萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

萬紅、始暁act,5小春日和―another,side story「陽はまた昇る」

2011-11-30 22:27:25 | 陽はまた昇るanother,side story
長い冬の終わり、はじまる暁




萬紅、始暁act,5小春日和―another,side story「陽はまた昇る」

翌朝の目覚めは4時半だった。カーテンの外は暗い。
繋いだまま眠った携帯は、右掌に握ったままでいる。そのまま起きて、周太はデスクライトを点けた。
窓をそっと開けると、冷たい夜気が朝の気配を含んで頬を撫でる。
ふり仰ぐ空は、ビルの彼方に星が見えた。

「…奥多摩も、晴れている?」

静かに窓を閉めて、携帯のBookmarkをひらく。
天気ニュースに繋いで、奥多摩地方の天気情報を見た。
晴れのち曇り 気温最高16℃,最低5℃ 湿度35% 風向北西 風速1m/s
山では気温がもう少し低くなるだろう、でも悪い天気じゃない。うれしくて周太は微笑んだ。

「ん、」

そっと携帯を閉じようとした時、ふっと着信ランプが灯った。
穏やかな曲を1秒だけ聴いて、通話に繋ぐ。

「周太、起きていたんだ?」

きれいな低い声が、うれしそうに訊いてくれる。

「ん、さっき起きた。おはよう、英二」
「おはよう、周太。今さ、窓から空、見てくれたんだろ?」
「…ん、そう、」

言わなくても解ってくれる。こういう時いつも幸せが温かい。
静かだけれど明るい声で、英二が話してくれる。

「こっちはね、よく晴れてる。星がすごいきれいだ。たぶん夕方までは晴れだな」
「ん、よかった。仕度は済んだの?」
「ああ、これから飯食ってさ、その足で集合」
「ん、気をつけてね」

きっと食堂で、藤岡や国村と今日の訓練の話を楽しむのだろう。
国村には一昨日、一緒に呑んだ時のことで、すこし転がされるのかもしれない。
それを藤岡は、悪気なく突っ込んでしまうだろう。
訓練は勿論だけど、それもちょっと気をつけて?
そんな想いが楽しくて、幸せで、周太は微笑んだ。

「周太、」
「ん、なに?英二、」

ちょっと笑う気配がして、きれいな低い声が言ってくれた。

「今日もね、ここから周太のこと見てる。今日もずっと俺、周太を愛しているよ、」

朝から、こんなのは気恥ずかしい。
けれどもう自分は決めた。この隣が幸せに笑ってくれるなら、何だって出来る。
そうして愛されて、この隣がもっと自分に逢いたくなって、必ず無事に帰って来るように。
あわい赤に頬を染めながら、そっと周太は微笑んだ。

「…ん、俺もね、奥多摩の空を見る。愛している、英二」

ああやっぱり恥ずかしいいくら電話でもちょっと。
新宿署の寮が個室でよかった、そのことに心から周太は感謝した。
こちらが照れているの、きっと英二は解っているのだろう。楽しそうな声で話しかけてくれる。

「周太さ、iPodの曲って全部聴いた?」
「あ、ん、半分くらい?」
「じゃ、まだ聴いていないかな。12曲目くらいのも翻訳してみてよ、穏やかな曲調もね、きっと周太好み」
「ん。…ん、?」

いま、英二、なんて言った?…「のも翻訳してみて」って言った。
まるで他のも翻訳したの、知っているみたい。

「…あ、」

河辺駅のビジネスホテルで、あの曲を翻訳した時。
ベッドサイドのメモとペンのセットを使った。
あのとき、ペーパーボードごとメモ帳を抱えて、英文と和文の両方を書いている。
書いたメモは切りとって、持って帰ってきた。けれど、その下のメモ用紙は、そのまま。

…もしかして、その下のメモ用紙にも、筆圧で写っていた?

激しすぎる想いの歌だった。
気恥ずかしくなって、翻訳したことは黙っていようと思った。
でもなんだかこのいまの英二のようすはもしかして、

「…あの、英二、」

訊きかけても、なんて訊いていいのか、解らなくなる。
どうしようと思っている耳元に、楽しそうな声が携帯越しに届いた。

「Carry on, keep romancing, Carry on dancing もうずっと俺さ、周太には止めないから、」

お願い英二、朝からこんなに、真赤にしないで?
気恥ずかしくて、けれどほんとうは、うれしくて。
恥ずかしいのに、なんだか幸せが温かい。…だから想いは、伝えたい。

「ん、…ずっと、止めないで」
「おう、止めないよ。昨夜の電話みたいにさ、ずっと周太と繋げ続ける。どっちも」
「ん、…うれしいけどすごくはずかしいから、ね?」

昨夜は、電話を繋いだままで眠った。

昨夜は独身寮の前で別れた途端、離れた温もりが恋しくて。
自室に戻って、荷物を解くのも哀しかった。
それでも気を紛らわせたくて、解いた荷物を洗濯しながら、風呂も済ませた。
それから電話が来るまで、植物標本の作業に没頭した。

“ずっと一緒に暮らすこと
 いつかきっと絶対に、毎日を一緒に見つめること“

ひそやかな木蔭で結んだ、もうひとつの「絶対の約束」。
奥多摩で新宿で「絶対の約束」を結んだ、きれいな笑顔。
想いながら、奥多摩の葉や花びらに、ひとつずつ処置を施した。

幼い頃に父とした作業は、温かかった。
英二との時間と想いが、ひとつずつの作業に重なって、なんだか幸せで。
英二と離れた哀しみに、そっと温もりが寄り添って、気持ちが穏やかになった。

終わるころ、手元に置いた携帯に、ふっと着信ランプが灯った。

「周太、待ってた?」
「…ん、待ってた。すごく」

掛けてくれた電話、うれしくて。
さっきまで一緒だった、それなのに繋いだ電話が、切れなくて。
今日の訓練のために、英二を早く寝ませたい。
それでも切れなかった電話。

「周太、今夜はさ、携帯繋いだままで寝ようよ」

そう言って英二は、笑ってくれた。
そしてたぶん、先に寝たのは周太のほうだった。
そのこと、ちょっと謝らないと。周太は唇をひらいた。

「あの、英二。昨夜は俺、先に寝ちゃって、ごめん」
「ん、なんで周太、謝るんだ?」
「だって、…俺のわがままで、電話、繋いでくれていたのに」

ああ、と言って英二は笑ってくれた。

「俺だってね、周太。ずっと繋げていたいんだ。だから俺さ、こんな朝早くから電話してる」

明るい率直な声、信じられる。
きっと今、きれいな明るい笑顔が、向こうでは咲いている。
こういうところ、ほんとうに、いいなって想う。きれいに笑って、周太は告げた。

「ん。電話、うれしい。ありがとう、英二」

4:45になって「じゃあ、行ってくるな」と英二は笑ってくれた。
いってらっしゃい、必ず無事に帰ってきて。そう言って、電話をそっと閉じた。

「…12曲め?」

穏やかな曲調が周太好み、そんなふうに言っていた。
さっそくiPodをセットすると、やさしい曲がながれる。
きれいなアルトヴォイスと、やさしい穏やかな曲がしっくり馴染む。

「…ん、すきだな」

音楽も、人の話も、聴いてみないと解らないな。
そう思いながら周太は、レポート用紙を出した。

Maybe it’s intuition
But somethings you just don’t question
Like in your eyes I see my future in an instant
And there it goes
I think I’ve found may best friend
I know that it might sound more than little crazy
But I belive

I knew I loved you before I met you
I think I dreamed you into life
I knew I loved you before I met you
I have been waiting all my life

There’s just no rhyme or reason
Only this sense of completion
And in your eyes I see the missing pieces
I’m searching for I think I’ve found my way home

A thousand angels dance around you
I am complete now that I’ve found you

この歌を、英二は「翻訳して」と言ってくれた。
だからきっと英二は、この歌で伝えたい想いがある。
それがどこなのか?“But somethings you just don’t question”きっとそんなふうに、英二は信じてくれている。
だから自分が気になるところが、きっと英二の想い。

「ん、」

ひとつ頷いて、周太は和訳を始めた。
このなかだと、「completion」と「the missing pieces」の意味がきっと大切。
意訳と直訳を混ぜて訳すと、周太は通して読んでみた。
この間の不思議な歌とは、ずいぶんと曲も歌詞も雰囲気が違う。


きっとそれは、直感だろう
でも、なんにも訊く必要ないよね、君だって解っているはず
僕の未来を一瞬のうちに、君の瞳の中に見てしまうように
ほら、行こうよ 
僕はもう、一番大切な人を見つけた、そう思っている
この想いはね、もう全くお手上げなんだ。そんなの信じられないって、僕も解るけどね
でも僕は信じている

僕は君に出会う前からずっと、僕が君を愛しているって知っていたよ
君の人生に生きることを、僕は夢見ていたって思う
僕は君に出会う前からずっと、僕が君を愛していると解ってた
僕の人生全てを懸けて、ずっと待っていたんだ、君を見つける瞬間を

説明できるような根拠は無いんだ
真実の姿に成った、この感覚ひとつ唯それだけ
だってもう、君の瞳の中にね、僕は見ているんだ。あるべき僕の大切なかけら、運命の相手である証を
僕だけの居場所に帰る、その道を見つけた確かな想いのために、僕は探している

君をとりまく、千の天使たちの祝福
君を見つけた今、僕は真実の姿に成る


英二が告げたい想い。
いつもの言葉、これまでの行動、そして周太に向けてくれる想い。
そっと周太は、歌詞を呟いた。

「…君の人生に生きることを、僕は夢見ていたって思う」

そう、そんなふうに。
英二は父の軌跡を追って、周太より先に真実を見つけ出した。
そうして周太の背負う全てを、あの頼もしい背中に笑って背負った。
そして今、英二は父が遺した合鍵を、いつも首から提げて大切にしている。

「…僕は君に出会う前からずっと、僕が君を愛していると解ってた…
 人生全てを懸けて、ずっと待っていた…真実の姿に成った、この感覚ひとつ唯それだけ」

初対面の瞬間からずっと、英二の目は周太に問いかけていた。
―ほんとうは、率直に、素直に、生きていきたい。生きる意味、生きる誇り、ずっと探している―
その問いかけに答えたかった。それを英二も、自分に望んでくれた。

「…君の瞳の中に見ている、あるべき大切なかけら、運命の相手である証
 僕だけの居場所に帰る、その道を見つけた確かな想いのために、僕は探して…」

―俺の帰る場所は、周太だけ。
 俺はね、周太ばっかり見つめて愛している。
 だから周太、いつか必ず、俺と一緒に暮らして? その絶対の約束がね、俺、今この時にほしい―

ゆうべの英二の言葉。
それから、そう、さっきの電話の言葉、

―Carry on, keep romancing…もうずっと俺さ、周太には止めないから、

訊かせて英二?
この曲で、ずっと、ささやき続けてくれる、そういうこと?

きのうまで一緒だった、4つの夜と3つの暁。
あんまり幸せで、ほんとうは、もう、離れられなかった。
初雪に不安になって、引き離される痛み哀しくて、泣きたくて、もう自分だけで立てなくて。
けれど「絶対の約束」を信じて、こうして新宿に戻ってきた。

―俺はね、周太ばっかり見つめて愛している
 Carry on, keep romancing…もうずっと俺さ、周太には止めないから

その言葉の通りに、きっと今日も奥多摩の山から、新宿を見つめてくれる。
そして言葉の通り、iPodの曲で、想いをささやき続けてくれる。
離れていてもずっと隣にいる。

―周太、いつも繋がって見つめているから

御岳山での、英二の言葉。

山から新宿の街を見つめ空で繋いで、iPodの曲で想いをささやいて繋いで。
ほんとうに言葉の通り、いつも繋げてくれる。

「…ほんとうに、約束、守ってくれている、ね…英二、」

ほんとうに約束守ってくれる。
このひとは、英二は、心から信じられる、信じて大丈夫。
だからきっと「絶対の約束」も全て叶えてくれる、大丈夫。

大丈夫、信じていい。

そんな想いが、温もりに心を充たしてせり上がる。
黒目がちの瞳から、想いの熱があふれて、雫がうまれる。
ふるえそうな唇から、繋げられた想いのかけらが、そっと零れた。

「…信じている、よ…英二、」

愛している。
唯ひとり、唯ひとつの想い。
そして唯ひとりとの約束に、自分は生きていく。
あふれる涙に頬を温めがら、周太はきれいに笑った。

「愛している、英二…」


6時半になって、周太は着替えて食堂へ向かった。
今日は週休、連続休暇の最後4日目。明日からまた交番勤務と射撃特練が始まる。
最後の休日になる今日は、実家でやりたい事があった。
朝食のトレイを受け取って、まだ空いている食堂の窓際に座る。
ビルの狭間から、あわい空のかけらが見えた。奥多摩も夜が明けただろうか。

「あれ、湯原?ずいぶん早いね」

声に振り向くと、深堀が私服で笑っていた。

「ん、おはよう深堀。そっちこそ当番明けだよな、もう上がりか?」
「うん、今日はさ、詩吟の催しがあるから、早く上げてくれたんだ」

深堀の祖母は、詩吟の世界では有名らしい。
深堀は、その祖母の師範代を務めている。
そんな深堀本人も結構、有名じゃないのかな。前に訊いたけれど、深堀はとんでもないと笑った。
けれど卒業配置期間なのに、こんなふうに早退を認められるのは珍しい。
たぶんやっぱり、深堀の詩吟は相当なのだろう。

「どんな催しなんだ?」
「うん、まあ、非公式なんだけどね、ちょっと出稽古っていうか」

非公式の出稽古、と深堀は言った。
一体何なのだろう?よく解らなくて、周太は訊いてみた。

「出稽古って、どこかに行くのか?」
「うん、祖母のアシスタントでね、」

深堀は頷いて、ちょっと周太を見て考える顔になった。
話していいのかな、そんな目になっている。
けれどすぐ、いつものように微笑んで、低めた声で一言教えてくれた。

「皇族にもさ、詩吟のファンっているんだ」

そんなところに出稽古って。

「…だから、早上がり認められたんだな」
「うん、まあね」

いつものように、深堀は気さくに笑っている。
この1ヶ月半で気付いた。深堀は言わないだけで本当は、結構すごい面を持っている。
語学の能力も相当に高い、刑事課勤務の佐藤も驚いていた。

この新宿署は、有能で正義感が強いタイプが配属されるときく。
深堀がここにいるのは、適性があると遠野教官も判断したことだ。
警察学校時代は、どちらかと言えば目立たない方だった。けれどそれも、見せないだけだったのだろう。

ほんとうに、人は話してみないと解らない。
そう思っていると、にこにこと深堀が訊いた。

「湯原、奥多摩は楽しかったみたいだね」
「ん、山きれいだった。あ、土産あるんだ」
「うれしいね、ありがとう。なんの土産?」
「奥多摩の蕎麦なんだ。友達が勧めてくれて」

何気なく「友達」と言って、周太はすこし自分で驚いた。
顔に出さずに驚いていると、深掘が訊いた。

「友達って、宮田じゃないの?」
「ん、違うんだ。青梅署の同じ年のやつと、その彼女」

友達、そんなふうに国村と美代を呼んでいる。
もうそういう存在なんだ。自分のそんな想いが、周太はうれしかった。
あのふたりには、また必ず会いたい。もっと話してみたいなと思える。
でも出来れば国村は、もうちょっと転がさないでくれると、助かるけれど。

「同じ年だと、高卒で奉職ってこと?」
「ん、そう。英二の同僚で仲が良いんだよ。皆で飲んだ時にね、勧めてくれた」

河原へ行く時に寄った酒屋で、美代が勧めてくれた。
「この蕎麦ね、光ちゃんが作った蕎麦が原料なの。おいしいのよ」
国村は兼業農家の警察官で、蕎麦畑と梅林を主に作っている。
せっかくだしと思って、周太は美代の勧めに素直に従った。

「そういうの、楽しいよね」
「ん、楽しかったよ。それで土産の蕎麦もね、その友達が作った蕎麦が原料なんだ」

焼鮭をほぐしながら、周太は説明をした。
深堀は楽しそうに、人の好い笑顔で頷いてくれる。

「あ、兼業農家なんだ?へえ、奥多摩の警察官って感じだな」
「ん、ほんとうにね、そんな感じだよ」

ひさしぶりの深堀との、他愛ない会話が楽しい。
本当は奥多摩で、英二の傍にずっといたかった。今だってそう。
けれどこうしていると、今ある新宿の日常も必要だと解る。
こんなふうに、今を、きちんと見つめて大切にしていけたらいい。

いつか、きっと英二と一緒に暮らせる日が来るだろう。
その時にはきっと、今の新宿での日々があって良かったと、心から笑えると思う。
あの苦しい13年間ですら、あの日々が必要だったと今、心から感謝できているから。

「じゃあ、その友達も宮田と同じ、山岳救助隊員なんだ?」
「ん、そう。英二とは山でもパートナー組んでいる。トップクライマーを期待されている男だよ」
「へえ、そんな男とパートナー組めるなんて、宮田も凄いんだ」

そういえばそうだ。言われて、改めて周太は気がついた。
英二の山岳経験は、警察学校以降の7ヶ月程度しかない。
それでも、国村のようなトップと組んでいる。

「あ、…ん、そうだな」

初心者の英二を、国村が面倒を見ているのだと、最初は思っていた。
けれど実際は、対等な山ヤ仲間で友人としての姿だった。
あの国村のことだ。英二に優れた山ヤの姿を見なければ、あんなふうにはきっと仲良くならない。
まだ今の英二は技術も経験も、国村には遠く及ばないだろう。
けれど英二の成長速度は速い。一緒に登山した英二は、警察学校時代とは別人だった。

きっと本当に、適性があるんだ。
山を愛し始めた英二にとって、それはきっと幸せだ。
うれしくて周太は微笑んだ。

「ん、英二はね、すっかり山ヤになってた。ほんとうに山の警察官って顔だったよ」
「山ヤ?」
「ん、そう。職人気質な登山家をね、そう謂うらしい」
「へえ、かっこいいな」

にこにこと頷いて、深堀は炒り卵を口に入れている。
それから、すこし首傾げて周太に笑いかけてくれた。

「湯原さ、宮田のこと、名前で呼ぶようになったんだ?」

つきん、心が小さく刺されて、周太は止まった。

そういえば、自然と名前で「英二」と呼んで話していた。
なんだか気恥ずかしい、なんだか意識してしまいそうになる。
でもあの隣は、英二は、いつも自分を堂々と、どこでも名前で呼んでくれる。
そして、もう、自分は決めている。

ひとつ息吸って、周太は微笑んだ。

「ん、そうなんだ。前よりね、もっと大切になったから」
「宮田のこと?」

変に思われるだろうか?
そんな迷いもすこしだけあった。

「ん、そう。だから、名前で呼ぶほうがね、自然になった」

それでも、英二は堂々としている。だから自分も、それに相応しくなりたい。
きれいに笑って、周太は言った。

「だからね、俺、これからはずっと、英二って呼ぶんだ」

すこし驚いたように、深堀が周太を見た。
けれどすぐに微笑んで、言ってくれた。

「湯原さ、またなんか、きれいになったな。すごく良い顔で笑ってる」

深堀は詩吟の師範代、人を見る機会も多い。
きっと師匠の祖母の許、幼い頃から人選眼を鍛えられている。
そういう所も、この新宿署へ配置になった適性の一つだろう。
そういう深堀に「良い顔」と言われるのは、うれしい。
素直に周太は笑った。

「ん、ありがとう。深堀」

朝食のあと、深堀に土産の蕎麦を渡せた。
明日の勤務の時には、東口交番の先輩たちにも渡せたらいい。
あと刑事課の佐藤には、夕食の時にでも会えるだろうか。

仕度すると周太は、実家に向かう電車に乗った。
7時半前の日曜、車内には静かな空気が佇んでいる。
席に座って、iPodのスイッチを入れた。
さっき訳したばかりの曲を、リピート設定にしてある。

「…ん、」

やわらかな旋律が、穏やかに心地いい。
この曲を贈ってくれた人、その想いの温かさにくるまれる。
いつもの車窓がどこか、やさしく穏やかだった。

いまごろ、英二は山にいるだろう。
きっと山の朝に佇んで、山はいいなあと笑っている。
どうか笑っていて、どうか無事に、幸せに微笑んでいて。
そうして帰ってきて、今夜も自分の隣と電話で繋いで、今日の話を聴かせて欲しい。

ふるい木造の門をくぐると、懐かしい花の香が迎えてくれる。
飛び石をつたって、周太は白い花の木の下へ立った。
父が植えてくれた、周太の誕生花「雪山」という名の山茶花。
御岳山にも、同じ花木が佇んでいた。

そっと幹に耳をあててみる。
ひんやりとした木肌の奥に、どこか温もりが懐かしい。
ふれる花木に、ただ想いを周太は訊いた。

…御岳山で、迎えてくれた?…俺、うれしかった

ふっと穏やかな風が、梢ゆらす。
花びらが一ひら、周太の掌に真白く納まった。
こういうのは、なんだかうれしい。周太は微笑んだ。

「ありがとう、」

白い花びら手帳にはさみこんで、周太は庭から玄関へと向かった
母は今日も仕事に出ている、昼過ぎには戻ってくるだろう。
玄関から台所にそのまま立って、先に昼食の支度を済ませた。

そのあと、2階の自分の部屋に行った。
きっとここにあるはず。
思いながら懐中電灯を持って、木造りの押入を開く。
2段目へと身軽にあがると、押入の天袋の板をずらした。

「…こほっ」

かすかな埃に軽くむせた。
そんなにも長い間、ここを放っていたな。
思いながら天井裏を覗きこんで、懐中電灯で照らした
思ったよりも、埃が薄い。これなら午前中で何とかなるだろう。

「ん、」

一旦押入から出ると、雑巾とハタキとバケツを用意した。
それから箪笥を開いて、古い服に着替える。英二から贈られた服は、出来るだけ汚したくない。
着替えたシャツの胸ポケットに、iPodを納めた上から掃除用のエプロンをした。
それから雑巾とハタキとバケツを、押入から天井裏へと上げた。

「あ、あれもいるか」

ゴミ袋に、挿し油とヤスリを持ってきて、天井裏へあげる。
懐中電灯はスイッチを入れてから、そっと天井裏へと置いた。
それから周太も、押入の2段目から身軽に天井裏へ上がった。

「…こほっ、」

天井裏は、埃のベールと暗闇に鎮まっていた。
ここには13年分の時が、沈黙に積もっている。

たしかあの辺り。
見当をつけて暗闇のむこうを見つめた。
ほんのかすかな光が、むこうの壁に見える。微笑んで、周太は呟いた。

「…ん、そう、あの辺り」

iPodのイヤホンを右耳だけセットして、スイッチを押す。
今朝聴いたばかりの、穏やかな曲が流れる。
この曲は好きだ。聴きながら、周太は雑巾を軽く絞った。

あがった場所から、軽く雑巾で拭いていく。
かすかな細い光のある壁際まで、ざっと拭きあげた。
ゆっくり立ち上がりながら、懐中電灯で壁を照らしていく。

「…あった、」

なつかしい、窓の鍵。

埃がうすく積っているのを、きれいに雑巾で拭く。
思ったより錆てはいない。
そっと指に力を入れて動かすと、かちりと音がなって、窓が開いた。
微笑んで、そっと周太は呟いた。

「まず、ひとつめ」

窓のむこうの、鎧戸の錠。
こちらは埃はほとんど無かった。けれど錆がまわっている。
挿し油とヤスリを持ってくると、懐中電灯で照らしながら丁寧に錆を落とした。
鎧戸の蝶番と把手も同じように、きれいに磨き上げていく。

「…これで、開くかな」

錠を、しずかに指で動かしていく。
かたんと錠は外れて、鎧戸が軋みを立てた。蝶番は大丈夫なようだ。
微笑んで、周太は軽くうなずいた。

「ん、」

鎧戸の把手を掴んで、ゆっくりと押し開いた。

天井裏に、あかるい陽光が射しこんでいく。
ゆっくり開かれる軋音と一緒に、ゆるやかな小春日和が部屋を充たしていく。
陽射に周太は、すこし瞳をほそめた。

屋根裏部屋が、あかるい陽光に温められて姿を顕した。

開かれた鎧戸、木枠の窓から太陽がふる。
おだやかな陽の光に、かすかな埃がきらめく。
窓から外を見ると、庭の樹木が美しかった。周太の山茶花も、ここから良く見える。
右耳に繋いだiPod、穏やかな旋律はどこか懐かしい。
そっと頬を撫でていく風は、樹木の息吹と落葉の香、それから山茶花の香。

また、この部屋に帰って来られたな。
うれしくて、周太は微笑んで、窓辺から部屋を振り向いた。

四畳半くらいの、白と木肌の空間。
漆喰塗の白い壁と白い傾斜の天井、無垢材の床。木造りの窓枠、床の片隅に木製の梯子。
無垢材の作りつけの本棚、ふるい木製のトランク、頑丈な木箱、ちいさなサイドテーブル。
頑丈な木造りのロッキングチェア。

それから天窓。

雑巾で床の全面をざっと拭きあげた。
それから木箱を拭いて踏み台にすると、天窓の錠を確認してみる。

「ん、開くな」

かちんと鳴って錠が外れる。
窓を開けると、鎧戸の錠も外す。
天窓の鎧戸はほとんど錆がない、そのままスライドに開いた。

青空が、漆喰塗の白い天井に、四角く姿を顕した。

「きれいだな、」

白い天井に、青い色が咲いた。なんだかうれしくて周太は微笑んだ。

天窓を拭いて、梯子を降りた。
それから天井から壁、書棚にハタキをかけていく。
雑巾をなんどか絞って、上から順に部屋中を拭き上げていった。
ロッキングチェアーも磨くにつれて、さわやかに木肌が蘇っていく。この椅子に座るのが、周太は好きだった。
ふるいトランクの錠は錆ていない、きっと開けられるだろう。

右耳から届く、やわらかな旋律がうれしい。
時計は10時、午前中の陽射が明るい。
この曲に想いを告げてくれる、あの隣。今頃は山の上だろうか。

ちいさな空間は、1時間ほどで埃は消えた。
開け放した窓と天窓からながれる風が、13年の澱みを払っていく。
あたたかな小春日和の陽光が、無垢材の床を温めてくれる。

小部屋は息を吹き返した。

白とベージュ、それから青空。
あたたかで穏やかな、やさしい小部屋。
2階の自室の上にある、もうひとつの周太の部屋だった。

「…ん、いいな」

もうひとつの部屋、大切な部屋。
この小部屋に幼い周太は、大切な宝物をたくさん仕舞いこんだ。
そうしていつも、ここで穏やかな時間と遊んでいた。

あたたかい、

うれしくて懐かしい、想いが温かい。
そっと微笑んで周太は、木製の梯子を床穴から降ろした。
13年前はこんなふうに、ずっと梯子を部屋へとかけてあった。

けれど13年前。
梯子を外して、天井裏へと放りこんでしまった。
この小部屋には、父との記憶がたくさん刻まれているから。

「ん、大丈夫だな」

13年ぶりに、梯子から部屋へと降りた。
押入の天井穴から、部屋の床へと架けわたした梯子。
13年前までは、毎日ここを通っていた。

掃除道具をきちんと片付けて、周太自身もシャワーを使った。
朝着ていた服に着替えると、脱いだ服を入れてから洗濯機をまわす。
それから台所へ行って、買ってきた袋からココアを取りだした。
小鍋でゆっくり練って、牛乳で伸ばしていく。

「ん、いいかな」

2つのマグカップについで、残りはそのまま蓋をしておいた。
2階へあがって、父の書斎の扉をあける。
カーテンを開けて、書斎机の父の写真に微笑んだ。

「お父さん、俺ね、ひさしぶりに作ってみたんだ」

ココアのマグカップを1つ、そっと父に供えた。
父はココアが好きだった。
周太自身も好きだった、休日の父と一緒に作って飲んだ。

「あのね、あの小部屋をさっき、開いたんだ」

写真から、おだやかな父の瞳が見つめてくれる。
そっと微笑んで、周太は伝えた。

「また本、貸してもらうね」

書棚から1冊取りだして、それから自室へと戻った。
マグカップと本を持ったまま、小部屋への梯子を登る。
小部屋は小春日和に温められて、居心地よく迎えてくれた。
マグカップと本をサイドテーブルに置くと、木製のトランクの前に座り込んだ。

「…やっぱり、聴きたいな」

ポケットからiPodのイヤホン、右耳にセットする。
やさしい穏やかな旋律が、ゆるやかに心に流れ込んだ。
なんだか、うれしい。

「ん、」

やさしい歌詞を聴きながら、ふるい木製のトランクを開く。
周太の祖父の物だったトランク、宝箱にしていた。

開いたトランクには、何冊かの採集帳と、きれいな木箱が2つ。

「…あった、」

うれしくて微笑んで、そっと採集帳を開いてみる。
ページはきれいなままだった。

押花や押葉たちも、13年前と変わらない。
植物標本に添えられたラベルも、筆跡があざやかに読める。
幼い自分の筆跡が、なつかしい。
学術名を記すラテン語は、父の筆跡で端正に綴られている。

なつかしい、父の筆跡。

ずっと放ったままだった、父の記憶も、山も、採集帳も。
けれどこうして自分をまた、迎えてくれる。
奥多摩で会った草木に、ラベルの筆跡に、父の記憶と温もりは佇んでいた。

筆跡を見つめる瞳に、そっと想いが昇っていく。

「…お父さん、ただいま」

涙と一緒に、想いはそっと小部屋に響いた。

右耳からは、やさしい曲がどこか懐かしい。
この曲を贈ってくれた人は今もう、山を下りただろうか。
微笑んで周太は、いちばん上の採集帳を取りだした。これは持って帰りたかった。

ちいさな木箱を開くと、きれいな貝殻が納められている。
海に行ったとき、父と母と拾ったもの。微笑んでまた蓋を閉じた。
もうひとつの木箱には、いろんなものが入っていた。
きれいな小石、ガラスが波に洗われ磨かれたもの、そうした小さな宝物。

なつかしくて切ない、けれど温かい記憶たち。
すこし前までは、向き合うことが出来なかった。現実が冷たかったから。
けれど今はもう、素直にこうして見つめられる。

“I knew I loved you before I met you 
 I think I dreamed you into life …I have been waiting all my life“

 僕は君に出会う前からずっと、僕が君を愛しているって知っていたよ
 君の人生に生きることを、僕は夢見ていたって思う…僕の人生全てを懸けて、ずっと待っていたんだ

右耳から繋がれる、やさしい曲によせてくれる想い。
この詞のとおり、英二は隣にいてくれる。
周太の隣で生きるために、英二は人生の全てを懸けてくれる。
そして周太の冷たい過去も、温もりに還元して救ってくれた。

だから自分も、英二に全て懸けたい。
いまこうして生きている、英二の隣にいる人生が、心から愛しい。
だから素直に想える。英二と出会わせてくれた、13年間の全てをも愛おしい。

この13年間が無かったら、きっと自分は警察学校へは行かなかった。
そしてきっと、英二とは出会えなかった。
だから想ってしまう。英二と出会うための13年間なら、その全ても愛しい時間。

そう想えた時に、13年間の冷たい孤独も全て、認めることが出来た。
この想いがあるから、今こんなふうに温かく見つめられる。

「ん、」

トランクを閉じて、1冊の採集帳をサイドテーブルに置いた。
それから書棚を覗いて、目当ての本を探す。
すぐに見つけて手に取ると、ロッキングチェアーに静かに座った。
ココアを啜りながら、ゆっくりと本のページを開く。

幼い頃に大好きだった、すこし大きな字の植物図鑑。
きれいな植物の挿絵が好きで、毎日ここで眺めていた。
四季ごとに4巻に分けられて、その季節ごとに毎日見ていた。

「…ん、楽しいな」

こういう時間を、もう、ずっと自分は忘れていた。
でも今はもう、思い出せている。

英二の隣で過ごした4つの夜と3つの暁。
あの隣で見つめた、唯ひとつの想いと幸せな“初めて”
それらの想いと記憶が、ふるよう自分をくるんで温かい。

そうして、この今が温かい。そして幸せな時にいる。
だからもう認められる、13年前のこと、そして13年間の長い冬の意味。
認めた今こうして、この小部屋にまた帰って来られた。

ゆっくり植物図鑑を眺め終ると、書棚の元の位置に戻した。
こんどはサイドテーブルの本を手にとって、ロッキングチェアーに座りこむ。
さっき父の書棚から借りた「Wordsworth詩集」のページを開いた。

Five years have past;five summers,with the length Of five long winters!
and again I hear
These waters, rolling from their mountain-springs with a soft inland murmur.-Once again
過ぎ去りし五年の月日 五つの長き冬と、同じく長き五つの夏は、諸共に過ぎ去りぬ
そして再び、私に聴こえてくる 
この水は再び廻り来て 陸深き処やわらかな囁きと共に 山の泉から流れだす

雲取山で思いだした、「Wordsworth」の詩の一篇。
この詩の水は、きっと止められていた記憶と時間、そして想い。
自分もこんなふうにきっと、時が流れ始めている。

全てを懸けて「絶対の約束」を英二と結んだ。
そうして刻まれた勇気が、この小部屋の時間すら開いた。
こんなふうに、自分が強くなれること。それが心から誇らしい。

「…ん、幸せだな」

微笑んで周太はページを捲った。
御岳山の滝に思いだした詩、その詩の後半を読みたかった。

And I again am strong:The cataracts blow their trumpets from the steep;
No more shall grief of mine the season wrong;
そして私には、強い心が蘇った 峻厳な崖ふる滝は、歓びの音と響き
この歓びの季節はもう、私の深い哀しみに痛むことはない

この詩の後半。
初めて読んだときは「そんなことあるだろうか」と疑問に思ってしまった。
けれどきっと今なら。思い繰るページの狭間に「XI」が現れた。

「…これ、」

The innocent brightness of a new-born Day  Is lovely yet;
The Clouds that gather round the setting sun
Do take a sober colouring from an eye That hath kept watch o’er man’s mortality;
Another race hath been,and other palms are won.
Thanks to the human heart by which we live. Thanks to its tenderness,its joys,and fears,
To me the meanest flower that blows can give Thoughts that do often lie too deep for tears.

生まれた新たな陽の純粋な輝きは、いまも瑞々しい
沈みゆく陽をかこむ雲達に、謹厳な色彩を読みとる瞳は、人の死すべき運命を見つめた瞳
時の歩みを経、もうひとつの掌に勝ちとれた
生きるにおける、人の想いへの感謝 やさしき温もり、歓び、そして恐怖への感謝
慎ましやかに綻ぶ花すらも、私には涙より深く心響かせる。

この詩には、自分の今の想いが見える。
初めて読んだ時には解らなかった、けれど今はもう解る。
そんな想いに、周太は微笑んで呟いた。

「…ん、ほんとにそう」

唯ひとり想う、愛する隣。
その隣で温かな想いに充たされて、父の死と記憶を自分は見つめられた。
その隣への想いに、自分は全てを懸けられた。そして勇気をひとつ刻めた、強い心を勝ちとれた。
そんな今の、愛する隣との時が愛おしい。
そんな今を支えてくれる、会いたい人達、会いたい場所、そして相手を想う心。
この13年間の全てが、この今に出会わせてくれた。

だからもう、感謝できる。自分の運命に。

これから先、冷たい真実、辛い現実が現れる。
けれどその時にも、もう自分は運命を恨んだりはしないだろう。
だってきっとその全てが、いつか良かったと思える日を信じている。
この13年間をすら、今は愛しいと想えるのだから。

唯ひとつの想い。その為に、自分は全て愛しい。




【歌詞引用:savage garden「I Knew I Loved You」詩文引用:William Wordsworth「Wordsworth詩集」】

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萬紅、始暁act,4―another,side story「陽はまた昇る」

2011-11-29 23:53:04 | 陽はまた昇るanother,side story
そしてあらためて、約束を




萬紅、始暁act,4―another,side story「陽はまた昇る」

ラーメン屋を出ると、時計は20時前だった。
明日は周太は週休だけれど、英二は日勤な上に、訓練登山が5時半集合の予定になっている。
だから今夜は、英二は帰らなくてはいけない。
それでも通りを歩きながら、すこし拗ねた口調で英二は言ってくれる。

「普通の日勤だったら俺、こっち泊って朝帰り出来たのにさ」

朝帰りだなんて恥ずかしいから赤くなるからいわないで。
きっと首筋が赤くなる、困ってしまう。
けれど、
今は一緒に話せる時間が、惜しい。周太は微笑んで答えた。

「でも英二、明日の登山も楽しみだろ?」
「うん、」

頷く英二の顔は、きれいに笑っている。
きっと山を想っている、そんな明るさがきれいだった。

だって山をもう愛している、英二は。
奥多摩で一緒に過ごした3日間、山で生きる英二を間近く見た。
山に生きる英二は、眩しかった。
警察学校で過ごした6ヶ月、卒配後に新宿で川崎で過ごす休日、どの時よりも。

「山はな、やっぱ楽しいからさ。訓練でも巡回でもね」

英二はもう、山ヤの警察官として生きている。
休暇の登山ですら、山岳救助隊員の任務を楽しんでいた。
恵まれて育った傲慢さ、要領の良さが冷たいチャラチャラした男。そんな仮面の姿は、今の英二から想像出来ない。
実直で健やかな温もり、やさしい穏やかな静謐。そんな明るい素顔のまま、山に生きている。

「なんて山に登るんだ?」
「うん、天祖山ってとこ。最近人気だから遭難が増えてる、その危険個所の確認をしにいくんだ」

危険個所。そのことばに、心に冷たい手が触る。
警察官で山岳救助隊員なら、そこが職場になる。それは当然のこと。
自分も同じ警察官、任務の重みは解っている。
けれど、自分の想いにだけは、嘘をつけない。だから伝えたい、想いは。

「楽しんできてね。それで帰ってきて、その山の話を聴かせて?」

ならんで歩く隣で、うれしそうな笑顔が咲いた。
きれいに笑って、英二が告げてくれる。

「おう、たくさん話す。約束だ、周太」
「ん、約束な」

約束がうれしい、うれしくて周太は微笑んだ。
こんなふうに約束を重ねて、きっと英二は全部叶えてくれる。
そう、もう信じている。

けれど心配はしてしまう。
今夜は早く寝んでほしい、寝不足の登山は危険を誘発するから。
それでもまだ、すこしは時間、あるのだろうか。
思って見上げた隣が、笑いかけてくれる。

「周太、俺ね、いつものコーヒー飲みたい」

もうすこし、一緒にいよう。そう言ってくれている。
もうすこし一緒にいたい、自分だって。

だって本当は離れたくない、ずっと一緒にいたい。このままずっと。
そう思うと本当は寂しくて哀しくなる。
でも泣かないで今は、一緒の時間を喜んで、幸せを見つめたい。微笑んで周太は答えた。

「ん、俺もね、飲みたいな」

いつものカフェで、テイクアウトした。
そのカフェから少し離れた静かな場所に、指定席のベンチがある。
今夜もそこへ並んで座って、紙コップに口をつけた。
熱い紙コップが、晩秋の冷気に心地良い。
ゆっくり啜ると、温かなオレンジの湯気に、ほっと心が和んだ。

「周太、オレンジラテで良かった?」
「ん、おいしい。ありがとう、英二」
「よかった、」

うれしそうに笑って、英二の長い指が頬にふれる。
ふれる指の温もりが、うれしい。
うれしくて微笑んだ唇に、そっと端正な唇が重ねられた。
ふれるだけで静かに離れて、うれしそうに英二が笑った。

「いつも周太の唇はね、オレンジの香が可愛い」

そんなふうに言って微笑まれて、気恥ずかしい。
でもこんなふうに、ふれてくれること、うれしい。
でもどう言えばいいのかな。解らないまま、周太は想った通りを口にした。

「ん、…英二のキス、うれしい、よ」

言った端から頬が熱い。
やっぱり言葉は難しい、昨夜は、もっと言えたのに。
そう自分で思った端から、なお気恥ずかしくなって、周太はすこし睫を伏せた。

「俺の方こそね、山でさ、うれしかったよ?」

きれいな低い声が、話しかけてくれる。
なにのことが、うれしかったのだろう?訊いてみたくて、周太は目をあげた。

「山での、なんの時?」

訊いた途端、端正な顔が心底、うれしそうな顔になる。
うれしげな明るい声が、周太に教えてくれた。

「周太からね、キスしてくれた時だけど?」

あのブナの木の下で。

初めて名前を呼んで、初めて周太からキスをした。あのブナの木の下での、大切な記憶。
気恥ずかしい、けれど幸せで、周太は微笑んだ。

「…ん、俺もね、うれしかった、よ?」
「きっとね、俺の方が、何倍もね、うれしい」

でもほんとうは、と思う。
だってほんとうはもう、夢の中では、したことがある。
そう思いながら見た隣は、幸せそうにコーヒーを啜っている。
夢のことを言ったら、もっと喜んでくれるだろうか?

こんなのは気恥ずかしい、けれど。
次にいつ、こんなこと伝えられるか、解らない。
たとえ夢の事だとしても、自分の想いであることは、変わらない。
想いは、すべて告げておきたい。ひとつ息をすって、周太は唇を披いた。

「あの、英二、」
「うん、なに周太?」

きれいな笑顔、やさしく見つめてくれる。
やっぱり、このひとを自分はほんとうに、すき。
そんな想いが、周太の想いを声にして、なんとか押し出された。

「ほんとうは…ね、俺、夢のなかで、…したことある」

なにを?
そんな質問を、きれいな切長い目が投げかける。
その隣の目を見つめて、ゆっくり一つ瞬いてから、周太は言った。

「あの、…夢のなかで、俺から英二に、キス、したこと…ある」

英二の切長い目が、大きく瞠かれた。

あ、かわいい。
思って、周太は思わず微笑んだ。
普段が涼やかなだけに、丸くなると瞳の印象が変わる。
元来が端正で、最近シャープな印象が深まっていた。それだけに、幼げな表情が余計かわいい。
かわいくて幸せで、微笑んで周太は、英二の顔を覗きこんだ。

「英二、」

大好きな名前を呼んで、呼んだ唇で端正な唇へ、そっとキスをした。

ふれるだけ。
でも、自分の、せいいっぱい。
そっと静かに離れて、気恥ずかしさに周太は微笑んだ。

ふっと英二が笑って、うれしそうに言ってくれる。

「周太のキスは、甘いな」

切長い目で、周太を真直ぐに見つめてくれる。
やさしく微笑んで、英二は口を開いた。

「その夢ってさ、いつ見た?」

ちょっと不謹慎な時だった。
田中の通夜の夜に英二と過ごした翌朝、葬儀を控えた明方だったから。
そういう厳粛な日に、そんな夢を見たなんて。それも恥ずかしくて、ずっと黙っていた。
やっぱり恥ずかしい、それでも周太は正直に告げた。

「ん、あの、…田中さんのお葬式の朝、なのだけど」

かつん、

指鳴ひとつ、デッキに響いた。
きれいな長い指の、ひとつの指鳴きれいに響いた。

「そっか、」

英二は可笑しそうに笑いだした。
どうしたのだろう?
反応に驚いている周太に、うれしげに笑いしながら、英二が言った。

「周太さ、その時に『すき』って言っただろ?」

なんでしっているのだろう?
不思議で見つめていると、英二が口を開いた。

「周太、それね、夢じゃないから」
「…え、」

どういうこと?

