぎず、有害無益なるものとして排撃した。

 ここに一切の精神的なるものは、彼等の称して、科學的なる観念論としてのレッテルをはられ、嘲笑され拒否され、いつしかユダヤ的唯物史観、ソヴェート的共産思想の赤化強制となっていった。

 さらに天文的数字に上る戰後インフレの深刻化。戰争そのものの必然に件ふ道徳的極度の退廃思想、デカダンス。

 其の上にヤンゲ案による莫大なる賠賞金は、ドイツをして永久に奴隷的地位に抑圧することであり、一切の軍備は撤廃され、植民地は悉く奪取され、完全なる孤立的封鎖と共に、ドイツ國民は生きながらに死の彷徨をつづけ、ドイツ國家は今や全く再起不能の如く根滅し去ったのである。
 それはヒツトラー が涙し叫んだ如く、正しく「ドイツ國家への死刑の宜告であった。)」
 
 

五 ヒツトラーの主張    

 かくてヒツトラーは絶叫する。  
 『ドイツの社会的困乱の原因は、ドイツ人の國家意識の欠如にあり、その外交的屈辱、政治的奴隷化こそ、民族、國家を忘れ、私利私慾、利己のみに汲々する財閥と結託する売國的政治家によって惹起されたものである。
 我等は飽く迄公益の前に私慾の存在を許さす、國家経済にあっては無法なる國債支払と、國際資木と横暴極まる圧迫に対し、敢然と闘ふことこそ、ドイツを解放する唯一の道である。

 しかも政治的社会悪の根本は憎むむべきユダヤ的金融支配であり、ドイツの敵はユダヤである。同時にユダヤの政治的獨裁なるソヴェート・ロシアの共産主義である。我等はこの敵を徹底的に排撃、これと死闘することによってー新しきドイツ民族精神、ドイツ國家意識を奪還しなければならぬ。
かくて始めて ゲルマン民族による、大ドイツ國の再建は可能となるのである。』

 

『種族は言葉に存せずして血に存する。同一の血統は共涌の國家に属する。血液と種族とに反する罰は、現世の原罪であり、敗北せる人類の最後である。唯一の人類の権利があり、この権利はまた神聖なる義務である。即ち血液を純粋に保持すべく注意せよ。かくて最上の人間性を保護することにより、その本質の尊い發展の可能性が與へられる。』

『我々は腐敗せるデモクラシーの全現象を打破し、その代りに偉大なるものはすべて個人の力によりのみ来たり得る。維持されねばならぬところの一切のものは、個人の能力に信頼されねばならぬとの永遠の認識を確立すべきである。』
 

『我々は議会的デモクラシーの原理を否定することにより最も先鋭に民族の権利を、その生命の自己否定の上に表徴する。我々は議合主義的組織の上に、何ら民族意志の具体的表現を認めることを得ず、却ってそこに民族意思の歪曲を見出すのである。民族の意志は、先づ第一に最も効果的にその民族の最も卓越せる人々において表現される。との卓越せる人々こそ、一國民の代表者であり、指導者であり、又唯一の民族の誇りでもあり得る。』


『マルクマス主義運動は個人の代りに数を置き、エネルギーの代りに群衆を置きかへ、全人類の文化生活の基礎を破壊する。』

『全自然は強力と劣弱との激しき闘争であり、後者に対する強者の永遠の勝利である。もし然らずとせば全自然には腐乱の外何ものも存在しないであらう。』
 

『生きんとするものは戰ヘ!氷遠の闘争たるこの現實に、何ものも為さんとせぬ者は生活し得ず。』


『此の世における偉大なるものは、一つとして人類に贈與されたものはない。一切のものは苦き困難なる戰によって獲得されたものである。同様に一民族の高揚は、容易に實現するものにあらず。内部的なる努力によりてのみ獲得さる。』


『一國民を救はんとするものは、ただ一つ英雄的に思考し得るのみ。この英雄的思考は、 しかも事賓と眞理とが要求するならば、現在との調和を拒否する決意があらねばならぬ。』

『世界歴史は常に少数者によって作られた。』 かくて彼はあくまでも創造的天才を認め、愚かなる多数主義を排撃する。とまれ。ここに彼の世界観は確立されたのである。

 

六 ナチス芸術論   

『政治上の英雄時代は、その芸術において、これに劣らす英雄的であった』
 『芸術は常に一時代の憧傑と、賓践との表現であり、鏡である。四民平等的の思考は、今や急速に消減した。英雄主義が政治的運命の創造者として情熱的に高揚している。この決定的の時代精神を表現することが、芸術本来の使命である。』

『自己の國土の中に最も深く且つ最も広く根ざす樹木は、この自らの國土の境界を越えて最も大いなる陰を投するものである。』

 また一九三八年ドイツ芸術会議にて、『第二十世紀の民衆は、強く美しきもの、健かにして生きる力あるものへの嘆賞に心を傾ける。新しく目ざめた生活肯定の民衆である。力と美とがこの時代の進軍行進曲であり、明瞭と法則とがこの努力を支配する。
  

 この世紀において芸術家たらんとするものは、この世紀に身を献げねばならない。文化上の徒食の輩には、第二十世紀には何らの坐席もない。われわれが今日果して永久に持続する意義の天才者を所有しているか否かは決定するに困難である。決定的なことは、これによってのみ大天才者が成長して来ることの出来る諸々の予備条件が、われわれの國において損ぜられることがないといふことである。

 この目的のためにーつの民族の一般的芸術財はーつの堅個なる根柢の上に保持せられる必要がある。との根柢ありて後、眞實の天才者は出現することが出来るのである。天才者は狂気ではない。ことに天才者はいかなる事惜にあっても欺瞞ではない。天才者は盲目者の間に入りて眼をーつ持っている者であってはならない。さうでたく彼は光る者の間にまじった輝く者でなければならない。』と。
  
  ここに新興ナチスの文化創造は、新しき民族芸術の表現を求め、むしろ政治的戰争を も、一種の芸術、神話、文學たらしめんとする。ここに於いて我々は我國に近代文學とし て發展し来たれる文學傾向及文學性は、他の諸文化形態と同じく、今や全く新しき根本的變革を見んとする時機に立ち到ったのを知る。
 
 今日、十九世紀的文學は古き専門化として無力化し、それ等はまさに歴史とともに没落せんとしつつある時、それに代る新しき歴史創造の文學を必須とし、かくて文學芸術の領域は大いに拡充し、時代を転換する新しき機能の實現こそ、最大の力であることを思ふのである。

 しかるに現代日本に於ては、それと反対に文學としては極めて卑俗低調なる未流文學をもつて、新しき文學かの如く装ひ、そのすでに死滅せんとする最後の苦悩のみを、眞に深刻たるものとし、更に現代西洋文明の没落による、絶望的懐疑とその末期文化の幽霊に心を迷はされ、悪と醜と病的なるものへの沈湎をもって、愚かにも文撃、芸術の純粋性、高度なる知性の文芸と自称するにいたっては、その迷蒙、その退廃、その無知に対し、これを積極的に批判論難するよりも、寧ろその自減し、自壊する運命の悲惨を見て憮然たるのみである。


 世紀の苦悩、時代の激動、一切の流転、急速なるテンポ、これ等の諸現象を、全面的に本質的に把捉し、それを統一的に表現する力こそ、眞の新しき文芸であり、ここに文學の指導性を見出すのである。

 美の國日本、神話の國日本、ここに神國としての日本は、今や自らの本質を、最高の芸術的創造をもって、世界史的表現をなすべき必然性にせまられているのである。 

 

七 ドイツの方向  

 ナチス・ドイツは常に中世紀時代の、神聖ローマ帝國時代のゲルマン的統一の復興を 求め、かくしてローゼンベルグの『二十世紀の神話』に見る如く北欧神話の民族的生命力をもって、近代的唯物論と戰ひ、ユダヤ的キリスト教を排撃せんとする。

 尚、アングロ・サクソンが欧洲文化の敵であること、即ち反英戦線によってヒツトラ ーの國際政治に及ぼせる影響こそ、反ソヴイェトによる欧州文化擁護となり、彼の言ふゲルマン的復興、彼自らの言葉をもってすれば、ゲルマンの血をもって獲たる地を、民族の鍬によって打ち建てんとする欧洲再建の悲壮なる熱情であり、欧洲よりソヴェートと共にイギリスを放逐し、眞のヨーロッパ新秩序を企画しつつあるを見る。


 しかも大戰による徹底的壊滅と亡國的抑圧の中にあって、ヒツトラーの心に最も力強く 響けるものは、彼自ら告白せる如く、日露戰争に勝利せる、東方日本の、日本國体と日本精神に関する思念であり、この日本の民族統一体の完全なる国体を、天才ヒツトラーはその四分五裂せる母國の上に建設せんと決意したのである。

 彼は常にその心中に於いて、最大の関心を日本に対し不断に注ぐのであった。 ここにヒツトラーの天才的な個人的体験こそが、彼自らの念願としての日獨同盟締結の最大の要因となったものである。
 今やイギリスの包囲陣を突破し、アメリカの脅迫に敢然と反發し、まさにソ聯と死闘せる時、東亜新秩序の建設に於いて英米ソを共同の敵とする日本との協力をなさんとするは、あまりにも必然である。

 かの十八世紀ドイツ國の統一者たるフリードリヒ大王が著しく儒敬精榊の影響により、幾度か思想の友なるヴオルテールに対し、書簡をもって、支那の事を論評している如く、(明かに大王の政治の理想は、「反マキアベル」の著書により、東洋理想なる王道の思想を極力主張せるによって見るも、その政策思想には孔子の如き聖賢の道によって、國政 を行はんとするにあった。)

 今やナチスの指薄者ヒツトラーには、明かに日本国体の本質的理念が深く作用していることを認め得るのである。
このことはかのポーランド進撃に対して行ったヒツトラーの演説に見る如く、或は先般訪獨した山下奉文中将に彼の『ドイツ國民への遺言』として語ったヒツトラーの言葉に微するも明かである。
 
 いまドイツの強大なるヒツトラー・エネルギーの拡充を見て、まま日本國内に於いて恐 獨病者を見るのであるが、我等はむしろ新興ドイツは、まさに日本的的理念によって、没落し行く奮ヨーロッパに対し、果敢なる闘争を開始しつつあるのに衷心より敬意を表するものである。

 しかも、ヨーロッパはすでにその諸民族の内的対立を絶対的に深刻化し、殊にヨーロッパの内的否定としてのソヴェート・ロシアとの徹底的死闘を見る時、我々はヒツトーの中にヨーロッパそのものの自己矛盾による、相互闘争の悲劇の象微を見るのである。
 


