日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

大東亜戦争の責任は我にあり 東條英樹「宣誓供述書」(全文)その12 東條内閣の組閣

2023-12-23 11:49:53 | 東條英機  

             パル判事の碑文 (靖国神社)


東條英機 宣誓供述書 

 
             

東條内閣の組閣

 

  78

 1941年(昭和16年)10月17日には
前日來辞辞職願を出したため此日私は官邸にてその後の準備をして居りました。
午後3時30分頃侍従長より天王陛下の思召により直ちに参内すべしとの通知を受けました。  

 突然思召のことではありますから
私は何か総辞職に関し私の所信を質されるものであらうと直感し、
奉答の準備のために書類の準備を懐にして参内しました。


  79

 参内したのは午後4時頃と思ひますが、
参内すると直ぐに拝謁を御付かり組閣の大命を拝したのであります。
その際、賜りました、御言葉は
1941年(昭和16年)10月7
日の木戸日誌にある通りであります。
 (法廷証第一一五四号英文記録1029頁) 

 私は暫時の御猶予を願い御前を退下し宮中控室に居る間に続いて及川海軍大臣に御召に依り参内し
「陸軍に強力せよ」との御諚を拝した旨海軍大臣と控室にて面会召致しました。

 間もなく木戸内大臣がその部屋に入って来て御沙汰を私と及川海相との双方に伝達されたのであります。
 其御沙汰は昭和16
年10月17日木戸日誌(法廷証第一一五四号)のとおりであります。

 即ち、
『只今陛下より陸海軍協力云々の御言葉ありましたことと拝察いたしますが、
 なほ国策の大本を決定せらるるについては9月6日の御前会議決定に捉わるることなく、
 内外の情勢を更に深く検討して慎重なる考究を加ふるを要すとの思召であります。
 命に依り其の旨申し上げます』と言ふのであります。
 之が後にいふ白紙還元の御諚であります。 


  80 

 私としては組閣の大命を拝すると云ふが如きは思いも及ばぬことでありました。
 田中隆吉氏は佐藤賢了氏が、阿部、林両重臣を訪問して
「東條を総理大臣にしなければ陸軍の統制はとれぬ」と述べた旨証言しました
 (法廷証第1583頁)
 既に記録した如く
 私は近衛内閣の後継内閣は東久邇宮内閣でなければ時局の収拾は甚だ困難であろうと考へ、
 此の意見は既に近衛総理及木戸内大臣にも伝へたのであります。
 
 私は16日夜、私は此の意見を阿部、林両重臣に伝えることが適当であると考へ
 佐藤軍務課長をして阿部、林両重臣に此の意見を伝達させたのであります。

 佐藤氏は私の意見のみ伝達し両重臣は彼等の意見を述べなかった旨私に報告しました。
 
 従って私自身が後継内閣の総理大臣たるの大命を愛くること
 乃至は陸軍大臣として留任することは不適当なりと考へたのであります。
 又格の如き事の起ころうことは夢想もしませんでした。

 殊に私は近衛内閣総辞職の首謀者であるのみならず、
9月6日の御前会議決定に参興したる責任の分担者であるからであます。
特に9月6日の御前会議の変更の為に私が総理大臣としては勿論陸軍大臣として留任することが
却って大なる困難を伴ひ易いのであります。
  
 以上は当時私及び私を知る陸軍部内の空気でありました。
故に「白紙還元」の御諚を拝さなければ私は組閣の大命を承け入れなかったかも知れないのです。
  
 此の「白紙還元」と云ふことは私もその必要ありと思って居ったことであり、
必ず左様せねばならずと決心しました。

 なほ此の際、和か戦か測られず。
塾れにも応ぜざるを閣内体制が必要であると考へました。
之に依り私自身陸軍大臣と内務大臣を兼職する必要ありと考へ
其の旨を陛下に予め上奏することを内大臣に御願ひしました。
     
 当時の情勢では、もし和と決する場合には相当の国内的混乱を生ずる恐れがありますから、
自ら内務大臣としての責任をとる必要があると思ったのであります。
 陸軍大臣兼摂には現役に列する必要があり、それで現役に列せられ陸軍大臣に任ぜられましたが、
このことは後日閑院宮陛下の御内奏に依る事であります。


  81 


 組閣については中々考えが纏まりません。
此の場合神慮に依る外なしと考へ、
先ず明治神宮に参拝し、次に東郷神社に賽し、更に靖国神社の神霊に謁しました。
  
その間自ら組閣の構想も浮かびました。
(一)大命を拝した以上は敢然死力を尽くして組閣を完成すること。 
(二)組閣に遅滞は許さず。
(三)閣僚の選定は海軍大臣は海軍に一任するが其他は其他は人物本位にて簡抜すること。

 即ち当該行政に精通している人を持って行き度い。
行政上の実際の経験と実力をもって内閣に決定を強力に施行して行く堪能なる人を持って行く。
政党又は財閥の勢力を顧慮せず又之を忌避せずといふ態度で行きたいといふことでありまました。

 

  82

 右大命を拝した其の日の夜6時半頃陸相官邸ににて着手しました。
組閣に当たっては右の方針に則り私一個にて決定し、他人にも相談しませんでした。
しかし、助手が要るから、先ず内閣書記官長の選定を必要としました。

 同夜8時半星野直樹氏に電話し来邸を求めて之を依頼したのであります。
星野氏は第二次近衛内閣の閣僚として同僚であり、
其の前歴の関係に於ても、才能の上に於いても適任と考へました。
 
 星野氏は來邸し直ちに之を受諾してくれました。
 電話で決定したのは
 橋田(文相候補) 岩村(法相候補) 井野(農相候補) 小泉(厚相候補)
 鈴木(企画院候補)岸(商工候補)の諸氏であります。

 召致して懇談の上受諾したのは
 賀屋(大蔵候補) 東郷(外相候補) 寺島(逓信、鉄道候補)湯澤(内務次官候補)の諸氏であります。

 此の中で東郷氏と賀屋氏は今後の国政指導は極力外交交渉で進むのかとの意味の駄目を押しました。
湯澤氏は次官のことでありますが私が内務大臣兼摂でありますので大臣級の人物を要したのであります。

 同夜中に海軍大臣より海相推挙ん返事は出来ません。
翌朝(18日)及川海相より島田氏を推挙するとの確報を得、続いて島田氏が来邸しました。

この時に対米問題は外交交渉で行くのかといふ点と
国内の急激なる変化を避けられたしとの質問と希望がありました。
 
 私は前の質問に対しては、
白紙還元の説明を興へ後の希望に対しては勿論国内の急激な変更はやらぬといひました。
島田氏は之を聞いて後海相たることを承諾致しました。
 
 18日朝は靖国神社例祭日で午前中は天皇陛下の御親拝あり自分も参列しました。
午後1時閣員名簿を捧呈、4時親任式を経て茲に東條内閣は成立致しました。
 


大東亜戦争の責任は我にあり 東條英樹「宣誓供述書」(全文)その11 第三次近衞内閣の總辭職

2023-12-23 11:01:22 | 東條英機  

                         パル判事の碑文 (靖国神社)

東條英機 宣誓供述書 


 
              

第三次近衞内閣の總辭職

 

  70 

 第三次近衛内閣は当時の我国の国際危機打開の望みを日米交渉の上に繋げ、
之に一切の努力を集注したのでありますが、
前にも述べっました通り、之もなしく停頓し、
他面作戦上の要求は国家として和戦決定の遅滞を許さざるものがありまました。

 その間に於て1941年(昭和16年)10月12日、荻外荘に於ける五相会合があり、
次いで同年同月14日閣議に於て豊田外相と陸軍大臣たる私との間に
今日の国策遂行の方策に関し意見の相違を来し、その結果は遂に同内閣の総辞職となったのであります。
  
 此の顛末は略ぼ近衛公の口述筆記なりと称せられる
「第三次近衛内閣総辞職の顛末」(證第一一四八号) 
並に同年10月15日の木戸公の口述日誌(法廷證第一一五〇号)の記述の如くでありますが、
唯、その中当時の陸相としての私の経験したところと相違する箇所がありますから次に其の概要を述べます。

 

  71

 先に述べたる如く10月上旬を目途として日米交渉の最後の打開を為し、
其時期迄に我要求貫徹の目途無き場合は、
直ちに対英米蘭戦争を決意するとの国家意思が決定せられて居ります。  

 右 「第三次近衛内閣総辞職の顛末」(法廷證第一一四八号)中第2項の終りに、
近衛公は此の1941年(昭和16年)9月6日の御前会議を必要とした理由につき次の如く述べて居ります。

「曰く、そこで8月28日 「ルーズヴェルト」大統領に 「メッセージ」を送り会談を申し込んだのであるが、
 それに対し「ル」大統領は喜んで応ずるが
 その前提として重要案件だけは大體の話合いをつけて置きたいといふことだったので
 その対策の根本を決定するため9月6日の御前会議が開かれたのであつた。」と。

 即ち「ルーズヴェルト」大統領との会談の前提条件の決定を
此の御前会議を必要とした唯一の理由と為して居ります。

 勿論此のことも此の会議を必要とした主な理由の一つには相違ありませんが、
之のみを御前会議開催の理由とするのは誤りであります。
 
 本來此の御前会議はその議題の内容に依っても明白なる如く
外交の見透しと牽聯して我国の南方施策遂行に関する方途を決定するに在りました。
而も之は統帥部の応急的作戦準備の必要上其の要請に基くものであります。

 

  72 

 此の御前会議の決定に基づいて政府及び統帥部は夫々外交及び作戦準備を進めました。
作戦準備は均整には進みませぬが大體予定通り進捗して居りましたが
対米交渉に方は仲々進捗しませぬ。
9月の下旬に至もなほ停頓の状態でありました。 

 そこで陸海軍統帥部は9月25日の連絡会議に於て、
政府に対し、対米交渉の成否の見通し及び和戦の決定を
10月15日迄に為さんことを要望して来たのであります
  (書證第一一四一号)。
 
 然るに米国政府は前述の如く我国の9月6日の御前会議決定に基く提案にも、
近衛首相の首脳者会談の提案にも応じて来ない。

 その回答として「ハル」国務長官は10月2日の口上書を寄せたのでありました
 (法廷證第一ニ四五号G)。
 其の内容には互譲の精神の片鱗も認められないのです。

 
 10月2日の口上書を日本政府が受取ったのは10月4日でありました。
之を受取った政府は直ちに連絡会議を開き、その検討に着手しました。
 引続き10月18日にも会議をしましたがなかなかその議は纏まらないのでした。

 此の前後に於る陸軍統帥部の態度及び見解は概ね次の如くでありました。
(一)以上の如く互譲の様子なき米国の態度に鑑み対米交渉妥結の見込はない。
(二)米国側の主張する4条件を無条件に認むること
   並びに支那に於る駐兵条件及これの譲歩には不同意。
(三)9月6日の御前会議の決定を変更する意思なし。  

 当時参謀総長依り野電報に依れば海軍軍令部に於ても全然同意見なることを承知しました。 

 統帥部として恐れたのは、
当時の米国の情勢より見て、我国が米国の遅延策に乗ぜられることでありました。
 
 私も大體右統帥部の意見と同様の考へを持って居りました。
 依って私は10月10日、首相に会見して、
大本営の見解の大要を述べて首相の意思の決定の参考としたのであります。

 

  73 

 1941年(昭和16年)10月12日午前2時より
首相の召致に依り荻外荘(近衛首相の荻窪に於る邸宅)にて五相会議が行はれました。

 出席者は近衛首相、及川海相、豊田外相、鈴木企画院総裁及び陸相の私でありました。
陸海軍共統帥部の責任者は出席致して居りません。
其他には列席者は一人もありません。会合は午後6時過まで継続致しました。
 
 統帥部の考へは私は予てから知って居りましたから、
此会議に出席するに当り改めて参謀総長又は其他の参謀本部職員などとは協議して居りません。

 法廷證第一一四八号「第三次近衛内閣総辞職の顛末」日本文2頁英文も2頁に
「然るに会議の前日海軍の岡軍務局長の来ての懇談に、
 軍令部は別として海軍首脳部は日米戦をやりたくないが、
 大本営決定に賛成した手前海軍自身からは、やれぬとは言へぬから、
 明日の会合に於て、
 海相から総理一任といふことを持出すから総理から外交交渉で行くと裁断して貰いたい」 といふ
 申出のあった記事がありますが、
 私も私の部下も、こんなことは全く知らぬことでありました。

 この会合の目的は日米交渉の成否の見通し並びに和戦の決定についての懇談でありました。
 長時間に亘って議論されましたが、時間は今記憶して居りませぬが、
各自の主張の要点は次の如くでありました。

 近衛首相並びに豊田外相
 日本の今日までの主張を一歩も譲らぬといふのであったならば日米交渉の成立の見込はない。
 しかし交渉の難点は撤兵問題である。 
 それであるから撤兵問題に於て日本が譲歩するならば交渉成立の見込はある。
 日本としては撤兵問題に際し、名を捨て実を取るといふことが出来る。
   
  即ち一応は「アメリカ」の要求に従って全面撤兵することにし、
そして中国との交渉に依り新なる問題として駐兵することも可能と言ふのであります。

 之は実際に於て明かに9月6日の御前会議の決定の変更でありますが
両大臣は特に決定変更とまでは言はれなかったのでした。

 私の主張
  今日までの日米交渉の経過より見、
 殊に日本の9月6日の御前会議の決定に基づ対米交渉に対し、
 米国の10月2日の回答並びに首脳者会談の拒否の態度を見ても
 日米交渉の成功の目途はないのではないか。
 これ以上の継続は徒に米国の遅延策に乗ぜられるのみである。
 若し、日本が対米開戦をせねばならぬといふ場合に立到らば
 此の遅延策に乗れば作戦を著しく制約せられる危険に陥る。
 それであるから今や9月6日の決議に予見せられた
證第一ニ四五号 

  支那に於る撤兵問題は日米交渉の初めより
我国は全面撤兵の承認及駐兵に就ては日華基本条約に依ることに依て話が進められて居り
外相の取らんとする態度も之に異ならない。

 しかし米国の狙ひは全然以上に相違して居る。
交渉の進むに従ひその目的が無条件撤兵であるといふ事が明らかになって来た。

 
 換言すれば名実共に即時且つ完全撤兵を要求して居るのである。
従って両大臣が言はるる如き名を捨てて実を採ると云う案に依つて妥協が出来るたは考へられない。
然らば仮に米国の要求を鵜吞みにし、駐兵を拠棄し、完全撤兵すれば如何なることになるか。

 日本は4年有余に亘りて為したえる支那事変を通しての努力と犠牲は空となるのみならず、
日本が米国の強圧に依り中国より無条件退却するとすれば、中国人の侮日思想は益々増長するであらう。

 共産党の抗日と相待ちて日華関係は益々悪化するであらう。
その結果、第二、第三の支那事変を繰返すや必ずである。
 
 日本の此の威信の失墜は満州ににも、朝鮮にも及ぼうなほ日米交渉の難点は
駐兵、撤兵に限らず彼の米国の四原則の承認、三國条約の解釈、通商無差別問題等幾多そこに難関がある。
此等の点より言ふも、日米妥協はもはや困難なりと思ふ。
しかし、外相に於て成功の見込みありと確信あらば更に一考しよう。
又、和戦の決定に統帥に重大関係がある。従って総理だけの決定に一任する訳に行かぬ。 
 
及川海相の意見
 外交に依る成功の目途の有無は総理に一任しようではないか。
しかし、日本は今や和戦の関頭に立って居る。
戦争をするならば今が好機である。
若し、開戦するといふことならば只今之を決められたい。
開戦を決定せずして外交妥結の見込みありとし、2、3ケ月も経ち其の後に戦争といふのでは海軍は困る。
外交で行くなら徹底的に
外交に徹すべし、といふものでありました。 
 
 しかし妥結の目途並びに妥結の方法に付いては何等述べられていないのであります。
総て総理一任といふことでありました。

 以上の如くで意見が一致せず、そこで私の提案で一の申合せを作りました。
 即ち
「一、駐兵(中國)並びにこれを中心とする諸政策は変更せず 
  二、支那事変の成果に動揺を與へず 

 以上を前提として外交の成功を収める。
 而も統帥部の庶幾する時期までに成功の確信を得て貰額。
 此の決心を持つて進む間は作戦の準備をやめる。
 外相に於いては之が出来るかどうか研究する事」

この申合せは書面としては存在しませぬ。
しかし、右提案せることは昭和16年10月12日木戸日記法廷證第一一四七号に依り傍証せられます。

 

  74 

 翌13日朝私は参謀総長に会ひ右大體の会合の経緯を説明、申合事項のを連絡しました。
そして外交交渉の間作戦準備を止めることを申出ました。
統帥部としては難色がありましたが、とにかくこれに応諾しました。

 

  75

 10月14日は閣議の日であります。
その日の朝、閣議前に私は首相官邸に於て首相と会見しました。
此の時の話はやはり12日荻外荘の会談と同様のことに終わりました。
その様子は多少修飾されて居りますが
大體は法廷証第一一四八号(第三次近衛内閣辞職の顛末)に書いてある如くであります。
    
 同日10時閣議が開かれました。
豊田外相は外交妥結の見込みに付いては荻外荘会談と同様の意見を述べました。
私も当時と同趣旨の説明をしたのでありました。

 此の閣議では近衛首相も及川海相も他の全閣僚も何等発言しませんでした。
ここに於て外相と陸相との衝突となり、之にて万事は休したのであります。

 

  76

 其後経過について私に関する限りに於ては
略証第一一四八号 「第三次近衛内閣辞職の顛末」の通りであります。

 同証日本文12
頁 英文7頁(注法記録10250頁)に
「陸軍の武藤軍務局長が富田書記官長の所へ来て
 此際陸海軍にハッキリ言って貰ふうじゃないかといふことであったので
 富田翰長は之を海軍の岡軍務局長に話したところ、岡局長は不相変わらず海軍としては言へぬ、
 総理の決定に従ふということ以上にもうせぬといふっことであったので云々」 との記事が有ります。
 
 この事柄は私は同人(武藤)より確かに報告を受けて居ります。
又右証第一一四八号日本文14頁、英文8頁に私が鈴木企画院総裁を使として近衛総理を訪問せしめ、
9月6日の御前会議の決定を一応白紙に還へすこと、
時局収拾を東久爾宮殿下に御願ひすることを述べたとの記録があります。
  
 14日の夜鈴木企画院総裁と陸相官邸に於て会見し
私がこの軍の依頼を同総裁にしたことは相違ありません。

 

  77

 之を要するに私が総辞職の意見を述べたのは次の理由によるものです。 
一、日米交渉に於て
  我要求を貫徹し得る目途ありや否やを断定し得る迄に交渉の手が十分に詰められていないこと。 

二、海軍の開戦すべきや否やの決意は不確実であること
  右に依り9月6日の御前会議の決定は不適当なりしこと
  及不適当なりしにせよ御前会議の決定通り実行出来ないとなれば
 (実際当時に於ては私も実行しない方がよいと考へて居りました)
  之に参与した政府は責任を負ふて辞職し新な政府の責任に於て9
月6日の御前会議の決定をやり直し、
  日米交渉にも新たなる努力をすべきである。
  


大東亜戦争の責任は我にあり 東條英樹「宣誓供述書」(全文)その10 近衞内閣に於ける日米交渉

2023-12-23 10:12:19 | 東條英機  

                          パル判事の碑文 (靖国神社)

東條英機 宣誓供述書 


  


近衞内閣に於ける日米交渉

 (其の二、9月6日の御前會議以後)
 

  69 

 9月6日の御前会議の決定以後の対米交渉は専ら豊田外相の手に依り行わわれたのであります。
茲に其の大綱について私の承知する限りを申し述べます。
而して対米外交の経路は従前と通り異なり、2つ筋によって行われました。

 その一は野村大使を経て米国々務省に通ずる道であり、
他の一つは豊田外相より米国駐日大使を通じて進行する方法でありました。

 此の交渉と近衛首脳者会談とは我が方では大きな期待をかけて居ったのであります。
 之に対する回答は10月2日米国の「口上書」(証1245号G)として現れました。

 之を野村大使に交付するときの「ハル」長官の言に依れば
米国政府は予め諒解が成立せざれば両首脳の直接会見は危険であるといふのであります。

  太平洋の全曲の平和維持のために「間に合わせ」の諒解ではいけない。
「明瞭なる合意」を必要とするといふのであります。
 
此の米国の提案には四つの原則の確認を要求して居ります。 
1、各国の領土並びに主権の尊重 
2、他国の内政不干渉主義の指示 
3、通商上の機会均等を含む均等を含均等原則均等原則の支持
4、平和手段に依る外太平洋に於ける現状の不変更  

 米国はそれに附加して従来主張し来つた三國条約の解釈、
中国及び其他における兵力の駐留、
通商無差別に関する日本政府の見解を明示すべしと要求して居ります。
  
 要するに以上に依って首脳者会談の成立せざることは明白となりました。

 日本は日米交渉成立のた
め忍び得ざる限度まで譲歩を行ってその成立に努力しましたが、
10
月2日の米国案を見れば曾ての6月21日案以来一歩も互譲の跡が認められませぬ。
  
 日本は生存上の急を要する問題を解決しようとするに対し
米国は当初よりの原則論を固執するのみであります。

 当時の米国の考へは野村大使よりの
10月3日の米国の一般情況具申の電報(証第2906号)に依り明らかであると認めました。
   
 之に依れば米国はいよいよ大西洋戦に深入りすることとなり、
これがため対日態度は小康を保ちつつあるが、
さりとて対日経済圧迫の手を緩めずその既定の政策に向かって進みつつあることは
最も注意すべきことであるといって居ります。  

 なほ此の電報には 
此のまま対日経済戦を行いつつ武力戦を差控えるに於ては
米国戦わずして対日戦の目的を達する
もの
であるといって居ります。  

 なほ此の時の事態の観察として駐日英大使が本国拝承 「イーデン」氏に発した電報が有ります。
   (証第2908号)

 之に依れば
(一)松岡外相の辞任に依り穏健政策の見込みは増大した。
 (二)日米会談は日本側は急を要し 且つ現在のところ一般諒解以上に出て得ざるに対し、
  米国側は遅延策を講じ且つ国交調整の如何なる取扱についても技巧をこらせつつある。

  日本の心持乃至は遷延を許さざる日本国内情勢を理解せず徒に警戒的態度を取り、
 
現在の好期を逸する愚策なりといっております。


  之は当時日米交渉につき第三者がもって居った観察を証するものであると解しまました。
 
  斯くて情勢は好転せず日米交渉は更にまた大きな難関にぶつかったのでした。
 第三次近衛内閣は日米交渉に全力を挙げましたけれども
 遂に其の効なく10月中旬に瓦解するのであります。
 