「だって、英二、一度もしてもらったこと無いんだけど…て、言ったよね?」

すこし悪戯っぽい目で、英二が答える。

「ずっと待っていたんだけど、っても俺、言ったな」

どうして?どういうことなのだろう?
解らなくて見つめていると、英二が笑って教えてくれた。

「あの朝は周太さ、明方に一度は起きたんだよ。「好き」って言ってキスしてくれたんだけど、またすぐ寝ちゃったんだ」

想いを伝えてキス、出来ていた。
そんな大切なこと、こんなふうに忘れていたなんて。

「…そう、だったのか」

きっとそのとき、墜落睡眠をして寝惚けたのだろう。そんな幼い頃からの癖が、恨めしい。
だって、ほんとうに、大切なことなのに。

「うん、そうだった。すごく可愛い寝顔だった」
「…そう、だったんだ」

大切なこと。
それなのに、夢だと思って忘れていた。
どうして忘れてしまったのだろう、恥ずかしい。英二に申し訳なくて、俯きそうになる。
でも、きちんと訊いておかないと。周太は隣を見つめた。

「そうだよ、」

見つめる想いの先で、英二は微笑んでくれる。

「周太、ほんと可愛い寝顔でさ。見つめながら俺ね、今のキスうれしかったなあ、って幸せだった」

微笑んで、英二は可笑しそうに、話してくれる。

「ほんとうに俺ね、うれしかったんだ。けど、周太は全く覚えていないし。
で、ちょっと傷ついていたんだ。それくらい周太からのキスは、本当は嬉しかったから」

「傷つけた…」

この隣を、自分が傷つけてしまった。
見つめる隣の姿が、水の紗でぼやけてくる。
どうしよう、だってこんなに愛している、守りたい。それなのに。
不甲斐なさに、哀しみが瞳に昇ってしまう。そう思った時にはもう、ひとしずく零れおちた。

「泣き顔も、かわいいね周太は」

やさしく微笑んで、長い指で頬を拭ってくれる。
瞳から零れる涙に、やさしく静かに唇を寄せて、笑いかけてくれた。

「周太がくれる傷はね、いちばん痛くて悲しい。
それを癒して治してくれるのは、周太だけ。だからずっと俺、周太からのキスを待っていたんだ」

いちばん痛くて、悲しくて。癒し、治し、…待ってくれていた。
自分だけを。

「…俺なら、治せる、の?」
「うん、周太だけだ。だって周太はさ、俺の初恋で、周太だけ見つめて愛してる。いちばん大切なんだ」

きれいな笑顔、やさしくて。
明るい穏やかな静謐、慕わしくて、見つめてしまう。
率直に告げられる想い、うれしくて、幸せがそっと温かい。

自分も、想いを、伝えたい。だって幸せを今、英二はくれた。だから、自分だって。

傷つけた、そのことに今、竦みそう。
けれど声、言葉を出して。
だから心、想いを言葉にかえて。
そうして唇、言葉を告げて想い伝えて、それから、

「…英二、」

名前、呼べる。
ひとつ心に刻んだ勇気、言葉に変えた想いを伝えさせて。

だってもう初雪が降った、街すらも雪を望むときを迎えてしまった。
この想い伝えるのは、今しかない。
さあ、ひとつの勇気、言葉を出して。

「俺も、同じだから…英二のくれる傷が一番、苦しい。英二だけが治せる…だって、だって英二は、俺の、」

英二は、自分の、唯ひとり、

「英二はね、俺の、唯ひとりだけ。唯ひとつの想い、唯ひとり想う、」

英二は自分の、唯ひとり、そして、

「唯ひとり愛している、…初めて、そして、いちばん大切なひと」

唇きちんと、想いを告げられた。
瞳、きちんと見つめて。ほら、英二が笑ってくれる。

「うん、周太。俺ほんと、うれしいから」

きれいな笑顔、幸せそうに見つめてくれる。
けれどもっと、笑ってほしい、幸せでいてほしい、だから。
だから唇、見つめる笑顔に今、求められた癒しを、贈らせて?

「…英二、」

名前を呼んで、目は逸らさないで。
見つめたままで、持っていた紙コップはベンチに置いた。
寒いからより添って、ふれあうほど近く座っていた隣に、もう少し近づいて。

「うん、周太?」

きれいな笑顔、名前を呼んでくれる。
傷つけた自分を、こんなにも、うれしそうに笑って迎えてくれる。
うれしくて、幸せが温かい。
この幸せも温もりも、いま与えてくれた人に、自分からも与えたい。

唇、声、まず名前を呼んで、

「英二、」

ふたつの掌たち。さっきは温めてくれひとの、きれいな頬をくるんで。

「周太の掌、温かいね」

うれしい幸せの温もりのまま、掌にくるんだ愛しい顔を、そっと静かに惹きよせて。
近寄せた顔に、声、名前を呼んで、想いを告げて。

「…英二、愛してる、」

くちびるに、くちびるで静かにふれた。

この愛する隣につけた傷、どうか癒され、治って。
どうか愛する笑顔を、また見せて。
どうか想いの人、離れないで。
どうか想いのままに、きれいな笑顔でずっと、生きて輝いて、隣にいて。

ふれるだけ、けれど想いは真実より深くから。
ふれて伝える深い想い、ほんとうに伝えられただろうか。
そっと離れて見つめる瞳に、想いのかけら、どうぞ見えて?

「…英二、傷、痛い?」

きれいな切長い目、明るく微笑んで。
きれいな唇が、やわらかに微笑んでくれた。

「うん、もう痛くないよ。周太、ほんとうに愛している」

きれいに笑って英二が言ってくれた。
愛している。
その想いが温かい、そして喜びの想いと呪文にきこえる。
だって約束してくれた「愛しているだけ、帰ってこられる」だから想いが、うれしい。

「ん、俺もね、ほんとうに愛してる、英二」

想い告げられる、名前を呼べる。
うれしい、幸せが温かくて、心に充ちてくる。
ありふれたことだろう、けれど自分にとっては、唯ひとつの、だから。

唯ひとつの想い
唯ひとり想うひと、愛している。

奥多摩での3つの夜、3つの暁、そうして今夜。
新宿での4つめの夜に、また約束を重ねて想いを重ねる。

「周太、約束はね、俺は絶対に守るから」
「ん、守って、英二。だから…」

約束を、想いを、キスで確かめて繋いでほしい。

「周太、」

きれいに笑って、英二は周太にキスをした。

ほら、こんなふうに、言わないでも解ってくれる。
だからきっと大丈夫、約束の意味も全て、解っている。
だからいま、唇は離れても。
ふれた唇で結んだ、ふたりの想いと約束は、離れない。

…愛している、もう離れられない だから英二は、帰ってくる

そんな想い心に充ちて、きれいに周太は笑った。

英二は青梅署へと戻るために、21時過ぎの電車に乗る。
駅ホームまで見送ると言った周太に、英二は微笑んだ。

「ホームまで来るとさ、また俺きっと、周太を浚っちゃうから」

そんな前科が英二にはある。
卒業配置初勤務の前日、英二が青梅署へ発つ中央線ホーム。
見送りに来た周太を、英二は車内に引張りこんでしまった。

「そう、なの?」
「うん、だって離れたくないだろ?俺、身勝手だからきっと、また浚っちゃう」

そんなふうに笑って、新宿署独身寮まで送ってくれた。
いつもの場所、しずかな片隅の大きな街路樹の蔭で、強い腕が抱きしめる。
ひそやかな木蔭、キスして笑ってくれた。

「ほんとに、浚いたいな」

ほんとに、浚われたい。
心にそっと呟いて、でも微笑んで周太は訊いた。

「そう、なの?」
「そうだよ、周太」

頷いた切長い目が、ふわり温かな想いを映す。
やさしい穏やかな笑顔が、ひろやかに英二に咲いた。

「それくらいさ、この3日間が幸せで俺、本当はもう周太をね、離したくないんだ」

なんてきれいな笑顔だろう。
見惚れてしまう、そんな美しい、やさしい笑顔。
いつのまに英二は、こんな顔で笑うようになったのだろう?

ほんとうに、離れたくない。
離さないでと縋って、このまま一緒に奥多摩へ戻れたら。

想い見つめる周太に、そっと唇で唇にふれて、瞳を覗き込んでくれた。

「だから俺、絶対に周太の隣に帰る。だから笑って見送ってよ周太」
「ん、」

ひとつ涙こぼして、きれいに笑って周太は言った。

「いってらっしゃい、たくさん笑ってきて。そうして無事に、俺の隣に帰ってきて、笑顔を見せて」

それから、まだ伝えたい。
どうか笑って伝えたい、…涙は止められそうにないけれど。

「ほんとうに俺、英二だけ。英二だけ愛している、英二しかいない…だから帰ってきて、約束を叶えて」

涙のむこう、想いに見つめる真ん中で。
きれいな笑顔で想い、受けとめられる。きれいに笑って、英二は約束してくれた。

「うん、約束だ。周太、俺はね、思ったことしか出来ない、言えない。
俺はさ、そういう馬鹿だろ?だからね、約束したら絶対に守るよ。そうして周太を幸せにする」

「…ん、」

3つの夜、3つの暁、そして今4つめの夜。
どれも幸せで、温かくて、そして今、涙がこぼれて止まらない。

「周太、雪山からだってね、俺、絶対に帰るから。
 そしてね周太、どんな冷たい真実も辛い現実も、周太だけには背負わせない。
 絶対に離れないで、俺が背負ってみせるよ。だって俺、そのためにきっと、ここにいる」

そう、ほんとうに英二はいつも、背負ってしまう。
13年前の事件も、自分以上に調べて追いかけて、そうして真実を掴んでしまった。
そうして真実の底に沈んでいた、父の想いを全て、自分に示して笑ってくれた。

「…ん、英二、」

その想いが、いつもうれしい。
うれしくて、想いが迫あげて、涙に変わる。
うれしくて微笑んだ、周太の頬を涙が伝っていく。

「きれいな笑顔で、泣き顔なんて。ちょっと反則だよ周太?」
「はんそく?」

きれいな長い指が、周太の頬を拭ってくれる。
それから微笑んで、そっとキスして言ってくれた。

「あんまりさ、きれいで可愛いから。もう俺、自分で自分の想いにね、お手上げ」
「お手上げ?」

よく解らなくて、つい訊いてしまう。
ほらもうお手上げだ、そんなふうに笑って、英二は言った。

「だから周太お願いだ、もうひとつ今、約束してよ。…いつか、絶対に、一緒に暮らそう?」

いつか、絶対に、一緒に暮らす。

夜も暁も、ずっと一緒にいたい。
そう想っていたのは、自分だけじゃない、そういうこと?
この愛する隣も、英二も、そう想ってくれる、そういうことなの?

「3日間、3つの夜と3つの朝と一緒で。そして今4つめの夜な。
 ずっと一緒でさ、俺、もう気がついちゃったんだ。
 俺にとってはさ、周太と一緒にいることがね、いちばん自然で幸せだってこと」

「…いちばん自然、で、幸せ?」
「うん。もうさ、いちばんっていうかね、“当然” って感じかな?」

いまきっと、すごく、幸せなことを、言われている。
思わずぼんやりしそうになる。

「…いっしょが、とうぜん、自然で幸せ?」
「うん、そうだよ周太。俺はね、周太と一緒にいるのが、正しいポジション。もう絶対そう」

こんなのは不意打ちだ。

だってここは、新宿警察署の近く。ときおり寂しさに、泣きたくなる新宿の街。
いつも哀しさが、どこか蹲る場所。
それなのに。
そんな場所でどうして、こんな、幸せな瞬間が、起きるなんて予想する?

「だからね、周太。約束してよ、ずっと一緒に暮らすこと。いつかきっと絶対に、毎日を一緒に見つめること」

きれいな切長い瞳、健やかに笑っている。
健やかで温かい率直な心、やさしい穏やかな静謐、きれいな笑顔。
穏やかなままに、明るく笑って、強請ってくれる。

「もう解っているよね、周太。断っても無駄だよ?
 俺は身勝手だからさ、周太が逃げてもね、離れないから。絶対に掴まえて離さない。そうだろ?」

すこし悪戯っぽい顔、かわいい。
その瞳の温かさ、真直ぐな想い、きれい。
抱きしめてくれる強い腕、穏やかな静謐、頼もしい。

どれも、すき。愛している。

でも今ほんとうに、あんまり不意打ちで。
とまどってしまうまま、質問の言葉が出てしまう。

「…もし、逃げたら、ことわったら、どうするの?」
「うん、そうだな、」

きれいな顔、すこし悪戯心が強くなる。
端正な顔、すこし率直な傲慢に、なんだか…きれいな悪魔?みたいだ。
まえに読んだ小説、ほら、なんだったかな?…我儘な、天使?
そんな顔で笑って、楽しそうに英二が言った。

「断られてもね、きっと掴まえて、閉じこめちゃうな」

紺青色の表装『Le Fantome de l'Opera』
初めての外泊日、英二が取って渡してくれた、恋愛小説。

オペラハウスは、巨大なカラクリ箱。
そこは、怪人の孤独な棲家。
その棲家に怪人は、恋する歌姫を掴まえて、閉じこめてしまう。
けれど歌姫の恋人は別の男、歌姫は恋人に連れだされて、ふたりは外へ帰っていく。

けれど、自分は?

「とじこめるの?」

率直に過ぎて強引で、身勝手で、怒ると冷酷なまでに怖い。
けれど、笑顔は、きれい。

「うん、掴まえてね、閉じこめる。それでずっと、周太にはさ、俺だけを見つめてもらう」

きれいに笑って、幸せそうに英二が答えてくれた。
温かな笑顔、穏やかな静謐。
その気配が好きで、警察学校の寮で、ずっと隣にいた。

「英二だけを、見つめて?」
「そう、俺だけ見てよ。だって俺、嫉妬深いからさ、怒っちゃうだろ?」

英二は、唯ひとり想う愛する人。
その人が、自分を閉じこめると言ってくれる。
もしも、『Le Fantome de l'Opera』、怪人が、歌姫が真実に想う、唯ひとり想う人だったら?

愛し愛される人が、とじこめると言うのなら?

「英二、嫉妬深いの?」
「うん、そうだよ。周太もさ、知ってるだろ?だって俺、警察学校の時、結構みっともなかった」

懐かしそうに英二は、明るく笑った。

健やかで温かい率直な心、やさしい穏やかな静謐、きれいな笑顔。
率直なままに身勝手で、美しいままに傲慢で、強い腕のままに強引。
怒ると冷酷なまでに怖い。けれど温もりは、どこまでも優しくて。

そのどれも、ほんとうに、すき。

「だからさ、周太。約束してよ?
 約束してくれなくてもね、いつか俺は、周太を掴まえて、閉じこめちゃうんだからさ」

そしてきっと、って想う。
自分を閉じこめたって、きっと英二は。
いつも自分を温もりで、やさしく包んで支えて、救ってくれるように。
やさしい温かな想いのままに、山岳救助隊員として駆け出してしまう。

でも、駆けだしても、帰ってくるなら。

「…いつも、絶対に、帰ってくる?」

きれいに笑って、英二が答えた。

「当然だよ周太、だって俺の帰る場所は、周太だけ。
 俺はね、周太ばっかり見つめて愛している。
 だから周太、いつか必ず、俺と一緒に暮らして? その絶対の約束がね、俺、今この時にほしい」

そう、今この時。
英二が雪山の危険に立ってしまう、その前に。
こうして「絶対の約束」を結んで、必ず英二が帰って来られるように。

ゆっくりと周太は、英二を見上げた。
端正な白皙の頬を、街路灯がしずかに照らし出す。
やさしい穏やかな静謐、きれいな微笑みが、周太を見つめていた。
きれいな、英二の笑顔。
学校時代もその後も、辛い運命に向かう時ですら、いつも隣で笑ってくれる。

…愛している

想いが心から、そっと唇と瞳へ昇る。
きれいに、周太は笑った。

「ん、…いつか必ず、英二と一緒に暮らす。絶対の約束をね、結んで英二?」

黒目がちの瞳から、想いの熱がひとしずく零れる。
そっと端正な唇がふれて、周太の涙をしずかに呑みこんだ。

「うん、絶対の約束だ。周太、俺のこと信じて、待っていて」

きれいに笑って、キスしてくれる。
やさしく微笑んで、真直ぐ見つめて言ってくれた。

「愛している、周太」

うれしい。
きっとこれでもう、英二は必ず、自分の隣に帰ってくる。
もうずっと、絶対の約束を守って、必ず帰ってきてくれる。

唇、名前を呼んで、想い、伝えて。

「うれしい。英二…愛している、」

幸せの温もり一滴、周太の頬からこぼれた。




(to be continued)


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萬紅、始暁act.3―another,side story「陽はまた昇る」

2011-11-28 23:08:17 | 陽はまた昇るanother,side story
「いつもの」つなぐ想い




萬紅、始暁act.3―another,side story「陽はまた昇る」

クリスマスの訪れ待つ街。
街路樹の梢、かがやき光まばゆい。
あわい光つらなって、ビルの谷あたたかい。
17時半過ぎに戻った新宿は、週末を迎えて姿を変えていた。
奥多摩へ向かった水曜日、戻ってきたいま土曜日で、すっかり空気も光も違う。
あわい光のイルミネーションに、街中どこか冬が楽しげにいる。

あわいブルーの光、雪のような光。たまにオレンジ。
きらびやかな清楚な光の街は、ホワイトクリスマスを望む色。
ホワイトクリスマス、それは雪ふる聖夜。

…雪、

イルミネーションの色すらも、心に不安を誘う。
英二は山岳救助隊員として今冬、雪ふる山の遭難救助に初めて立つ。
そうした雪山での任務の危険に、思わず不安が募るから。

「…ん、」

不安に克ちたい、そっと周太は呟いた。

「もう、決めたんだ」

もう自分は心を決めた、ひとつの勇気が心刻まれた。
だから泣かない、不安の予感に負けない。
怯えてばかりはいない。

新宿署独身寮の自室、荷物をおろした。
そうしてすぐに扉開いて、廊下で待つ英二に笑いかける。

「お待たせ、英二」
「おう、」

きれいに笑って、英二が凭れた壁から身をおこす。
端正な長身をすこし傾けて、うれしそうに隣から、周太を覗きこんだ。

「じゃ、行こっか」
「ん、」

そう、もう自分は、怯えてばかりはいない。
だってこの隣は、雪山をも心から楽しみに、山ヤの警察官になったから。
だから自分も楽しみに待つ、この隣が見つめる雪山の想いを、語り聞かせてくれること。

そうして愛する隣の想いを、分ち理解して一緒に共感して、もっと心深く繋がりたい。
そうしたらもっと愛し愛されて、この隣は約束の通り必ず帰ってくる。

―愛しているだけ、必ず周太の隣へ、俺は帰られる―

愛する想いは逢いたい想い。逢いたい想いの強さから、人は生きることを望む。
愛する想いが強いほど、逢いたい想い強く繋いで、生きる原動力が強くなる。
だからどうかもっと、愛してほしい、愛されたい。
愛されることで英二の命を救える。だからもっと愛されたい、生きて笑ってほしいから。

そうしてどうかずっと、自分の隣へと帰ってきて。ずっと隣で、きれいな笑顔で佇んで。
笑っていて、幸せでいたい、もう離れたくはない、愛している。
だから愛される為ならば、自分はもう、何だって出来てしまう。

だから今この時も、愛される為に自分は生きる。
だから今この時にみる、ホワイトクリスマスの光だって笑って見る。
だってこの愛する隣は、ふる雪の冷厳を知ってすら、ふる雪に想いをむける。
だから自分も同じように、雪へ想いをむけて、この隣と心重ねていく。

「周太、どっか寄りたいとこ、ある?」

駅の西口まで来て、英二が笑って訊いてくれた。
出来れば今日中に、欲しいものがある。
すこし遠慮がちに、周太は訊いてみた。

「あの、英二、ちょっと買物に寄っていいか?」
「うん、いつもの本屋?」

最初の外泊日、一緒に行った書店。
紺青色の表装『Le Fantome de l'Opera』英二が書棚から取って渡してくれた。
あれから外泊日には、あの書店にも何となく、一緒に立ち寄っている。
今日も、そう、欲しい本があるかもしれない。

「あ、うん。それも。あと、その隣のね、クラフトショップに行きたいんだ」
「じゃあ南口だな、この近道で行こっか」

そう周太に笑いかけると、英二は百貨店の谷間へと足をむけた。
西口と南口を繋ぐ小道。花屋とカフェと色々、小さく瀟洒な店が並んでいる。
あのカフェは英二が好きな、クラブハウスサンドがあったな。
思いながら見上げた坂道の入口、周太の瞳が驚いた。

「…あ、」

小道の坂の壁いっぱいに、光の滝があふれる。

いつもと同じ道、けれどいつもと違う。
瞳大きくして周太は、立ち止まったまま、坂道を見上げていた。

「かわいい、周太、」

きれいに笑って、英二が周太を覗きこむ。
きれいな長い指が、周太の掌をとってくれる。

「ちょっと指が冷たい?周太、」
「あ、ん。そう、かな?」

英二は端正な顔を、すこし夜空に仰向けた。
白皙の頬を、黒い襟が夜風に掠めて撫でる。

「うん、ちょっと風、出てきそうだな」

周太の隣に立つ、端正な長身の英二。
山闇のように黒いミリタリージャケット、ビルの風に翻して立っている。
白皙の頬と黒髪と、黒いジャケットコート姿を、光の滝に照らされていた。
山での英二は明るく快活に眩しく、まばゆい。
けれど新宿の立ち姿も、どこか眩しくて、きれいで、見つめてしまう。
きれいだな。思って見上げる周太に、きれいに英二が微笑んだ。

「周太、」

きれいに笑って名前呼んで、長い指にとる掌に、そっと端正な唇よせた。
すこし冷たい指に、そっと温もりがふれた。

「ほら、冷えてる」

きれいな切長い目、やさしく微笑んだ。
ふれる温かな吐息が、冷たい指をとかしだす。

「…ん、」

都会のビルの谷間、冷たい指、けれど唇の想いが温かい。
うれしくて、けれどやっぱり気恥ずかしくて。
困ってしまう。

どうしよう。

それでも昨日、初雪が降った。
イルミネーションすらホワイトクリスマス、雪ふる予兆。
今夜にまた別れて、ふたり離れる。雪山からの無事を願い、英二を想う日々が始まる。
今夜また別れたら、次にいつ逢えるのかも、まだ解らない。

だから。
気恥ずかしいけれど、今、このときの幸せを見つめたい。
微笑んで、周太は隣を見上げた。

「…ん、ありがとう、英二。温かい、」
「うん。ちょっとは冷え、治ったかな、」

端正な唇を指から離して、きれいに英二が微笑んだ。
そうして英二は、そのまま周太の掌を片方、ミリタリージャケットのポケットに入れた。
ポケットの中、長い指に指からめた英二が笑う。

「ほら周太、あったかいだろ?」

こんなこと、初めてのこと。
どうしたらいいの?なんて答えたら。

山の夜籠めるブラックカラーの隣。
その内側に納められた掌、なんだか熱い。
気恥ずかしい、けれど、うれしい。恥ずかしい、けれど、幸せが温かい。

そう、幸せが温かくて、うれしい。
この想いを今、伝えられたらいい、微笑んで周太は隣を見上げた。

「…ん、温かい。幸せだよ、英二」

きれいな笑顔が、英二に咲いた。
うれしそうに笑って、周太の瞳見つめて言ってくれる。

「行こう、周太?」
「ん、」

ポケットのなか、繋いだままの掌。
気恥ずかしい、けれど幸せの温もり繋いで、街ふる光の小道を歩く。
小道の壁あわい黄金の光は、ブナの木洩陽にすこし似ていた。

「きれいだな。周太、楽しい?」

山の黄金の光、街の黄金の光。
どちらの中でも英二は、きれいな笑顔にまばゆい。
見上げて、幸せで周太は微笑んだ。

「ん、きれいで、楽しいな」

クリスマスの街を誰かと歩く。これも初めてのこと。
想いの人と、こんなふうに。幸せそうな光の街を歩くのは、なんだか少し面映ゆい。
隣で英二が、きれいに笑ってくれる。

「こういうのって、恋愛ですって感じでさ、いいな」

こういうの。
こういうとき、冷えた指を吐息に温めて。
こういうふうに、ふたり手を繋いで歩くこと。
こういうふうに、繋いだ掌をポケットで温めてもらうこと。
そうして想うひとと、クリスマスを待つ街を歩くこと。
初めて恋して、愛する、唯ひとつの想いの唯ひとりのひと。その人と。

「…ん、いい、ね」

でも、って思う。
でもきっと、この隣は、他の人とこんなふうに、歩いたことがあるだろう。
だって自分は知っている、この隣がどんなにか、人の目を惹く存在か。
ほら今もう、きれいな笑顔が咲いている。

「こんなふうにさ、周太の隣を歩けて俺、ほんと幸せだよ?」

こうして寄せてくれる自分への想い。
ほんとうに英二は、自分より深く愛した相手は、今まで他に無い。
そのことは、疑いようもなくもう、解らされて知っている。だって英二はいつも、率直すぎるから。
けれどきっと、こういうふうに。誰かと歩いた時は、たくさん持っているだろう。

自分には初めて、けれど英二にとっては、…いったい何度めだろう?

思って見上げた隣、きれいな切長い目が、周太を見つめてくれる。
ポケットの掌をそっと握って、うれしそうに英二が笑った。

「俺ね、こういうふうに誰かと歩くの、初めてなんだ」
「…え、?」

ほんとうに?
ううん、そんなこと、あるはずがない。それくらい今は、解る。

だって出会った校門前でも、女の人の運転する車から降りてきたでしょ?
だって寮を脱走した時も、女の人が妊娠した、そう思ったからでしょう?
恋愛とかそういう関係とか、自分は確かに幼稚すぎて、物知らず。
けれどでも、それくらいは、もう解る、そういう時間と夜を、過ごした経験が英二にはある事。

自分は初めて、けれど英二は違う。それが少しだけ、哀しい時もある。
けれどお願い、大丈夫だから。

「俺もね周太、初めてだよ」

大丈夫だから、そんなふうに俺に、合わせないで?

「いや、…俺にさ、合わせないで、よ?」

合わせられるのは、哀しくなるから。

「だってさ、俺の初恋は周太だ。そのことは、周太も解ってくれている。だろ?」
「…ん、それは、そう。だけど、」

英二は自分が初恋、そう、もう解っている。
ほんとうに英二が想ったのは、自分が最初で最後、もうそう解っている。
率直すぎるほど、実直な英二。真実に誰かを想ってしまったら、手離せるわけがない。
美しい正直なままに、身勝手で強引な英二。自分が心底求めたら、無理にも掴んで逃がさない。
だからもし自分の前に、そんな出会いがあったなら。今頃は他のひとが、英二の隣にいるはず。
だから自分が最初で最後と、そう解ってしまう。それが充分すぎるほど、自分には幸せだ。

でも、こんなふうに手を繋いで歩くのは、きっと、…これは何度め、なの?

「…でも、誰かと歩くのは、初めてじゃない、ね」
「うん、歩いた位はね。でもさ、初めてなんだよ?」

やさしい英二、きっと自分の心を想ってくれている。
自分は初めて、けれど英二は違う。それが少しだけ哀しいと想う、そんな自分を慰めたくて。
でもそんな、やさしい嘘は自分達には、必要ない。だって全てが真実、自分達の想いと繋がりは。

だからね、どんな嘘も要らない。ね、英二?

想いに見上げた隣で、きれいな切長い目が微笑んだ。
微笑んだ目が告げる、「ほんとだよ、」そして微笑んだ唇が、静かに開いて告げてくれた。

「誰かの冷たい指をさ、唇と息で温めたことはね、俺、初めて」

初めて?
意外で見つめる想いから、英二が見つめ返して教えてくれる。

「こうしてさ、ポケットで掌を温めて繋ぐのも、俺は初めてなんだ」

初めて、ほんとうに?
だって今までずっと英二は、たくさんの彼女達といたのに、なぜ?

「…なぜ?」

疑問が心にあふれだす。
あふれる疑問が詰まって、周太の唇をふるわせた。

「…だって、今までずっと、付きあった人たくさん、いただろ?」
「うん、いたけどな。でもさ、」

ポケットの掌、やさしく握りしめてくれる。
見上げる瞳やさしく微笑んで、英二は答えてくれた。

「今までの彼女達にも誰にもさ、こんな事したいとはね、思わなかったんだ」

ほんとうに?

「…そう、なの?」
「そうだよ、周太」

きれいに笑って、英二が答える。
きれいな笑顔で見つめて、繋いだままの掌で惹きこんで、そっと通りの端へと抱き寄せられた。
端正な長身をすこし傾けて、周太の瞳のぞきこんで、微笑んで告げてくれる。

「こんな事もね、どんなことでも、周太にはしたい。
それでさ、周太の笑顔をみたい。こんなの周太だけだ、だから周太がね、初めてなんだ」

あわい光、白く蒼く、それから金色。
あわい光に照らされて、こんなふうに抱きよせられている。
気恥ずかしい、けれど温かくて幸せで。この今この時が、愛しい。

「周太にはさ、笑ってほしいから、何でもしたいよ。俺ね、周太の笑顔がほんとうに、大好きなんだ」

なにより抱き寄せるひとの、想いの真実が愛おしくて、幸せで。
幸せな想いが充ちて、ほら、もう唇から、こぼれだす。

「…ん、うれしい。英二、俺もね、英二の笑顔の為ならね、どんな事もね…出来る」

きれいな笑顔が、笑ってくれる。
笑って受けとめて、周太の瞳を覗きこんでくれた。

「知っているよ、周太。だからさ、昨夜は「好きなだけ」許してくれたんだろ?」

昨夜は、「好きなだけ」
そう、昨夜は、そういうこと。

英二の「好きなだけ」を受入れたら、もっと愛してもらえる、そう思ったから。
もっと愛されたい ―愛しているだけ、必ず周太の隣へ、俺は帰られる― この約束の為そう願ってしまう。
だって自分はもう、この笑顔を、絶対に守ると決めている。
どんなに危険な山からも、救助現場からも、必ず生きて帰って、いつも隣で笑ってほしい。
そのためなら、どんな事も自分は出来る。そのための勇気だって、ひとつ深く生まれた。

でもね、英二ごめん、ちょっと今さすがに、恥ずかしくて、

「…ん、…そぅ…」

返事する声、思わず小さくなってしまう。
だって昨夜ほんとうに必死だった、だからもう、恥ずかしさも越えられた。
この今だって、必死に想っている、求めている。
でも、ちょっと、さすがに、ここでは。

「俺さ、ほんと昨夜は、うれしかったんだよ、周太。 朝起きた時にはさ、夢だったかと思ったくらい、幸せでさ」
「……ん、…」

そんなに喜ばれて、うれしい。
喜ぶ顔、きれいな幸せな笑顔。どうかずっと、無事に隣に、帰ってきてくれますように。

けれどね、英二ごめんなさい。
あらためて言われると、ちょっと、ここではもうさすがに恥ずかしい。
たぶん今もう顔も首筋も、真っ赤になっている。
けれど隣は、ただ幸せそうに笑って、うれしそうに言ってくれた。

「周太、ありがとう。でもきっとね、俺のほうが愛しているから」

堂々と、きれいな低い、透る響く声。
ほら、みんな思わず振り向いて、こっちをみている。けれど、見てくる視線には、微笑んで温かい目もある。
こういうふうにいつも、英二は堂々と明るくて、きれいに周りも巻きこめる。
こんな隣がいてくれる、自分は心から幸せだ。うれしくて幸せで、頬赤いまま周太は微笑んだ。

「ん、…愛して英二。そして俺の隣に必ず帰ってきて?」

昨夜結んだ「絶対の約束」
まるで呪文のように、なんども繰返し告げてしまう。
それでも英二は、自分の想い受けとめて、きれいに笑って答えてくれた。

「おう、絶対に帰るよ。だってさ、他の奴が周太の隣を狙ったら、俺、嫉妬しまくってヤバイから」

そんなふうに言われて、うれしい。けれど、ちょっと、

「…うれしい、けど、俺もう、これ以上は赤くなるとね、倒れそう…だから、」

そろそろかんべんしてね?
そう見上げて目で告げた、それをきっと英二も受けとめてくれた。
けれど幸せそうに笑ったまま、きれいな切長い目が覗きこんでくる。

「ほんと赤いね、周太。ほんと可愛い、周太だいすき」
「…、そぉ……」

だからね、英二、そういうのが、赤くなるんだけど。

「こういうね、周太の純粋なかんじ、俺、ほんと好き。かわいい周太、」
「…ん、…はぃ……」

英二、うれしいけど、でも、もう真っ赤で、…困るこういうの。

そう言いたかったけれど、ちょっともう、言えない。
だって、この隣の笑顔、あんまりにも幸せそうで。
だって、こんなに幸せそうに笑ってる。きっと笑顔の分だけ、愛してくれている。
だからきっと、こんなに愛してくれるなら、きっと必ず帰ってきてくれる。
そう思うともう、何も言えない。

「周太ほら、顔、見せてよ?」
「…ぁ、はい、」

西口から南口へ抜ける小道、あわい光の照らす道。
その片隅でさっきから、もうずっと英二に、抱きしめられたまま。
きっとほんとうに、傍から見たら…どうなのかな。っても思う。

けれどもう、それは問題じゃない。
ただこの隣が無事に帰る、その為だけに覚悟したから。

恥ずかしいけれど、困るけれど、でも。

「かわいくて、きれいだな、周太は。俺、ずっと見ていたい」
「…ありがとう、うれし…ずっと、見て?」

この今が英二にとって、幸せな記憶になって、愛する気持ちになって。
そうしてどんな危険にも、立ち向かい生還し帰ってくる、そんな力に成ればいい。

「おう、俺、絶対いつも、周太の隣に帰る。だから顔、見せて?」
「…ん、」

でもそろそろ、お願いしないと。
遠慮がちに周太は、ちいさな声で言った・

「…ぁの、そろそろ、買い物…行きたいな?」
「あ、そうだな。ごめんね、周太」

やっと腕ほどいて、行こうかと笑ってくれた。
けれどやっぱり、繋いだ掌はポケットに入れたまま、歩いてくれる。
こういうのは、気恥ずかしい。けれど幸せが、心の底から温かい。

「周太の体温ってさ、俺、落ち着くんだよな。だからつい、時間が過ぎてた」
「ん、…そう?」

ショップに着くまでに、この紅潮は顔だけでも治まる、のかな。
火照りを納めながら歩いて、いつもの書店のビル隣に入った。
エントランスには、クリスマスの華やぎが充ちている。
クラフトショップもそんな、迎える冬に華やぎを夢見ていた。

「ふうん、すっかりクリスマスだな」
「ん、きれいだね」

エスカレーターで7階へ向かう。
「理化学用品」コーナーへ行くと、シリカゲル粉末シートとチオ尿素を見つけた。
それから携行用の「植物標本・押花キット」が見つけられた。コンパクトで、弁当箱サイズになっている。
こういうのは出先で使えて便利だろう、一緒にレジへと持って行った。
英二は隣から、不思議そうに眺めている。何に使うんだと切長い目に訊かれて、周太は笑って答えた。

「これはね、植物標本に使うんだ」
「あ、雲取山で見つけた落葉とか?」
「ん、そう。押葉にしてね、採集帳に貼るんだ」

雲取山と御岳山で、見つけた落葉たち。
きちんと押葉にして、残しておきたくなっていた。
奥多摩の山懐で。父の記憶と素直に向き合って、この隣と“初めて”を積んだ。
想い深い、奥多摩の3つの夜と3つの暁。
その日付を見つけた落葉と一緒に、記しておきたかった。

「周太、」

きれいな低い声で、名前を呼んで。
きれいに微笑んで、英二が訊いてくれる。

「その採集帳、こんど見せてくれる?」

父と作った採集帳、そして今回の想いを加えるページ達。
13年前までの幸福だった自分と、13年を超えて幸せに今いる自分で作る。
見てもらえたら、きっと嬉しい。
なによりも、「こんど」の約束が嬉しい。微笑んで周太は頷いた。

「ん、こんど、必ず見て?」
「うん、楽しみだな」

そんなふうに話しながら、ショップから通りへと出た。
街路樹もLED燈が、清楚な光を見せている。
あふれる光を眺めながら、他愛ない話に歩くのが楽しい。
そういえばさと、英二が周太に笑いかけた。

「周太はさ、今、ほしい物とかってある?」

ある。

「…ん、」

ちいさく頷きかけて、周太は止まった。
だって自分が今ほしいもの、ちょっと言い難い。
それにこういうことって慣れていない、どうしたらいいの?

