パル判事の碑文(靖国神社)
東條英機 宣誓供述書
對佛印泰施策要綱
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以上述べました日米交渉よりは日時に於ては少し遡りますが、ここに佛印及泰との關係を説明いたします。
1941年(昭和16年)1月30日の大本營及政府連絡會議に於て「對佛印泰施策要綱」といふものを決定しました。
(辯護側證第二八一二號本文書記入の日附は上奏の月日を記入せるものであります。法廷證一一〇三、及一三〇三參照)
これは後日我國が爲した對佛印間の居中調停、
佛印との保障及政治的了解及經濟協定の基礎を爲すものであります。
右要綱の内には軍事的緊張關係の事も書いてありますが、
此部分は情勢の緩和のため實行するに至らなかつたのであります。
1941年(昭和16年)7月下旬の南部佛印進駐は同年6月25日の決定に因るものでありまして、
今ここに陳述する1月30日の施策要綱に依るのではありませぬ。
從て南部佛印進駐の事は今ここには陳べませぬ。
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右對佛印泰施策要綱は統帥部の提案であります。
自分は無論陸軍大臣として之に參與しました。
其の内容は本文に在る通りであります。
而して其の目的とする所は、帝國の自存自衞のため佛印及泰に對し軍事政治、
經濟の緊密不離の關係を設定するにありました。
本件に關する外交交渉は專ら外相に依り取り運ばれましたので詳細は承知して居りませんが
此の當時の事情は概ね次の如くであつたと承知して居ります。
(一)日本は1940年(昭和15年)6月12日、
日泰間の友好和親條約を締結し(證五一三)日泰間の緊密化に努力して來ましたが、
泰國内には英國の勢力の強きものが存在しております。
(二)日本と佛印の間には松岡「アンリー」協定の結果表面は親善の關係に在り、
なほ日佛印の交渉も逐次具體化したのであります。
しかし、佛印の内部には種々錯綜した事情がありました。
第一佛印内には「ヴイシー」政權の勢力と「ドゴール」派の勢力とが入亂れて居り
「フランス」本國の降伏後「フランス」の勢力が弱くなるにつれ米、英の示唆により動くような事情も生じましたため、
佛印政廳は我國に對し不即不離の態度をとるのみでなく、
時には反日の傾向をさへ示したのであります。
(三)1940年(昭和15年)11月以來泰國が佛印に對し失地囘復の要求を爲したるに端を發し、
泰、佛印間の國境紛爭は1941年(昭和16年)に至り逐次擴大し第三國の調停を要する状態となりました。
「イギリス」は此の調停を爲すべく暗躍を始めましたが
當時は「イギリス」と「フランス」本國とは國交斷絶の状態でありましたから是亦適當の資格者ではありません。
(四)東亞安定のため支那事變遂行中の日本はその自存自衞のためにも一刻も早く泰、佛印の平和を希望せざるを得ません。
以上の如き各種の事情が此の要綱を必要とした所以であります。
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此の要綱の狙いは二つあります。
その一つは泰、佛印間の居中調停を爲すといふことであります。
その二は此の兩國に對し第三國との間に我國に對する一切の非友誼的協定を爲さしめないといふことであります。
居中調停は1941年(昭和16年)1月中旬にその申出を爲し、兩國は之を受諾し、
同年2月7日より東京に於て調停の會合を開き3月11日に圓滿に調停の成立を見、
之に基いて5月9日には泰佛印間の平和條約成立し(法廷證四七)、
引續き現地に於て新なる國境確定が行はれました。
泰は當初は「カンボヂヤ」を含む廣大な地區の要求を致しましたが
我國は之を調停し彼條約通りの協定に落着かせたのであります。
第二の我國に對する非友誼的な協約を爲さずとの目的に關しては
右と同時に松岡外相の手で行はれ5月9日の日佛印間及日泰間の保障及諒解の議定書となつたのであります。
(證六四七中に在り)此の間の外交交渉については自分は關與致して居りません。
南部佛印進駐問題
