萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

萬紅、初暁act.3―another,side story「陽はまた昇る」

2011-11-20 20:25:07 | 陽はまた昇るanother,side story
※後半1/2R18(露骨な表現はありませんが念の為)

声にできなくても、想いは、





萬紅、初暁act.3―another,side story「陽はまた昇る」

ビジネスホテルに、宮田がチェックインしてくれる。
明日朝一の電車で、奥多摩交番での打合せに向かう。そんな理由で一緒に泊ることにしてくれた。
けれど本当は、宮田は泊る必要は無い。青梅警察署独身寮は駅から近かった。
それでもいつも、こうして一緒の時間を作ってくれる。

「だってさ、周太と一緒に俺、居たいよ?」
「…ん、ありがとう」

そんなふうに話しながら部屋に入った。
さっき一人で部屋に着いたときと、こうして一緒では違う。
一緒っていいな。そんなふうに周太は微笑んで、宮田に訊いた。

「あのさ、夕飯、すぐ食べるよね?」
「うん、俺、腹減ってるんだ」

宮田は最近よく食べる。
調理器具が無くて、用意できたのは軽い食事ばかり。
あれで満足してもらえるだろうか?すこし不安にもなる。
でも今の自分で出来る、精一杯を示せたらいい。

「そう、」

呟くと、周太は冷蔵庫から皿を取出した。
ラップをかけたまま、サイドテーブルに置く。
それから見上げた隣は、うれしそうに微笑んでくれた。

「これ、周太が用意してくれたんだ?」
「ん、そう…でも台所じゃないし、本当に切って並べただけ」

そう、本当に切って並べただけ。
料理だなんて呼べない、それが本当は不本意で仕方ない。
だってやっぱり、きちんとしたものを作ってあげたかった。
けれど隣は、嬉しそうに笑いかけてくれた。

「でもすごく、きれいに作ってある」
「…ごめん、包丁も無くて、トラベルナイフで作ったんだ」

包丁すら無かった。
それなのに、こんなに嬉しそうにしてくれる。
申し訳ない気持ち、けれど嬉しそうな顔が、うれしい。

「充分だよ周太。こういうの俺、すげえ嬉しいんだけど」
「…そう?」
「そうだよ、」

きれいに笑って、宮田は言ってくれた。

「周太が作ったものがさ、俺、いちばん好きだから。だから嬉しい、ほんとだよ」

あ、この言葉を自分は、聴きたかったんだな。
いちばん、好き、うれしい。その言葉が全部うれしい。
嬉しくて周太は、きれいに笑った。

「よかった、」

うれしくて見上げて、気持ちを告げた唇に、そっと唇を重ねられた。
すぐに静かに離れた、けれど、熱かった。
なんだか恥ずかしい、甘やかで気恥ずかしい。それでも幸せで周太は微笑んだ。
隣から覗きこんで、宮田が笑いかけ言ってくれる。

「俺ね、今、すごい幸せだ」

うれしそうな隣の笑顔が、うれしい。
うれしい気持ちを伝えたくて、周太は気恥ずかしさを押して、唇を開いた。

「ん、俺もね、うれしくて幸せ、だな」

言って微笑んだ視線の先で、きれいな切長い目が不思議な雰囲気になった。
どうしたのだろう、そう思ったらもう、いつものように微笑んでくれた。

「周太、今日は遠くから疲れただろ?風呂すませてさ、楽になってよ」
「あ、でも、腹減ったんだろ?」
「それくらい待てるから」

そう笑ってくれて、浴室へと送り出してくれた。

シャワーの湯が温かい。
頭から浴びると、今日の色んなことが思い出される。
昼間の深堀との会話、さっきの国村との会話、それから吉村との時間。
どの時も困ったり、うれしかったり、色んなことを思った。
そして、どの時も自分は、ずっと一人のひとを考えていた。

…英二、

心の中でだけ、そっと名前を呟いてしまう。
もう昨日からそう。きのう実家の庭で、想いを心に確かめてしまってから。
こんなふうに、名前で呼べたら良いな。本当はそう思っている。