なんだか首筋も頬も、やけに熱くなってくる。
たぶんきっと、真っ赤だろう。

「周太?」

どうしたのだろうと隣が覗きこんでくる。
ちょっとまって今はだめなのこっちみないでいて?
気恥ずかしくて周太は、軽く瞳を伏せてしまった。

「どうしてそんなに、恥ずかしがるんだ?」

ちょっと困ったような、きれいな低い声が訊いてくる。
困らせたくない、けれど今たぶん自分のほうが困ってしまう。
だってなんて言っていいのかすらほんとに自分でも解らない。

「周太?」

でも、何か、いま、言わないと。
ひとつ息すって、なんとか周太の唇から、ちいさな声が出てくれた。

「…いや、あの、…なんでもないんだきにしないで」

そう言われたって気にする。
そんな声が、隣からは聴こえてきそう。
けれど英二は、やさしい笑顔で覗きこんでくれた。

「じゃあさ、約束。会う時にまで考えて教えて?」
「…ん、約束する、」

約束、またひとつ。あ、うれしいなと思う。

だって約束ふえるごと、英二は約束を守るために帰ってくる。
約束がザイルのように、英二の無事を繋いでくれる。そんなふうに信じてしまう。

けれど。
会う時までに、きちんと言えるようになるだろうか?
ずいぶんと自分には難題になりそう。

そう思っているうちに、いつのまにか暖簾を潜っていた。
温かな湯気の向こうから、主人の穏やかな笑顔が迎えてくれる。

「あ、また来てくれたんだね」
「はい、また来ました」
「うれしいですね、さあ、お掛け下さい。寒かったでしょう?」

きれいな笑顔の英二と、楽しそうに話す主人の姿。
話す声もどこか、穏やかな温もりに充ちている。
父の遺した、温もりのかけら。主人の穏やかな瞳の底に、父の穏やかな笑顔が見える。

「奥多摩の水でつくったビールなんですよ。俺がいる山の水です、旨いですよ。おやじさんもね、飲んでみて下さい」
「じゃあ、すみません。ありがたく頂戴します」

土産をうけとる主人の瞳は、謙虚な喜びがきれいだった。
父が命を懸けて救った、この主人の命と心。そして父が遺していった、温かな想い。
父の想いは今夜も大切に守られて、カウンターのむこうで生きている。

…ありがとうございます

そっと心に呟いて、周太は微笑んだ。
微笑んだ手元に、そっとメニュ―表を長い指が出してくれた。

「ほら、周太。なに頼む?」

いつもの寛いだ雰囲気、今夜もうれしい。
そして今夜は隣に、大好きな笑顔が座ってくれている。
きれいな笑顔を見上げて周太は、幸せに笑って答えた。

「ん、いつもと同じの」
「またかよ、」

すこし呆れたように、けれど楽しそうに英二が笑ってくれる。
カウンターのむこうからも、穏やかな声で主人が笑いかけてくれた。

「またですか、」

こういうのはなんだか、うれしい。
うれしくて、きれいに笑って周太は答えた。

「はい、またです」

やさしい英二、穏やかな主人の笑顔。
それから奥多摩にいる、やさしい温かな場所、会いたい人たち。
そしてこの新宿の、同期の深堀や同僚先輩たち、あのベンチ、英二との大切な場所の数々。
どれもきっと、13年前の事件が無かったら、出会えなかった。

13年前、父は死んでしまった。
それを良かっただなんて、決して思えない。
けれど父の死を見つめ生きてきた、自分の軌跡を無かったことになんて、もう出来ない。
苦しかった哀しかった、それでも、どの全てもが、自分に必要だったと素直に認められる。

そしてこの店の主人も、13年前に父と出会えなかったら。
こんなふうに穏やかに微笑んで、客として訪れる人へ温もりを分ける。そんな生き方は出来なかった。

13年前に父は殺された。
そのことは、誰にとっても苦しみだった。
けれど今こうして、父の遺した想いに抱かれて、この主人も自分も、幸せに笑っている。
そのことを否定なんて出来ない、後悔も出来ない。

あのまま幸福に生きた人生と、今この生きる人生と。
もし選べるというのなら、きっと、今この人生を選ぶだろう。
だって13年間を苦しんだからこそ、この幸せの温かさに、気づける自分でいる。
13年前に砕かれた、ただ幸福に笑っていた笑顔。
あの笑顔よりきっと、今の自分の笑顔のほうが、美しい。
だって今の自分は、苦しみ知るからこそ見つめられる、唯ひとつの想いに生きるから。

13年間の長い冬。
そこから自分を救った、愛するこの隣。
そうして知った、唯ひとつ深い想い、愛することの意味、生きることへの誇り。
与え合う温もりの尊さ、誰かを幸せにできる喜び、それから笑顔の美しさ。

この隣と出会って、ほんとうに生きる自分になれた。
そんな自分のこと、心から誇らしい。
そしてこの隣に座れること、帰ってくる場所であること、いつも誇らしい。

「周太、ほら、気をつけて」

温かな器を、そっと前に置いてくれる、大きな掌。
やさしく微笑んで、見つめてくれる、美しい切長い目。
そしてきっと自分の言葉に、こんどは喜んでくれる。

「ありがとう、英二。うれしい、な」

ほら、隣の顔が、もっと笑顔になる。

「うん、俺もね、うれしい。周太が、うれしいと俺、幸せだ」

きれいな笑顔、自分の言葉で咲いていく。
きれいな笑顔、見つめていれば幸せで、愛しくて。ずっと見つめていたい。
そんな幸せの温もりは、いつも泣きたい程に、愛しい。

だから想う。この隣と出会えない人生なんて、自分はいらない。



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萬紅、始暁act.2―another,side story「陽はまた昇る」

2011-11-27 23:48:20 | 陽はまた昇るanother,side story
待っていた想い、告げていく想い




萬紅、始暁act.2―another,side story「陽はまた昇る」

御岳山へと向かう車窓は、紅葉彩る稜線に青空がきれいだった。
ひとつのiPodイヤホンで繋いで、同じ曲。
ふたり並んで訊きながら、奥多摩の終わる秋を眺めていた。

「俺がね、いつも歩いている所を見てほしいんだ」
「ん、俺も見てみたいな」

いつも歩いている所、いつも話してくれる場所
そこを自分も歩けるのは、いつも聴く英二の日常に、自分も入れること。
そういうのは、うれしい。
この隣の日常を、すこしでも感じて、想いと一緒に刻みたい。
そうしてまた一つ勇気を育んで、この隣を見つめていたい。

「こんにちは、」

ケーブルカーの滝本という駅で、英二は気さくに駅員へ声をかけた。
すっかり顔なじみらしい駅員が、笑顔で話しかけてくれる。

「こんにちは、今日はプライベートなんだ?」
「はい、大切なひとに、御岳を見てもらいたくて」

ほら、また堂々と、こうして自分を紹介してくれる。
うれしい、やっぱりまだ気恥ずかしいけれど。
すこし頬熱いままで頭を下げると、駅員が微笑みかけてくれた。

「それは光栄だね。秋の御岳も良いですよ、楽しんで下さい」
「…っ、はい。ありがとうございます」

不思議だ。
この隣はいつも、こんなふうに。自分達を無理なく自然と、相手に受入れさせてしまう。
こんなところが、本当に大好きだ。そして幸せだ。

ケーブルカーは混んでいた。週末で晴天、みんな出掛けたいだろう。
隣では「人が多いな、」と呟いて、ハイカーの装備を目視確認している。
ほんとうに仕事熱心、そして心から山歩く人の無事を気遣っている。
そんな真面目さと、やさしい温かさが眩しい。周太は英二に笑いかけた。

「英二、山ヤの警察官の顔に、なってる」
「おう、俺は山ヤの警察官だから」

きれいに笑って答えた顔は、山ヤの警察官の誇り充ちていた。
こんなふうに、自分に素直に生きる英二の姿、ずっと願っていた。
この隣の目の底から、問いかけられた初対面の瞬間から、ずっと。

「ん、かっこいい、な」
「だろ、」

ずっと願っていた姿、笑顔、見られて、嬉しい。
車窓から眺める紅葉が、涙の紗にとけ一つ、周太の頬をこぼれた。

御岳山駅で降りて少し歩くと、富士峰園地展望台という所に着いた。
澄明に青い秋の空気に、あざやかな見晴らしは遠く見える。

「ほら、周太。御岳からな、新宿は見えるんだ」

英二が指さす方を周太は見た。
そこには見た事のある摩天楼が、遠く秋の陽射に輝いていた。
この奥多摩から、あの新宿が見えている。真直ぐに、周太は新宿を見つめた。

「…ほんとうだ、」

この奥多摩、御岳山。
愛する隣が毎日、巡回任務に登る山。そしてこの麓には、勤務する御岳駐在所がある。
毎日の巡回任務、この場所からいつも、自分のいる新宿まで巡回してくれる。
そんなふうに、いつも見守ってくれている?うれしくて周太は微笑んだ。

「いつも、ここから見てくれている?」
「そうだよ周太、いつも繋がって見つめているから」

きれいに微笑んで、答えてくれる。
いつも繋がって同じ東京の空で。
英二が立つ奥多摩の山嶺、自分が居る新宿の不夜街。
ほらこんなに隣だと、教えて勇気を育ててくれる。
その想いが、温かい。しあわせで周太は笑って、英二に答えた。

「…ん。ありがとう、英二」
「こっちこそだよ、周太。だって俺がね、周太をずっと見つめていたいんだ」

率直な想い、いつもこうして伝えてくれる。
うれしくて、きれいに周太は笑った。

「ん、見つめて?俺もね、あの街からいつも、奥多摩の空を見ている」
「ああ、見ていて周太。俺はここにいる、ここで想って見ているから」
「ん、」

笑いあって、また道を歩いていく。
年月ふりた産安社と書かれた社を通って、山道を歩いていく。
話しながら道を抜け、目を上げた光景に、周太の視線が止まった。

「…あ、」

天空の集落が、そこに現われていた。

蒼く苔むした茅葺の家々が、山の急斜にきれいに並ぶ。
立派な黒木の構えは、参詣者の宿坊らしい。
垣根には茶の花や、山茶花が静かに香っている。
モミジの赤に黄に、ケヤキの錆朱。色彩の豊かな木々の深閑に、その集落は鎮まっていた。

「ここもね、東京なんだよ周太」

隣から覗きこむように、英二が笑いかけてくれる。
ゆっくり歩きながら、教えてくれる。

「この御岳山に祀られている、武蔵御嶽神社の集落なんだ。約36世帯、160人が暮らしているよ」
「なんか、不思議なところだな」
「うん、神様の山だからな、御岳はさ」

神さまの山。
そんな不思議な場所で、英二は警察官として生きている。
きれいな笑顔、端正な姿、そして真直ぐな健やかな心。
そんな英二は、山にも神様にも愛される。そんな気が周太にはした。

「ほら、この木はね、神代ケヤキって言うんだ」

苔が蒼く覆う幹は、大きな孤を描く姿が印象的だった。
幹周りは8~9m位だろうか。

「…あ、そうか」

記憶を掠める『東京を代表する巨木』
そんな記事の切抜きを、幼い頃にしたことが、ある。
あれに載っていた、国の天然記念物の欅なら、樹高は23m、幹回りは8.2m。
周太は英二に訊いた。

「この木って、樹齢1000年以上って言われている?」
「ああ、そうだよ。周太、よく知ってるね」

やっぱりそうだった。
幼い頃に父と切り抜いた、あの記事。楽しくて何度も読んだ。
このケヤキは父も興味を持っていた。
奥多摩ならさほど遠くないから、見に行こうと約束もしていた。その約束は砕かれてしまった、けれど。
けれど、それをこうして、英二と見に来られた。うれしくて周太は微笑んだ。

「ん、父とね、読んだ記事に載っていたんだ」

きれいに笑って、英二が言ってくれた。

「周太の父さん、本当に博学だな。やっぱり俺、尊敬する」
「ん。英二、ありがとう」

微笑んで周太は、樹齢1000年の木を見上げた。
父と見に来るはずだった木。
それをこうして、父の合鍵を懐に大切に持つ、英二と見ている。
なんだか不思議で温かい、そう想う心に父の言葉がかすめた。

―周、自然にはね。不思議なことが沢山あるよ。それはきっとね、人間も同じ―

ほんとうにそうだと思える。
いま隣を歩く英二は、そうした不思議な廻りが多い。
世田谷の高級住宅街で、英二は不自由なく生まれ育った。
けれどこの奥多摩で、山ヤの警察官として山岳救助に生きる険しさを選んだ。
そうしてこの不思議な神の山を、日々巡回する警察官として勤務している。

そしてあの国村は、この麓で生まれ育ち、英二と同じように勤務している。
あのちょっと浮世離れした国村には、この不思議な山がとても似合う。
国村は山の申し子みたいだし。思って可笑しくて、ちょっと笑って周太は隣を見あげた。
その視線の先に、馴染み深い花姿が映りこんだ。

「あ、」

真白な山茶花「雪山」実家の庭に咲く、自分の誕生花。
うれしくて周太は微笑んだ。

「あの山茶花が、ここにも咲いている」

見上げる梢には、凛と真白な花が青い空へ咲いている。
自分が生まれた時、父が実家の庭へと植えてくれた花木。
周太の山茶花「雪山」は、父が愛する「山」にちなんだ種類。
そして生まれた11月は、寒さ厳しい冬を迎える時だから。
冬の氷雪にも愛される程、豊かに生きられるようにと「雪山」を選んでくれた。

この場所で、父の想いに出会えた、そんな想いが温かい。
自分の花木「雪山」その名の通りに、ここもじきに雪山になる。
この愛する隣は、この場所に立つ。そこには自分の花木が、父の想いと立っている。
そんな想いに見上げる隣から、英二が微笑んで言ってくれた。

「雪山、っていう名前だったな」
「ん、覚えてくれていたのか」

覚えてくれて、うれしい。
だからこの花木にすら、願ってしまう。

あなたの名前「雪山」を覚えた、愛するこの隣のこと。
あなたの名前の通り、ここが雪山になっても、どうか見守っていてほしい。
そしてどうか、あなたを誕生花に戴く自分の隣へと、ずっと無事に帰して下さい。
氷雪にも愛されるほど豊かに生きる、唯ひとり愛する隣を、必ず帰してください。

想い仰ぐ花に、さっと秋風が吹きよせた。
森から訪れた風に、白い花ひとひら、そっと舞い降りふっていく。

…あ、

真白な花びらが、静かに周太の掌におさまった。
この「雪山」が自分の願いを訊いてくれたのだろうか。
そう想えて、掌を見つめて周太は微笑んだ。

「なんか、嬉しいな、」
「どう嬉しい?」

隣から覗きこんで英二が訊いてくれる。
周太は静かに英二を見、笑いかけた。

「ん。なんかね、迎えてもらう感じだな」

父の殉職から13年、山のことも木のことも、父との記憶と一緒に忘れていた。
だからこうして今、父の記憶と共に歩きだした、今この時に。
父の想い遺る花木が、この隣が生きる山で迎えてくれたこと。
忘れ去っていた自分を、こうして迎えてくれたことが、うれしい。

「ああ、きっとね、この木も周太を待ってたな」

一緒に花を見上げながら、英二が笑いかけてくれる。
こんなふうに、一緒に見上げてくれる隣がいてくれる。
その幸せがまた、なおさらに温かい。
手帳を出すと周太は「雪山」の花びらを静かにはさんだ。

武蔵御嶽神社は立派だった。
拝殿前に立つと、英二が周太に教えてくれた。

「御岳山はさ、ご神体の山なんだ。挨拶して行こう?」
「ん、そういうのは、大事だな」

そう、ほんとうに大事。
だってこの隣が、日々の巡回任務に立つこの御岳山。
この隣の日々を、どうか無事に見守って、いつも無事に帰してほしい。
だから御岳の山よ、願いを聴いて下さい。

この隣はいつも、あなたの懐を歩いています。
そうしていつも、あなたの美しさ豊かさを褒めて、楽しく話してくれます。
だから御岳の山、あなたを語る自由を許すため、この隣を無事に帰して下さい。
この隣が語ってくれる、美しさ豊かさを、自分も一緒に見つめて、あなたを愛するから。

「周太、お参り終わった?」
「ん、ご挨拶できたよ。待たせた?」
「いや、俺もね、ちょうど同じ位だったから」

そんなふうに話しながら、また歩き出した。
長尾平への山道へと入っていく。
さしかかる梢の木洩陽が、午後にかかる切ない色がある。
長尾平からの山並と眺めは、きれいだった。

「ほら周太、あっちに見えるのはね、横浜」

英二の指さす方に、遠く市街地が見える。
横浜まで見えるんだ、周太は驚いて見つめた。

「ん、そこまで見えるんだな」
「御岳山って、結構すごいだろ?」

そう言って笑う英二は、なんだか誇らしげだった。
山ヤの警察官として立つ、この山を愛し始めている。そんな様子が眩しい。
楽しそうな英二の笑顔が、周太には心からうれしい。

「ん、すごいね」
「だろ?」

そこから左斜め下へ伸びる道を下る。
随分と下るんだと思っていると、英二が左腕を見せてくれた。
英二のクライマーウォッチは170mのマイナスを示している。

「もうじきね、着くよ」

そんな言葉と一緒に分岐点を右へ行くと、水音が響き始めた。

「滝がある?」
「うん、七代の滝っていうんだ」
「ななよの滝?」

話す視界、岩場が急に開けて、小柄な滝が姿を現した。

「…あ、」

滝壺の岩場は、苔の蒼緑が清水に瑞々しい。
鎮まる森閑に、滝の水音が滔々と響いていく。
木洩陽が静かにふる滝は、幽玄な静謐をたたえて、山の水飛沫をあげていた。

And I again am strong:
The cataracts blow their trumpets from the steep;
No more shall grief of mine the season wrong;
“そして私には、強い心が蘇った 
 峻厳な崖ふる滝は、歓びの音と響き
 この歓びの季節はもう、私の深い哀しみに痛むことはない

父の遺した「Wordsworth」詩集の一節。
ワーズワースは愛する自然に、想いを詠んだ英詩人。こんな光景を見て彼は、想いを歌ったのだろうか。
自分では詩を詠まないけれど、この詩を今の自分と重ねてしまう。

「驚いたろ、周太?ちょうど岩があるから、隠滝になっているんだ。」
「ん、驚いた…きれいだね」
「だろ、」

きれいな笑顔が、隣に佇んでくれる。その幸せが温かい。
もう独りじゃない、どんな時も、大切な隣がいてくれる。
だからもう、こんなふうに素直に。父の蔵書と自分の想いを、素直に重ねられる。
そして素直に父を認め、想えることが温かい。

「周太、木の根はなるべく踏まずにな。木に悪いから」
「ん、わかった」

頷いた周太に、ふっと英二が微笑んだ。
ちょっと休憩と立ち止まると英二は、長い指を胸ポケットに入れた。
長い指がオレンジ色のパッケージを取出す。
オレンジ色の飴をふたつ取りだして、その一つを周太の口許に運んでくれた。

「はい、周太」

そっと周太の口に長い指で入れると、英二は自分も飴をふくんだ。
オレンジの香がほっとする。おいしいなと思っていると、英二が微笑んだ。

「俺さ、前にもここで、この飴を口に入れた」
「ん、そうなのか?」

見上げて訊くと、すこし寂しげに微笑んで、英二は教えてくれた。

「田中さんをね、捜索した時だよ」

つきんと周太の心が痛んだ。
英二はこの御岳山で、親しい山ヤ仲間だった田中の死を看取った。

「あの時に俺、この場所でさ、心が折れそうになったんだ」
「…ん、」

あの夜の御岳山には、氷雨が降った。
まだ不慣れだった英二は、焦りに足許を崩されて、滑る木の根に足を取られかけた。
微笑んで、きれいな低い声で英二は話し始めた。

「あのとき俺は、経験のない自分がここへ配属された、その重みが苦しかった。
自分の経験不足を突きつけられて、そのせいで救けられないかもしれない。そんな焦りが募った」

ふたり話しながら、ゆっくり歩きだす。
足許を見つめながら、周太は隣の想いに心向けた。

「経験が少ない俺が、山岳救助隊を志願してしまった。その為に生命をひとつ、失わせるかもしれない。
 そんな想いがね、心ごと足を竦ませて、俺、動けなくなった。
 責任の重みが一挙に胸を迫り上げたよ。悔しくって俺、ほんとうに、あの時、俺は悔しかった」

鉄梯子を登っていく。周太の前を行く背中は、今はもう頼もしい。
でもあの時はまだ、英二は卒配されて3週間足らずだった。
責任感に押し潰される苦しみは、実直な英二は人一倍に強い。
あの夜の電話と田中の通夜の晩に、その苦しみを周太は受けとめた。

けれど英二はあの時に、自責の苦しみと田中の想いを、この背中に背負い生きていく覚悟を抱いた。
そうして背負った想いと苦しみ、その覚悟が、この隣の背中を頼もしくさせている。

「あの時さ俺、焦りが苦しくて胸を押さえたんだ。その掌にね、これ」

鉄梯子を登りきる。
そして山道に並んだ周太に、口許を示し英二は微笑んだ。

「この飴のパッケージがさ、掌に触ったんだ。それで俺、口に一個放りこんだ」

オレンジ色のパッケージ、「はちみつオレンジのど飴」
いつも周太が好んで、口にする飴だった。

卒業式の翌々日。
この奥多摩へ卒業配置された英二と、新宿で周太は待ち合わせた。
待合わせ見上げた英二の頬に、うす赤くうかんだ母親に叩かれた痕が、周太の心を刺した。

そして、いつものベンチで、周太は母の選択を英二に告げた。
そして英二と、ふたり寄り添って生きる選択をして、ずっと隣にいる約束をした。

時間が来た新宿駅のホーム、オレンジ色の電車に英二が乗り込んだ。
やっと想いを重ねたばかり、けれど卒業配置で離れ離れになる。
離れ難くて哀しくて、それでも微笑んで英二を見送ろうとした。
けれど電車の扉が閉じられる瞬間に、英二の腕に掴まれて、周太は車内に浚われた。

けれど立川駅では、別れなくてはいけなかった。
その別れ際、英二の切長い目が、泣きだしそうだった。
少しでも笑ってほしくて、この飴をひと粒、周太は英二の口へ投げて放りこんだ。
指で英二の目許を拭って、残りの飴をパッケージごと、英二に手渡した。

それからずっと、英二はこの飴を自分で買って、胸ポケットに入れている。

「この飴の香と味がね、周太を想いださせた。懐かしい、また会いたい。その想いがね、俺を冷静に引き戻してくれた」

―きのう御岳山で、本当は俺は、心が折れかけた。
 けれどその時、周太を想いだした。
 また会いたい、だから絶対に無事に帰ろうと思った。
 そして気がつかされた、俺はもう、周太を遺しては死ねない―

田中の通夜の夜、英二から告げられた言葉。

あの夜に、周太は初めて河辺駅に降り立った。
田中の葬儀に出席するため、新宿署の先輩とシフト交換して外泊申請して、射撃特練の自主練もキャンセルした。
そして英二と共に、今回も泊ったビジネスホテルで2晩を過ごした。

田中の亡くなった夜。英二の連絡の遅さに、周太は心が壊れかけた。
夕食時に見た天気ニュース、奥多摩にふった氷雨を思って心が凍った。
山で氷雨にうたれ低体温症になったら、遭難死も免れない。
父が殉職した夜を思いだして、不安にうたれて。携帯電話を見つめ、気がついたら泣いていた。
そしてあの夜から自分は、素直に想いを伝えることが、出来るようになっていった。

「周太、」

名前を呼んでくれる隣を、そっと周太は見上げた。
やさしく英二は微笑んで、周太に言ってくれた。

「この飴がね、俺を救けてくれたんだ。この飴をくれた周太の笑顔をさ、想い出して俺は、救われた」

そんなふうに想われて、うれしい。
そうして自分が英二を救えた、そのことが周太はうれしかった。

「俺が、英二を救けられた?」
「うん、そうだよ周太。そんなふうにね、離れていても周太は、いつも俺を救けてくれている」

離れていても、いつも救けられる。
それこそ自分が望むこと。うれしくて周太は、微笑んで訊いた。

「ほんとうに?」
「ほんとだよ、周太。俺のね、一番の救いは周太」

いちばんの。
そんなふうに想われて、自分は本当に幸せだ。
そう、いちばんの救いに。それは心から自分が、いつも願っていることだから。

「…ん、うれしいな。ありがとう、英二。俺もね、同じだから」
「ああ、俺こそだよ、」

笑いあって、ふたり歩いた。
鉄梯子から直ぐに、大きな岩の前に出た。
岩の根には一面に木の根が張りめぐらされている。

「これがね、天狗岩」

言われてみれば、上を向いた天狗のようにも見える。
なんだか不思議な岩だなと眺めていると、英二は岩の根元の一か所に片膝をついた。
ザックをおろし、長い指で日本酒の小さな瓶をとりだす。
その瓶には奥多摩の蔵元の、特撰酒のラベルが貼られている。

…昨夜、国村と飲んでいたのと同じ?

はっと息を呑んで、周太は英二を見つめた。
もしかして、この場所なのだろうか。そっと周太は、英二の隣へと膝まづいた。
膝まづいて見つめた隣が、静かに周太へ微笑んだ。

「ここがね、田中さんが倒れていた場所なんだ」

ここが。
見つめた地面には、ひっそりと青い花が咲いていた。
きっと、この花は、あの写真の花。周太は手帳を出し、あるページを開く。
田中の絶筆になった、一葉の写真がはさまれていた。

「この、りんどうなんだね?」
「ああ、きっとね、そうだな」

御岳の山に、愛し愛されていた山ヤ。
この隣の背中に、美しい生涯を終えた山ヤ。
そうして英二は彼の想いを背負って、頼もしい背中の男へとなっていった。
その背中に自分は救われて、13年前の冷たい報復の呪縛から解かれた。

…ありがとう、

彼への想いが、そっと温もりになって、周太の瞳からこぼれた。
こぼれた想いと涙が、みつめる青い花にふりおちる。
りんどうに想いよせた、その山ヤ。
会った事のない周太にも、孫の秀介の手を通して、花の写真を贈ってくれた。
その想いが周太には、うれしかった。

「…ありがとう、ございます」

ちいさな呟きと一緒に、涙ひとしずく、りんどうに静かに零れた。
きれいな長い指が、そっと周太の頬を拭ってくれる。
そして微笑んで、英二は大きな掌を傾けた。奥多摩の酒が、静かに岩根へ注がれていく。
注がれる酒を、御岳の山は穏やかに呑んでいった。

ロックガーデンに入ると、午後にさしかかる陽射が明るかった。
苔の緑が清々しく、ふくむ水気を秋の日に輝かせる。
さわやかな緑ふくむ澄明な空気が、山懐の気配に鎮まっていた。

「ほんとうは俺ね、ここの早朝が好きなんだ」
「もっと空気が、気持ち良さそうだね?」
「ああ、目が覚めたばかりの山はね、いいよ」

そんなふうに笑いながら、英二は周太の掌をとってくれる。
そうして岩場を越えて、また山道へと立った。
その足許に、ふと周太は目を留めて屈みこんだ。

きれいだな、

きれいな赤い葉を2枚と、艶やかな木の実を2つ拾いあげる。
掌に載せながら見上げると、オオモミジと山栗の梢が周太を見おろした。
たぶんこの木が親木なのだろう、周太はその木の様子を見、記憶した。

「周太、いいものあった?」

英二が隣から、覗きこんでくれる。
興味を持ってもらえるのは嬉しい、微笑んで周太は掌をひらいた。

「オオモミジと、山栗だ」

ひらいた掌を、へえと感心しながら、英二が眺めてくれる。

「周太は良く、知っているな」
「ん、こういうの好きなんだ。父にも教わったし」

周太は手帳を取り出すと、2枚の赤い葉を挟んだ。
それから山栗をペーパーに包むと、ポケットにいれた。
あとで手帳に、親木と、拾った場所のメモをしよう。
考えている隣から、英二が笑いかけてくれた。

「この先のな、滝の傍の木も、きれいだよ」
「また滝があるのか。さっきの滝も、きれいだったな」

そう話すうちに、綾広の滝に着いた。
落差10m、綾広の滝の脇には「祓戸乃大神」と祀られている。
その滝よりも傍の木が、周太の目には映りこんだ。

「桂の木だな、」
「うん、樹齢300年らしい」

あわい黄と薄緑をまとった、桂の巨樹。
のびやかな梢から、淡黄と薄緑の木洩日がふってくる。
そっと桂の幹に掌ふれてみる。かすかな温もりふれる木肌が、やわらかい。周太は微笑んだ。

「やわらかくて、温かいな」
「うん、本当だ」

英二も隣に立って、ふれてくれる。
自分が感じることを一緒に感じて、ふたり感覚を繋ごうとしてくれる。
こういうのは幸せだ。うれしくて周太は微笑んだ。

「…ん、」

周太は軽く目を閉じて、頬を桂の幹によせた。
桂の木肌からふれあがる、温もり、鼓動、生きているという息吹。
桂の息吹の全てが、楽しそうに詠いあげる。
この場所に根を下ろし張り、梢に空を抱き生きる、歓び誇りの歌。

「周太は、木が好きなんだな」

きれいな笑顔で、英二が訊いてくれる。
うれしくて微笑んで、周太は素直に答えた。

「ん、好きだな。でもこういうのは、久しぶりなんだ」

そう、13年ぶりのこと。父の生前はよく、こんなふうに山や公園で過ごした。
けれど父が殉職した後は、こんなふうには過ごさなくなった。
幸福な記憶は、冷たい孤独の底では、ただ痛みだったから。

けれどもう英二が、冷たい孤独の痛みから温もりへと還元してくれた。
そのことが自分には、どれだけ幸せで、うれしいか。
そうして今、あなたを愛していく、唯ひとつの勇気、この心には生まれている。

―周、大切な想いこそね、きちんとその時に言わないと駄目だよ―

温もりに還元された、大切な父の言葉が温かい。
だから今、この想いも、今、このとき伝えておきたい。そっと微笑んで、英二は周太は話した。

「あの山岳訓練の時。滑落した谷底でね、俺、思っていたんだ。山や木のことを、すっかり忘れていたなって」
「うん…、」

そう、あの時まで。自分は13年間、ずっと忘れていた。
ゆっくり廻る山の時間、穏やかに佇む樹木の優しさ。
そんなふうに過ごした山での、なつかしく幸福な父との記憶。

「そのとき思ったんだ。いつかがあるなら、ゆっくり山で過ごしたい。そう思いながら、英二のことを、待っていた」

あの谷底で、くるんでくれた温かな約束。
真実の想い温かな、英二の真摯な約束。

―必ず自分が迎えに行く 

その約束の温かさに、13年の哀しい封印が溶かされた。
そうして自分は、なつかしい幸福の記憶へと、素直に肯くことが出来た。

けれど、英二の約束は不可能だと、自分は思っていた。
初心者だった英二には、難しい条件での救助だったから。
それでも温もりがうれしくて、約束の言葉だけでも、幸せだと微笑んだ。

けれど。英二が崖を降りてきた。
信じられないそれでも。英二は周太を背負い登攀して、無事に救った。
そうして英二は笑って、けれど本当は歯を食いしばって、全力で約束を守った。

あの時ほんとうは、うれしくて幸せで、泣きたかった。
そしてあの時ほんとうは、この深い心の想いを、自覚しそうで哀しかった。
だってあの時の自分は、この想いを望んではいけないと、諦めの底にいたから。

父の殉職から廻らされる、自分が抱く冷たい運命。
その運命の冷酷には、誰も巻きこめない。だから自分は孤独に生きていく。

けれど、それでも、ほんとうは。そんな諦めの底ですら、それでも幸せで、うれしくて、そして…好きだった。

「俺もね、」

きれいな低い声が、周太に笑いかけてくれる。
うれしそうに笑って、英二が言ってくれた。

「俺もね、あの訓練の時にな、周太を山へ連れて来たいって、思っていたよ」

あの時に。
諦めの底、それでも温もりに、想いに、ただ自分は微笑んだ。
けれどあの時に?
あの時にもう、そんなふうに、あなたも想ってくれていたの?
ほんとうに?そうならどんなにか、うれしいだろう。そっと周太は英二に訊いた。

「…そうなのか?」
「そうだよ、周太」

やさしく微笑んで頷いて、英二は教えてくれた。

「山の警察官っているのかな?そう訊いたの、覚えてるだろ。
 あれはな、周太を背負って山を歩くのがさ、いいなって思っていたからなんだ」

ほんとうに?
嬉しくて微笑んで、気恥ずかしさにも周太は訊いてみた。

「そうなのか?」
「そうだよ、」

うれしい。
だって自分はあの時、自分だけの想いが、哀しくて痛かった。
求められない想い、求められぬ想いの人、求めてはいけない約束。
求めて得られない、そんな願いが哀しくて、苦しくて、泣きたかった。

だから、うれしくて。
あの時にもう全て、想いあっていた、求めあっていた。その真実が幸せで。
あの時に谷底で感じた温もり、その真実は求めあう想いだった。そのことが、うれしい。

「…ん、そう、なんだ」

ほらもう、微笑んでしまう、うれしくて。
こんなふうに打ち明け合って、求めあって、笑いあう。
こういうのは幸せで、その時の想いの哀しいだけ、なおさらに温かい。

「そうだ、周太?」
「ん?」

やさしく笑いながら、英二が訊いてくれる。

「今日の夕飯、なに食いたい?」

訊かれて、答えはそう、決まっている。
いつもの通り、その幸せが欲しいから。微笑んで周太は答えた。

「ん、ラーメン」
「またかよ、」

またかよ。そうやって「また」があるのは嬉しい。
日常的な小さな決まりごと。
当たり前の様だけれど、どのひとつも、周太には嬉しかった。


御嶽駅から青梅線に乗った。
16時前。山の早い夕空が、するり奥多摩に降りてくる。
ひとつのiPod繋いだイヤホン、同じ曲に車窓を見つめた。

「きれいだろ、周太?」
「ん、きれいだね」

車窓いっぱい、山嶺の黄昏がふれてくる。
あわい赤、あわい黄金にと雲、輝いて。
ふじいろ薄雲、うすずみ飛行機雲、それから真白に昇雲。
薄緑やさしい山の端、藍碧きらめく靄、紺青透明な中空、青紫の夜の闇。
そして、ホリゾンブル―輝く、稜線を辿る広い空。

光の色彩が、奥多摩の空に充ちていく。

…ここに、ずっと、隣に、居られたら…いいのに

そっと心つぶやき、ひそやかに。唯ひとつの想いに、こぼれて充ちる。
この隣の近くで、見守り傍近く、ふたり同じ光景に生きられたら。

この愛する隣が立つ、美しい空と豊かな山嶺が愛おしい。
この山嶺が愛する隣を背中ごと、自分を軽やかに背負う程までに育み、愛してくれている。

だからどうぞ願わせて、奥多摩の山嶺たち。
雪山の姿まとっても、変わらず英二を愛してください。
そして迎える美しい、雪輝く冬の姿を見せて、きれいな笑顔を愛しんで。
そうしてどうか必ず無事に、どんな時いつも絶対に、自分の隣へ帰らせて。

初雪が降った、奥多摩は雪に眠る。
雪に眠る美しい奥多摩、その氷雪に廻る冬山の生死。
凍傷、凍死、凍結滑落、埋める雪崩。冷厳な死の罠が、支配していく冬山の掟。
氷雪の硲から、ひそやかに伺う死。
それでも雪山の秀麗に、山ヤは求めて冬山に生きる。
そうした同じ山ヤの求めに、潔く明るく微笑んで、英二は雪山遭難の救助に立つ。
山ヤの誇り、山守る救助の誇り。その誇りに立って、きれいに笑って生きていく。

その姿、きっと、眩しい。
まばゆくて、美しくて、愛しい、その姿。
毎日を無事に顔見て、毎日を傍近く見守れたなら、どんなに幸せなのだろう?
だから願ってしまう、祈ってしまう、「いつか」を信じて。
いつか必ずそんな日が、ふたり訪れるその日まで。その日が訪れたそれからの日々も。
ずっとどうか無事に、この愛する隣を自分の隣へ、きれいな笑顔のままに帰らせて。

「周太、」
「ん、?」

ひとつのiPod繋いだ隣、きれいに笑って告げてくれる。

「‘cause I am counting on A new beginning A reason for living A deeper meaning
I want to stand with you on a mountain Then make you want to cry 
The tears of joy for all the pleasure and the certainty こんなふうにね、ずっと周太の隣に、俺はいるよ」

“君への想いはきっと、新しい始まり、生きる理由、より深い意味 そう充たす引き金となる
君と一緒に山の上に立ちたい そして君を泣かせたいんだ 確かな幸福感の、全てに満ちた、嬉しい涙で“

ひとつのiPod繋いだ曲。
穏やか流れるのは、この隣に座ってくれる、愛するひと真実の想い。

「…ん、隣に、帰ってきて」

よせられる想い、うれしくて温かい。
想いが、しあわせにそっと、瞳から涙になって頬伝う。
想いが、しずかな穏やかさにそっと、周太の唇からこぼれた。

「また、一緒に、山へ連れて行って。そうしてまた、幸せにして?」

そう、また一緒に山に。
そう、また、あなたの幸せに、抱きしめて。

「うん。また一緒に山へ行こう、周太。あのブナの木にもさ、また会いに行こう?」
「ん、また行きたい」

いくつでも、何度もほしい「また、」の約束。
ふたりの約束、いくつでも重ねさせて。そうして必ず帰ってきて。
ふたりの約束、いくつも重ねて、全て必ず果たすと言って。そのために、どうか帰ってきて。

「英二、」
「うん?どうした、周太」

名前を呼ぶ。頷いて微笑んで、名前を呼び返してくれる。
呼べた名前がうれしくて、呼ばれる名前がうれしくて。この想いを告げる、勇気がうまれる。
ほら、もう、唇から想い告げられる。

「英二、必ずね、俺の隣に帰ってきて?そうして約束を全部、守って」

真直ぐに見つめる隣、この想いの真中に、いつも佇む愛しい笑顔。
真直ぐに見つめ返してくれる、きれいに笑って答えてくれる。

「うん、絶対の約束だよ、周太。俺は必ず周太の隣に帰る。だから俺だけを待っていて?」

そう、あなた、英二だけ。
自分の隣に帰るのは、この愛するひと、唯ひとり。

「ん、英二。俺の隣は英二だけ。ずっと信じて待っている、だから帰ってきて?」

自分の隣に唯ひとり、帰ってくるひと。
自分が深く心から唯ひとり、信じて望んで求めている。

「ああ。帰るよ周太。だって俺、こんなに周太を愛している」

愛している。

率直に告げてくれる、想いが温かい。
すこし気恥ずかしくて、困ってもしまう。
けれど昨日に初雪が降ってしまった、だから告げるのは、今この時だけ。

愛してる、

「ん、俺もね英二、ほんとうに…愛してる」

想いに素直なままに告げて、きれいに周太は笑った。




(to be continued)

【歌詞引用:savage garden「truly madly deeply」詩文引用:William Wordsworth「Wordsworth詩集」】


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萬紅、始暁act.1―another,side story「陽はまた昇る」

2011-11-26 20:05:04 | 陽はまた昇るanother,side story
そうして、ひとつ生まれたものは




萬紅、始暁act.1―another,side story「陽はまた昇る」

かすかな、…なんの音?

ゆっくり睫を披くと、定まりきらない視界に笑顔が見える。
焦点がゆっくり合わされると、端正な顔が微笑んで覗きこんでいた。
微笑うれしい。名前、呼びたい。

「…えいじ?」

大好きな人の名前が呼べる。うれしくて、周太は微笑んだ。
微笑んで見つめる想いの真中で、きれいに英二が笑ってくれた。

「周太、おはよう」

きれいな低い声が、自分の名前を呼んでくれる。
うれしい。うれしくて、見つめる頬へ右掌を静かに伸べた。
きれいに笑って、周太も答える。

「おはよう、英二、」

右掌すこしだけ惹きよせる。
惹きよせられるまま、静かに白皙の顔が近よせられる。
間近に見つめる瞳、きれいな切長い目に自分が映りこむ。
間近くよせられた唇、ふれる吐息があたたかで。ふれる吐息に結ばれて、そっと唇を周太から重ねた。

「ん、」

重ねて、そっと静かに離れて、微笑んだ。
見つめる切長い目が、うれしそうに笑ってくれた。

「おはようのキス、うれしいよ」
「ん、俺もね、うれしい」

きれいな長い指が、前髪をかきあげてくれる。
気持良いなと伏せた瞳に、ふと英二の左手首が目に映る。
英二の左手首で、クライマーウォッチは9時前の表示だった。
そんなに眠ってしまったんだ。驚いて周太は英二を見た。

「あの、英二、…いつから起きていた?」
「うん?そうだな、最初に起きたのは3時。ちゃんと起きたのは、7時半かな」

随分と寝過ごしてしまった。
その原因は、山から戻った疲れ。でも、ほんとうの原因は、昨夜の“あの時”のせい。
気恥ずかしい、けれどまず謝りたい。周太は唇を披いた。

「…ごめん、俺、ずいぶん寝坊したな」
「謝らないでよ。だって俺、寝顔いっぱい見られて、幸せだったから」

きれいに笑って、白いシーツに頬つけて、見つめてくれる。
その英二の襟元は、きちんとカットソーを着ていた。
先に着替えたんだな。そう気付いた途端、周太の首筋に熱が昇った。

だって自分だけ服をきていないこんなのはずかしいどうしたらいいの?
自分だけこんなかっこうでずっと見つめられていたなんて。
困ってしまうどうしよう。途惑って周太は、くるまるシーツをそっと掻きよせた。
周太の様子を見ていた英二が、おかしそうに微笑んだ。

「周太、恥ずかしい?」

そんなこと訊かないで、わかっているなら。
でもなんだか今は、まだ頭がはたらかない、言葉がそのまま出てしまう。

「…ん、恥ずかしい…だって、ゆうべのあとだから」

目の前で、すこしだけ切長い目が大きくなった。
あ、この顔かわいいな。うれしくて周太は微笑んだ。
切長い目の微笑みかけた顔が、すこし心配そうに訊いてくれる。

「周太、気分どう?」
「ん、いいよ、」

答えて、ん?と思った。
そういえば今朝は、あまり痛くない。気怠さも少ない気がする。
気恥ずかしさは、いつもより、だいぶ、相当ひどいけれど。

「そっか、よかった、」

うれしそうに、英二が笑ってくれる。
こんなふうに心配してくれる、やさしい英二。誰よりも大切な、この隣。
笑いかけながら、英二が訊いてくれる。

「周太、風呂、行きたいだろ?」
「あ、ん。行きたい、な」

答えたと思ったら、シーツごと抱きあげられた。
抱えたままで、英二は歩いて浴室の扉を開けてくれる。
びっくりする隙もないままで、周太をバスタブへと立たせてくれた。

「はい、ゆっくり温まってこいな?」

そっとシーツを脱がせてくれながら、英二は微笑んだ。
微笑んで額にキスをして、見つめてくれる。

「着替、持ってきておくから」

そう言って微笑んで、シャワーカーテンを閉めてくれた。
ほんとうに、恥ずかしがる暇も無いまま。
いつもほんとうに英二は、手際があざやかだ。感心してしまう。

「…ん、」

シャワーの栓を開いて顔を仰むける。
ふりそそぐ湯が温かくて、そっと心がほどけていく。
ゆっくり瞳を閉じて、温かな湯にふれる。頬ぬらす湯が温かい。

昨夜もこうして、温かい湯を浴びた。そうして、ひとつの覚悟をした。
自分の心と体、全てを懸けて「絶対の約束」を英二と結ぶこと。

「…約束、結べた、」

温かい湯に、そっと想いの呟きがこぼれる。
温かな湯に、涙がそっととけていく。

必ず隣へ帰ってきてくれる「絶対の約束」を、昨夜一夜に結ぶことが出来た。
その約束を、きっと英二は全力を懸けて守る。

きのう初雪が降った。
冷たく抱かれる冬山の死が、厳然と起きあがる季節を、迎えてしまった。
凍死、凍傷、滑落、そして雪崩。冬山には死の罠が、密やかに蹲っていく。

そしてこの冬に初めて、英二は山岳救助隊員として雪山遭難の任務に立つ。
初めて立つ、それは経験の少なさに、殊更に危険多いこと。
けれどきっと大丈夫、「絶対の約束」を英二は全力で守るから。
だからきっと大丈夫、雪山からも英二は、必ず無事に帰ってくる。

「ん、…だいじょうぶ、」

呟いて、湯に温まる体をながめてみる。
あわい湯気も透かして、体いっぱいに、赤い花の痕に肌が埋もれている。
赤い花の痣、いつもより尚更に色濃く艶めいて、あざやかに咲いている。

―周太、今夜は、好きなだけ抱かせて
 愛している俺の想い、ぜんぶ周太に刻ませて。そして約束を、刻ませて

そんなふうに英二は、「絶対の約束」を結んでくれた。
そうしてこの赤い花、ひとつ一つに、想いと約束すべてを、深く刻みつけてくれた。

そして昨夜の「好きなだけ」は、初めてのこと。
“初めて”のことに、不安が心を迫あげて、卒業式の夜を想いだした。
“初めて”の、あの一夜で全てを変えられた、翌朝の苦しみを独り抱く途惑い。それが怖いと不安になった。
好きなだけを“初めて”されたなら、自分は変えられて、また独り苦しみ途惑うのか?そう、不安になった。

けれどもう、自分は決めていたから。
あの愛する隣の為になら、きれいな笑顔を見つめられるなら、自分は何だって出来る。
だからもう、不安も苦しみも、痛みだって構わない。あの隣が笑ってくれるなら、それでいい。
そう思って「好きなだけ」を、ゆうべ初めて受け入れた。
愛してほしい、もっとたくさん。
だって約束してくれた「信じて待っていて。愛しているだけ、必ず周太の隣へ、俺は帰られるから」
だから愛して自分のこと、そして必ず帰ってきて。だってその為だけにもう、自分は生きる覚悟をした。

だから昨夜、自分は望んだ、「好きなだけ」を受け入れた。
お互いの全て、心、体、想い全てを懸けて、愛し、愛されることを望んだ。

―愛しているだけ、隣へ、帰ってこられる―

その約束に全て懸け、きれいな笑顔を守る。だから全てを懸けて、愛し愛されて、「絶対の約束」を結んで刻んだ。

心に体に想いを刻まれる、熱が心も体も充たす。
その涯に心も体もほどかれとけて、甘やかに幸せに、深い眠りへ誘われる。
いつもなら誘われて、そのまま眠りへと安らいでいく。
けれど昨夜は「好きなだけ」あの強い腕に抱き起こされ、深い眠りの誘いから惹き戻された、幾度も。
惹き戻されるその度に、自分も愛する隣の唇を求めた。

いっぱいに肌、埋めつくす赤い花。
愛する隣が想いのままに「好きなだけ」刻みつけ、咲かせた花。
殊更に深く、濃く艶めいて、色鮮やかに、強く咲きほこる。右肩には尚深く。
そして右腕の赤い痣、尚更に深く濃い、消えない深紅に刻まれた。

昨夜、一夜で変えられたもの。
右腕の消えない深紅。自分から唇を求める想い。愛する隣の求め全てに応えられる心と体。
そして自分の心深くに、あざやかに刻んだ勇気ひとつ。

そう、昨夜一夜に。
自分の心深い大切な想いの場所に、勇気ひとつ強く刻みこんだ。
そんなふうに変えられた自分は、もう不安にも克つことができる。
だからもう信じて待つことが出来る。必ず無事に自分の元に、愛する隣が帰ってくることを。

「…ん、もう、俺は、大丈夫」

ひとつ頷いて、確かめる想いの呟き。
昨夜一夜に結んだ絶対の約束、想いと勇気が刻まれた自分。
そして奥多摩で過ごしたこの日々の、記憶と想いの全てが、自分と約束を支えてくれる。

初めて名前を呼んだ。
初めて自分からキスをした。
初めて一緒に山の、沈む陽と夜と暁を見つめて、抱きしめられた。
錦繍の紅葉、半分ずつのリンゴ、山の水、ヘリコプターの風。全ての“初めて”がうれしい。

そして、初雪すらも、きっと“初めて”の喜び。
初雪が降った、そのために。
初めて自分から望んで求めて「絶対の約束」を刻んで結んだ。愛する隣の無事の帰りを守る為に。
初めて自分も刻みつけた、愛する隣の肩へと自分の想いを。
そうして、初めて手に入れた、この心深くへ強く刻んだ、ひとつの勇気。

山の傍と山の上とで過ごした、3つの夜と3つの暁。
きっとずっと、どの“初めて”も、自分は忘れることは出来ない。
そしてこの後の4つめの夜は、新宿で次の約束を結べたらいい。
ふたり寄り添う夜と暁を、過ごすため約束を重ねて。
そうして約束を重ねたら、いつも夜と暁を隣で、ふたり見つめる日々が来る。

シャワーの栓を止めて、カーテンを開ける。
髪を拭いて、鏡を覗きこんで、自分の瞳にともる力を見た。
いつのまにか、置いてくれた着替。
置いてくれた想いの人、その優しさに微笑んで、あわい藤色のシャツに袖とおす。
きちんと着替えて、もう一度だけ鏡に瞳を見つめて、それから浴室の扉を開いた。

「着替、ありがとう、」

お礼を言って微笑んだ、見つめた先に笑顔が咲いた。
きれいな笑顔、端正な長身、自分を見つめて立っている。

「うん、シャツ似合ってる。かわいい周太、」
「そう?なら、よかった、」

うれしくて微笑んで、周太は小さなカウンターに立った。
インスタントのドリップコーヒーを、マグカップにセットする。
ゆっくり湯を注いで、芳ばしい香が燻らされた。
注がれた湯は、色も香も変えて、白いマグカップに充ちていく。

フィルターを通って、香り豊かに変わる湯。
自分も昨夜一夜を透されて、ひとつ豊かになっている。
たぶんそれは勇気と自信、そして幸せの記憶が充たすもの。
幸せな想いは今もほら、心に充ちて温かい。心が充ちた、だから体も楽に温かい。

「…ん、しあわせ、だな」

幸せに微笑んで、周太はふたつのマグカップを持った。
サイドテーブルに1つを置いて、1つを英二に手渡す。

「はい、英二」
「ありがとう、」

英二はもう、コーヒーを巧く淹れられる。先週、周太が教えたばかり。
けれど英二は望んでくれた「俺にはさ、一生ずっと周太が淹れてくれること。それなら覚える」
その約束通りに、これからずっと、コーヒーを淹れてあげたい。
そう、ずっと。
だってもう英二は、ずっと隣に帰ってきてくれるから。
そのための「絶対の約束」を昨夜、ふたり繋いで結んで、刻みあったのだから。

買ってきてくれたクロワッサン、きちんと、おいしい。
淹れたコーヒーも、きちんと香も味もする。
同じ“初めて”でもやっぱり、昨夜一夜に変わったものは違う。
ほんの少し気怠さは残る。けれどゆっくり眠らせてくれたお蔭で、ずっと楽なのが解る。
そんなふうに温かな眠りをくれた、想いと気遣いがうれしくて幸せだ。

「周太のコーヒー、うれしいな」

そんなふうに微笑んで、英二は楽しそうに啜ってくれる。
その笑顔がうれしい、微笑んで周太は見つめていた。
のんびり軽い朝食をとりながら、他愛ない話が楽しい。

「周太、美代さんと楽しそうだったね」
「ん、なんか楽しかったな」
「国村がね、周太と美代さんは似ているってさ」

自分でも少し、そう思った。
どこか遠慮がちに問いかける、そこが似ているかもしれない。
この隣は、どう感じたのだろう?