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1940年(昭和15年)9月我國は佛國との間に自由なる立場に於ける交渉を遂げ北部佛印に駐兵したことは前に述べた通りであります。
爾來北部佛印に於ては暫く平靜を保ちましたが、
1941年(昭和16年)に入り南方の情勢は次第に急迫を告げ、
我國は佛國との間に共同防衞の議を進め、
1941年(昭和16年)7月21日にはその合意が成立しました。
之に基き現地に於て細則の交渉を爲し此の交渉も同月23日には成立し、
之に基いて一部の軍隊は28日に、主力は29日に進駐を開始したのであります。
尤も議定書は同月29日に批准せられました。
以上はその經過の大略であります。
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右の日、佛印共同防衞議定書の締結に至る迄の事情に關し陳述いたします。
之は1941年(昭和16年)6月25日の南方施策促進に關する件といふ連絡會議決定に基くものであります。
此の決定は源を同年1月30日の連絡會議決定である、前記「對佛印泰施策要綱」に發して居るのであります。
その當時は佛印特定地點に航空及船舶基地の設定及之が維持のため所要機關の派遣を企圖したのでありましたが
情勢が緩和致しましたから、之を差控へることにしました。
然るにその後又情勢が變化し、わけても蘭印との通商交渉は6月10日頃には決裂状態にあることが判明しました。
そこで同年6月13日の連絡會議の決定で「南方施策促進に關する件」を議定しましたが
松岡外相の要望で一時之を延期し之を同月25日に持越したのであります。
(證一三〇六號)
斯樣な次第でありますから南部佛印進駐のことは6月22日の獨「ソ」開戰よりも10日以前に決心せられたもので決して獨「ソ」の開戰を契機として考へられたものではありません。
此の「南方施策促進に關する件」は統帥部の切なる要望に基いたもので私は陸軍大臣として之に關與致しました。
此の決定の實行に關する外交は松岡外相が事に當り 又7月18日第三次近衞内閣となつてからは、
豐田外相がその局に當ったものであります。
本交渉に當り近衞内閣總理大臣より佛國元首「ペタン」氏に對し特に書翰を以て
佛國印度支那に對する佛國の主權及領土の尊重を確約すべき意向を表明致して居ります
(辯護側文書二八一四号)。
此の書簡中の保障は更に兩國交換文中に繰り返されて居ります。
(法廷證六七四-A英文記録七〇六三頁)
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南方施策促進に關する件の内容は本文自身が之を物語るでありませう。
その要點は凡そ三つあります。
(一)東亞の安定並に領土の防衞を目的とする日佛印間軍事結合關係の設定
(二)その實行は外交交渉を以て目的の達成を圖ること
(三)佛印側が之に應ぜざる時は武力をもつてその貫徹を圖る。
從って之がためには軍隊派遣の準備に着手するといふことであります。
然しその實行に當っては後段に述ぶる如くに極めて圓滑に進行致し武力は行使せずにすみました。
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右に基いて我國と佛印の間に決定しましたのが日佛印共同防衞議定書であります。
(法廷證六五一號)
此議定書の要點は四つあります。
(一)は佛印の安全が脅威せらるゝ場合には日本國が東亞に於ける一般的靜謐及日本の安全が危機に曝されたりと認めること、
(二)佛印の權利利益特に佛印の領土保全及之に對する佛蘭西の主權の尊重を約すること、
(三)「フランス」は佛印に關し第三國との間に我國に非友誼的な約束を爲さざること、
(四)日佛印間に佛印の共同防衞のための軍事的協力を爲すこと。
但し此の軍事上の協力の約束は之を必要とする理由の存續する間に限るといふことであります。
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然らば何故に斯る措置を爲す必要があつたかと申しますに、それには凡そ五つの理由があります。
