Tosh!'s Blog

ただ生きるな善く生きよ(ソクラテス)

ミツマタ

2012-04-05 23:07:06 | うつ


今日の花は「ミツマタ(三椏)」です。ジンチョウゲ科の落葉低木で中国南東部及びヒマラヤ地方原産。名前の由来は、写真の様に枝が必ず三叉、三つに分岐するからで、三椏の椏は木の股の意味があります。赤い花を咲かせる品種はアカバナミツマタ(赤花三椏)と云う園芸種。春の花で、万葉歌人はサキサク又はサキクサと呼んでいました。サキクサを変換すると「三枝」が出るかもしれません。三枝(さえぐさ、さいぐさ)さんの姓の語源だそうです。

このミツマタ、和紙の原料だったりします。和紙の原料と云えば「コウゾ(楮)」が有名ですが、透かしの入れ易さから明治以降日本のお札の原料となっているのです。三椏の椏は木の股の意味があります。

春されば まず三枝(さきくさ)の 幸(さき)くあらば 後にも逢はむ な恋ひこそ吾妹(わぎも)
柿本人麻呂(かきのもとひとまろ)

さればとは来る、訪れるという意味。春が来れば先ず真っ先に三椏が咲き...と、何よりも先ず(私とあなたが)幸運ならば...と掛けてある処が技巧派な人麻呂。続く言葉は...また逢えるでしょう、そんなに恋焦がれなくとも。愛しき人よ。

万葉集の歌人はロマンチストですねぇ。繊細な心情を歌にするのですから、雅な趣が私は好きです。

今朝は8:00過ぎには買置の煙草も切れたし、午後からは市役所に行かねばならず、ゴミ拾いはしないものの、公園に向い煙草を買ってからYさん宅に寄り、猫ボランティア仲間のケンさんに会い、ルル達と戯れて遊んでから、紫陽花の下草取りへ。

雑草取りと、飴に添付されていた乾燥剤を持って行きましたので、乾燥剤も生石灰ですから紫陽花の肥やしにと撒いてあげます。石灰はアルカリ性ですから、紫陽花には丁度良いのです。土壌をアルカリ性にしてやると赤が増します。根元に直接やると傷みますからやり過ぎない様に。

紫陽花と来ればカタツムリ、カタツムリはアルカリ性を好みます。殻が炭酸カルシウムで出来ているので、それがアルカリ性だから殻を大きくするにも酸性は好まないのです。雨の日などにブロック塀に這っているのを見掛ける事がありますが、実はブロック塀を食べているんです。コンクリートにも石灰が混ぜられています。つまり、生石灰とは酸化カルシウム、消石灰とは水酸化カルシウムの事。

紫陽花の下草取りをしていると、ちょくちょくカタツムリの抜け殻が転がっています。これも石灰と同じですから、その侭紫陽花の肥料となります。酸性雨なる言葉も生まれて近しいですが、土壌も酸性になりがち、どうせ捨てるのならその乾燥剤有効活用してみましょう。シリカゲルをあげちゃ駄目ですよ!

ボランティアにお金を掛けないのは私の主義です。ボランティアだから、報酬も頂きません。

下草取りもだいぶ進んだ頃、ヨっちゃんがやって来まして、暫く喋りながらやっていたのですが、この処頭が廻らなくて、一度に複数の事を出来なくなってしまいました。ヨっちゃんがいきなり大きな声で「コウモリだ!」と言いますから、私も見上げてみると確かにコウモリ。多分、ヒヨドリでしょう、そのコウモリが襲われて落ちたみたい。ヨっちゃんが見に行きます。私も雑草取りを止め、終い支度をして落ちたコウモリの所へ。

ありゃ、まだ子供だと、可哀想だから山に返してあげようと、つまみ上げて、先ずは片手に持っている掘り出した石をYさん宅へ置いてから、雑草の入った袋を始末し、公園の裏山は防空壕に放してあげました。下に写真を張って於きますね。掴まっているのは人差し指です。まだ、生まれて間もない飛び始めた幼子です。まだ、目が開いていないし、それにコウモリは何度か捕まえた事がありますし、大きさは大体判っています。ひょっとしたら絶滅危惧種かもしれませんので、アブラコウモリだとは思うのですが、それにモリが付くと珍種となります。私は専門家ではないので違いまでは良く判らないのです。