「英二は、どう思った?」
「うん、すこし雰囲気が似ているなって、俺も思うよ」

雰囲気。
この隣が感じた雰囲気は、どこから生まれるのだろう?
美代と一緒にいて楽だったのは、実直さと穏やかな静謐が、英二と似ていたから。
あとは他には、これだろうか。少し考えこんで、周太は唇をひらいた。

「ん、なんか話しやすかったな?俺がね、好きな話ばかりだった」
「気が合うんだな、」

気が合う。そう、そんな感じ。
好きな話ばかりなのは、好みが似ているからだろう。

「そう?…ん、料理や植物をね、よく知っていて、話して楽しかった」

そういう人に会えたのは、周太にとっては初めてのことだった。
今までの他人との会話は、学校の勉強、大学の研究、射撃技術それから警察関係のこと。
あとはただ沈黙して、他人と話す必要が無かった。

そんな中で、英二だけは特別だった。
勉強の話から将来の話、そして誇りの話になった。
それから父の話ができた、悩みの話もできた、それから本の話。

そう、本の話。

父の蔵書は、祖父から受継いだものも多い。そして原書がほとんど。
仏文学の原書が多くて、最初は字面だけを眺めて。けれど内容を知りたくて、辞書ひきながら英文書から読み始めた。
父の軌跡を辿るために必要、そんな義務感だった。それに原書を読むことは、語学の勉強にちょうど良かった。
そうして本を読んでいれば、周りから話しかけられることも無い。
他人から距離を置きたかった自分には、孤独にこもれる読書は好都合だった。
だからずっと、趣味だとか好きだとか、思ったこともなかった。

けれど英二は違った。
初めての外泊日に初めて座った、あの公園のベンチ。
あの場所で初めて、すこしだけ本の話をした。
脱走の原因をつくった彼女と偶然再会して、凍りついた英二の顔。
放っておけなくて、隣に座っていたくて。偶然辿りついたあのベンチに、座ろうと自分から誘った。
誰かに一緒に座ろうと誘った、それも初めてだった。
傷ついた端正な顔、ただ静かに寄り添っていたかった。
だからいつものように、本を開いた。あの日に買ったばかりの本、フランス原書『Le Fantome de l'Opera』
あのベンチに初めて座って、初めてあの本を開いて眺めた。

あの本は、父の書棚にも遺されていた。けれどそれは、壊された本だった。
最初と最後のページしかない、真中がそっくり抜け落ちた本。
不思議だった。他の父の蔵書はどれも、端正な保存に破損は無かったから。
だから尚更あの本に、何が書いてあるのか気になっていた。

そしてあの日、書店で紺青色の表紙を見つけた。
けれど高い場所に納められていて、自分には届かなくて。
そうしたら隣から、長い腕を伸ばして本を掴んで、渡してくれた。
そんなふうに誰かに、さり気なく助けてもらったことは、初めてだった。
だからあの時、隣に英二がいなかったら。あの本も、手に取らなかったかもしれない。

『Le Fantome de l'Opera』
父の蔵書に遺されていた、最初と最後のページ。それだけ読んで、推理小説かなと思っていた。
けれどあの日あの後で、母に指摘された「あら、周が恋愛小説?…有名な恋愛小説だもの」
言われて恥ずかしかった。
だって知りもしない恋愛、それを綴られた本を、英二が取って渡してくれたことが面映ゆかった。
そして恋愛小説だと、英二が知らないでいたことに安心していた。
自分が安心した理由、今なら解る。
無自覚なほど深い心から求める人、その人から。恋愛の物語を渡されて、うれしかったから。
けれどその本心を、相手に知られることが哀しかったから。

だって、
自分は決めていた。父の軌跡を追うために、自分は孤独に生きていく。
その孤独な辛い運命に、想い求める人を巻きこむことは、決して出来ないことだから。
想いが深いほど、本心は知られたくなかった、自覚もしたくなかった。

だって、
孤独に戻るなら、誰かを想う温もりなんて、知るだけ孤独が辛くなる。
だから決して本心は、知らせない、自覚しない、想いの温もりは、孤独には辛いだけ哀しいだけ。
そうして無自覚に心に鍵かけた。いつか来る別れの、その日が辛くないように。

『Le Fantome de l'Opera』
だから本の内容を、英二に訊かれるたびに途惑った。
けれど自分の読む本に、興味を持ってくれる。それがうれしくて、求められるまま説明をした。
英二もわりと、本を読む方だった。だから互いに読んだ、本の話が自然に出来た。
最初は、英二が読書なんて意外だった。いつも賑やかに周りと話していたから。

けれど寮の狭いベッドの上、並んで座って過ごす日々。
穏やかな静謐に佇んで、ゆっくり本を眺める横顔に、気がつくと見惚れて困った。
これがこのひとの素顔。そう気づいた時、初対面の冷酷な瞳を思いだした。
そして気がついた、そう初対面の瞬間からもう、自分はこの素顔を見てしまっていたこと。
実直で温かい、やさしい穏やかな静謐。それが英二の心、真実の姿。

そしてあの日は、あの主人の店に初めて行った日。
あの日あの店に連れて行ってくれた、そしてあの店は、自分の特別な場所になった。
無自覚なほど深い心から求めている人。そんな人と向き合って、初めて食事した場所だから。
そして1週間前に知った、あの店の主人が、父の殺害犯だったこと。
けれどもう、あの店は自分の特別な場所だった。
だからあの時、あの主人を信じることが出来た、そして事件の真実を聴くことが出来た。
もしあの日、英二が外泊日の食事を誘ってくれなかったら。
そしてもし英二が、自分の隣にいてくれなかったなら。
きっとあの主人も、自分も母も、13年前の事件に執われたまま、冷たい孤独の底にいた。

初めての外泊日。
初めて、誰かに本を手渡された、そして初めて助けられる喜びを知った。
初めて、恋愛小説を買った、そして初めて恋愛を知った。
初めて、誰かと一緒に食事に行った、そして初めての特別な場所が出来た。
初めて、自分から一緒に座ろうと誘った、そして初めて本の話をした。
そうして初めて、あのベンチに座って、ふたり時を過ごした。
あの日も、たくさんの初めてが、ふるように自分に訪れた。そのどれもが、幸せだった。

「なんか、妬けるな」

隣の声に振り向くと、なんだか少し拗ねた顔をしている。
やける?
どういうことだろう、そして何が?
よく解らない、周太は素直に訊いてみた。

「やける?」
「周太がね、他の人と仲良いとさ、俺、嫉妬しちゃうんだ」

やわらかく微笑んで、英二が答えてくれる。
その答えに周太は、驚かされた。

英二が、嫉妬する?
どうして、なぜ、そんなこと?
だってこんなに、きれいな笑顔。なぜ嫉妬なんか?

「英二が、嫉妬?」
「警察学校の時からさ、ずっとそうだよ。俺の身勝手だけどね」

言われてみれば、そうかなと周太は思えた。
よく英二は、周太が他の人と話していると、そっぽ向いた。
そのときが嫉妬の時だったのだろうか。
でも、「ずっと」っていつから?

「ずっと?」
「ああ、ずっと。脱走した夜にさ、周太の部屋で泣かせてもらった。あの夜から」

あの夜から、ずっと?

「ずっとだよ、」

言って、英二が微笑んだ。

警察学校の寮から、英二が脱走した夜。
あの頃の彼女に「妊娠した、死にたい」そう告げられて、英二は規則違反を承知で寮を脱走した。
あの頃には英二は、警察官の道と真剣に向き合い始めていた。
そのことを周太は気づいていた。英二の真摯な素顔が、少しずつ顕れ始めたことに。
だからあの夜、英二の気配に気がついて、引き留めるために隣室の扉を開いた。

―どうしても行くなら、辞めてから行けよ!―

そんなふうに、怒鳴りつけた自分がいた。
警察官になる覚悟を突きつけて、周太は英二を引き留めようとした。
そしてあんなふうに、誰かを怒鳴りつけたのは、周太には初めてのことだった。
あんなにも、真剣に怒ってしまった自分に、驚いて途惑った。

けれど、英二は、彼女の元へと、行ってしまった。

「周太、あの夜ね、」

名前、呼んでくれて嬉しい。周太は隣の瞳を見つめた。
懐かしそうに微笑んで、英二は周太に言った。

「あの夜の俺はね、生まれて初めて憎しみを知ったんだ。自分も相手も、何もかも憎かった」
「…ん、」

そっと静かに、周太は頷いた。
そう、あの夜。戻ってきた英二の瞳は、捨てられた犬のようだった。
真剣に向き合い始めた道、それを捨てても走った想いが、報われなかった。
その痛み哀しみが、切長い瞳から光を奪っていた。

「けれど、」

英二はそっと微笑んだ。

「けれど周太が泣かせてくれた。俺を徹夜勉強に誘って、一晩中を隣ですごして、孤独にしないでくれた」

黙ったまま、周太は見上げて聴いていた。
あの時も同じように、この隣を見つめて話を訊いた。

「あの夜にさ、周太の部屋からもれる光が、俺を待ってくれている一つだけの場所に思えたんだ。だから俺は扉を叩いた」

冷たい嘲笑、端正で冷酷な目、大嫌いだった。
けれどあの時には、端正で冷酷な目の奥底、真実の姿を知っていた。
嘲笑の仮面で覆われた、切長い瞳の底からは、英二の想いの真実が、いつも自分を見つめ返していた。
いつも英二の想いが、ひそやかに自分に問いかけていた。

―ほんとうは、率直に、素直に、生きていきたい。生きる意味、生きる誇り、ずっと探している―

問いかけに、自分こそが答えたい。英二の真実の姿、ほんとうの笑顔を見てみたい。
そんな願いが、自覚も出来ないほど深く、深い想いの奥底に生まれていた。
ほんとうはもう、好きだった。だからそんなふうに、密やかな願いを抱いてしまった。

だから、自分から初めて、人の扉をノックした。
あの脱走した夜、引き留めたくて、自分から隣の扉をノックして、扉を開けた

どうしても、隣にいてほしかった。
だってまだ、ひそやかな英二の問いかけに、なにも答えられていないから。

あなたの真実の姿、実直で温かい、やさしい穏やかな静謐。
あなたの真実の姿、そのままで、生きていて?
そのままの姿で、率直に素直に生きるなら。あなたなら、きっと見つめられる、見つけられる。
生きる意味、生きる誇り。それからあなたに、必要な全て。

そう、答えたかった、伝えたかった。
けれど自分には解らなくて。人へ想いを伝える術も、人の想いを受けとる事も、なにも解らなかった。

脱走を、引き留められなくて。
寮から出ていく背中、ベランダから見つめて。
ただ見つめて、哀しくて、自分は孤独だと思い知らされた。
あなたには、他に帰る場所がある。問いかけて答えを求める相手が、他にいる。

入校式前の出会い、初めて出会ったあのとき。
問いかけられたと思ったのは、自分の思い込みだった?

ほんとうは13年間ずっと叫んでいた。
孤独は寂しい、誰か隣にきてほしい―そんな想いの見せた、哀しい思い込みだったの、かな?
そんな想いと一緒に、ただ背中を見つめていた。
校門のむこうへ去っていく、あなたの背中を見つめる瞳から、ひとすじだけ涙がこぼれた。

それでも引き留めたくて、出ていった隣室の扉を勝手に開けた。
そしてデスクに置き去りにされた「退学届」を勝手に持ち出した。

だから、あのとき。
自分の扉を、叩いて、戻って来てくれた、あのとき。
ほんとうは、救われたのは、自分のほう。あなたの姿が、うれしかった、眩しかった。

「そして、」

きれいに笑って、英二が話してくれる。

「そして周太に抱きしめられて泣いた。あの時ほんとうにね、受けとめてもらえて俺、嬉しかったんだ」

そして、あなたは冷たい仮面を壊して、自分の胸で泣いてくれた。
抱きしめた胸、白いシャツを透して沁みた涙。あなたの涙の温もりを、感じた瞬間、ほんとうに、うれしかった。

「嬉しくて、温かくて、居心地が良くて。それからずっと、周太を見つめてしまっている」

ほんとうは、泣きたかったのは、自分。
ほんとうは、あの夜は、離れたくなかったのは、自分。
だからあのとき、そのまま徹夜勉強に誘って、そのまま一緒に朝を見た。

「…あの時、そんなふうに想ってくれたのか」

ほんとうに?
そうなら、ほんとうにそうなら、どんなにか、うれしいだろう。
きれいな切長い目を、周太は真直ぐ見つめた。
ほんとうに?目でもする問いかけに、きれいに笑って英二は、頷いてくれた。

「あの夜に俺は、孤独と憎悪に捕まりかけていた。それを救ってくれたのは、周太だ。
 あのときから、もうずっと、周太の隣の居心地が好きなんだ。だから俺、つい嫉妬する」

周太はひとつ息をすった。
このひとを、あのとき、自分は救えたの?
孤独と憎悪の暗さから、きれいな笑顔を自分が救った。そういうの?
それならどんなに、うれしいだろう。うれしくて微笑んで、周太は訊いた。

「俺が、英二を救けられたんだ。それなら嬉しい俺…すごく、うれしい」

もうずっと、愛している。そのひとを、自分が救えた。
だっていつも愛するひとは、自分を救ってばかりいる。
だからずっと願っていた、自分こそが救いたい。
うれしくて微笑んだ瞳から、涙がこぼれる。微笑んだまま、周太が告げた。

「いつも俺は、英二に救われている。そんな俺では、英二の重荷になってしまう。そう思って本当は苦しかったんだ」

いつも思っていた、重荷を背負って生きる自分なんて、と。
父の軌跡を追うという重荷、「父の殉職」その枷を外すための、辛い選択の道。
重たくて辛くて、自分で投げ出したい時が、幾度もあった。
けれど自分は解っている、これは逃げるほどに苦しくなる重荷。
だって方法はこれしかない、父の殉職から始まった、冷たい孤独と運命の枷を外す術は。
父の軌跡に遺された、父の真実その想い。その想いの全てを見つめ終わった瞬間に、初めて、重荷は消えるから。

けれどその重荷を、この愛する隣に負わせてしまった。
その痛みが哀しくて、その罪悪感が苦しくて、愛するひとの隣に自分が、居ても良いのか悩んでいた。
だから救いになれるなら。想いに周太は微笑んで、唇を披いた。

「だから、…うれしいんだ。俺も英二の救いになれるなら、俺は英二の隣にいて良い。そう信じられて、嬉しい…」

父の真実と想い、全てに向き合い見つめた時に、枷は外れる。
今はまだその途中、「父の殉職」の繋縛に、自由な自分の人生を、まだ見つめることは出来ない。
けれどいつか、父の真実と想いの、全てに向き合うことが終わる、そんな暁がくる。

その暁にこそ「父の殉職」という繋縛から自由になるだろう。
そうしてその暁には、自分は全ての選択を、唯ひとつの想いの為に選んで生きたい。
その暁からは必ず、この愛する隣の救いの為だけに、生きる道を選びたい。

その暁に明ける時を信じて、今は、辿り始めた父の軌跡を、潔く歩き通して見つめたい。
ただ真直ぐに立って、唯ひとり愛する隣を、唯ひとつの想いに守りながら。

「そうだよ周太、」

うれしそうに幸せそうに、きれいに英二が笑いかけてくれた。

「ずっと隣にいて。周太はね、いつだって俺の救いになっている。だからずっと離れないでよ」
「…ん。」

いつだって、救いに。
ならばもう、ずっと絶対に離れなくていい。
だから今このとき、この想いを告げさせて。きれいに笑って周太は告げた。

「離れない、英二の隣だけにいたい」

今日は4日目、夜が来ればまた、新宿と奥多摩に分かれて暮らす。
けれどこんなにもう、お互いが願っている、離れないで隣にいること。
だから大丈夫、離れずきっと隣にいられる。

きれいに英二が笑いかけてくれる。

「愛してるよ周太、ずっとだ」

そう告げた唇で、そっと周太の唇をふさいだ。
ふれる唇の温もり熱い、甘やかな幸せとけて、想いと一緒にながれくる。
そう今ほんとうに、しあわせで。想いを少しでも多く、今、告げたい

「…ん、英二、俺もね、…ずっと愛している」

ゆっくり離した唇、ふれあう吐息あたたかい。
周太の額に額ふれさせて、きれいに笑って英二が言ってくれた。

「うん、ずっと俺だけを見て、周太。俺もずっと、周太だけだから」

そう、あなただけ。
だから願ってしまう、祈ってしまう、想いの中心に据えていく。
どうかこの愛する隣を、自分こそに守らせて。




(to be continued)

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萬紅、叔暁act.3 初雪―another,side story「陽はまた昇る」

2011-11-25 23:10:22 | 陽はまた昇るanother,side story
※後半1/2R18(露骨な表現はありません)

初雪、このいまに約束を




萬紅、叔暁act.3 初雪―another,side story「陽はまた昇る」

料理と焚火を囲んで座ると、さっそく国村は地ビールの栓を抜いた。
国村に目で促されて、英二もトラベルナイフで栓を抜く。

「はい、乾杯、」

乾杯をした端から国村は、もう次の酒の話を始めた。

「これ飲んだらさ、あの酒を飲もうな」
「ああ、いいよ」

機嫌良く国村は、さっさとビールを飲み干して、一升瓶の栓を開いた。
英二も飲んでしまって、笑って国村を見ている。
お互いにコップに注ぎ合って、また乾杯と言って啜った。

「奢られた酒をさ、焚火を見ながら山の冷気と一緒に飲むのは、まじ旨いね」
「じゃあさ、今度は俺のも奢ってよ」
「ああ、いいよ。もし俺が奢りたくなったらね」

そうして楽しそうに、二人で日本酒を飲み始めた。
周太もビールを渡されたけれど、とても二人のペースには着いていけない。
同じ年で同じ男で、同じ警察官。けれど二人は山ヤだ、周太とは性格のタイプも全く違う。
なんだか不思議で、おもしろい。ビールに口付けながら、周太は二人を眺めた。

「雪が降ったらさ、雪山でビバークしような」
「おう、楽しみだな。またさ、いろいろ教えてくれよ」
「雪山のこと?それとも夜の話?」
「ははっ、うん、どっちも?」

焚火に照らされ、酒傾けながら、薪を上手にくべている。
飄々と笑う国村と、きれいな温かい笑顔の英二は、好一対だった。
楽しげな二人の様子は、見ていて嬉しくなる空気がある。

英二は、周太の隣を選んだ。
そして実直な英二は堂々として、自分たちのことを隠すつもりが無い。
そのことは、英二の交際範囲にも、当然影響するだろう。
自分達の関係を受入れない。そんな考えの方が、今の日本では主流になっている。
そして現実に、英二は実の母親に拒絶された。そのことは周太にとって、本当に哀しい事だった。

だから周太は、国村の存在が嬉しい。
全てを理解して、心から英二の友人でいてくれる。
そういう存在は英二にとって、大きな救いに、人生の財産になるだろう。
国村と英二が出会えて、本当に良かった。周太は微笑んで、ビールを一口飲みこんだ。

「あのさ。その登山ジャケット、色違いのお揃いだよな」

眺めていた秀麗な顔が、こっちを向いて笑っている。
そのはす向かいで、英二が可笑しそうに笑って答えた。

「そうだけど?」

それって今着ているこれのこと?
意外だった。

周太は全く気が付いていなかった。
周太と英二のウェアは、印象が全く違う。あわいブルーと深いボルドーと、正反対の色だった。
でも言われてみれば、腕のラインの入れ方が似ている。
隣を見あげて、周太は訊いてみた。

「…そうだったのか?」
「うん、なんか良いなって思ってさ」

ほら、こんなふうに隣は、正直に白状してしまう。
こういう正直さは、好きだ。けれどちょっと困る時もあるのは、許してほしいなと思う。
困っている向かいから、からりと国村が笑って言った。

「あれ、気付いていなかったんだ?せっかくのペアルックなのにね、勿体無いな。ねえ?」
「…っ、」

ほら、やっぱり、また首筋が熱くなる。きっともう赤い。
なんて答えて良いか解らない。
俯いていると、英二がそっと覗き込んでくれた。

「周太、…もしかして、嫌だった?」

切長い目は、微笑んでいるけれど、寂しそうだった。
傷つけてしまう。そう思った途端、周太は微笑んだ。

「嫌じゃないんだ。ただ、ちょっと途惑っているだけだから」
「俺、やっぱり困らせた?」

きれいな目が困っている。なんだかちょっと、かわいい。
そんなふうに思えてしまって、周太は英二の目を覗きこんだ。

「ん、あのね、俺、誰かと同じ物を持つとか、したことないから。だから驚いたんだ」

一瞬、英二の目が哀しそうになった。
きっと自分の13年間の孤独を想ってくれた、それが周太には解る。
でも今が幸せだから。そう目だけで周太は、切長い目に微笑んだ。
見つめた切長い目は、すぐに明るくなって嬉しそうに笑ってくれた。

「じゃ、これも“初めて”なんだ、周太」
「ん、そうだね、英二」

“初めて” ほんとうに初めてが、いっぱいある。
どれも気恥ずかしくて、ほんとうは嬉しい。うれしくて、隣を見あげて、周太は英二を見つめた。
その横顔に、賽を投げるよう声が懸けられた。

「ふうん、名前で呼ぶんだね。なんか良いことあったんだろな。ねえ?」

日本酒のコップ片手に、国村が細い目を笑ませている。
いつもなら、自分はここで真っ赤になるだろう。
けれど今はもうすでに、アルコールの酔いで赤くなっている。
それに何より、自分はもう決めている。きれいに笑って、周太は答えた。

「…ん、そうだな。良いことはね、たくさんあったよ」

細い目が、ちょっと驚いた。
けれどまたすぐに、楽しそうに微笑んで、国村は言った。

「うん。いいよね、そういうのはさ」

国村の微笑みは、温かだった。
いつも飄々と笑う国村、その温かい懐は大きい。
やっぱりこのひと好きだな、うれしくて周太は微笑んだ。

「ん、いいね。ほんとうに、そう」
「だね、」

やさしく温かい頷きを、国村は返してくれた。
コップ酒をひとくち啜って、細い目で英二を見る。
その唇の端が、すっと上げられた。

「で、宮田さ、山では“あの時”に何回なったの? 昨日今日はさ、雲取山は人気少なかったろ」

一昨日の夕刻。青梅署診療室で、国村から言われたこと。
「山は人気が少ないからね、宮田が“あの時”になりやすいかもよ?」
その“あの時”が何の事なのかまで、国村は吉村医師の前で言ってくれた。
ほんとうに恥ずかしくてたいへんだった、思い出すとまた恥ずかしい。
そう困っている隣で、英二が不思議そうに微笑んだ。

「うん?“あの時”ってさ、何の時だよ国村?」

やめてそんな質問しないでかんべんして。
いま、きっと顔は真っ赤だろう。でもこれはビールのせいなんかじゃない。
どうしようもなくて見ていた周太の向かいで、国村の唇の端がまた、すっと上げられた。

「ほら、宮田ってさ、“山っていいなあ”ってね、ボケっと山でなるだろ?人気が少ないと特にさ」

肩透かし、もろに喰らってしまった。
どっと周太の肩が落ちる、国村以外は気がつかないだろうけど。
細い目が本当に楽しげに「今さアレ考えたんでしょ?ほんとかわいいよね湯原くん」こんなこと言ってくる。

なんだかもうほんとにって思う、けれどやっぱり国村は憎めない。
ただ純粋に楽しんでいる、そういう明るさが、厭味の暗さを少しも作らないから。
こういう国村には、ずっと英二の友人でいてほしいな。素直にそう思えてしまう。
そう思う隣から、きれいな笑顔が笑いかけてくれた。

「おう、今日も昨日も、ボケっとしたよ。何回くらいかな、周太わかる?」
「…ん、…1回は俺も、気がついたけど…」

なんとか隣へと顔を上げて、周太は答えた。
その横顔を、楽しげな細い目が眺めてくる。やっぱり今夜も、玩具にされてしまった。
こういうのって、国村の彼女としてはどう思うのだろう。
横を見ると、楽しそうに美代が、オレンジエールを渡してくれた。

「はい、どうぞ」

ようやくビールが空いて、ちょっと良い気分になっていた。
登山の後、しかも昼間に水割りを呑んでいる。少しだけ、酔いやすくなっているかもしれない。
ちょうど、酔いざましが欲しいなと思っていた。

「ありがとう、」

受けとって、瓶のふたを周太は開けた。
ふっとオレンジの香がたつ。馴染んだ香に、ほっと周太は息をついた。
すこし遠慮がちに笑いかけ、美代が周太に教えてくれた。

「あのね、これ、宮田くんが選んだのよ」
「英二が?」

いつの間に選んでくれたのだろう。
よく英二は「周太はオレンジの味が好きだな」と言って選んでくれる。
いつも見ていて、周太の好みを把握してくれていた。
だからきっと、これも選んでくれたのだろう。微笑んで、周太は瓶に口をつけた。

「ん、おいし」

ひとくち飲んで、オレンジの香が嬉しかった。
なにより選んでくれたひとの、気遣いが嬉しい。
いつも英二はこんなふうに、周太を見つめて幸せをくれる。そのどれもがいつも、愛おしい。

「あのね、湯原くん」

並んで座った美代が、焚火を見つめながら、ふっと口を開いた。
なんだろう、周太が振向くと、きれいな瞳が真直ぐに周太を見ている。
訊いても良いのかな、そんなふうに美代の瞳が言っている。
なんだか自分とちょっと似ているな。思って周太は微笑みかけた。

「ん、なに?」

うん、と頷くと美代は口を開いた。

「湯原くんはね、宮田くんの恋人なの?」

つきんと周太の心が刺された。
こんなふうに率直に、英二との関係を訊かれたのは、初めてだった。
そっと右掌を頬にあてると、周太は首を傾げこみ呟いた。

「…恋人?」

恋人はきっと、恋をした相手の事だろう。
そう自分はきっと、英二に恋?をしている、と思う。
けれど本当は、それだけでは済まされない。

唯ひとり、唯ひとつだけの想い。そんなふうに、愛している。
英二だけ。きっとずっとそうだった。それをどう言えば、いいのだろう?

ああ、そうか。ふっと想って、周太は唇を開いた。

「美代さんは、人間なら誰でも、ずっと一緒にいたいって思える?」

訊かれて、美代は少し考えて、答えた。

「ううん、光ちゃんだけ。光ちゃんとは、ずっと一緒にいる」

やっぱり自分と同じなんだ。なんだか嬉しくて、周太は微笑んだ。
微笑んだまま、きれいな瞳を真直ぐ見て、周太は言った。

「俺もね、英二だけ。代りなんて、いない」

きれいな瞳が微笑んで、ゆっくり頷く。
解ってくれたのかな、そう思う周太の横で、そっと美代が言ってくれた。

「うん、そういうの、幸せだよね」

やっぱり解ってもらえた。
うれしくて周太は、きれいに笑った。

「ん、…幸せだよ、俺」
「うん、幸せだね?私も、湯原くんも」

率直な笑顔が、きれいな瞳に微笑む。それが周太には、うれしかった。
美代と自分は、違う性別、違う職業、違う環境で生きている。
けれどこんなふうに、同じ想いを抱いて生きている。そういう人と出会えるのは幸せだ。
思う横で、きれいな瞳は微笑んで言ってくれた。

「あのね、きれいね。湯原くんは」

また言われた、でも今は素直に認められる。
だって自分を充たす、唯ひとりへの唯ひとつの想いは、きっと、きれいだ。
周太は微笑んで、そっと美代に訊いた。

「…そう?」
「うん、そう。だからね、きっと湯原くんと宮田くんのね、想いは、きれいね」

そう言って、きれいな瞳が、笑ってくれた。
実直な美代、きっと思ったことしか言わない。
それが周太には、嬉しかった。きれいに笑って、周太は言った。

「ん。英二はね、いつも本当に、きれいなんだ。…ありがとう、美代さん」
「こっちこそね、湯原くんが話してくれて、うれしいの。ありがとう、ね?」
「ん、」

そう、愛する隣は英二は、いつも本当に、きれいだ。
健やかで穏やかで、真直ぐな心。きれいな笑顔のままに、実直に生きている。
だから自分はいつも誇らしい、この愛する隣に座れること。


ビジネスホテルに戻ると、また周太は先に浴室へと送られてしまった。
どうしていつも、こうなるのだろう?思いながら栓を開けると、温かい湯がふり注いだ。
湯の熱に、ほっと息を吐くと、ふっと美代の言葉が蘇った。

―あのね、きれいね。湯原くんは

月明かりの下、河原で言われた言葉。きっとそうだろうと、自分でも想う。
だってもう、心満たす想いは、唯ひとつ。それだけだから。

湯気に透けて、自分の体が周太の視界に映る。
決して大きくはない小柄な、そして本来は華奢な体。
自分が愛する人は、ずっと自分より大きくて、力強い端正な美しさに充ちている。
自分よりずっと強い、愛するあの隣。
それでも、自分こそが守りたい。ずっと守って生きていきたい。

「…ん、」

ひとつ頷いて、周太は両掌で髪をかきあげた。

いま、自分が出来ること。
あの隣を守るために、今の自分が出来る、せいいっぱい。
それを今夜、自分から望める勇気が、今この時、ほしい。
だって今日はもう、初雪が、愛する隣の立つ山に、降ってしまったから。

ふりそそぐ湯に、顔を仰向ける。
温かい湯が頬を撫でる。ゆっくり閉じた瞳から、そっと涙が湯にとけていく。

湯の温かなふれる涙、どうかこのまま、弱い自分を流れ落としてほしい。
いつも恥ずかしさに閉じこもって、告げたい言葉にも口噤む、弱い自分を零し去りたい。
そうして全て伝えたい、自分の想い、想いの真実、そして心からの願い。

今日、初雪が降った。だからもう、今夜しか時がない。

大きく、ひとつ息をつく。
それから湯の栓を止めて、周太はシャワーカーテンを開けた。

髪を拭きながら、ふと見た鏡に、黒目がちの瞳が映った。
今までに見たことのない瞳、不思議な想いが艶めいている。
こんな瞳を自分がしている。

よく解らない、けれどこれで良いのかもしれない。
これから自分は、今までにした事のない望みに、初めての勇気をつかう。
そんな想いがきっと、瞳に透けるのは、自然なこと。

白いシャツの袖に、赤い痣の右腕を通す。
きちんと着替えて、もう一度だけ鏡を覗きこむ。
黒目がちの瞳に微笑んで、周太は浴室の扉を開いた。

「お先に、ごめんね」

登山地図にメモを書き込む、仕事をする横顔。
端正な横顔の、長身の背中が静かにふりむいてくれる。

「周太、ちゃんと温まった?」

きれいな笑顔、やさしい英二。この笑顔を、どうか自分に守らせて。
微笑んで周太は、素直に頷いた。

「ん、ありがとう。温かいよ、」
「そっか、良かった。今朝さ、周太ちょっと咳したろ?気になっていたんだ」

見つめる想いの瞳、穏やかに笑いかけてくれる。
きれいな長い指が、登山地図と鉛筆と、手帳を片付ける。

「ん、平気。だいじょうぶ、」
「うん、なら良かった」

すっと立ち上がると英二は、やさしく笑って周太を覗きこんだ。
そして周太が持っていた、脱いだばかりのニットを、大きな掌に取ってくれる。

「寒くないようにしていて?」

言いながら、そっと白いシャツの肩を包んでくれた。
いつもこんなふうに、やさしい英二。いつもこうして、幸せをくれる。
幸せが周太を、微笑ませてくれる。そして英二も微笑み返してくれた。

「じゃ、俺も風呂つかわせてもらうな。ゆっくりしていて」
「ん、ありがとう、」

周太は少しだけ窓を開けた。
冷たい山の空気が、そっと森の香をふくんで、部屋をひたしていく。
ほっと息を吐いて見上げた空は、星がよく見えない。

「あ、」

呟いて周太は、ルームライトをダウンライトに替えた。
部屋の照明を落としてから、もう一度空を見あげると、星はきちんと輝きを見せた。
やっぱり綺麗だ。そんな想いに見上げる空は、青紫色を抱いた夜闇が透けるように見える。
山近く、覆う大気の澄明さが瞳にしみる。

今夜は3つめの夜。
明日にはもう、新宿へと帰らなくてはいけない。
このままここで、あの隣から離れずに、ずっと生きていきたい。
ほんとうはもう、おととい1つめの夜から、ずっと、そう思っている。

今夜のときがながれ、暁を迎えたら。次はいつ、会えるのだろう。
それすらもまだ、解らずに自分達はいる。
警察官として危険に向かう、そんな日々がまた始まるから。

唯ひとつの想い、けれど。
その想う相手は、明日すらも、この一秒後すらも、危険と共に生きている。
想いの人は、英二は、山岳救助の警察官。非番でも遭難救助の召集で、救いの為に駆け出す人。
この一秒後すら、確かに生きて無事に傍にいてくれる、そんな保障はどこにも無い。

そんな自分達には、確かなものは、何も無いのかもしれない。
それでもひとつだけ、確かなことは。きっとずっと、自分はもう唯ひとり、英二しか想えない。

いま見つめる夜の山。
奥多摩の山嶺、愛するひとが危険に立つ場所。
見つめる奥多摩の山嶺へ、祈ってしまう、願ってしまう。
どうかずっと無事に、あのひとを帰して下さい、冬の雪山になっても。

「周太、」

呼ばれた名前、うれしくて。
振返ると、きれいな笑顔が佇んで、笑いかけてくれていた。

「おいで、」

呼んでくれた隣に、周太は静かに座った。
ソファに並んで落着くと、英二は胸ポケットからオレンジ色のパッケージを出した。

「はい、周太これ」

はちみつオレンジのど飴の、半分減ったパッケージ。
さっきブナの木の下で、最後のひと粒だった飴と同じものだった。
買ったばかりなら、こんなふうに減っている訳はない。
またきっと、この隣の罠へと自分は墜ちたのだろう。想いながら、周太はそっと首をかしげた。

「…もしかして山でもずっと、英二、これ持っていた?」
「持っていないなんて俺、一言も言わなかったけど?」

ほら、やっぱりそうだった。

「周太、」

名前を呼ばれて上げた顔に、そっと唇がよせられた。
移しこまれる、オレンジの香。いつもよりなぜか、ずっと甘い。
きれいな唇が静かに離れて、瞳を覗きこまれた。

「ちゃんと返したからな、」
「…っ」

たしかに、返してもらった。
けれど。こんなふうにかえされたら、どうしていいのか。
わからない、だって全てが初めてのこと。わからなくて当然だ。
そう、ほんとうにわからない。だから何でも訊いてしまえばいいい。
周太は唇をひらいた。

「あのさ、どうして隠していたんだ?」
「飴のこと?」
「…そう、」

あのブナの木の下。どうして飴を隠し持っていたのか?
たぶんもう、答えは解っている。それでも訊いてみたかった。

首筋もう赤い、訊くのも本当は恥ずかしい。
恥ずかしいのは、あの時に、自分が唇を寄せてしまったこと。
あんなふうに自分がしてしまうなんて自分でわからないこんなこと初めてのこと。

きれいに笑って、英二は言った。

「周太からね、俺のことを求めている、って感じたかったから」

ほら、やっぱりそう。
だってもう知っている、この隣はもう、自分を求める為には、手段も選ばない。
きっとほんとうに英二は、自分から、そう求めて欲しかったのだろう。
周太は右掌を、そっと自分の頬にあてて、首を傾げた。

「…俺から?」
「そうだよ、」

英二は周太の瞳を覗きこんだ。
そうして、きれいに笑いかけていってくれる。

「深いキスって、求められている感じするだろ?だからね、してほしかったんだ俺」

求めている。

ほんとうはもう、ずっと求めている、
卒業式のあの夜よりも、ずっと前から、そう、もう前から。
きっと、たぶん、出会った時。悔しさに髪を切り落としてしまった、あのとき。

―こんど会う時まで、その無愛想なんとかしとけよ。結構かわいい顔、してんだからさ

冷たい嘲笑、端正で冷酷な目、大嫌いだった。
無駄な努力は愚かだと、見下す眼。父の殉職の為だけに、努力だけで生きてきた自分の孤独に冷たく刺さった。
けれど、あのとき。
そう、あの時にもう、ほんとうは。
端正で冷酷な目の、その奥底に眠る想いを、心、真実の姿を、あのとき見つめてしまっていた。

実直で温かい、やさしい穏やかな静謐。それが英二の心、真実の姿。

嘲笑の仮面で冷たく覆っても、切長い瞳の底からは英二の想いの真実が、自分を見つめ返していた。
あのとき、英二の素直な心の想いが、ひそやかに自分に問いかけた。

―ほんとうは、率直に、素直に、生きていきたい。生きる意味、生きる誇り、ずっと探している―

きっとたぶん、もう、好き、になったのは、あのとき。

そして密やかな願いが、そっと自分のなかに座りこんだ。
その問いかけには、自分こそが答えたい。
このひとの、真実の姿、ほんとうの笑顔を、見てみたい。
そんな願いが、自覚も出来ないほど深く、深い想いの奥底に、そっと生まれていた。

その願いの息づきを、今はもう知っている解っている。そして望んで今この時、この隣で見つめている。

周太は頬にあてた右掌を、そっとおろした。
そして静かに瞳を上げて、隣を真直ぐに見つめて言った。

「英二、…俺はずっと、英二のことを求めている…もうずっとそう、学校の時から、そうだったんだ」

こんなふうに、ずっと告げたかった。
こうして想いを告げて、自分の想いを受けとめてほしい。そう願っていた。
そうして自分が抱いている、想いも心も、この身体すら、全てを差し出しても、求めたかった。

「どんなふうに?」

きれいな切長い目。訊いて、瞳を見つめてくれる。
あのとき、出会った瞬間の願い ― このひとの、真実の姿、ほんとうの笑顔を、見てみたい
そして今こうして、真実の姿のままで、美しい心のままの、きれいな笑顔で、見つめてくれる。
願っていた、こうして今あることを。
そしてずっと告げたかった、そんな自分の想いも願いも。
だから今も、告げたい。そっと周太は唇をひらいた。

「…英二の、きれいな笑顔を、…ずっと見ていたいって、想っていた…警察学校の時から、ずっとそう」

やっと、告げられた。

きっと、て、想う。
きっと英二は、英二が片想いをしていた、そう想っていただろう。
でも、ほんとうは違う。
ほんとうに、片想いをしていたのは、自分の方。
心の深い奥の底、自覚も出来ないほどの深い、本当の想いの場所。
そんな大切な想いの場所から、ずっと想い続け、求め続けていた。
だから、
だからこそ、英二が脱走した夜に、初めて自分から、ひとの扉を、叩いてしまった。

「ずっと見ていて、周太。笑顔もね、なにもかも。俺は全部、周太のものだから」

ほんとうに?
きれいな笑顔が告げてくれる、ことば想いが、うれしくて。
うれしくて、確かめてみたくなる。

「…俺の?」
「そうだよ、」

長い腕が、自分へと伸ばされる。
やさしく抱き寄せてくれて、きれいに英二が笑ってくれる。

「言っただろ?周太への想いがね、俺の生きる理由と意味。だから俺は全部、周太のものだよ」

うれしい。
だって、自分の願いは、願った以上に叶ったと、言ってもらっている。

初めて出会った時の、英二の問いかけ「生きる意味、生きる誇り、ずっと探している」
その問いかけには、自分こそが答えたい、そう願っていた。
その答えの、全てが自分だったと、こんなふうに告げてくれる。それは、ほんとうに、幸せなこと。

幸せで、けれど少し気恥ずかしい。周太は微笑んだ。

「ん、…うれしい。俺のものでいて英二。…俺もね、同じだから。だから…」

だから今夜、自分を、あなたのものに、してほしい

こんなこと、告げるのは、恥ずかしすぎて。
恥ずかしさにもう、息が止まる、心臓も止まって、時が終わりそう。
それでも今、この時に、どうしても伝えたい。そう、さっき、温かな湯のなか決めたこと。

自分は望む、あなたのもので、ずっといたい

今夜は3つめの夜。
明日の夜にはまた、離れて暮らす日々が始まる。
その日々は、警察官として生きる、危険へと向かう日々。
だからいつだって、危険に斃れる可能性が、自分たちには寄り添っている。

