祈り、時の重なり
第64話 富岳act.3―another,side story「陽はまた昇る」
吉村の病院は3月以来、約半年ぶりの来訪になる。
あのとき白銀の凍った木立も今、繁れる青葉の木洩陽まぶしい。
すっかり季節が動いた、その間に自分の中でも幾つ動いたのだろう?
―初任総合があって英二と向きあって、光一と英二の関係も…異動もあった、でも大学に行けるようになった、
哀しかった記憶、緊張してゆく時間、それでも与えられる喜びを数える。
けれどこの場所に来れば雪崩の時が、あの哀しみも不安も、そして迎えた朝の喜びが泣きたいほど愛しい。
―…俺は君を愛している、俺だけのものでいてほしい。ずっと君にだけ跪きたい、君だけには奴隷になってしまう
ずっと傍にいて守りたい。君の愛情に縛られて君だけを見ていたい、その為なら俺は何でも出来るよ?みっともないけどね、
雪崩で受傷した英二が目覚めて告げてくれた、あの言葉が懐かしい。
あのときの想いは少し変化してしまった、そんな過去と現実の温度差が傷んで哀しくなる。
―もう英二が見ているのは俺だけじゃない、でも、それだって俺が望んだ事なんだから…必要なことだから、
自分だけを見ていたいと3月は言ってくれた、けれど今は光一のことも見つめている。
それで構わない、もし英二が自分しか見ていなければ「万が一」のときが心配だからそれで良い。
そう解っているのに哀しくて、それでも泣くことはもうしない。ただ真直ぐ前を見つめて行くべき場所に進んで生きていたい。
どんなに幸せな過去でも縋りたくない、ただ「今」とそれからを歩きたい。
そんな想い微笑んで医院の入口を潜り、半年ぶりの廊下を進んでいく。
8月の午前中、明るい窓に光あふれて廊下の隅まで照らしてくれる。
すれ違う人の多さに驚きながらも話し声から納得してしまう。
―やっぱり吉村先生も雅人先生もすごく評判が良いね、
行き交う笑顔の会話が二人の医師が優れていると教えてくれる。
それが嬉しくなりながら歩いて、初めて立ち寄る受付で声をかけると事務の女性が微笑んでくれた。
「大先生から伺っています、こちらへどうぞ、」
―おおせんせい、って吉村先生のことかな?
気さくに立ってくれたシャツ姿に着いて行きながら、初めて聞いた呼び名が気になる。
その名付けの意味を考えながら周太は質問してみた。
「あの、ここでは大先生って吉村先生を呼んでいるんですか?」
「はい、そうです。先生って大きい感じするし、年長の方に『大』ってつけるから、」
明るい笑顔は頷いて、あわい日焼けの頬ほころばす。
そして優しい声は可笑しそうに教えてくれた。
「お二人とも同じ吉村先生でしょう?院長先生って呼ぶのも現職と元で被っちゃうの。だから雅人先生と大先生ってお呼びしています。
病院の外だとお父様の方が吉村先生として有名だけど、今ここでは雅人先生がメインの吉村院長で大先生がサポート役だから呼び分けてるの、」
朗らかなトーンでの答え、けれど雅人への気遣いが温かい。
まだ四十の若い院長が抱いているプレッシャーとプライドを想いながら、周太は正直な気持ちに微笑んだ。
「雅人先生は僕、一度ご挨拶したことがあるんです。かっこいい方だなって思いました、」
父親の吉村医師と面差しは似ている、けれど真逆の内面的引力が雅人から思われた。
それは何となく英二とも似ている?そんな感想と微笑んだ周太にパンツ姿の彼女は嬉しそうに頷いた。
「はいっ、雅人先生はカッコいい方です、」
弾んだトーンが笑ってくれる、その明るさに大好きな友達を想いだす。
きっと同じ感情を彼女も雅人に抱いている、それが何だか嬉しくて笑いかけた先で扉が開いた。
「はい?呼びましたか?」
穏やかな深い声が笑って白衣姿が廊下に出てくれる。
その笑顔に振りむいた彼女の貌は、耳が赤くなりながら丁寧に微笑んだ。
「はい、湯原さんをお連れしました、」
「ありがとうございます、久しぶりですね?」
向けてくれる若々しい笑顔が吉村医師の俤と似て、けれどやっぱり違う。
顔は似ているけれど雰囲気は雅樹の方が父親似なのかな?そんな感想と周太は頭を下げた。
「ご無沙汰しています、今日は急に申し訳ありません、」
「いや、謝らなくって大丈夫だよ?朝一の患者さんは診終ったところだから、」
可笑しそうに笑って雅人は部屋へと招じ入れてくれる。
一緒に入りながら廊下のシャツ姿へ頭下げると彼女も微笑んでくれた。
瑞々しい笑顔は少し羞みを隠しても明るい、その空気に好感を想いながら部屋に入ると白衣姿が笑いだした。
「湯原くん、今、私の噂話とかしてました?」
「え、」
途惑って見上げた先、悪戯っ子な目が笑う。
ちょっと予想外の眼差しに途惑いながらも正直に応えた。
「はい、あの、雅人先生ってカッコいいですって話してました、」
こんなこと本人に言うのって気恥ずかしいな?