篁(たかむら)東陽 著『東條英機と世界維新』第一篇 東條英機論 第三章 政治

2022-11-30 22:45:55 | 東條英機  


       (たかむら)東陽 著「東條英機と世界維新」





 
 第一篇 東條英機論

    第三章 政治 
『命もいらぬ名もいらぬ人は始末に困る。この始末に困る人ならでは、艱難をともにし國家の大事を談じ得ぬ。」
     南洲遺訓 

   一 新しき政治    

 故永田鐵山将軍は、
『東條こそ将来のわが陸軍を背負って立つ男だ』と評したが、
彼は今や『日本を背負って立つ男』となた。
(永田鐵山についてに世上、今尚、いろくの風評があるのであるが、また筆者もいまここにその何たるやを明白にする余裕を持たないが、要するに彼は非常な誤解を受けている人であろことは事實であり、同時に當代得難い人物であったことも確である)

  

 當時永田鐵山の副官たりし某将軍は著者に次のやうに語ってくれた。
『永田鐵山は非常に東條を高く評価していた。故人は常々我々に向っても『東條は賢い。きっと物になる男だ』と口ぐせのやうに云っていた。その頃東條が故人を訪ねてくると、二人の間には、あらゆる現下の政治問題、経済、思想、社曾等・話題はこれら全部面の討論に始まり、しかも、深き研究がなされつつあった。

 當時のことを回想すると、彼が首相となったことは、自然の道程であり、彼にとっては予定のコースだと言へないこともないであらう。が、いづれにせよ、彼は世上流布される如く単たる一介の軍人政治家ではなく、彼自身確固たる政策と信念をもった男であり、またその自分の信念に向っては、生死を賭してこれを断行し得る、旺盛な責任感を合せもった男である』と。


 『政は正なり』と言はれる如く、今日の如き功利的世の中にあって、彼の如き金銭に括淡な人物が首相の地位についたことは、我々國民にとっても一種の悦びである。

 我々は、彼に私慾のないことを認めなければならぬ。
一体私慾のないと言ふ人には、眉唾ものが多いのであるが、少くとも其点信ずるに足る人物である。


 
 また信念と努力と勇気と言ふことが彼の特色だ。
彼は一度自己の信念に向って行動するや、矢でも鐵砲でも退かない男である。現前の日米交渉に當っても、彼には充分の覚悟と充分の準備があるのであり、國民は最後の彼の腹を信じ、情勢の多變なるに迷はされることなく、最後まで彼の行動を見守る必要があるであらう。

(世上喋々される来栖大使の米國派遣は、従来の如き単なる妥協政策にあるのではなく、断乎日本の國策を、彼に承認さすことにあるであらう)
   
 しかし断乎たる態度をとるといふことは、國際的交渉のコースを革命化するといふことではない。また、腰の弱い公卿の如く、革新を退けて、八方美人主義で一時を糊塗せんとすることでは勿論ない。
  
 何ぜなら現在すでに國家は國民良心の最高の表現であり、理に當って後進み、勢ち審(つまび)らかにし後動くと云ふのがかねての彼の信条である限り、ここに一度機を察して動くとなるや、實に疾風迅雷の勢をもって事を処理する、あの驚嘆すべき彼の態度の鮮明さをもって現はれるであらう。
  
 眞實は常にあらゆる単純な、明白な、確固不動の政策となって顕はれるものであり、それは不正とありきたりの考へ方と、日和見主義と、責任なき急進論者、即ち昨日の嘘言を克服するものである。
 
 若しいま彼の方向が、幾多の雑音によって破れることあらんか、再び國内はあの暗鬱な國策に逆行するー日和見主親の台頭に容易に機曾を與へることになるであらう。『人を篭絡して陰に事を謀る者は、よしその事を為し得る共、慧眼より見れば醜状著しきものである』  

 我々は過去の政治家、或は今尚政権獲得に夢中となって暗躍してカる人々の、眞に権謀術数に固まっているのを知る時、『勝を決するの奇謀は至誠に發する』ものたるを信じ、いはんや私の為めにする如き、詐謀の片鱗すら許されない時代にあって、彼等自らの墓穴を益々深くする、有害無益の行動に対して、至誠がいかに大切であるかをよく味はなければならない。
  
   
 嘘だと思へば、彼等に女を與へて見よ!金を與へて見よ!地位を與へて見よ!それに心を動かさないものが幾人あるであらう。
 と、同時に『人が政治に開係する以上は、身をもって之に當らねばならぬ。ある場合殺害せられることがあるものと畳悟せねばならぬ』とナポレオンは喝破したが、現在政治家は『いつでも死ねる者』なることが絶対条件にある時、眞に彼等の中に、口先きでなく、自らの政策には責任をもって『いつでも死に得る』者幾人あるであらう。
 
 今や國民一般と同様、指導者階級に対しても、時代は彼が『國民同様最底の生活をなしつつ、最高の国家の理想を実践』し得る人物を要求しているのである。
 
 『俺は待合政治は絶封にやらぬ』と言明する東條にとっては、成る丈け少い努力で、 出来るだけ多くの報酬を得たいと望んでいる連中ばかりの政治家の中にあって、恰も、仕事そのものが大きな報酬となって、彼に充分の悦楽と充分の満足を與へつつあるものなるを知るのである。
 
  
 それから彼の早朝の民情視察に対して、何か故意に、恰もヒットラーの真似をして、人気取りの為めにこれをなしつつあるものの如く宣傳する者あるを見るのであるが、それは彼の純粋な感情を知らぬ、深い同情の何たるやを解さぬ、一知半解の徒か或は為めにせんとするデマに過ぎないものである。


 『政を為す着眼は、情の一字にあり』と佐藤一斎は味なことを述べているが、またパスカルの名言する心の論理の如く、即ち理が情をつかみ、情の中に眞理が輝やいて、人々が腹の底から納得するやうな情理を盡すことも、これからの政治家にとっては必要であり、
しかも古来より日本の賢者は『政治は民衆のために、本来「親であるべきもの」となしているのを知る時、我々は近楽の文武官僚やその追従者、或は自称革新政治家と言はれるものの中に・往々昂々然として民衆に対し、或は無意味な理窟をならべ、我こそ忠君愛國専売業者なりとする薄風醜俗の指導階級にあまりに多きに一驚するのである。

  
 誠實の政策は最大の成功を得るものである。後ろめいたことは東條の気質に合はない。

 彼は断乎として権威をもって話し得るし、断行し得る信念をもっている。彼は日本國民にかう告げているかの如くである。
  
 『一億同胞諸君、今や國民に語り得べき最も重要なことは語り終へた。最早我々は國内に暗雲低迷する過去の暖昧な霧を吹き散らし、煩はしい敗北者達の最後の企図を挫折せしめねばならぬ。しかも敵の財力によって、日本を窒息せしめんとする計画は發見次第これを撃ち砕かねばならぬ。何ぜなら今や皇國に一個の、敵性第五列の如き存在を許さないからである』と。

 かくして國民は、國民の感情、希望、意志をそこに代弁する眞に新しき政治を發見するであらう。國民は眞の敵が何なるかを知っている。その為めにこそ、我々は無限の犠牲を拂っているのであり、不撓不屈、血と汗と涙の中に生活しつつあるのである。

 さもあらばあれ、彼は今や首相陸内三相を兼摂し、いはば自ら正宗の名刀を手にして(悪しき存在、まつろはぬ外敵)を撃ち沸ふべく、日本の運命を担って國政に立ったのである。 
 
 若し彼がこの名刀を、眞に正しき政治に向って用ひないならば、纏て、この名刀は彼自身の胸に向って凝せられるであらう。ここに激動する日本の姿があり、常に世界史の方向に逆行せんとする者に対する厳粛なる審判がある。

 今や彼は、眞に彼の全生命の根源たる天皇政治の信念に生き、不断の努力を沸ひつつ、大義名分、條理分明、正しき道を、天の許す機曾に於いて、堂々と前進せんとする。
 没落するものをして惜しみなく没落せしめよ。ここに新しきものの生誕が可能となり、眞に正しき傳統のみは復活せん。とこに我等は眞に東條本然の姿を、否彼の大領を見んとするものである。
     
 
    二 世界維新の断行 

 日満華三國共同宣言により、三國間の協同関係が確立してより、ここに満一周年記念に際し、東條首相は三十日、東京をはじめ全國主要郡市、新京、北京・青島等で開催される国民大会に対し、次のやうなメツセーヂを迭った。 

『日萬華三國が、大東亜共栄圏の中核として、新世界史創造の一大生命力に渾然融合しつつあることは、蓋し天與の諸條件がしからしむる必然的帰結である。これこそ血縁的に地縁的、或は歴史的に文化的に、日満華三國がひとしく推ふ最も光栄ある宿命であり、何人もがこれに容啄すべからざる最も厳粛なる事實でなくてはならぬ。昨年本月本日公にされた日満華三國共同宣言は即ちこれが眞諦を世に闡明したものであった。  

 惟ふに日満浦華三國共同宣言の示す大経綸は、各人各國家が、その歴史的適性と、その自然的環境とにより、それぞれ本然の特質を發揚しつつ互ひに協心戮力、もって大東亜諸國民の共存共栄を図るとともに、進んで全人類の康寧と繁栄とを企図し、これがための新秩序を建設せんとする、雄渾なる大理想を實現せんとするに在ることは、改めて申すまでもない。
 しかるにこの大理想たるや、今や大動乱の渦中に昏迷し彷徨する全人類を騒然覚醒せしめ、全人類明日の進路を照破する、不動の指導原理となっているのである。

 わが日満華三國が、何の幸か、かかる大理想の矩火を掲けつゝともに手をとり合つて、あらゆる棘棘を切り開き、千障萬難を突いて、早くも一年の成果を示すに至ったが、これこそまさしく世紀の一大功業に非ずして何であらうか。
  
 しかしながら周辺を展望すれば、幾多の敵性國家が、今なほ依然としてその蠢動を息めない。否、いよいよ執拗極りなき術策を弄して、わが大東亜共栄圏確立の大業を妨害し、以てあくまで多年これを恣にしたる搾取劫略の悪夢を追はんとし、十億のわが大東亜諸民族の犠牲において、獨り彼等のみがその私利私慾を充たさんとしているのである。

 蒋政権が或ひは英米の煽動に左右せられ、或ひは共産党の宣傳に踊り、獨りに抗戰を叫んで前途有為の青壮年を、空しく犬死せしめつつあるとこは、大東亜諸民族をして相喰ましめ、その間隙に乗じ、英米両國が、アジア制覇の野心を逞うせんとするものであって、かくの如きは由来英米両國の常套手段とするところである。

 われ等は人類の名誉のために、人類の衿持のために、断じてこれを徹底的に排撃しなければならぬ。幸に國民各位は、日夜第一線にあって、直接共産党の残忍極まる破壊工作を防遏(ボウアツ、遏=とどめる)することにあらゆる苦心を重ねられつつ、しかも、欧米諸國の魔手を芟除(センジョ、草を刈り除く)せんがため、あらゆる努力を傾注され、物心両つながりとの呪ふべき鐵鎖を断ち切って、そこに全民族に嬉々として安居栄華せしむる解放の黎明を招来せんとしていられるのである。

