それは旅の話で始まる。
D・H・ロレンスは旅の放蕩を繰り返した挙句、ニューメキシコの乾いた不毛の高原へ辿り着く。
そこは8千年前、風の足をもってアジア大陸から移住してきた寡黙な人々が、
土地に対する独自の倫理観をもって、ひそやかに暮らす場所だった。
このアメリカ先住民の聖地にはロレンスの2年後、ユングも訪問して深い感銘を受けている。
稀代の紀行作家ブルース・チャトウィンは、オーストラリアの砂漠においてアボリジニたちの土地の精霊の声を聴く旅、ソングラインズの足跡を辿り、
ニュージャーマンシネマの巨人、ヴェルナー・ヘルツォーク(あのアマゾンの奥地の狂気のオペラ、フィツカラルド)も歩く人だ。
二人は、こう話している。
「歩くという行為の聖性について、ぼくと面とむきあって真剣に話しあうことのできた唯一の人が彼だった。
中略~ 歩行とは徳行であり、観光とは死に値する大罪だ。」
ヘルツォークは実際、死の病に瀕した恩人に会うためにミュンヘンからパリまで歩き通しているらしい。
詩人の綴る言葉のマジックに、どんどん目の前の風景が広がってゆく。
そう、その旅はパッケージされた観光とは対極にあるものだ。
詩人はこう記す。
「旅の可能性を考えない定住者に現実を変える力がないのとおなじ、定住を知らない放浪者は頽廃に沈むだけ」
風の部族ノマドのような放浪の旅に、いつまでも心地よく身を委ねているかというと、そう甘くはない。
それはアメリカに暮らすマイノリティ(先住民と混血)に対する物語へと様相を変えてゆく。
(アメリカ・インディアン、ハワイ・ミクロネシア諸島の先住民そしてチカーノと呼ばれるメキシコ系混血たち)
とりわけ興味を惹かれたのが冒頭でも触れたアメリカ・インディアンたちの土地に対する独自の帰属感だ。
地球のすべての生命にとって、そのライフスタイルを決定する第一の要因は緯度だ。
緯度が植物相を演出し、動物はそれに従がって住む場所を決める。
植物、動物、土地、水。相互に混じり合って分離することのできない生命体のモザイクが成立する。
移住者である人は、その土地のモザイクにそっと分け入り、生命の共同体からの無言の承認を得て、
はじめてその土地の住民となることができる。
アメリカ先住民の暮らしの倫理は、この論理の上に立っている。
その基本を、ひとことで言うならば、それは「土地の期待に応えること」だ。
土地の許しを得、土地の期待に応え、土地の祈りを何世代にもわたって繰り返すことで、人はその土地の一部になる。
その静謐な生活こそ、貨幣という越境する超越性に終身的な服従を誓うことで世界を征服し統合する力を得た、ヨーロッパ、ユーロアメリカと
その極東の追随者が最終的に喪失してしまった、大いなる晴朗さだ。
これは間もなく3・11から一年目を迎える私たちの、これからの生き方(本来、私たちが持っていたものかもしれない)を示唆しているように思える。
その間、まったく本を読まなかったわけではないのです。
お遍路の旅、その後の脱力の日々と読書量が確かに激減しました。
それでも本は私にとって習慣なので、お遍路の間を除いて、月3冊は読んでいたと思う。
それがすべて外れだったかと云うと、そうでもない。
読んだ本を紹介するという作業は、もう一度、それを第三者の眼で翻訳し直さなければならない。
その手間が億劫で、どうしても二の足を踏んでばかりでした。
さて、管(すが)啓次郎です。
比較文学者、詩人、翻訳家…
その文章から風景が立ち上がってくる。
なんとも官能的な文章を書く人です。
ちょっと、今までいないタイプ…
しばらく、この人の文章にハマりそうな予感。
さて、久しぶりに本の記事を載せると、びっくりするアクセス。
閲覧1000オーバーは珍しくないが、訪問400オーバーは、お遍路最中の数字以来。
そしてランキング1000位代はブログ開設以来初めて。
このgooブログは現在、1685212登録されています。
でも、この数字は最新記事によるものではありません。
日曜美術館再放送による「リアルな死の感触」への驚異的な反響による数字です。
ほっほさん、間違いなくあの頃の、あなたの文章には力があった。
のびのび書いている。
今は自分自身で手足を縛って達磨さん状態。
好い加減自分自身でがんじがらめにした縛めを解いてみたら?
朝まで、一睡もできませんでした。
その時がくるまで暫し時間をください。
待ちましょう。いつまでも。
どうせ30年間もお互いの消息が知れなかったのですから。
超高齢化社会です。我々の先には、きっと気の遠くなる時間が待ち受けていますよ。
茶飲み友達の契りを誓った仲じゃないですか(笑)
アルバム「ショー・タイム」(ライブ)
ダーク・エンド・オブ・ザ・ストリートの歌詞より
通りの突き当りの暗がりで
私たちはいつも逢う
他人の世界の物陰に隠れて
自らの罪を隠しながら
あなたと私、通りの突き当りの暗がりで
あなたと私・・・
時の流れは代償を要求するものさ
私達は奪った愛の代償を払わなければなら
ないんだ
それは罪なこと
愛は日増しに強くなるけれど・・・
今夜私たちは通りの突き当たりの暗がりで逢う
君と俺
彼らは見つけるだろう
私たちを見つけるだろう
彼らは見つけるだろう
いつの日か
君と俺、通りの突き当りの暗がりで
日が暮れて
街でばったり出会ったら
そのまま歩き続けよう
ああダーリン、泣かないで
今夜私たちは通りの突き当りの暗がりで逢う
あなたと私
この曲を聴けばあなたも今日からライの虜に
アルバム「流れ者の物語」の6曲めにも入っています。
ラース・フォン・トリアー監督
「メランコリア」
2011年カンヌ映画祭でキルスティン・ダントス
主演女優賞受賞
うつ病気質のトリアー監督がアルブレヒト・デューラが1514年に制作した銅版画四体液説における人間の4つの性格の一つ「憂鬱」をテーマにしたもので、天使が憂鬱に沈んでいく様が描かれる。トリアー監督は、カンヌ映画祭で入場拒否になったそうです。四国で上映予定は今のところなし。
ヴェルナーヘルツォーク監督とデビット・リンチ制作の「狂気の行方」を観た。
いつか、狂気と芸術について考察した文章をコメントします。
ほっほからH・Nをホッホにしたのは、ほっほさん(道化師)のブログがあるからです。
私は、ひらがな表記のほっほさんの方が好きだったので残念です。
確かに既にハンドルネームが存在するならしょうがないか。
ダークエンドオブザストリートについては、オリジナルにおて強い思い入れがあるので別に記事を設けます。
先ずは、ホッホさんの復活?に拍手。