その一つは支那事變を急速に解決するの必要から重慶と米、英、蘭の提携を南方に於て分斷すること、
その二は米英蘭の南方地域に於ける戰備の擴大、
對日包圍圏の結成、
米國内に於ける戰爭諸準備並に軍備の擴張、
米首腦者の各種の機會に於ける對日壓迫的の言動、
三つは前二項に關聯して對日経済壓迫の加重、日本の生存上必要なる物資の入手妨害、
四つは米英側の佛印、泰に對する對日離反の策動、佛印、泰の動向に敵性を認めらるること、
五は蘭印との通商會談の決裂並に蘭印外相の挑戰的言動等であります。
以上の理由、特に對日包圍陣構成上、
佛印は重要な地域であるから何時米英側から同地域進駐が行はれないとは言へないのであって
日本としては之に對し自衞上の措置を講ずる必要を感じたのであります。
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右、日佛印共同防衞を必要とした事情は此の事件につき重大な關係を有する點と考へますから、
右の五種の事由につき一々、事實に基いて簡單なる説明を加へたいと存じます。
本材料は當時私が、大本營、陸海軍省、外務省其他より受けたる情報又は當時の新聞電報、外国放送等に依り承知しありしものを記憶を喚起し蒐録せるものであります。
(辯護側證第二九二三)
先づ第一の米英側の重慶に對する支援の強化につき私の當時得て居った数種の報道を擧げますれば
(1)1940年(昭和15年)7月にはハル國務長官は
英國の「ビルマルート」經由援蒋物資禁止法につき反対の意見を表明して居ります。
(2)1940年(昭和15年)10月には「ルーズヴエルト」大統領は「デイトン」に於て
國防のため英國及重慶政權を援助する旨の演説を致しました。
(3)1940年(昭和15年)11月には米國は重慶政權に一億弗の借款を供與する旨發表いたしました。
(4)1940年(昭和15年)12月29日には「ルーズヴエルト」大統領は
三國同盟の排撃並に民主主義國家のため米國を兵器廠と化する旨の爐邊談話を放送しました。
(5)1940年(昭和15年)12月30日には「モーゲンソー」財務長官は
重慶及「ギリシヤ」に武器貸與の用意ある旨を演説して居ります。
1941年(昭和16年)に入り此種の發表は其數を加へ又益々露骨となって來ました。
(6)1941年(昭和16年)5月「クラケツト」准將一行は蒋軍援助のため重慶に到着しました。
(7) 1941年(昭和16年)2月には「ノツクス」海軍長官は
重慶政府は米國飛行機200臺購入の手續を了したる旨を発表しました。
(8) 同海軍長官は1941年(昭和16年)5月には中立法に反對の旨を表明致して居ります。
(9) その翌日には 「スチムソン」陸軍長官も同様の聲明を致しました。
斯る情勢に於ては支那事變の迅速解決を望んで居った我國としては
蒋政權に對し直接壓迫を加ふるのみならず
佛印及泰よりする援助を遮斷し兩者の關係を分斷する必要がありました。
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第二の米、英、蘭の南方に於ける戰備強化については當時私は次の報道を得て居りました。
(1) 米國は1940年(昭和15年)7月より1941年(昭和16年)5月迄の間には
330億弗以上の巨額の軍備の擴張を爲したるものと觀察せられました。
(2) 此當時米英側の一般戰備並にその南方諸地域に於ける聯携は益々緊密を加へ活氣を呈するに至りました。
即ち1940年(昭和15年)8月には
「ノツクス」海軍長官は「アラスカ」第13海軍區に新根據地を建設する旨公表したとの情報が入りました。
(3) 同年9月には太平洋に於ける米國属領の軍事施設工事費800萬弗の内譯が公表せられました。
(4) 同年12月には米國は51ケ所の新飛行場建設及改善費4000萬弗の支出を
「スチムソン」「ノツクス」及「ジヨオンズ」の陸、海、財各長官が決定したと傳へられました。
此等は米國側が日本を目標とした戰爭諸準備並に軍備擴張でありました。
1940年(昭和15年)9月には日佛印關係につき國務省首腦部は協議し