 しかもなほ加ふるにその豊沃なる地上資源と、無尽蔵なる埋蔵資源との開發をより一層増大することによって、遍く全人類にとれが恩恵を及ばさんとせられているのである。 

 これこそ眞に日満華三國共同宣言の具体的責務の実践であり、これが実践に抵抗する人々こそは、とりもなほさず崇高なる人道の戰として、われ等の衷心より讃嘆措く能はざるところである。
  
 われ等はここに、日満華三國同宣言の大理想完途の聖戰にたふれたる幾多の英雄に、 深甚なる感謝の念を捧げるとともに、この大理想實現のためには、先人の屍を越えて勇往邁進せんとする、不退転の決意を一層固ふする次第であるが、われ等はここにこの歴史的大業完成のための共同戰線が、いよいよその紐帯を鞏靭ならしめ、一日も速やかに赫々たる成果を収めて、正義の陣営に高く凱歌の擧がる日を切に析念する。』

    

 今や世界史的任務を果さんとする日本は、世界史に於ける輝かしき人類のための聖戰に対し、勇ましき歩武を堂々と進むべき秋、ここに世界はまさに人類史最大の史的変転を遂げんとして、刻々とその破局に直面せんとする。

 
 この最大の世界維新の断行こそ、實に人類史上わが日本民族に賦與された、最高必須の使命であり、そのためには幾多無限の苦悩に耐へ、艱難に打ち克つべき、眞の戰争を決行すべき必然性の中に立つのである。
 
 ここに世界人類政治、世界統制の唯一絶対の根源的法則こそ、わが肇國以来脈々として不滅なる八紘を一宇となす皇道の大法に外ならないのを知るであらう。
 
 今こそ東條は厳粛にして巨大なる使命の前に立っている。
 彼は御稜威と、天意と、信念のもとに、烈々として難局を担当し、全日本を引きまとめて世界史的大決戰に臨まんとする。先陣に立つ彼は、すでに軍馬に鞍をおかせて待機している。

 我等は今や彼の指揮力を凝然と見守り、一死奉公の誓をさらに新にして待機しなければならぬ。

 

 


篁(たかむら) 東陽 著「東條英機と世界維新』第一篇 東條英機論 第二章 戰争 

2022-11-30 22:05:03 | 東條英機  


       (たかむら)東陽 著「東條英機と世界維新」





 
 第一篇 東條英機論

 第二章 戰争 

 

『戰争においては総てが精神的である。意志と信念が責在の半ば以上を組立てる』
      ・・・・・・ナポレオンの格言・・・・・・

   一 武人 

 昭和十二年七月七日、永定河の盧溝橋畔、かつて元寇の發火をなせるマルコポーロが、白き大理石の美しき橋と激賞せる、そのマルコ・ポーロ橋の辺に、悠々たる騎蛇の夢を驚かせし発砲こそ、今次支那事変の世界史的聖戦の第一砲火であった。
 
 八月二十日、支那は強大なる兵力を哈爾濱省に送り、満州國の大なる脅威を與へつつあつた。

 当時関東軍参謀たりし東條、精鋭無比をもつて聞こえた関東軍を率いて、断乎敵を撃滅すべく、怒涛の如き勢いで長躯チヤハルに進攻した。この敵の意表を衝いたて快作戦は当時内部でも好模範とされたものであった。

 この敵の意表を衝いた快作戰は、
越えて八月二十日、張北に押し寄せた、瀏汝明軍を完膚なきまでに撃破し、
長城線を越えて萬全県を奢り、八角臺を抜き、
一週間後の二十七日には張家口に入城、
その敗敵に對して、文字通り息つく暇も與へず、平綏線最後の堅塁と頼む大同総攻撃を開始、
我空軍は銀翼を連ねて大同城砦を爆破、この聚楽堡の追撃戰において、大生壇城大佐は葬列なる戦死を遂げた。

 

 大佐は長城線の激戦にて“到るところ勇名を馳せ、ことに聚楽堡鯀城の戰闘開始せらるるや、その南高地に軍馬を進め、砲弾雨飛の中を指揮、午前零時二十分敵が我が軍に抗し兼ねて敗走を始むるや、大佐はそれを急追せんとし、
時に不幸敵弾が眼前に炸裂、遂に山西の高原に護國の鬼と化したのであった。

 かくて聚楽堡を奪へる我が軍は、疾風の如く、敗敵を追撃、三日午前九時五十分、遂に山西省の大同東門に進入、これより城内に猛撃すれば、城内の敵は白旗を掲げて降伏しここに威風堂々大同入城となるのであつた。

 大同は山西省の北門の咽喉を扼し、人口約六萬、山酉第二の大都であり、山西省と北方との連絡の要地であり、戰略上特に重大な地点であった。

 こ
の彼の神速巣敢なる追撃振りは、内外驚嘆の的となり、所謂関東軍の『電撃戰」として喧傳され、日支事變後「最初の感状」を授與されたものであった。
まことに骨髄から生じたものは、一生を通じて現れるといはれる。

 彼が少年期、相手がどんなに大きく、大勢たりとも、それを念頭に置かず、彼等の眞只中へ飛込んで相手を擲りつけた、あの剛毅な性質は、武人としての彼の本領を最もよく物語るものである。

 もし将帥にして、兵隊の興味や、好奇心に注意し、彼等の予期想像に触るる様に心掛けたならば、彼等はその上官の為めには、いかなることをもなし、水火をも敢て辞せずるものと云はれる。
 彼がよく兵隊の機微に通じ、これを愛したことは、新聞、雑誌に發表された多くの彼の透話によって見るも明かである。

 特に将帥の其備すべき資質の中、まづ第一に数ふべきものと言はれる明敏な洞察力と目的の不變ー等の貴重な性質は、早くより彼の性格の一部をなしていたものであった。

 と、同時に彼の作職計画は、単に綺羅びやかな即席作りのものではなかった。
 『兵を遺るには、須らく唯一にして不變なる策戦方略を持続せぎるべからず、而かもそれを改改廃せざるべからざるに至れば、宜しく慎重考慮の後にすべし』といふ、軍學上の公理に基いて兵を動かしているのである。
 
 故に彼は入つては惟幕に精緻巧妙なる作戰を練るが、一度び出でては、再猛果敢、三軍を叱陀する闘将であった。

 ここに我々の注意すべきは、旅北進發以来一週間餘にして張家ロを奢った彼が、忽ち、察南自治政府を成立さして、治安維持に当たらせ、作戦と建設との驚くべきスビート振りを示し、大同に入城するや、直ちに新京に飛来して、對ソ作載に準備し、関東軍の其の大敵たるソ聯に備へ、不死身の気魄をもって『ソ支同時両面作戰』の樹立を強張したことであった。  


 ここに我等は、表面人に知られず、しかも着々、彼がドイツ留學当時より、『國家総力戰』の研究に、身渾を盡しつつあった一事を見逃してはならない。

 

   二 世界総力戰 

 欧洲大職を契機として、早くも國家組力戰に関する意識的準備は、澎湃として世界の大勢となっていった。 彼はまた陸軍に於ける総力戰研究の権威である。然ば総力戰とは何であるか。昭和九年十月陸軍省新聞班は(現情報部)指導者階級にその啓蒙を促す、べ、総力戰の概要を説明して曰く、
 『深刻なる経済戰、思想戰等は、平時状態に於て、既に随所に展開され、對外的には國家の生活力を総合統制するにあらずんば、武力戰は愚か、遂に國際競走其の物の落伍者たるの外なき事態になりつつある』
 
 しかし乍ら當時においては、軍のこの『呼びかけ』は、指導者層に何等の反響をも生じなかった。特に國民を代表すべき政治家方面にあっては、全然その自覚なく、ために日本の國防国家体制の時期は、非常な遅延を見るに至ったのであった。

 勿論その最大原因は、所謂旧秩序諸國の策に操つられた、親英米派の我指導者層であ り、日支事變の進展が、愈々総力戰的性格を帯びて来ても、彼等の認識は殆んど無智に等しく、為に武力には大きな負担をかけ、個人主義や、自由主義の見地から、國内不統一を暴露し、防諜は全然無防備の状態であった。

 ここに総力戰の本質を把握する事が、現下の最大急務となるに至った。

 その主要因は

一、空中戰の發達は、全國土・全國民をその攻防戰争の第一線にたらしめつつある。
  来るべき大戰は、むしろ戰地に戰ふ兵隊よりも、一般國民に且大なる危害死傷を来たら占めるであらう。

ニ、武力戰争の続行のためのみにても、『國家全機構の力』との表現たる國家総合の統一的支持が絶封に必要なること、
  ここに総力戰は全國民の打って一丸となった力、國民一人として例外なく戰闘員であると同時に、
  全國土も亦戰場となるのである。  


三、武力戦の優勝、自國の耐久、同盟第三國との関係の規整、敵國戦争意志の挫折等の為めには、
  政治、経済、思想等のあらゆる分野に亘る戰が要請され、全國民極度の精榊力(精神的団結)を必要とし、
  これ等諸要素の総合力のみ戰争全般の勝敗を決定する。

  
 ウオーバートンは『現在に於いては、最早敵の軍隊を絶減することではなく、敵の抵抗意志を動揺させることにある。本来的の戰争(武力戰)は、この目的を達する手段のーつに過ぎぬ』と言ひ、

 ゾルダンは『國民全体に當ることの方が、その軍隊を破砕するよりも、速かに確實に戰争の勝敗を決する』と述べている。之等は所謂銃後攪乱、或は襲撃を意味しているに外ならないのである。

 かくて國民皆兵の総力戰は横の面と縦の面とを有し、前者者は武力皆兵を意味し、後者は総力諸戰闘員養成を意味する。

四、武力戰以外の諸領域各分野の戰ひは、戰争開始前不時にあって周到に行はるべきであり、
  戰時に於ける高度國防國家体制の建設の絶封必要となりたること。


五、戰争の究極的勝敗は、武力戰終結後の善後対策、即ち収拾的総力戰の勝敗によって決せられる。  

六、科學の進歩は武力戰争の条件の、範囲を著しく拡大したこと、
  かくして戰争は國民全体の関心の対象となり、戰争とは、存在そのものの根源的矛盾による、
  一民族、一國家、國家群の最大最高の全能力、全生命を集中、凝結せる、
  人塁に於けろ最強最大の 対立的活動性の發揮となり、
  まさに社会に於ける、各領域の全体的戰闘の最深なる自己表現である。


 ここに全國民の生存及眞生命の發展のため、國家の総力を擧げて準備し遂行し、牧拾すべきことを眞剣に考究せざるを得なくなったのである。


 しかも人類世界史に於ける画期的發展は、常に生命の最大悲劇たる戰争を契機として、弁証法的に實現し得たのであり、かくて戰争は総力をもってなされるものであり、それは民族総力戰、或は國家総力戰として、民族の興亡盛衰を示すに至るのである。

 
 ここに戰争は、決して平和、日常性に対立するものではなく、それは人間生活のいかなる刹那、いかなる場所にあっても、絶封に存在する必須的矛盾の典型的象微化ともいふべく、
 かくして戰争の研究は、決して単に戰争するためにのみなされるものではなく、人間として生存する限り、一刻も等閑にし得ざる宿命的課題であり、かくて今日、戰争そのものの深かい研究なくしては、國家、社会、個人もすべて、一刻たりと存在、生活、思想の明確なる方向、実行的確信を得ることは不可能となったのである。
 