続く
〔第三次近衞内閣の總辭職〕  


大東亜戦争の責任は我にあり 東條英樹「宣誓供述書」(全文)その9 太平洋作戦準備 

2023-12-22 20:56:03 | 東條英機  



 
                    


太平洋作戰準備 

 

   62 

 日本に於ては統帥部は其の責任上外交と離れて別に隣国に対する作戦計画を持っておりました。
然し乍ら統帥部に於ても政府に於ても共に戦争計画を持っておりませぬ。
(イ) 之は日本独特の制度たる統帥独立の理論に基づく政府と統帥機関の分立と言ふこと。
(ロ) 陸軍と海軍を画然と別れて居るといふこと。
(ハ) 並に陸軍と海軍とが将来戦に於ける作戦上の目標を異にして居るといふことから来ております。
   故にもし事実上の戦争計画の必要を認めるとするも之を作成することは不可能でありました。

 斯くの如く事実上の戦争計画がなかったのであるから戦争準備なるものは無いのであります。
 況んや太平洋戦を目標とする恒久的戦争計画は夢想だもして居らなかったのでした

 唯、支那事変の解決及び国際情勢の急変に対処するため
国防国家又は高度国防国家の建設を標語として迅速に国内の戦時態勢を実現せんとすることを希望して居った事実はあります。

 然し之は飽くまでも時局の変転に対応する策であって帝国の独立を確保する為であります。
 即ち支那事変以上の戦争に捲き込まれることを避けるために国家の総力をする態勢をとることを目標としたのであります。

 其の意図する所は畢竟戦争の防止にあり、戦争の準備ではないのです。
 当年世界の各国が国防を忽せにしなかったのと同一であって彼此の間に区別はないのと考へました。

 

  63 

 他面に於て我国も軍備の充実を企図したことは是亦事実であります。
その目的は、陸軍にあっては主とし対「ソ」防衛作戦計画が基礎でありました
且つ支那事変勃発後は之に加ふるに之に支那事変遂行に要する軍備の整備といふことが加っただけであります。

 従って陸軍に於て太平洋戦争を本来の目的とする目的とする軍備充実ではなかったのであります。
 海軍の軍備については自分は関与しておりませぬ。


  64
 

 日本の対米英戦に対する準備は応急的のものであって凡そ次の3段階を基準として臨時に行はれました。

即ち 

(a)1941年(昭和16年)9月6日の御前会議
  この決定に基き和戦両様の意図に依り対米英戦を目的とせる応急的の作戦準備を開始ました。 

(b)後に言及する1941年(昭和16年)11月5日の御前会議に基づき本格的に作戦準備を行ひました。

(c) 1941年(昭和16年)12月1日の決定に基づき開戦準備行動に移りました。

 

  65 

 わが国の陸軍増強は前述の如く対「ソ」防衛計画を目的として準備されたものであって、
その動員上の基準兵力はソ連の極東に使用し得る予想兵力の3分の2を目標として整備せられたものであります。
 
 然し対「ソ」連の看板の防衛力の強化、日本国内の財政、並びに国内の財政、
 並びに国内軍需生産力の面よりする制約を受け、以上の目的を十分に達成することが出来ず、
殊に航空機並に機械化兵器に於て甚だ不十分でありました。

 1937年(昭和12年)7月、支那事変勃発以来この事変の遂行のための軍備の整備を必要とし
 之がため一般戦備の整備は益々困難となりました。
殊に航空機関係において然りであります。  
  
 次いで情勢の急迫に伴ひ遂には満州、支那及内地にある既存の兵力、既存の資材を抽出して配置転換を為し、
南方渡洋作戦に応ずる如く編成及び装備を改編し臨時応急の体制を以て之に応じたのであります。

 作成資材の配置も亦右の趣旨に依り行われました。
従って1941
年(昭和16年)9月より12月迄の間に於て
全軍の約1割程度が南方に必要なりとして台湾及び仏印に移送されたに過ぎません。

 

  66  

 日本の軍需生産は以上の必要に応ずるものでありまして其内容は陸軍に関するもは次の四つであります。

(a) 対「ソ」作戦計画に基づく所要軍需資材の整備のための生産 
(b) 支那事変の遂行に要する所要軍需資材の生産(之は主として消耗の補給)
(c) 軍隊教育用の軍需資材の生産
(d) 内地予備貯蔵のための軍需資材の生産

 右等は海軍軍需資材の関係もあり、殆ど其の最小の要求だけでも之に応ずることは出来ませんでした。

 

  67  

 対米英情勢の緊迫するに及び之を如何にしたかといふに、
右緊迫に伴ひ軍需資材並びに兵力について転用に依る配置変更、
内地予備の使用、対支作戦の使用量の制限、教育用資材の圧縮等により応急的準備を調へ
辛うじて開戦の初期之に応じ得たのであります。
軍需生産の基をなす生産力の向上といふものは一朝一夕に出来るものものではないであります。
 
 米英よりの長年に亙る経済上の圧迫、
殊に1941年(昭和16年)7月の経済封鎖により原材料の入手難に陥り其の入手が途絶に瀕したる結果、
軍需生産面に於て米英戦に応ずる生産増加を為すことが困難といはんよりは寧ろ不能に陥ったのであります。

 特に航空機の生産及石油の製造に於て甚だしかったのであります。
此点より見るも本格的なる対米英戦の準備は陸軍に関する限り皆無の状態でありました。

 

  68  

 次に人的資源について申し上げますが之は比較的余裕がありました。
然し軍需生産の面で制約せられ、その拡充十分目的を達し得なかったのであります。

 政府としては止むを得ず此の不利を逆用して、他面国家の将来を考へ学生の就学を継続させる方針をとりました。
 然し乍太平洋戦争の進行に伴ひその中期頃は兵力の不足を訴え来り、
且つ下級幹部補充の必要のためその大部分をも招集するに至りました。

 要するに人員資源に於ては余裕を持って居りましたが
生産力の制限を受け、余裕はあり乍も其利益を活用して戦争準備をすることは出来なかったのであります。

 

〔続く〕
 近衞内閣に於ける日米交渉(其の二、九月六日の御前會議以後) 


大東亜戦争の責任は我にあり 東條英樹「宣誓供述書」(全文)その8 九月六日御前會議

2023-12-22 20:40:42 | 東條英機  

              パル判事の碑文 (靖国神社) 
 

 
 

東條英機 宣誓供述書 


 



9月6日御前會議

 

  58 

 米英蘭の1941年(昭和16年)7月26日の対日資産凍結は繞り
日本は国防上死活の重大事態に当面しました。

此の新情勢に鑑み我が国の今後採るべき方途を定める必要に迫られました。

 ここに於て1941年(昭和16年)9月6日の御前会議に於て
「帝国国策遂行要領」と題する方策(法廷証第588号の中段)が決定されたのであります。

 此の案は一両日前の連絡会議で内容がさだめられ、
更に御前会議で決定されたのでありまして、
統帥部の要求に端を発し、その提案にかかります。

 私は陸軍大臣として之に関与いたしました。

 

  59

 此の帝国国策遂行要領の要旨は急迫せる情勢に鑑み、
従来決定せられた南方施策を次のような要領により遂行するといふものであります。 
即ち

一、10月上旬頃迄を目途として日米交渉の最後の妥結に努める。
  之がため我国の最小限の要求事項並に我国の約諾し得る限度を定め極力外交に依ってその貫徹を図ること。 

二、他面10月下旬を目途として自存自衛を完ふするため
  対米英戦を辞せざる決意を以て戦争準備を完成する。 

三、外交交渉により予定期日に至るも要求貫徹の目途なき場合は
  直ちに対米英蘭海戦を決定する。

四、其他の施策は従前のの決定に依る。

 と言ふのであります。

 

  60 

 此の要領を決定するに当たって
存在したりと認めた急迫せる情勢及之を必要とした事情は概ね次の7項目であります。
  (弁護側証第二九二三号)

a、米英蘭の合従連衡による対日経済圧迫の実施、
 米英蘭政府は日本の仏印進駐に先立ち、緊密な連携の下に各種の対日圧迫を加へて来ました。

  これ等の国は1941年(昭和16年)7月26日既に資産凍結令を発しました。
 又比島高等弁務官は同時に之を比島に適用する手続きを取りました。

 「イギリス」は同日、日英日印通商航海条約の破棄を通告し同日日本の資産を凍結しました。
 蘭印政府も亦7月26日日本の産凍結を行ひました。
  
  右の如く同じ日に「アメリカ」「イギリス」「オランダ」が対日資産凍結を為した事実より見て
 此等の政府の間に緊密な連絡がとられて居ったことは明白なりと観察せられました。
  
 その結果は日本に対する全面的に経済的断交となり、
従来日本は満州、支那、仏印、泰以外の地域との貿易は全く途絶し日本の経済生活は破壊されんとしたのであります。

 
b、米英による対日包囲体制の間断なき強化、米英軍備の間断なき増強等、
  当時帥部の観察よりますれば米国の海軍主力艦隊は1940年(昭和15年)5月以来
 「ハワイ」に進出し益々増強されて居り殊に航空的に増強されて居ると判断せられました。

  1941年(昭和16年)7月には米大統領は太平洋に散在する諸島の防備強化の費用として
 三億弗の支出を米国議会に求めました。
 
  当時日米の関係は甚だしく緊迫の状態を示して来て居りました。
 之と対応して米国陸海軍の大拡張が計画せられました。

  1941年(昭和16年)7月には米国上院は海軍長官に国家非常状態宣言中、
 海軍勤務年限延長の権限を付与する法案を可決しました。

  同月中大統領は海軍費並びに海軍委員会費三十三億二千三百万弗の追加予算の支出を議会に要求しました。

  1941年(昭和16年)9月3日には米國海軍省は
 同年1月乃至8月までの完成乃就役舟艦2隻、潜水艦9隻、駆逐艦12隻その他を含めて合計80隻なる旨を発表して居ります。

  同年1月28日には「フィリピン」に極東米陸軍司令部を創設し、
 これを「マッカーサー」将軍の麾下に置く旨を発表して居ります。

  同年4月30日には米国下院陸軍委員会は徴集兵、護国軍及予備兵の在営期間延長の権限を大統領に付与する決議案を採択して
 居ります。

  1941年(昭和16年)8月米陸軍予備兵3万人を招集し
 9月1日より米国極東軍「マッカーサー」総司令部麾下に編入する旨「ケソン」比島大統領が命令を
発しました。

  1940年(昭和16年)7月25日には米国の国防生産管理局は
 1940年(昭和15年)7月以降1ケ年間に議会の承認せる 
 国防充実及援英予算は五百七億八千万弗中飛行機費百十七億九千万弗なる旨を発表して居ります。

  1941年(昭和16年)7月10日には「ルーズベルト」大統領は
 議会に対し150億弗の国防費及武器貸与予算中陸軍強化費17億4千万弗の支出を求めて居ります。

  此等の情報に依てよも1941年(昭和16年)7月以降に於いても
 米国側は軍備拡張に狂奔せることが窺われました。
 又以下の情報に依り米英蘭の間に緊密なる連携のあることも窺われした。

  即ち1941年(昭和16年)7月24日に米国海事委員会は
 南阿「ターバン」「カルカッタ」「シンガポール」「マニラ」「ホノルル」紅海方面に
 海事連絡員の派遣を発表しています。

  同年8月26日には「ニュージーランド」の首相「フレーザー」氏は
 「ニュージーランド」の基地の米豪、蘭印の共同使用に同意する旨を表明致しました。

  1941年(昭和16年)7月4日重慶の郭外交部長は米、英、支、結束の必要を放送致しました。
  同年8月末には「マクルーター」准将を団長とする軍事使節を重慶に派遣する旨
 「ルーズヴェルト」大統領が言明して居ります。

  なお次に米側高官は威嚇的言動を発表したといふ報道が我方に達しました。
  これらの報道の二三を挙げますれば「ノックス」海軍長官は「ボストン」で開催中の各州長官会議に於て 
 今こそは米国海軍を用ふべき時である旨演説いたしました。

 「ルーズヴェルト」大統領は議会に特別教書を送り議会が国家非常状態の存在を承認せんことを要求しました。

  1941年(昭和16年)7月23日 「ノックス」海軍長官は
  海軍が米国の極東政策遂行上必要なる措置を敢行する旨言明致し  
  ました。

   同年8月14日には有名な米英の共同宣言が発表されました。
  8月19日には「ケソン」比島大統領と「ウオーレス」米国副大統領とは交換放送を行い
  米国参戦の暁には「フィリピン」はこれに加担する旨言明致しました。

 以上の如く此の当時に於ては米国側の威嚇的言動の情報が引続いて入って来たのであります。
 同年6月には「シンガポール」に於て、英、蒋軍事会議が開かれ両者の間の軍事同盟が出来たとの情報が入って居ります。

c, 日本の国防上に与えられたる致命的打撃、
 米英蘭の資産凍結により日本の必要物資の入手難は極度に加はり
 日本の国力及び満州、支那、仏印、泰に依存する物資に依るの外なく
 其の他は閉鎖せられ殊に重要な物資は貯蔵したものの消耗による外はなく、
 殊に石油は総て貯蔵に依らねばならぬ有様世ありました。
 
 此の現状で推移すれば我国力の弾発性は日一日と弱化しその結果日本の海軍は二年後その機能を失ふ。
 液体燃料基礎とする日本の重要産業は極度の戦時規制を施すも一年を出でずして麻痺状態になることが明らかにされました。
 ここに国防上の致命的打撃を受くる状態となったのであります。

d、日米交渉の難航と最後の打開策の決定、
 以上のごときとの業態に伴い、せるとしては松岡外務大臣の退陣までも求めて、
 成立した第三次近衛内閣は極力交渉打開策を講じましたが、遂に毫も其の効果はなく、
 更に近衛首相は事態の窮境を打開するため日米首脳者の会談を企てましたが、
 米側に於て之に応ずる色もないという情況でした。

  しかし、日本としては前諸項の米英蘭の政治的、軍事的、経済的圧迫により
 日本の生産は極度の脅威を受けるけれども
 戦争を避ける一縷の望を日米交渉に懸けその成立を図らんとしたのであります。

  之がため従来の好ましからざる結果にも鑑み
 新たなる観点に立ちて交渉の基礎を求めねばならぬと考えたのであります。
 
e、支那事変解決の困難さの増大、
 重慶は其後更に米の緊密なる支援を受けて受講生を継続し日本は各種の方向を持って解決を図りましたが、
 その目的を達成しないために、
 南方の状態は益々急迫日本としては支那の問題との両者の間に苦慮するに至ったのであります。

f、作戦上の要求に基づく万一の場合における対米英蘭戦争の応急準備、
 前諸項のゲーリーで日本は国防上の危機に追い詰められて来ましたが、
 それでも日本は極力平和的手段により危機の打開に尽力しました。

  しかし、他面日米交渉の決裂も予想して置かねばならぬのでありました。
 此の決裂を幾分でも予想する以上は統帥部はその責任上之に応ずる準備を具えねばならないのであります。

  その準備は兵力の動員、船舶の徴用、船舶の艤装、海上輸送等広範に亘るものであります。
 外交上の関係は別とするもこの準備は統帥部だけでは出来ませぬ。
 まず国家意思の確乎たる決定を前提とするものであります。

g、外交と戦争との関係、
 外交に依り局面が何うしても打開出来ぬとなれば
 日本は武力を以て軍事的、経済的包囲陣を脱出して国家の生存を図らねばならぬのであります。
 然るときは問題は外交より統帥に移るのであります。

 上陸作戦の都合と戦争物資の状況に状況に依り
 より能力を以てする包囲陣脱出の為には重大なる時期的制約を受けるのであります。

  即ち統帥部の意見拠れば上陸作戦の都合は11月上旬を以て最好期とし、
 12月は不利たるも猶不可能にあらず、
 1月以降は至難、春以降となれば「ソ」連の動向、雨期の関係上包囲陣脱出の時期を著しく遷延することとなる。
 此の間戦争物資は消耗し我方の立場は更に困難に立ち至るといふに在りました。
 又武力行使の為には統帥部としては国家意思決定後最小限一ケ月の余裕が必要であるとの事でありました。

  以上主として国防用兵の関係により日米交渉に10月上旬になる時期的制限を要したのであります。
 以上のような各種の情勢が9月6日の国策要綱を必要とした理由であります。

 

  61

  万一太平洋戦争開戦となる場合の見透は、
 世界最大の米英相手の戦争であるか容易に勝算の有り得ないことは当然でありました。

  そこで日本としては太平洋及び印度洋の重要戦略拠点と日本の生存に必要なる資源の存在する地域に進出して、
 敵の攻撃を破砕しつつ頑張り抜く以外に方法はないと考へたのであります。

 

〔続く〕太平洋作戰準備

 


大東亜戦争の責任は我にあり 東條英機「宣誓供述書」(全文)その7 第三次近衞内閣に於ける日米交渉

2023-12-22 17:01:30 | 東條英機  

         パル判事の碑文 (靖国神社) 

 





東條英機 宣誓供述書 

            
   

第三次近衞内閣に於ける日米交渉

  (其の一、9月6日御前會議以前)
 

  55
 

 第二次近衛内閣の日米交渉は停頓し遂に該内閣の倒壊となったのであります。
 第二次近衛内閣の辞職の表面の理由は曾て御手洗証人の朗読した声明書の通りであり、
又経緯の一部は木戸侯日記(証1115、1116)にも記載してありますが、
私の観察に依れば此の政変は日米交渉を急速に且良好に解決するために松岡外相の退場を求めたといふ事に在ります。
      
 そのことは7月16日、目白の近衛侯別邸にて首相並びに連絡会議関係の閣僚、
即ち平沼、鈴木、及川の諸氏及び私が集って協議した趣旨によっても明らかであります。
そこで総辞職の決議をしその日の夕方総辞職となったのであります。

 即ち第二次近衛内閣は外務大臣を取りかへても日米交渉を成立せしめようと図ったのであります。

 

  56
 

 然るに「アメリカ」側では南部仏印進駐を以て
日本の米英蘭を対象とする南進政策の第一歩であると誤解しました。

之に依て太平洋の平和維持を見出すことを得ずといって日米交渉の打切を口にし、
又資産凍結を実行するに至りました。

 日本政府に於ては猶平和解決の望みを捨てず其の後と雖も日米交渉の促進に苦慮したのであります。
  
 大統領の提案は我国が仏印進駐の意図を中止するか
又は進駐措置が既に開始せられたるときは撤兵を為すべしといふのでありました。
 その一つは日、米、英、蘭、支に依り仏印中立化の共同保障であります。
  (法廷証第2885号)

一、日本は仏印以上に進駐せぬ。而して仏印より支那事変解決後には撤退する事。

二、日本政府は比島の中立を保障する。

三、米国は南西太平洋の軍事的脅威を除去すること。
  そして「イギリス」「オランダ」両政府に対し同様なる処置を勧告すること。

四、米国は南西太平洋、殊に蘭印に於る物資獲得に協力すること。
 又日本と米國の正常関係の復帰の為めに必要な手段を採ること。

 元来、南部仏印進駐は前に述べたような理由で行われたのであったので、
之を必要とした原因が除去せられるか、
又は緩和の保障が現実に認められるにあらざれば仏印撤退に応ずることは出来ぬのであります。

 國家の生死の問題に対しては一方的の強圧があったといふだけで、
之に応ずることは出来ないのであります。


 日本は進出の限度及撤兵時期も明示して居ります。
此の場合に出来得るだけの譲歩はしたのであります。
然るに米国側は一歩も其の主張を譲らぬ。
日本の仏印進駐の原因の除去については少しも触れて来ない。
ここに更に日米交渉の難関に遭遇したのであります。


  57 

 近衛首相は此の危険を打破するの途は唯一つ。
此の際日米の首脳が直接会見し、互に誠意を披瀝し、
世界の醸成に関する広き政治的観点より國交の回復を図るの外はないと考経ました。

 そこで1941年(昭和16年)8月7日に野村大使に訓電を発し首相と大統領との会見を申出しめ又、
同年8月28日には近衛首相よりルーズヴェルト大統領に対するメッセージを送りました。

 米国では趣旨に於ては異存ないけれども、
主要な事項、
殊に三國同盟条約上の義務の解釈並びにその履行の問題、
日本軍の駐留問題、
国際通商の無差別問題につき先づ合意が成立することが第一であって、
此の問題が成立するにあらざれば首脳者会見に応ずることを得ずといふ態度でありまました。
そこでこの会談は更に暗礁に乗り上げたのであります。  
  
 

 

〔続く〕
東條英機 「宣誓供述書」(全文) その8 九月六日御前會議

 


大東亜戦争の責任は我にあり 東條英樹「宣誓供述書」(全文)その6 独ソ開戦に伴う日本の態度決定

2023-12-22 16:54:47 | 東條英機  

                      パル判事の碑文(靖国神社)
      
東條英機 宣誓供述書 


 



独ソ開戦に伴う日本の態度決定

 

  48

 日本政府が独ソ開戦を確定的に知ったのは1941
年(昭和16年)6月22日でありました。
此の日大島駐獨大使よりその旨の公電に接したのであります。
直ちに政府及び統帥部の連絡会議を開き、帝国のとるべき態度につき十分協議を致しました。
そして同月30日に一応の成案を得、7月2日の御前会議にかけ、ここに此際の国策を決定したのであります。
  (証第588号前段)


  49


 独ソ開戦の風説は1941年(昭和16年)4月下旬頃より既に各方面より伝わって来て居りました。
同年6月6日頃「ヒトラー」総統と大島大使の会見の電報に接しました。
 之に依れば独逸はソ連に対する戦争を考えて居るらしい。
然し、日本のこれへの参加希望の意は表明しませんが、内心は之を望んで居る様子であるとのことでした。

 之に関し、直ちに連絡会議を開きましたが、当時の統帥部の判断も、
最近に欧州から帰って来た松岡外相の報告も独ソの回線を信ぜず、
独ソ両国関係がさまで急迫して居るとは見なかったのでした。

 「モスコー」駐在建川大使よりの報道も独ソの関係は相当急迫はして居るが
開戦までには至らざるべしとのことでありました。


 日本としては初めよりソ連を三国側に同調せしめんとし、
独ソ開戦を希望しないのでありますから、
従って自然所謂希望的判断に陥り、
独逸側の言分は英国本土上陸を偽装する一つの手段なるべしと見たのであります。

