昭和の恋物語り

小説をメインに、時折よもやま話と旅行報告をしていきます。

水たまりの中の青空 ~第二部~(百四十二)

2021-09-30 08:00:05 | 物語り
「女将、女将、女将。聞いてるか? 
この佐伯正三くんはな、驚くなかれ、恐れ多くもだ、逓信省の次官さまになられるお方なんだよ。
我々とは、まるで違うお方なんだ」
「そうですよ、そうです。年次としては、我々の後輩ではありますよ。年下です。
突然にこの極秘プロジェクトに参入した、新人ですよ。
でもね、佐伯局長さまの甥っ子さまであらせられる。
控えおろう! ってな、もんですよ」
 ネクタイをねじり鉢巻にした二人が、口々に正三を持て囃した。

「まあまあ、そうですか。佐伯局長さまの甥っ子さまですか。
いつも、佐伯さまにはご贔屓にしていただいて、ありがとうございます」
「でな、女将。今夜の……」。口ごもる正三に対して、
「まあまあ、みなまで仰いますな。分かっておりますですよ、万事お任せあれえ、です。
どうぞ、心行くまでお遊びくださいまし。
もうそろそろ、芸者衆も来ますですし」と、女将は胸をポンと叩いた。

「甥っ子の正三が多人数で行くはずだ。
遊びを知らん連中だから面倒を起こすかもしれんが、面倒を見てやってくれ」。
佐伯からの連絡が入っている女将だったが、素知らぬ顔で正三たちを迎え入れた。
縁側のあるある部屋で、築山のある庭園が観見られる。
石組みやら生け垣やらのある趣たっぷりの日本庭園だった。

 上座に座らされかしこまったままの正三は、女将に勧められるままに杯を空にした。
「こんばんわあ」と華やいだ声がかかり、二人三人と、芸者衆が部屋に入った。
一気に座敷が盛り上がり「よおし、来た来たあ。さあ、俺は歌うぞ。
お姉さん、お姉さん。トンコ節を頼むよ。
踊り? いいよ、いいよ、そんなもの。俺たちにゃ、分かんねえからさ。
お三味、お三味線を頼んますよ」。
「よし、お姉さん。わたしは、分かるよ、分かります。
踊りましょ。ね、踊りましょ。無粋な奴は放っといて踊りましょ。
何てたって、ワルツです。芸者ワルツだよ。ね、一緒に踊りましょ」。

 戸惑う芸者に対し、三味線の調律を終えた三味線弾きが声を掛けた。
「お姉さん方、こちらは若手の官吏さまたちですよ。さあさ、楽しくいきましょう」
 盛り上がる二人に対し、正三はただただ杯を空にした。
いつの間にか女将が消えて、色香を漂わせる芸者が相対していた。
「未来の次官さまあ、あたしにも頂かせてくださいなあ」
 正三の隣に席を替えると、正三の手から杯を盗み取った。

グイッと杯を空にすると、さあと言わんばかりに、正三の肩にしなだれかかった。
ほろ酔状態にある正三は、科を作るその芸者に、
「おい、きみに分かるか? ぼくわねえ、小夜子さんが好きなんだよ。
だからぼくの肩にもたれかられるのは、はなはだ不快だ」と、険を見せた。
「正三さん、わたし、小夜子よ。今夜だけは、小夜子なのよ」。芸者はそんな正三に、まるで動ぜずだった。


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