 次に戰争とは、現代において始めて総力戰に入ったかの如く説かれるのであるが、これは誤りであり、ただそれが現代に入って総力の動員となせることを意味するものであるに過ぎす、すでに古代より、戦争は悉く総力戰、全体戰に外ならなかったのである。
 
 ここに全日木人は、来るべき戰争こそ、まさに皇國興廃の大事であり、國家、民族の運命を全面的に決定し、さらに世界の史代的転換を實現するものなることを知らねばならぬ。  


篁(たかむら) 東陽 著「東條英機と世界維新」第一扁 東條英機論 第一章 人間

2022-11-28 22:50:10 | 東條英機  


       (たかむら)東陽 著「東條英機と世界維新」





 第一篇 東條英機論   

 第一章 人間    

『予を才子なりと言ふものは、未だ予を知らざるものなり。予を勉強の餘、一個の男子たるに至りしを言ふものあらば、そは眞に予をしれるものなり』

――山陽述懐の言葉――  

 

一 人生の方向 
 ノーヴァリスは『性質は運命なり』と喝破した。
々はここに、現代日本の否世界の原動力となつた人物-東條英機の眞価を研究するに当たって、彼の経歴は、この言葉の眞實なるを知るのである。彼を熟知して居る多くの人々は、すべて、一度精神が覚醒して後の、驚嘆すべ彼の努カの跡を省みて賞賛する。  

 彼は人生にあつては戦争に於けると同様にーその決定的勝利は、「目的の単一、精神と兵カの徹底的集中の結果」であると言うふ教訓を、身をもつて實現して来たかの如くである。

 彼は惰気満々たる夢幻の國に、低徘顧望するが如き漢字ではなかつた。
彼は明晰に鋭くものを考ヘ、努カと鋭気とをもつて其の實行を計り、境遇のために左右されるといふことはなかつたのである。

 即ち困難なる人生に對処する方法は、酒色によつて無意味に鬱憤を晴らすにあるのではなく、人と競争し、而して努力研鑽する闘争過利の中にこそ、人生の光のおることを発見したのであつた。

 彼の信念、或は現在彼の考へていることが何であれ、我等は彼が深刻なる人生の事々物々に直面した時の、その明白さと大胆さに心から尊敬を払はざるを得ないのである。

  さて、我等が古今の展史の跡を辿るとき、人間立志の方向には、二つの場合あるを見出すのである。
 一つは、針程の事を完成するにも、棒程の願ひを持たねばならぬとする毛利元就的方法であり、いまーつは、これと全く逆に、人間立志の要は、絶えざる奮闘努力よる向上心と共に、その現在の職場に對して、最大の責任感を発揮する。
 所謂太閣秀吉の型である。

 ここに、人間は如何程古今の知識を習得するとも、如何程明白に物の道理を能く知り悉すとも、之を實行に移ずに當つてに、不抜の苦心鍛錬を必要とするのを知らねばならな。

いかなる場合に於いても生兵法こそは、大傷の基である。
藤吉郎が羽柴となり、大閣となり、さらにかの回天の偉業をするに至るまで、それは我等の想像を絶した、人間的鍛錬を必要としたであらう。

 なぜなら、此の世の偉大なるものは、一つとして我々に附與されたものはなく、一切のものは、苦しき困難鰍なる、人知れぬ戰ひによつてのみ獲得されるものだからである。
 かくて秀古の歩み来つた生涯を見渡すならば、そこに彼の終始一貰した強烈無比の責任感、彼は揮身のカを寵めて職責を盡し、しかもその地位を辱しめず、草履取りとしては、申分なき草履とりであり、長濱の城主としては、名声嘖々たる械主であつたことを發見するであらう。 

 東條英機もまたかくの如く、たとへ人知れず彼が闘に描いていた功名心の限界が何であつたにせよ、一切名利に関係ないと言ひたい程、清廉潔白、正義をとつて怖れず、自らに與へられた地位職責に、彼の良心の命ずる最善を盡し、それ等を大切に守って来たのを知るのである。

 彼にその為めには、極度の隠忍自重を強いられた、逆境時代もあつたが、その間にあ つても彼の精神は、かつて一度も因循姑息ではなかつたのである。それは彼が事に処して電撃的にこれを決裁し、機に投じては神の如き大胆活発なる快擧は、一身の安逸をこれ事とずる者の、到底真似し得ないところであり、しかもこの決心の 根柢をなすものは、眼中一片の成敗利鈍なきものの有つ責任感の發露たるを知るならば、
 即ち人として、殊に武人として、多年の恩義に對する彼の貴任感は、その一言一行に 表現されてわるのを知るであらう。かくの如く、彼は一歩一歩着實に、名を成す如にあらゆる機會を掴んで修養を積み、自らの信念を臆するとこなく力行していつたのである。
 
 ここに我々は、彼が何時、何慮で、いかなる地位につて斃れるとも、ここに東條英機 の本質があり、安心立命の根源があるのを察知し得るのである。


 我等のこれより語らんとする東條英機、所謂従来の如き傳記ではない。もしまた、人 が彼を眞に傳せんとするたらば、恐らく筆者は、その材料の不備なる点に茫然とされるであらう。

 
 さらに、主人公の今後の経歴、及彼の生活の意味を解く重大なる鍵ともいふべき、彼の死の時期、またその模様なども、著者がいかに手を盡しても、それは唯運命の神に委ねる外はないのであり、これは二重の困難を強いるものである。

 我
等にとつて、勿論、彼がいかにして、今日の権威の人となり来つたかといふ道程、即ち彼の人格發展の姿も重要な点ではあるが、それ以上に我等の関心の焦点となるものは、彼のもつ、或は彼の心奥にかくされて居る、獨特の性格、彼の信念の中に表現されるものであり、その性格と信念によつて決意し断行される一切の言行は、すべてその中に今後の日本の運命を象微する何ものかの存在を感じ得るからである。 

  少くとも彼を正しく知悉することは、日木國民にとつても、『如何なる政治と、いかなる生活とが、明日の日本を訪れようとするのであるか。』『今後の戦争は、現代日本末は、いかなる方向に進まんとするのであるか、而して之に對処して『我等何を為すべきか、いかに生くべきか』の無限に重大なる暗示と示唆を與へるであらう。


二 精神の覚醒  
 東條英樹は、故英教中将の三男として、東京に生れた。

 父英教は、謹厳なる典型的武人であり、至誠一貫『自ら省みて直くんば、百萬人と雖も我行かん』の正義一途の性格であり、有名なメッケル将軍の教え子として當時陸軍に於ける戰術戰略の一方の権威であつた。

 その母千歳は、意志の堅固な、家庭的不如意にあつて、大低の婦人ならば意気阻喪Lてしまふやうた場合にも、却ってそのために主婦として、献身的態度と、断固たる節倹乎段とを發揮した人であつた。しかも優しく、最も愛情に富んだ、眞の母性であり、彼はこの幸福なる家庭の中に、大らかに生長した。

 幼き時、彼の母は常に彼の側にあり、その枕辺においても、お伽話をなし、或は歴史の中の忠臣の物語、或は戰争の話程話してきかせ、敏き幼き心に、それらは深くく深く刻みつけられたのであつた。

 母の話を聞き乍ら、彼は泣き・喜び、怒り、嘆き、恐れ、笑ひ、早くも大いなる世界を夢幻的意識の中に象徴的に感得したのであつた。
 すでに武人とLての忠誠心、至誠、正義、責任感の重要さは、幼き心に強烈に印せられ、これが他日、今日の東條を生む根本信念とたるのであつた。 

 かくていに母がその子に物語る話が、その無限の愛情を注ぎつつ教える言葉が、かくもその子に深刻なる影響を與へるものかを知らねばならない。
 まことにこの母の愛こそが、彼の性質の中に、正義を尊び、不正を憎む心情を植え付けたのであつた。 

 とは云へ『子供の性質を分析するに、家族の質を研究することにばかり頼るのは、間違ったやり方である。
一家が一室に入るやうな小家庭の、しかも平凡な小児ですら、往々遺傳の方則を無視することがあるからである。

ゆえにたとへ、ある人が、唯生物學の原則によつてのみ、大天才を作らうとしても結極は擬物を作るのに過ぎないであらう。

 眞に宇宙の大精神は、往々にわが地球に降下し来たり、而して小児の本体に、回天の大業を為す力を植えこむものである。
 これに引きかへてある場合には、同じようなめぐり合わせであり乍ら、土偶に等しき放蕩児が生れる。
 昨年麟麟見を載せた揺藍も、今年は豚児をのせることが屡々だからである。

 とは云へ、彼の父の性質は、その子の中にも、彼の賞任感と、自ら正なりと信ずる行為 には、単刀直入、断乎としてあらゆる障害を排除して敢行する、戦車の如き推進力とな つて現れ、彼の母の愛情は、一度び公務を離れた東條の反面に見らるる如く、その子煩悩な一面にも、或は又、他人に對しても親子の如き愛情を注ぐ幾多の行為にも、作為なき形となつて湧き出づるのである。
 後年彼は友情に厚く、またよく部下を愛した。

 一方几帳面で、他に頼ることをしない、きかぬ気の、負けす嫌いの性質は、彼の性格の中に早くから現れたが、これは先天的に彼自身が身につけたものであり、決して他人が注ぎ込んだものではなかつた。

 學習院の少年時代、よく彼と角カをとつた友人の語る如く、
『彼は何度組みしかれても、決して降参したとは云はなかつた。その除りの強情さにあきれて手を離し、下になつている彼の頬をのぞき見ると、彼はいつでも、じつと歯を喰しばつたまゝ、眼には一杯涙をたたへて、ひどくくやしがるのであつた。
 今かうして 眼を閉ぢると、當時の彼の顔が、ありありと浮んでくる』・・・・・・。 

 この彼はますます乱暴な、全く手のつけられない子供であり、毎日喧嘩をしない日はなかつた。巌正なる父は、時々これを叱し、慈母は人知れす愛する子の為に涙するのであつた。かくしてこの粗暴なる行協は、幼年撃校に進んでも一向に改まらなかつた。 

 當時の彼が全校を通じて、最も得意とするところは剣舞であつた。従つて剣道も二番と下らない猛者であつたから、恐らく現在では相当の腕前であらう。
 が、何と言つても、見るべきものは、彼の剣舞であつた。
 よく集会があつたり、或は同期生会の席上では、必ず彼は引き出され、この可憐な少年は、いとも華々しく舞ふのであつた。

  そんな時、彼は必ず眞剣の日本刀を持ち出し、朗々たる詩吟にのつて、『白虎隊』『城山』程を、或は夢みる如く、或はまた自らが眞に死に行く人の如く、眞事に迫つて、その表情、熊度、気魄は恐ろしき眞剣さが漲り、軍人の言葉をもつて云へば『気合のかかつた実感』に溢れた文宇通り、憑かれたものの如くそれに没入して舞ふのであつた。

