
200回目の石鎚入山の朝は、淡々と明けていった。
まるで日々の営為を繰り返すように。
ハレやケガレといった非日常的要素を削ぎ落した
今日という一日が、また明日も訪れるであろうというルーティンワークのような。
それは身勝手な人の感情移入をさらりと受け流した、とても平凡で凪の海のような朝だった。
う~ん、私は山の神様に諭されているのだろうか?
他者や神に何かを期待してはいけない。
見返りを期待しない無償の行為、贈与こそ究極の愛であり幸せの形なのかもしれない。
ヤバい…悟り澄ました説教坊主のような言葉を吐き始めた(汗)
そう云えば、100回目の石鎚も夏至近くの、とても平凡な朝だった。
memorial day なんて、所詮は人の勝手な思い込みなんだから。
でも、がっかり(笑)
たとえ平凡でも「モルゲンローテ」、すばらしい写真です。
1210年前にも同じ朝日に合掌し神からの祝福をいただいたのでしょうか!?
「モルゲンローテ」というギフト。
魂が浄化され高揚していきます。
何でしょうね?
不思議と、こういうメモリアルな日は、何事も起こらず淡々と過ぎて行くものです。
だって人の一生の大半は、こういった何の感慨も浮かばないような日常の繰り返しなのでしょうから(笑)
石鎚入山の切っ掛けが、とんでもない非日常的体験だっただけに、
その後の思い入れが強過ぎました。
また、こちらの期待に応えるような自然現象を頻繁に垣間見続けてしまい余計に始末は悪い。
200回というマイルストーンを過ぎて、
過大な期待感も抱いていたのに、簡単に肩すかしを喰らい落胆が大きいかというと、
一日が過ぎて、不思議なくらい淡々としています。
何でしょうね?
これが年を重ねるということなのでしょうか?
最近、よく訪問して頂いているsugi-no-koさんも、いけぴーさん同様、
私と正反対のイデオロギーの人です。
でも結局、その人の信条と個人の資質は、別の問題なのでしょうね。
これは頭で考えることではなく、身体的反応だと思います。
あの朝も、泉屋のおじさんから、いけぴーさんが来ていることを聞いて、
違和感なく、すんなりと受け入れられました。
私は結局、あなた個人を嫌っているわけではない。
その背景としている狭量な偏見とシステムを嫌悪しているだけ。
正直、200回も重ねると、もういい加減区切りをつけたいと思っていました。
残念ながら、こちらの思惑を見越したような凡庸な風景でした。
う~ん、まだまだ通い続けなければならないのでしょうか?
この間、電話で話した、石井光太の新刊、「蛍の森」を、やっと入手して読んでいます。
四国遍路は究極の難民救済の辺地だった。
四国遍路1200年などという観光目当てのイヴェントとは別に、
この地に生まれた者として、深く考えたい新たなテーマです。
こちらもしんしんと粉雪舞う山里で手打ち蕎麦を頂きました
灰色の雲が流れる山頂や昨夜からの雨で地肌むき出しの登山道は魅力なくそそくさと退散
私たちは山ヤではありません
が写真ヤと呼ばせていただくならどんな状況でも形にしなければならないのですがね
皆心が折れてしまってテンション下がりまくりくり
来月牧野にいがりまさしの講演、写真教室が有ります
円
申し訳ない。
それくらい、あの朝は落胆が大きかったのです。
そうですね。
それでも一応、写真にしてしまう?
哀しい写真ヤの性(さが)です(笑)
牧野植物園でいがりまさしの写真教室ですか。
楽しみですね。
ぜひ参加してください。
1月下旬から2月上旬というと一年で一番寒い頃なのに、
なんと週間予報を見ると連日、春のような温かさ。
その上、木曜と日曜の雨は16℃とか17℃。
これで一気に雪が融けてしまいますね。
もう今年の瓶ヶ森は終りました。
一面の笹原が雪で埋もれることはないでしょう。
とても残念です。
石井光大「蛍の森」に関連したETVです。
http://www.nhk.or.jp/etv21c/file/2013/1012.html
石鎚山お疲れ様でした。岡山の友人が山岳会メンバーと日曜日に行っていたそうで、下山中に大きなザックを背負った二人組に出会ったと言ってましたが、ランスケさんといけピーさんだったのでしょうね。
月曜の朝は下界からも石鎚がハッキリ見えていました。朝焼けの天狗は十分美しく普通なら満足して下山ですが、あの夜明けとともに迎える劇的な瞬間を一度目にしてしまうと平凡と成り下がるのですね。
神話的風景とランスケさんは仰っていましたが、先日後厄のお祓いを石鎚神社で受けた際、目を閉じていると太鼓と鈴?の音がまさにあの劇的な夜明けの石鎚の光景を思い出させるものでした。またあの世界を体感したいですね(^-^)/