その含羞が首筋を熱く昇りだす、じき耳まで赤くなるかもしれない。
まだ二回目の対面でこんなのは行儀が悪い、こんな状況に困っていると快活な声が笑った。
「ありがとう、俺って今もカッコいいんだ?まだ枯れて無いみたいで自信が持てますね、」
今、この台詞この真面目そうな医師が言ったのかな?
そんな独り言に途惑って見つめてしまう。
また意外で瞳ひとつ瞬いた周太に、愉しげな笑顔は応接椅子を勧めてくれた。
「座って下さい、茶と父から言われた資料を出しますから、」
気さくに微笑んで雅人は踵返すと、院長室の流し台に立ってくれる。
慣れた手つきで茶筒を出す背中を見ながら周太は提案と一緒に立ちあがった。
「あの、良かったら僕にお茶を淹れさせて下さい。今日は色々とお世話になりますし、患者さんも多くてお忙しいでしょうから、」
「お、嬉しいな、お願い出来るかな?」
素直に笑って茶筒を渡してくれる伸びやかさが吉村医師と違う。
やっぱり顔立ちは似ているほどには性格は似ず、幾らか違うらしい。
そんな納得と茶の支度を始めた隣から、明るく穏やかな声が訊いてくれた。
「湯原くん、患者が多いってどうして思った?」
「あ、…廊下や待合室で話している人が大勢いらしたので、」
見たまま思ったままを答えた周太に、穏やかな瞳が愉快に微笑んだ。
なにか自分は変なことを言ってしまった?その疑問へと雅人医師は書類を出しながら教えてくれた。
「あの人たち、ココを寄合所かカフェだと思ってるんですよ?診察がついででお喋りするのがメインなんです、もう皆さんメイン中なんだ、」
病院が茶話会場になっている、そんな現場に驚かされる。
ちょっと自分が育った環境では考えられない、けれど楽しくて周太は微笑んだ。
「なんだか楽しそうですね、そういうの、」
「だろう?俺もソウイウの楽しいからさ、」
くだけた口調で答えてくれる、その笑顔が寛いでいる。
初対面の時は生真面目そうな印象だった、けれどこんな笑顔は愛嬌が深い。
これが雅人の素顔なのだろうか?そんな思案めぐらせながら急須の茶を注ぐと清しい湯気が昇った。
―佳い香…お茶って良いな、
ほっと独り言に想う言葉に実家の茶室が慕わしい。
葉月の今は風炉の季、ときおり母は独りでも茶を点てるのだろうか?
座敷続きのテラスには芙蓉の花ゆれている?朝顔の棚は今年も満開だろうか?
―帰りたい…お父さん、お盆のお墓参りも行けなくてごめんなさい、
八月一日に異動してから2日続きの休みが無い。
たまの休みも大学で聴講の日だから実家に帰る暇が無い、そんな多忙に寂しくなる。
それでも、母とも相談して大学での勉強を選んだ以上はもう、弱音を言う暇こそ無い。
それに父も、きっと祖父や祖母達も自分が学ぶことを喜んでくれている。
―お祖父さん、俺が勉強すること喜んでくれてるよね…だからあの小説だって俺の所に来たんでしょう?