あの隣はいつも、自分を名前で呼んでくれる。
家族以外に名前で呼ばれることは、13年間ずっと周太には無かった。
そしてあんなふうに、特別な存在から、特別な意味で、名前を呼ばれること。
周太には初めてのこと、そして、とても幸せなことだった。

そして誰かを名前で呼んだことも、周太は無い。
だからどうやったら、名前で呼ぶことが出来るのか。それすら解らないままでいる。

「…あ、」

髪をかきあげた右腕の、赤い花のような痕が視界に映った。
シャワーの湯気を透かしても、あざやかな赤が目に映る。
4日前に刻まれた、あの隣の唇がつくった想いの痕。その前にもう何度も、会うたびに刻まれている。
きっともう消えない、そんな痣になってきている。

今夜もこの後きっと、またそうして刻まれる。
そう思った周太を、夕方に訳したばかりの歌詞がそっと心を掠めた。

―星や惑星が姿現して、盗まれたキスは、盗まれ止められても手遅れ、それほどに想いが深い

ほんとうに、もう手遅れ。
自分にはもう、こんなふうに、深く消えない痣になって、キスが刻まれている。
だって自分はもう、こんなふうにずっと、想ってしまっている。
そんな想いは、切なくて甘やかで、黒目がちの瞳から、ひと滴の想いが零れて落ちた。


浴室の扉を出て部屋を見ると、ソファに座っていた宮田が振り向いてくれた。
気付いてくれたことが、うれしくて周太は微笑んだ。

「お先に、ごめん」

声を掛けながら見た、長い指の手元には登山地図と鉛筆があった。
きっと明日の巡視ルートの、確認をしていたのだろう。そんな姿は本当に、仕事に誇りを持つ大人の男だった。
本当に仕事熱心なのだなと、昼間に深堀に夕方に吉村医師にも言われた。その通りだなと思う。
地図と鉛筆をしまいながら、宮田は微笑んでくれる。

「大丈夫だよ。俺、着替えた時に風呂はさ、済ませてあるんだ」
「あ、それなら、よかった」

きっと宮田は、仕事の後で疲れているはず。
それなのに自分が先に、浴室を使わせてもらった。申し訳なくて、周太はちょっと気が引けていた。
ほっとして見たサイドテーブルに、クロワッサンが盛られた皿が置かれている。
きれいな切れ込みが、どれにも入れられている。すこし驚いて周太は訊いた。

「これ、宮田が切ったのか?」
「そうだけど?」

きれいな低い声は、何でも無い事のように答えてくれる。
訊いて、周太は微笑んだ。

「きれいに出来てる、料理も、やれば出来るんじゃないか」

宮田は器用だから、きっと上手に出来るのだろう。
そう思っている隣で、きれいに笑って宮田は素直に言った。

「周太と暮らし始めたら、やってみる」

一緒に暮らす。
いつかそんな日が来たらいい、本当はそう思っている。
毎日の始りと終わりを、この隣で過ごせたら、きれいな笑顔を見つめられたら。
きっと幸せだろう、そう思うと切なくなる。
そしてすこし気恥ずかしくなる、周太はすこし睫を伏せた。

「…うれしいけどそういうの恥ずかしいから…」

用意しておいた食事を、きれいに宮田は平らげてくれた。
そのあと皿まで洗うと言って、さっさと洗面台へと向かってくれる。
申し訳なくて自分がやると言ったら、わがまま訊いてよと宮田は微笑んだ。

「周太の心づくしだからね、俺が最後までちゃんと受取りたい。だから譲れない」

そんなふうに笑ってくれた。
なんだかこういうのは、気恥ずかしいけれど嬉しい。
そんなふうに想いながら見たカーテンを、透かすように光が見える。
窓辺に寄ってカーテンを開けると、半分に近い月が明るく空にかかっていた。

「…きれいだ、」

静かに窓をすこし開けてみると、夜の森の香がそっと頬を撫でる。
周太は軽く瞳をとじて、夜の空気をすってみた。冷たく澄明な香、水と樹木の燻り。しずかな夜が聞こえてくる。
ゆっくりひらいた瞳の向こうに、紺青の透明な空が広がっていた。
月と星がきらめく濃密な夜空は、どこか青紫に艶めいてみえる。ふっとさっきの歌詞が唇に昇った。