 彼はまた、學校時代よく弱い者いぢめをしたが、或時友人に、『おい!東條、貴様やるなら、もつと男らしくやれ』と忠告されてからは、男らしからざる言行』は彼から消えていつた。

 しかし一度道理に立つて口を開けば、相手の如何を問はず決して後へは引かぬ気象もあつて、ある時、年上の學友から無理な言ひ懸りをされ、これと激論して大喧嘩をして屈服せしめられたことがあつた。 

 
當時の上級生は、下級生をよくいぢめ、たまたま下級生が反抗でもすると、自分達の権威を示すために、団結して彼等を散々痛みつけるのであつた。で、さすがの彼もこれにはどうすることも出来なかつた。

 ところがここに、過失からではあつたが、ある生意気な上級生に喧嘩を売られ、東條 の一友人が、非常手段に訴へて驚かすつもりで抜いた刀が、遂に相手を〇〇せしめたとい ふ事件が突發したことがあつた。

 これは學校の大問題となつた。

『武士は文武両道をもつて、君國に盡すが本文なるに、つまらぬ喧嘩によつて、君國に捧げた身体を傷つけ、不自由にしてそれでよいのであらうか?』
 ふと、そんな考へが彼の脳裏を掠めて過ぎることもあつたが、勿論それは一時的であ り、以前として彼の素行は改まらなかつた。

 父はよくその子を叱つた。が、母は静かにその子を論し、ただ人知れず、その子の身上を案じては、夜着の中で涙しつつ、とつおいつ眠り得ぬ夜も、いかに多くあつたことか!
しかも、彼の成績は常に未席を一歩も出でなかつた。

 と、ここに重大問題がもち上つた。
  それは職員会議で彼の行状が問題となり、遂に成績の悪ひこの乱暴者は『将来、将校として見込なし』と見なされ、かうした意見が、除々にではあるが、確實性をもつて有 カになつていつた。

 そして卒業も迫つた頃、愈々、彼の処分問題が激化した時、最後まで極力彼をかばつた教官があつた。

『成程、現在彼はくだらぬ人間かも知れない。が、彼には何処か見所がある。必ず将来見込のある人間になるに違ひない。自分が彼のことは保證します』  
とこの数官は執烈に弁明し、途に自説を頑張り通した為、彼は難なきを得たのであつた。

 この頃この少年の心が、漸く生理的生長によつて、ある新しき一つの転機を要求しつつあったとき時、かうしか、種々なる事件の交錯にあつて、はじめて彼の心の中に湧き出でし啓示こそ、まさに彼の新しき目覚めであり、来るべき運命への不可解なひらめきであつた。

 皇國本然の姿を知り武人として陛下の股肱として、眞にその下されし軍人勅論の如く正しく生きることこそ、武士の子として、自ら課せられた最大の義務ではあるまいか?  

 然るに現在の自分は何と言ふ意気地なしの生活を迭つてぬるのであらう。それでも汝は男と云へるのか、日木軍人と高らかに叫ぶことが出来るのか!  
 かうした彼の激しき内的苦悶と反省によつて、何人も気付かない間に、彼の性僻は百八十度の転回をなしつつあつた。
 それは恰も日露戰争を直前にした日本の如く・・・・・・。  

 母はこの頃、一室に閉ぢこもつては、考へる日の多くなつた我が、我が子の様子を、我が身のことのやうに案じつつ、遠くよりこれを見守るばかりであつた。
『過ちを改むるに自ら過てりと思ひつかばそれにて善し、其のことは棄てて顧みす、直ちに一歩踏み出すべし』

 彼は今やすでに心に誓つた。かくてわが誓ひは、最早、何人の言にも、断々乎として遷らないであらう。
 然らば、最早過去に拘って、何時までもその周囲に低徊している時ではなかつた。人一度び過ちを悟らば、再びこれをせざる境地に躍進すべきである。

 かくて、いかなる小さな過失すら、わが今後の勉励の鞭とならなければならない。ここに彼の精神が一度び覚醒されるや、それは強馬力の機械のやうに學校生活中も、その後の兵営にあつても、余暇あれば一切を拳げて寝る間も惜しんで努力勉強するのであつた。 

 實に彼が一度び勉強に熱中するや、その精神と努力を集中したことは非常なものであった。今迄の一切の交友を断ち、日曜日の外出にあたつても常に本を離さず、初めはこれを馬鹿にし、笑つた同僚も、やがては彼の磨かれた素質と、優れた學力の前には、遂に兜を脱ぎ、彼の一言に悉く服するやうになつていつたのであつた。

 人間の才能は、磨くことによつて初めて発達する。
 英雄天才たらずとも、人生の偉業悉く努力の結晶であつて、その素質より云へば、その同時代に彼以上の天分を有せしへは、幾多あつたに相違ないのである。
  
 ただこれ等の人間の大成しなかつたのは、彼等がその心内に、一貫する誠意と不退転の勇気、而して刻苦熄まざる努力を包蔵していなかつたか、或はしいてもこれを実現しな かつたからである。 

 昨日結んだ紐が、今日はや緩むのを見れば、明日は解けはせぬかと案じられる、かくていかなる立派な決心も消滅せざるを得ないのである。ただ考へるのみにては何事も實現せぬ。到底不可能と思はるることも、倦まざる努力によつて必ず成功の彼岸に達することが出来るのである。

  我々はこれをナポレオンの生活に見よう! 

 同僚がダンスと酒色に浮身を窶しつつある日、王突屋の二階に塾居して史書を耽読せし青年将校時代、さては身帝位に昇り、欧洲の君主、彼が脚下に跪くの日、尚兵士と共に眠り、二十時間の執務を続けし彼、さらにその絶海の孤島に流され、その身病み、骨を噛む如き痛苦の床に轉輾しつつ、尚ほ一日十時間の読書口授を廃せざりしごとく、 まことに唯努力せんが為めに生れたる、運命の奴隷の如き感を輿へる者、努カを離れて彼は、一日と難も一時間と雖も、生息する能はざりし人間の如く見ゆる。しかもかかる努カのみ、偉大なる結果を生み、その人の精神を鍛錬する。  

 天才をもつて生れるは人生幸福のーつである。しかし乍ら努力の意志をもつて生るゝは 更に一層の仕合せである。努力なき天才は地底に埋もる宝石と等しく、自彊息まざろ努力の人は、磨ける璞(たま)の如く、やがては燦として光を世に放つ。

 さて彼の頭脳は、百事をぼんやりと遠くから観察し、明瞭をかくとも不満を感ぜす、また他より注入された智識で飽和している底の、通常の頭脳とは異なつたものであつた。 

 彼が物を研學するに當つては、注意深い丹念な學生がよくやるやうに、研究題目の摘要を作り、資料を化して大脳の成質となしたのであつた。

 かくてこの秩序的才能こそ、物事を巧みに整頓し、咀嚼しそれを組織立てることに成功する神秘な力のーつであつた。彼はその手にとどく範囲に来るものは、何んでもすべて碾き砕いて消化し、或は秩序出でて、一且用ふべき日に備へたのであつた。

 これ等の全く驚嘆すべき自己修養のプログラムこそ、今日の彼の大成を為す原動力となつたものであつた。大低の人間は、何等か前途に、幻滅に逢ふと、その感情は鈍り、その行動は麻痺する。しかもそれは根柢的であつて、意志の麻痺庫からくるのである。  

 ここに彼は、周囲の自らの不幸に向つて、一層多くの精力を集中することによつて、これを解決したのであつた。
 個人の精力は、國民の精力も同様であるが、その幼少時に於いて、不如意のことに遭遇することによつて強められる。

 彼が少年時代の激情を制御し得たのも、それは全く唯努力によるのであつた。いかなる悪条件をも無視し、この萬難に屈せぬ不惑力行こそ、人に感服を、而してあの獨特の畏敬の念を起させる、俊敏な顔付や態度を具ふる、機略縦横の彼を作り出していつたのである。
 
 しかも彼の性質は、全体に於いて堅實であり、神経は鋼鐵の如く、その決断力に富める意志は、旺盛な責任感に裏付けられて、益々強固なものになつていつた。  

 尚大体に於いて、彼の態度は、元気で、気取らない、所謂天眞爛漫で、快活であるが軽率に失せず、清廉潔白にして威厳のあることを見落してはならない。
 
 要するに彼が成功した主要条件、彼が自個に関係のあるすべての事物に向ひ、徹底的 に、熾烈な精神を注ぐことに存したのである。 
  

 彼の身体のうちには、いま侵し難い信念の焔が燃えいる。これは分析することも出来 なければ、書き現はすことも出来ないものであるが、将官も兵士も、彼と交際をつづけたものの、皆一様にその魅力に酔はされる、解釈の出楽ない彼の人格を形成しているの である。



篁(たかむら) 東陽 著「東條英機と世界維新」米・英に宣戰の大詔渙發さる

2022-11-28 22:37:25 | 東條英機  

     (たかむら) 東陽 著「東條英機と世界維新」



  米・英に宣戰の大詔渙發さる 
 
  

  全日本國民よー必勝の信念に生きよ!!


 只今宣戦の御詔勅が渙發せられました。

 精鋭なる帝國陸海軍は今や決死の戰を行ひつつあります。

 吏亜全面の平和は、之を熱願する帝国の凡ゆる努力にも拘らず、遂に決裂の己むなきに至つたのであります過般来、政府は、あらゆる手段を盡し對米國交調整の成立に努カして参りましたが、彼は従来の主張を一歩も譲らざるのみたらず、却て英・蘭・支と聯合して支那より我が陸海軍の無条件全面撤兵、南京政府の否認・日獨伊三國条約の破棄を要求し帝國の一方的議歩を強要して参りました。

 これに對し帝國は飽迄平和的妥結の努力を續けましたが、米國は何等反省の色と示さず今日にいたりました。若し帝國にして彼等の強要に屈服せんか、帝國の権威を失墜し支那事變の完遂を期し得ざるのみならず、遂には帝國の存立をも危殆に陥らしむる結果となるのであります。

 

 事茲に至りまては帝國は現下の危局を打開し、自存白衝を全うする為断固として立ち上るの己むなきに至ったのであります。

 今日戰の大詔を拝しまして恐懼感激に堪へず私、不肖なりと雖も一身を捧げて決死報国唯唯宸襟を安んじ奉らんとの念願のみであります。
 國民諸君も亦、己が身を顧みず、魄の御楯たるの光栄を同じくせらるるものと信ずるものであります。


 凡そ勝利の要訣は「必勝の信念」を堅持することであります。建國二千六百年、我等は、未嘗て戰ひに敗れたるを知りません。この史績の回顧こそ、如何なる強敵をも破砕するの確信を生ずるものであります。我等に光輝ある祖國の歴史を、断じて、汚さざると共に、更に栄ある帝國の明日を建設せむことを固く誓ふものであります。