同方面の現状維持を主張する旨の聲明が發せられました。
同年7月8日には 「ヤーネル」提督はUP通信社を通じ對日強硬論を發表して居ります。
同年10月には「ノツクス」海軍長官は「ワシントン」に於て三國同盟の挑發に應ずる用意ありと演説しました。
又同年9月には米海軍省は1940年(昭和15年)度の米海軍の根本政策は
兩洋艦隊建設と航空強化の二點にありと強調致しました。
1940年(昭和15年)11月 「ラモント」氏は
對日壓迫強化の場合財界は之に協力し支持するであらうと演説致して居ります。
同年同月11日休戰紀念日に於ては「ノツクス」海軍長官は
行動を以て全體主義に答へんと強調したりとの報を得て居ります。
同年同月英國の「イーデン」外相は下院に於て對日非協力の演説を致しました。
更に1941年(昭和16年)に入り5月27日に 「ルーズヴエルト」大統領は無制限非常時状態を宣言いたしました。
これより先1940年(昭和15年)10月8日には米國政府は東亞在住の婦女子の引上げを勸告して居ります。
上海在住の米國婦女子140名は同月中上海を發し本國に向かひました。
米本國では國務省は米人の極東向け旅券發給を停止したのであります。
同じ1940年(昭和15年)10月19日に日本名古屋市にある米國領事館は閉鎖しました。
以上は當時陸軍大臣たる私に報告せられたる事實の一端であります。
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第三の經濟壓迫の加重、日本の生存上必要なる物資の獲得の妨害につき當時發生したことを陳べます。
1939年(昭和14年)7月26日 「アメリカ」の我國との通商航海條約廢棄通告以來
米國の我國に對する經濟壓迫は日々に甚だしきを加へて居ります。
その事實中、僅かばかりを記憶に依り陳述致しますれば、
1940年(昭和15年)7月には 「ルーズヴエルト」大統領は
屑鐵、石油等を禁輸品目に追加する旨を發表致しました。
米國政府は同年7月末日に翌8月1日より
飛行機用「ガソリン」の西半球外への輸出禁止を行ふ旨發表いたして居ります。
同年10月初旬には 「ルーズヴエルト」大統領は屑鐵の輸出制限令を發しました。
以上のうち殊に屑鐵の我國への輸出制限は
當時の鐵材不足の状態と我國に行はれた製鐵方法に鑑み我朝野に重大な衝動を與へたのであります。
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第四の米英側の佛印及泰に對する對日離反の策動及佛印泰に敵性動向ありと認めた事由の二、三を申上げますれば、
泰、佛印の要人は1940年(昭和15年)以來「シンガポール」に在る英國勢力と聯絡しつつあるとの情報が頻々として入りました。
その結果日本の生存に必要なる米及「ゴム」を此等の地區に於て買取ることの防碍が行はれたのであります。
日本の食糧事情としては當時(1941年、即昭和16年頃にあつては)毎年約150萬噸(日本の量目にて900萬石)の米を佛印及泰より輸入する必要がありました。
此等の事情のため日佛印の間に
1941年(昭和16年)5月6日に經濟協定を結んで70萬噸の米の入手を契約したのでありましたが
佛印は契約成立後1ケ月を經過せざる6月に協定に基く同月分契約量10萬噸を5萬噸に半減方申出て來ました。
日本としては止むなく之を承諾しましたところ
7、8月分に付ても亦契約量の半減を申出るといふ始末であります。
泰に於ては英國は1940年(昭和15年)末に
泰「ライス」會社に對して「シンガポール」向け泰米60六十萬噸といふ大量の發註を爲し
日本が泰に於ける米の取得を妨碍致しました。
「ゴム」に付ては佛印の「ゴム」の年産は約6萬噸であります。
その中日本は僅かに1萬5千噸を米弗拂で入手して居たのでありますが、
1941年(昭和16年)6月中旬米國は佛印の「ハノイ」領事に對し
佛印生産ゴムの最大量の買付を命じ日本の「ゴム」取得を妨碍し又、
英國はその屬領に對し1941年(昭和16年)5月中旬日本及圓ブロツク向け「ゴム」の全面的禁止を行ひました。