「…暗夜が抱く深い菫色の闇は、激しい想いの呪文…その魔法には2つだけ、伝えられることがある…」

“Ultraviolet” なら「紫外線」と訳す。
けれどあの歌詞はスペース空けて“Ultra violet” だから「深き闇の菫色」
いま空にかかる青紫色、こんな感じだろうか。
それにしてもあの歌は謎が多い、ほんとうにワーズワースの詩みたいだ。
頬撫でる夜気に、そっと周太は呟いた。

「…想いの呪文、その魔法には2つだけ?…」

その2つは何だろう?
考えている横顔に視線を感じて振向くと、隣が見つめていた。
片付けが終わって来てくれた、うれしくて周太は微笑んだ。

「月がね、すごくきれいなんだ」
「卒業式の時は、いざよいだったな」

きれいに微笑んで訊いてくれる。
話したことを覚えてくれている、うれしいと思いながら周太は答えた。

「ん、そう。不知夜月はね、一晩中月が出ている」
「いざよいは、ためらう、って意味だったな」
「ん、」

でも、さっきの「卒業式の時」は、ちょっと恥ずかしいなと思う。
だってあのときが“初めて”のときだった。そして今日また国村に言われて恥ずかしかった。
―あの時も顔、違うのかな?…白妙橋で話した“初めて”-
ああいうこといってからかわないでくれたらと思ってしまう。

けれどこの間も、国村の言葉には気付かされた。
そして今も本当は、ちょっと気が付いている。

いつもどこか自分は、恥ずかしさばかりに埋もれて、この隣へ想いを示せない。
起きている時も、ふたりで横たわる「あの時」も、いつもそのまんま、示せない。
だからさっき、気付かされてしまった。せめて「あの時」だけでも、想いを示せたらいいのに。
だってほんとうは、もう、こんなに想いは深いのに。

「周太、」

きれいな低い声が、そっと名前を呼んでくれる。
自分も名前で呼び返せたらいい、そう思って周太は見上げた。

「ん?…」

やっぱり、声になっては出てくれない。
ほんとうは昨日から、ずっと心では呼んでしまうのに。
ほんとうは名前で呼んで、もっと特別になりたい。
見上げたまま竦んでしまう唇、もっと自由に動いて、想いを告げさせて。

竦んだままの唇に、そっと唇が重ねられた。

…英二、

心の中で名前を呼んで、よせられた唇に瞳を閉じた。

よせられた唇、かすかな吐息。
熱くて、甘やかで、すこし怖い。

肩を抱きよせられて、腰を抱かれて抱き上げられる。
この隣はもう、自分を軽々と抱き上げてしまう。
逃げ出す隙なんて、ほんの少しも見せない強い腕と肩。

「…あ、」

そっとベッドに横たえられて、静かに重みが全身にかけられる。
ゆるやかに抱き込めてくる強い腕、もう1ヶ月半前とは違う、大人の男の腕。
真直ぐに瞳を見つめる、きれいな切長い目は、不思議な表情で佇んでいる。
きれいな微笑みが、じっと自分だけを見つめていた。

「好きだよ、周太」

きれいな低い声で名前を呼んで、想いを告げてくれる。
想いが、名前が、うれしい。うれしくて周太は唇を開いた。

「…ん、うれしい…俺も、好きだ」

想いだけでも告げられた。
けれど、どうして、名前は呼べないのだろう。
呼べない名前が、のどに心に詰まって痛い。
そんな想いで見上げている、きれいな切長い目が、不思議なまま微笑んで、想いを率直に言った。

「大好きだよ、周太。だから今も、抱かせて繋がらせて?」

そんなふうに求めてくれる。
恥ずかしくて困る、けれど求められて嬉しい。
こんなにも、きれいな笑顔で求めてくれる。断れるわけがない。

それに本当は、自分だって求めたい。この右腕の痣を、また深くして。
自分にだって、名前を呼ばせて、求めさせて。

「…っ」

名前、声になって出てくれない。
こんなにももう、心では名前を呼びたくているのに。
首筋にも頬にも、想いの熱が昇っていく。それでも心に呼ぶ、この名前だけは、唇へ昇らない。