 従って此の事態に対する政策を決定せず、
「成行を注意」するといふ事に推移して来ました。

 6月12日頃、偶々ソ通商協定仮調印が成立し、
又その頃 「ノモンハン」境界確定の手続きも好都合に進行しつつありました。
即ち此等ソ連の態度の軟化には幾分の疑惑を持たぬものではありませんでした。

  しかし、之は日ソ中立条約の結果なりと考へ、
之を独ソ開戦に結びつけて深く考へませんでした。

 6月16日頃に駐独陸海武官よりの電報にて独ソ開戦の企図ありと報じて来ましたが、
但し開戦の期日は判明しませぬ。

 6月19日頃の 「ルーター」電報は独逸がソ連に進撃せりと報じました。

  20
日頃には独ソ開戦説は一般を風靡したのであります。

 前期のごとく6月23日の大島大使の電報に依って之を知る迄は確定的に此のことを知りませんでした。


  50

 当時の連絡会議の模様を一言致しますが、
連絡会議は一般に之をもって好ましからぬ怪事の発生として迎えたのであります。

 近衛首相は独ソ開戦は独逸の日本に対する不信行為であるから此の際三国同盟を脱退すべしとの意見を持たれ、
従ってその意味を私に話されたこともあります。
   
 斯様な経過でありました事は、
独ソ開戦につき日独間に作戦的の打合、政治的謀議等は絶えてなかったことを証明するに足るものであります。
又、日本自体としても斯くの如くにして突発せる独ソ開戦ついては何ら準備をもって居りませんでした。 


  51

 前述の如く7月2日の御前会議では「情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱」(証588号)を決定したのでありますが、
之は統帥部より提出せられ、私は陸相として参加しました。

 法廷証1123号として提出された私に対する検事尋問調書に此案を陸軍大臣の発案なりと述べたのは
記憶の間違いであって只今述べた所が真実であります。 

  此の会議は同日の午前10時より正午迄であったと記憶致します。
 
 此の要綱は日本と中立関係にある強大なる隣国ソ連と、
又日本の同盟国たる独逸との間に戦争が始まったという劃期的新事態に対する国策を決めたものであって、
其後の日本の針路を決定したものでありますが、
その内容に於ては実は従来採り来つた国策の再確認に外ならないのであります。
 
 その要点は次の4つに集約せられます。
(一)日本は世界情勢の変化に拘らず大東亜共栄圏の建設に関する従来の方針を堅持すること。
(二)日本は依然として支那事変の迅速な処理に邁進すること。
(三)自存自衛の基礎を確立するため1941年(昭和16年)1月30日、
    同年6月25日の連絡会議の各決定を確認して南方政策の歩みを進めること。

(四)独ソ戦の進展に伴ふ北方情勢の変化に備ふるため一部の武力的準備を整え事、
  といふので前に言った如く大体従来採り来つた施策を再確認したにすぎませぬが、
  唯唯4項のみが、独ソ戦に伴ひ新たに確定した者であります。

 然し、これとても独ソ戦がシベリヤ方面に反響することに因る国防上の変化なき限り
日ソ中立条約に依り「静謐保持」の政策を持するといふ事に変化はないのです。


  52

 従って此の国策の決定に基いて日本が新たに具体的に実施したことは
平時編制をとって居った在満鮮軍隊の作戦行動に必要なる不足の人馬等を補充し、
一部の部隊を増加したといふに過ぎません。

 南部仏印進駐は前に述べました如く7月2日の決定に依るものではなく、
これより以前に決められましたが、
その実施が仏国との交渉や軍隊の派遣準備のための時間を要し7月末に及んだのであります。


  53

 此の要綱の作成過程たる連絡会議並びに御前会議に於てとり上げられたる主なる事項は次の諸項であります。
此の当時の日本政府の意図を諒解するに足る資料となると思ひますから簡単に列挙致します。

(a)日本は独ソ戦に参入する義務を負ふのではないか。
 ――ドイツは日本が独ソ戦に参入することを希望して居るようだが、
   日本は三国条約第五条の規定よりするもその義務はない。

 元来三国条約締結のときは三国に同調せしむるといふ両国政府の年来の合意したる政治目的を含むのであって、
その点からも日本が独ソ戦に参入する義務をもつものではない。

 ただ独ソ戦の推移に伴ひ極東ソ連領が混乱に陥り、
引いて満州国の治安にも影響するといふが如き場合、
或いはソ連が日本を以てドイツの同盟国なりとして進んで挑戦し来る場合には
条約上の義務如何に拘らず別個の立場から参戦の必要を生ずる場合なしとは言へぬ。

 従って或る程度ここに武力準備を為す必要ありと考へました。

 然し仮令、斯の如き際と雖も米英の対日動向楽観を許さざる現状に於いては
止むを得ずして惹起せらる対米英戦に対する防衛的基本体制を怠ってはならぬといふ判断に帰着したのであります。

(b)独ソ戦の開始に伴ふて日ソ中立条約に如何なる関係を及ぼすか此のことについては
  三国同盟の第五条に依り、独ソ開戦は日ソ中立条約には法的に何等関係あるものでなく、
  日本は中立条約を維持し「北方の静謐」を守り得るものと考へました。

(c)独ソ開戦が日米交渉に及ぼす影響如何
 ――1941年(昭和16年)6月31日の米国の提案を見るに
  独ソ開戦後米国の我方に対する態度は硬化したものと考減られました。
  従って今後も、此の交渉には相当の困難が伴ふものであると感じたのであります。

   然し、日本としては支那事変を解決するといふ目的よりいふ南方の情勢を緩和するの必要性から言ふも
  更又欧州戦争の東亜波及を防止するの観点からいふも、
  日米の交渉は極力之を成立せしめることに努力せねばならぬといふ結論に達しました。

(d)南方における米英蘭の脅威とその程度並びに南方施策の再確認
 ――6月25日決定の南方施策促進に関する件(証1306号)の決定に付き前に述べたる如く、
  其後此方面の状況少しも緩和を見ず、極力外交によって之を打開しようと考えましたが、
  米英の対日圧迫態度は益々強化せられる。

  もし斯の如き圧迫態度が強化せられ、米英蘭があくまで帝国の仏印乃泰に対する施策を妨害し
  之が打開の途なきときは遂に対米英戦に立至ることなきを保し難し。

  ここに於て我国は最悪の場合には我国の自存の途を講ずる唯一の途として
  対米英戦も辞せざる覚悟をもつて防衛的準備を整へ仏印泰に対する施策を完備する方針の再確認は必要である
とせられまし
  た。

(e)支那事変化解決の方途如何
 ――独ソ開戦に依りその影響が東亜に波及するの算益々大である。
  従ってその解決の必要は益々加わって来た。
  蒋介石政権圧迫のために従来とり来つた政策即ち蒋政権と
  其背後勢力たる米英との連携を分断する必要は一層緊切となりました。

   従来、支那事変解決に徹底を欠いた原因に鑑み、
  蒋政権に対する交戦権を行使すること及支那に於る敵性租界を接収することは時を見て之を実行するの必要がある。

  然し、之は米英と極めて機微の関係にある問題であるから、
 各般の情勢を検討して慎重に考慮する。

  例へば若し米国が対独戦に参入する等最後の場合には之を実行するといふ意見でありました。


  54

 検察側は此の情勢に伴ふ帝国国策要綱第二要綱中の第二号の規定をとらへて
日本が明らかに米英蘭を目標とする南進政策を決定した、といって居ります。


 然し乍ら、すでに述べたように此の場合この決定は仏印及び泰に対する施策を完遂することを定めたものであって
馬来又は蘭印を対象としては居りませぬ。


 即ち米英蘭にたいする南進を決定したものではないのであります。
ただ仏印及泰にたいする諸方策の遂行は当時に於ては米英の妨害を受けることが予想せられました。


 此の間万一米英側が挑戦するならば勢ひ対米英戦を辞するわけには行かぬ。
従つて右は此の意味に於ける対米英戦の防衛的準備を整えるといふ意味に外ならないのであります。



 [続く]
 東條英樹 「宣誓供述書」(全文) その7 第三次近衞内閣に於ける日米交渉

 


大東亜戦争の責任は我にあり 東條英樹「宣誓供述書」(全文)その5 對佛印泰施策要綱、南部佛印進駐問題

2023-12-21 22:10:34 | 東條英機  

              パル判事の碑文(靖国神社)
      
東條英機 宣誓供述書
 


 

對佛印泰施策要綱


  33

以上述べました日米交渉よりは日時に於ては少し遡りますが、ここに佛印及泰との關係を説明いたします。

 1941年(昭和16年)1月30日の大本營及政府連絡會議に於て「對佛印泰施策要綱」といふものを決定しました。
(辯護側證第二八一二號本文書記入の日附は上奏の月日を記入せるものであります。法廷證一一〇三、及一三〇三參照)

 これは後日我國が爲した對佛印間の居中調停、
佛印との保障及政治的了解及經濟協定の基礎を爲すものであります。
右要綱の内には軍事的緊張關係の事も書いてありますが、
此部分は情勢の緩和のため實行するに至らなかつたのであります。
  
 1941年(昭和16年)7月下旬の南部佛印進駐は同年6月25日の決定に因るものでありまして、
今ここに陳述する1月30日の施策要綱に依るのではありませぬ。
從て南部佛印進駐の事は今ここには陳べませぬ。

 

  34 

 右對佛印泰施策要綱は統帥部の提案であります。

自分は無論陸軍大臣として之に參與しました。
其の内容は本文に在る通りであります。

 而して其の目的とする所は、帝國の自存自衞のため佛印及泰に對し軍事政治、
經濟の緊密不離の關係を設定するにありました。

 本件に關する外交交渉は專ら外相に依り取り運ばれましたので詳細は承知して居りませんが
此の當時の事情は概ね次の如くであつたと承知して居ります。

(一)日本は1940年(昭和15年)6月12日、
 日泰間の友好和親條約を締結し(證五一三)日泰間の緊密化に努力して來ましたが、
 泰國内には英國の勢力の強きものが存在しております。
  
(二)日本と佛印の間には松岡「アンリー」協定の結果表面は親善の關係に在り、
 なほ日佛印の交渉も逐次具體化したのであります。
 しかし、佛印の内部には種々錯綜した事情がありました。

 第一佛印内には「ヴイシー」政權の勢力と「ドゴール」派の勢力とが入亂れて居り
 「フランス」本國の降伏後「フランス」の勢力が弱くなるにつれ米、英の示唆により動くような事情も生じましたため、
 佛印政廳は我國に對し不即不離の態度をとるのみでなく、
 時には反日の傾向をさへ示したのであります。 

(三)1940年(昭和15年)11月以來泰國が佛印に對し失地囘復の要求を爲したるに端を發し、
 泰、佛印間の國境紛爭は1941年(昭和16年)に至り逐次擴大し第三國の調停を要する状態となりました。
 「イギリス」は此の調停を爲すべく暗躍を始めましたが
 當時は「イギリス」と「フランス」本國とは國交斷絶の状態でありましたから是亦適當の資格者ではありません。

(四)東亞安定のため支那事變遂行中の日本はその自存自衞のためにも一刻も早く泰、佛印の平和を希望せざるを得ません。
  
 以上の如き各種の事情が此の要綱を必要とした所以であります。


  35

 此の要綱の狙いは二つあります。
その一つは泰、佛印間の居中調停を爲すといふことであります。
その二は此の兩國に對し第三國との間に我國に對する一切の非友誼的協定を爲さしめないといふことであります。

 居中調停は1941年(昭和16年)1月中旬にその申出を爲し、兩國は之を受諾し、
同年2月7日より東京に於て調停の會合を開き3月11日に圓滿に調停の成立を見、
之に基いて5月9日には泰佛印間の平和條約成立し(法廷證四七)、
引續き現地に於て新なる國境確定が行はれました。

 泰は當初は「カンボヂヤ」を含む廣大な地區の要求を致しましたが
我國は之を調停し彼條約通りの協定に落着かせたのであります。


 第二の我國に對する非友誼的な協約を爲さずとの目的に關しては
右と同時に松岡外相の手で行はれ5月9日の日佛印間及日泰間の保障及諒解の議定書となつたのであります。
 (證六四七中に在り)此の間の外交交渉については自分は關與致して居りません。 


南部佛印進駐問題 

  36 

 1940年(昭和15年)9月我國は佛國との間に自由なる立場に於ける交渉を遂げ北部佛印に駐兵したことは前に述べた通りであります。
 爾來北部佛印に於ては暫く平靜を保ちましたが、
1941年(昭和16年)に入り南方の情勢は次第に急迫を告げ、
我國は佛國との間に共同防衞の議を進め、
1941年(昭和16年)7月21日にはその合意が成立しました。

 之に基き現地に於て細則の交渉を爲し此の交渉も同月23日には成立し、
之に基いて一部の軍隊は28日に、主力は29日に進駐を開始したのであります。
尤も議定書は同月29日に批准せられました。
以上はその經過の大略であります。


   37

 右の日、佛印共同防衞議定書の締結に至る迄の事情に關し陳述いたします。
 之は1941年(昭和16年)6月25日の南方施策促進に關する件といふ連絡會議決定に基くものであります。
此の決定は源を同年1月30日の連絡會議決定である、前記「對佛印泰施策要綱」に發して居るのであります。

 その當時は佛印特定地點に航空及船舶基地の設定及之が維持のため所要機關の派遣を企圖したのでありましたが
情勢が緩和致しましたから、之を差控へることにしました。

 然るにその後又情勢が變化し、わけても蘭印との通商交渉は6月10日頃には決裂状態にあることが判明しました。
そこで同年6月13日の連絡會議の決定で「南方施策促進に關する件」を議定しましたが
松岡外相の要望で一時之を延期し之を同月25日に持越したのであります。
 (證一三〇六號)

 斯樣な次第でありますから南部佛印進駐のことは6月22日の獨「ソ」開戰よりも10日以前に決心せられたもので決して獨「ソ」の開戰を契機として考へられたものではありません。 

 此の「南方施策促進に關する件」は統帥部の切なる要望に基いたもので私は陸軍大臣として之に關與致しました。
此の決定の實行に關する外交は松岡外相が事に當り 又7月18日第三次近衞内閣となつてからは、
豐田外相がその局に當ったものであります。  

 本交渉に當り近衞内閣總理大臣より佛國元首「ペタン」氏に對し特に書翰を以て
佛國印
度支那に對する佛國の主權及領土の尊重を確約すべき意向を表明致して居ります
  (辯護側
文書二八一四号)。
 此の書簡中の保障は更に兩國交換文中に繰り返されて居ります。
  (法廷
證六七四-A英文記録七〇六三頁)

 

  38 

 南方施策促進に關する件の内容は本文自身が之を物語るでありませう。
 その要點は凡そ三つあります。

(一)東亞の安定並に領土の防衞を目的とする日佛印間軍事結合關係の設定
(二)その實行は外交交渉を以て目的の達成を圖ること
(三)佛印側が之に應ぜざる時は武力をもつてその貫徹を圖る。

 從って之がためには軍隊派遣の準備に着手するといふことであります。
然しその實行に當っては後段に述ぶる如くに極めて圓滑に進行致し武力は行使せずにすみました。

 

  39 

 右に基いて我國と佛印の間に決定しましたのが日佛印共同防衞議定書であります。
  (法廷證六五一號)
 此議定書の要點は四つあります。

(一)は佛印の安全が脅威せらるゝ場合には日本國が東亞に於ける一般的靜謐及日本の安全が危機に曝されたりと認めること、
(二)佛印の權利利益特に佛印の領土保全及之に對する佛蘭西の主權の尊重を約すること、
(三)「フランス」は佛印に關し第三國との間に我國に非友誼的な約束を爲さざること、
(四)日佛印間に佛印の共同防衞のための軍事的協力を爲すこと。
  但し此の軍事上の協力の約束は之を必要とする理由の存續する間に限るといふことであります。

 

  40 

 然らば何故に斯る措置を爲す必要があつたかと申しますに、それには凡そ五つの理由があります。
その一つは支那事變を急速に解決するの必要から重慶と米、英、蘭の提携を南方に於て分斷すること、
その二は米英蘭の南方地域に於ける戰備の擴大、
    對日包圍圏の結成、
    米國内に於ける戰爭諸準備並に軍備の擴張、
    米首腦者の各種の機會に於ける對日壓迫的の言動、


三つは前二項に關聯して對日経済壓迫の加重、日本の生存上必要なる物資の入手妨害、

四つは米英側の佛印、泰に對する對日離反の策動、佛印、泰の動向に敵性を認めらるること、
五は蘭印との通商會談の決裂並に蘭印外相の挑戰的言動等であります。


 以上の理由、特に對日包圍陣構成上、
佛印は重要な地域であるから何時米英側から同地域進駐が行はれないとは言へないのであって
日本としては之に對し自衞上の措置を講ずる必要を感じたのであります。


  41 

 右、日佛印共同防衞を必要とした事情は此の事件につき重大な關係を有する點と考へますから、
右の五種の事由につき一々、事實に基いて簡單なる説明を加へたいと存じます。

 本材料は當時私が、大本營、陸海軍省、外務省其他より受けたる情報又は當時の新聞電報、外国放送等に依り承知しありしものを記憶を喚起し蒐録せるものであります。
  (辯護側證第二九二三)

 先づ第一の米英側の重慶に對する支援の強化につき私の當時得て居った数種の報道を擧げますれば  
(1)1940年(昭和15年)7月にはハル國務長官は
  英國の「ビルマルート」經由援蒋物資禁止法につき反対の意見を表明して居ります。

(2)1940年(昭和15年)10月には「ルーズヴエルト」大統領は「デイトン」に於て
  國防のため英國及重慶政權を援助する旨の演説を致しました。

(3)1940年(昭和15年)11月には米國は重慶政權に一億弗の借款を供與する旨發表いたしました。

(4)1940年(昭和15年)12月29日には「ルーズヴエルト」大統領は
  三國同盟の排撃並に民主主義國家のため米國を兵器廠と化する旨の爐邊談話を放送しました。

(5)1940年(昭和15年)12月30日には「モーゲンソー」財務長官は
  重慶及「ギリシヤ」に武器貸與の用意ある旨を演説して居ります。
  1941年(昭和16年)に入り此種の發表は其數を加へ又益々露骨となって來ました。

(6)1941年(昭和16年)5月「クラケツト」准將一行は蒋軍援助のため重慶に到着しました。

(7) 1941年(昭和16年)2月には「ノツクス」海軍長官は
  重慶政府は米國飛行機200臺購入の手續を了したる旨を発表しました。

(8) 同海軍長官は1941年(昭和16年)5月には中立法に反對の旨を表明致して居ります。

(9) その翌日には 「スチムソン」陸軍長官も同様の聲明を致しました。 

 斯る情勢に於ては支那事變の迅速解決を望んで居った我國としては
蒋政權に對し直接壓迫を加ふるのみならず
佛印及泰よりする援助を遮斷し兩者の關係を分斷する必要がありました。

 

  42  

 第二の米、英、蘭の南方に於ける戰備強化については當時私は次の報道を得て居りました。

(1) 米國は1940年(昭和15年)7月より1941年(昭和16年)5月迄の間には
  330億弗以上の巨額の軍備の擴張を爲したるものと觀察せられました。

(2) 此當時米英側の一般戰備並にその南方諸地域に於ける聯携は益々緊密を加へ活氣を呈するに至りました。

 即ち1940年(昭和15年)8月には
「ノツクス」海軍長官は「アラスカ」第13海軍區に新根據地を建設する旨公表したとの情報が入りました。

(3) 同年9月には太平洋に於ける米國属領の軍事施設工事費800萬弗の内譯が公表せられました。

(4) 同年12月には米國は51ケ所の新飛行場建設及改善費4000萬弗の支出を
 「スチムソン」「ノツクス」及「ジヨオンズ」の陸、海、財各長官が決定したと傳へられました。
 
 此等は米國側が日本を目標とした戰爭諸準備並に軍備擴張でありました。

 

 1940年(昭和15年)9月には日佛印關係につき國務省首腦部は協議し
 同方面の現状維持を主張する旨の聲明が發せられました。

 同年7月8日には 「ヤーネル」提督はUP通信社を通じ對日強硬論を發表して居ります。

 同年10月には「ノツクス」海軍長官は「ワシントン」に於て三國同盟の挑發に應ずる用意ありと演説しました。

 又同年9月には米海軍省は1940年(昭和15年)度の米海軍の根本政策は
 兩洋艦隊建設と航空強化の二點にありと強調致しました。

 1940年(昭和15年)11月 「ラモント」氏は
 對日壓迫強化の場合財界は之に協力し支持するであらうと演説致して居ります。

 同年同月11日休戰紀念日に於ては「ノツクス」海軍長官は
行動を以て全體主義に答へんと強調したりとの報を得て居ります。

 同年同月英國の「イーデン」外相は下院に於て對日非協力の演説を致しました。

 更に1941年(昭和16年)に入り5月27日に 「ルーズヴエルト」大統領は無制限非常時状態を宣言いたしました。
 

 これより先1940年(昭和15年)10月8日には米國政府は東亞在住の婦女子の引上げを勸告して居ります。

 上海在住の米國婦女子140名は同月中上海を發し本國に向かひました。
 米本國では國務省は米人の極東向け旅券發給を停止したのであります。

 同じ1940年(昭和15年)10月19日に日本名古屋市にある米國領事館は閉鎖しました。

 以上は當時陸軍大臣たる私に報告せられたる事實の一端であります。

 

  43 

 第三の經濟壓迫の加重、日本の生存上必要なる物資の獲得の妨害につき當時發生したことを陳べます。

 1939年(昭和14年)7月26日 「アメリカ」の我國との通商航海條約廢棄通告以來
 米國の我國に對する經濟壓迫は日々に甚だしきを加へて居ります。


 その事實中、僅かばかりを記憶に依り陳述致しますれば、
1940年(昭和15年)7
月には 「ルーズヴエルト」大統領は
屑鐵、石油等を禁輸品目に追加する旨を發表致しました。


 米國政府は同年7
月末日に翌8月1日より
飛行機用「ガソリン」の西半球外への輸出禁止を行ふ旨發表いたして居ります。

 同年10月初旬には 「ルーズヴエルト」大統領は屑鐵の輸出制限令を發しました。

 以上のうち殊に屑鐵の我國への輸出制限は
當時の鐵材不足の状態と我國に行はれた製鐵方法に鑑み我朝野に重大な衝動を與へたのであります。

 