そして今日、初雪が降った。山の霜柱は10cmもあった。
零下の低温、冷たく重たい雪の足許、凍てつく滑る氷の地面。
凍死、凍傷、滑落、そして雪崩。冬山には死の罠が、密やかに息づいていく。
初雪の報せ、それは。冷たく抱かれる冬山の死が、厳然と起きあがる季節を迎えたこと。

そこへと英二は、初めて立つことになる。
自分と同じ警察官。けれど山ヤとして生きる、山岳救助隊員の英二。
初雪の報せは、英二にとって初めての、雪山に立つ任務が始まる報せ。
初めて立つ、それは危険が多いこと。
危険の多さが哀しい、けれど避けられない現実。
だってこの隣は、その危険を知ってすら、その任務に立つことを望んでいる。
警察学校で一緒に過ごした、その日々に、英二の望みをもう、知りすぎるほど知っている。

そうして自分の望みは、英二の望み全てを、叶えて見つめ続けること。
そうして見せてくれる、きれいな笑顔が輝いて、いつも隣で咲き続けてくれること。
だから自分は止められない、英二が望みのままに、その危険にも立ち続けること。
だからどうか、
これから降りつもる雪、この愛する隣に、その美しい姿を見せて。
けれど雪山、どうか英二を浚わないで。必ず自分の隣へと、無事に帰して、この笑顔を見させて。

訪れてしまった初雪。
この愛する隣の、さらに無事を祈る日々が始まった。
きっと大丈夫、もう信じている。だって約束は、全力で守るひとだから。
だからこそ、いま今夜。また約束をしてほしい、自分の隣にずっと帰ってくること。

初雪が降ってしまった。
もうじき雪山の危険は、この隣に寄りそってしまう。それはもう、明日かもしれない。
だから今。
約束を結べる時、今しかない。
今夜のあとはもう、いつ逢えるのかも解らない。
だから今すぐに、いま今夜、約束がほしい、生きて隣にいるために。
全力で約束を守る英二、だから約束を結べば、きっと英二は生きて無事に帰ってくる。

だから英二、いま今夜、自分のすべて、あなたのものに、して

この心も体も全て、あなたのもの、だから自分の隣にずっといて。
そうして自分の隣に、ずっと帰ってくる約束を、この心と体を全て懸けて、結ばせて。

初雪、始まった不安の季節。
不安に自分は克ちたい、あなたを愛して見つめ続けるために。
だからお願い、約束を結んで、必ず帰る約束を。
きれいな笑顔を見つめて、あなたを愛し続けられる、その約束が、ほしい。

だからお願い、今夜すべての約束を、身体ごと心ごと、刻みつけて。そうしてずっと、隣で生きて、笑っていて。

「周太、求めて?」

想いに見つめる真ん中で、きれいな笑顔が笑いかける。そう、この笑顔を見つめ続けて、守り続けたい。

13年前の桜ふる日、帰ってこなかった、大切な父の笑顔。
あの日だって信じていた、帰って本を読んでくれる約束を、信じていた。
それでも父の笑顔は、帰ってこなかった。
あの日を想うと、本当は不安で哀しくて、今もう、崩れてしまそうになる。

けれど今の自分は、あの日には出来なかった約束を、英二と結ぶことが出来る。
唯ひとり、唯ひとつの、この想い。
自分の全てを掛けて、告げる願い、刻む想い、心ごと体で繋げて約束を結ぶ。
それを英二も、望んでくれる、だからきっと帰ってくる。
これからの雪ふる日、それでも必ず帰って来る、大切な愛する英二の笑顔。

いつも弱くて、恥ずかしさに閉じこもる自分の心。
けれどもう、想いの熱は心に充ちて、閉じこめることなんか出来ない。
ほら、想いの熱は、心から迫り昇って、瞳にふれる。
もう、想いの熱さが心から、音を持って声になって、唇をふるわせる。

ひとしずく、熱が周太の瞳から零れた。
かすかで空気に溶けるほど、ちいさな声で、想いが唇から零れた。

「…抱いて、英二…」

告げられた、約束を結んで求める願い。
告げたひと、見つめて微笑んで。ほら、きれいに笑ってくれる。

「おいで、」

きれいな笑顔、うれしくて。
抱きしめてくれる背中に、自分から腕をまわしてしまう。
隣は笑って抱きしめて、抱き上げて。そっと額を合わせて、微笑んでくれる。

「かわいい、周太」

最初に言われた時は、嫌だった。
けれど今はもう、素直にうれしいと思ってしまう。
うれしくて、周太は微笑んで、英二を見つめた。

「ん、だって、…英二のことが、好き、だから…」

静かにベッドへおろされて、そのまま見下ろされる。

「そういうこと、言われるのってさ、うれしいよ」
「…ん、そう?」

見つめる瞳が熱い、なんだかいつもより熱くて、どうしていいのか解らなくなる。
それでも笑顔、見つめていたい、周太は真直ぐ見つめ返した。

「周太、」

そっと呟いて、端正な顔が近寄せられる。
ゆるやかに抱きしめられながら、伝わる鼓動がすこしだけ早い。
見つめる瞳、温かな唇ふれそうに、吐息がそっと唇にかかる。
キス、したい。

近寄せられた端正な頬に、そっと周太は右掌でふれた。
なめらかな温もりが、ふれる掌をやさしく受けとめてくれる。
温もりがうれしくて、左掌も頬へと添えた。
温かな両掌がうれしくて、くるんだ顔が愛しくて、そっと周太は唇をひらいた。

「…英二、」

そっと名前を呼んで、両掌で惹きよせる。
名前を呼ばれて微笑んで、きれいな笑顔が咲いていくれた。

愛している、ずっと

そんな想いのままに周太は、きれいな笑顔の唇へと唇を寄せた。

「…ん、…」

重ねた唇がうれしくて、重ねた熱が愛しくて、あざやかな熱に心とけていく。
そっと重ねただけのキス。それでも心が揺らされて、静かに想いへ墜ちていく。

「…周太、」

静かに離れた唇が、静かに名前を呼んでくれる。
呼ばれた名前がうれしくて、周太は微笑んだ。
この喜びをどうか、この隣へも伝えたい。想いのままに周太の唇がひらかれた。

「英二、愛してる…だから愛して?そして、ずっと帰って来て、」

きれいな笑顔が、大好きな声で応えてくれた。

「必ずね、俺は周太の隣に帰るよ。それくらいもう、周太を愛している」
「ほんとうに、必ず?」

確かめさせて、そんな想いに訊いてしまう。
きれいに笑って、静かに英二は、受けとめ応えた。

「ほんとうだよ、周太。絶対の約束。だって俺、愛しているから」

うれしい、

「…ん、約束。うれしい、」

伝えられた想い、受けとめられた想い、うれしくて。
両掌でくるんだ愛しい顔を、また惹きよせ唇を重ねた。

「英二、」

重ねた唇、さっきより熱い。
熱い甘やかな感触が、押しひらかれ唇から入りこむ。
重ねた端正な唇、熱い。重ねて入りこむ想い、熱くて甘やかで愛おしい。
されるがままに、周太は唇をひらかれる。ただされていく、けれど自分も想いを伝えたい。
重ねた唇へ応えて、周太も想いを入りこませた。

「…ん、周太、」

零れた吐息よせられる、唇も想いも熱くて、頭ぼうっとする。
想いを重ねあう、重ねるほどに熱くなるままに、深いキス。
与えられる熱、与えてしまう熱。深く重ねあう唇。熱くて狂おしい甘さが、心浚って惑わせる。
熱くて甘くて、解らない。途惑いと混乱と、それでも止まらない想い。

オレンジ色の飴を探した、あの時とは全く違う。
初めての感覚に、心ごと喘いで、吐息が零れていく。

「…っ、」

ようやく離れて、ひとつ大きく息をついた。
こんなことは初めてのこと、自分のしてしまったことが、自分で解らない。
途惑いは熱くて、首筋に頬に昇ってそまる。
気恥ずかしい。けれど、これでいい。だって今から望んで、絶対の約束を、結ぶのだから。

「きれいだね、周太、」

きれいに笑って、英二が言ってくれる。
そんなふうに言われると、余計に恥ずかしい。
けれど微笑んだまま、きれいな笑顔がねだってくれる。

「周太、今夜はね、…好きなだけ、抱かせて?」

好きなだけ。
それはどれくらいなのだろう?
いつもの夜と比べたら、どんなふうに違うの?
わからない。だって自分の初めては、この隣が全て。こんな願いも初めてのこと。

そして“初めて” に。
初めての夜と朝、あの卒業式の夜と翌朝が、思い出されてしまう。
あの夜は、何も解らないままに、痛みも温もりも、甘い切なさも、全てを受け入れた。
そうして迎えた翌朝は、ただ一夜で変えられた、声と体と心が残されていた。
重ねられた肌の記憶と、重ねた想いの記憶。その全てが、あざやかに刻みこまれていた。
もう、ずっと想っていた、愛していた。
離れたくない、笑顔見つめていたい、どうかお願い離れないで。
そんな想いと記憶が全て刻まれて、一夜で変えられた声、体、心。
変えられた全てを見つめる時、刻まれた記憶と想いの痛切に、独り見つめる孤独を思い知らされた。
孤独、置去りにされる想い、哀しくて。途惑いばかりに涙になった。
想いを独り抱きしめる現実が、哀しくて苦しくて、崩れ落ちそうだった。

そうして今夜3つめの夜、明日の夜には離れなくてはいけない。
そうして明日の夜からは、あの時と同じように、想いを独り抱きしめる現実が待っている。
もしまた、あの時のように変えられてしまったら。あの時より想いが深いだけ、きっと孤独はより辛い。
あの日の痛み。思い出すだけで、呼吸も心臓も止まりそうになる。

「お願い、周太…わがまま、訊いてよ」

きれいな笑顔、きれいな瞳。素直に言葉にする願い、甘い切なさに誘う。
見つめる想いは穏やかで、やさしく静かで、けれど熱い。

あの夜もそうだった、卒業式の夜。
この美しい、きれいな笑顔が、あの夜に自分を誘った。
今この時だけしかない、与えられたこの時に、想いも記憶も確かめたい。
重ねて繋いで結んで、心に体に痕を遺して、永遠にしたい。求める心も体も、全てでふれて、確かめさせて。
そんな願いが真直ぐに、覗きこまれた瞳から心に返響した。そして自分は、応えてしまった。

そして変えられた全てが、壊された孤独が、痛くて。けれど後悔なんて出来なかった。
そして一緒にいることを選べた。そうして掴まれていった、心も体も時間も、温かで幸せだった。

だから今も、応えてしまいたい。
唯ひとり愛する人が、求めてくれる願いなら。
もう愛している、だから孤独が今は、こんなに怖い。もう離れられない、ずっと隣に帰って来てほしい。
必ず隣に帰って来てほしい、その約束がほしくて、今夜を自分から望んだ。

だからもう、愛するあなたが、約束をくれるなら、変えられても、構わない。
愛するあなたが望むなら、どんなことでも、構わない。

「…周太、愛してる。だから、この想いを、刻ませてよ」

きれいな笑顔、望んでくれる。この愛するひと。

初雪がふった、雪山の初め。
雪山の危険にこれから立つ、この愛するひと。
雪と氷の自然の掟、命の生死が廻る山の冬、広やかな自然の摂理は深い。
その摂理の前には、人間の想いなんて、きっと小さすぎて、敵わないだろう。

でも今、呼ぶ名前のひとは、

「…英二、…」

実直に生きるこの人は、きっと約束の為になら、自然の摂理にだって愛される。
だっていつも全力で、自分の全てを懸けたって、約束を守る人だから。
だからきっと、山だって。
全てを懸けるこの人なら、山が抱く想い全てを懸けて、この人を帰してくれる。

「お願い、周太…わがまま、訊いて? 
周太をね、愛している俺の想い、ぜんぶ周太に刻ませて。そして約束を、刻ませてよ」

愛するあなたの願いを、どうしたら拒めると言うの?

想いを全て刻んで、約束を刻んで。そう願って、今夜を望んだのは、自分。
微笑んで、周太の唇がそっと披かれた。

「英二、想いと、絶対の、約束を、刻んで、」

そう。想いを、約束を、あなたに刻まれてしまいたい。
瞳に熱がこみあげる、想いがこうしてあふれだす。
周太の唇から想いが零れていく。

「…英二、お願い。全て、刻んで、」

そして自分も。あなたに、この想いを、刻んでしまいたい。
その願いはもう、告げないではいられない、だって想いは、こんなに深い、熱い。
見おろしてくれる瞳、真直ぐに見つめて微笑んで、いま想いを告げる。

「愛している…この想いを俺も、英二に、刻みたい」

お願い動いてと願うままに、そっと両掌が愛する顔をくるんでいく。
見つめる瞳、微笑んで。見つめあう視線に結ばれて、両掌で惹きよせられる。
ふれる吐息うれしくて、近寄せた瞳に映るのは自分だけ、それも幸せで。
幸せが温かい、そんな想いに周太の唇が微笑んだ。

「愛してる、英二、…好きなだけ、抱いて、想いの全てと、約束を刻んで、」

ひきよせた唇に、そっと周太は唇を重ねた。
深く甘やかな熱が、穏やかに静かに充ちて、ただ幸せに心も体も浚われていく。

“And the groove tonight Is something more than you've ever seen
 The stars and planets taking shape A stolen kiss has come too late
 In the moonlight Carry on, keep romancing, 

“そして今宵の狭間 今まで見つめたよりもっと、君はなにか大きな存在となる
 星や惑星が姿現して盗まれたキスは、盗まれ止められても手遅れ、それほどに想いが深い
 月光の中で、止めないでいて、愛をささやき続けること 

一昨夜、1つめの夜。
英二がくれた曲を訳してみた。その詞が歌う激しい想いに、驚かされて恥ずかしくなった。
けれどあの歌は、今夜3つめの夜を迎えて、気づかされる自分の本音。
初雪、ふる初雪に、あらためて見つめた、想いと願い。
もう離れることは手遅れ。自分の想いの深さ、そして寄せてくれる英二の想い。
もう願わずにはいられない。ずっと隣で寄り添って、ふたり見つめあい生きる道。

初雪、雪が山にふりつもる。
凍らす風、沈ます雪、滑らす氷。生命の自由を奪う、冷厳の雪山の掟。
この愛する隣。その雪山に笑って立って、生命の救いに全力を懸けていく。
その危険を想うと心が凍る。どうか行かないでと、縋って止めてしまいたい。

けれど、その場所に立ちたいと、願って望んで道に立ったこと、自分が一番知っている。
そして自分は解っている。その危険な冷厳に立つことで、愛する隣は更に育まれ、真直ぐに輝くこと。

きれいな笑顔、ずっと隣で見つめていたい。その為に、止めない。

だから自分は、信じて見つめて、微笑んで待つ。そう、決めた。
だからお願い、信じて待つための、絶対の約束を刻んで、結んでほしい。
どうかお願い、絶対の約束で、自分を繋いでおいて。愛するあなたの隣から、離されてしまわないように。

「…周太、きれいだね、」

白いシャツを透して、見つめられる肌。
白いシャツに大きな掌がかかる、心ごと、シャツが絡めとられていく。
そして曝される、想いの熱が顕れた、あわく赤い、この想い自分の肌。
想いうかぶ肌へ、きれいな長い指がふれる。

「きれいだ、」

きれいな唇、想いの肌にふれる。唇の想いが、想いの肌へと刻まれていく。
あかい痕、花のように肌に浮かびあがる。
愛するひとの想い、自分の想い。想いの深い分だけ、あかく熱く花うかぶ。

「…英二、」

名前を呼んで、腕を伸ばして、愛する頬を掌でくるんで。
言葉なくても、眼差しだけで、想いを告げて惹きよせる

“Move. Closer. Passion. Stronger 来て、もっと近くに。激しい情熱に。激しく強い想いに”

近寄せられる唇、愛しくて。
すこしだけ、くちもと仰むけて、愛しい唇に唇そっと重ねる。
どうかこの想い、刻み込まれて。そんな想いに静かに、深く重ねてしまう。
深い想い、深く刻む熱、熱くて甘くて。こんな想いは、初めてのこと。

「周太、…愛してる、ずっとだ」

重ねられる肌。温もりは穏やかで、愛しい。
刻みこまれる想い。熱くて、切なさが痛くて、そして甘やかで、愛しい。
愛しくて、うれしくて、想いが心を充たして、あふれだす。

今までずっと、出来なかったこと。
そう、自分から。自分から想いを示すこと。
唇から想いを告げて、腕伸ばして抱きしめて、そうしてキスをして…もうきっと、今夜は出来るはず。

だって今しかない、約束を結ぶ時。
もう今しかない、想いを示すこと。
だって今日、初雪が降ってしまった、だから今夜この今しかない。

だってもう、次はいつ逢えるの?
約束を結ぶ時、どれくらいあるの?

だからもう、この今こそ勇気がほしい。
どうか今夜は今は、唇、腕、声、この身体、みんな自由にさせて?
どうか今夜をずっと、この隣に、自分の想いを伝えさせて?
そうしてどうか、約束を。必ず隣に帰ってくる、絶対の約束を結ばせて。

さあ勇気、心に充たされた想い、想いのままに、顕れて。

「…えい、じ、」

声、名前が呼べる、唇ふるえる。
瞳、きれいな切長い目と、見つめあって眼差し絡む。

腕、伸ばして、きれいな白皙の首筋を抱く。
体、ゆるやかにほどかれて、想いのままに添えばいい。

想い、心を温かに充ちて、そのまま言葉に咲いて、唇、告げて。

「…英二、愛している…だから、ずっと隣、帰ってきて」

告げられる。

告げて見つめる瞳、きれいに笑って、見つめ返してくれる。
告げられて微笑む唇、静かにそっと、名前を呼んでくれる。

「ん、…周太、」

きれいな笑顔が、頬寄せられる。
穏やかな温もり、頬からふれて、こぼれた涙も温もりにとける。

「周太、必ず…ね、俺は、隣に帰ってくる。だって…周太の隣は、俺だけのもの、」
「ん、そう…英二だけ、俺の隣は、英二だけのもの…だから、帰ってきて」

頬ふれる頬を、そっと右掌で惹きよせる。
静かに周太から、唇に唇を重ねて、ゆっくり深く重ねていく。

「…っん…、…」

こぼれる吐息、熱くて、愛しい。
甘やかに想いが心に充ちる、そうしてまた、ひとつ勇気がうまれていく。
うまれた勇気、言葉を告げて、想いを伝えて。

「…かえって、きて、必ず」
「ああ、必ずね、帰る…だって周太の隣だけ…俺の、帰る場所」

抱きしめてくれる腕、力強い。
いつだってそう、掴んで離してくれない強い腕。
この腕に掴まれて、こうして自分は幸せの温もりを知った。
お願いもう、この腕から自分を離さないで。ずっと、約束を守って。

「ん、…約束を、守って?」

いつもなら言えない、甘えと約束。
けれど今は言える、だってもう今しか時がない。
そうして愛する瞳は微笑んで、きれいに笑って受けとめてくれる。

「ああ、守るよ。約束も、周太のことも、…全部ね、必ず俺が守るから」
「…うれしい、…俺も、そう…必ず、守る、から」

そう、自分だって、守る。
この隣を守りたい。そのためになら、何だって出来る。あなたの為に。

「周太が、俺を、守ってくれる…うれしいよ。俺だけをね、守ってよ?」
「ん、英二だけ、…守らせて、俺に…だから、帰ってきて」

だからお願い、止めないでいて。
ずっと、必ず、あなたを守る。だからお願い、止めないで。

“Carry on, keep romancing,
 Carry on, carry on dancing…Moving on…Moving all night
“止めないでいて、愛をささやき続けること 
 止めないでいて、抱きあげ揺らめき続けること…超えてしまおう…涙あふれる想いの今宵すべて

切長い目の眼差し、熱い。
肌ふれる肌、熱い。
抱きよせる腕、やさしくて力強くて、熱い。
そっと告げられる、言葉にも、どこか熱がこめられ響く。

「周太は、きれいだ、」

抱き寄せる英二の肩が、周太の口許にふれる。
右掌は静かに、しなやかな肩を抱きくるんだ。
右掌にくるんだ肩の、白皙の肌に、穏やかに周太は唇でふれた。


暁時、ふっと周太の瞳が披いた。
気怠さにくるまれて、けれど瞳に隣が映りこむ。
抱きしめてくれたまま、まどろんでいる愛しい隣。
まどろみ燻らす端正な顔に、周太は微笑んだ。

「…愛している、」

とけるようにちいさな声でささやいて、静かにキスをした。
ゆっくり離して、瞳に白皙の左肩が映りこむ。
その左肩へ、かすかに開いたカーテンから、陽光が射しこんだ。

英二の白皙の肩に、赤い花の痕が刻まれていた。

そう、この赤い花は、自分が刻みつけた想い。
絶対の約束と、唯ひとりへの想い、見つめ愛し守り続けること。

静かに周太は微笑んで、まどろみに瞳を閉じた。





【歌詞引用:savage garden「carry on dancing」】


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萬紅、叔暁act.2―another,side story「陽はまた昇る」

2011-11-24 20:38:52 | 陽はまた昇るanother,side story
受け留めて、うけとめられて、




萬紅、叔暁act.2―another,side story「陽はまた昇る」

奥多摩交番に戻ったのは14時だった。
待っていた救助隊副隊長の後藤に、英二は登山道の報告をしていく。
その横顔を見遣りながら、周太は給湯室へと立った。
備えつけの茶を淹れて、後藤と畠中に出してから英二へと渡す。
ひとくち何気なく啜って、後藤が声を掛けてくれた。

「おい、ずいぶんと旨いぞ。違う茶を使ってくれたのかい?」
「いえ、こちらにあった茶ですが」

旨いと言われるのは嬉しい。素直に微笑んで、周太は自分の分を啜った。
一緒の机に座る畠中も、湯呑を覗いて言ってくれる。

「うん、ほんとうに旨いな。なにか茶道の稽古でもしているのか?」
「いいえ、普通に淹れているだけ、なのですけど」
「ふうん、すごいな。ウチの奥さんにも教えてほしいよ」

そんな会話をしているうちに、後藤と英二が登山地図や資料を片付け始めた。
もう終わったのかな。思って眺めた周太を、後藤が楽しげに休憩室へと誘ってくれた。

「おい、呑むぞ。君は酒は強いのかい?」
「呑む機会は少なかった方だと思います」
「へえ、最近は警察学校では、飲みの練習しないのか?」

話しながら休憩室へ上がると、後藤が嬉しげにウィスキーボトルを出した。
ミズナラの樽で醸造された、山梨県白州の水の酒だと教えてくれる。

「俺も今日は、ちょうど上がりだから」

そう言いながら、周太には水割りで渡してくれた。
車座に座って、乾杯と後藤が笑ってくれる。

「日原集落の水場のな、湧水で割ってある。飲んでごらんよ」
「はい、頂きます」

促され、ひとくち啜ってみると口当たりが優しい。
昨日飲んだ水も、やわらかくて旨かった。
あのブナが抱いた水なのかな、思いながら周太は微笑んだ。

「おいしいです、」
「そうだろう?」

嬉しそうに後藤は笑いかけてくれた。
後藤と英二はロックで啜っている、英二はウィスキーには慣れていた。

「宮田にはこれで、何度目かな」
「雲取山の訓練後が最初でした、そのあと国村と2度ほど頂戴したので、これは4度目です」
「おい、まだそんなもんか。もっと呑んでいると思ったよ」

国村と英二が相手なら、後藤も結構呑む方なのだろうな。
そう眺めていると、後藤が周太に訊いてくれた。

「日原の秋は、どうだったかい?」
「はい、目の底が染まりそうでした」
「そうか、そんなにか。日原は良いだろう?」

そんなふうに話していると、後藤の携帯が鳴った。ちょっとごめんよと出て、少し話すとすぐに切る。
そのまま後藤はもう、ミズナラの酒のロックを作り始めた。

「今すぐな、俺の酒仲間が来るよ」

5分ほどして現われたのは、吉村医師だった。
ミズナラの酒を受取りながら、吉村は微笑んだ。

「往診の帰りに寄れと、きのう連絡をくれたんですよ」
「うれしいです、俺もね、先生と飲みたかったから」

楽しそうに英二が笑う。
そうだろうと頷いて、後藤は吉村に笑いかけた。

「だってなあ、吉村も一緒に飲みたかっただろう?」
「はい、そうですね。ご一緒出来て嬉しいです」

仲良い雰囲気がいいな。
思いながら周太がコップを啜っていると、英二が口をひらいた。

「副隊長と先生は、いつから飲み仲間ですか?」

そうだなと、後藤と吉村が顔を合わせ、笑いあった。

「吉村とは、俺が最初にここへと、赴任した時からだな」
「そうですね、私の実家が、こちらですから」

笑って答えた吉村は、ひとくちグラスを傾けた。
そして微笑んで、英二と周太に教えてくれる。

「いつも実家に戻るとね、奥多摩を登っていました。その登山計画を提出したのが、きっかけです」
「俺がな、吉村に質問したんだよな。初対面から毎度だったな?」

懐かしそうに目を細めて、後藤が教えてくれる。
そうでしたと吉村も懐かしげに笑った。

「はい、提出する度に訊かれました『この山の特徴は何だ』そんなふうにね、」
「そう。蔵王と奥多摩では随分と山が違うだろう?興味があってなあ」

後藤は山形蔵王の出身だと、周太も英二から聞いていた。
高校時代から山ヤだった後藤は、高卒で警視庁警察学校に進んでいる。

「吉村は医科大付属病院で助教授、今は准教授か?に昇進した忙しいころだったな」
「はい、精神的に一番疲れた頃ですね。それで山へとよく登ったものです」

吉村が助教授に昇進したのは、30歳頃だと周太は聴いている。
それは異例の昇進だったろう。その異例にふさわしい優秀さと実績を、吉村は持っている。
けれど、そうした異例は精神的に疲れる。射撃特練として異例の扱いを受ける周太には、それが解る。
医学の世界は厳しい、今は穏やかに微笑む吉村も、当時は辛かっただろう。
世界は違うけれど、自分も警察官の世界で、辛い時がある。
すこし吉村と自分は似ているかな、思いながら周太はコップを啜った。

「では30年来の飲み仲間ですか?」

訊いた英二のグラスに、後藤は勝手に酒を注ぎ足している。
ウィスキーの瓶を置いて、そうだなと後藤が笑った。

「もうそんなになるか。昔はここでな、下山して立ち寄った吉村と飲んでいたよ」
「まだ私もね、警察医ではなかったんですよ、当時は。そのくせ、ここで大きな顔して飲んでいました」
「そうそう、アウトローな医者だったな、吉村は」

長年の友人で飲み友達、そういうのは楽しそうだった。
国村と英二は、そういう友人になっていくのだろう。
そんなふたりを見ていくのは、きっと楽しい事だろうな。
そんなことを考えていると、吉村が笑いかけてくれた。

「湯原くんは、酒は好きですか?」
「あ、嫌いではないです。でもすぐに赤くなります」

そう答える端からもう、たぶん赤いだろう。子供っぽくて少し困るなと思う。
ただでさえ元来が童顔で、それも警察官としては不似合いだと思っている。
それを警察学校入校前、英二に「かわいい」と指摘されて嫌だった。

それであの後すぐに、周太は床屋に行った。
入校までには短髪にする規則だった。けれどそれ以上に、舐められたことが悔しかった。
大人らしく見えるよう、男らしくみえるよう、とにかく切ってくれと注文した。
床屋の主は困りながら、前髪かなと言ってバッサリと、思いきり切ってくれた。
すこし苛々を治めて帰宅すると、母に可笑しそうに笑われた。

「ほんと似合わないわね。なによりね、肩肘の無理って逆に子供っぽいわ」

似合わないなら逆に結構、そう思っていた。けれど今はもう、母の言葉の意味が解る。
周太と間逆のやり方で肩肘張っていた、英二の姿を周太は見つめたから。

警察学校での日々、周太の隣にはいつも気がつくと、英二が佇んで笑っていた。
周太の隣で英二は生来の率直さを認めた。そして息をするごと素直になって、大人びて警察官へと成長していった。
そして周太も気付かされた。等身大の自分を認める方が、本当の意味で大人だということ。

そう気付かされたころ、きれいな笑顔で英二に言われた「前髪ある方がさ、似合うよな」
そうして前髪を長く戻した。その前髪を上げると、思ったより貫禄が出て大人らしく見えた。
それに生真面目さと能力への自信が補って、警察官の体裁がとれている。

でもプライベートでは、前髪はおろしたままにする。
自分に似合う姿で、無理なく過ごすことが良いなと、素直に今は認められる。
ただよく学生だと間違われるけれど。それはそれでいいか、そんなふうに思っている。
でも酒でも照れる時でも、赤くなりやすいのは困る。思って周太は訊いてみた。

「先生、俺、酒以外でも赤くなりやすくて、困るんです」
「青ざめるより赤くなる方がね、健康にはずっと良いんですよ。だから湯原くんは良いお酒ですね」

グラスを傾けながら、吉村医師が教えてくれた。
そうなのかと自分のコップを見ていると、そっと吉村が微笑んだ。

「雅樹もね、赤くなりやすい男でした」

「雅樹」は吉村の次男の名前だった。彼は医学部5回生の時に、山での不運な遭難事故に亡くなっている。
山で死んだ息子が、生きるべきだった人生を見つめたい。
その想いに吉村医師は故郷奥多摩で、山の警察医になった。
自分と同じように、山ヤで医学を志した息子。吉村医師の愛惜が深いことは当然だった。

そして雅樹と英二は似ている。そのことを周太も、吉村と同じように感じる。
周太は吉村医師を見上げて、微笑んだ。

「雅樹さん、そこは俺と似ているんですね」
「そうですね、雅樹も君と同じように、純情な男でした」

そんなふうに笑いながら、吉村医師は周太を見てくれた。
うれしいなと思いながら、でもと周太は口をひらいた。

「でも先生、英二も純情ですよ?酒も強いし赤くならないけれど」
「そうだね、彼はどんな時も、赤くならない。いつも堂々と笑っていますね」

そう答えてから、ふと吉村医師が首を傾げ微笑んだ。

「湯原くん、彼をね、名前で呼べるようになったのですね」

あっ、と周太は気がついた。
今までずっと「宮田」と呼んでいた。
ようやく名前で呼べるようになったのは、つい昨日の昼前からだった。
それなのに今はもう、自然に自分は「英二」と呼んでいる。

気がつくと、やっぱり気恥ずかしい。
いま首筋が熱くなるのは、きっと酒の所為だけではないだろう。
気恥ずかしい、けれど、この医師には話せたらいいと周太は思った。

―世間や法が許した男女の仲であっても、その真実は醜いことは多くある
 それは警察医としての経験からも、学んだことです。想いあう心の美しさは、性別など問題ではない
 宮田くんと湯原くんが寄り添う姿は、とてもきれいでした
 だから私には解ります、君たちの心の繋がりは、とても美しいです

警察官で男同士。そんな自分達の関係は、世間から見たら受容れ難くて当然だと解っている。
それでも吉村医師は真直ぐに、自分たちを見つめて頷いてくれる。
自分はこの人が好きだ、周太は微笑んだ。

「先生、俺、ずっと本当は、呼びたかったんです」
「…うん、そうだな、」

微笑んで吉村医師は頷く。その目は温かくて穏やかに広い。
ああ、やっぱり解ってくれる。
解ってもらえる喜びが、うれしくて。うれしさを想いながら、周太は言葉を続けた。

「ずっと大切で、それを伝えたくて。けれど俺は、名前で呼ぶことも出来なかった。
 13年間ずっと、人と関わることを避けてきました。だから、どうやって想いを伝えていいのかすら、解らなかったんです」

「うん、そうだな…辛かったな」

静かな目が温かい。
その温かさに押されるように、周太は微笑んだ。

「でも昨日、やっと呼べました。それからずっと俺、幸せです」
「うん、良かった」

うれしそうに吉村医師が笑う。
そうして長い指に持ったグラスを、周太のコップに軽く当ててくれた。

「君はとても勇気を出して、名前を呼べました。そのことが私には解ります。
 そして、そんな君は、本当にすばらしい。
 相手を大切に想う、そんな気持ちから生まれる勇気は、とても美しいと私は思います」

楽しそうに笑って、吉村の目が微笑んだ。

「君の想いはね、きっと宮田くんには伝わっています。だってほら、」

そっと吉村は英二を見、周太に微笑みかけてくれた。
振返って見た英二の横顔は、明るい楽しさが眩しく見える。
きれいだなと見惚れた周太に、吉村医師が笑いかけてくれた。

「こんなふうにね、彼を笑わせ輝かせているのは、きっと君の勇気です。
 だからどうか、自信を持って寄り添って下さい。君達の繋がりは、本当に素晴らしいのだから」

胸を張っていいんだ。
そう言ってくれている。そのことが本当に、うれしい。
きれいに笑って、周太は頷いた。

「はい、ありがとうございます」

頷く周太を見て、吉村医師は微笑んだ。
そしてグラスに口をつけ、懐かしそうに目を細めた。

「そんなふうに素直にね、雅樹も頷いてくれる子でした」

周太は吉村医師を見あげた。その目は穏やかで、懐旧の切なさを含んでいる。
きっと吉村にとって、雅樹は本当にかけがえのない存在だった。
それが周太には解る。自分も同じように、父の姿をどこかに追い求めたくなるから。

さっき聴いたばかりの、医科大付属病院で当時の助教授に就任した辛い日々。
きっとその頃はもう、幼い雅樹を連れて山で過ごしたのだろう。そんな時間は吉村にとって、安らぎだったに違いない。
警察官だった父も、幼い自分を連れて山で過ごしていた。
父と吉村は同じ想いで、息子を連れて山を歩いたのかもしれない。

自分なら、どんなふうに父に、答えたいだろう?
すこし考えてから微笑んで、周太は吉村に言った。

「先生、大好きな尊敬する人にはね、素直に頷きたくなるんです」

吉村医師の目が大きく、そして和やかに笑った。
懐かしさの気配を残しながらも、温かな眼差しで吉村は微笑んだ。

「ありがとう、湯原くん。
 雅樹と過ごした時間は、私の安らぎでした。そんな彼に、そう想われたなら嬉しい。
 だからきっとね、君のお父様も嬉しくて、いつも安らいでいた。そう私は思います」

本当はずっと罪悪感を抱いている。
父は唯一人だけで、哀しい殉職に斃され死んだ。警察官の任務に負わされた全てを、決して家族に負わせることも無く。
そんな父の哀しみも知らず、大切な父を黙って死へと追いやってしまった。そんな罪悪感が痛かった。
それでも自分だって、父を少しでも喜ばせ安らがせていた。本当にそうであったなら、どんなに嬉しいだろう。

吉村が、ふっと微笑んで言ってくれた。

「私は息子を亡くし、失われた息子の時を追い掛けて生きてきました。
 そして君は、亡くされたお父様の時を辿って生きている。
 そんなふうに私と君は、逆の立場から、同じ目的を持って生きてきました。
 だから湯原くん、私達はお互いに、お互いの大切な人の想いを伝えあうことも、きっと出来ます」

それは周太も思っていたことだった。そう同じように吉村も想ってくれる、それが嬉しい。
吉村に会ったのは3度目になる。けれど吉村は、周太が父と向き合う手助けをしてくれている。
自分も吉村を、少しでも手助け出来るのだろうか。そうなると良い。
思い微笑んで、周太は答えた。

「はい。…先生、きっとね、先生の様なお父さんは素晴らしいです。俺は息子の立場だから、そう解ります」

幸せな微笑みが、吉村医師の顔に咲いた。

「はい、…うれしいですね。ありがとう、湯原くん。私も父だから解ります、君のような息子は本当に素晴らしいです」
「ありがとうございます、」

そう笑いあい向き合って、ゆっくりとミズナラの香の酒を楽しんだ。

奥多摩交番から河辺までは、代行運転される吉村医師の車に送ってもらえた。
飲む約束だったから、予め吉村は代行手配をしていたらしい。河辺までの20分程を、3人のんびりと会話して過ごせた。
改めて2人の顔を見て、吉村が微笑んだ。

「お帰りなさい。二人の楽しそうな顔が見られて、良かったです」
「はい、おかげさまで天気も恵まれました」

笑って英二が答えると、吉村がすこしだけ心配そうな顔をした。

「でも、初雪が雲取山では降ったでしょう?」
「大丈夫です、ちょうど座って休憩していました」

明るく笑う英二に、ほっとしたように吉村が言った。

「そう、なら良かった」

心配してくれている、それを英二も周太も知っている。
山で亡くした息子を英二に重ねる、そんな吉村は不安なのだろう。
自分と吉村は、それも同じなのだと周太は思った。

―まだ警察医ではなかったんですよ、当時は。そのくせ、ここで大きな顔して飲んでいました

さっき吉村はそう言っていた。
吉村は警察医になってから、奥多摩の山に登っていない。そういう事ではないだろうか。
それどころか吉村は、登山自体をずっとしていない。おそらく、息子の雅樹を失った15年前からずっと。

その気持ちは周太には解る。自分も父を失って以来、山に登っていなかった。
けれど英二と13年ぶりに山へ登った。そこで向きあえた父の記憶は、温かくて幸せだった。
痛みの苦しみから無理に閉じ込めた記憶、けれど真直ぐ見つめた時、すこしずつ自分の時が動いている。
吉村医師もきっと、息子の死と共に時が止まっている。
自分が時を動かし始めたように、吉村医師も時が動いたら、また少し痛みは楽になれるのだろう。

自分がこんなことをするのは、おこがましいかもしれない。
けれど山への想いだけでも、すこしだけ吉村に訊いてみたい。
周太は吉村医師へと微笑んだ。

「先生、俺、山でね、たくさんの木に会って来ました」
「それは良かった、湯原くんは樹木が好きなんですね。どの木が特に惹かれましたか?」

具体的な返事が吉村から返される。
ああ、この人もきっと山が好きなんだな。そう思いながら周太は答えた。

「ブナの木がきれいでした。それからナナカマドは実家の庭を思い出せて、懐かしくて」
「奥多摩のブナもなかなかでしょう?東京の水を抱いてくれている。ナナカマドも赤色が良いでしょうね」

吉村は奥多摩の植物に詳しいのだろう。そして語る吉村は楽しそうだった。
この人は本当は、山に登りたい。そんなふうに感じながら周太は話していった。

「落葉松の黄色が、陽に透けると黄金みたいでした」
「そうか、うん。あれは本当にきれいだな。山の空も良いだろう?」
「山の夜明けを見ました、豊かな紅色の雲が、きれいでした」
「きれいだったでしょう?雲取山荘の夜明けは、いいものです」

吉村は楽しそうに山の話をしてくれる。
ほんとうは山に登りたい。そんなふうに周太には感じられた。

それでもきっと、山で息子を死なせた罪悪感が、吉村医師を山へ向かわせないでいる。
自分が山ヤだったから、息子を山ヤに育ててしまったから。だから息子は山で死んだ。
そんな悲しい「…だったから」に縛られて、吉村医師は自身の、山への想いを止めている。
そうして、大切なひとを失った人間は、その瞬間から時間が止まる。

そういう人間は、大切なひとの記憶と向き合わなくては、新しい時間へは動けない。
その死へ抱いてしまう罪悪感をすら、肯定して飲みこめないと心は進めない。
そんなふうに、新しい時間へと動きだせないことは、苦しい。

吉村は英二に息子を見つめ、息子へ注ぎたい真心を英二に向けてくれる。
そうして英二が大切にする周太の、父親の殉職に苦しむ想いまでも、穏やかに受け留めてくれた。
それくらい吉村医師は、息子と英二に懸ける想いが深い。
だから、英二になら、吉村を息子の記憶へ向き合わせることが出来るかもしれない。

英二なら、山で死んだ雅樹の代りに吉村をまた山へ登らせて、山の安らぎの時を与えられるかもしれない。
そうして新しい時を動かして、吉村の痛み哀しみを少しでも楽に出来ないだろうか。
英二と共に山へ登った周太が、父の記憶と一緒に歩くことで時を動かし始めたように。
そう周太が思っていると、隣から英二が吉村医師へと笑いかけた。

「吉村先生、俺と約束をしませんか?」
「宮田くんと約束ですか、楽しそうですね」

英二の「約束」という言葉。
周太は気がついた、英二は自分と同じ考えを持っている。
今まさに、英二は吉村を山へ連れて行こうとしている。その想いで見上げた隣は、微笑んで言った。

「俺と一緒に、山に登りにいく。その約束をして下さい」

やっぱりそうだ。
この隣も自分と同じように、吉村医師の心に気付いていた。
吉村の、自分が山ヤだったから息子を死なせたという罪悪感。そして山への想いと、山へ向かうことへの罪悪感。
その想いは周太には解る。

けれど先生、信じてあげてほしい。
雅樹さんはきっと、先生が山ヤだったことを誇りに思っている。
昨日今日、山で寄り添った父の記憶。そして自分が想ったことは「父の息子で良かった」という誇りだった。
だから解ってあげてほしい、先生が山で安らぐことを、きっと雅樹さんは心から望んでいることを。
警察官の任務に尽くし、山を愛し安らいでいた、そんな父をこそ自分が、こうして誇りに想うように。

そんな想いに見つめる周太の隣で、英二は穏やかに吉村へ笑いかけた。

「この奥多摩には、俺がまだ登っていない山がたくさんあります。けれど救助隊員として一度は登りたいと思っています」
「…はい、」

相槌を打つ吉村の目はどこか切なげに見えた。その切なさごと英二なら、きっと受けとめてしまうだろう。
そう信じて見つめる隣で、きれいに笑って英二が言った。

「でも俺はまだ経験が浅い、初めての山への単独登山は難しいです。
ですから、奥多摩をよくご存知の先生と、一緒に登って勉強させて頂けたら嬉しいです」

「奥多摩の山を、ですか?」

ゆっくりと聴き返す吉村の気持ちが、周太にも解る。
奥多摩の山は、吉村が雅樹を連れて登った山ばかりだった。
奥多摩の山を吉村が登ることは、雅樹を山ヤに育てた記憶と、正面から向きあうこと。
それは辛いかもしれない。
けれどきっと、英二を山ヤとして育てることは、吉村の救いになる。
正しい山での知識を伝えることは、山岳救助隊員である英二を、山の危険から救う事になるから。
山で雅樹は死んだ、けれど山で英二を生かすことで吉村の心は救われる。そうして新しい時間は動き出すだろう

きっと周太と同じ想いでいる隣は、微笑んで吉村医師に言った。

「先生、俺は一人前の山岳救助隊員になりたいです、だから奥多摩の山を知る必要があります。
奥多摩を俺に教えて下さいませんか?俺が山ヤとして生きるための、手助けを先生にお願いしたいんです」

「私が、君が生きるための、手助けを?」
「はい、山ヤの警察官として山で生きていく、その為の手助けです」

微笑んで吉村は、英二の目を真直ぐに見つめた。

「とても温かい約束ですね。はい、約束をさせてください」

見つめる吉村の目が明るく、そして底の方に涙の気配があった。
きっと吉村は今夜、涙を流すことが出来る。それがどれだけ嬉しいか、周太には解る。
良かったと微笑んだ周太の隣で、きれいに英二は笑った。