コウモリを山に放し、ヨっちゃんは触るのさえも嫌な様で、図体は大きいのですが気が小さい処が...市役所までには時間もありますし、春を捜しに行こうかとちょっくらお散歩して来ました。暫くは、掲載写真に困らないくらい。ツクシも今日はいっぱい見つけました。小さい頃はツクシを取って帰って、萼を取るお手伝いをしては食卓に上ったものです。

今日、PodcastはTBSラジオの「Dig」は外山恵理さんと荻上チキさんのコンビ。結構好きです。今日は「尊厳死法制化」のテーマでした。呼ばれたのは超党派での議員連盟の会長を務める民主党参議院議員増子輝彦氏で、反対派はNPOのさくら会の理事川口有美子さん。聴いていると法案の趣旨は臓器提供意思表示の様なもので、尊厳死も本人の意思表示を尊重し法的に認めようと云うもの。

内容を聴く前にタイトルの「尊厳死法制化」のそもそも法律の必要性が理解出来ません。そんなものは現実、内々に安楽死を選択しているのではないですかね。それで、後になって医者が訴えられる事のない様に法制化するのかとしか思えなかったのですが、議員さんの話からはそもそも論が抜けていて、あくまでも個人の意思表示ないとと言うばかり。

反対派の意見は切実で、24時間介護が必要なのに3時間しか介護保険を使えないとか、家族が疲弊している状況で、生きる権利を担保してからでないと、死ぬ権利など有り得ないと。然し、議員さんは本人が意思表示出来ない状況ではそう云う人も対象外だからと、煉りに煉って叩き台として長年掛けて纏めたのだと。

私は思うのですよ。論点には出て来なかったのですが、性善説だけで法整備すべきではないと。死ぬ権利を与えると、例えば元気な時に意思表示して於き、脳梗塞等で倒れ、植物状態になって、医者から見放された時、医者の知見もレベルは様々で、病床を空けたい病院の都合で安易に使われやしないかと。心境の変化があって辞退する事も出来ると云っても、その時には喋る事も出来なかったら、意思表示してあるじゃないかとなる。反対派はそれを言っている。

それにね、エゴイスト程延命を望むものですよ。自尊心の低い人程、家族に迷惑を掛けたくないと尊厳死をチョイスする。また、こう云う事を記すと感情論になる。延命を望むものは身勝手かと。否、そうではない。

法律で尊厳死が認められれば、ブラックマーケットで保険金目当てになりやしないか。懸念材料は山程あるのに法制化は必要ないだろう。そもそもが憲法違反じゃないかな。

( ´ー`)yー-~

ある病室に2人の末期ガンの患者が入院していた。 1人は窓側のベッド、もう1人はドア側のベッド。
2人とも寝たきりの状態だったが、窓際のベッドの男は、ドア側のベッドの男に窓の外の様子を話してあげていた。
「今日は雲一つない青空だ」「桜の花が咲いたよ」「ツバメが巣を作ったんだ」
そんな会話のお陰で、死を間近に控えながらも2人は穏やかに過ごしていた。
ある晩、窓際のベッドの男の様態が急変した。自分でナースコールも出来ないようだ。
ドア側の男はナースコールに手を伸ばした。が、直前になってボタンを押す手をとめた。
「もしあいつが死んだら、自分が窓からの景色を直接見れる…」
どうせお互い先のない命、少しでも安らかな時を過ごしたいと思ったドア側のベッドの男は、 自分は眠っていたと云う事にして、窓側のベッドの男を見殺しにした。
そして窓側のベッドの男は、その晩、そのまま死亡した。
翌日、ドア側のベッドの男はいよいよ窓側のベッドへ移ることになった。
男は、看護婦に抱きかかえられてカーテンのそばに横になる。
期待に胸がうちふるえた。
そこから見える外の景色、これこそ彼が求めているものだった。
そこから見えたもの、カーテンの向こうは、ただの薄汚れたコンクリートの壁だった。