“Je te donne la recherche”
祖父の遺作小説に記されたメッセージには“recherche”が遣われる。
それは「探し物」または「研究」を意味する言葉、そのどちらにしても自分へ向ける言葉だと信じている。
そう想えることが幸せで誇らしい、この祈るような信頼に微笑んで周太は湯呑ふたつ盆に載せて運んだ。
ふたり応接テーブルに向きあい茶を啜る、その一口目で雅人の明るい笑顔ほころんだ。
「美味い、湯原くん本当に茶を淹れるの巧いんだ、父が言ってた通りです、」
「良かった、でもなんか恥ずかしいです、」
素直に微笑んで答えながら、ちょっと気恥ずかしくなる。
どんなふう吉村医師は言ってくれてるのだろう?つい気になりながらも周太は湯呑を置くと口開いた。
「雅人先生、今日ここにお伺いしたのは、銃創の手当て以外にもお願いがあるんです、」
言った視線の先、穏やかで若々しい貌が真直ぐ見つめてくれる。
聡い瞳が向ける眼差しを受けとめたまま、周太は依頼に微笑んだ。
「僕の心肺機能の検査をお願いしたいんです、どこまでの高地に耐えられるか内緒で調べて頂けませんか?今日はご相談だけでもと来ました、」
内緒で調べてほしい、自分の体の欠陥を。
その依頼に見つめる真中で深い瞳ひとつ瞬いて、穏やかな声が尋ねてくれた。
「内緒というのは、私の父にも内密で検査したいという事ですか?」
「はい、警察関係者には一切知られたくありません、」
迷いなく応えた先、大きな手が湯呑を卓上へ戻す。
その両掌を軽く組ませて膝に置くと、父親とそっくりの姿勢になって医師は問いかけた。
「疑われる身体的問題が警察官としての任務に障害となる、そう湯原くんは思ってるんですね?」
「はい、僕の場合は少し、」
頷いて真直ぐ見つめる眼差しに聡い目が問うてくる。
その問いかけへ周太は素直に口を開いた。
「7月に宮田が高所適性の検査を幾つか受けました、その内容を聴いて僕も同じ検査を受けた事があると思い出したんです。
その検査を受けた後から父は山に連れて行ってくれても僕を森林限界から上に登らせなくなりました、その正確な理由と体を把握したいです。
吉村先生にご相談をとも考えました、でも警察医の御立場では僕の体質を警察に隠す事は出来ません、だから無理を承知で今お願いしてます、」
自分の体にある現実を正確に把握したい、けれど警察組織に今それを知られたくない。
もしも心肺機能に先天的欠陥が見つかり高度障害の危険度が問題になれば、あの部署に行けなくなる。
―けれどここでお父さんの跡を追えなかったら、終らせられなかったら一生後悔する、
きっと後悔する、それだけは嫌だ。
だからこそ自分の身体的事情を正確に知っておきたい。
その意志に見つめる周太へと若い院長は穏やかに問いかけた。
「もし体に問題があっても君は、今、上司に報告するつもりは無いんだね?」
身体的瑕疵を知りながら報告しない、それがどんな結果になるのか?
そう幾度も考えて今日ここへ来た、その覚悟のまま周太は頷き頭を下げた。
「はい、報告しません。だから雅人先生しか頼れるお医者はいないんです、お願いします、」
こんなこと無理な依頼だと解っている。
司法の警察官が規則違反を承知で自身の身体的瑕疵を隠す、それは暴かれたら問題になる。
その協力を仰がれて断らない医師など普通は無い、それどころか通報されて文句が言えないのが当然だ。
そう全てを承知しながらも、それでも自分はこの医師なら託せると信じた。その信頼に穏やかな声が尋ねた。
「理由を訊かせてもらっても良いかな?なぜ俺を信頼して頼るのか、なぜ体を犠牲にしても警察官で居たいのか、教えてくれる?」
「はい、亡くなった父の為です、」
短い言葉の即答に、若い院長の瞳かすかに瞠かられる。
まだ雅人には何も話していない、それでも一言で理解してもらえる可能性がある。
―だって雅人先生は俺と同じだから、きっと解ってくれる、
雅人医師は、早逝した弟の代わりに医学を志した。
亡くした大切な存在の代わりに人生を捧げたい、その想いは自分も雅人も同じだろう。
そして雅人なら独り秘密を抱く懐も深い、そう見込んだ想いの真中で聡い瞳は微笑んだ。
「そう言われたら俺は全面降伏だよ、君に協力させてもらいます、」
もうこれで良いの?
そんな想いに拍子抜けしてしまう、これでは安易すぎないだろうか?
もう少し説明をする所だと予想していたのに雅人は呑んでしまった?
こんな意外に途惑ってしまう前、可笑しそうに悪戯っ子の瞳が微笑んだ。
「予想外って顔してるな、俺がもうちょっと理由を訊いてくるって思ったんだろ?」
「あ…はい、」
素直に頷いて首傾げた周太に若々しい笑顔ほころばせてくれる。
その口許へ湯呑を運び啜りこんで、ひとつ息吐くと悪戯で聡い瞳は笑ってくれた。
「生真面目で温厚な人間が規則破りするなんてさ、余程の理由と目的がある時だけだ。それに亡くなった親を出されたら相当だろ?」
軽やかな声が言って茶を啜りこむ。
そんな仕草もどこか大らかな医師は周太を見、しみいる様に微笑んだ。
「心配しなくて良いよ、俺は生真面目で温厚な人間については良く知ってるから。弟と君はちょっと似てる、」
「僕と雅樹さんが?」
あの美しい山ヤの医学生と自分と、どこが似ているのだろう?
全く共通点を見いだせないできる周太に明朗な笑顔は教えてくれた。
「貌とか全く似ていないよ、だけど生真面目で穏やかで優しくってさ、凛とした雰囲気が似てるんだ。背負うものがあっても明るいとことかね、」
背負うものがあっても。
この言葉に2つながら気になってしまう。
その意味ふたつを聴きたいけれど訊けない、そんな想いの前から穏やかな声が微笑んだ。
「じゃあ、銃創の勉強前に検査しようか?俺の上司が帰ってくる前にさ、」
俺の上司、そんなふう実父を呼んだ瞳は慕わしげで温かい。
(to be continued)
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