「また診療室で、登山計画のご相談させて下さい」

河辺駅で吉村と別れて、ビジネスホテルに戻った。
またいつもの調子で、周太は先に浴室へと入れられてしまう。
本当にいつも、英二は優しい。申し訳なくて、けれど嬉しくて。いつも幸せが温かい。

ふりそそぐ湯と湯気のあわいに、肌の色が浮かびあがる。
昨日の朝この浴室で見たとき、全身に赤い痕が残されていた。それらは一昼夜で消えている。
けれど左肩を見ると、淡く赤い痣が残されている。
そうして右腕には、深い紅色の痣が刻みこまれていた。

そっと周太は右腕の痣にふれた。
ここにいつも、唇が寄せられて想いを刻まれている。
きっとこの痣はもう、消えない。そんな想いはすこし切なくて、甘やかに温かい。
このさきずっと、ここに刻み続けてほしい。もうそう想ってしまっている。

髪を拭いて着替えると、さっぱりした気持が心地いい。
浴室の扉を開けると、ふっとコーヒーの香が頬を撫でる。
すっきりとした長身の背中に、周太は声を掛けた。

「お先にごめん、英二」

静かに振向いた顔が、うれしそうに笑ってくれる。
大きな掌は、持っていたマグカップを、サイドテーブルに置いた。

「周太、これ飲んでいて?」
「淹れてくれたの英二?」

この1ヶ月半で英二は、すっかり山に慣れていた。けれど英二こそ本当は、疲れていても不思議ではない。
久しぶりの登山をする自分を連れて、巡視任務を務めながらの登山。きっと気遣いも多かっただろう。
それなのに、自分の為にコーヒーを淹れてくれた。
うれしくて周太は、英二に笑いかけた。

「ありがとう、」

ありがとうの言葉に、英二は微笑んでくれた。

「風呂、行ってくるから。のんびりしていて、周太」

浴室へと向かう背中は、無駄がなく引き締まって、広やかに頼もしい。
この隣は、1ヶ月半で本当に大人になってしまった。

山ヤの警察官として、向き合う自然と人の生死の現実。
そしてなによりも、周太の背負う運命を、望んで背負う強い意思。
そうした厳しさの中から、頼もしい温もりと静けさが、英二に備わった。

周太はカウンターへ立った。
そうしてドリップ式のインスタントコーヒーをセットする。
ゆっくりと、湯を注いで淹れる湯気は、いつもより香り高かった。
注ぐ湯を見つめながら、周太の唇がほころんだ。

「ほんとうにね…きっと、想ってくれるよりも、愛している…」

ひとりごとを呟いて、そっと周太は赤くなった。
一昨日の国村が言った「その宮田の一杯はさ、特に旨いんじゃない?想いをこめてあってさ」
これはその通りのことだ、そう気がついて気恥ずかしい。

けれど、そうなら尚更、飲んでもらえたらいいな。
そうマグカップを見つめて、サイドテーブルに周太は置いた。
英二が淹れてくれたコーヒーのマグカップを抱えて、周太はソファに座りこんだ。
すこしずつ啜ると、温かさがうれしい。

マグカップの縁越しに、自分が淹れたコーヒーが見える。
それが気恥ずかしくて、けれどなんだか幸せだった。

それにしても国村は、いつも周太の盲点を突いてくる。
いつも気恥ずかしい想いをさせられて、けれどそれが本当だなと頷かされる。
なんだか不思議なひとだな、そんな想いにまた父の言葉が寄り添った。

「周、自然にはね。不思議なことが沢山あるよ。それはきっとね、人間も同じ」

国村は山ヤで人間で、そして自然のルールに生きている。
そういう国村には、不思議が沢山あっても当然なのかもしれない。
このあと夜には、一緒に国村と呑むことになっている。
きっとまた、そんな国村の不思議を見るのだろう。
ちょっと楽しみだな。そう想いながらコーヒーを啜っていると、浴室の扉が開いた。

振向くと、髪を拭きながら英二が佇んでいた。
白皙の頬があわく紅潮して、なんだか艶っぽい。
きれいだなと思った途端に周太は、気恥ずかしくなってしまった。
そんな周太に、どうしたのと目で訊きながら、きれいに英二は笑った。

「周太のコーヒー、うれしいな。ありがとう」

言われて、サイドテーブルのマグカップを周太は見た。
国村に指摘された通りに、淹れてしまったコーヒー。なんだかもう、いろいろ気恥ずかしい。
それでも周太は、なんとか頷いた。

「…ん、」

頷いた隣に、英二が座ってくれる。
きれいな隣は長い腕を伸ばして、持ったマグカップに口をつけた。
ひとくち啜って、やさしく微笑んでくれた。

「旨いよ、ありがとう」

ほっと香に寛いで、長身の背をソファと壁に凭れさせた。
いつものように、穏やかで静かな空気が隣に生まれる。
この空気が好きだ、そっと周太は息吐いて微笑んだ。

気持ちが寛いだところで、周太は英二に言いたい事を想いだした。
けれど自分が、言っていいのだろうか?
そう考えていると、どうしたと英二が目で優しく訊いてくれた。
優しい目が嬉しくて、言っていいのかなと思いながら、周太は唇を開いた。

「さっき、吉村先生、約束うれしそうだった」
「山に行くこと?」

やっぱりすぐに解ってくれる。
うれしいなと思いながら頷いて、周太は微笑んだ。

「英二の笑顔は人を笑顔にできる、すごいな」

きれいに英二は笑って、周太に言ってくれた。

「周太もだよ、」
「俺も?」

俺が、なんだろう?
解らなくて首かしげていると、軽く頷いてくれながら、英二が言った。

「周太が笑うとさ、俺は一番うれしいから。」
「…いちばん?」

うれしいの「一番」
そういうのは、言われたら、本当にうれしいとだろうと思う。
思いながら見上げる先で、英二はきれいに笑ってくれた。

「周太の笑顔は、俺を幸せにしてくれているよ。いつもそうだ」

自分の笑顔が、この隣を幸せに。
そう出来たら良いな、ずっといつも思っていた。
それをこんなふうに告げてくれて、受け留めてもらえているのなら。
確かめたくて、周太はそっと訊いてみた。

「俺が、英二を…幸せにできているのか」
「そうだよ、周太が一番、俺を幸せにしてくれてるよ。だから、周太が笑ってくれた時、俺は一番いい笑顔になってる」

自分が、いちばん英二を幸せにしている。
ほんとうに、ほんとうに、ずっとそうしたいと願っていた。

出会って、隣にきてくれてから、ずっと。自分ばかりが、幸せを与えられている。
そんな想いが本当は、後ろめたくて申し訳なくて。
けれど与えられる幸せは、あんまり温かくて、うれしくて離れられなかった。

だから、自分だって英二を幸せにしたい。
それが出来たなら、本当にずっと隣に居ることが許される。そんなふうに想っている。

周太の瞳から、涙ひとしずく零れおちる。
涙のままで周太は英二を見つめて、きれいに笑った。

「ありがとう、英二。…でも、俺の方こそ、英二が笑ってくれると、本当に幸せなんだ」

見つめる想いの真中で、きれいに英二が笑ってくれた。
英二の端正な唇が、うれしそうに静かに、名前を呼んでくれる。

「周太、」

静かに抱き寄せられて、唇に唇でふれられる。
かすかなコーヒーの香と、ふれてこぼれる吐息が穏やかだった。
そっと離れて、英二は周太の瞳を覗きこんでくれる。

「ずっと一緒に笑って、一緒に生きよう?そうしたらきっと、俺たちは幸せになれるから」

ずっと、一緒に笑って、一緒に生きて。
ほんとうに、そうしていたい。だってもう自分は決めているから。
唯ひとり、唯ひとつの想い。愛している、この隣。
この想い、この想う人、その笑顔。それを守るためになら、自分は何でも出来る。
それをこんなふうに、想う人から告げられて。幸せな想いが温かい。

ずっと孤独に生きるのだと、殉職した父の軌跡だけに13年を見つめていた。
けれどこうして、温かな隣が想いをくれた。全てを掛けても隣にいると、静かに強い約束をくれた。
そしてここへ連れて来て、13年の冷たい孤独と記憶まで、温かな想いに還元してみせた。

きっとずっと一緒に、幸せになれる。だって愛するこの隣は、約束は全力で守ってくれるから。
温かい涙が頬をこぼれる、幸せに周太は微笑だ。

「ん。英二と一緒に、幸せになる」
「そうだよ周太、ずっとね、一緒だから」

微笑んで告げてくれる、やさしい唇がうれしい。
その唇がそっと、額へ頬へと口づけをくれた。
気恥ずかしさに、なんだか微笑んでしまう。うれしくて周太は、そっと隣を見あげた。
見上げた顔は、端正だけれど温かい。きれいな切長い目は、やさしく笑っていた。

自分も、ふれてもいいの?
ふれていいのなら、想いを自分も返したい。

静かに周太は身を起こすと、隣の両肩へと自分の両掌を置いた。
今は体がきちんと、想いの通りに動いてくれる。
それも嬉しくて周太は微笑んで、端正な顔を正面から見つめた。

「周太、」

きれいな低い声が、名前を呼んでくれる。
その声が、トーンが、表情がうれしくて、幸せで。幸せに微笑んで、周太は英二の額にそっとキスをした。

笑って一緒に生きて幸せになる。
この約束は自分達には、きっと容易いことではない。

父の軌跡を追う、その歯車はもう回りだしている。辿りつく所までは、歩き続けて見つめていく。
そのときも自分は、英二とは離れない。この隣は、自分と一緒に見つめたいと願ってくれる。そう、もう、知っているから。
それにもう自分は信じている。きっと父は、冷たい真実の底にさえ、温かな想いを遺している

そうして父の真実と想いの、全てに向き合うことが終わる、その暁がくるだろう。
その暁にこそ、父の殉職の瞬間から止まっている、自分の時が廻りだす。
その暁の瞬間から、本当の自分の人生を、自分は生き始めることが出来る。

本当の自分の人生。そこに立った瞬間に、必ず自分は全てを選ぶ。
唯ひとつの想い、唯ひとりだけ愛する、この隣。
その唯ひとりへの想いのためだけに、全てを選んで自分は生きていく。

凭れかける肩が、あたたかい。
頬にふれるカットソー。その布を透しても温もりと、頼もしさが伝えられる。
文庫本を持ったままの左掌。そこに重ねられる大きな左掌は、温かで頼もしくて安らいで。
この隣に贈られたニットの肩を、抱き抱えている腕。

「…ん、」

こぼれた吐息と一緒に、すこしだけ睫があがる。
睫のむこうには、端正な横顔が手元を見つめていた。
なんだろうなと緩やかに視線を動かすと、文庫本を開いている。
警察学校の寮で、こんなふうに本を読んでの眠りが、幾度かあった。
なんだか懐かしい。ふたりの記憶に安らいで、周太はまた転寝にまどろんだ。


雲取山頂ほどではないけれど、河辺駅の夜も寒かった。
ショートコートの襟元でマフラーを、そっと長い指が巻き直してくれる。
きれいな指がときおり、あごにふれる

「ほら周太、このほうが温かいだろ?」
「ん、巻き方で変わるものなんだな」
「だろ?」

かまってもらえるのは、うれしい。
そう自分が想うだなんて、とても不思議だと周太は思う。
ひとりで良いと決めていた頃は、構われることは苦痛だった。
けれど、この隣には、たくさん構ってほしいなと思ってしまう。
なんだか随分と自分は、わがままになった。そんな気がして、ちょっと申し訳ない気持ちにもなる。

「周太。ほら、おいで」
「え、」

ひきよせられて、背中から腕回されて包まれた。
髪にふれてくる頬を見あげると、きれいな切長い目が笑いかける。

「な、あったかいだろ?」
「…ん、あったかい、ね…」

長身の英二に包まると、小柄な自分は確かに温かい。
でもここは駅前で、しかもこれからあの、国村がくる。
こんなところを見たら、さぞいい玩具にされて、困らせられるだろう。
けれど温もりが幸せで。なんだか離れられない。
ちょっと困ったな。思いながら見上げると、やさしく英二が微笑んだ。

「周太、俺ね、今すげえ幸せだ」

やさしい、きれいな、幸せそうな笑顔。
こんな顔されたら、ちょっともう拒めない。想う人の笑顔には、やっぱりちょっと逆らえない。
見つめる端正な顔の頭上に、星の輝きがこぼれ始めている。
よく晴れた夜、紺青透明な空のしたで、白皙の頬がきれいだった。
このひとの為なら、気恥ずかしいのも平気。
って、思えるほど強くなれたらいいな。そう思いながら気恥ずかしく微笑んで、周太は英二を見あげた。

「星、きれいだね」
「ああ。よく晴れてるから、冷え込むかもしれないな」

そんなふうに話していると、ミニ四駆が目の前に止まった。

「よお、お待たせ」

窓を開けた運転席から、からっと国村が笑った。
国村の細い目が、おかしそうに周太の瞳に笑いかける。
なんだか「仲良さそうで良かったな、ねえ?」なんて声が聴こえそう。
そう思っている頭上から、英二は国村に笑いかけた。

「よお、」

笑って声かけて、すこし呆れたように英二は微笑んだ。

「呑みに行くのに車で、いいのかよ?」
「ああ、代行頼んであるからね、」

笑った国村の向こうから、きれいな瞳の笑顔が気恥ずかしげに覗いた。
きれいな瞳は明るくて、彼女には暗さがない。
国村の彼女なのかな。思いながら周太が見ていると、英二が笑いかけた。

「美代さん、ですね」
「はい、美代です。はじめまして、」

そんなふうに挨拶をしながら、四駆の後部座席に乗り込んだ。
運転席の背中越しに、いつもの口調で国村が声をかけてくる。

「ちょっとしたさ、ドライブの後に呑むからね」
「おう、任せるけど。どこまで連れて行ってくれるんだ?」
「俺んちのね、河原」

河原が「俺んちの」なんだ、ちょっと周太は驚いた。
河原まで所有地に持つことは珍しい、たぶん国村の家は相当に古い旧家だろう。
隣で英二は笑った。

「河原だったらさ、焚火できるからだろ?」
「そ。察しがいいね、宮田」

焚火、ずっとしていないな。
楽しそうだなと考えていると、目の前の助手席から、笑顔がのぞいた。
きれいな明るい瞳が微笑んで、周太に笑いかけてくれる。

「あのね、焚火でね、今日は料理するのよ。やったことある?」
「ん、小さい頃にね、すこしだけなら」

周太は初対面は苦手だった。
虚栄、無神経な好奇心、虚偽、自分良く見せたい心。
そうした暗さが、相手の目に見えてしまうと、途端に口が動かなくなる。
だから周太は、そういう暗さがない相手なら、初対面でもわりと話すことが出来る。
彼女の目は素直で明るくて、暗さが無い。話しやすそうで、そっと周太は安心した。

「そう、よかった、心強いな。味噌汁とかもね、考えていて」
「寒いし、いいな。焚火で作る時は、材料とか何が良いんだ?」
「材料はなんでも。でも、味噌はちょっと工夫するの」

味噌に工夫ってどうやるのだろう。
よく解らなくて、周太は訊いてみた。

「味噌に工夫、ってどうやるんだ?」
「あのね、味噌は自分で作るから、その時にちょっと考えるの」

味噌を自分で作る。その発想は周太には無かった。
同じ年だという彼女が、なんだか立派に思える。周太は素直に褒めた。

「すごいな、味噌作れるなんて」
「ううん、すごくないの。慣れればね、すごく簡単」

すこしだけ遠慮がちな、けれど明るい目線が話しやすい。
なんだか不思議な雰囲気のひとだ。思いながら話していると、酒屋へと四駆が停まった。
店には食料品も並んでいる。美代が周太に笑いかけてくれた。

「あのね、料理の材料を一緒に見てくれる?」
「ん、いいよ。俺、料理作るの好きなんだ」

何気なく返事して、おやっと周太は思った。
こういうふうに、同年代の女の子と話すことに肯ったのは、初めての事だった。

周太は、人と話すことは苦手だった。特に同年代の女の子は苦手で、ほとんど話していない。
話題なんて解らないし、話したいとも思わなかった。
穏やかに静かな口調の母を見慣れている為か、どこか騒々しくて馴染めない。
数少ないけれど、女の子と話す場に誘われる機会があっても、断ってばかりいた。

けれど美代とは、自然に話している。
そして今も、二人で材料を見ることを嫌だとは、周太は思わなかった。

「やっぱり。なんかね、そんな感じがしたの。得意料理とかある?」
「ん、…肉ジャガ、とかかな?」
「あ、焚火でもね、鉄鍋で作れるの。やってみる?」
「ん。やってみたいな。教えてくれる?」

美代の口調は穏やかで、素直な声は明るい。
どこか母と似ていて、けれどもっと馴染み深い雰囲気がある。
よく解らないけれど、話していて楽しい。

「あ、光ちゃんたら、」

美代の声に顔を上げると、国村と英二が楽しげに話している。
その国村の手には、一升瓶が握られていた。

「光ちゃんってね、お酒大好きなのよね」
「ああ、なんか強いらしいね?」

国村と英二は、捜索任務中にも酒を飲んだと聴いている。
そのことを美代は、知っているのだろうか。
美代にはどこか、生真面目な雰囲気がある。知ったら、困ってしまう気がする。
とりあえず周太は、黙秘しておくことに決めた。

国村の地所である河原は、静かな谷間にあった。
急峻な山林の麓、清冽な水が月明かりに砕けて光る。
河原の石をならして、国村と英二は器用に焚火をつくった。

「両親とさ、こんなふうに飯、作って食べたんだ」

そう笑いながら国村は、トラベルナイフで岩魚を捌いていく。
とても器用に、きれいに出来ている。こういう国村が先生なら、きっと英二も上達するだろう。

「光ちゃんはね、ああいうこと大好きなの」

そう周太に話しかけてくれる美代も、器用にトラベルナイフを使って材料を切っていく。
女の子でこんなふうに、ナイフが捌ける人は珍しいだろう。
隣で一緒に手を動かしながら、周太は訊いてみた。

「美代さんも、上手だな。こういうの好きなの?」
「うん、光ちゃんが教えてくれた…ううん、いつのまにか、光ちゃんを見ていて覚えた、かな?」

そういえば幼馴染だと言っていた。
そういうふうに一緒に、ずっと寄り添えることは、幸せなのだろう。
「光ちゃん」と美代が呼ぶとき、とても自然で素直な雰囲気が良い。
自分もそんなふうに、呼べるようになったらいい。

調理器具へと具材を全部セットして、焚火にかける。
あとは見ているだけよと美代に言われて、ならんで流木に腰掛けた。

「いい匂いの味噌汁だな、」
「でしょ?豆と麦のね、配合率に工夫があるの」
「自分で考えたのか?」
「母から教わったやり方にね、ちょっと手を加えたの。レシピあげようか」

実家に帰った時に作ったら、面白いかもしれない。
けれどそういうものは、各家庭の秘伝だと聴いたこともある。
ほしいなと思いながらも、周太は訊いてみた。

「ん、ほしいな。でも、そんな大切なもの、いいのか?」
「嫌だったらね、自分から言わないでしょ?」

きれいな瞳が可笑しそうに笑った。
明るくて率直な笑いに、周太も釣られて笑った。
すぐ横で笑う、きれいな瞳に周太は気がついた。

あ、英二と少し似ているんだ。

英二は実直すぎて、思った通りにしか言えないし出来ない。
率直で健やかな心は、透明に明るく温かい。そして誰より美しい、きれいな笑顔。
そうして穏やかな包容力と、静謐な佇まいは人の心をほどいてしまう。

美代はどこか繊細で、純粋な素直さが可愛らしい。
けれど実直さと、穏やかな包容力と静謐な佇まいが英二と似ている。
女の子でこういう実直な性質は、きっと珍しい。けれど美代にはそれが自然だった。
そういう彼女だからこそ、自由な国村と自然に寄り添えるのだろう。
どおりで自分が話しやすいはずだ。納得して周太はそっと微笑んだ。

「湯原くん、ほら、空をみて?」

見上げると、澄明な夜空には半月が、淡い光に輝いていた。
月面が澄んで、鏡のように照り映えている。
きれいだ、そっと周太は息を吐いた。

「御岳山はね、月の御岳って言われているの。今夜も月、きれいでしょ」
「ん、半月だけど明るいな。きれいだな」
「ね、」

明るい月の影が、渓流の波間にゆらめいている。
美代とただ並んで、そんなふうに月と川を眺めた。
英二と似た、静謐な佇まいの彼女は、無言でいても楽だった。
こういう人もいるんだな。なんだか周太は嬉しかった。

けれどやっぱり、周太は英二の隣が恋しい。
無言でいても、英二は全てを解ってくれる。そして大丈夫と、いつも笑ってくれる。
どこまでも周太を抱きとめる、大きな包容力。掴んで離さない強い腕。
周太を惹きつける笑顔、頼もしく端正な姿。
周太には、英二を他と比べることは、出来るわけがなかった。


(to be continued)

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萬紅、叔暁act.1―another,side story「陽はまた昇る」

2011-11-23 22:50:33 | 陽はまた昇るanother,side story
たいせつなひと、約束でむすばれて




萬紅、叔暁act.1―another,side story「陽はまた昇る」

あのブナの木に、もういちど会いたいな。
本当はそんなふうに、昨日からずっと想っている。
でもこの実直な隣は、たぶんコースを決めてあるだろう。だから、わがままになるかもしれない。
けれどいつも言ってくれる「頼って甘えて、わがまま言ってよ」
だから言っても良いのかな。仕度して山荘を出ると、周太は遠慮がちに口を開いた。

「あのさ、コースって決まっているよな」
「おう、計画書出してるし」
「そうか、」

登山計画書は何かあった時は、それを元に捜索救助を行うためのもの。
それに逸れることは、山岳救助隊員としての英二は肯えないだろう。
やっぱり、わがままは言えない。そう口を噤んだ周太に、英二は笑いかけてくれた。

「あのブナの木には、今日も寄るから」

どうしていつも、解ってくれるのだろう。
いつも自分から言う前に、この隣は解って言ってくれる。
驚いている周太に、英二は微笑んだ。

「言ったろ、あの場所は好きだって。だから俺、いつも往復で寄っているんだ」

言わなくても想いが解ってもらえる。
そうしていつも、そんな心遣いが温かくて、うれしい。
うれしくて気恥ずかしくて、周太は微笑んで答えた。

「…俺も、好きだ」

なんでも、同じように感じられることは嬉しい。
そうして想いも重ねられたら良いな。
そんなふうに思っていると、英二が笑いかけてくれた。

「好きな場所にさ、好きな人を佇ませて眺めたいし、俺は」
「…そういうことをさこういうところではちょっと、」

首筋が熱くなる、きっともう赤くなる。
それを隣は、うれしそうに笑っている。
こういうのは困ってしまう。けれど隣が喜んでくれるなら、いいのかなとも思ってしまう。
それでもやっぱり、気恥ずかしい。

雲取山頂では、今日も富士山が美しかった。
真白に頂いた雪が、朝の光にきらめいて眩い。
朝の富士は朝靄にたなびいて、日中の昨日とは表情を変えている。

「太陽の光の角度が違うからかな?」
「そうだな。あとさ、朝と昼だと空気も違うよな」

そんな話をしながら、一緒に歩くのが楽しい。
「山は厳しいけれど楽しいよ」と、英二はいつも話してくれる。
そんなふうに、聴かされていた世界に今、一緒に歩いていく。
もうずっと、この隣の世界を一緒に歩きたかった。だから今が幸せで、うれしくて。
こういう時をずっと、これからも何度も過ごしていけたらいい。

「ここがな、奥多摩小屋だよ」

英二に教えられて見た小屋は、風変わりだった。
赤い屋根のかわいい小屋、その前には丸太や枝で作られた鹿が立っている。
カラカラと乾いた音に見上げると、木を削って作られた風見鶏がゆれていた。

「8年くらい前までね、仙人が住んでいたらしい」
「仙人?」

確かに小屋の雰囲気は、仙人に相応しい遊び心が感じられる。
ほんとうに仙人っているのだな。周太は感心した。
仙人はいつも何していたのだろう。思って眺めていると、英二が教えてくれた。

「仙人はね、20年以上この小屋番をしていた人なんだ。奥多摩の有名人だったらしい」
「あ、人間なのか」

なんだ、「仙人」は人間のあだ名だったのか。
ぽかんとした声が出て、楽しそうに英二に笑われてしまった。

「周太、本物の仙人だと思ったんだ?」
「…だって、英二が言ったから俺、信じちゃったんだ…」

子供みたいって思われたかな。
気恥ずかしくて俯いてしまう。けれど英二は覗きこんで、微笑んでくれた。

「うれしいよ、そういうの」

うれしいなら、良いな。
熱くなった頬のまま、そっと周太は尋ねた。

「ほんと?」
「ほんとだよ、周太に信じてもらえて、俺は幸せだよ」

きれいに笑って、英二が言ってくれた。
そう、本当に自分は信じている。きっとどんな時も、どんな事も、この隣が言うのなら信じてしまう。
そういうのは子供っぽいのかなとも思う。けれど英二は喜んでくれるなら、良いのかもしれない
なんだか嬉しくて微笑んだ周太に、そっと穏やかに英二がささやいてくれた。

「愛してるよ、周太、」
「…ん、」

こんなふうに言われて、うれしい。
でも昼間の明るい外で、ほかの登山客も歩いていく中だと、さすがに気恥ずかしい。
それでも想いを伝えたくて、紅潮していく頬のままで周太は、見上げて微笑んだ。

「信じてるから、」
「おう。信じて、周太」

微笑み返す穏やかな、きれいな切長い目。
ほんとうに好きだ。思いながら、周太は訊いてみた。

「その仙人は、どんな人なんだ?」
「ギターが上手な生粋の山ヤだよ。
 国村は何度かここで世話になって知っていてさ。今もどこかの山を登っているだろう、そんなふうに言っていた」

父の蔵書にあったフランス短編小説集『Nouvelles orientales』には、仙人の様な絵師の話が載っていた。
その絵師は自分が描いた絵の世界に入ってしまう。そんなふうに、ここにいた小屋番も山の世界へと入ってしまった。
やっぱりその人は、本物の仙人なのかな。
思いながら風見鶏を眺めていると、小屋番に声をかけられた。

「ヘリが来ますから、小屋に避難して下さい」

しばらくするとヘリコプターが来た。
ホバリングの風が強い、荷物を降ろすとすぐにまた飛び去っていく。
プロペラからが巻く風が、頬を撫でていく。物珍しげくて周太は見上げていた。

「こんなに近くでヘリを見たの、俺、初めてだ」
「あ、また“初めて”なんだ?」

“初めて”で首筋が赤くなる。昨夜のこと、想いださせられてしまう。
だって昨夜は、初めて自分から望んで、英二にキスをした。

―ねだらないでさ、周太からしてくれたの“初めて”だな―

そんなふうに言って笑った、隣の顔は幸せそうだった。
あんなふうに笑ってくれる、それがうれしくて。
笑ってほしくて、…また出来たら良いな。そんなことを考えだして、気恥ずかしい。

ヘリコプターの風が止んだ。
小屋に避難していた登山客が、山道へと動き出す。英二も微笑んで、周太を促してくれる。

「行こう、周太、」
「ん、」

歩きだした登山道は、さわやかな秋晴れだった。
朝の山にみちている、清澄な空気が心地いい。
道端にゆれる枯草の合間、アザミが咲いていた。
秋の名残の風情に、葉色が褪せているけれど、俯いた花は淡い赤紫がきれいだった。
下向き加減がホソエノアザミかな、そう考えながら歩いていると、英二が笑いかけてくれた。

「昨夜みたいに眠ったの、なんか警察学校の寮みたいだったな」
「…ん、そうだな。懐かしくて、…なんか嬉しかった」

気恥ずかしい、けれど嬉しくて、周太は微笑んだ。
その隣で英二が、笑って言った。

「卒業してからはさ、しないで寝たのは、“初めて”だよな」
「…っ」

そういうことをいわないでびっくりしてこまるから。
きっともう真っ赤になった、そんな自分の熱がまた、恥ずかしい。
うれしそうに笑いながら、英二が分岐点で道を示した。

「ほら、こっちの道に行くぞ。ちゃんと着いて来いよ、周太」

なんだか今は気恥ずかしい。
そんなふうに俯けた視線の先に、ふと周太の目が留る。
見つめた足許に、10cmほども伸びた霜柱が立っていた。
もう冬が近い。思った途端、ずきりと周太の心が軋んだ。

冬になれば山は雪に覆われる。
英二にとって初めての、警視庁山岳救助隊員として立つ雪山での任務が始まる。
低温、足許の不自由、滑落の危険。歩きやすい今の秋山とは、全く違う世界。
この隣はきっとだいじょうぶ、約束を守ってくれる。
そう思っても、不安も心配も迫上げて、来る季節への恐怖が心覆っていく。

けれど。自分はもう、信じている、愛している。
約束も英二も信じて待って、どこまでも着いていく、想っていく。
だって自分はもう決めている、この隣を愛し続けること、もう離れないこと。だから信じて着いていく。

雲取山を連れられて歩いて、たくさんの喜びと初めてを見つめた。
この隣に連れられて歩くこと、こうして幸せな記憶に充たされていく。
だからもう決めた、自分から隣に着いていく。どんなに引き離されたって、どんな形でも繋いで離れない。
自分はもう決めた。これからずっと、こうして連れられて、歩いていく。

想い愛し、守って、見つめていく。

すこし唇をかんで、ひとつ息を周太は吐いた。
それから想いの中心を見あげて、見つめた瞳から微笑んだ。

「ん、着いていく…だからずっと連れて行って、英二」

見上げて見つめた端正な顔に、きれいな笑顔が咲いた。
うれしそうに英二は、きれいに笑って応えてくれる。

「ああ、ずっと連れていく。だからちゃんと着いてきてよ、周太」

告げて、応えられること。
こんなにうれしい、その温かさに周太は微笑んだ。

唐松谷という道を降りる足許を、黄金色の木洩陽が照らす。
きれいだなと目を上げると、落葉松の樹林帯に立っていた。
黄金の梢と華やぐ陽光が、林間を明るく金色の大気に充たしている。
そっと周太は息をついた。

「黄色の黄葉は、眩いな」

周太の言葉に、隣は立ち止って振り向いてくれる。
きれいに笑って、周太の言葉に頷いてくれた。

「うん、きれいだろ、」

きれいな笑顔は穏やかで、やさしい切長い目が見つめてくれる。
やさしい穏やかさが嬉しくて、周太は頷いた。

「ん、」

頷いて見つめて、周太は止まった。
いつものように穏やかな、静かに佇む隣の姿が、きれいだった。

金色の木洩陽に照らされて、深紅あざやかなウェア姿がきれいで。
白皙の貌にふる光に、端正な深みの表情が美しくて。
黄金の森ゆるやかに、陽光透ける髪を風が梳いていく。

自分の愛するひとは、こんなにきれいだ。
そっと息をついた心に、記憶の詩が静かにふれあがった。

 When,in a blessed season
 With those two dear ones-to my heart so dear-
 And on the melancholy beacon,fell The spirit of pleasure and youth‘s golden gleam
 祝福された季節に、
 愛しい私の想いの人と、ふたり連れだって…
 そして切なき山頂の道しるべ、その上に。あふれる喜びの心と、若き黄金の輝きとがふり注いだ。

慣れ親しんだ「Wordsworth」の詩の、あの光景。
ワーズワースは自然を通して心を歌う、本当にそうだなと思えてしまう。
だって今この目に映るのは、この詩そのままの光景だから。

「周太の服の色、ホリゾンブルーって言うんだ」

静かに英二が教えてくれる。
この登山ウェアも、英二が選んで贈ってくれた。
それだけでも嬉しい、そしてこの色を周太は好きだった。

「ほりぞんぶるー? …ん、きれいな色で、俺、気に入ってる」
「そっか、気にいってくれて、よかったよ」

きれいに笑って、英二が続けてくれる。

「地平線や水平線近くの空の色をな、ホリゾンブルーっていうんだ」

境界線の空の色。昨日と今日と見た、黄昏と暁の空の、あわいブルーの色。
広やかな空がうれしくて、この空の下でずっと、想う隣にいたいと願った。
その空が、日常を過ごす新宿に繋がって、想う隣と繋がっている。それを知って嬉しくて。
この隣と繋いでくれる、空の色の名前。
なんだか幸せで、周太は微笑んだ。

「きれいで、広々とした名前だな」
「だろ、」

黄金の木洩陽、深紅の隣。
自分とは正反対の色が映える、美しい隣、唯ひとり想うひと。
その深紅と同じ色が、自分の袖にも一すじ入っていた。
その色が、昨夜も唇よせられた右腕の、赤い痣を想わせる。

壁に凭れて並んで座って、窓を見あげて月と星を眺めた昨夜。
ひとつのiPod片方ずつのイヤホン、同じ曲で繋いで寄り添った。
そのまま眠った周太を、静かに抱きあげ横たえて、寝かせてくれた。
そのとき浅い眠りは覚めて、ひらいた瞳を英二が見つめてくれていた。

「ごめん、起こしちゃったな」

やさしい笑顔が幸せで、うれしくて。
もっと近くで笑ってほしいと、眠り覚めきらない意識に思った。
もっと、そんな想いで周太は右腕を伸ばした。

「…ん、…ちかくに、きて?」

伸ばした右腕の、Tシャツの長袖がすとんとおちた。
青い夜こめられた薄明かり、ほの白い腕に痣は赤くあらわれた。

「周太、」

長い指に絡めとられて右腕、熱い唇がよせられる。
そのまま抱きしめられて、温かくて、幸せだった。
腕に刻まれた熱と想い、見つめてくれる瞳、きれいな笑顔。
どれも幸せに抱きしめられて、昨夜は静かで穏やかな安らぎに眠った。

あわいブルーのウェア越しに、そっと周太は痣にふれた。
こんなに切なくて温かくて、幸せなこと。
与えられている今が、奇跡のように想えてしまう。
それくらい13年間の冬は長くて、冷たくて、孤独が痛かったから。

…英二、

心に呟いて見上げる隣は、登山地図をクリップボードにセットしている。
胸ポケットから鉛筆を出して、添えた手帳と地図へメモを取り始めた。
仕事へと向かう真摯な表情は、すっかり大人の男になっている。

鉛筆をはしらせる手元は、相変わらず白くきれいな手だった。
けれどその手も、1ヶ月半前とは違う。

自殺者の死体見分、遭難者の救助、そして親しい山ヤを看取った、手。
山に廻る生と死を、見つめて守って救けて。そして自分をも、支えて守ってくれた。
出会った時から見てしまう、きれいな白い大きな手。
けれど1ヶ月半で、より温かく美しい手になった。

大好きな、英二の掌。
あの手に繋がれていたい、だから自分があの手を守れたらいい。
そんなふうに湧きあがる、自分の想いが温かい。

…大好き、そして愛している

そっと心に呟いて、周太は足許に目をおとした。
落葉ふりつもる道に、ときおり綺麗な黄葉や紅葉がおちている。手をのばして拾い上げて、陽光に透かし見た。
きれいな葉脈が、金色のなかに浮かんでいる。きれいだなと微笑んで、手帳を出すと挟みこんだ。

幼い頃は山で、公園で庭で、こんなふうに木葉を集めた。
父に教わった方法で作る、押葉はきれいに色が残せた。
薬局で取寄せてもらった試薬を霧吹いて、シリカゲル粉末シートに挟んで、百科事典で重しをした。
そうして父が贈ってくれた専用の採集帳に、きれいにまとめて自分だけの図鑑を作った。
父と一緒に作った図鑑。だから13年前に、記憶と一緒に仕舞い込んでしまった。

あの採集帳は今、どうなっているのだろう。
思いながら周太は、落葉を挟んだページへと目をおとした。

あの頃は、落葉を拾ったらメモをとっていた。
拾った日時と天気と場所、葉の親木の様子。
それをラベルに転記して、葉と一緒に採集帳に貼ると、立派な図鑑らしくなる。
帰ってから学術名を父と調べて、ラテン語でラベルに書くのも楽しかった。
これもメモを書いてみようかな、周太は手帳のペンをとった。

「ん、楽しいな」

こういうのは久しぶりだった、けれどちゃんと覚えている。
手帳とペンをウェアのポケットにしまうと、周太は目を上げた。
その目に、赤い実と紅葉が茂る箒状の木が映りこんだ。木洩陽に照る朱赤の実が、温かく輝いて美しい。
この木は実家の庭にもある、懐かしくて周太は微笑んだ。

「周太、」

大好きな声に呼ばれて、周太は振り向いた。
きれいな笑顔が温かい、うれしくて周太は赤いを指さした。

「ナナカマドだ、」
「へえ、きれいな赤い実だな。葉の色も良いな」

興味深そうに、隣もナナカマドの木を見てくれる。
同じものに興味を持ってもらえる。それが周太には嬉しかった。
父とこうして山や公園で楽しんだ。あの温かい記憶が今、この隣でも温かい。
幸せだ。そんな想いが心からノックするよう返響する。

「ヨウシュウヤマゴボウはな、布が染められる」
「ふうん、きれいな紫色に染まりそうだ、おもしろいな」

この黒紫の房状の実は山野に自生する。父と何度も見た、懐かしい記憶の植物。
少し前までは、見るたびに目を背けていた。けれどもう今は、温かな想いで見つめられる。
こうして今、英二の隣じゃなかったら。きっと、こんなふうに素直には想えなかった。
この隣が全て受けとめてくれる安堵が、痛みにされた記憶すら、素直に温もりへと還元させてくれる。
微笑んで周太は、英二に振り向いた。

「父さんがね、山で教えてくれた植物なんだ」
「そっか、」

頷いて、きれいに笑って英二が言ってくれる。

「周太の父さん、山ヤでも俺の先輩なんだな。こんなに山を知るのはすごいよ、尊敬する」
「ん、父さんはね、ほんとうに物知りで、立派なんだ」

そう、自慢の父。
だから誇らしい、自分があの父の息子であること。
そう素直に想えることが嬉しい。それもこの隣が全て、手を曳いてくれたこと。

父の真実の底に遺された温かな想い。それら全てに、英二が向き合わせてくれた。
そうして父の死の結末が、冷たい現実だけでは無く、温もり遺された今を教えてくれた。
だから、こうして今は、父の記憶全てを肯定できる。
今はだから胸を張れる、父の息子であること。そして想いの全てで、この隣を愛している。

ほんとうに、唯ひとりだけ、唯ひとつのこの想い 

…愛している、英二

心に想いを響かせて、隣を見あげ周太は、きれいに笑った。


昨日も訪れた、あわい光の空間にまた立っている。
あわい苔緑、あわい金色の木洩陽、やわらかな蒼い木肌。
ふたつの切株と、ひとつの倒木の向こう側。そこには黄金の木洩陽が高くふる。
空を抱く黄金の梢を戴冠して、ブナの巨樹は佇んでいた。

「今日も、きれいだな」
「ああ、今日が一番きれいで、この秋の最後かもな、」

ふたり並んで倒木に座る。木洩陽は昨日よりやわらかい。
また秋が深まっていく。
もうじき冬、悲しみと喜びが交錯した、この秋が終わる。

寄り添う約束をした、初秋の9月の終わり。
初めて自分から求めた夜の、中秋の10月を了える候。
父の真実へと時が動き始めた、盛秋の11月の初まり。
そうして深秋、想いの深さを告げあって、昨日ここでキスをした。

想い深い秋が終わる。すこし切なくて、そしてきっと忘れない秋。
初めて一緒に迎える冬、山に生きる隣が心配にもなる。
けれど初めての冬にも、この秋のように、喜びがきっとある。

何気なく周太は、ポケットに手を入れた。
いつものオレンジ色のパッケージを取出して、最後のひと粒を口に含んだ。
さわやかな甘さ、馴染んだ味がほっと、心寛がせてくれる。

「俺もほしいな、」

隣からの声に振り向いて、周太は困ってしまった。
最後のひと粒だった。それなのに隣に訊かずに、何気なく口に入れてしまった。
いつも英二は、周太を必ず優先してくれる。それなのに自分は、どうしてこうも、気が利かないのだろう。
哀しい想いに周太は、掌の空になったパッケージを見せて、英二を見上げた。

「ごめん、最後の1個だった…下山したら買うな?」
「今、ほしいんだけど?」

謝る想いの先で、英二は少し拗ねた顔になってしまった。
どうしよう、怒らせてしまったのだろうか。
怒られても仕方ない、だって自分だけ黙って、口に入れてしまった。

「…ごめん、」

どうしたら許してもらえるのだろう、どうか許して。
途惑いに瞳の底が熱くなる。泣いたらいけない、そう思った頬に温もりがふれた。
大好きな掌が頬を包んでくれていた。
その温もりが嬉しい。うれしくて見上げると、英二が笑いかけてくれた。

「謝らなくていいよ、もらうから」
「…え、?」

もらうってどういうこと?
解らないまま見上げていると、きれいな口許が静かに近寄せられる。
周太の唇に、唇で英二がふれた。

ふれられた唇の温もりが、やさしくて甘い。
よかった。英二は怒っていない。だってこんなにキスが優しい。
うれしくて、重ねた透間そっと周太は吐息を零した。

その透間に、深く英二の熱が入りこんだ。

「…っまって、」

驚いた唇、やわらかいそのままに、ほどけて熱を受け入れてしまう。
驚いた瞳、瞠いたままに閉じられない。
ひらいたままの瞳、白い肌が映りこむ。きれいな瞼、濃い睫、それから揺らめく熱い想い。
途惑ったままの想いの底で、唇から探られる深い裡から、馴染んだ甘い香が奪われる。

…あ、

心の呟きと一緒に、静かに英二の唇が離れた。
きれいな唇ほころばせ、英二はきれいに笑っている。

「ありがと、」

くちびる離れても、近寄せられた顔。
英二の唇こぼれる甘い香が、周太の唇にふれる。
目の前のこの、きれいな唇が、自分の口から馴染み深い甘さを奪ってしまった。

こんなことってほんとうのことなんだろうか、なんだかなにもわからない。

「この飴、なんだか随分と甘いな、周太?」

瞳を覗きこまれて、きれいな笑顔に笑いかけられる。
やっぱりげんじつなんだ、想った途端に熱が一挙に昇りだした。

「返してほしい?」

きれいな笑顔が、笑っている。
のぼってしまった熱があつくて、なんだかなにもかんがえられない。
何も考えられなくて、素直に周太は呟いてしまった。

「…ん、かえして」

きれいな笑う唇に、そっと周太は唇をよせた。

なんだかなにもかんがえられない、いったいどうしたのだろう?
ぼんやりとした意識の表層に、あたたかな熱が唇にふれる。
一瞬のためらい、意識をよぎったけれど、甘い香りが誘い惹きこむ。
惹きこまれるままに、きれいな唇の裡へと深く重ねた。

どうしていいのかわからない、けれど。
馴染んだ香りと甘さ、入りこんだ裡に充ちて愛おしい。
けれど馴染んだそれ以外の、惹かれるなにかに満ちている。
わからない、そして探す目的が見つからない。

それに、もう、なんだか、はずかしくて、こまる。

頬が首筋が熱い、背筋だってもう熱い。
待って今、この状況は、どうしてこうなっているの?恥ずかしくて途惑って、周太はそっと唇を離した。
なんでだったろう?すこし考えて、飴を盗られたことを周太は思い出せた。

「…ない、」

ぼそりと周太は呟いた。
でもどうして無かったのだろう?気恥ずかしさに熱くても、不思議でしかたない。
すこし首傾げる周太に、可笑しそうに英二が白状した。

「ああ、俺、すぐ飲みこんだから」
「…え、」

どういうことなのだろう?
よく解らないでいると、悪戯っぽい目で、英二が教えてくれた。

「だって見つけたら周太、すぐ止めただろ?」
「…あ、ん、」

そう、きっとその通り。
「返して」と言ったからには、見つけて返してもらわないと。
けれどこんなの恥ずかしいから、見つけ次第に止めただろう。
そう想い廻らす周太に、きれいな笑顔が、嬉しそうに自白した。

「気持ちいいから、止めてほしくなかったからさ。見つけられたくないから、飲んじゃった」

……なんてこたえればいいの?