  44 

 第四の米英側の佛印及泰に對する對日離反の策動及佛印泰に敵性動向ありと認めた事由の二、三を申上げますれば、
泰、佛印の要人は1940年(昭和15年)以來「シンガポール」に在る英國勢力と聯絡しつつあるとの情報が頻々として入りました。

 その結果日本の生存に必要なる米及「ゴム」を此等の地區に於て買取ることの防碍が行はれたのであります。
日本の食糧事情としては當時(1941
年、即昭和16年頃にあつては)毎年約150萬噸(日本の量目にて900萬石)の米を佛印及泰より輸入する必要がありました。

 此等の事情のため日佛印の間に
1941年(昭和16年)5月6日に經濟協定を結んで70萬噸の米の入手を契約したのでありましたが
佛印は契約成立後1ケ月を經過せざる6月に協定に基く同月分契約量10萬噸を5萬噸に半減方申出て來ました。

日本としては止むなく之を承諾しましたところ
7、8月分に付ても亦契約量の半減を申出るといふ始末であります。


 泰に於ては英國は1940年(昭和15年)末に
泰「ライス」會社に對して「シンガポール」向け泰米60六十萬噸といふ大量の發註を爲し
日本が泰に於ける米の取得を妨碍致しました。

 「ゴム」に付ては佛印の「ゴム」の年産は約6萬噸であります。
その中日本は僅かに1萬5千噸を米弗拂で入手して居たのでありますが、
1941年(昭和16年)6月中旬米國は佛印の「ハノイ」領事に對し
佛印生産ゴムの最大量の買付を命じ日本の「ゴム」取得を妨碍し又、
英國はその屬領に對し1941年(昭和16年)5月中旬日本及圓ブロツク向け「ゴム」の全面的禁止を行ひました。


  45 

 第五の蘭印との經濟會談の決裂の事由は次の通りであります。
 1940年(昭和15年)9月以來我國は蘭印との交渉に全力を盡くしました。
當時石油が米英より輸入を制限せられたため我國としては
之を蘭印より輸入することを唯一の方法と考へ其の成立を望んだのであります。
  
 然るに蘭印の方も敵性を帶び來り6月10日頃には事實上決裂の状態に陷り
7月17日にはその聲明を爲すに至ったのであります。

「オランダ」外相は5月上旬「バタビヤ」に於て
蘭印は挑戰に對しては何時にても應戰の用意ありと挑撥的言辭を弄して居ります。

 以上のような譯で當時日本は重大なる時期に際會しました。

 日本の自存は脅威せられ且以上のような情勢の下で
統帥部の切なる要望に基き6月25日に右南方施策促進に關する件(證第一三〇六號)が決定せられ
之に基く措置をとるに至つたのであります。


  46 

 日本政府と「フランス」政府との間には7月21日正午(「フランス」時間)共同防衞の諒解が成立し、
7月22日午前中に交換公文(法廷證六四七號ノA)が交換せられ、
兩國政府より之を現地に通報し現地に於てはその翌23日細目の協定が成立し、
海南島三亞に集結して居った部隊にはその日進駐の命令が發せられ、
25日三亞を出發しました。
26日には之を公表しました。


 三亞を出發した部隊の一部は28日に「ナトラン」に、
29日主力は「サンヂヤツク」に極めて平穩裡に上陸を開始したのであります。
  
 日本政府と「ヴイシー」政府との間の議定書は日佛印共同防衞議定書(證六五一)は29日調印を見て居ります。

 

  47 

 「フランス」政府との交渉につき我方が「ドイツ」政府に斡旋を求めたことは事實でありますが、
「ドイツ」外相は此の斡旋を拒絶して來ました。
 從って起訴状にある如く「ドイツ」側を經て「フランス」を壓迫したといふ事實はありません。

 又起訴状は、「ヴイシー」政府を強制して不法武力を行使したと申しますが、
しかし、日本軍が進駐の準備として三亞に集結する以前に既に「フランス」政府と日本政府との交渉は成立して居りました。

 又、前に述べます如く、
此の措置は 「ドイツ」の對「ソ」攻撃と策應したといふ事實もないのであります。
日本が南方に進出したのは止むを得ざる防衞的措置であって
断じて米、英、蘭に對する侵略的基地を準備したのではありません。


 1941年(昭和16年)12月7日の米國大統領よりの親電(法廷證一二四五號J)に依れば
 「更に本年春及夏 「ヴイシー」政府は佛印の共同防衞のため更に日本軍を南部佛印に入れることを許可した。 
  但し印度支那に對して何等攻撃を加へられなかつたこと並にその計畫もなかったことは確實であると信ずる」と
述べられて居ります。
 
 乃ち佛印に對しては攻撃を行った事もなく攻撃を計畫した事もなかったと断言し得ると信じます。
 
 
 當時日本の統帥部も政府も米國が全面的經濟斷交を爲すものとは考へて居りませんでした。
 即ち日米交渉は依然繼續し交渉に依り更に打開の道あるものと思ったのであります。

 何故なれば全面的經濟斷交といふものは近代に於ては經濟的戰爭と同義のものであるからであります。
 又檢察側は南部佛印進駐を以て米英への侵略的基地を設けるものであると斷定致して居ります。
 之は誣告であります。


 南部佛印に設けた航空基地が南を向いて居ることはその通りでありますが、
南方を向いて居るといふことが南方に對する攻撃を意味するものではありません。
之は南方に向かっての防禦のための航空基地であります。 
そのことは大本營が4月上旬決定した對南方施策に關する基本方針(證一三〇五)に依つても明かであります。

 これには我國の南進が佛印及泰を限度として居ります。
然も平和的手段に依り目的を達せんとしたものであります。


 〔続く〕

  
東條秀樹 「宣誓供述書」(全文) その6 独ソ開戦に伴う日本の態度決定

 


大東亜戦争の責任は我にあり 東條英樹「宣誓供述書」(全文)その4 日「ソ」中立條約竝に松岡外相の渡歐、第二次近衞内閣に於ける日米交渉

2023-12-21 17:11:16 | 東條英機  

              パル判事の碑文(靖国神社)

東條英機 宣誓供述書 


 
               


日「ソ」中立條約竝に松岡外相の渡歐
 

  20

 次に日「ソ」中立條約に關し陸軍大臣として私の關係したことを申上ます。
1941年(昭和16年)春、松岡外相渡歐といふ問題が起りました。
1941年(昭和16年)2月3日の連絡會議で『對獨伊「ソ」交渉案要綱』(辯護側證第二八一一號)なるものを決定しました。
此の決定は松岡外相が渡歐直前に提案したものでありまして、言はば外相渡歐の腹案であつて正式の訓令ではありません。

  
 此の「ソ」聯との交渉は「ソ」聯をして三國同盟側に同調せしめこれによって對「ソ」靜謐を保持し又、
我國の國際的地位を高めることが重點であります。

 かくすることによつて
(イ)對米國交調整にも資し
(ロ)ソ聯の援蒋行爲を停止せしめ、支那事變を解決するといふ二つの目的を達せんとしたのであります。

 

  21 

 右要綱の審議に當つて問題となつた主たる點は四つあつたと記憶致します。
その一つは「ソ」聯をして三國側に同調せしむることが可能であらうかといふことであります。

 此點については既に獨「ソ」間に不可侵條約が締結されて居り豫て内容の提示してあつた「リツペントロツプ」腹案(此本文は法廷證第二七三五號中に在り)なるものにも獨逸も「ソ」聯を三國條約に同調せしむることを希望して居り、
「スターマー」氏よりもその説明があつた次第もあり、
「ソ」聯をして三國に同調せしめ得ることが十分の可能性ありとの説明でありました。

 

 その二は我國の「ソ」聯との同調に對し獨逸はどんな肚をもつて居るであらうかといふことでありました。
此點については獨逸自身既に「對」ソ不可侵條約を結んで居る。

 加之、現に獨逸は對英作戰をやって居る。

それ故當時の我國の判斷としては獨逸は我國が「ソ」聯と友好關係を結ぶことを希望して居るであろうと思いました。
かくて「ソ」聯をして日獨に同調せしめ、進んで對英作戰に參加せしむるとの希望を抱くであらうとの見通しでありました。

 その三は日「ソ」同調の目的を達するためには我國はある程度の犧牲を拂っても此の目的を達して行きたい。
 然らば日本として拂ふことあるべき犧牲の種類と限度如何といふ問題でありました。
 そこで犧牲とすべきものとしては日「ソ」漁業條約上の權利並に北樺太の油田に關する權利を還付するといふ肚を決めたのであります。

 尤も對獨伊「ソ」交渉案要綱には先づ樺太を買受けるの申出を爲すといふ事項がありますが
之は交渉の段階として先づ此の申出をすることより始めるといふ意味であります。
北樺太の油田のことは海軍にも大なる關係がありますから無論その意見を取り入れたのであります。
 
 その四は外相の性格上もし統帥に關する事項で我國の責任又は負擔となるようなことを言はれては非常な手違となりますから、
參謀總長、軍令部總長はこの點を非常に心配されました。
 
 そして特にそのことのないやうに注意を拂ひ、
要綱中の五の註にも
特に「我國の歐洲戰參加に關する企圖行動並に武力行使につき
帝國の自主性を拘束する如き約束は行はざるものとす」との明文まで入れた
のであります。

 

  22 

 此の要綱中で問題となるのはその三及四でありますが、
これは決して世界の分割を爲したり、或は制覇を爲すといふ意味ではありません。

唯、國際的に隣保互助の精神で自給自足を爲すの範圍を豫定するといふの意味に外なりません。

 

  23  

 當時日本側で外相渡歐の腹案として協議したことは以上の通りでありますが、
當法廷で檢察側より獨逸から押收した文書であるとして提出せられたもの
殊に「オツト」大使の電報(法廷證五六七乃至五六九)
並に「ヒトラー」總統及「リツペントロツプ」外相松岡外相との會談録(證五七七乃五八三)に記載してあることは
右腹案に甚しく相違して居ります。

 松岡外相歸朝後の連絡會議並に内閣への報告内容も之とは絶對に背馳して居ります。

 

  24 

 松岡外相が渡歐したときは當時日本として考へて居ツタったこととは異なり
獨逸と「ソ」聯との間は非常に緊張して居り「ソ」聯を三國同盟に同調せしめるといふことは不可能となりました。
 
 又、獨逸は日本と「ソ」聯とが中立條約を結ぶことを歡迎せぬ状態となったのであります。
從ってその斡旋はありません。
即ち此點については我國の考へと獨逸のそれとは背馳するに至りました。
  
 結局4月13日松岡外相の歸途「ソ」聯との間に中立條約を締結いたしましたが(證第四五號)
その外に此の松岡外相渡歐より生じた實質的の外交上の利益はなにもなかったのであります。

 詳しく言へば
(1) 松岡外相の渡歐は獨伊に對しては全く儀禮的のものであって、
 何も政治的の効果はありませんでした。
 要綱中の單獨不媾和といふことは話にも出て居りません。

(2) 統帥に關することは初めより松岡に禁じたことでもあり、
 また「シンガポール」攻撃其他之に類する事項は報告中にもありません。

(3)又、檢察官のいふ如き1941年(昭和16年)2月上旬日獨の間に軍事的協議をしたといふことも事實ではありません。

 

  25 

 日「ソ」中立條約は以上の状況の下に於て締結せられたものでありまして、
その後の我國の國策には大きな影響をもつものではありません。

 又日本の南方政策とは何の關係もありません。
此の中立條約があるがため我國の「ソ」聯に備へた北方の兵備を輕くする効果もありませんでした。
 
 乍然、我國は終始此の中立條約の條項は嚴重に遵守し、
その後の内閣も屡々此の中立條約を守る旨の現地を與へ獨逸側の要求がありましても
「ソ」聯に對し事を構へることは一度も致しませんでした。

 
 たゞ「ソ」聯側に於ては中立條約有効期間中我國の領土を獲得する條件を以て對日戰に參加する約束をなし、
現に中立條約有効期間中日本を攻撃したのであります。

 

 

第二次近衞内閣に於ける日米交渉


  26
 

 所謂 日米諒解案(證第一〇五九號と同文)なるものを日本政府が受取ったのは1941年4月18日であります。
此の日以後、政府として之を研究するようになりました。

 私は無論陸軍大臣として之に關與しました。
但し私は職務上軍に關係ある事項につき特に關心を有して居りまして、
其他のことは首相及外相が取扱はれたのであります。

 斯る案が成立しましたまでのことについて私の了解するところでは、
これは近衞首相が野村大使了解の下に 
又米國側では大統領國務長官、郵務長官の了解の下に行はれて居った
旨華府駐在の陸軍武官からの報道を受けて居りました。

 

 右諒解案は非公式の私案といふ事になって居りますが併し大統領も國務長官も之を承知し特に國務長官から、
在米日本大使に此案を基礎として交渉を進めて可なりや否やの日本政府の訓令を求められたき旨の意思表示があった以上我々は之を公式のものと思って居りました。  


 即ち此の案に對する日本政府の態度の表示を求められた時に日米交渉が開始されたものと認めたのであります。

 

  27 

 此案を受取った政府は直ちに連絡會議を開きました。
連絡會議の空氣は此案を見て今迄の問題解決に一の曙光を認め或る氣輕さを感じました。

 何故かと言へば我國は當時支那事變の長期化に惱まされて居りました。
他方米英よりの引續く經濟壓迫に苦んで居った折柄でありますから、
此の交渉で此等の問題の解決の端緒を開いたと思ったからであります。

 

 米國側も我國との國交調整に依り太平洋の平和維持の目的を達することが出來ますから
これには相當熱意をもつものと見て居りました。

 米國側に於て當初から藁をも掴む心持ちで之に臨み又時間の猶豫を稼ぐために交渉に當るなどといふことは
日本では夢想だもして居らなかったのであります。

 連絡會議は爾來數囘開會して最後に4月21日に態度の決定を見ました。
當時は松岡外相は歐洲よりの歸途大連迄着いて居ってその翌日には着京する豫定でありました。
   
1941年(昭和16年)4月21日の態度決定の要旨は

一、 此の案の成立は三國同盟關係には幾分冷却の感を與へるけれども、
   之を忍んで此の線で進み速に妥結を圖ること

二、 我國の立場としては次の基準で進むこと即ち
(イ) 支那事變の迅速解決を圖ること
(ロ) 日本は必要且重要なる物資の供給を受けること
(ハ) 三國同盟關係には多少の冷却感を與ふる事は可なるも明かに信義に反することは之を避けること

といふのであります。

 我方では原則論に重きを置かず具體的問題の解決を重視したのであります。
それは我方には焦眉の急務たる支那事變解決と自存自給體制の確立といふ問題があるからでありました。

 

 三國同盟條約との關係の解釋に依つて此の諒解案の趣旨と調和を圖り得るとの結論に達して居りました。

 日米交渉を獨逸側に知らせるか否か、知らせるとすれば其の程度如何といふことが一つの問題でありましたが、
此のことは外務大臣に一任するといふことになりました以上の趣旨で連絡會議の決意に到達しましたから
之に基き此の案を基礎として交渉を進むるに大體異存なき旨を直ちに野村大使に電報しようといふことになりましたが、

此點については外務大臣も異存はない、
たゞ松岡外務大臣が明日着京するから華盛頓への打電は其時迄留保するといふ申出を爲し
會議は之を承認して閉會したのでありました。

 

  28 

 しかし翌4月22日(1941年、昭和16年)松岡外相が歸ってから
此の問題の進行が澁滯するに至ったのであります。

 松岡外相の歸京の日である4月22日の午後直ちに連絡會議を開いて之を審議しようとしましたが、
外相は席上渡歐の報告のみをして右案の審議には入らず、
これは2週間位は考へたいといふことを言ひ出しました。

 之が進行の澁滯を來した第一原因であります。
 外相は又、此の諒解案の内容を過早に獨逸大使に内報しました。
之がやはり此の問題の澁滯と混亂の第二の原因となつたのであります。

 なほ其他外相は
(A) 囘訓に先だち歐洲戰爭に對する「ステーメント」を出すことを主張し
(B) 又日米中立條約案を提案せんとしました。
此等のことのため此の問題に更に混亂を加へたのであります。
 
 松岡外相の斯の如き態度を採るには色々の理由があつたと思はれます。
 
 松岡氏は初めは此の諒解案は豫て同外相がやって居った下工作が發展して
此のようになって來たものであらうと判斷して居ったが、
間もなく此の案は自分の構想より發生したものではなく、
又一般の外交機關により生れて來たものでもないといふことを覺知するに至りました。

 それが爲松岡氏は此の交渉に不滿を懷くようになって來ました。
又松岡外相は獨伊に行き、
その主腦者に接し三國同盟の義務履行については緊切なる感を抱くに至ったことが
その言葉の上より觀取することが出來ました。

 なほ松岡外相の持論である、
米國に對し嚴然たる態度によつてのみ戰爭の危險が避けられるといふ信念が
その後の米國の態度に依り益々固くなったものであると私は觀察
しました。

 

  29 

 斯くて我國よりは漸く1941年(昭和16年)5月12日に我修正案を提出することが出來ました。
  (法廷證一〇七〇號)
 「アメリカ」側は之を我國よりの最初の申出であるといって
居るようでありますが、
日本では4月18日のものを最初の案とし之に修正を加へたのであります。
此の修正案の趣旨についてその主なる點を説明すれば

 

(一) その一つは三國同盟條約の適用と自衞權の解釋問題であります。
 4月18日案では米國が自衞上歐洲戰爭に參加した場合に於ては
日本は太平洋方面に於て米國の安全を脅威せざることの保障を求めて居ります。

 然るに5月12日の該修正案では三國同盟條約に因る援助義務は條約の規定に依るとして居るのであります。


 三國同盟の目的の一つは
「アメリカ」の歐洲戰爭參加の防止と及歐洲戰爭が東亞に波及することを防止するためでありました。

 米國は此の條約の死文化を求めたものでありますが、
日本としては表面より此の申出を受諾することは出來ませぬ。
我方は契約は之を存して必要なることは、條約の條項の解釋により處理しようといふ考へでありました。
即ち我方は實質に於て讓歩し協調的態度をとったのであります。

 

(二) 二は支那事變關係のことであります。
 4月18日案では米大統領はその自ら容認する條件を基礎として蒋政權に對し日支交渉を爲す勸告をしよう、
而して蒋政權が、之に應ぜざれば米國の之に對する援助を中止するといふ事になって居ります。

 我方5月12日案では米國は近衞聲明、
日華基本條約及日滿華の三國共同宣言(法廷證九七二ノ H 四六四)の趣旨を米國政府が了承して
之に基き重慶に和平勸告を爲し、
もし之に應ぜざれば米國より蒋政權に對する援助を中止することになっております。

 尤も此の制約は別約でもよし、又米國高官の保證でもよいとなつております。
乃ち米國は元來支那問題の解決は日本と協議することを要求するといふことになって居ります。


 元來支那問題の解決は日本としては焦眉の急であります。
此の解決には2つの重點があります。

 その一つには支那事變自體の解決であります。
 その二は新秩序の承認であります。

 我方の5月12日案では近衞聲明、日華基本條約及日滿華共同宣言を基本とするのでありますから、
當然東亞に於ける新秩序の承認といふことが含まれて居ります。

 撤兵の問題は4月18日案にも含まれて居ることになるのであります。 

 即ち日支間に成立すべき協定に基づくといふことになつて居ります。

 5月12日案も結局は日華基本條約に依るのでありますから趣旨に於て相違はありません。
門戸開放のことも 4月18日案と5月12日案とは相違しないのであります。

 4月18日案には支那領土内への大量の移民を禁ずるとの條項がありますが、
5月12日案は之には觸れて居りません。

 

  30 

 5月12日以後の日米交渉の經過につき私の知る所を陳述いたします。
 5月12日以後右の日本案を中心として交渉を繼續しました。

 日本に於ては政府も統帥部もその促進につとめたのでありましたが、
次の3點に於て米側と意見の一致を見るに至らなかつたのであります。

 その一つは中國に於ける日本の駐兵問題、
 その二は中國に於ける通商無差別問題、
 その三は米國の自衞權行使に依る參戰と三國條約との關聯問題であります。 

 5月30日に米國からの中間提案(法廷證一〇七八)が提出されなど致しましたが、
此の間の經緯は今、省略いたします。

 結局6月21日の米國對案の提出といふことに歸着いたしました。

 

  31

 6月21日と言へば獨「ソ」開戰の前日であります。
 此頃には獨「ソ」戰の開始は蓋然性より進んで可能性のある事實として世界に認められて居りました。
我々は此の事實に因り米國の態度が一變したものと認定したのであります。

 この6月21日の案は 證第一〇九二號の通りでありますが、
我方は之につき次の4點に注意致しました。


 その一つは米國の6月21日案は獨り我方の5月12日修正案に對し相當かけ離れて居るのみならず、
4月18日案に比するも米國側の互讓の態度は認められません。
米國は米國の立場を固守し非友誼的であるといふことが觀取せられます


 その二つは三國條約の解釋については
米國が對獨戰爭に參加した場合の三國同盟條約上の我方の對獨援助義務につき制限を加へた上に
廣汎なる拘束を意味する公文の交換を要求して來ました。
  (證一〇七八號中に在り)

 その三は從前の案で南西太平洋地域に關して規定せられて居った通商無差別主義を
太平洋地域の全體に適用することを求めて來たことであります。
 
 その四は移民問題の條項の削除であります。

 4月18日案にも5月12日案にも米國並に南西太平洋地域に對する
日本移民は他國民と平等且無差別の原則の下に好意的考慮が與へられるであらうとの條項がありました。
6月21日の米案はこの重要なる條項を削除して來ました

 
 6月21日の米提案には口頭の覺書(オーラル・ステートメント)といふものが附いて居ります。
  (證一〇九一號)

 その中に日本の有力なる地位に在る指導者は
ナチ獨逸並その世界征服の政策を支持する者ありとして
暗に外相の不信認を表現する辭句がありました。
之は日本の關係者には内政干渉にあらざるやとの印象を與へました。

以上の次第で日米交渉は暗礁に乘り上げたのであります。



  32

しかも、此の時代に次の四つのことが起りました。

一、 6月22日獨ソ戰爭が開始したこと
二、 「フランス」政府と了解の下に日本の行った南部佛印への進駐を原因として米國の態度が變化したこと
三、 7月25日 及26日に米、英、蘭の我在外資金凍結に依る經濟封鎖
四、 松岡外務大臣の態度を原因としたる第二次近衞内閣の總辭職
 

 以上の内一及二の原因により米國の態度は硬化し、
それ以後の日米交渉は佛印問題を中心として行はるゝようになりました。

 四の内閣變更の措置は我方は如何にしても日米交渉を繼續したいとの念願で、
内閣を更迭してまでも、その成立を望んだのでありまして、
我方では國の死活に關する問題として此の交渉の成立に對する努力は緩めませんでした。