 顧みれば、我等は今日迄隠忍と自重との最大限を重ねたのでありますが、断じて安きを求めたものでなく、又敵の強大を懼れたものでもありません。只管、世界平和の維持と人類の惨禍の防止とを顧念したるに外なりません。然も、敵の挑發を受け祖國の生存と権威とが危きに及びましては、蹶然起たざるを得ないのであります。
 當面の敵は物資の豊富を誇り、これに依て世界の制覇を目指して居るのであります。この敵を粉砕し東亜不動の新秩序を建設せむが為には當然-長期戰たることを豫想せねばなりませぬ。之と同時に、絶大の建設的努力を要すること言を要しませぬ。

 斯くて、我等は飽く迄、最後の勝利が祖國日本にあることを確信し、如何なる困難も障碍も克服して進まなければなりません。これこそ昭和の臣民我等に課せられたる天與の試煉であり、この試煉を突破して後にこそ、大東亜建設者としての栄誉を後世に担うことが出来るものであります。 

 此の秋に當り満洲國及び中華民國との一徳一心の関係愈愈々敦く、獨伊両國との盟約益ゝ堅きを加へつつあるを欣快とするものでありす。

 今日迄堅忍と自重との最大限りを重ねたのでありますが、断じて安きを求めたものでなく、 又敵の強大を懼れたものでもありません。只管瞥、世界平和の維持と人類の惨禍の防止とを顧念したるに外なりません。然も、敵の挑戰を受け祖國の生存と権威とが危きに及びましては、蹶然起たざるを得ないのであります。

 當面の敵は物資の豊富を誇り、これに依て世界の制覇を目指して居るのであります。この敵を粉砕し東亜不動の新秩序を建設せむが為には當然長期戰たることを豫想せねばなりませぬ。之と同時に、絶大の建設的努力を要すること言を要しませぬ。

 斯くて、我等は飽く迄、最後の勝利が祖國日本にあることを確信し、如何なる困難も障碍も克服して進まなければなりません。これこそ昭和の臣民我等に課せられたる天與の試煉であり、この試煉を突破して後にこそ、大東亜建設者としての栄誉を後世に担ふことが出来るもであります。此の秋に當り満洲國及び中華民國との一徳一心の関係愈々敦く、獨伊両國との盟約益ゝ堅きを加へつつあるを欣快とするものであります。
  
 帝國の隆替、東亜の興廃、正に此の一戰に在り、一億國民が一切を挙げて、國に報い國に殉ずるは今であります。八紘を宇と為す皇謨の下に、此の盡忠報國の大精神ある 限り、英米と雖も何等惧るるに足らないのであります。勝利は常に御稜威の下にありと確信致すものであります。私は茲に謹んで徴衷を披瀝し國民と共に、大業翼賛の丹心を誓ふ次第でありまず。

      陸軍大臣 内閣総理大臣  東條英機   


   

    一  

天照大御神の神勅に  

豊葦原の千五百秋(チホアキ)の瑞穂國は、是れ吾が子孫(ウミノコ)の王(キミ)たるべき地(クニ)なり。宣しく爾皇()イマシスメ孫就(ミマユ)いて治(シラ)せま、行矣(サキタマセ)。アマツヒツギの隆えまさむこと、まさに天壌(アメツ)と與(トモ)に窮(キハマ)りなかるべし。

 かくして神の大御言の命のまにまに、皇道日本の基礎は定められ、萬世一系の皇統は連綿として、水遠無窮なる展開を示し、炳平として明かにその下し給へる三種の神器、「一切の光源なる御鏡、それを組繊化し体系化するろ御玉、さらにまつろはぬ悪しきものを、まつろはし言向(ことむけ)和すべき御劒」によつて、八紘一宇の日本的使命は、一切の皇國の根本原理の具体的象徴として、ここに啓示されたのを知るのである。
 かくしてこの皇孫降臨こそ、眞正世界の皇國化であり、これは過去の歴史あらずして、永劫の未来に亘る日本の歴史創造の現實的發展である。

 

   二 

 かつて吉田松蔭は、安政六年十月、彼が刑死の直前の悲壮厳粛なる心境の下にあつて、彼の最後に到達した、國体観念を表示して、江戸の同じ獄に在つた、同士堀江克之助に宛てて、次のやうな意味深き書簡を送っている。

「天照の神勅に日嗣之隆興天壊無窮と有之候所、神勅相違なければ、日木は未だ亡びず。日本未だ亡びざれば、正気重ねて發生の時は必ずある也。只今の時勢に頓着するは神勅を疑の罪軽からざる也」と。


而して彼は歌二首を詠んで曰く
 皇神の誓おきたる國なれば正しき道のいかで絶ゆべき

  又

道守る人も時には埋もれどみちしたえねばあらはれもせめ

 今「呼だしの聲まつ外に今の世に待つべき事のなかりける哉」の悲痛なる自らの死を前にして、彼は心の中に我神勅を絶対に信じ、日本は永遠に亡びず。

 ゆえに重ねて日本の正気は必ず現れる時がある。従つて現今の内憂外患の時勢に我國体の尊厳を忘却するのは、神勅を疑ふの罪実に許すべからず、と云ひ、最後に彼は、いかなる時勢に立いたるとも、神の國日本は決して亡びないといふことを、彼の全身全霊の血の中に確信して死んで行つたのである。

 かくて「七たびも生かへりつつ夷をぞ攘はむこころ吾忘れめや」は、来るべきものへの彼の魂の傳達であり、彼は朗々と自らの心境を一詩に託して詠ふのであつた。

「吾今國のために死す。死して君親に負かず。悠々たり天地の事、鑑賞明神に在り」と。
   

         
 
 私はここで一言申し上げたい。何故私が序文にかへるに、神勅をもつてしたかといふことを。ーー
 私は直感する。そして率直に断言する。それは現代日本の國内革新の癌とも言へるものは、明かに國体観念の不鮮明による。「思想國難」に由来すると。

 このことは、私が本書を執筆するに當つて、現代日本を代表するあらゆる種類の人々、ー政治家、軍人、官吏、経済人、文人-等と會見して、痛切に、否ある戦慄をもつて考へさせられたからであつた。

特に日本の指導者、代表者の如き顔をして居るインテリ・ジヤーナリスト。
一部の官僚、さらに一部の経済人に多く見られる現象であつた。

以来、私はこのことに就いて自問自答した。

「然らばこの「思想国難」なるものは、何に起因するのであらうか」と。而して今私は、次のやうに結論することが出来る。

 それは、意識すると否とにかゝわらず、はつきり国体観念の無自覚から生ずるものである。
 成程、彼等は「国体」と言へば「それは言はなくても判つている」と言う。賢明にも彼等は総ての問題を親念的にイージーゴーイングに捉へることは知つている。 が、彼等の頭は、彼等の根木精神は、一つとしてそれによつて動いていないといふ事實、否、動かすと言う努カさへしていない悲しむべき現實に、あらゆる方面で行當るのである。 


 私は思ふ。この国体観念が、まづ白己の中心に決定して、しかも其の日本人として
の血となつた後、そこに始めて、學問も、思想も、科學も、経済も、総ての問題が、新しき光の下に、充全に解決されるのではあるまいかと。
 もし、日本的自覚に立つてこの国体観念を、その血の中にはつきり自覚しないならば、現代我々が、一つのものを考へ、一つのものを行ふに當つても、今日の日本の學間思想が、総て非國家的であり、国体を解消せしめ、国体を忘却させる方向にだけ、出来ている限り、結局、それ等は皆、日本を崩壊せしむるものとなり、日木を敵性國家に利せしむる結果になり終るであらう。 
 ここに教育刷新の問題の焦点があり、「思想国難」と言はれるものの實体があるのである。


   四
  

「我思ふ、に我在り」
 これは近世西洋哲學の祖といはれるデカルトが學問の根本命題として定立せるものであり、自己の思惟、或は自己の意識を本質とする、自我の明證性をもつて、一切の眞理の確實性の規準となさんとした命題である。
 
 而るにこの根本命題は、もはやそれ自身としても、自らの太質の単なる一抽象面の表白に過ぎず、かくて、それは何等生動せる現實を把握するものではなくして、全く形式的なるものであることを、いまさらの如く感じるのである。

 この現代の世界史的瞬間に生きる日本人にとつて、今日の一日一日は、まさに歴史の一枚一枚の如くである。
 従つて我等日本人の存在の本質は、全日本人が眞の日本人的自覚の下に烈々と我國体を把握して起ち上ることであり、仮にデカルト的な方式をもつて言へば 「我天皇に奉仕す。故に我在り」と言ふ命題によつて、完全に表現せられるのである。

 「山は裂け、海はあせなん世なりとも、君に二た心我れあらめやも」
これぞ我等日本人の信條であり、皇室に對し奉る忠誠心の発露である。

 ここに「御民我れ生けるしるしあり」の内奥の叫びとなり、それは我等一切の活動を恒常不變に導くものとなり得るのである。
 かくしてのみ、我国体の問題は、国民一人一人の切實なる問題として取り上げられ、眞に正しき総力戦の形となつて、「大政翼賛」「臣道賓践」の實を結ぶであらう。
何となれば、ここに始めて、我等全日本人は世界維新の為めの、日本世界観に到途し得るからである。  

 

   五 

 思へば天照大御秤の神勅實現としての、神武天皇天業恢弘の日より、指折り数(かが)なべて春秋茲に二千六百年、大和民族の心は熱し、天の秋はいま熟しつある。  
 時恰も太平洋時代の開幕に際し、我人共に心静かに瞑想すれば、近世史を壟断せる、白人世界制覇の時代と体系待、我神國日本の世界史的出現と共に、最深の矛眉を示して、今大きく口を開き、炎々たる地獄の火焔の如き、人類最後の惨烈極まりないい大戰争は、いま目前に、地球の全面に惹起するを豫感する。

 しかもこの一大抗争こそ、人類の敵、邪悪にして暴慢なる旧き権力を、徹底的に拒否撃減せんとする、一大聖戰である。
月に潮の満つる如く、今や不可抗のカが、ヒタヒタと我日本に迫りつつある。

 この日、この秋、祖國興廃の危機を直前にして、全國民は生死の関頭に立ち、 眞に日本精神の根源なる天皇道に目覚め、天皇中心の絶封的国体に立脚し、馬を「思想戰」の陣頭に進め、我が国体の尊厳より出で来らざるが如き悪思想は、その何人によらずこれを撲滅し、而る後、輝やかしき日本の太陽を全人類に光被すべき、一大神風としての世界維新戰を決意し、全國民の必死的統一の下に、眞に世界の皇政維新を實現創造すべき、大いなる天業を翼賛し奉る偉大なる歴史の黎明に立っているを知るべきである。

  紀元二千六百一年十一月三日明治節の當日 

                         東陽 識

 
  