だんだんと、自分のしたこと途惑いになる。
首筋から背筋まで熱い、きっともう体中が恥ずかしくて真っ赤だろう。

でも、止めてほしくなかった、て。
喜んでくれた、そういうことだろうか。
気恥ずかしくてたまらない、けれど喜んでもらえると、やっぱり嬉しい。

「こういうキスも周太からは、“初めて“だね」

きれいな笑顔、いま「初めて」て、言った…そう、初めてのこと。これも“初めて”

この場所で昨日、たくさんの“初めて”が出来た。
初めて、呼びたかった名前を呼べた。
初めて、したかったキスが出来た。
初めて、告げたかった想いを告げられた。

そして今この場所で、もうひとつの“初めて”が、出来た。

周太は真直ぐに英二を見つめた。
そう、自分はもう、この隣のためになら、何だって出来るから。
“初めて”はいつも途惑ってしまう。それでも自分は、この隣の為になら途惑いも越えたい。

だってもう、心から想っている、愛している。
この想いを伝えて告げて、そうして幸せをすこしでも、与えることが出来るなら。

そんな想いに見つめる真中で、きれいな切長い目が、どうしたと訊いてくれる。
お願い声、きちんと出て。祈るよう周太は、唇を開いた。

「…初めては全部うれしいから…」

言えた、想いを。
そっと吐息をついた周太に、英二は瞳を和ませて、きれいに笑いかけてくれた。

「うん。俺こそ、うれしいよ」

きれいな笑顔、自分に向けられている。
嬉しくて微笑んだ周太に、長い腕を伸ばしてくれる。きれいな低い声が誘った。

「おいで、」

長い腕に、そっと抱きしめられた。
包みこまれた胸が、温かい。この温もりに今まで、どれだけ幸せを贈られたのだろう。
そうして昨日も今日も、このブナの下で。いったい、どれだけ幸せだったろう。

あの日。報復の孤独へと堕ちかけた日。
この隣が追いかけて掴まえてくれなかったら、こんな幸せを自分は知らないままだった。
そうしてこの隣も、こんな幸せを失っていた。

あの日、離れて行こうとした自分の、罪の重さが思い知らされる。
許してほしい、どうか許して。

お願い、許して。
もう離れない、そしてもう何だって出来るから。
だからどうかお願い、この隣の、きれいな笑顔を守らせて。

この先きっと、自分には、辛い運命が現れる。
父の軌跡を追うと決めてしまった、それが終わるまで、自分の人生は生きられない。
父の真実の底にある、想いを見つめて受け留める。それが終わらなくては、自分の時は廻れない。

けれど13年間の孤独を壊されて、温かい想いを抱いた今。
その辛い運命をすら、自分は信じて越えられる。この隣を自分だけが、幸せにできること。
だってもう、愛している。

唯ひとり、唯ひとつだけの想い。愛している、英二だけ

この想いの為に、生きようと、もう決めた。
この想いの為に生きるため、父の軌跡を辿り終えて、自分の時を必ず動かして見せる。
そうして自分の時を廻らす瞬間から、この想いの為だけに生きる、自分の人生が始められる。

その時には、この隣の幸せの為だけに、自分は全てを選ぶだろう。
愛する隣の幸せが、きれいな愛する笑顔が、自分の全てなのだから。

そうしてずっと言い続ける、ふたつの言葉。

“お帰りなさい” そして “愛している” 

そして全て叶えてみせる、この隣と結んだ “約束” の全てひとつ残らずに。

だから決めた。どんなに辛い運命でも、自分は必ず越えてみせる。
唯ひとつの想いを、唯ひとり愛する人を、守るために。

抱きしめてくれる隣が、微笑んで告げてくれる。

「愛してるよ、周太」

そっと見上げて、周太も微笑んだ。
そう、愛してほしい、もっとたくさん。
だって約束してくれた「信じて待っていて。愛しているだけ、必ず周太の隣へ、俺は帰られるから。だから信じて?」
だから愛して自分のこと、そして必ず帰ってきて。だってその為だけにもう、自分は生きる覚悟をした。

瞳を見つめてくれながら、英二が微笑んでくれる。

「周太は、きれいだ」

きっとそう、周太は微笑んだ。
だって今もう、自分の心に充ちている。今この目の前にいる、愛する人への想いだけに。
あなたへの想いが、唯ひとつ愛する心が、きっと自分をきれいに照らしだすから。
もう、あなたのためになら、自分はなんだって、出来る。

ふわり、白いはなびらが舞いおりた。

きれいな切長い瞳を、そっとかすめるように、やわらかな白がふってくる。
黄金の梢にかかる空から、あわい雪がしずかに降ってきた。
そっと英二が笑った。

「初雪だな、」

すこし紅潮した頬に、ふれる冷たさが温かい。
雪山のシーズンは不安にもなる。
けれど今は、事多かった秋を終え、冬を一緒に迎えられた。その喜びが温かい。

想い深い秋が終わる。哀しみと喜びと、痛切と幸せとが、織りこみ紡がれた秋。
それを今こうして、愛する腕に抱きしめられて、一緒に見ることが出来た。
この幸せが温かい。微笑んだ周太の唇が、そっと開かれた。

「これも…初めてだな、」
「そうだな、」

笑いかけてくれる、きれいな笑顔。
空を見あげる笑顔、その横顔が愛おしくて、一緒に周太も空を見あげた。
真白な空、けれど雲の流れは早い。
きっとこの雪は、すこしだけふる雪。きれいな青空がまた訪れる。

「ココア、作ってやるよ」

そう微笑んで、英二は周太にキスをした。

しずかに山にふる雪が、ほのかに白く初冬の紗をかける。
静かな山の音鳴りが、ふる雪に鎮まり深閑が返響した。
冬への眠りを望むよう、山の息吹が深く穏やかになる。

山が、ひと時の眠りにまどろんでいる。
そんなふうに想われて、そっと周太は山に佇んでいた。

見上げる空は、真白の奥ふわりと舞ってくる。
黄金の梢ふる白い雪、花びらのように穏やかに、やさしくふりかかる。
白い結晶の花びらの向こう、深紅のウェアが温かく美しかった。

「はい、周太」

深紅のウェアの腕を伸ばして、英二が微笑んで湯気くゆらすカップを渡してくれる。
ありがとうと受けとった、温もりが嬉しくて周太は微笑んだ。

「温かいね、」
「だろ、」

うれしそうな英二の笑顔が、きれいで温かい。
笑顔の温もりが嬉しくて、周太は両掌でカップを抱えた。
温かな甘さを大切に啜って、ほっと息をついた。

「ん、おいし、」
「よかった、」

甘く湯気の燻らせ頬撫でる、静かに啜るココアが温かい。
ときおり降りかかる雪が、そっと隣の深紅の肩に舞う。
やさしい穏やかな、静けさが居心地が良い。

かさりと音に振向くと、英二はパンを取出した。
さっとトラベルナイフで切れ込みを入れて、チーズを挟みこむ。
それからクッカーで軽くあぶって、周太に手渡してくれた。
手際の良さに驚きながら、周太は隣を見あげた。

「こんなことも出来るのか」
「うん、国村に教わったんだ」

ほんとうに色んなことを覚えたんだ。
思いながら周太は、頂きますと言って温かなパンを口にした。
香ばしいパンと熱に溶けたチーズが、温かくておいしい。
雪のふるなか、温かなココアとパンは似つかわしかった。
なによりも、心遣いがうれしい。隣へと周太は笑いかけた。

「ん、おいしい。すごいな、英二」
「よかった、」

きれいな笑顔で、英二が微笑んだ。
倒木に並んで座って、雪を眺めて温かい物を口にする。
山に森に静かにふる、あわい雪を見つめながら、静かな話に豊かな時が流れていく。
こういう時間っていいな。幸せに微笑んで、周太はココアを啜っていた。

ふっと英二は、白皙の顔を空仰がせた。

「雪、そろそろ止むな」

静かな声で英二は言った。
その言葉とともに、雪はひとひら、白い結晶を舞わせてやんだ。

「…ほんとにやんだ」

どうして解るのだろう?
不思議なままに、周太は隣を見つめた。
周太の声が聴こえたように、すこし首傾げて英二が微笑んだ。

「なんとなく、かな」

なんとなく。よく英二はそんなふうにいう。
いつもそんな時は周太は、不思議でならない。
そうして英二がそういう時は、不思議とその通りになる。
ほんとうに、自然も人も不思議が多い。

「そろそろ行こうか、周太」

きれいに笑って、英二が大きな掌で、周太の手を取ってくれた。
その掌が温かくて、うれしくて周太は微笑んだ。

もどった陽射に、樹林は光豊かな黄葉に佇んでいる。
初雪の水気をふくんだ道は、落葉の香が清々しかった。
足許に踏む、やわらかく瑞々しい落葉の感触が楽しい。
そう思って足許を見た視界に、あざやかな青紫色が映りこんだ。

「あ、」

陽のあたる枯葉の合間から、凛と青い花が咲いている。
そっと周太は傍に跪くと、英二を見あげた。

「りんどうだよ、英二」

田中の最後の一葉は、りんどうだった。
農家で写真家の田中は、生まれ育った御岳を愛し、国村を山ヤに育て上げた。
そんな山ヤの田中は、氷雨にうたれる青い花を、写真に納めて生涯を終えた。

あわい初雪のなか、青く輝いた、りんどうの花。
この花を愛した山ヤの生涯を、周太は美しいと思う。
凍える雪にも凛とした花姿、こういう美しさに心を留めて生きた人。
自分もそんなふうに、生きる場所を愛して見つめられたらいい。

周太の隣から、そっと英二が花を覗きこんでいる。
青い花に微笑んで、英二が笑いかけてくれた。

「きれいだ、」

そういう英二の笑顔が、きれいだな。
そんなふう思いながら見上げて、周太も微笑んだ。

「ん、きれいだね。見られて嬉しかった、ありがとう英二」
「うん、こちらこそ教えてくれて、ありがとうな」

微笑んでくれる隣が、愛しい。

初雪、奥多摩の山々は眠りに入る。
迎える冬には、山ヤの警察官は雪山での活動に入るという。
英二にとって初めての、雪山での山岳救助と山ヤの生活が始まる。
雪山はスノボ位だよと笑って、英二が教えてくれた。

「この雲取山もな、けっこう雪が積もるらしいんだ」
「きっと、きれいだろうな」

警察学校で一緒に眺めた、山岳救助隊の雪山訓練の写真。
雪山を見る英二の目は、憧れに楽しげだった。
きっとこれから始まる冬を、雪山の日々を、楽しみにもしているだろう。
その想いが自分には解ってしまう、そして願ってしまう。そっと周太は、想いのままを言葉にした。

「英二、」
「なに、周太?」
「雪山からもね、無事に帰って来て。俺は、信じて待っているから」

ああと頷いて、英二は笑って周太にキスをした。
そっと離れて瞳見つめて、約束だと告げて英二は微笑んだ。

「大丈夫だよ、周太。俺はね、必ず周太の隣に帰る。どこからも、いつでも、絶対だ」

絶対の、約束。
きっとこの隣は、全力で約束を守ってくれる。
だから信じて、愛して、自分は待って見つめていよう。微笑んで周太は頷いた。

「ん、絶対の約束、な」



(to be continued)

【詩文引用:William Wordsworth「Wordsworth詩集」】


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萬紅、仲暁act.2―another,side story「陽はまた昇る」

2011-11-22 16:35:50 | 陽はまた昇るanother,side story
星のふる山の上で




萬紅、仲暁act.2―another,side story「陽はまた昇る」

山頂へ向かう道、隣の変化にすこし驚かされる。
歩く足取りからもう、別人のようになっている。
きれいな笑顔は、急峻な坂にも息切れが少ない。山を踏みしめる足許は、軽やかに確実に進む。
登山地図と手帳を片手に、英二は笑って答えてくれた。

「ああ、ほとんど毎日、山を歩くから」

ボルドーの深紅あざやかなウェア、その背中は細身でも逞しくて、頼もしい。
梢見上げる瞳は楽しげで、歩く姿が眩しくて、見惚れそうになる。
もうほんとうに、英二は山ヤになっている。

「こうしてさ、山にいることが、楽しいんだ」
「そう、良かった」

ほんとうに良かった、そう思う。
けれど本当はいつも、天気予報を見てしまう。やはり不安なのは仕方ない。
そんな不安を抱いた周太を、英二は覗きこんでくれた。

「だいじょうぶ、無茶は絶対にしない。俺は必ず周太の隣に帰るから」

必ず隣に帰る。
そう、この約束があるから、待っていられる。
だって自分は知っている。この愛する隣は、約束は全力を掛けて守ること。
あの山岳訓練の時のように。

「…ん、」

頷いて周太は微笑んだ。
そう、信じてまっている。だって全力で約束を守ってくれるから。

この愛しい大切な隣、唯一つの想い。
この隣の大切な場所で、想いを告げあって、初めて自分からキスをした。
きっと今日のことを、自分はずっと忘れない。

ふと英二は立ち止ると、落葉松に巻かれた赤いテープを指さした。

「ごめん周太、ちょっと待っててくれる?あれ直してくるから」
「ん、待ってる」

英二は枝に巻かれた赤いテープを、器用に外すと袋にしまう。
それから新しいテープを取出して、同じ場所へと巻きなおした。
たしか道迷い防止の標識だと、父に訊いたことがある。
そう眺めていると、英二が戻ってきてくれた。

「ごめん、お待たせ。あ、メモだけさせてな?」
「いや、気にしないで。俺、その辺を見てるから」
「ありがとう、すぐ済むから」

きれいに笑って英二は、登山地図と手帳に書き込み始めた。
きっと今の場所の記録を、とっているのだろう。
本当に一生懸命なんだ。そんな姿が眩しくて、なんだか首筋が熱くなってしまう。
だってこんなひとが、自分を想ってくれるなんて。

最初出会った時は、大嫌いだった。
苦労知らずで要領の良い人間らしい、他人の努力を嘲笑する冷たさ。
端正な顔だけに、愛想良い作り笑いの底が冷たくて、突き放される。
入校式前の下見に行った、校門前での初対面。もうあの時に大嫌いになった。

―こんど会う時まで、その無愛想なんとかしとけよ。結構かわいい顔、してんだからさ

父の殉職に苦しんで、父の軌跡を追う為だけに努力する自分。
そんな自分を馬鹿にして嘲笑っている、そう思えて悔しかった。

真剣に生きるなんて無駄だろう?できるだけ楽して生きればいい、どうせ何も意味なんかない。
そんな考えが透けている、いい加減で投げやりな冷たい笑顔。
そんな冷たさを、ぶち壊してやりたい。冷酷で端正な顔を殴ってやりたい、そんなふうに思っていた。

けれど、英二は脱走した夜、周太の胸で泣いてくれた。
泣いて泣いて、そして涙からあげた顔は、まったく違う別人だった。

―お前は真剣に俺を止めてくれたのに、俺、最低だよな。
 ごめん、湯原…
 辞めさせたくない、って言ってくれて。ありがとう―

冷酷だった端正な顔は、不器用なほど実直だった。
嘲笑に冷たかった唇は、思った事だけを言う率直が温かで、きれいだった。
そして涙からあげられた瞳は、きれいな笑顔が眩しかった。
そうしてそれからは、英二は周太の隣にいるようになった。

この男はずっと、無理に作った仮面をかぶっていた。
けれどもう、そんな仮面を壊して素直に生きる、そんな覚悟をした。
そんなふうに周太は、過ごす隣で気付かされていった。

そして今、きれいな笑顔で真直ぐ見つめて、この時を大切に生きている。
山ヤの警察官として、誇りと喜びに立っている。
こういう姿が見られて嬉しい。そして想われている幸せが温かい。

そんな想いと見た道の脇に、きれいな黄色が映りこんだ。
見覚えのある花の形が懐かしい。傍に寄って覗きこむとヤクシソウだった。
意外で、すこし周太は驚いた。

「ここでも咲くんだ、」

さっき渡った吊橋のあたりでは、幾度か見かけた花だった。
覗きこんだ英二の登山図では、あの辺りは標高1,000mと記されていた。
けれどここは山頂に近い。800m以上は標高差があるはずだった。
標高による寒暖差など、生育条件が違いすぎる。

薬師草、ヤクシソウ。
大きいと70cmになると父に教えられた。けれど目前の花は小さい、20cmくらいだろうか。
それでも、きちんと花をつけて咲いている。

どうして違う条件なのに、咲くことが出来るのか。不思議で眺めてしまう。
幼い頃に歩いた山でも、時折こんな不思議なことがあった。

「周、自然にはね。不思議なことが沢山あるよ。それはきっとね、人間も同じ」

こんなふうに植物の不思議と出会う時、父はそんなふうに教えてくれた。
父の言葉と見つめる花は、陽だまりに黄色が温かい。陽光を映して風に揺れると、黄橙が灯のようにみえる。
違う場所に生まれても、輝きを失わない花。そんな姿が愛しい。
見つめる周太の唇から、ぽつんと呟きが零れた。

「似ている、な」

世田谷に生まれても英二は、山へと生きる場所を決めた。
生まれ持った安楽の日常を選ばずに、山ヤの警察官として生死を見つめる厳しさを選んだ。
より高い場所で、標高の厳しさにも咲く、この花と同じように。

厳しさを選ぶことは愚かだと、嗤う人も多いだろう。
けれどそうして選んだ場所で、英二は誇らかに眩しくなっていく。
きれいな笑顔はより明るく輝いて、背中は頼もしく美しくなっていく。
そんな英二の姿は、周りの人を笑顔にしていっている。
そうして周太のことをも、冷たい現実から救って笑顔を与えてくれた。

…ほんとうにね、英二、愛している

風ゆれる花の灯にそっと、周太の瞳から一滴こぼれた。
涙を享けた花は、黄橙の光にゆれて、うなずいてゆれる。
いつも受けとめて笑ってくれる、あの笑顔みたいだ。
すこし微笑んで周太は、姿勢を伸ばして振り向いた。
ちょうど英二は鉛筆を胸ポケットに納めて、気づいて笑いかけてくれる。

「お待たせ、周太。行こうか?」

振り向いて見つめた真中で、きれいな笑顔が温かい。
うれしくて周太は、きれいに笑って頷いた。

山頂はもう、紅葉の季節は終わっていた。
澄明な空気と山並の向こう、すっくりと富士山が優雅に佇んでいる。
あわく青い霞に彩られて、きれいだった。
救助隊の訓練登山の日、写メールを送ってくれたのは、ここだろうか?
そんな気がする、周太は隣に訊いてみた。

「写メールで送ってくれた?」
「そうだよ、」

やっぱりそうだった。なんだか嬉しくて周太は微笑んだ。
岩場に並んで腰掛けて、隣は握飯を頬張りながら、笑ってくれる。
山ではこっちの方がいいと言って、英二は握飯を選んでくれた。
確かにそうだなと周太も思う。

「こういうところで食べると、うまいね」
「だろ、」

英二は微笑んで、5つめを手に取った。
ほんとうによく食べる。けれど少しも太らず、体は引締まっていく。
そうして会うたびに、細身のまま逞しくなって、すっきりとした背中が頼もしい。
毎日の巡回に山に登り、業務合間に訓練をする。そんな日々が隣を鍛え上げている。

そうして夜は、勉強をしている。
吉村医師との会話から、借りた本から、そんな様子が見えてしまう。
どれだけいつも熱心に、救助に必要な知識への努力をしているか。

健やかに握飯を頬ぼっている、美しい端正な横顔。
その横顔は一ヵ月半で大人び穏やかさを深めながら、より楽しげに明るくなった。
山ヤの警察官としての誇りが、切長い目に、端正な口許に、表情にまぶしい。

つい見惚れてしまうな。
思いながら周太は、2つめの握飯を飲みこんで隣を見た。
そんな視線に振り向いて、きれいに英二が笑いかけてくれる。

「周太、俺に惚れ直してる?」

また図星を言われた。
どうしていつも、解ってしまうのだろう。
いつも気恥ずかしくなる、でもなんだか今は、素直に唇が動きそう。
ゆっくり首傾げて周太は微笑んだ。

「ん、そうだな、…惚れ直す、な」

想い告げられて、うれしい。気恥ずかしいけれど。
想いを告げられた隣は、うれしそうに笑って喜んでくれる。
こういうのはきっと幸せだ。

雲取山荘は空いていた。
この時期では珍しいことだと主人が教えてくれる。
他には中年の夫婦が一組と、山ヤ仲間だという男3人組があるだけだった。

「静かで今夜はいいよ。山の夜に、存分にふれられる」
「楽しみです。本当に今夜は、訓練の時とは雰囲気が違いますね」
「そうだろう?あれはあれで楽しいのだけどね。あのとき宮田くん、ビールわりと飲んでいたろう?」
「はい、国村に飲まされて。あの時も楽しかったです、お世話になりました」

手続きをしながら、山荘の主人と英二は楽しそうに話している。
救助隊の訓練登山で、一度ここへ来たのだと聴いた。
その一度だけで、こんなふうに顔と名前を覚えられている。
こういうところも好きだな、そう見つめていた横顔が笑いかけてくれた。

「周太、部屋に行くよ。個室で今日は使えるって」
「そう、ん。うれしいな、」

空いている時は個室で使えるらしい。
よかったと周太はうれしかった。やはり初対面の相手は、周太は緊張しやすい。
それにやっぱり、ふたりだけで寛げるのは嬉しい。穏やかな静かな隣で、山の夜に座れたらいい。
荷物をおろした部屋は、窓からの空がきれいだった。

「ここの飯はね、山の水で炊いているんだ」
「へえ、おいしそうだね」

そんなふうに話しながら、山荘前の広場へと出た。
ベンチに腰掛けて眺める向こうに、山並が青く沈みはじめる。

「周太、夕焼けが始まる」
「ん、」

西へと向けた頬に、あかく太陽の光が照らされた。

真赤にふくらむ太陽は、山の稜線むこうへ超えていく。
投げかける光線に、雲が金色に輝いてまた朱紅へと翻った。
あわい朱、あわい紅、あわい紫色に、空は刻々と移ろっていく。
そっと周太はため息をついた。

「…きれいだ、ね、」
「だろ?」

見つめる空の向こう、太陽がそっと山嶺むこうへ眠りについた。
遺された残照の黄金が、光をあわくおさめていく。
透明な紺青の夜が空覆って、菫色の帳が中天をふり始めた。
そうして宵の明星をとりまいて、新たな星明が灯りだす。

山の空の、夕焼け、黄昏、彼誰時、そして夕闇、夜へ。
ほんとうに美しかった。英二と見られて、うれしかった。
ほっと息をついて、隣を見あげた周太に、英二が笑いかけてくれる。

「飯に行こうよ、山荘は夕飯が早いんだ」
「ん、腹空いたね?」

そう話しながら食堂へと向かうと、調度いい時間だった。
山荘の夕食は、お代わり自由のご飯がおいしい。
英二は丼飯を5杯たいらげたとき、他の宿泊客から拍手をされた。

「ほんとうに、見ていて気持良いな」
「ありがとうございます、」

そんなふうに笑って、英二は6杯食べて箸を置いた。
もしかすると昨夜は、やっぱり足りなかったかな。
思って周太は、今度からもっと多めに、食事は用意する事に決めた。
満足げに茶を啜りながら、隣は笑いかけてくれる。

「ちょっと部屋に戻ってさ、それから星見に行こうな」

星が見られる。
幼い頃に山で見た、ふるような星空がまた見られる。
うれしくて周太は微笑んだ。

「ん、楽しみだな」
「ああ、楽しみにしていて」

部屋にいったん戻ると、据えられた炬燵が気になった。
こたつ布団を捲って見ると、炭を使う仕組みになっている。
豆炭の炬燵らしいよと、笑って英二が教えてくれた。
話には聴いていたけれど、じんわりと温まる感じが、なかなか良い。

秋の夜の山上は、きれいに晴れていた。半月に近いけれど澄明に月が輝いている。
ふるような星が、紺青と青紫の透明な夜空を輝かせていた。
夜闇の底に沈む足許は、空との境界をなくし融けあっている。
本当に英二が、教えてくれた通り。うれしさと驚きに、そっと吐息をついて周太は微笑んだ。

「ほんとうに、宇宙のなかに立ったみたいだな」

冷たい山の夜気が、気恥ずかしさに火照る頬に、気持ちいい。
すこし星座とか解るだろうか。そう思いながら空を見あげる。
暫らくして、きれいな笑顔が、おいでと声を掛けてくれた。

「はい、周太」

温かい湯気を立てるカップを、周太に渡してくれる。
クッカーという、コンパクトな野外調理器具で作ったらしい。
星を見ている間に手早く作った、そんな手際にも驚かされてしまう。
ほろ苦く甘いココアの香。カップを抱えて、周太は英二を見あげた。

「こんなこと出来るんだ、」
「ああ、国村に教わったんだ。だから旨く出来ていると思うけど」

こういうことの先生にも、国村はなってくれている。
本当に良い友人で山のパートナーなんだ。なんだか嬉しくて周太は微笑んだ。
そっとココアを啜ると、調度いい濃さに上手に出来ている。
おいしい、何より気持ちが嬉しい。周太は英二を見あげて微笑んだ。

「ん、おいしい」
「そうか、良かった、」

山の夜気は頬に冷たい。けれどココアは本当に温かかった。
父ともこうして山でココアを飲んだ。それを知って英二は、ココアを作って飲ませてくれる。
なんだかいつもより、ココアが甘やかで、周太は幸せだった。

山の夜は透明に晴れて、新宿の夜景も遠くあざやかに見える。
ぽつんと周太は呟いた。

「ほんとうに、ここの空と繋がっているんだな」

新宿署管轄で勤務する日々、ときおり寂しさを周太は感じてしまう。
ほんとうは、英二の隣で、この美しい場所で生きたい。
そんな想いは日々募って、煌びやかで寂しい夜底の摩天楼にさえ、山嶺の幻を見そうになる。
けれど空が繋がっているのなら。そうして同じ場所に同じ時にいるのなら、そう想うと心に温かい。

静かに隣が動いて、お互いの肩が触れあった。触れる肩が温かい、その近さが嬉しくて周太は微笑んだ。
そうだよと言って、きれいに笑って英二は言ってくれた。

「周太、空でも繋げて俺は、いつも周太の隣にいるよ」

この隣といつも、空で繋がっている。
どんな形であったとしても、この隣と繋がっていたい。
隣を見上げて見つめて、周太は微笑んだ。

「…ん、うれしいな。繋がっているんだな、いつも」
「そうだよ、」

そう微笑み返してくれる、端正な唇が愛しかった。
だって今、この唇が聴かせてくれた言葉に、自分は幸せを貰ったから。
その想いを、自分もこの隣へ伝えたい。

だから、今、キス、したい。

周太は隣の瞳を見つめて、すこしだけ顔を近寄せた。
近寄せた切長い瞳は、やさしく微笑んで見つめ返してくれる。

「…周太、」

黙って見つめたまま近づくと、きれいな切長い瞳がそっと伏せられる。
近寄せた端正な口許は、密やかに微笑んでくれる。

この、愛する隣も、求めてくれている。
求めて、こうして自分を受けとめようと、待受けてくれている。
求められて嬉しくて、周太はそっと瞳を閉じた。

そっと周太は英二にキスをした。

近寄せた周太の頬を、長い指の掌がくるんで抱きとめてくれる。
頬ふれる指先から、ココアの香が甘くて温かい。
ふれるだけ。けれど初めての、自分から望んでのキス。

こんなふうな幸せが自分にあるなんて、周太は思っていなかった。
警察学校卒業式のあの日まで、全てを諦めていた。
けれどあの日の夜、いま抱きとめる腕に浚われて、今ここで、こうしている。
幸せで、温かくて、そっと周太の瞳から涙がひと滴こぼれた。

ゆっくり離れると、きれいに英二は微笑んだ。

「甘いね、周太のキスは。ねだらないでさ、周太からしてくれたの“初めて”だな、」
「…ん。…あまりいわないで恥ずかしくなる…」

きっともう真っ赤になっている。
けれどでも、こんなふうに隣を笑顔に出来た。
その幸せが温かくて嬉しくて。だからもう、少しくらい恥ずかしくても、隣の為なら大丈夫。

21時の消灯、山荘では早めに眠りに入る。翌朝の朝日を楽しみに、登山客は早寝が多い。
布団を敷いて、それから着替える。
着替える時になって、そっと周太は英二に背を向けて座った。

1ヶ月半前までは、いつも寮の風呂は一緒だった。見慣れた日常、意識もしなかった。
けれどこんなふうに。特別な関係を結んだ翌朝から、周太は恥ずかしくて仕方ない。
だっていつも、あんなふうにされてしまう。そう意識しすぎて、もう、恥ずかしい。

そのうえ英二の体は、別人のように変わった。
山ヤの警察官としての1ヶ月半の生活で、引締まった全身には水際立つ美しさが生じている。
細身のままに肩や胸に厚みが出て、腕は動くたびに躍動するのが見える。
すっかり頼もしくなった背中は、昨夜また大人びて長身に映えていた。

だから本当は、いつも周太は見惚れている。
そんな自分も余計恥ずかしい、首筋が赤くなってしまう。
早くすましてしまおう、手早く周太は着ているパーカーとTシャツを脱いで、替えのTシャツに手を伸ばした。

「周太、」

急に名前を呼ばれて、一瞬止まった手からTシャツが落ちた。
その背中から温もりに、そっと抱きしめられる。抱きしめる胸が、素肌のままだと背中で解ってしまう。
身動きが出来ない、途惑いにただ頬が赤くなっていく。その頬にそっと、なめらかな頬が寄せられる。
寄せられた頬が微笑んで、きれいな低い声が囁いた。

「なにもしないから。少しだけ、こうさせて?」

肌ふれる温もりが熱い、抱きしめる腕が温かい。
背中から伝わる鼓動、すこしだけ早くて、力強い温もりが頼もしい。
頬に寄せられる頬の、艶やかな温もりが嬉しい。

「…周太、」

呼ばれる名前、うれしくて。
そっとふれる吐息、温かくて、せつない。

「ほんとにね、愛している…周太、」

告げられる想いが、うれしい。温かい、涙が心にうまれていく。

明日も山を歩く。
疲れさせないように、気遣ってくれている。
けれど想いは伝えたくて、ただ抱きしめて想いを告げてくれている。

自分も想いを伝えたい。
そっと周太は息をひとつ吸って、瞳をとじた。

お願い、ふたつの腕、動いて。
お願い、心深いところ、唯一つの想い、声になって。

そっと周太の右掌と左掌があげられる。
そのまま抱きしめる腕を、そっと両掌が抱きしめた。
その両掌へと、すこし驚いたように隣の視線が注がれる。
そっと周太の唇が披かれた。

「…俺もね、英二、愛してる…いま、幸せだから」

想い、言えた。
名前を呼んで、想いを告げられた。

「うん、」

頷いてくれた隣の頬に、笑顔の気配が感じられる。
ああきっと、うれしくて笑ってくれている。
名前を呼んで想いを告げて、喜んでもらえる。その温もりが幸せで。
素肌のままで抱きしめられる、気恥ずかしさと温もりと、甘やかな幸せが愛しい。

「周太、俺も今すごく幸せだよ、」

頬ふれる低く美しい声、その言葉が温かい。
うれしくて周太は、その声を振返った。
振り向いた視線の先で、切長い目が笑ってくれる。
きれいな笑顔がうれしくて、微笑んだ周太の唇に、そっと唇を重ねてくれた。

そっと離れて、英二は長い腕を伸ばして、周太の着替えを拾ってくれた。

「ほら周太、腕を通して?」
「…え、」
「ほら早く、」

そんなふうに、着せかけてくれる。
こういうのは嬉しい、けれど気恥ずかしい。
けれど拒むことも出来なくて、結局、着替えさせてくれた。
なんだか余計に恥ずかしい、俯けていると英二が名前を呼んでくれる。

「周太、」

赤いままの頬に、きれいな大きな掌がふれた。
そっと唇に唇を重ねられる、その温もりが周太は、うれしかった。
きれいに英二が微笑んでくれる。

「窓からもね、星と月がきれいだよ」

壁に凭れて並んで座って、窓から空を見あげた。
明るい月と、きらめく無数の星が、青い夜空あざやかに見える。
うれしくて周太は微笑んだ。

「きれいだな、」

星と月の明かりで、あわく青い夜が部屋に充ちていた。
iPodのイヤホンを片方ずつ繋いでくれる。
穏やかな曲が流れ始めた。

この曲で伝えたい事がある。
いつも自分だけでは言葉にできない。けれど、歌の詞にのせてなら、きっと告げられる。
静かに周太は英二を見あげた。

「英二、…聴いて?」
「うん、」

優しく頷いてくれる、きれいな切長い目。
その目を真直ぐに見つめて、周太は静かに唇を開いた。

「…I'll love you more with every breath Truly, madly, deeply, do」

“息をするたびごとにずっと、君への愛は深まっていく ほんとうに心から、激しく深く愛している“

この歌詞は本当に、自分の本音。ほんとうは、もう、ずっとそう。
赤らめた頬のままで、周太は告げた。

「この歌詞はね…俺の、本音だから」

見つめている、きれいな笑顔。その切長い目から一滴、白い頬を伝っておちた。
こんなふうに、微笑んで涙をながして。
そんなふうに、想いを受け留められて、周太は嬉しかった。
黒目がちの瞳を覗きこんで、きれいな低い声が告げてくれる。

「周太、聴いて?
 ‘cause I am counting on A new beginning A reason for living A deeper meaning」

“君への想いはきっと、新しい始まり、生きる理由、より深い意味 そう充たす引き金となる”

そんなふうに想ってくれるの?
周太は隣を見つめて、視線で訊いてしまう。
だってそんなふに想われたら、とても幸せすぎると思う。
そんな周太を見つめながら、静かに英二は言ってくれた。

「ほんとうに俺、もうずっと、そう想っている。だからもう、離れてしまったら、俺はね、生きていられない」

夜の底に包まれた空間、ふたり見つめ合う。
それだけでも幸せで、それなのにこんなふうに、想いを告げて求めてくれる。
周太の頬に涙こぼれた。

自分だってそう、同じように想ってる。
13年間を縛り続けた、父の殉職という名の冷たい現実と孤独。
そこから救ってくれた。そして失われた笑顔を蘇らせてくれた。
そうして自分の心に、温かい想いを贈ってくれる。
そしてこんなふうに、愛することを教えて、答えてくれた。

きれいに微笑んで、周太は英二に告げた。

「…俺も、そう…」

告げた唇にそっと、唇で英二がふれてくれる。温かな熱が幸せで、愛しくて嬉しかった。
微笑んで、英二が告げてくれる。

「約束して、もう離れていかないで。どんな時も、どんな所でも、俺を離さずにいてよ」

長い指で、周太の涙を拭ってくれる。
拭われた瞳で真直ぐに見上げて、周太は言った。

「約束する…だからもう、ひとりにしないで」
「うん、」

拭った目許にくちづけて、黒目がちの瞳を覗きこんでくれる。
そっと笑って英二は、周太へと願った。

「約束する、だから笑って周太。俺の名前を呼んで、キスしてよ」

ほんとうはやっぱり、恥ずかしい。
けれどこの隣が望むなら、なんだって叶えたい。きれいに周太は笑った。

「英二、」

笑いかけて、名前を呼んで、キスをする。こんなに幸せなことだなんて、ずっと今まで知らなかった。

「周太への想いがね、俺の生きる理由と意味。生きている限りずっと周太を想うよ。
 どんな時でも俺は、必ず周太の隣に帰る。
 ひとりになんかしない、一緒に生きていてよ。…いつも、離れていても、必ず守り続けるから」

英二が周太に告げてくれる、その真直ぐな目が嬉しい。
だから自分だって想いを告げたい。
だからお願い、声きちんと出てほしい。周太は静かに唇を開いた。

「…ん、俺だって英二を守りたい、一緒に生きたい。…俺もう、いつも、ずっと、英二の帰りを待ってるんだ」

周太の瞳から涙がこぼれて落ちた。

「ほんとうは、いつも俺は不安だ…山はなにが起きるか解らない、だから不安…いつも天気予報を見てしまってる」

山では天候が生死を支配する。
だから本当は不安、いつだって想って心配してしまう。
けれど、それだけでは自分は、この隣を守ることなんてできない。
きれいに微笑んで、周太は告げた。

「でも信じている、約束を信じて待ってる…愛している、英二」

うれしそうに英二が笑ってくれる。
きれいな笑顔で、周太に言ってくれた。

「信じて待っていて。愛しているだけ、必ず周太の隣へ、俺は帰られるから。だから信じて?」

愛しているだけ、帰られるなら。
ならきっと大丈夫、必ず帰って来てくれる。だってもうそれほどに、想いは深いから。
きれいに笑って、周太は答えた。

「ん、信じて待ってるから…だから、たくさん…愛して。必ず、帰って来て」
「ああ、ずっと愛する。だから信じて?」

抱きしめられて頬寄せられる、温もりが嬉しい。
どうしていつもこんなふうに、温かいのだろう。
こんなふうに愛して、想いを通わせる。そんな幸せがあるなんて思えなかった。
けれどこうして抱きしめる、この想い、ひとりだけ、唯一つの想い。

愛してる。もうずっと、ひとりだけ、ひとつだけ。
この隣の為になら、きっと自分は何だってできる。
そんな静かな覚悟がそっと、自分の心に想いに温かい。

「愛している、周太。ずっと隣で笑っていて?」
「ん、隣でね、笑っている」

きれいな笑顔が見つめてくれる。
うれしくて微笑み返して、穏やかな温もりに寄り添った。
そんなふうに寄り添って、ただ抱きしめられて山の夜に眠った。


唇に熱がふれる。
額にふれる温もりは、てのひら?
頬を包んでくれる温もり、かすかなココアの香。大好きな穏やかな、やさしい気配。

「周太、」

きれいな低い声が呼んでくれる。
大好きな声、惹かれて誘われて、静かに瞳がひらいた。

「おはよう、周太」

きれいな笑顔が、まだ夜闇を残した朝に笑ってくれる。
今日、最初に見たものが、この笑顔。
うれしくて周太は、きれいに笑った。

「…おはよう、英二」

そうして目覚めた朝は、ただ幸せで温かい。

こんな朝を、ずっと見つめて、生きていきたい。
そんなふうに、そっと心に祈ってしまう。

「周太、」

抱きしめてくれる腕に、そっと抱き起こされる。
きれいな切長い目が、瞳を覗きこんで笑って、誘ってくれる。

「ほら、夜明けを見に行こう?」
「…ん、一緒に行く、見たい」

眠りから覚めきらない体に、パーカーとウェアを着せてくれる。
マフラーを温かく巻いて、静かにキスをしてくれた。

「おいで、」

時計は5時半。黎明のときだった。
闇は夜明けの前が最も濃い。手を惹かれて出た足許も空も、紫深い闇に沈んでいた。
濃密な浄闇に鎮まる山上、森閑の音が遠くから返響していく。
濃く透明な闇には、星の明滅があざやかに煌めいていた。

「星がふってくる、そんな感じがするな」

天上うめつくす星が瞳に響く。周太は微笑んで空を見ていた。
座っている木のベンチも闇の底に沈み、足許が宇宙に浮くように感じる。
冷気が最も凍るのも、夜明け直前の黎明どき。山上の大気は冷たくて、氷水が融けたようだった。

「…こほっ」

軽く咳が、周太の唇からこぼれた。

「周太?」
「平気、だいじょうぶ」

冷気が少しだけ、肺に入った感じがした。
思った以上に夜明け前の山は寒い。けれど、英二に贈られたマフラーが温かい。
ふいに長い腕が隣から、周太をひきよせた。

「ほら周太、来いよ」
「…え、でも」

英二の前に座らせられると、背中から抱きしめられた。
ジャケット越しに、お互いの熱が寄り添って温かい。温もりが幸せで、周太は微笑んだ。
きれいに笑って、英二が周太を覗きこむ。

「隣に誰かいるって、温かいだろ?」
「…となりっていうかなんていうか…」

となりというよりも、まえにいる。
そしてこれは、昨夜の着替えるときと同じ体勢になっている。
昨夜をおもいださせられて。気恥ずかしさが、声をちいさくしてしまう。
けれど本当は、うれしくて幸せに微笑んで、もう瞳は笑っている。

「今、うれしい?」

うれしい、そして幸せだ。
けれどどうしよう、だってもう人が見ている。
どうして良いか解らなくて、思ったままを周太は言った。

「…ん、…うれしい、な。でも、すごく、…はずかしいぞきっとおれたち」

言われて英二は、周囲を見回している。
周囲の人達を見、いつも通りに英二は、きれいに笑いかけた。

「おはようございます、冷え込みますね」
「おはようございます。まあ、仲良しですね」

ハイカーの妻が可笑しそうに笑ってくれる。
ええと頷いて、英二はきれいに笑った。

「はい、仲良いです。こうすると温かいですよ」
「あら、いいわね。ちょっとあなた、私達もしましょう?」

妻が夫の手をひいて、向こうのベンチへ歩きだす。
ロマンスグレーの夫が、気恥ずかしげに微笑んでいる。

「若い頃にしたね、でも今は少し恥ずかしいよ」
「そうね、でも今もう寒くって私、」
「じゃあ仕方ないな、」

そんなふうに笑って、夫婦も真似て座りこんだ。気恥ずかしげでも楽しそうに、夫婦で笑っている。
その姿は堂々として、そしてずっと寄り添ってきた温もりが、幸せそうだった。
楽しげな夫婦を見遣って、3人組の男達が英二に笑いかける。

「こういうのも、山ならではだな」

男同士でと思われるのだろうか?少しそんなふうに周太は思った。
けれどもう自分も決めている、この隣の笑顔の為になら、自分は何でも出来るだろう。
だから英二を信じて、ただ抱きしめられて座っていた。