 前記の如く内閣を更迭しその後に於ても努力を續けたのであります。


 〔続く〕 對佛印泰施策要綱、南部佛印進駐問題 
 


大東亜戦争の責任は我にあり 東條英樹「宣誓供述書」(全文)その3 北部佛印進駐、日華基本條約と日滿華共同宣言   

2023-12-21 16:53:49 | 東條英機  

                パル判事の碑文(靖国神社)


東條英機 宣誓供述書
 



    
 
北部佛印進駐  

  
13 

 
 1940年(昭和15年)9月末に行はれたる日本軍隊の北部佛印進駐については
私は陸軍大臣として統帥部と共に之に干與しました。

 日本の南方政策は引つゞき行はれたる米英側の經濟壓迫に依り餘儀なくせられたものであて、
其の大綱は同年7月27日の「世界情勢の推移に伴ふ時局處理要綱」(法廷證一三一〇號)に定められてあります。
  
 此の南方政策は二つの性格を有して居ります。


 その一は支那事變解決のため米英と重慶との提携を分斷すること、
 その二は日本の自給自足の經濟體制を確立することであります。

 ともに日本の自存と自衞の最高措置として發展したものであて、
而もこれは外交に依り平和的に處理すること
を期して居たのでありますが、
米英蘭の對日壓迫に依り豫期せざる實際問題に轉化して行のであります。
 
 
  14
 
 私は以下に日本軍の少數の部隊を北部佛印に派遣したことにつき佛印側に便宜供與を求めたことを陳述致します。
 元來この派兵は專ら對支作戰上の必要より發し統帥部の切なる要望に基くのであります。
  
 前内閣時代である1940年(昭和15年)6月下旬に佛印當局は自發的に援蒋物資の佛印通過を禁絶することを約し、
其の實行を監視する爲日本より監視機關を派遣することになたのであります。
(法廷證六一八)當時「ビルマ」に於ても同樣の措置が取られました。
   
 然し實際にやつてみると少數の監視機關では援蒋物資禁絶の實施の完璧を期することの出來ぬことが判明しました。
 加之、佛印國境閉鎖以來重慶側は實力を以て佛印ルート再開を呼號し兵力を逐次佛印國境方面に移動したのであります。
故に日本としては斯る情勢上北部佛印防衞の必要を感じました。
  
 なほ統帥部では支那事變を急速に解決するため支那奧地作戰を實行したいとの希望を抱き、
それがため北部佛印に根據を持ちたいとの考を有しました。

 
 7月下旬連絡會議も之を認め政府が「フランス」側に交渉することになたのであります。

 此の要求の要點は北佛自體に一定の限定兵力を置くこと、又一定の限定兵力を通過せしめることの要求であります。
 その兵力は前者6千、後者は2千位と記憶して居ります。 


 右に關する外交交渉は8月1日以來、
松岡外相と日本駐在の「シヤール、アルセイヌ、アンリー」佛蘭西大使との間に行はれ、
同年8月30日公文を交換し話合は妥結したのであります。
 (法廷證六二〇の附屬書第十ノ一、及二)。

 即ち日本側に於ては佛領印度支那に對する「フランス」の領土保全及主權を尊重し
フランス側では日本兵の駐在に關し軍事上の特殊の便宜を供與することを約し、
又此の便宜供與は軍事占領の性質を有せざることを保證して居ります。

 
  15 
 
 右8月30日の松岡「アンリー」協定に於ては
右の原則を定め現地に於ては日本國の要望に滿足を與ふることを目的とする交渉が遲滯なく開始せられ、
速かに所期の目的を達成するため「フランス」政府は印度支那官憲に必要なる訓令を發せらるべきものとしたのであります。

 
 そこで前に監視機關の委員長として現地に出張して居た西原少將は大本營の指導の下に右日佛兩國政府の協定に基き直ちに佛印政廳との間に交渉を開始し、9月4日には既に基礎的事項の妥結を見るに至りました。
 (法廷證六二〇號の附屬書第十一號)
 
 引續いて9月6日には便宜供與の細目協定に調印する筈でありましたが、
不幸にも其前日たる9月5日に佛印と支那との國境に居た日本の或る大隊が國境不明のために越境したといふ事件が起りました。

 
(其後軍法會議での調査の結果、越境に非ざることが判明しましたが)
無論これは國境偵察の爲でありましたから一彈も發射した譯ではありませんが、
佛印側は之を口實として細目協定に調印を拒んだのであります。

  
 當時佛印當局の態度は表面は 「ヴイシー」政府に忠誠を誓て居つたようでありましたが、
内實はその眞僞疑はしきものと觀察せられました。 
 
 一方我方では派兵を急ぐ必要がありたるに拘らず、交渉が斯く頓挫し、非常に焦燥を感じましたが、
それでも最後まで平和的方法で進行したしとの念を棄てず、
これがため參謀本部より態々第一部長を佛印に派遣し、此の交渉を援助せしめました。
 
 その派遣に際しても參謀總長よりも、陸軍大臣たる私よりも、平和進駐に依るべきことを懇切に訓諭したのでありました。
   
 それでも細目協定が成立しませぬから、
同月18、9日頃に大本營より西原機關に對し同月22日正午(東京時間)を期して先方の囘答を求めよといふことを申してやりました。

 これは「フランス」政府自身が日本兵の進駐を承諾せるに拘らず、
現地の作爲で遲延するのであるから、自由進駐も止むを得ずと考へたのであります。
從つて居留民等の引上げもその前に行ひました。

  
 佛印側との交渉は22日正午迄には妥結に至りませんでしたが、
我方も最後に若干の讓歩を爲し、それより2時間程過ぎた午後2時過に細目協定の成立を見るに至つたのであります。
 (それは證六二〇號の附屬書十二號であります)
 然るに翌23日零時30分頃に佛印と支那との國境で日佛間に戰鬪が起りました。

 
 それは當時佛印國境近くに在た第一線兵團は南支那の交通不便な山や谷の間に分散して居たがため、
連絡が困難で22日午後2時の細目妥結を通知することが日本側の努力にも拘らず不可能であたのと、
「フランス」側に於ても、その通知の不徹底であたからでありますが、
此の小衝突はその日のうちに解決しました。
 
 海防方面の西村兵團は 「フランス」海軍の案内に依て海防港に入ることになて居たのでありますが、
北方陸正面で爭の起つたのに鑑み海防港には入らず、南方の海濱に何等のことなく上陸しました。
 
 なほその後同月26日日本の偵察飛行隊が隊長と部下との信號の誤りから海防郊外に爆彈を落した事件が起りました。
これは全くの過失に基くもので且一些事であります。

 
  16
 
 万要するに我國が1940年(昭和15年)9月末に佛印に派兵したことは
中國との問題を早く解決する目的であつて、その方法は終始一貫平和手段に依らうとした
のであります。

又實際に派遣した兵力も最小限度に止め約束限度の遙か以内なる4千位であつたと記憶します。
 
 1941年(昭和16年)12月8日、
米國「ルーズベルト」大統領より天皇陛下宛の親書(法廷證一二四五號 J)中に
陛下の政府は「ヴイシー」政府と協定し、
これに依て5千又は6千の日本軍隊を北部佛印に入れ、
それより以北に於て中國に對し作戰中の日本軍を保護する許可を得たと述べて居ることに依っても
當時の事情を米國政府が正當に解釋して居つたことを知り得ます。

 
 以上説明しましたやうな次第で不幸にして不慮の出來事が起りましたが、
之に對しては私は陸軍大臣として軍紀の振肅を目的として嚴重なる手段を取りました。
 即ち聯隊長以下を軍法會議にかけ、現地指揮官、大本營幕僚を或は罷免し或は左遷したのであります。


 之はその前から天皇陛下より特に軍の統制には注意せよとの御言葉があり、
又陸軍大臣として軍の統制を一の方針として居たのに基くもので、
軍内部の規律に關することでありまして、
之は固より日本が佛印側に對し國際法上の責任があることを意味したものではありません。



 
日華基本條約と日滿華共同宣言  
 
  17
 
 第二次近衞内閣に於て1940年(昭和15年)11月30日、
日華基本條約を締結し日滿華共同宣言を發するに至りました事實を述べ、
これが檢察側の主張するような對支侵略行爲でなかつた事を證明致します。

 これは1940年(昭和15年)11月13日の御前會議で決定せられた「支那事變處理要綱」に基くのであります。
 (辯護側證第二八一三號)
何故に此時にかかる要綱を決定する必要があつたのかと申しますに、
これより先、從前の政府も統帥部も支那事變の解決に全力を盡して居りました。

 
 1940年(昭和15年)3月には南京に新國民政府の還都を見ました。
これを承認しこれとの間に基本條約を締結するために前内閣時代より阿部信行大使は已に支那に出發し、
南京に滯在して居りましたが、
南京との基本條約を締結する前に今一度重慶を含んだ全面和平の手を打つて見るを適當と認めました。

 また當時既に支那事變も3年に亘り國防力の消耗が甚だしからんとし、
また米英の經濟壓迫が益々強くなつて來て居るから我國は國力の彈撥性を囘復する必要が痛感せられました。

 この支那事變處理要綱の骨子は

(一) 1940年(昭和15年)11月末を目途として重慶政府に對する和平工作を促進する
(二) 右不成立の場合に於ては長期持久の態勢に轉移し帝國國防の彈撥性を恢復すといふのでありました。

 
  18
 
 右要綱(一)の對重慶和平工作は從來各種の方面、色々の人々に依つて試みられて居つたのでありますが、
此時これを松岡外相の手、一本に纒めて遂行したのでありましたが、
この工作は遂に成功せず、遂に南京政府との間に基本條約を締結するに至つたのであります
  (證四六四、英文記録5318頁)。

 この條約は松岡外相指導の下に阿部信行大使と汪兆銘氏との間に隔意なき談合の上に出來たものであ
彼の1938年(昭和13年)12月22日の近衞聲明
(證九七二、英文記録9527頁)の主旨を我方より進んで約束したものであります。

 又同日、日滿華共同宣言(證四六四號英文記録5322頁)に依つて日滿華の關係を明かにしました。
 
 なほ基本條約及右宣言の外に附屬の秘密協約、秘密協定並に阿部大使と汪委員長との間の交換公文が交換せられて居ります。
  (證四六五號英文記13録5327以下)

 
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 右の1940年(昭和15年)11月30日の
日華基本條約並に日華共同宣言、秘密協約、秘密協定、交換公文を通じて
陸軍大臣として私の關心を持つた點が三つあります。

 一は條約等の實行と支那に於ける事實上の戰爭状態の確認、
  二は日本の撤兵、
 三は駐兵問題であります。


 第一の條約の完全なる實行は政府も統帥部も亦出先の軍も總て同感で一日も早く條約の實行を爲すべきことを希望して居つたのであります。
 然るに我方の眞摯なる努力にも拘らず蒋介石氏は少しも反省せず米英の支援に依り戰鬪を續行し事實上の戰爭行爲が進行しつゝありました。

 占據地の治安のためにも、軍自身の安全のためにも、在留民の生命財産の保護のためにも、亦新政府自體の發展のためにも、
條約の實行と共にこの事實上の戰爭状態を確認し、
交戰の場合に必要な諸法則を準用するの必要がありました。
 
 これが基本條約附屬議定書中第一に現在戰鬪行爲が繼續する時代に於ては作戰に伴ふ特殊の状態の成立すること又、
之に伴ふ必要なる手段を採るの必要が承認せられた所以であります。
  (法廷證四六四號英文寫4頁)

 
 第二の日本軍の撤兵については統帥部に於ても支那事變が解決すれば原則として一部を除いて全面撤兵には異存がなかたのであります。我國の國防力の囘復のためにも其の必要がありました。

 然し撤兵には二つの要件があります。
その中の一つといふのは日支の間の平和解決に依り戰爭が終了するといふことであります。
その二つは故障なく撤兵するために後方の治安が確立するといふことであります。 


 撤兵を實行するのには技術上約2年はかゝるのでありまして、後方の治安が惡くては撤兵實行が不能になります。
 これが附屬議定書第三條に中國政府は此期間治安の確立を保證すべき旨の規定を必要とした所以であります。
  (法廷證四六四、英文寫4頁) 

 第三の駐兵とは所謂「防共駐兵」が主であります。   
 「防共駐兵」とは日支事變の重要なる原因の一つであるところの共産主義の破壞行爲に對し日支兩國が協同して、之を防衞せんとするものでありまして、
事變中共産黨の勢力が擴大したのに鑑み、日本軍の駐兵が是非必要と考へられました。
之は基本條約第三條及交換公文にもその規定があります。
 (法廷證四六四、四六五)

 そして所要の期間駐兵するといふことであて必要がなくなれば撤兵するのであります。

 
 以上は私が陸軍大臣として此條約に關係を持た重なる事柄でありまして
此の條約は從前の國際間の戰爭終結の場合に見るような領土の併合とか戰費の賠償とかいふことはありません。
これは特に御留意を乞ひたき點であります。

 たゞ附屬議定書第4條には支那側の義務と日本側の義務とを相互的の關係に置き支那側の作戰に依て日本在留民が蒙つた損害は中國側で賠償し中國側の難民は日本側で救助するといふ條項がある許りであります。
  (法廷證四六四、英文四頁)

 中國の主權及領土保全を尊重し、從前我國の持つて居た治外法權を抛棄し租界は之を返還するといふ約束をしました。
  (基本條約一條、七條、法廷證四六四)

 
 而して治外法權の抛棄及租界の返還等中國の國權の完備の爲に我國が約束した事柄は1943年(昭和18年)春迄の間に逐次實行せられました。
 
 なほ1943年(昭和18年)の日華同盟條約法廷證四六六に於て右基本條約に於て日本が權利として留保した駐兵其他の權利は全部抛棄してしまひました。

 
 

〔続く〕
 
日「ソ」中立條約竝に松岡外相の渡歐、第二次近衞内閣に於ける日米交渉

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大東亜戦争の責任は我にあり 東條英樹「宣誓供述書」(全文)その2 二大重要国策、三國同盟

2023-12-21 16:33:51 | 東條英機  

                         パル判事の碑文(靖国神社)

  

      
                
   




二大重要國策
 
 

   七
 

斯る情勢の下に組閣後二つの重要政策が決定されたのであります。
その一つは1940
年(昭和15年)7月26日閣議決定の「基本國策要綱」(法廷證第五四一號英文記録六二七一頁、及法廷證第一二九七號英文記録一一七一四頁)であります。

その二は同年7月27日の「世界情勢の推移に伴ふ時局處理要綱」と題する連絡會議の決定(法廷證一三一〇號英文記録一一七九四頁)であります。
私は陸軍大臣として共に之に關與しました。

此等の國策の要點は要するに二つであります。
  
即ちその一つは東亞安定のため速に支那事變を解決するといふこと、
その二つは米英の壓迫に對しては戰爭を避けつゝも、あくまで我が國の獨立と自存を完ふしようといふことであります。
   
 新内閣の第一の願望は東亞に於ける恒久の平和と高度の繁榮を招來せんことであり、
その第二の國家的重責は適當且十分なる國防を整備し國家の獨立と安全を確保することでありました。 

 此等の國策は毫末も領土的野心、經濟的獨占に指向することなく、況んや世界の全部又は一部を統御し又は制覇するといふが如きは夢想だもせざりし所でありました。
  
私は新内閣の新閣僚としてこれ等緊急問題は解決を要する最重大問題であつて、
私の明
白なる任務は、力の限りを盡して之が達成に助力するに在りと考へました。
    
 私が豫め侵略
思想又は侵略計劃を抱持して居つたといふが如きは全く無稽の言であります。
又私の知る
限り閣僚中斯る念慮を有つて居つた者は一人もありませんでした。


   八
 

 7月26日の「基本國策要綱」は近衞總理の意を受けて企畫院でその草案を作り對内政策の基準と爲したのであります。
 之には三つの要點があります。

 その一は國内體制の
刷新であります。 
 その二は支那事變の解決の促進であります。
 その三は國防の充實であります。

 第一の國内體制については閣内に文教のこと及び經濟のことにつき多少の議論があり結局確定案の通り極まりました。
 
 第二の支那事變の解決については總て一致であて國家の總ての力を之に集中すべきこと、
又具體的の方策については統帥部と協調を保つべき旨の意見がありました。 
  
 第三の國防充實は國家の財政と睨み合せて英米の經濟壓迫に對應する必要上國内生産の自立的向上及基礎的資源の確保を爲すべき旨が強調せられたのであります。
  
 大東亞の新秩序といふことについては近衞總理の豫てより提唱せられて居ることでありまして此際特に論議せられませんでした。要綱中根本方針の項下に在る「八紘を一宇とする肇國の大精神」(英文記録六二七二頁、英文記録一一七一五頁)といふことはもっとも最も道徳的意味に解せられて居ります。
 道
徳を基準とする道徳を基準とする世界平和の意味であります。


 三國同盟そのものについては此時は餘り議論はありませんでした。
唯、現下の國際情勢に對處し、從來の經緯に捉はるゝことなく、彈力性ある外交を施策すべきであるといふ點につき意見の一致を見たと記憶します。


   九

 「世界情勢の推移に伴ふ時局處理要綱」は統帥部の提案であると記憶して居ります。
れは7月27日に連絡會議で決定せられました。
  
 此の要綱の眼目は二つあります。
 その一は支那事變解決の方途であります。
 その二は南方問題解決の方策であります。
 
 此の要綱
の討議に當り、議論になつた主要な點は凡そ四つほどあつたと記憶します。 

(A) 獨伊關係、獨伊關係については支那事變の解決及世界變局の状態よりして日本を國際的の孤立より脱却して強固なる地位に置く必要がある。
 支那事變を通じて米英のとりたる態度に鑑み從來の經緯に拘らず獨伊と提携し「ソ」聯と同調せしむるやう施策すべしとの論であります。當時は日獨伊三國同盟とまでは持て行かずたゞ之との政治的の聯絡を強化するといふ意味でありました。
 又對「ソ」關係を飛躍的に調整すべしとの論もあたのであります。
  

(B) 日米國交調整、全員は皆、獨伊との提携が日米關係に及ぼす影響を懸念して居りました。
 
 近衞總理は天皇陛下の御平生より米英との國交を厚くすべしとの御考を了知して居りましたから、
此點については特に懸念して居られました。

 乃ち閣僚は皆支那事變の解決には英米との良好關係を必要とすることを強く感じて居りました。

 たゞ「ワシントン」會議以來の米英の非友誼的態度の顯然たるに鑑み右兩者に對しては毅然たる態度を採るの外なき旨松岡外相より強く提唱せられました。

 松岡氏の主張は若し對米戰が起るならばそれは世界の破滅である、從つて之は極力囘避せねばならぬといつて居ります。
   
それがためには日米の國交を改善する必要があるがそれには我方は毅然たる態度をとるの外はないといふのであります。會議では具體案については外相に信頼するといふことになりました。

(C) 對中國政策、對中國施策としては援蒋行爲を禁止し敵性芟除を實行するといふにありました。
 何故斯の如きことが必要であるかといへば今囘の事變の片付かないのは重慶が我が國力につき過小評價をして居るといふことと及び第三國の蒋介石援助に因るからであるとの見解からであります。
從つて蒋政府と米英との分斷が絶對的に必要であるとせられたのであります。

(D) 南方問題、對「ソ」國防の完壁、自立國家の建設は當時の日本に取つては絶對の課題でありますが
之を阻害するものは(1)支那事變の未解決と(2)英米の壓迫であります。

 右のうち第二のことについては重要物資の大部分は我國は米英よりの輸入に依つて居るといふことが注意せられます。
もし一朝この輸入が杜絶すれば我國の自存に重大なる影響があります。
 從つて支那事變の解決と共に此事に付ては重大關心が持たれて居りました。 


 之は南方の諸地域よりする重要物資の輸入により自給自足の完壁を見ることに依つて解決せらるべしと考へられました。
但し支那事變の進行中のことでもあり日本は之がため第三國との摩擦は極力これを避けたいといふのであります。

 要するに對米英戰爭といふことはこの決定當時に於ては少しも考へられて居りません。
但し日本の之を欲すると否とに拘らず場合に依り米英より武力的妨害のあるべきことは懸念せられては居りました。



三國同盟 


   一〇 

 以下日獨伊三國同盟締結に至る迄の經緯にして私の承知する限りを陳述致します。
右條約締結に至る迄の外交交渉は專ら松岡外務大臣の手に依つて行はれたのであります。
自分は單に陸軍大臣として之に參與致しました。

 國策としての決定は前に述べました第二次近衞内閣の二大國策に關係するのであります。
即ち「基本國策要綱」に在る國防及外交の重心を支那事變の完遂に置き建設的にして彈力性に富む施策を講ずるといふこと(英文記録六二七三頁)及「世界情勢の推移に伴ふ時局處理要綱」の第四項、獨伊との政治的結束を強化すとの項目に該當致します。
 (英文記録一一七九五頁)獨伊との結束強化の眞意は本供述書九項中 (A) として述べた通りであります。

 この提携の問題は第二次近衞内閣成立前後より内面的に雜談的に話が續いて居りました。
 第二次近衞内閣成立後「ハインリツヒ、スターマー」氏の來朝を契機として、
此の問題が具體化するに至りましたが之に付ては反對の論もあつたのであります。
吉田海軍大臣は病氣の故を以て辭職したのでありますが、それが唯一の原因であつたとは言へません。
  
 9月4日に總理大臣鑑定で四相會議が開かれました。
  
出席者は首相と外相と海軍大臣代理たる海軍次官及陸相即ち私とでありました。
松岡外相より日獨伊樞軸強化に關する件が豫めの打合せもなく突如議題として提案せられました。  

それは三國間に歐羅巴及亞細亞に於ける新秩序建設につき相互に協力を遂ぐること之に關する最善の方法に關し短期間内に協議を行ひ且つ之を發表するといふのでありました。
  
 右會合は之に同意を與へました。
スターマー氏は9月9日及10日に松岡外相に會見して居ります。
 此間の進行に付ては私は熟知しませぬ。

 そして1940年(昭和15年)9月19日の連絡會議及御前會議となつたのであります。

 「ここで申上げますが檢事提出の證據中1940年(昭和15年)9月16日樞密院會議及御前會議に關する書類が見られますが(法廷證五五一號)同日に斯の如き會議が開かれたことはありません。
 尚ほ遡つて同年8月1日の四相會議なるものも私は記憶しませぬ。」