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第五の蘭印との經濟會談の決裂の事由は次の通りであります。
1940年(昭和15年)9月以來我國は蘭印との交渉に全力を盡くしました。
當時石油が米英より輸入を制限せられたため我國としては
之を蘭印より輸入することを唯一の方法と考へ其の成立を望んだのであります。
然るに蘭印の方も敵性を帶び來り6月10日頃には事實上決裂の状態に陷り
7月17日にはその聲明を爲すに至ったのであります。
「オランダ」外相は5月上旬「バタビヤ」に於て
蘭印は挑戰に對しては何時にても應戰の用意ありと挑撥的言辭を弄して居ります。
以上のような譯で當時日本は重大なる時期に際會しました。
日本の自存は脅威せられ且以上のような情勢の下で
統帥部の切なる要望に基き6月25日に右南方施策促進に關する件(證第一三〇六號)が決定せられ
之に基く措置をとるに至つたのであります。
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日本政府と「フランス」政府との間には7月21日正午(「フランス」時間)共同防衞の諒解が成立し、
7月22日午前中に交換公文(法廷證六四七號ノA)が交換せられ、
兩國政府より之を現地に通報し現地に於てはその翌23日細目の協定が成立し、
海南島三亞に集結して居った部隊にはその日進駐の命令が發せられ、
25日三亞を出發しました。
26日には之を公表しました。
三亞を出發した部隊の一部は28日に「ナトラン」に、
29日主力は「サンヂヤツク」に極めて平穩裡に上陸を開始したのであります。
日本政府と「ヴイシー」政府との間の議定書は日佛印共同防衞議定書(證六五一)は29日調印を見て居ります。
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「フランス」政府との交渉につき我方が「ドイツ」政府に斡旋を求めたことは事實でありますが、
「ドイツ」外相は此の斡旋を拒絶して來ました。
從って起訴状にある如く「ドイツ」側を經て「フランス」を壓迫したといふ事實はありません。
又起訴状は、「ヴイシー」政府を強制して不法武力を行使したと申しますが、
しかし、日本軍が進駐の準備として三亞に集結する以前に既に「フランス」政府と日本政府との交渉は成立して居りました。
又、前に述べます如く、
此の措置は 「ドイツ」の對「ソ」攻撃と策應したといふ事實もないのであります。
日本が南方に進出したのは止むを得ざる防衞的措置であって
断じて米、英、蘭に對する侵略的基地を準備したのではありません。
1941年(昭和16年)12月7日の米國大統領よりの親電(法廷證一二四五號J)に依れば
「更に本年春及夏 「ヴイシー」政府は佛印の共同防衞のため更に日本軍を南部佛印に入れることを許可した。
但し印度支那に對して何等攻撃を加へられなかつたこと並にその計畫もなかったことは確實であると信ずる」と
述べられて居ります。
乃ち佛印に對しては攻撃を行った事もなく攻撃を計畫した事もなかったと断言し得ると信じます。
當時日本の統帥部も政府も米國が全面的經濟斷交を爲すものとは考へて居りませんでした。
即ち日米交渉は依然繼續し交渉に依り更に打開の道あるものと思ったのであります。
何故なれば全面的經濟斷交といふものは近代に於ては經濟的戰爭と同義のものであるからであります。
又檢察側は南部佛印進駐を以て米英への侵略的基地を設けるものであると斷定致して居ります。
之は誣告であります。
南部佛印に設けた航空基地が南を向いて居ることはその通りでありますが、
南方を向いて居るといふことが南方に對する攻撃を意味するものではありません。
之は南方に向かっての防禦のための航空基地であります。
そのことは大本營が4月上旬決定した對南方施策に關する基本方針(證一三〇五)に依つても明かであります。
これには我國の南進が佛印及泰を限度として居ります。
然も平和的手段に依り目的を達せんとしたものであります。
〔続く〕
東條秀樹 「宣誓供述書」(全文) その6 独ソ開戦に伴う日本の態度決定