「ええ、山の寒気には人も、温かく寄り添えて良いですね」

英二は、周太を抱きしめたまま、いつものように微笑んで答えた。
そんな英二に、男達も楽しげに頷いている。

「そうだな。うん、山は良いな」
「はい。温かくて、山は良いですね」

きれいに笑って、英二は答えた。
その笑顔を見て、へえと男達は笑いかけてくれた。

「きれいな笑顔だな、山ヤって感じだ」
「うれしいですね、ありがとうございます」

そう笑いあって3人は、じゃあとカメラを担いで山頂へと歩いていった。
見送ってから英二は、肩越しに微笑んでくれた。

「ほらね、恥ずかしくないよ?周太、」

肩越しに、切長い目が見つめてくれる。
なんにも恥ずかしいことなんか、自分達はしていない。自分はいつも誇らしい、この隣に座ること。
そんなふうに堂々と、きれいな目は笑っている。

実直で、思ったことしか言わない、やらない。
そしていつでも、きれいに笑って、何事も真直ぐ見つめている。
そんな真直ぐな生き方は眩しい。
そして自分だって誇らしい、この隣に座ること。

ほんとうに、愛している。そして心から、愛されている。
そんなふうに見つめあって、今もこうして寄り添っている。

それはどれほど幸せな事だろう?
うれしくて幸せな想いが、そっと周太の瞳に幸せな滴になって温かい。
黒目がちの瞳を微笑ませて、そっと周太は言った。

「…ありがとう、英二」
「うん。こっちこそいつも、嬉しいから」

こわれないように、静かに腕に力をいれて、英二は周太を抱きしめた。
そんな力強さが頼もしくて、心ほどけて安らいでいく。
頬に頬よせるようにして、きれいに英二は微笑みかけてくれる。

「ほら、周太。夜が明ける」

東の稜線が赤く輝き始めた。
あわいブルーの輝きが、遠く空の境界を顕にして透明になる。
紺青の透ける闇が中天へ払われて、ゆっくりと星はまどろむように光かすんでいく。
広やかな暁を彩る雲は、薄紅に朱金に白熱と艶めいて、空にまばゆく浮かんだ。

「…きれいだ」

やわらかに心から吐息があふれた。
抱きしめてくれる隣が、やさしく微笑んでくれる。

「ああ。きれいだな、」

こんなふうに寄り添って、一緒に山の朝を見られた。
そしてこんなふうに、隣は嬉しそうに笑ってくれる。
そうして今、幸せがこんなに温かい。

幸せで、そして、愛している。




【歌詞引用:savage garden「truly madly deeply」】


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萬紅、仲暁act.1―another,side story「陽はまた昇る」

2011-11-21 22:55:01 | 陽はまた昇るanother,side story
ただひとつだけの想い、伝えたいのは唯ひとりだけ




萬紅、仲暁act.1―another,side story「陽はまた昇る」

車窓はまだ夜の底だった。
夜明け前の昏さが、そっと稜線をくるんで眠りこんでいる。
朝一番の車内も、まだ空いていた。

「いまの時期、夜明けが遅いからな」

宮田が微笑んで、マフラーを巻きながら教えてくれる。
誕生日に贈ってくれたマフラーは、夜明前の寒さにも温かい。
いつも優しい宮田、こんなふうにいつも気遣ってくれる。
やさしい心遣いが嬉しくて、周太は微笑んだ。

「ん、ありがとう。温かい」
「よかった、周太が温かいと俺、うれしいよ」

きれいな、やさしい笑顔。ほんとうに、愛している。

いつもこうして自分を温めてくれる。
愛する、やさしい穏やかな、きれいな笑顔。
いつもこんなふうに、周りの人へ、目の前の人へ、やさしく微笑んでいる。
そんなところが、ほんとうに好きだ。

そんな優しさが一層、山岳救助隊の任務へと、この隣を打込ませていく。
だから不安になる。一途な優しさが躊躇なく、危険な救助へと向かうことが。
この隣の優しい笑顔、どうか無事で、そうしてずっと隣に居てほしい。

どうか、自分が、この笑顔を守れますように。

そんな想いで周太は、そっと隣を振返った。
見ると隣は、胸ポケットに長い指を入れている。
長い指はiPodのイヤホンを取出すと、片方を周太に差し出してくれた。

「はい、周太」

すこし首を傾げて、周太は隣を見あげた。

「俺も持ってきているけど、」
「同じのを一緒に聴くと、うれしいから。だから片方ずつ」

言いながら、耳許へとイヤホンをセットしてくれた。
きれいな長い指先が、耳元に首筋にふれる。
その感触が昨夜のことを蘇らせて、熱が首筋から耳へと昇ってしまう。
きっともう赤くなっている。気恥ずかしさに周太は睫をそっと伏せた。

I'll be your dream I'll be your wish I'll be your fantasy I'll be your hope I'll be your love
Be everything that you need.…

iPodのイヤホンから、穏やかなあの曲が流れだした。
宮田専用の携帯着信音も、この曲になっている。だからいつも、この曲が流れる時は離れている時だった。
それをこんなふうに、ひとつのiPodから聞いている。
一緒に聴けると嬉しい、周太は微笑んだ。

「ん。なんだか、うれしいな」
「だろ?」

他愛ない話をしながら食べる、サンドイッチがおいしい。
缶のココアも、きちんと味がする。
ああいう夜の、翌朝は、いつも不思議なほど気怠い。でも今朝は楽だ。
なんでなのだろう、こういうことはよく解らない。

それどころか卒業式の翌朝は、何を口にしても味が無かった。
けれど次にこうなった、田中の通夜の翌朝は、きちんと味がした。
卒業式の翌朝と違って、あまり痛くは無かった。けれど、そのぶん気怠かった。
それからの朝は、痛みは減っていき気怠さが増している。

だから今朝はどれも楽なことは、周太には不思議だった。
何でなのだろう、けれどとても恥ずかしくて訊けない。
そう思いながらふと、周太は他の訊きたい事を思い出した。
パンの最後の欠片を飲みこんで、周太は唇を開いた。

「あのさ、一昨日のメールなんだけど」
「ああ、夜間捜索に入るときの?」
「そう、それ」

一昨日の夜、非番だった宮田は遭難救助の召集を受けた。
その時に宮田は、メールを送ってくれた。

From : 宮田
subject: 今から山に
本 文 : 遭難救助の召集が来た。道迷いの捜索、今からだとビバークになると思う。
      大丈夫、必ず俺は隣に帰るから。
      でもさ、話はちょっと、危ういかもしれない?

本文の最後の一行、よく意味が解らない。
周太は首を傾げながら、訊いてみた。

「文面にあった、“話題はちょっと危ういかもしれない”って、どういうことなんだ?」
「ビバークの時にさ、国村に訊かれる話題が、危ういなってこと」

訊いた周太に、笑って宮田は答えてくれる。
危うい話題なんてあるんだな、何気なく周太は訊いた。

「どんな話題なんだ?」

いつものように笑って、宮田は答えた。

「周太はね、全て俺が初体験だっていう話題」

いまなんていったのだろう?
そう思った途端「初体験」という言葉には、国村の言葉がイコールで結ばれた。

― 俺が訊いたのはね、キスとさ、ベッドの中ふたりでする “初めて” のことだけど?―

「…っ、」

どうしていつもそういうことばかりはなしするんだあのひと。

国村は嫌いじゃない、むしろ好きだと思う。
真直ぐで底抜けに明るい瞳は、暗さが全くなくて話しやすい。
実直で裏表のない宮田とは、良いパートナーだろうと思う。
この大切な隣にとって、とてもいい友人で山ヤ仲間でいてくれる。
文学青年風の繊細な風貌、けれど酒好きで豪胆な本性の国村。
そういうギャップも好きだけど、けれど。

けれどちょっとそういうはなしがすきすぎるんじゃない?

首筋もう、真っ赤になっている。恥ずかしくて仕方ない。
けれど、宮田はなんて、答えてくれたのだろう。
気になってしまって、周太は遠慮がちに訊いた。

「…訊かれて、なんて言ったんだ?」
「うん、俺?」

穏やかに微笑んで、宮田は言ってくれた。

「運命だから。て、言った」

運命 その言葉ことんと、心臓におちて響いた。
運命 それは、出会うべくして廻り会うこと。

ほんとうは思っていた、
自分と出会ったことで、この隣の運命を狂わせたんじゃないかと。

きれいな笑顔の、大切なこの隣。
きれいな笑顔に相応しい、幸せな運命があったはず。
それを自分の為に、捨てさせ壊させてしまった。そんな罪悪感がずっとある。

けれど「運命」と、この隣は言ってくれた。

自分たちのことを、運命と言ってくれるの?
出会うべきだったから出会った、そんなふうに言ってくれるの?

ほんとうに?

そんな想いが心あふれて、瞳から熱があふれてしまう。
そっと周太は唇を開いた。

「…そんなふうに、言ってくれたんだ」
「だって、そうだろ?」

見上げる瞳から零れかける涙を、隣は長い指でそっと拭ってくれた。
そして周太の瞳を真直ぐみつめて、きれいに笑って宮田は言った。

「周太の初めてが俺で、本当に嬉しくて、俺の幸せなんだ」

ほんとうに? そんな想いが切なくて、うれしい。
だって自分は本当は、この隣を、愛している。
そんな相手に、そう言われて。もう幸せが温かい。

名前で、呼びたい。

「…っ」

名前、声になって出てこない。
どうして呼べないのだろう、こんなに心では呼んでいるのに。
愛していると、心でこんなに告げている。けれどそれも言葉に声になってくれない。
昨夜だってもう何度も、呼びたかった、告げたかった。

それでもお願い、想いだけでも伝えたい。

両掌に温かいココアの缶が、ふっと周太の意識に映りこんだ。
父との幸福な記憶と言葉が、ほろ苦く甘い香に頬を撫でる。

「 周、大切な想いこそね、きちんとその時に言わないと駄目だよ?」
「そうなの?」
「ん、そう。だってね周、次いつ言えるか解らないだろう?だからね、その時を大切に、一生懸命に伝えてごらん」

ほんとうにそんなふうに、父はいつも生きていた。
そうして最期の瞬間まで大切にした、温かな想いだけを懸命に伝えて、きれいな想いだけを遺して死んでいった。
自分を殺害した男にも、自分のために復讐を願う男にも、そして息子の自分にも。

お父さん、今、すこし勇気を分けて。
父の記憶と想いと一緒に、ココアを周太は飲みこんだ。
飲みこんで息をつくと、唇はかすかに開いてくれた。

「…ゆうべ言ったとおり…くれる初めては全部うれしい…幸せだから」

隣を真直ぐに見つめて、周太は言った。
きっと顔も真っ赤になっている、けれど少しでも伝えられた。

「うん、」

頷いて宮田が、きれいに笑って言ってくれた。

「この先もさ、初めてがあるから」

この先も、初めて。
幸せに微笑んで、周太は頷いた。

「ん、」

この先も。 これから先ずっと、一緒だと言う約束。
初めて。 ふたりで一緒に経験を、積み重ねていく約束。
そんな優しい約束が、そっと心を温めてくれる。
ほんとうに、今、伝えられて良かった。そんな想いがどこか、すこしだけ強さに変わる。

繋いだiPodから、やさしい穏やかな曲が流れる。
やさしい静かな隣に座って、秋の長い夜に籠められる車窓を眺めていた。
この隣にいると、そっと心が安らいで、温かくて居心地が良い。
それはもうずっと、警察学校時代から感じていたこと。

安らかで温かくて、息をするたびごとに、この隣への想いが深くなる。
こんな隣に掴まえられている自分は、心から幸せだと思う。

けれど、どうして宮田も国村も、ああいう話が出来るんだろう。
そんなふうには周太は、夜の話などしたことが無い。
そういう機会も相手も居なかった。

気恥ずかしいけれど訊いてみようか、周太はそっと隣を見あげた。
見上げた先、言ってごらんと宮田は微笑んでくれる。
思いきって周太は口を開いた。

「…あのさ、ああいう話って、どういう流れで出来るものなんだ?」
「ビバークで国村と話していたこと?」
「ん、」

宮田は楽しそうに笑って、答えてくれた。

「うん、酒を呑むとさ、楽しい話題かな」
「そうなのか、」

頷きかけて、ふと周太は止まった。
いま「酒を呑むとき」って言わなかっただろうか?
けれど「ビバークで国村と話していたこと」と宮田は言っていた。
なんだか困った予感がする、けれど周太は訊いてみた。

「でもそれって、捜索の任務中の、ビバークだったんだろう?」

訊かれて、宮田は正直に笑った。

「そうだけど?」

そう、って。
だってそう、ってことは。
捜索任務中のビバーク中に酒を呑んで話していた。そういう事だろうか?
でも、それって、それじゃあ…呆気にとられて周太は言った。

「…任務中に酒、呑んだのか?!」

こんなに驚いて困って、こちらは訊いている。
けれど宮田は、きれいに笑って言った。

「仕方ないよ周太。山ではさ、山のルールで生きないと」

そう言って笑った宮田の顔が、なんだか眩しい。
山ヤとしての誇りと矜持が、そんな言葉もさらりと言わせている。
そんな雰囲気が、なんだか大人びた風貌に悪戯っ気が漂って、惹かれてしまう。

高級住宅街の世田谷で、不自由ない家庭に育った宮田。
そんな宮田が今は、奥多摩で山のルールで生きている。
そして宮田は、今の方がずっと良い顔になった。
人の運命は不思議だと、この隣を見ていると思う時がある。

そうして、その隣にいる自分の運命も、とても不思議だと思える。
冷たい現実に生きていた、けれど、この隣の運命に掴まれて、こんなに想いが温かい。
だから想ってしまう。不思議なままにずっと、想いの温かさに生きればいい。
たったひとつの想い、唯一人への想いに。

車窓の稜線が、かすかに明るんでラインを示しだす。
まだ日の出に間のある時間、けれど太陽の気配は空へと見えている。
穏やかに隣が微笑んで言ってくれた。

「天気良さそうだな、きっと夜は山荘で星がきれいだよ」

山荘に泊れる。もし晴れていたら、星の降る夜が見られるのだろう。
幼い頃の、父と母との幸せな記憶が蘇る。
もう二度と、そういう幸せは自分には無い。そんなふうに思っていた。
けれどきっと、この隣は今日、こうして約束を果たしてくれる。
うれしくて、周太は微笑んだ。

「ん、うれしいな。連れて行って山に」
「うん、連れていく。ほら周太、もうじき奥多摩駅に着くよ」

そんなふうに話して、奥多摩交番に6時過ぎに着いた。
登山計画書を出して、宮田は山岳救助隊副隊長の後藤と打ち合わせを始める。
9月の台風で崩落が起き、雲取山も何箇所か登山道が一般通行止めになっていた。
そして紅葉盛期を迎えた先日、いくつか林道が再開された。その巡視をしながら登山する。

周太は交番表から外を眺めて、宮田を待っていた。
そんな周太に、奥多摩交番勤務の畠中が声を掛けてくれた。

「奥多摩は初めてかい?」
「小さい頃に何度か、お邪魔させて頂きました」

あの頃が懐かしい、周太は微笑んで答えた。
あの頃はどの山に登ったのだろう。そう思っていると、畠中は何気なく周太に訊いた。

「ご家族が山好きなんだね、」

何気なく訊かれて、一瞬だけ周太は止まりそうになった。
山好きだったのは、殉職した父だった。

父の記憶へ向き合うことは、少し前までは辛くて。
だから父の記憶と一緒に、山のことも忘れていた。

けれど今はもう、きっと大丈夫。
だって宮田は真直ぐに、事件を見つめさせてくれた。微笑んで周太は答えた。

「はい、父が山好きでした」

畠中の目が少し大きくなった。きっと過去形で、周太が話した事に気がついたのだろう。
きっと優しい人なのだな。思いながら周太は笑って、言葉を続けた。

「父が山好きだったお蔭で、私は植物の名前を覚えられました。父には感謝しています」
「そうか、うん、俺もね、山の植物はちょっとだけ覚えているよ」

言って畠中が、やさしく微笑んでくれた。

「とても良いお父様なんだね、」

いつも笑って、夜には本を読んでくれて、山では植物を教えてくれた。
そうして最期まで、温かな想いのままに亡くなった父。
そんな父は自分の誇りだ、きれいに笑って周太は言った。

「はい、とても良い、自慢の父です」

そんなふうに畠中と話していると、後藤副隊長が笑いかけてくれた。

「日原は今、最高の錦繍の秋だぞ」
「うれしいです、」

山の秋が見られる、それも最高の。
13年間ずっと、山のことも木のことも、周太は忘れていた。
そんな自分を、山が待ってくれていたように思えて、温かい。
きれいに笑って、いつもの落着いた声で周太は答えた。

「そんな良い時に来させて貰えて、ありがたいです」
「そうか、ありがたいか」

嬉しそうに後藤は微笑むと、周太を見て言ってくれた。

「明日、下山したらまた寄ると良い。一杯おごってやろう」

後藤の目は温かくて、すこし寂しげだけれど明るい。
国村の底抜けの明るさとは違うけれど、暗さがない目はきれいだった。
こういう人と話せたら、きっと楽しいだろう。素直に周太は頷いた。

「はい、ありがとうございます」

奥多摩駅からバスに乗ると、空はだいぶ明るんでいた。
山の稜線あざやかな夜明けが、車窓に広がっていく。
本当に、山へ登ることが出来る。その想いは優しく寄り添ってくる。

父が殉職した13年前の瞬間から、父の記憶の全ては辛い現実を痛ませる傷になった。
山で過ごした、懐かしい父との記憶、幸福だったあの頃の時間。
それらも全て哀しくて、13年間ずっと山も木も忘れて生きていた。

けれど気がつくと、いつも周太は実家の庭に佇んでいた。
そしてあの公園を歩いて、ベンチで過ごす時間が安らげた。
あの庭は、山を好んだという祖父の趣向で、山の自然を写すよう造ってある。
あの公園のベンチの場所は、奥多摩の森を写した造園だという。

忘れたようで本当は、自分はずっと山を自然を求めていた。
だから今、こうして山へ来ていることが、心から嬉しくてならない。

終点でバスを降りると、宮田はクライマー時計の時刻を記録した。
クライマー時計は、父の生前にはまだ発達していない。
いつも宮田の左腕で見ていても、実際に使うのを見るのは周太は初めてだった。

「こうしてペースチェックをすると、帰路の時間調整が解るだろ?」
「あ、そういうことなんだ」

クライマーウォッチの機能を教えてもらいながら、静かに街道を歩く。
まだ朝早い集落は、それでも活気の気配が静かに漂っている。
紅葉シーズンで一般客も多いのだろう。
集落内の水場に着くと、宮田は水筒へ給水を始めた。
給水しながら、周太に笑いかけてくれる。

「周太、ひとくち飲んでごらん。うまいよ、」
「ん、」

素直に頷いて飲んでみる。
どこか懐かしい口当たりに、周太は微笑んだ。

「あ、水が軟らかいな」
「うまいだろ。この水もな、この先のブナ林が抱いた水なんだ」

木が水を抱く。
宮田がそう話すたび、どこか周太の心に響く。
そして、宮田が話してくれた、ブナの巨樹の物語を思い出す。

「周太、後藤副隊長と楽しそうだったね」
「あ、ん。話しやすかったな」

宮田が大切にするブナの木は、後藤副隊長から譲られたと聴いている。
さっき後藤と話して、そのブナの物語の主人公に相応しい。
そんなふうに周太も感じた。

「俺ね、後藤さんに言われたことがあるんだ」

歩きながら、宮田が話してくれる。

「大切な人がいる奴は救助隊員には向いている。
その人に会いたくって必ず生還しようとする。
その生きたいという救助隊員の気持が、遭難者をも救うんだ。そんなふうにね、教えてくれた」

そうかもしれないと周太も思う。
生死を分けるのは生きようとする意志、そう読んだことがある。
そう思い出す隣で、微笑みながら話を続けてくれる。

「だから俺さ、周太とは約束したいよ。
周太を想うほど、どんな現場からも俺は、生きて必ず帰ることが出来る。
周太との約束を大切に想う気持ちがね、生きたい意思になってさ、救助隊員として任務を全うできるだろ?」

名前、呼びたい。

「…っ、」

今このとき、名前を呼んで想いを告げて、気持ちに応えたい。
けれどやっぱり声にはならない、でも想いのかけらだけでも伝えたい。
周太は微笑んだ。

「ん、…約束、たくさんしたい」
「ああ、約束しような」

きれいに笑って、宮田が見つめてくれた。
こんな会話が出来ることが、周太はうれしかった。
こうして山へ来る約束をして、こんなふうに現実に出来る。
ありふれた事だと思う。けれど自分達には得難いことだから。

警察官は非常事態に向かう任務、それは自分も同じこと。
けれど宮田は山岳救助の現場にいる、そこでは年間40件を超える遭難事故が起きている。
その数はそのまま、宮田が危険に立つ回数になる。
警察官で山ヤであることは危険な日々、だから本当はいつも周太は不安でいる。
それでも、大切な隣の願いの通り、いつも笑って約束をしていたい。

林道に入ると宮田は、クリップボードにセットした登山地図を眺めて歩いた。
巡視任務の確認個所をチェックしながら歩いている。
都心で勤務する周太は、物珍しくて横から覗きこんだ。

「周太、興味あるんだ」
「ん。俺の業務とは全く違うから、おもしろいな」
「そうだな、でも折角の山だよ。景色もちゃんと楽しんでくれな」

言われて、その通りだと思った。
今日は山を楽しむために、この隣は周太を連れてきてくれた。

「あ、そうだな」

素直に頷いて周太は、登山道の脇をながれる渓流に目を遣った。
日原川だと聴いた流れは、碧い水の飛沫が、陽光に白く輝いている。
谷底でこだまする水音が、周太の耳まで届いて砕けていく。

 Five years have past;five summers,with the length Of five long winters!
 and again I hear
 These waters, rolling from their mountain-springs with a soft inland murmur.-Once again

 過ぎ去りし五年の月日 五つの長き冬と、同じく長き五つの夏は、諸共に過ぎ去りぬ
 そして再び、私に聴こえてくる 
 この水は再び廻り来て 陸深き処やわらかな囁きと共に 山の泉から流れだす

父の蔵書にあった「Wordsworth」の詩の一篇。
思いだして、そっと周太は呟いた。

「5年を13年にしたら…そのまま今の俺みたいだ、な」

13年間の冷たい孤独は、長い冬だった。今その孤独は終わり、この隣がいてくれる。
そして今、この自分の目前で奥多摩を流れる美しい水。この水が新宿へ廻り、再び自分の元へと辿りつく。
美しい自然この場所、そして想う人がいる場所と、自分がいる街を水が廻って繋げている。
なんだか嬉しくて、微笑んで周太は呟いた。

「この水が、新宿にも来るんだな」
「ああ、そうだな」

やさしい微笑みで、隣は見つめてくれる。

「ほら周太、川だけじゃなくて、周りも見てよ」
「ん、」

顔をあげた周太は、映りこんだ色彩に驚いた。

「…すごい、」

錦繍の秋が、周太を迎えていた。

ブナとミズナラの淡黄、落葉松の黄金、漆の透明な朱色、蔦の深い赤紫。
陽光に透ける真赤な紅葉、杉や檜の濃緑と黒い幹。
豊かな紅から黄色のあざやかな彩りと、濃緑から黒に深い森閑のコントラストに山は染まっていた。
梢ふる木洩日も、あわい赤から黄、緑と明滅して道を照らしだす。
日原の錦繍の秋は、光までも艶やかだった。

「うれしい、」

見あげて呟いた周太の声が、明るく微笑んだ。
こんなにたくさんの自然の色彩を、いちどきに見たのは久しぶりだった。
周太は隣へと笑いかけた。

「目の底まで、紅葉で染まりそうになる」
「ああ、きれいだろ?」

きれいな笑顔で、宮田が笑いかけてくれる。
この隣の笑顔が優しくて、うれしくて周太は微笑んだ。

「ん、…連れてきてくれて、ありがとう」

きれいに笑って、宮田が言ってくれた。

「俺のさ、一番好きな場所へ寄ってもいい?」

宮田の大切な、ブナの巨樹の事だろう。
本当に大切な場所だと、いつもの電話から解る。
連れて行きたいと言ってはくれたけれど、本当に良いのだろうか。
そっと周太は訊いてみた。

「ん、俺も、行っていいの?」

宮田は可笑しそうに笑った。
それから周太の瞳を覗きこむように、やさしく言ってくれた。

「周太だけをさ、連れて行きたいから」
「…そういうふうに言われると恥ずかしいけど…うれしい」

ほんとうに嬉しい、恥ずかしいけれど。
それでもやっぱり嬉しくて、周太は気恥ずかしげ微笑んだ。
ちらっと登山地図を確認して、宮田は笑いかけてくれる。

「ちょっと歩くけど、連れていくな」

分岐点から右の尾根へ入ると、すこし急斜になる。
ブナ林の黄葉が光をおとし、陽に透けた黄色が美しい。
頬を撫でる樹木の香は、ブナの香なのだろう。そう見上げる周太に、宮田が声をかけてくれた。

「ここへと、入っていくから」

指さしたのは、木々の隙間のようなところだった。
言われてみれば、かすかに道の跡らしきものがある。
不思議な小道に思えて、そっと周太は訊いてみた。

「…ここ、道なのか?」
「うん、ほら周太、おいで?」

長い指の掌が周太の手をとって、樹間の道へと誘ってくれた。
手を惹かれるままに入った道は細く、落葉ふりつもる香が濃い。
消えかけた道は、不思議な森の通路のように思えてくる。
ふたりの落葉踏む音だけが、静かな山の空気にとこだました。

「もう、着くよ」
「ん、」

狭まって並んだ樹間から急に、あわい色彩の空間が拓けた。

「…あ、」

やわらかな草が覆った地面は、枯葉色あわい絨毯のようだった。
切株を2つ、倒木を1つ通り抜ける向こう側、木洩陽が広やかに照らし出す。
見上げると、黄金豊かな梢を戴いた、ブナの巨樹が佇んでいた。

「…きれいだ、」

そっと周太の唇から、吐息がこぼれる。
こんなブナを見たのは初めてだった。

静かに佇むブナの巨樹。
沈黙して何も語らない。けれど、その根には山の水を抱いている。
大きな包容力を秘めた、豊かな繁れる梢は空を抱いている。
あわく濃く、くすむ黄金に陽光輝いて、戴冠の梢に聳える大きな木。

静かな風が梢をゆらして渡っていく。風のたびにゆれる木洩陽が、きれいだった。
見上げたまま、そっと周太は呟いた。

「ここが宮田の、好きな場所なんだ」
「ああ、」

静かに頷いて、隣で微笑んでくれる。
誰かの大切な場所に、連れてきてもらうこと。周太には初めてだった。
こういうのは気恥ずかしいけれど、やっぱり嬉しい。
そんな想いに周太も笑った。

「連れてきてくれて嬉しい、ありがとう」

きれいに笑って宮田が、静かに頷いてくれる。
宮田はそっとブナの幹に掌をあてると、周太に笑いかけてくれた。

「触れてみろよ、木の温もりが伝わると思う。それと、耳を幹へつけると、かすかだけど水音が聴ける」
「こう?」

周太は掌で幹にふれた。
それから耳を幹へとつけて、そっと瞳を閉じる。
樹幹の深いところから、かすかに何かが磨れあうような音が聴こえた。

「…ん。さぁっ、て聞こえるな」
「だろ?人間でいうと、血流の鼓動と同じなんだ」
「…そうか、…そうだな、すごいな…」

これがブナの水音なんだ。
静かに呼吸も整えながら、周太は幹に寄り添った。
穏やかな鼓動のように、すこしずつ水音が顕れてくれる。

「…ん、水音がはっきりしてくる」

周太の呟きに、きれいな低い声が穏やかに答えてくれる。

「聴いていると、耳が馴れるんだ」
「…ん、そうか、」

耳を澄ますほど、ブナの水音は輪郭を明らかにしてくる。
ああこの木は本当に、水を抱いて立っている。
そんな実感が耳元から、穏やかに広がって充ちていく。

とても不思議な音、ブナの水音。
ささやき声のように、鼓動のように、奥深くからノックするように響く。
樹木は、ただ黙っていると周太は思っていた。
けれどそうでないのだと、このブナの木は語りかけてくる。

ふっと気付くと、宮田の気配がひそめられている。
静かに瞳をあけると隣は、いつのまにか根元に座りこんでいた。
幹に凭れ片胡坐に寛いで、ぼんやりと切株を見つめている。
その視線を追った切株には、新芽の出る気配が見て取れた。
この芽を見つめているんだな。すこし微笑んで周太は、そっと隣を眺めた。

端正な横顔は大人びて、穏やかに深い。
枯葉色とブナの黄金の下、紅深いボルドーの登山ウェアが鮮やかだった。
黄金の木洩陽が白皙の頬にゆれ、きれいな髪に照り映える。
白皙の肌に、深紅と黄金と黒髪のコントラストが、きれいだった。

渋めの黄色にそまる梢から、やわらかな光がふりかかる。
午前中の明るい陽だまりは、森閑として穏やかだった。谷川の水の香が、時折の風にふれてくる。
ちいさな草地に横たわる、倒木をおおう淡い苔が光に瑞々しい。

あわい色彩の光の中、白皙と深紅と黒髪の鮮やかに端正な姿がきれいだった。
こんなに隣はきれいだ、そう思うと不思議に周太は思える。
こんなにきれいな存在が、どうして自分に想いをかけてしまったのだろう。
こうして見つめていると、ひどく大それたことのように思えてしまう。

けれどもう、自分はたった一つの想いを、この隣に掛けてしまっている。
代りなんてどこにもない、ただ一人への、唯一つの想い。
その想いをかけて、一昨日からもうずっと、心で名前を呼んでいる。

…英二、

呼びたい名前、けれど声にならない。
こんなに心で呼んでいる、想っている、それでも声は出てくれない。

愛してる。
この大切な隣、ただひとつの、この想い。
すぐ隣で静かに、大切な隣の姿を見つめていたい。

そのまま静かに座ると、周太はブナの幹へと頬寄せた。
きれいな横顔を見つめて、それからそっと瞳を閉じた。
閉じた瞳のなかで、きれいな横顔の残像が温かい。
その耳の奥へと、ブナの水音がしずかな響を届けてくれる。

…英二、

心にそっと呟いた名前が、温かい。不思議な想いにひたされる、静かに周太は微笑んだ。
愛する横顔の残像を見つめて、周太は水音を聴いた。

穏やかな時間が、ゆっくりと黄葉の木蔭をめぐる。
すぐ隣に佇む、静かで穏やかで、無言でも温かい居心地。
切なくて温かくて、それでも幸せで。周太の瞳から一滴、静かに頬をつたっておちた。
こぼれた涙は静かにそっと、ブナの根元へ浸みこんだ。

…英二、

名前、呼べない。
けれどもう、こんなに呼びたいと願っている。

…ほんとうは、愛している

もうこんなに想っている、それでも出ない言葉。
言葉が出ない、想いを告げられない。だから心だけでも、呟かせて。

周太はゆっくりと睫をひらいた。
見開いた瞳を、きれいな笑顔が見つめてくれている。
こうして見ていてくれた、嬉しくて周太は微笑んだ。

「ここに連れてきてくれて、ありがとう」

ほんとうに嬉しい、大切な場所へ連れてきてくれて。
そんな想いの真中で、きれいな笑顔で宮田が笑って、言ってくれた。

「好きな場所にさ、好きな人を佇ませて、眺められたら幸せだろ?」
「…そういうこと言われると恥ずかしくなるから…」

嬉しいけれど恥ずかしい、呟いて周太は視線を落としてしまった。
首筋が熱くなってくる、きっと赤くなっている。
気恥ずかしくて、顔を上げられない。
そう困っている周太に、きれいな低い声が静かに言った。

「名前で呼んでくれないの?」
「…え、」

思わず周太は隣を見あげた。
一昨日からもう、ずっと自分が想っていること。
心が伝わってしまったのだろうか。
不思議で見つめる隣は、きれいに微笑んで言ってくれた。

「俺のこと、名前で呼んでよ」

名前、呼びたい。
ほんとうは、きっと、もうずっと前から呼びたかった。
そうしてもっと近づいて、特別な存在になれたら。

きれいに笑って隣が、ねだってくれる。

「英二、って呼んで」

名前、呼びたい。
でも、呼べないでいる。
それが哀しくて本当は、一昨日からずっと涙が止まらない。
どうしたらいいの?困ったままに周太の唇が動いた。

「…そういうの、慣れてなくて…名前で呼ぶとか、無かったから」

気恥ずかしい、けれど隣を見つめてしまう。
だってほんとうはもう、こんなに想いが深いのだから。

いつものように微笑んで、宮田は訊いてくれる。

「じゃあ、それも “初めて” なんだ?」
「…ん、そう、だな」

そう、これも初めてのこと。
だからどうしていいのか、解らないでいる。
途惑っている周太を、覗き込むように宮田が微笑みかけた。

「その“初めて”も俺にしてよ、周太。名前で、英二って呼んでよ」
「初めて…?」

恥ずかしい、でもこんなふうに言われたら。
だってもうほんとうは、こんなに想っている。
周太の瞳を見つめたまま、宮田が微笑んだ。

「わがまま訊いてよ、周太。ずっと俺の名前を呼んで?」
「わがままを、ずっと?」

わがまま。周太は少し頭を傾げて、隣を見つめた。
この隣の求めてくれる、わがまま。
どれも出来るなら、自分が叶えてしまいたい。
思っている周太を見つめて、きれいに宮田が笑った。

「そう、ずっと名前で呼んでもらう、わがまま」
「…ん、」

名前、呼びたい。
ほんとうは、きっと、もうずっと前から、呼びたかった。
そうしてもっと近づいて、特別な存在になっていきたい。
そのことをもう、この隣だってこんなに願ってくれている。

周太はそっと、ひとつ息を吸った。

どうか、唇きちんと動いて。
どうか、声もきちんと出てきて。

そう願いながら周太は、隣を見あげて唇をひらいた。

「…英二?」

英二を見つめて、呼んで、きれいに周太が笑った。

やっと名前、呼べた。
うれしくて、幸せで、周太は微笑んだ。

微笑んだ想いのまんなかで、きれいに英二が笑って、名前を呼んでくれる。

「周太、」
「…ん、なに?英二」

呼ばれて呼んで、気恥ずかしくて甘やかで。
気恥ずかしさに頬赤くなる、けれど幸せが温かい
見上げた隣が微笑んで、周太を見つめた。

「大好きだ、」

名前を呼んだ唇に、そっと英二が口づけた。
しずかに離れて、見つめられて周太は、きれいに笑った。
自分も想いに応えたい、そっと唇を周太はひらいた。

「英二、…俺も、大好きだから」

素直な言葉が告げられて、うれしい。
でもほんとうは、もっと深い想いがある。
それだってほんとうは、告げられたらいのに。

きれいに笑って、英二は言ってくれる。

「知ってるよ、でも俺の方がもっと好きだ」

笑って英二が、また口づけてくれた。
寄せられる唇がうれしくて、けれど伝えられない想いが哀しくて。
震えだしそうな周太の唇に、英二が深く重ねてくる。
静かな時間けれど熱い、ふれあう温もりが愛しい。この隣に、ずっといたい。

静かに離れて、きれいな切長い瞳を見つめた。
黄葉の木洩陽の下で、大人びた白皙の頬がきれいだった。
見つめたままの周太に、そっと英二が言った。

「周太から、キスしてよ」

顔も首筋も熱くなる。
どうしよう、そんなこと、どうやってすればいいの?
途惑ってしまう、けれど願いは叶えてあげたい。

「まだ、一度もしてもらったこと、無いんだけど?」

そう、まだ無い。
だってそういうのは、どうすればいいのか解らない。

でもほんとうは、一度だけ、夢のなかで、したことがある。
田中の葬儀の朝、この隣に眠った明方の夢。

夢のなかで、「好き、」て、言えた。
想いを伝えられたことが、うれしくて。
うれしくて幸せで、きれいな端正な唇へと、キスをした。
後で思いだした時、あんまり幸せな夢で、気恥ずかしくて、うれしかった。

だから本当はずっと想っていた。
あんなふうに自分から、想いを告げて、キスが出来たらいいのに。

きれいな切長い目に、瞳を見つめられている。
きれいな低い声は、静かな口調でねだってくれる。

「ほんとうは、俺、ずっと待っていたんだけど。わがまま訊いてよ、周太」

わがまま。この隣の願いなら、わがままなら、訊いてあげたい。
呟くように周太は訊いてみた。

「…わがまま?」
「そう、わがまま。俺のわがまま訊いてよ、周太」

わがまま、訊いてあげたい。
だってもう、本当は自分は、この隣を愛している。
たった一人への唯一つの想い。だから本当はもう、何だって出来ると想う。

「名前で呼んで、キスして」

気恥ずかしい、けれど叶えたい。
だって本当はもう、とっくに決めている。この隣の為になら、自分は何だってできる。
それが自分の想いを、伝えられる術になるのなら、出来ないわけがない。

そっと息を吸って、周太は愛する名前を呼んだ。

「…えいじ、」

呼んで、瞳を近寄せて、真直ぐに見つめて見返して。
それでもやっぱり、唇がふるえてしまう。
見つめる想いの真中で、きれいな笑顔が周太に願いを告げた。

「笑顔を見せて。俺の名前を呼んで、キスして」

求めてもらっている。
そんな幸せに微笑んで、きれいに周太は笑った。

「英二、」

ゆるやかに周太は、英二へと、穏やかに唇を重ねた。

ふれる熱が、あたたかい。
ふれる温もりが、しあわせに微笑ませる。
重ねただけのキス。けれど、こんなに温かで穏やかで熱くて、愛しい。

愛している、もうずっと

よりそった唇を、周太はそっと静かに離した。
今ふれあっていた唇が、穏やかに熱い。
気恥ずかしいけれど幸せで、想いを確かめたくて。
きれいに笑って周太は、愛する名前を呼んだ。

「英二、」

見つめる想いのまんなかの、きれいな笑顔。
どうかずっと、きれいなままで笑っていて。

冷たい孤独から、自分を救ってくれた。
壊され失っていた、自分の笑顔を与えてくれた。
殉職の枷に繋がれた、父も母も全て救って、真実と想いを示してくれた。
そうして約束してくれた、もう離さないと隣にいると。

愛している、もうずっと。
たった一つのこの想い、誰も代りなんていない唯一つの想い。
だから願ってしまう祈ってしまう。
どうかこの大切な、きれいな笑顔を守らせて。

愛しい笑顔が、きれいに笑って言ってくれる。

「周太のキス、すげえよかったんだけど」

顔が熱くなる気恥ずかしい、それでも周太は隣を見上げた。
よかった、ならうれしい。
訊いてみたくて、消えそうな小さな声で、周太は呟いた。

「…ほんと?」
「ほんとのほんと」

本当なら、うれしい、周太はほっと吐息をついた。

「…よかった」

安心した溜息が零れて、周太は微笑んだ。
周太の顔を覗きこむように、英二が笑いかけてくれる。

「おいで、」

長い腕が伸ばされて、体がそっと抱きしめられる。
髪に顔が埋められる、髪を透す吐息が熱くて、抱きしめられる温もりが幸せだった。
瞳を見つめられて、唇を重ねてくれる。
静かに重ねて離して、瞳を覗きこまれて周太は、きれいに笑った英二に告げられた。

「愛している、」

いま、なんて、いってくれたの?

愛している、そう聴こえた。一昨日からずっと、自分の心を廻る想い。
それと同じ想いを、この隣も抱いてくれると言うの?

もし、本当に、そうなら、うれしい。

想いが心から瞳へ漲って、熱が頬こぼれて雫がおりる。
そっと周太は呟いた。

「…俺で、いいのか」

きれいな笑顔で、真直ぐ見つめて、英二が言った。

「周太だから、愛している、」

うれしい、うれしくて幸せで、微笑んでしまう。
周太の黒目がちの瞳が、きれいに笑った。

どうか唇きちんと動いて。
どうか声きちんと出てきて。

真直ぐに見つめて周太は、英二に想いを告げた。

「…英二だから、愛している」

ああ、やっと、言えた。

言えたことがうれしい、伝えられてうれしい。
もう今、想いをすべて伝えておきたい。次なんて解らない、だから。

だから、唇、声、お願いどうか。

周太は微笑んで、きれいに笑って、想いを英二に告げた。

「もう、ずっと、愛しているんだ…言えなかったけれど、本当はもうずっと、愛している」

そう、もう、愛している。
だからもう、何だってできる、あなたの為に。

きれいな笑顔から、涙のしずくが零れて微笑む。
きれいに笑って周太は言った。

「愛している、英二」

切長い目から、涙がこぼれた。
見つめる想いの真中で、英二の目から熱があふれていく。

自分はもう、この隣を愛してしまった。そして自分はもう、この隣に愛されている。
大切なこの場所で、大切なひとと告げあって、大切な想いにおちる。

周太の瞳を見つめて、きれいに笑って英二が言ってくれた。

「きっと、俺の方がたくさん愛している」

そんなふうに言われて、うれしい。
言ってくれた端正な顔を、周太は微笑んで見つめた。
見つめていれば幸せで、今の瞬間が永遠になると思ってしまう。
これからきっと、ずっとこうして、隣で見つめていくのだろう。

見つめ合って、ふたりはお互いから、キスをした。


倒木に並んで腰掛けて、ブナの木を見あげていた。
あわい木洩陽の光が、ゆるやかに温かくふりかかる。
森と山の香が、やわらかく頬を撫でて、あたりの空気にとけていく。
この場所は好きだ、そしてこのブナの木は、本当にきれいだと思える。
静かに周太は呟いた。

「こんなふうに、静かに穏やかに、生きられたらいいね」
「俺もね、いつも、そう思って見あげるよ」

そんなふうに隣も、微笑んで言ってくれる。
誰にも知られず静かに、水を蓄える包容力を抱いて、ブナは佇んでいる。
そんなふうに、英二の隣で生きていけたらいいのに。
そんな事を思いながら見上げていると、長い指がリンゴを半分差し出してくれた。

「はい、周太」
「ん、ありがとう」

いま英二が素手で割ってくれた、半分ずつのリンゴ。
こういうふうに、1つを分け合うことも、周太にとっては英二が初めてだった。
そっとかじると、さわやかな香が唇から零れる。
甘酸っぱい果汁が、なんだか甘くて気恥ずかしい。

「山頂まではあと、3時間ほど歩くんだ。ちょうどいいおやつだろ」

隣で英二が、きれいに笑いかけてくれる。
そうだねと頷きながら、周太は英二の笑顔を見つめて微笑んだ。
この笑顔、どうか自分に守らせて。
そんな祈りをずっときっと、自分は抱いて生きていく。



(to be continued)

【歌詞引用:savage garden「truly madly deeply」詩文引用:William Wordsworth「Wordsworth詩集」】


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