 1940年(昭和15年)9月19日の連絡會議では同月4日の四相會議の合意を認めました。
此の會議で私の記憶に殘て居ることは四つであります。

 其の一は三國の關係を條約の形式に依るか又は原則を協定した共同聲明の形式に依るかの點でありますが、
松岡外相は共同聲明の形式に依るは宜しからずとの意見でありました。

 其の二は獨伊との關係が米國との國交に及ぼす影響如何であります。
此點に付ては松岡外相は獨逸は米國の參戰を希望して居らぬ。
 獨逸は日米衝突を囘避することを望み之に協力を與へんと希望して居るとの説明でありました。
  
 三は若し米國が參戰した場合、日本の軍事上の立場は如何になるやとの點でありますが、
松岡外相は米國には獨伊系の國民の勢力も相當存在し與論に或る程度影響を與ふることが出來る。

 從て米國の參戰を囘避し得ることも出來ようが、
萬一米國參戰の場合には我國の援助義務發動の自由は十分之を留保することにして行きたいとの説明を與へました。
 
四は「ソ」聯との同調には自信ありやとの點でありますが、
松岡外相は此點は獨逸も希望して居り、極力援助を與ふるとのこともありまして、
參會者も亦皆松岡外相の説明を諒と致しました。

 右會議後同日午後3時頃より御前會議が開かれました。
同日の御前會議も亦連絡會議の決議を承認しました。
  
 此の御前會議の席上、
原樞府議長より
「米國は日本を獨伊側に加入せしめざるため可なり壓迫を手控へて居るが、
日本が獨伊と同盟を締結し其態度が明白とならば對日壓迫を強化し、
日本の支那事變遂行を妨害するに至るではないか」といふ意味の質問があり、

之に對し松岡外相は
「今や米國の對日感情は極度に惡化して居つて單なる御機嫌とりでは恢復するものではない。
 只我方の毅然たる態度のみが戰爭を避けることを得せしめるであらう」と答へました。

 松岡外相は其後「スターマー」氏との間に協議を進め三國同盟條約案を作り閣議を經て之を樞密院の議に附することとしたのであります。
 
 

   一一 

 此の條約締結に關する樞密院の會議は1940年(昭和15年)9月26日午前10時に  
 審査委員會を開き同日午後9時40分に天皇陛下臨御の下に本會議を開いたのであります。
 (法廷證五五二號、同五五三號)

 樞密院審査委員會の出席者は首相、外相、陸相、海相、藏相だけであります。
同本會議には小林商相、安井内相の外は全閣僚出席しました
。  

 星野氏、武藤氏も他の説明者と共に在席しましたが、
これは單に説明者でありまして、審議に關する責任はありませぬ。
責任大臣として出席者は被告中には私だけであります。
  
 尚ほここで申上げますがそもそも樞密院の會議録は速記法に依るのではなくして
同會議陪席の書記官が説明要旨を摘録するに過ぎませんから、
説明答辯の趣旨は此の會議録と全く合致するといふことは保證出來ません。
此の會議の場合に於ても左樣でありました。

 此の會議中私は陸軍大臣として對米開戰の場合には陸軍兵力の一部を使用することを説明しました。
これは「最惡の場合」と云ふ假定の質問に對し我國統帥部が平時より年度作戰計劃の一部として考へて居た對米作戰計畫に基いて説明したものであります。 

 斯る計畫は統帥部が其責任に於て獨自の考に依り立てゝ居るものでありまして
國家が對米開戰の決意を爲したりや否やとは無關係のものであります。

 統帥部としては將來の事態を假想して平時より之を爲すものであつて孰れの國に於ても斯る計畫を持つて居ります。
 これは統帥の責任者として當然のことであります。

 尚ほ此の審議中記憶に殘つて居りますことは某顧問官より「ソ」聯との同調に關し質問があたのに對し松岡外相より條約案第五條及交
換文書を擧げ獨逸側に於ても日「ソ」同調に付き周旋の勞をとるべきことを説明しました。

 以上樞密院會議の決定を經て翌27日條約が締結せられ、
同時に之に伴ふ詔勅が煥發せられましたことは法廷證四三號及五五四號の通りであります。
 
 

   一二 

 右の如く三國同盟條約締結の經過に因て明かなる如く
右同盟締結の目的は之に依て日本國の國際的地位を向上せしめ以て支那事變の解決に資し、
併せて歐洲戰の東亞に波及することを防止せんとするにありました。

  三國同盟の議が進められたときから其の締結に至る迄之に依て世界を分割するとか、
世界を制覇するとか云ふことは夢にも考へられて居りませんでした。


 唯、「持てる國」の制覇に對抗し此の世界情勢に處して我國が生きて行く爲の防衞的手段として此の同盟を考へました。

 大東亞の新秩序と云ふのも之は關係國の共存共榮、自主獨立の基礎の上に立つものでありまして、
其後の我國と東亞各國との條約に於ても何れも領土及主權の尊重を規定して居ります。

 又、條約に言ふ指導的地位といふのは先達者又は案内者又は「イニシアチーブ」を持つ者といふ意味でありまして、他國を隸屬關係に置くと云ふ意味ではありません。

 之は近衞總理大臣始め私共閣僚等の持つて居つた解釋であります。

  〔続く〕 北部佛印進駐 


【関連記事】
 
大川周明 「反米感情を誘発するもの」 (昭和二十九年三月)



  



大東亜戦争の責任は我にあり 東條英機「宣誓供述書」(全文)その1「わが經歴」「第二次近衞内閣の成立とその當時に於ける内外の情勢」

2023-12-21 15:59:40 | 東條英機  

                              パル判事の碑文(靖国神社)

 

              
東條英機 宣誓供述書
 

 

昭和22年12月26日提出

 

極東國際軍事裁判所
亞米利加合衆國其他

 


荒木貞夫其他 宣誓供述書
供述者 東條英機

自分儀我國ニ行ハルル方式ニ從ヒ宣誓ヲ爲シタル上次ノ如ク供述致シマス    
   

 

わが經歴  

   1 

私は1884年(明治17年)東京に生れ、1905年(明治38年)より1944年(昭和19年)に至る迄陸軍士官となり、
其間先任順進級の一般原則に據り進級し、日本陸軍の服務規律の下に勤務いたしました。  

 私は1940年(昭和15年)7月22日 に、第二次近衞内閣成立と共に其の陸軍大臣に任ぜられる(當時陸軍中將)迄は一切政治 には關係しませんでした。

 私はまた1941年(昭和16年)7月18日成立の第三次近衞内閣にも陸軍大臣として留任しました。

 1941年10月18日、私は組閣の大命を蒙り、謹んで之を拜受し當初は内閣總理大臣、陸軍大臣の外、内務大臣も兼攝しました。(同日陸軍大將に任ぜらる)。

 内務大臣の兼攝は1942年(昭和17年)2月17日に解かれましたが、
其後外務大臣、文部大臣、商工大臣、軍需大臣等を兼攝したことがあります。

 1944年(昭和19年)2月には參謀總長に任ぜられました。

  1944年(昭和19年)7月22日内閣總辭職と共に總ての官職を免ぜられ、
豫備役に編入せられ、爾來、 何等公の職務に就いては居りませぬ。

 即ち私は1940年(昭和15年)7月22日に政治上責任の地位に立ち、
皮肉にも、偶然4年後の同じ日に責任の地位を去ったのであります。

 

   2 

 以下私が政治的責任の地位に立つた期間に於ける出來事中、
本件の御審理に關係あり、 且參考となると思はれる事實を供述します。

 ここ(*1)に明白に申上げて置きますが私が以下の供述及檢事聽取書に於て「責任である」とか「責任の地位に在った」とかいふ語を使用する場合には其事柄又は行爲が私の職務範圍内である、
從って其事に付きては政治上私が責を負ふべき地位に在るといふ意味であって、
法律的又は刑事的の責任を承認するの意味はありませぬ。

 

   3 

 但し、ここに唯一つ1940年前の事柄で、説明を致して置く必要のある事項があります。
それは外でもない1937年6月9
日附の電報(法廷證六七二號)のことであります。
 
 私は關東軍參謀長としてこの電報を陸軍次官並に參謀次長に對して發信したといふ事を否認するものではありませぬ。
然し乍ら檢察側文書〇〇〇三號の104頁に引用せられるものは明瞭を缺き且歪曲の甚だしきものであります。

 檢察官は私の發した電文は『對「ソ」の 、作 、戰に關し』打電したと言って居りますが、
右電文には實際は『對「ソ」 、作 、戰 、準 、備 、の 、見 、地より』とあります。
  
 又摘要書作成者は右電文が『 、南 、京を攻撃し先づ中國に一撃を加へ云々』と在ることを前提とするも
 電報本文には『 、南 、京 、政 、權に一撃を加へ』となって居るのであります。
 (英文にも右と同樣の誤あり、而も電文英譯は檢事側證據提出の譯文に依る)。


 本電は滿洲に在て對「ソ」防衞及滿洲國の治安確保の任務を有する關東軍の立場より對「ソ」作戰準備の見地より日支國交調整に關する考察に就て意見を參謀長より進達せるものであつて、
軍司令官より大臣又は總長に對する意見上申とは其の重大性に就き相違し、
下僚間の連絡程度のものであります。  

 當時支那全土に排日思想風靡し、殊に北支に於ける情勢は抗日を標榜せる中國共産軍の脅威、
平津地方に於ける中國共産黨及び抗日團體の策動熾烈で北支在留邦人は一觸即發の危險情態に曝されて居りました。
   
 此儘推移したならば濟南事件(1928年)南京事件(1928年)上海事件(1932年)の如き不祥事件の發生は避くべからずと判斷せられました。

 而して其の影響は絶えず滿洲の治安に惡影響を及ぼして居り關東軍としては對ソ防衞の重責上、
滿洲の背後が斯の如き不安情態に在ることは忍び得ざるものがありました。

 之を速に改善し平靜なる状態に置いて貰ひたかったのであります。

 中國との間の終局的の國交調整の必要は當然であるが、
排日抗日の態度を改めしむることが先決であり、
之がためには其の手段として挑撥行爲のあつた場合には彼に一撃を加へて其の反省を求むるか、
然らざれば國防の充實に依る沈默の威壓に依るべきで、其の何れにも依らざる、
御機嫌取り的方法に依るは却て支那側を増長せしむるだけに過ぎずとの觀察でありました。

 この關東軍の意見が一般の事務處理規律に從ひ私の名に於いて發信せられたのであります。

 

 この具申を採用するや否やは全局の判斷に基く中央の決定することであります。
然し本意見は採用する處とはなりませんでした。

 蘆溝橋事件(1937年7月7日)は本電とは 何等關係はありません。
蘆溝橋事件及之に引續く北支事變は頭初常に受け身であったこと に依ても知られます。



第二次近衞内閣の成立とその當時に於ける内外の情勢
 

   4 

 先づ私が初めて政治的責任の地位に立つに至った第二次近衞内閣の成立に關する事實中、
後に起訴事實に關係を有って來る事項の陳述を續けます。

 私は右政變の約一ケ月前より陸軍の航空總監として演習のため滿洲に公務出張中でありました。

 7月17日陸軍大臣 より歸京の命令を受けましたにつき、
同日奉天飛行場を出發、途中平壤に一泊翌18日午後9時40分東京立川着、
直ちに陸軍大臣官邸に赴き、前内閣崩解の事情、大命が近衞公に下った事、
其他私が陸相候補に推薦された事等を聞きました。

 其時の印象では大命を拜された近衞公はこの組閣については極めて愼重であることを觀取しました。


 乃ち近衞公は 我國は今後如何なる國策を取るべきか、
殊に當時我國は支那事變遂行の過程に在るから、
陸軍と海軍との一致、統帥と國務との調整等に格別の注意を拂はれつつあるものと了解しました。

 

   5 

 その夜、近衞首相候補から通知があったので、
翌7月19日午後3時より東京杉並區荻 窪に在る近衞邸に出頭しました。
此時會合した人々は、近衞首相候補と、海軍大臣吉田善吾氏、外相候補の松岡洋右氏及私即ち東條四人でありました。


この會談は今後の國政を遂行するに當り國防、外交及内政等に關し在る程度の意見の一致を見るための私的會談でありましたから、會談の記録等は作りません。
之が後に世間でいふ荻窪會談なるものであります。  

 近衞首相は今後の國策は從來の經緯に鑑みて支那事變の完遂に重きを置くべきこと等を提唱せられまして、
之には總て來會者は同感であり、之に努力すべきことを申合わせました。
政治に關する具體的のことも話に出ました。

 内外の情勢の下に國内體制の刷新、 支那事變解決の促進、外交の刷新、國防の充實等がそれであります。

 

 其の詳細は今日記憶して居りませぬが後日閣議に於て決定せられた基本國策要綱の骨子を爲すものであります。
 陸軍側も海軍側も共に入閣につき條件をつけたようなことはありませんが、
自分は希望として支那事變の解決の促進と國防の充實を望む旨を述べました。

 此の會合は單に意見の一致を見たといふに止まり、特に國策を決定したといふ性質のものではありません。

 閣僚の選定については討議せず、之は總て近衞公に一任しましたが、
我々はその結果については通報を受けました。

 要するに檢事側の謂ふが如きこの場合に於て「權威ある外交國策を決定したり」といふことは(檢察文書〇〇〇三號)事實ではありません。

 その後近衞公爵に依り閣僚の選定が終り、同月22日午後8時親任式がありました。 

 當時私は陸相として今後に臨む態度として概ね次の三つの方針を定めました。

 即ち
(一)支那事變の解決に全力を注ぐこと、
(二)軍の統帥を一層確立すること、
(三)政治と統帥の緊密化並に陸海軍の協調を圖ること、これであります。


   6 

 ここに私が陸相の地位につきました當時私が感得しました國家内外の情勢を申上げて置く必要があります。
此の當時は對外問題としては第一に支那事變は既に發生以來3年に相成って居りますが、
未だ解決の曙光をも見出して居りません。

重慶に對する米英の援助は露骨になって來て居ります。
これが支那事變解決上の重大な癌でありました


 我々としてはこれに重大關心を持たざるを得ませんでした。
第二に第二次歐洲大戰は開戰以來重大なる變化を世界に與えました。

 東亞に關係ある歐洲勢力、即ち「フランス」及び和蘭は戰局より脱落し、
「イギリス」の危殆に伴ふて「アメリカ」が參戰するといふ氣配が濃厚になって來て居ります。
それがため戰禍が東亞に波及する虞がありました。
從って帝國としてはこれ等の事態の發生に對處する必要がありました。
 
 第三に米英の日本に對する經濟壓迫は日々重大を加へました。
これは支那事變の解決の困難と共に重要なる關心事でありました。

 對内問題について言へば  
第一に近衞公提唱の政治新體制問題が國内を風靡する樣相でありました。
之に應じて各黨各派は自發的に解消し又は解消するの形勢に在りました。
  
第二に經濟と思想についても新體制の思想が盛り上がつて來て居りました。

第三に米英等諸國の我國に對する各種の壓迫に伴ひ自由主義より國家主義への轉換といふ與論が盛んになって來て居りました。

 

  〔続〕「二大重要國策」へ続く 


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 大川周明 「反米感情を誘発するもの」 (昭和二十九年三月)



 


大東亜戦争の責任は我にあり 「東條英機宣誓供述書」編者の言葉  

2023-12-21 15:43:21 | 東條英機  

  
          「東條英機宣誓供述書」 
  


編者の言葉 
東條英機供述書は「天皇には責任なし、敗戦の責任・我に在り」と明言し、
太平洋戦爭は日本にとっては、米英蘭の仕向けた挑戦に對する自衛戰だと主張して、
一世に視聴をあつめた世界史的文献である。
  
云ふまでもなく、史上未曾有の大規模な國際裁判として知られる「東京裁判」は、
一名「東條裁判」と呼ばれ而もその25被告中内外注目の第一人物は元總総大臣東条英機であり、
その供述書は彼の「必至の告白」に外ならず全世界、全世界史に對して訴える最大の抗議である。  

この書は彼が開廷以来20ヶ月克明にメモをとりつゞけ完成した十数冊のノートを基礎とし、
辨護人清瀨一郎博士、ブルーエットの両氏が、九ヶ月にわたって稿を改めること幾度、
文字通り、この三者の心血を注いで、やうやく成り、昭和22年12月26日の法廷に提出されたのである。 

その内容とするところは東條被告が、昭和15年7月22日第二次近衛内閣に陸軍大臣に就任し、
はじめて政治に關與してから昭和19年7月22日サイパン失陥の責を負って辭職に至る満4ヶ年間における、
未曾有の離局に處した政戰両面の事件の眞相が綴られてゐる。

 
 とくに大本営・政府の連絡會議、閣議、重臣會議・御前會議を詳述し、
太平洋戰爭開始前の日本の苦悩、天皇の憂慮の事實、をあますところなく記述しておリ、
とりわけ杉山元参謀總長亡きあと陸軍統帥部の動向を知る唯一の人物として、
日本政府の開戰決意の眞相は本書によってはじめて明白となったと云へよう。  
    
 本文はかならずしも長文のものではないが東條の主張するところは大よそ次の如きものである。
  
 すなはち

一、檢事側の主張するように満洲事變、日華事變、太平洋戰爭を通じて、
日本に「侵略計画」があったといふ如は全く荒唐無稽
であり、
また日本の指導者には一定不變の目的を有する「共同計画」の如きは到底考へ得られぬ。

  

二、戰前における連合国側の軍事的経済的圧迫を述べ當時日本国家の存立が如何に脅かされてゐたか

   

三、太平洋戰爭は連合国側の挑發によって惹起されたもので、日本にとっては避け難い戰爭であった。

 

四、東亜共栄圏の建設は「侵略」ではなく壓迫されてゐた東亜民族の意思に基く「解放」であった。

 

五、昭和16年2月1日御前會議における「對米英開戰」の決定は、
天皇の政治責任にあらず、終始、天皇が平和の愛好者であった
ことを力説、
天皇の戰争責任を絶對に否定し、戰爭責任は輔弼に任じた全閣僚にあると断定した。

 

六、太平洋戰爭は國際法に違反せずと主張、勝者たる連合國によって裁判されることは考えなかった。
從って連合國に對する責任を否定するが、日本國民に對する敗戰の實任は進んで、これを負ふものである。


 かくの如く大胆卒直に述べて、「天皇に責任なし」と強調、自衛戰一本を主張して、同僚彼告の何人にも責任の轉嫁を試みることなく、その信條を明確に述べてゐる。


 要するに彼の陳述するところ、 それは形式においては、國際法廷判官への供述ではあるが、
その實質はともに敗戦の惨苦をなめた全日本國民に對する謝罪であり、眞相の報告に外ならない。

  

なほ
世界史上、最も重大な時期に日本國家がいかなる立場にあったか
 また日本の行政を司った者が、國家の榮誉を保持するために眞摯に、
 その權限内でいかなる政策を立て、かつこれを實施することに努めたか
」を訴へていることである。
 
かゝる意味で、本書こそは現代日本人の誰れもが必讀すべき世紀の書であり、
後世史家のためには、「日本帝國崩壊史」の最重要文献と云ふべきである。

 1948年(昭和22年) 1月 

                                    東京裁判研究會  
 
    
    
  
 


篁(たかむら) 東陽 著「東條英機と世界維新」第三篇 國民に告ぐ! 第一章 未来か没落、日本世界戦争

2022-12-25 10:20:03 | 東條英機  



    (たかむら) 東陽 著「東條英機と世界維新」
 


      
三篇 國民に告ぐ!  

  第一章 未来か没落か

一 三十年の失政  
 今や時代は前古未曾有の時勢の推移の中にあって、世界情勢は、正に急角度の変遷をとげんとする。

 19世紀以来、近代文化として發展し来れる諸文化形態は、過去の古き諸形象として色褪せ、その全本質はすでに誤謬に満ち、今や全く新しき根本的変革を見んとする時期に立ち到っあ。 

 かくてこれまで最も正しく、また新しきものと思はれしものも、実は誤りであり、旧きものとなり、西欧500年の科學文化も、自ら内的崩壊に直面し、かくて新しき人類、世界の創造を、我日本より全世界に対し、積極的に主張、実践せんとする新段階に達した。ここに新しき世紀が始まり、今や世界史は日本國民によって書き改められんとする。

 19世紀を貫きし、近代西洋の政治原理はアメリカの獨立、並にフランス革命のイデオロギーによって、デモクラシーの方向が決定され、それは20世紀の初頭の第一次欧洲大戰において、英米聯合國の勝利により、遂にその最高調に達するのであった。
 しかもその政治原理は、その根抵において、ユダヤ的なる國家否定の思想であり、それは個人の自由、平等を主張することにより、一切の政治的秩序を破壊せんとする方向を有するのであった。


 かくてそれは必然的に共産主義への發展となり、ここにソ聯の赤化革命及び三民主義より容共政策へ移行した蒋政権の如き形を示すに至った。

 かくて國際聯盟なるものの結成は、あくまでも民主主義的現体制を、積極的に固持せんと企図したものであり、ここに新興國家の發展は、平和に反する行為として絶対に否定され、或は侵略主義、或は獨裁主義なりとして、いかなる正しき國家の生命的進出に対しても、執拗にこれを抑圧し来ったのであった。

 しかもかかる欧米の自由主義、平等主義とは、その本質において有色人種の自由の否定、平等の拒否なる植民地奴隷化の上に、漸くその發展を可能になせしものであり、彼等の有する思想的欺瞞性は、今更批に暴露するまでもなく、すでに我等の屡々強張し来ったところである。


 なほ彼等は欧米のデモクラシーをもって、近代的進歩的なりとして、それに愚にも追随せしめ、一方キリスト教人道主義の宣伝によって、その表面的平和主義は、あらゆる被
圧迫民族をして、自らの獨立解放の為めの眞の熱意を混迷冷却せしめる方向に導くのであ った。

 このことは我國にあっても、大正時代より昭和の初期に亘って、最も顕著なる傾向を示したのであり、デモクラシー、自由主義は、まさに我國を風靡し、ここに極端なる政憲至上主義の抗争の中に、最上の表現を見るのであった。

 諸君は知らるであらう。

 当時の日本の政治家と称せられるものは、すべて政党あって國家あるを知らず、その属する政党拡大のためには、あらゆる政治的不正をも敢て為し、その政党の背後にありし金権主義と結託して、ここに恐るべき政治的罪悪の数々を犯し、徒らに多数を擁しては、政権を獨占せんことに奔命し、かくて新聞、雑誌等の言論、ジャーナリズムの掌握となり、彼等の罪をすべて隠蔽し、かかる行為をもって、むしろ最も正しき政治なるかの如く宣伝したのであった。


 大正初期より今日の政党政治の時期に至る約30年間こそは、日本政治の最悪の退廃を示せる時であり、この時代において日本の國家的エネルギーは萎縮沈滞して、単に資本主 義的金権の獨裁と化し、軍備は傷ましき敗戰國の如く縮少せられ、日本の民族的發展は、 帝國主義的侵略なりと日木人自ら公然と排撃し、軍民離間、國内頽廃の状態は、まさに亡國の危機さへ生じたのであった。


 この間、世界的恐慌の嵐は、社会不安を益々激化し、ここにソ聯の赤化革命は、ユダヤ宣伝と共に、日本内部の共産革命化を策謀し、それは幾次かの大検擧によりて辛くもその危局を脱却し得たのであった。


 殊に大學及言論思想界は社会主義的傾向最も著しく、つとにその温床と化し、インテリゲンチヤは悉くこの赤化的なる自由主義の洗礼を受けこの大なる贋金の洪水のうちに、数へることの出来ない夥しい我が日本の者年達は溺死した。  

 
亡国社会的的混乱とその矛盾対立は、益々尖鋭化し、徒らにデマゴーグのみが盲動、純眞なる理想を有する青年は、これに毒せられ、誘惑せられ、或は都会を逃避せんとし、或はデカダンスに走り、この若き情熱は、当時の現状にあきたらず、その不法なる日本の金権主義者が、政党を買収し、言語に絶する弊政を公然となしつつあったことに対する憤然 たる國民的爆發としての赤化運動を激發せしめたのであった。
 
  見よ!
 犬の如く金権の前に脆坐し、それに隷属する政党政治家の姿を。彼等は全く政治家として何らの識見、良心、資格、政策を有せずして、しかも恬として顧みず、 否、この時代にあっては、政治家としての眞の資格、本質を有する者は、所謂彼等の称した政治家とはなり得ない現状であったのである。  


 このことは果たして今日に於いて、全面的に変革されたと言えるであらうか?