序曲 日本の運命

 「教育勅語」に「一旦緩急アレハ」と仰せられたる如く、今上に皇國は、國運の興廃に関する未曽有の重大時局である。 しかも世界史転換の轟音は、あらゆる人類を、國家を、民族を、その好むと好まざるにかゝわらず、戦争の血と焔の中に投じつつある。
 かくて凡百の理論はこの批大にして變転極りなき現實の前に、昨日の花の如く色あせんとするを見る。しかも今次の聖戦支那事變の砲炎の中より、白人専横の虐げられし鉄鎖を断ち切つてアジア人の覚醒は「アジアの光」を東方日本に求めつつ、明らかに精神的反撃態勢を整へつつある。

 しかも暗雲低迷する太平洋の彼方には、ユダヤ金権と結ぶアングロ・アメリカの巨大な魔手が、その危大なる経済力を駆使して、刻々日本を包囲せんとする。 正に危機は一層即發の累卵上に、嵐の前の無気味な沈黙を續けつつある。

 この時新首相の命を受けて、「戰争か平和か」の最期の外交に臨むべき、来栖大使の渡米を民とする。 

 他方天才ヒツトラーの率いるナチス・ドイツの鋼鐵の意志は、獨・ソ戰の終幕を急ぎつゝ、じつと来るべき一点に鷲の羽搏きをなしつゝある。この世界人類史上空前の狂嵐の中に恰も世界のカギを握る日本の如く、この日本 の興廃の運命を担って、異例の東條内閣は出現した。
 
 一死奉公、彼自ら表明せる如く、今國興亡の関頭に立ち、彼の胸奥には、恐らく耿々(コウコウ、輝くさま・ひかるさま)たる傳統の電人精神が、熱火となつて燃え上りつつあるであらう。
 彼は國民に、政府への信倚を熱望しつつ、自らはこの國民の前に自己の生命を託して起ち上つたのである。


 この難局打開に當つて、彼の頼むところは、只正義に生きる日本國民の忠誠、勇気、献身、即ち、陛下の赤子たるの本然の姿、所謂日木精神の發露である。

 この秋! この世界維新の國難を前にして、全日本人は、徒らに軽挙妄動することなく政府の一挙一動に、一億一丸となつて歩調を整へつつ、大いなる軍靴の響きと勝利の進軍を聲高らかに世界に向つて示さねばならぬ。 見よ、日本は堂ゝと前進する。 しかも皇軍は日夜、大東亜共栄圏確立の為めの戰ひを、今尚果敢に戰ひつゝある。
 我等は今こそ、眞に日本の現實を、その血脈の中に切實に把握し、政府と共に日本の運命を凝視しつつ、八紘一宇の皇運を扶翼しなければならぬ。

 これ現下の日本国民に果たされたる本文であり、我等の進むべき唯一の大道である。
さらば諸君は、まづこの一巻の書を読破しここに現代日本の原動力となつた人物、即ち東條英機の心奥に参じ、而る後、堂々と日本民族としての、高邁なる理想を情熱的に表現するべきである。 
    


『大東亜共同宣言』1943年11月6日、大東亜会議で採決された共同宣言

2022-11-15 21:29:53 | 東條英機  

     
大東亜共同宣言

 大東亜共同宣言は、1943年(昭和18年)11月6日の大東亜会議にて採択された共同宣言。大東亜宣言ともいう。 

       大東亜会議--ウィキペディア 
 大東亜会議(大東亞會議)は、1943年(昭和18年)11月5日~11月6日に東京で開催されたアジア地域の首脳会議。
同年5月31日に御前会議で決定された大東亜政略指導大綱に基づき開催された。 
 当時の日本の同盟国や、日本が大東亜戦争で旧宗主国を放逐したことにより独立されたアジア諸国の国政最高責任者を招請して行われた。
 そこでは、大東亜共栄圏の綱領ともいうべき大東亜共同宣言が採択された。
 日本は第2回目の大東亜会議を開催する計画を持っていたが、戦局の悪化に伴って開催困難となり、昭和20年(1945年)5月には代替として駐日特命全権大使や駐日代表による「大使会議」が開催された

  

大東亞共同宣言

世界各國ガ各其ノ所ヲ得相倚リ相扶ケテ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ世界平和確立ノ根本要義ナリ 

然ルニ米英ハ自國ノ繁榮ノ爲ニハ他國家他民族ヲ抑壓シ
特ニ大東亞ニ對シテハ飽クナキ侵略搾取ヲ行ヒ
大東亞隷屬化ノ野望ヲ逞ウシ
遂ニハ大東亞ノ安定ヲ根柢ヨリ覆サントセリ大東亞戰爭ノ原因茲ニ存ス 

大東亞各國ハ相提携シテ大東亞戰爭ヲ完遂シ
大東亞ヲ米英ノ桎梏ヨリ解放シテ
其ノ自存自衞ヲ全ウシ
左ノ綱領ニ基キ大東亞ヲ建設シ
以テ世界平和ノ確立ニ寄與センコトヲ期ス 

一、大東亞各國ハ協同シテ大東亞ノ安定ヲ確保シ道義ニ基ク共存共榮ノ秩序ヲ建設ス 

一、大東亞各國ハ相互ニ自主獨立ヲ尊重シ互助敦睦ノ實ヲ擧ゲ大東亞ノ親和ヲ確立ス 

一、大東亞各國ハ相互ニ其ノ傳統ヲ尊重シ各民族ノ創造性ヲ伸暢シ大東亞ノ文化ヲ昂揚ス 

一、大東亞各國ハ互惠ノ下緊密ニ提携シ其ノ經濟發展ヲ圖リ大東亞ノ繁榮ヲ增進ス 

一、大東亞各國ハ萬邦トノ交誼ヲ篤ウシ
人種的差別ヲ撤廢シ
普ク文化ヲ交流シ進ンデ資源ヲ開放シ
以テ世界ノ進運ニ貢獻ス

 

(現代語)
世界各国が、民族毎に自分たちの土地を持ち、
お互いにたすけあって、ともに国家として発展し、
みんなで明るく楽しみをともにするためには、
まず世界平和の確立がその根本です。 

けれども米英は、自国の繁栄のためには、
他国や他の民族を無理矢理押さえつけ、
特に東亜諸国に対しては飽くなき侵略と搾取を行い、
東亜諸国の人々を奴隷するという野望をむきだしにし、
ついには東亜諸国の安定そのものを覆(くつがえ)そうとしています。 

つまり、東亜諸国の戦争の原因は、そこにその本質があるのです。 

そこで東亜の各国は、手を取り合って大東亜戦争を戦い抜き、
東亜諸国を米英の押さえつけから解放し、
その自存自衞をまっとうするために、
次の綱領にもとづいて、
大東亜を建設して世界の平和の確立に寄与します。 

1 東亜諸国は、協同して東亜の安定を確保し、道義に基づく共存共栄の秩序を建設します。 

2 東亜諸国は、相互に自主独立を尊重し、互いに助け合い、東亜諸国の親睦を確立します。

3 東亜諸国は、相互にその伝統を尊重し、各民族の創造性を伸ばし、東亜諸国それぞれの文化を高めあいます。 

4 東亜諸国は、互いに緊密に連携することで、それぞれの国家の経済の発展を遂げるとともに、東亜諸国の繁栄を推進します。

5 東亜諸国は、世界各国との交流を深め、人種差別を撤廃し、互いによく文化を交流し、すすんで資源を解放して、世界の発展に貢献していきます




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西田幾多郎『世界秩序の形成』 、東亜共栄圏と八紘一宇


 


米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書 (昭和16年12月8日)

2018-08-14 10:06:43 | 東條英機  

米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書

 1941年、米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書。通称「開戰の詔勅」。
大東亜戦争、太平洋戦争の局面である英国米国との戦闘状態に突入した事を述べる詔書。

 

        米國及英國ニ對シ宣戰(『官報目録』)
           『官報』号外、昭和16年12月8日
     

 

 註: 以下のリストに掲載される漢字はJIS X 0208外の異体字であり、Unicode表のBMP(基本多言語面、0面)が正しく表示できない環境によっては正しく記されない可能性がある。尚U+FA30からU+FA60の文字は、JIS X 0213対応のフォント(IPAフォント等)による記述を行っている。


凡例

 親字 → 異体字 (Unicode番号) ; 異体字の説明。
 内 → 內 (U+5167) ; 「人」の部分が「入」となる字形
 増 → 增 (U+589E) ; 「曽」の部分が「曾」となる字形
 尚 → 尙 (U+5C19) ; 「敞」の偏部分となる字形
 強 → 强 (U+5F3A) ; 「厶」の部分が「口」となる字形
 彦 → 彥 (U+5F65) ; 「偐」の旁部分となる字形
 徳 → 德 (U+5FB7) ; 旁が「聽」の旁部分となる字形
 既 → 既 (U+FA42) ; 「漑」の旁部分となる字形
 郎 → 郞 (U+90DE) ; 偏が「良」となる字形
 郷 → 鄕 (U+9115) ; 幺とおおざとを除いた部分が
      「漑」のさんずいと旡を除いた 部分となる字形
 益 → 益 (U+FA17) ; 「縊」の旁部分となる字形
 神 → 神 (U+FA19) ; 偏が「示」となる字形
 精 → 精 (U+FA1D) ; 旁が「倩」の旁部分となる字形
 海 → 海 (U+FA45) ; 「毋」の部分が「母」となる字形
 祖 → 祖 (U+FA50) ; 偏が「示」となる字形
 禍 → 禍 (U+FA52) ; 偏が「示」となる字形
 繁 → 繁 (U+FA59) ; 「毋」の部分が「母」となる字形
 

 「邦」の字は正字(拜の左側を使う)、「襾」を持つ字「要」「覇」も表示できない。
 眾の字は現代日本語では一般に使わない字であるが原文の儘とする。衆の異体字。
 
 〻は二の字点である。

 

天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル大日本帝國天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有眾ニ示ス

朕玆ニ米國及英國ニ對シテ戰ヲ宣ス朕カ陸海將兵ハ全力ヲ奮テ交戰ニ從事シ朕カ百僚有司ハ勵精職務ヲ奉行シ朕カ眾庶ハ各〻其ノ本分ヲ盡シ億兆一心國家ノ總力ヲ擧ケテ征戰ノ目的ヲ逹成スルニ遺算ナカラムコトヲ期セヨ

抑〻東亞ノ安定ヲ確保シ以テ世界ノ平和ニ寄與スルハ丕顯ナル皇祖考丕承ナル皇考ノ作述セル遠猷ニシテ朕カ拳〻措カサル所而シテ列國トノ交誼ヲ篤クシ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ之亦帝國カ常ニ國交ノ要義ト爲ス所ナリ

 今ヤ不幸ニシテ米英兩國ト釁端ヲ開クニ至ル洵ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ中華民國政府曩ニ帝國ノ眞意ヲ解セス濫ニ事ヲ構ヘテ東亞ノ平和ヲ攪亂シ遂ニ帝國ヲシテ干戈ヲ執ルニ至ラシメ玆ニ四年有餘ヲ經タリ幸ニ國民政府更新スルアリ帝國ハ之ト善隣ノ誼ヲ結ヒ相提攜スルニ至レルモ重慶ニ殘存スル政權ハ米英ノ庇蔭ヲ恃ミテ兄弟尙未タ牆ニ相鬩クヲ悛メス米英兩國ハ殘存政權ヲ支援シテ東亞ノ禍亂ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿レテ東洋制覇ノ非望ヲ逞ウセムトス