 当時彼等の悪弊は、極めて巧妙な手段により隠蔽され、政治は一切利己的政党によって左右されるは勿論、或はジヤーナりズムを買収して却って一般人心の好感共鳴さへも博さんとし、従って眞実ならざる捏造作為の宣伝が横行し、そこでは莫大なる私利を獲得した某政治家も清貧なりとして称賛され、或は最も利己的なる私利私慾の徒が却って最も社会的進歩的政見を右するかの如く擬装され、これに対し一般國民は目かくしされ何等の眞偽を知ることなくして、これらに対して與論は、鋭き批判も加へずただ徒らに盲従するのみであった。

   
 外に対しては、殊に外交方針は、全く英米追随媚態の極度を示し、日本の大陸、大洋への進出は悉く抹殺され、日本の國力は軍備縮少によって著しく低下し、しかもこの絶対絶命の危機は、却って物価安によって、日本商品の海外進出には、驚異すべき好條件を誘超し、ここに日本商品の世界市場への驚くべき氾濫となっていった。
  
 これに対し英米資本はこれをソシアル・ダンビングなりとして、飽迄高率の関税障壁を
もって排撃し、同時に日本の内部的混乱と政治的頽廃とに乗じて、英米ソは支那に対し積極的に進出し、抗日工作を極力企図するに至ったのである。
  
 この内外よりの最大の圧迫が、最高度に達した時、満州事變による目本の爆裂となり、 國際聯盟は拒否され、ここに世界維新戰の序曲は、一はアジアの反撃を呼び、内にあっては國内革新の強烈な要望となっていったのであった。
 

二 現代の特徴 
 かの日本の満洲事變こそ、20世紀の奮秩序破壊の最初の世界史的事象でありこれにより英米の世界経済獨裁は破れ、赤化の世界革命は反撃せられた。
 
 しかも全く無理解なる英米及び國際聯盟は、新しき國家建設を些かも認識せす、日本の正義は彼等の認識の極限外にあることを単に帝國主義的侵略なりとして、我を批判、誹謗しつつ、実は自らの醜を自己暴露するのみであった。

   
  今やその不合理に掠奪せし驕慢なる國家、侵略民族に対し、最大の審判が断乎として下されんとする。今やイギリスは完全に崩壊しつつある。ここに没落し行くイギリス議会の如く、それを典型とせる日本の政党政治もまた必然に没落する。


  かくてそれに養はれし、一切の政治思想、また政治家も、これと共にすべて後退、没落し行くは餘にも歴史的必然の運命である。まさに一日にして一年、一年にして一世紀、 或は数世紀を経過する如き現代にあって、この時代の激遷によって、あらゆる新陳代謝の高速度に実現されるのは自明の理にして、これがたとへ表面的になされずとも、

 最早旧時代人は、現在その社会的地位を有するも、蝉のぬけがらの如く、彼等自身、全く現代の情
勢判断の正確を欠き、将楽に対する何等透徹せる推測も不可能となり、かくて自らの痴性を笑はずして、愚にも複雑怪奇なる嘆聾を放って、現代より退場没落せざるを得ないのである。
  
 この厳粛にして驚くべき史代の急転こそ、現代日本の姿であり、日々 の現象に盲目的に追従して、ただ客観的情勢の判断にのみ依存するものは、
 恰も敵の與へた情報により、戰術を組立てんとする劣等なる軍人の如く、悉くその政策は後手となり、時期を失し、遂に頑鈍機を知らず、
 徒らに専態を遅延渋滞せしめ、日本國民の困苦を倍加し、しかも彼等は利己的なる意識よりして、何ら責任の重大性を感ぜず、
 それが直ちに國家國民に與へる致命傷なるをも知らす、或はたとへ知るとも、それを誤魔化し、責任廻避の無意義なる弁解をなさんとする。
 
 ああ、彼等はすでに、現実の偏狭なる経験、貧困なる知性の地獄の中に陥落し、それ以上の世界認識をすべて喪失したる没落人に外ならな いのである。

 
 かかる政治家の、日本指導者の中に、いかに多く我々 はこれを見、これらの存在に燃ゆる怒りと深き悲しみを味ったことであらうか。

 勿論翻然過去の非を悟り自ら、反省是正して新しき方向に転向するととは、今日の如き時代にあっては、最も重要な態度処置と言へるのあるが、しかも我等の見るところを もって直言すれば、彼等の多くは表面転向するとも、それは本質的変換にあらずして、単に現象的に、自らの危険を感じて追従変化ずるにとどまり、かくて彼等は『戰争か平和か』の重大岐路に適遇するや、再び以前の錯誤を犯し、日本國民の正しき直感を、無意味に混迷の中に突き落すが如き愚を敢て為すのである。

 かかる人聞こそ、一度び自己の有利な突發事が生ずれぱ、忽ち過去の旧体制に帰り、しかも括として些かも恥ぢな い國族の如き存在である。

 今日政治の新体制が盛んに主張され、雨後の笥の如く革新陣営なるものが生れつつある。しかもこの時、日本國民にとって最も必要なることは、心眼を開いてこの新体制論者革新陣営に関し、いかなる人物が、いかなる態度で、これを主張し、これに参與し、その方向、組織を構想工作しつつあるかを、凝視しなければならぬ。
 何となれば現代にあって は、ある政策の致命的失敗は、ただちに我々個人の生活、生命に影響を及ぼすものだからである。


  我々は日本の政治新体制が、世界維新の重大なる志向を決定するものとして、過去の鴆毒たる英米的デモクラシーと決定的対立を必然化することにのみ、その眞の意義を見出すと同時に、この暴戻極まる侵略者に対し、断乎たる否定をなすことこそ、我が八紘一宇の肇國の精紳が、眞に世界苦の救済となり、始めて虐げられしアジア十億の諸民族は、ここに眞の人間としての喜びを回復するととを得ると信ずるものである。


 ここに我等は衷心より、日本國体の永遠の明徴を表念するのであるが、いま大政翼賛、一君萬民の美名の下に、幾多過去の清算すべき旧体制のむしろ新しき装いもって出現し来るものにあらざるやと、寒心警戒するものである。

 
 この垂大なる時局にありて、その衝に当たるものの、最も自らの反省を深くし、慎重に自粛自戒絶対に利己的なる権勢慾 にとらはれることなく、減私奉公の忠誠を、ただ口にするのみでなく、現実に履行実践されんことを、これのみ現代政治家の最大の資格である。

 我等は要求する。

 しかも尚大政翼賛の美名にかくれ、私利を計るものあらば全國民は一体となってこれを撲滅し、この不忠の臣の屍を踏み越えて、天の命ずる正しき道に前進するであらう。 見よ?日本のこの世界史的發展に対し、英米旧勢力の対日共同戰線は益々激化、愈々 彼等の偽めの世界制覇にあらゆる手段を弄せんとする。
 かくして日木の南方圏確立の時期の一刻遅ければ遅い程、インド洋、太平洋戰争の危機は邦って切迫する。


 我等が起つ可きは正に今日にある。機は目前にあり。天は正義に與みし、神は忠誠に感応せん。今や日獨伊三國同盟により大東亜圏の指導権を有する日本は、英米の抗戦力をして、全く絶減せしむべき南方圏の獲得をなすことをもって、眞に皇道世界平和の為めの絶対的至上命令として即時決行すべきである。


 これこそ畏くも三國同盟に下し給ひし大詔の聖旨、皇道世界宣布に、眞に副ひ来る絶対忠誠の道である。
日本國民よ! 聖戰とは何を意味するのか!日本は何の為めに戦っているのであるか! 
単に排日抗日支那人を撃破するために、無限に尊い犠牲と消耗を敢て為したのであるか! 


 ああ皇戰ここに5周年にして、全日本人は、悉く、悲痛なる貴き経験と苦悩とを通じ、何ものが最大の日本の敵なるかを十全に確認した。

 
 しかも彼等のその背後に秘む、世界史上最悪の罪を犯し来れる老獪なる人類の敵に対し、敢然として全人類救出の大戰御駿を宣戰せんとする、決定の瞬開に立つ。
 
 もしこの秋日本國民にして後退せんか、『西洋の没落』は一転して『東洋の没落』となり、日本、否世界の人類は英米政策の餌食と化するであらう。

 すでに新しき世界戰争は、一國家、一民族を完全に破壊、絶減すべき全面戰争であり、この痛切なる意義を把握することこそ、眞の総力戰の木質である。

 
 日米会談は愈々決定的段階に達した。 世界の運命を決する骰子は今投げられんとする。 ああ!未来か?没落か?
しかも日本及び日大國民の為すべき目的、進むべき方向は、あまりにも鮮明に呈示されている。 知らす、ルビコンを前にして日本は尚徒らに躊躇し、逡巡せんとするのであるか?
 

第二章 日本世界戰争  
 来るべき1942年の最大危機を前にして、世界はいかなる方向に進むのであらうか?
 しかも日本は、来るべき危局に、果して欧米の厖大なる軍備に対して、いかなる対抗を為し得るや? 
  
  日獨伊三國同盟に対するアメリカの対立は、すでに世界の決定的戰争に入る必然性を有し、彼は東亜に於ける米人の引揚げを断行した。

 今や獨伊は英と最後的死戰をなしつつ、しかもヨーロッパの内的否定としてのソヴェト・ロシアとの徹底的死闘を激化しつつある。 ここに欧洲がすでに経済的物質的に消耗し盡せる時、イギリスは欧州を放棄するであらう。しかも彼はその代償として西半球そのものをアメリカと合作して獲得せんとする。

  ここにイギリスはカナグ或は濠洲を根拠地として南洋、南アメリカ、インド等の再統一 を英米共同の下に実現し、日本封鎖を執拗に実行するに至るであらう。しかも一方、イギリスはナポレオンに於けるモスコーの如く、イギリス本土を焦土として、消耗戰によるドイツを屈服せしめんとする。 何ぜなら欧洲大戰の絶滅戦は、必然全欧に食糧難をもたらし、同時に全欧の赤化は今後愈々猖獗を極めるであらう。

 
 この時英米はソ聯をして彼等の勢力と合流せしめ、或はアジア大陸をソ聯に一任し、イギリスは大海軍を一擧にインド洋、南洋、東洋に向け、同時にアメリカは全海軍を太平洋に終結し、英米ソの第空軍は日本の南北より本土を脅威し、東亜新秩序にあくまで絶対反対の態度をもって日本を屈服せんとする。
   
 日本はまさに かかる絶対絶命の危機線上に立つ。 果してこれを日本はいかに克服せんとするや。彼等の脅威に怖れて、る垂涎無為に終り、遂に今次事變の一切を室しく失って、アジア大陸より後退し、奴隷生活の如き悲境に陥らんとするのであるか。しかも靖國の英雄は、いかにして護國の鬼と化したのであるか?
    
 問ふ! 然らば我等はこれに対しいかなる対策をもって進むべきであらうか?
我々これより眞の本格的戰争の開始せらるるを堅く決意せねばならぬ。
 「今や日木は即時支那におけるイギリス租界の回収、利権の抑止、さらにタイ國よりビルマ海峡植民地、南洋及インド洋に対し、直ちに積極的な進出を決行すべきである。
  
 この東亜より南太平洋に亘る地域の占領こそ、日木アウタルキーの確立であり、これによって目本はいかなる長期戰にも耐へ得るであらう。

  しかも現在日本は積極的に生産力の拡充、物動計画を実行しつつあるのであるが、その計画は日本南方圏の急速なる確保なくしては、絶対にアウタルキーは不可能なることを実証する。この時イギリスの経済圏は極度に脅かされ、インド、濠洲、南洋は遮断され、大英帝國は300年の極悪史を終るべき致命的没落に瀕するであらう。


 かくて果してアメリカの経済力が安固たり得るであらうか?唯物的利益を目的とする アメリカ内部に、猛烈なる戰争反対運動が勃發し、アメリ力自らの弱点を暴露し、内部分 裂による國家崩壊も予測し得るのではあるまいか。

  
 ここに英米対日木の長期戰の本質が展開し、百年戰争の叫ばれる根拠があるのである。 今や獨伊の欧洲新秩序は、それ自体にては自給自足は不可能であらう。

 かくて日本のアジア太平洋圏の指導的確保は、欧洲救出のための日本の南方物資と、インド洋ルートの獲得を熱心に切望するであらう。 我々は日獨伊三國同盟、今次の聖戰をもって、世界維新建設への第一段階と思念し、ここに皇道世界宣布光被に対する、英米の挑職を見、この日本対英米の長期戦のためにこそ 我高度國防國家体制は要求されるものと思惟する。


 このためにこそ全日木人の総動員的戰争体系の全面的確立を必須とするものなるを思ふのである。

  しかも東亜新秩序建設は、必然に東亜自給自足圏の確立を必須とし、ここに皇道による日本南方圏の広地域空間確保を絶対に要求する。

 まさに今回の支那事變は、今後、日本を中心とする世界興廃の長期戰の發端とも見られるであらう。 現代のこの壮大無比な史的転換、世界の全面的維新の返還において、日本國民は眞に目本の使命とエネルギーがいかに根太的なる決定力たるかを深く深く自覚しなければならぬ。


 ここに日本及日本國民により世界維新が全面的に実現され、誤まれる西欧獨裁の諸形態は、根本的に否定されんとする世界史的時期に立つを知るであらう。


  かってマルコ・ポーロによって西欧侵略の慾望が示されし責金の島ジ・パング(日本)。
 この彼等の最後の目的を達せんとして、蒋介石の背後にあって、抗日即時決駿を煽動し、支援せる敵(英米ソ)は、今やそのマルコ・ポーロの橋(盧溝橋)畔の一發により、その没落の戰ひは始められんとし、まさに聖職5年、彼等の抗日の拠点ー天津、上海、香港等はすでに支那人による排敵の焦点たらんとし、さらに海南島、新南群島の水平線の彼方 、ビルマ、ヒマラヤの上空に、アジア十億の本願は、我皇道の光を欣求して一日千秋の思ひにて手を額にし衷心より日本の救出を待ちつつある待望の叫びを聞く。

 
  想へば遠く二千六百年、日本史に於ける諸々の戰争は、淘に来るべき世界維新戰のための準備戰であり、その十全なる実戰的訓錬であったのではあるまいか。
 
 この唯一なる大義の戰争に対する最高の信念、大御戰に於ける皇軍の絶対的精神こそ、実に世界史上、日本民族が、数千年に亘り、聖戰のための生命を賭せる鍛錬と、そのために眞に生くべき無私の行を体験、実現し来ったのであった。
 
  この日本の新しき方向とそ、久しく切断されし、『日本上代太平洋文化圏』の輝しき復興である。 今や日本國民は、まさに新しき決定的段階に入らんとする時、肇國の神勅皇祖皇宗の御遺訓及今上陛下の大詔の下に、世ゝその美をなせる一君萬民の総力を擧げて、『益々國体の観念を明徴にし、深く謀り遠く慮り協心識力非常の時局を克服し以て天壌無窮の皇運を扶翼』し奉らなければならぬ。


 篁(たかむら)東陽 著「東條英機と世界維新」第二篇 世界維新論 第六章 ユダヤ金権の解剖 一ユダヤの日本革命

2022-12-24 17:12:23 | 東條英機  



    (たかむら) 東陽 著「東條英機と世界維新」
 


       第二篇 世界維新論   
  

第六章 ユダヤ金権の解剖 

一 ユダヤの日本革命
つてロイド・ジョージは
『世界に於けるユダヤ人とマツソン秘密結社のことをしらずして、一國の総理大臣たる資格も、外務大臣たる資格もないのである』 と言った。

 まことに「革命といふ言葉は我々が發明したのだ』とユダヤ人自ら公言する如く、『革命のある所必らずユダヤ人あり、ユダヤ人ある所必す主冠が落ちる』といはれ、

 彼等は各国に『國家内の國家』を組識しつつ、世界の金の三分の分の二はユダヤ財閥の金庫に唸り(アメリカの某所に秘かに埋めてあるともいはれる)、世界言論機闘の90%はユダヤ統制下にあり、
現代世界を動かしている指導者、アメリカのルーズヴェルトはフリー・メーソンの最大階級たる三十三階級を有つ結社員であり、
 彼を圍鐃するプレーン・トラストはすべてアメりカに國籍を有つユダヤ人であり、
『ユダヤの終生の友』と云はれる英首相チヤーチルの下には、ユダヤ人イーデン外相あり、ホーアベリシャ陸相あり、今東亜に暗躍中のダフ・クーパーあり、
ソ聯にはスターリンの義兄ユダヤ人カガノヴィッチ閨閥と、世界赤化に重要な役割を演じているユダヤ人リトヴィノフあり、
スターリンは今やユダヤ人の傀儡の如き観を呈し、尚國際聯盟首脳部は全くユダヤ人によって占められ、國際秘密結社フリー・メーソンは全世界にその秘密力の根を張っている。
 
三民主義の権化メーソン結社員孫文はユダヤ人により『孔子よりも偉大なる支那第一の偉人である』と宣傳さ
れ、その遺髪を継ぐ蒋介石またマソンの結社員である。


 しかもフランス革命にあって、佛王ルイ・フィリップの体に手を下して死刑を行ったものは青年ユダヤ人サムソンであり、かって大ナポレオンはフリーメーソンを利用して却って彼等に操られ、第一次欧洲大戰の原動力となつた墺太利皇儲暗殺事件の当の下手人はユダヤ人ガブリロ・プリンチップであり、(カイゼル・ウイルヘルム二世またナポレオンの前轍を踏んだ。)

 ロシア革命において露國皇帝初め皇太子に至るまで一族十数名を皆殺しにした過激派の11名はすてユダヤ人であった。

 我日本に於てさへかの大震災と共に日本上下を震駭せしめた日本共産党事件、幸徳秋水の反逆思想は渡米中、
ユダヤ人の帝位覆滅思想に感化されたのであり、第二の大逆灘波大助の大不敬事件は、改造誌上に揚載された河上肇の『断片』露國のテロ紹介文を読んで、 その実行手段を思ひついたのであった。

 近くは欧洲に於いて英國新聞の所謂『悲しむべき出来事、シンプソン夫人事件』彼女はシンプソン・アーネストと結婚するまですでに数度結婚した、いはば不倫の恋の経験者であった。

 事件は、利用出来る者は何人によらす、最後の瞬間まで利用し盡すユダヤの政策であり、かゝる高貴なる人々までも操る巧妙にして、偉大なる威力を發揮しつつあるを知らねばならぬ。

 シンプソン事件以前には、王冠をかけた空前の恋愛として宜傳されたルーマニア國王カロル二世と、ユダヤ女ルペスコ夫人の灼熱の恋物語があった。

 ゲッペルス宣伝相は、『今やユダヤ人は欧州各國の文化を壊滅に導き、國際ユダヤ帝國建設の為あらゆる手段と方法を盡して蠢動しつつある』 と喝破した。

  いまやユダヤ人の世界的勢力を閑却して、社会萬般の世界相を論ずるのは、今日においては、恰も群盲の巨象を摩して之を評するに等しいのである。

『西欧の没落』を自らに実証せる、かの第一次世界大戰直後のことであった。
当時外國武官であり、ユダヤ問題の研究家たりし一日本人が、帰國を前にして時の宰相ロイド・ジョージに会見した時のてとである。 
 彼は話題が一度びユダヤ問題に移ると次の如く述懐した。
『成程英國は大戦には勝つた。が、我大英帝國も最早没落の運命をまぬかれぬ段階に到達している。それは我國の指導的主要ポストは、いつの間にか、英國民が気付いた時は最早どうすることも出来ない程、ユダヤ人が根を張り、遂にユダヤ人によって何もかも占められてしまったからだ。

 かくては最早英國に前途の光明はない。しかもユダヤの勢力は、この大戰を契機としてロンドンからアメリカに集注した。と言って、彼等の目標がアメリカにあるからではない。欧米はすでにユダヤ金権によって、身動きの出来ないやうに制御されてしまっているからだ。

 いま彼等の目標は明白に日本に向っている。すでに彼等は勝算あるものの如く行動を開始した。彼等にとっても今や日本が最後の目的物である。日本を完全にユダヤ化して國内崩壊に導き得れば、彼等の二千年夢みていた、ユダヤ選民族による世界統治が実現する時だと信じている。

 その時期はもう近い。彼等はすでに其の時の世界統治者となるダビテの末裔をひそかに某所に養成しつつ、今世界一流の各方面の大學者を側近につけて、世界統治者たるの勉強を授けているのだ。日本もやがてユダヤの怖ろしさを骨の鳴るまで知らされるであらう』 と云って白い口髭をふるはしながら嘆息した。

 應訪の日本人武官は、心持ち色蒼ざめ乍ら、かう訊ねた。
『我國には一天萬乗の大君と、陛下の赤子たる忠誠勇武の日本國民がある。若しユダヤ金権が日本に魔手をのばすとしても、今迄彼等が欧州で用ひていたやうな謀略では、到底我國を破壊さすことは出来まい。とすれば、彼等には何か新しい武器が・・・・ と言ひかけると、
 『そこだ!』と首相は我意を得たとばかり、莞爾としてから続け、
 『君の言ふ通り、日本人は人種も違ひ、顔の色も違ふ。いかなるユダヤ人と言へども、欧米にては、或はアメリカ人となり或はイギリス人となり、又はフランス人、ドイツ人、さらにロシア人となることも出来る。否現在彼等はさうした國籍を利用して表面を偽装しているのだ。
 ユダヤの裏面を知らない人々は、彼を単にアメリカ人と思ひ、イギリス人として欺瞞される。が、日本だけにはかかる方法では喰ひ入ることは出来ない。』 と、
言葉をきって彼は暫く考へていたが、軈て大きく一人でうなづくと


 『今、予は明瞭君に予言して置かう。彼等の日本における謀略は、まづ日本國民の頭から、天皇陛下の四宇を無くすることにある。即ち、天皇観をくつがへすことだ。かくして若し日本人の頭を、彼等の作り上げた新しき天皇観によって骨投きにした時、其の時こそ日本は完全にユダヤの謀略に毒された時であらう。
 そして知識文化の名をもってするユダヤ唯物思想の阿片に、日本國民全体が中毒した時、それは最早日本の死命を制する致命傷であり、労せずして、血を見ずして、戰はずして、彼等は、日本活殺の魔力を自らの手に握り得るのである。』と・・・・・・。
 もしも諸君が、静かに目を閉ぢて英霊に映じ見る如く、大正初期以来の日本の姿を、その脳裏に描き出されるならば、この言葉の何を意味するかを、容易に理解されるであらう。
  
  即ち大正時代に入った社会思想、デモクラシー、自由主義思想の扶植、かくしてユダヤの惜みなく撒き散らす黄金の魔力は、遂に日本の言論機関、學界、政界、財界の上層部をユダヤ金権の虜となし、これにより全宣伝機関を動員して、夥しい我が國の青年達は、彼等の贋(ガン、にせ)造する大なる贋(ガン、にせ)金の洪水のうに溺死していった。

 かくて昭和時代に入るや、ロンドン軍縮会議(恥づべきキヤツスル事件を想起せよ)、
満州上海事件当時のユダヤ國際聯盟による日本の孤立、國民思想の混乱、軍民離間策動、
政治家、外交官、財界の巨頭の一部には、ユダヤ系フリー・メーソンの魔手に踊る者すら現出し、
遂に悪思想の浸潤は、東大法學部の主要分子を思想的にユダヤ化し、ナチスに追は
れたハンス・ケルゼンの國際法上位説『天皇は第一次的には國際法団体の機関なり』の解釈の如く、
ゲオルグ・イエリネックの一般國家學は、美濃部建吉博士等の、まさに萬邦無比の我國体を破壊せんとする、天皇機関説となり、それは白昼公然と横行する時代を現出した。


 かくして人民戰線思想の浸潤は過般の帝大粛清問題を生み、東大経済果部の河合築治郎教授の如きは、特筆すべき外来思想陶酔者であり、かくて教授助数授17名と前途有為の學生2600余名の犠牲者を出す悲しむべき事件を發生した。

 一方ユダヤ人の力を入れる國際的の組織は、日本の知識階級にも迎合され、ここにフリーメーソンの外廓機関を生み日本國際ロータリー倶楽部となり、日本人を巧みに操って諜報機関國内與論攪乱に資し、(眞正直にも米國本部からの指令を受けて米國の為に情報を集めた日本人もあった)

 しかもこの米國のメーソン結社員の提唱によるロータリ倶楽部には、日本にても上流階級、資産階級の人々が好んで入会し却って外人と交際する機関として社会に名誉の如く思はしむる一種の社交機関となったのである。
  
 かくて 今次近衛内閣の辞職についても、日本國民はその当日に至るまでこれを感知せざるに反し、ユダヤ人の経営する某外國通信は、すでにーケ月前、しかも時間をも明示して之と報じていた事實を、我等はいかに考へるべきであらうか?

 
 さらに日本國民に対するユダヤの三S政策(セツクス、スクリーン、スポーツ)は、青年男女の堕落誘惑となり、
所謂『文明開化』制度によるユダヤ化は、両親への反抗、道徳破壊、家庭生活否認、自由恋愛、これ等は和製西洋人の如き『新しき女』なるものを作り、男女関係の秘密を魅力的に 露骨に実物教育し、

米國リンゼー判事の『試験結婚」は結婚前の肉体的交渉を慫慂して、処女性破壊による家族制度の便覧を目的とし、
先進文化國と言はれるフランス首相(ユダヤ人)レオン・ブルムは『幸細なる結婚』の著書を發表して(我園では無節操な夫人公論が拐載して發禁処分となった)、
彼は結婚前の処女性放棄を奨励し、その為には近親間の交渉さへ認るをいふのであり、
これ等悪の華の誘惑は、日本國内の社会秩序の攪乱を目的とするものであった。

 
 かのアンドレ・モオロアの『フランス破れたり』の作品は、その底にはユダヤ人としての彼の救ひ難いニヒリズムの反戰的否定観が色こく覗はれるにもかゝわらず、フランスの没落が、その頽廃性において内部的に必然的であったかを物語るものである。

 『大衆が考へることのないやうにする偽に、彼等の頭を遊戯や、娯楽により、情慾と遊惑により、健全なる思索から外(そ)らさん』とするユダヤの政策は、ユダヤ人によつて見せられる我國の外国映画の影響に見らるる如く、また外國映画の焼直しの多き日本映画、日本レヴユー(レヴユーのサイン狂を産出する事実の如きは、建物までユダヤ式建築である)によって、ユダヤの個人主義、拝金主義、淳風美俗破壊宣伝に協力する、幾多の植民地的人間を製造し、それはスポーツにも於いても、純眞なるべき青年を英雄に作り上げ、其の人気を利用して悪風を蔓延させんとするのであつた。

 我々には最早これ以上尚ユダヤ問題を具体的に説明することは許されない。しかし乍ら特に日本國民の注意を喚起したいことは、ユダヤ人は日本人を軽蔑しきって公然とかう言っていることである。


 『最近日本に於いて、漸くユダヤ問題が論じられるのであるが、我々はこれについては安心しきつている。日本國内にては、いまだ一般大衆はこれについて盲目にされているし、為政者も単に我々全然問題にしていない連中か、或は我々を利用せんと簡単に考へているもの、また極度に我々を恐怖しているもの、他は自ら我々の手足となって踊る連中に過ぎない。


 皆彼等は一様に色盲であり、何等我々の核心に触れているものはない。が、 若し一度び、我々の考へていることがこの國で行使されない時は、我々は必要に応じて幾多のテロ手段にも訴へることが出来るのである。いづれにせよ、我々は現在の日本の現状にては怖るるべきき何者も存在していない。』と。

 

ニ ユダヤ問題とは如何なることか  
ユダヤ精紳の全真髄と言はれるタルムード(ユダヤ聖書)の中には、
1 神より生れたるは唯だユダヤ人のみ、其他の人類は悪魔の子なり。

2 永久に生存する価値あるものは、一人ユダヤ人のみにして、他の人類は驢馬にも如かず。

3 ユダヤ人は人類と名づくる権利あるも、不浄の神より生じたる非ユダヤ人は豚と命名せんのみ。


4 エホバ(上帝は、非ユダヤ人を憎み給ふ程、ロバや犬の如きものを憎み給はす。


5 非ユダヤ人が善事を行ひ、慈善を施さば、之を罪と認め彼等を呪ふべし、之れ彼等は誇らんが為にかかる行ひを為すが故なり。

6 我等はいかなる援助も非ユダヤ人に乞ふべからず。
 我等の利益の為には彼等に害を與ふべし。非ユダヤ人は地上に在る幸福を占むる権利なし。なぜならば彼等は唯だ動物なればなり。動物を放逐し殺戮するごとく、我等は非ユダヤ人を遂に之を殺し、又彼等の財物を利用し得るものなり。
 即ちユダヤ人ならざるものの所有物は我等の紛失したるものにして実際の所有者はユダヤ人なるが故に、ユダヤ人は先づ第一に之を所有せざるべからず。


7 
もし非ユダヤ人が、ユダヤ人より些細なるものを盗むときは、之を死刑に処するは当然なり。然れどもユダヤ人は欲する儘に非ユダヤ人の所有物を奪ふも自由なり。
 是れ 『汝の隣人に悪を施す勿れ』とあるも、特に『非ユダヤ人に悪を施す勿れ』と明記しあらざればなり。
もし非ユダヤ人にして穴に墜ちるものあるも、之を引きあぐるに及ばず。此の穴に楷梯あらば之を只除けよ。もし傍らに石あらば、拾ひてこれを穴に投ぜよ。

8 非ユダヤ人の財産を管理することはユダヤ人の権利なり。
 同じくユダヤ入は非ユダヤ人を殺生する権利を有す。『殺害する勿れ』とは、實はヘブライの子なるユダヤ人を指すものにして非ユダヤ人を意味するものにあらす。而してこれを行ふには、責任上の危険少なき時を好しとす。


9 非ユダヤ人を殺害するには、彼等の中最も高等なるものを選ぶべし。
非ユダヤ人の生命は我等の掌中にあり。特に彼等の黄金は我等の所有物なり。

10 非ユダヤ人の血を流すものは、エホバの神に生贄を捧ぐる者なり。

11 故意にユダヤ人を殺害せる非ユダヤ人は恰も全世界を減亡せしめたる如き罪あり。

 かくして彼等は所謂選民主義をとなへ正教一致の主義をとり、ユダヤ民族だけが上帝の特寵を受けているとなすのであり、その本國の没落以後は全世界を家として、國際主義を 奉じ、一切の國際開係、國際専業、國際活動、國際投資は、悉くユグヤ人の利害を中心としたものであつた。
 かくて、ユダヤの世界征服は、必然に全世界の経済獨占の線に進み、ユダヤ財閥は世界最大の超國家的金権となった。

 かくしてこの世界最大の金力を擁して、全世界の生産者と、全世界の消費者の中間に立って、需要供給を操り、相場を操り、為替を操りつつ、全世界の生産者と全世界の消費者とを苦しめているのである。其上、彼等は資金をもって言論出版界を支配し、彼等の不利益と目さるる述作は、闇から闇へと消減する。


 同時に欧米の出版界を支配している彼等は、勝手気儘な宣伝を自由に行ひ、積極的に捏造された逆宣伝を行ふも、あやしむには足りないのである。

 しかも今日、
全世界の金融を支配し、石油を支配し、金銀銅其の他の鉱物を支配し、
通信機関、娯楽機関、言論機関、及、各種の國際的機関と事業は、
彼等が國際聯盟を完全に支配している
如く支配している時、彼等の世界征服、國闘際陰謀は決して夢物語りではなく(日本が存在しなかったならば)或は実現可能性の問題なのである。

 
 かくて彼等の活動はその両建主義により、反封と賛成、否定と肯定、親善と排斥、戰争と不和、共産革命主義と資本主義の実行により、巧みに外間の耳目を欺き、敵の裏を掻く特殊の型を用ひているのである。

 かくして國々の内部に分裂を導き、不和を起し、革命を發生させることを目的とし、或は思想をもってこの方向に導き、社会の上層と下層、 政府と民間、資本と労働とを対立させ、両者の思想を極端な一方向に傾けしめるのである。

 
 これは和を以て貴しとなす我國とは全く反対の立場をとるものである。かくて闘争の為の闘争、思想の為の思想、學問の為の學問、科學の為の科學となり、人間の喜ぶ極端と誇張を利用して、経済上の労働価値説、唯物論、反宗数といふ極端なものを説き立て、かくて全宣伝機関を挙げてこれを宣伝するのである。

 このためには、彼等はその宗数よりして金融主義であり、金力の信者である。
 ユダヤの異民(ゴイ)征服に曰く『黄金を所有すること、その黄金はあらゆるものを請求することが出来る)』と信じている。かくて金力高能の標準は、一切のものを金力の一点から解決せんとし、金力以上の一切の力、個人の信仰、國家の権力、家族の団結の一切を破壊せんと工作する。

ここに、『大勢力の新聞紙 』の獲得となり、言論機関を支配し、自由主義、社会主義の鼓吹となり、現状打破を叫び、白を黒にし、物質を精神の上にというふうに、価値の転倒を試みて、時代思想の混乱を招来せんとする。

 革命は戰争であり、戰争は革命である。
彼等は戰争を作成する。
国籍なき彼等には戰争は一向に痛傷を感じない
ものであり、これにより、自由に大胆に、巧みに軍需品、或は禁制品を扱ひ、その売買によって莫大な利益を得るのである。
 かくて戰争が終れば、貴族に列せられ、栄爵は授けられ、議員となり、大學教授となり、大都市の市長となること思ひのまゝである。

 しかも戦後ともなれば、各國共戦後の復興事業が盛んになり、反面國庫は窮乏を告げているので、國債の發行によって、即ち割引と価格の釣上げによって、巨利を博する。
 戰争は必然に、物価の変動を誘起し、通貨の膨脹を發生物資の動きに激變を見せる。この場合最も有利の地位に立つものはユダヤ人であり、その國際的活動は殆ど獨占的な勢力を揮ふに至るのである。

 かくてユダヤ人は常に革命的であり、戰争挑發的であり、
彼等は人間活動の殆んど如何なる分野に於いても革命的
である。
革命を熱心に鼓吹し、その革命の種類の如何を問はす、
その革命の成功、不成功に拘らず、
革命による生活上、思想上の動揺は、常に彼等を利益する
のである。

 ユダヤ學の奥義書『タルムード』には 『戰争は、その参加の時よりも、講和の際に注意せよ。戰争の勝敗は、講和会議に於て決定されるものなり』と書いてあり、彼等は機会ある毎にこれを実行して来ているのである。

 
 かくして彼等は
『戰争』を右手に掲げては、超大資本家としてその金権を益々増大し、
『平和』の花束を左手に捧げては『戰争否定』と反戦思想を、
自由、平等、平和、人道の名に於いて鼓吹し、
裏に廻っては、社会主義、無政府主義、共産主義を縦横無尽に宣伝して、
革命、而して戰争への種を播く
のである。


 かくて彼等の人生観は、人間性の悪である、少くとも人間を悪と仮定して、その上に一切
の工作を進める。ユダヤ人問題は全世界に亘って、人間生活の一切を、裏から動かしている秘密力の問題であり、
その秘密力の一面が、経済上の國際的活動にあることも異論のないところであり、
かくて二千年楽、人生の裏道邪道を歩き権謀術数の限りを盡して、世界把握を宗教的信念をもつて基礎中けられてきているユダヤ民族に、特に徹底した個人主義、左翼系のユダヤ人は、今やその全智全能を盡して日本抗勢に暗跳蠢動し ているのである。

 かくて世界の國際情勢は、時局の緊迫と共に政治・外交、経済悉く、ユダヤ民族の動きを計算せずしては、割り切り得ない幾多の矛盾に直面している現情であり。現在の対米問題も、このユダヤ問題を通して見る時、ありありとその内幕がうなずけるのである。
  

三 世界経済の正體        

 世界史に於ける大革命は、殆ど総てユダヤ人による世界経済獨裁への計画の実行に関係するものであった。 
かのコロンブスのアメリカ航行も、ユダヤ人マルコ・ポーロの黄金の島ジ・パング、日本への誘導によるユダヤ人コロンブスの獨占欲に出でしものである。

 イギリスのクロムウエル革命は、イギリスの王窒及び貴族等の所有する、スベイン無敵艦隊撃破後の巨額の経済力を、次にアメリカの獨立は、完全にアメリカ・ユダヤ人の獨立計画であり、獨立以後イギリスとの経済関係は、獨立前より遥かに密接化し、強化するのである。

 またフランス革命は、明かにプルボン王朝及び貴族等の獨占せる莫大なろフランスの富をユダヤ人等が或は唯物思想により、フランスの宗数國家思想を破壊し、或はその物資をユダヤ人が買収することによる、人偽的物資欠乏による革命をもって、そのフランス人よりその富の奪取にあった。

 かくて第三階級の自由解放を名として、
革命の眞の勝利者はナポレオンに勝てるユダヤ人ロスチャイルドの財閥であった。

 これ以後、19世紀を通じ、資本主義の發展は全くユダヤ入による資本の蓄積であり、ここにその階級闘争は、國家財産の自己破滅を計画するものであり、ユダヤ人マルクスは、
必然に國家否定としてのインターナショナリズムを最高の目的として強調し、
ここに國富は悉くユグヤ財閥に集注される
のである。

 かのアメリカ南北戰争は、奴隷解放の正義の戰争の如く称しながら、実はユダヤ人リンカーンが北方の資本力をもって南部の農業経済力を、自らのユダヤ経済圏に編入せんとする、計画に外ならなかったのである。

 かくして第一次世界大戰を契機として、ロシア及ドイツの王権は否定され、その莫大なる財産はすべてユダヤ財閥のために奪取せられたのである。

 そのロシアの赤化共産革命は、一見、資本集中、金融獨裁に反封する如く見せ乍ら、
実は分散せし私有財産をすべて没収し、
それを國家財産に編入せる如く見せつつ、
それは背後のユダヤヤ財閥に吸集された
のであった。

 かくして今日の世界経済組織が、無数の誤謬と矛盾に満ちていることは、瞭々として 何人も疑はないところである。然らば凡ゆる角度から、人間生活を制限しつつあるこの経済組織は、一体何者の企画になるのであらうか? 


 この事態の根本を極めざる観念的な政治家、或は経済人或は経済問題を多少取り扱っているといふだけで、自分は経済學者だと自任している著述家、『世界中のユグヤ人を敵とすれば、日本の貿易は意外な辺で益々困難を醸し、将来満支経営上外資輸入などといふ事も阻害されて望薄となるといふ点も考
慮に加へねばならぬ、我々の必要』と麻痺せる人々がどれ程困窮打破に努力しても、
 それは『誰か他人が損をしなければ、利などあり得ない』と昔から熱知している國際的ユダヤ人にとっては、彼等の思ふまゝに彼らの政略を完成させてくれるこれ等の人を蔭で唆っているのである。

 即ち現状のまゝの打開などといふことは到底出来得る相談ではないのである。


  世界の人々は、何故にこの世界経済の正體を究めやうとしないのであらうか? 此の世界経済が持つ特色を摘出して、之に吟味検討のメスを入れ、その秘密を暴露して、最後の止めを刺すことは、極めて容易なる事柄である。


 然るに人々は、滑稽にも、自分達を全面的に圧迫しつつある現下の、世界経済組織に対して悪意を持たないのみか、寧ろそれを人類を今日の高き生活程度にまで、引き上げて呉れた謝思すべき形態であるかの如き、不可解なる心情の虜となって、現状を肯定し、眞相を隠蔽する。

 何が不思議といってこの位、不思議なことはないのである。

 我々は明白に今日の世界経済なるものは、國際ユダヤ人が建設したものであり、かくして一切の販売がこの第三者たる國際ユダヤ人の下に隷属し、彼等はこの世界経済を永遠に獨占する為に、愈々不自然なる貿易を促進し、世界人類に対する神の恩恵を破壊し、アジアの民を奴隷となしつつ、益々不合理なる経済取引を展開し、奨励することに懸命となって、あらゆる謀略を注いでいるのを知るであらう。

 かつて日本に対するユダヤ的世界政策が、日本の強力なる意志の發動によって、著しく 動揺するや、ここに全世界をすぐって、ワシントン條約、九ケ國條約、國際聯盟條約、四ケ國條約、1933年の世界経済会議、これらはすべて打倒日本の道に密接な関係があるのである。

 しかるに支那事變の發展は、ユダヤ金権をして、遂にいまやアジア大平洋風において、いかに彼等が経済力を獨占するかによって、彼等の世界支配的運命は決せんとする現実段階に達した。

 しかも、この問題の地点こそ、今正に日本國経済圏の中に必然に包含、再編成さるべ き領域なるを知るならば、ユダヤの生死も、日本経済力が、この世界経済の中枢地帯を、いかに処理するかによって、決定さるべきかを知るであらう。

 
 このことを知悉するが故に、今彼等の謀略は、日本上下のあらゆる地点より張りめぐらされているのである。
 今日まで世界経済史を通じ、最大の物質的地盤であった、アジア太平洋圏の植民地解放による、眞の皇道統治の下にこそ、始めて人類の世界経済は、不合理極まる状態から、全面的に脱却することが出来るのである。

 これ以外のいかなる原理方法をもってするも、すべてはユダヤ的世界経済機構の中の一變形に過ぎないであらう。かくて日本経済は、この世界経済獨占力と、決定的なる総力戦に進まんとする段階に入ったのである。今やアジア民族が眞に何を熱烈に要求しつつあるかを知らねばならない。

 支那人、佛印の安南人、海峡植民地のマレー人、フイリツピンの土民、さらにビルマ人、南洋一帯の無数の南洋人、かの莫大なる印度人、それ等アジアの民族と解放と救済のための戰争こそが、眞に我が皇軍の聖戰の大目的であり、これこそが東亜広域経済圏の総力戰 的確保に外ならないのである。

 数百年の西欧の植民地搾取に対するアジア解放こそ、世界経済は始めてその公正なる経営、秩序が建設実現されるのであり、帝国主義的侵略にあらざる皇道による経済的發展こそ、八紘一宇の皇道日本への還元、帰一であり、これこそ、『アジア人の為のアジア』を建設する基盤を構成する唯一の日本アジア太平洋圏の統一的復興であり、とこに東亜自給の喜ばしき、一切の搾取なき生活圏が確立されるのであらう。


 しかもユダヤ世界経済が、神の秩序を破壊するがごとく、日本皇道経済は、神の機会に再び機会を與へるであろう。しかるに今や日本國内には、なお絶えざるユダヤ世界支配力の一翼として夜の闇の中にうごめく第5列の暗影がある。

 日本民族は、全アジアの精神をもつ民族である。日本の行動は今や断じて他力に依拠するものであってはならない。それはあくまで自己の責任を中心とするものでなければならない。

 神の信仰は全アジアの純粋な精神である。この皇道日本精神の根源力からのみ、世界光被の新しき平和は、ここに始めて人類の永遠の光となるであろう。