 剩ヘ與國ヲ誘ヒ帝國ノ周邊ニ於テ武備ヲ增强シテ我ニ挑戰シ更ニ帝國ノ平和的通商ニ有ラユル妨害ヲ與ヘ遂ニ經濟斷交ヲ敢テシ帝國ノ生存ニ重大ナル脅威ヲ加フ

 朕ハ政府ヲシテ事態ヲ平和ノ裡ニ囘復セシメムトシ隱忍久シキニ彌リタルモ彼ハ毫モ交讓ノ精神ナク徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ此ノ間却ツテ益〻經濟上軍事上ノ脅威ヲ增大シ
 以テ我ヲ屈從セシメムトス斯ノ如クニシテ推移セムカ東亞安定ニ關スル帝國積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ歸シ帝國ノ存立亦正ニ危殆ニ瀕セリ

 事旣ニ此ニ至ル帝國ハ今ヤ自存自衞ノ爲蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破碎スルノ外ナキナリ

皇祖皇宗ノ神靈上ニ在リ朕ハ汝有眾ノ忠誠勇武ニ信倚シ祖宗ノ遺業ヲ恢弘シ速ニ禍根ヲ芟除シテ東亞永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝國ノ光榮ヲ保全セムコトヲ期ス

 

御名御璽

 

昭和十六年十二月八日

                    內閣總理大臣兼
                    內務大臣陸軍大臣 東條英機
                    文部大臣               橋田邦彦
                    國務大臣               鈴木貞一
                    農林大臣兼
                    拓務大臣               井野碩哉

                    厚生大臣               小泉親彥
                    司法大臣               岩村通世
                    海軍大臣               嶋田繁太郞
                    外務大臣               東鄕茂德
                    遞信大臣               寺島 健
                    大藏大臣               賀屋興宣
                    商工大臣               岸 信介
                    鐵道大臣               八田嘉明

 

〔JIS X 0208版〕
天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル大日本帝國天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス

朕茲ニ米國及英國ニ對シテ戰ヲ宣ス朕カ陸海將兵ハ全力ヲ奮テ交戰ニ從事シ朕カ百僚有司ハ勵精職務ヲ奉行シ朕カ衆庶ハ各々其ノ本分ヲ盡シ億兆一心國家ノ總力ヲ擧ケテ征戰ノ目的ヲ逹成スルニ遺算ナカラムコトヲ期セヨ

抑々東亞ノ安定ヲ確保シ以テ世界ノ平和ニ寄與スルハ丕顯ナル皇祖考丕承ナル皇考ノ作述セル遠猷ニシテ朕カ拳々措カサル所

 而シテ列國トノ交誼ヲ篤クシ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ之亦帝國カ常ニ國交ノ要義ト爲ス所ナリ今ヤ不幸ニシテ米英兩國ト釁端ヲ開クニ至ル

 洵ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ中華民國政府曩ニ帝國ノ眞意ヲ解セス濫ニ事ヲ構ヘテ東亞ノ平和ヲ攪亂シ遂ニ帝國ヲシテ干戈ヲ執ルニ至ラシメ
 茲ニ四年有餘ヲ經タリ幸ニ國民政府更新スルアリ帝國ハ之ト善隣ノ誼ヲ結ヒ相提攜スルニ至レルモ重慶ニ殘存スル政權ハ米英ノ庇蔭ヲ恃ミテ兄弟尚未タ牆ニ相鬩クヲ悛メス米英兩國ハ殘存政權ヲ支援シテ東亞ノ禍亂ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿レテ東洋制覇ノ非望ヲ逞ウセムトス

 剩ヘ與國ヲ誘ヒ帝國ノ周邊ニ於テ武備ヲ増強シテ我ニ挑戰シ更ニ帝國ノ平和的通商ニ有ラユル妨害ヲ與ヘ遂ニ經濟斷交ヲ敢テシ帝國ノ生存ニ重大ナル脅威ヲ加フ

 朕ハ政府ヲシテ事態ヲ平和ノ裡ニ囘復セシメムトシ隱忍久シキニ彌リタルモ彼ハ毫モ交讓ノ精神ナク徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ此ノ間却ツテ益々經濟上軍事上ノ脅威ヲ増大シ以テ我ヲ屈從セシメムトス斯ノ如クニシテ推移セムカ

 東亞安定ニ關スル帝國積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ歸シ帝國ノ存立亦正ニ危殆ニ瀕セリ事既ニ此ニ至ル

 帝國ハ今ヤ自存自衞ノ爲蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破碎スルノ外ナキナリ

皇祖皇宗ノ神靈上ニ在リ朕ハ汝有衆ノ忠誠勇武ニ信倚シ祖宗ノ遺業ヲ恢弘シ速ニ禍根ヲ芟除シテ東亞永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝國ノ光榮ヲ保全セムコトヲ期ス

 

御名御璽

 

昭和十六年十二月八日

                    内閣總理大臣兼
                    内務大臣陸軍大臣 東條英機

                    文部大臣               橋田邦彦
                    國務大臣               鈴木貞一
                    農林大臣兼
                    拓務大臣               井野碩哉

                    厚生大臣               小泉親彦
                    司法大臣               岩村通世
                    海軍大臣               嶋田繁太郎
                    外務大臣               東郷茂徳
                    遞信大臣               寺島 健
                    大藏大臣               賀屋興宣
                    商工大臣               岸 信介
                    鐵道大臣               八田嘉明

 

〔常用漢字版〕

天佑ヲ保有シ万世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本帝国天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス

朕茲ニ米国及英国ニ対シテ戦ヲ宣ス朕カ陸海将兵ハ全力ヲ奮テ交戦ニ従事シ朕カ百僚有司ハ励精職務ヲ奉行シ朕カ衆庶ハ各々其ノ本分ヲ尽シ億兆一心国家ノ総力ヲ挙ケテ征戦ノ目的ヲ達成スルニ遺算ナカラムコトヲ期セヨ

抑々東亜ノ安定ヲ確保シ以テ世界ノ平和ニ寄与スルハ丕顕ナル皇祖考丕承ナル皇考ノ作述セル遠猷ニシテ朕カ拳々措カサル所而シテ列国トノ交誼ヲ篤クシ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ之亦帝国カ常ニ国交ノ要義ト為ス所ナリ今ヤ不幸ニシテ米英両国ト釁端ヲ開クニ至ル洵ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ中華民国政府曩ニ帝国ノ真意ヲ解セス濫ニ事ヲ構ヘテ東亜ノ平和ヲ攪乱シ遂ニ帝国ヲシテ干戈ヲ執ルニ至ラシメ茲ニ四年有余ヲ経タリ幸ニ国民政府更新スルアリ帝国ハ之ト善隣ノ誼ヲ結ヒ相提携スルニ至レルモ重慶ニ残存スル政権ハ米英ノ庇蔭ヲ恃ミテ兄弟尚未タ牆ニ相鬩クヲ悛メス米英両国ハ残存政権ヲ支援シテ東亜ノ禍乱ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿レテ東洋制覇ノ非望ヲ逞ウセムトス剰ヘ与国ヲ誘ヒ帝国ノ周辺ニ於テ武備ヲ増強シテ我ニ挑戦シ更ニ帝国ノ平和的通商ニ有ラユル妨害ヲ与ヘ遂ニ経済断交ヲ敢テシ帝国ノ生存ニ重大ナル脅威ヲ加フ朕ハ政府ヲシテ事態ヲ平和ノ裡ニ回復セシメムトシ隠忍久シキニ弥リタルモ彼ハ毫モ交譲ノ精神ナク徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ此ノ間却ツテ益々経済上軍事上ノ脅威ヲ増大シ以テ我ヲ屈従セシメムトス斯ノ如クニシテ推移セムカ東亜安定ニ関スル帝国積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ帰シ帝国ノ存立亦正ニ危殆ニ瀕セリ事既ニ此ニ至ル帝国ハ今ヤ自存自衛ノ為蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破砕スルノ外ナキナリ

皇祖皇宗ノ神霊上ニ在リ朕ハ汝有衆ノ忠誠勇武ニ信倚シ祖宗ノ遺業ヲ恢弘シ速ニ禍根ヲ芟除シテ東亜永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝国ノ光栄ヲ保全セムコトヲ期ス

 

御名御璽

 

昭和十六年十二月八日

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〔現代文書き下ろし〕 

天の助けを持ち、万世一系の天皇の位につく大日本帝国天皇は、まさに忠誠で勇武なるあなた方国民に示す。 

 私はここに、米国および英国に対して戦争を布告する。陸海軍の将兵は全力をふるって交戦に従事し、官僚は職務を全うし、国民はそれぞれの本分を果たし、全ての国民が心を一つにし、国家の総力を挙げて戦争におもむく目的を達成するために、手落ちのないように心がけてほしい。

 

 そもそも、東アジアの安定を確保し、これによって世界の平和に寄与することは、おおいに輝かしい皇祖考(=明治天皇)、それを立派に受け継いだ皇考(=大正天皇)が述べられたことであり、私もそれを心に留めてきたところである。

 多くの国と親しく交際し、あらゆる国とともに共栄を図ることは、帝国が常に国交の重要な意義としているところである。今や、不幸にして米英両国と戦いを始めるのが避けられなくなっている。これは私が望むものではない。

 先に、中華民国政府は、帝国の真意を理解せず、無用に事をあらだてて東アジアの平和を撹乱し、ついに帝国と戦争を行うに至り、すでに4年を経過した。
 幸いなことに国民政府がこの状態を更新しようとしており、帝国はこちらと国交を結び互いに提携するようになったが、重慶に残存する政権は、米英の庇護を頼り、自国内で争うことを止めようとしない。米英両国は、残存政権を支援し、東アジアの騒乱を助長し、平和の美名の下に東洋制覇の高望みを強くしている。

 さらに、同盟国を誘い帝国の周辺に軍備を増強して我が国に挑戦し、帝国の平和的通商にあらゆる妨害を与え、ついに経済断交を行い、帝国の生存に重大な脅威を加えている。私は政府に、平和のうちに回復させようとし、じっと我慢をしていたが、かの国はほんの少しも互いに譲り合う気持ちがなく、無用に時局の解決を引き延ばして、その間にさらに経済上軍事上の脅威を増大し、我が国を屈服させようとしている。

 このようにして、東アジアの安定に関する帝国の長年の努力はことごとく水泡に帰し、帝国の存続がまさに非常に危険な状態に瀕している。このような事になり、帝国は自存自衛のため、勢いよくたちあがり、一切の障害を破砕するほかにない。

 

 天皇歴代の祖先の御霊が我々にはついている。私は、あなた方国民の忠誠さ勇武さを信頼し、祖先の遺業を成し遂げ、速やかに災いの元を除き去り、東アジアの永遠の平和を確立し、これによって、帝国の栄光を保全することを望む