「きれいだ、」

きれいな低い声が、ささやいて唇をよせてくれる。
名前を呼びたい、呼んで想いに応えたい。
そんな想いに喘ぐ唇を、穏やかに熱が重なって溶かしてしまう。

…英二、

呼べない名前、心のなかだけでも、呼んでしまう。
唇の熱にうかされて、白いシャツを絡めとられて、肌が晒されていく。
いつものように一瞬は怖くなる、けれど見つめられる瞳がうれしくて、力が抜かれてしまう。
そうして気づいた時には、ゆるやかに肢体が添っていく。

白いシャツの袖ぬかれて、右腕の痣が露わにされる。
赤い痕へそっと、いつものように、赤い唇がよせられて口づけられた。
強く刻まれて熱くて、すこし立てられる歯が痛くて、想いの強さが心を奪っていく。

…え、いじ、

名前、呼びたいのに吐息だけ、そっと零れて髪ゆらす。名前も呼べない唇に、隣のきれいな髪がふれる。
その髪がさらりと動いて、ゆっくりと顔があげられた。唇から離された腕には、赤い唇を写した赤い花が咲いている。
赤い花にそっと長い指がふれて、きれいな笑顔が見おろした。

「きれいだね、周太」

見おろされる唇、呼びたい名前は出てこない。
見おろされる体には、呼びたい名前への想いが、熱になって肌をそめていく。
見つめられる瞳には、ただ想いを受け入れたい、そんな想いがきっと透けている。

きれいな笑顔で、きれいな低い声が笑いかける。

「周太、好きにして、いい?」

呼びたい名前、唇から出てくれない。
伝えたい想いすら、もう唇を出てくれない。
どうしていつもこんなにも、自分の想いは伝えられないのだろう。
それでも心の中でだけでも、名前を呼びたい、想いを告げたい。

…英二、して

心の声が聞こえたように、周太を見おろす体が動く。
きれいな長い指が、首に掛けた鍵を外してベッドサイドへと置く。
きれいな大きな掌が、白いシャツを静かにほどいて、その白い肌を顕していく。

さらりと床へ白く、シャツが落ちる。
それを見遣って体傾けて、静かに背中がこちらへ向けられた。
ルームライトの照らす背中は、広やかに大人の艶を燻らせ、美しくて。
惹かれ見つめるまま、ただ心ごと焦がされる。

「…周太、」

かすかな灯りに佇んだ、細身しなやかに逞しい背中が、ゆっくりと振り返る。
美しく勁い肢体は艶めいて、熱い眼差しのままで、周太を見おろした。
きれいで眩しくて、すこし怖くて、どうしていいのか解らなくなる。

「明日が辛くないように、しすぎないから、許してよ…」

きれいな笑顔で、きれいな低い声が、そんな約束をねだる。
つまりそうな呼吸の中で、心に呟いてしまう ― あなたの約束を、どうして、自分は拒めるというの?
そんな想いのままに、シャープな白皙の頬に頬寄せられていく。
艶めく白い肌が素肌に重ねられて、静かに強く抱きしめられた。

怖い、そんな震えが体を固める。
けれど腕にこめられた力の、穏やかな安らぎが温かい。
すぐに力は抜かれてしまって、想いのままに体は添ってしまう。
きれいな低い声が、そっと想いを告げてくれた。

「大好きだ、」

いま自分も、想いを告げられたらいい。
それなのに、言葉がかけらも出てこない。
呼びたい名前、告げたい想い、せめて心の中でだけでも、告げさせて。

…英二、ほんとうは、愛している…

肌と肌ふれあう、温もりが熱い。
よせられる唇が熱い、見つめられる瞳が熱い。
瞳にかかる前髪を、長い指がかきあげてくれる。
額の生え際の、ちいさく残る傷跡に、そっと熱い唇がふれる。
そのまま髪に、端正な顔が埋められる。髪を透してかかる吐息、穏やかに熱い。

失うことが怖くなる。
こんなふうに熱い、その想いも温もりも、こうして自分を求めてくれる。
こうして求められて、熱を与えられて、自分は変えられ生き直している。

自分が「きれいになった」その理由。
この隣に求められ、熱と想いを与えられて、笑顔も想いも生まれていくから。
こんなふうに熱い時、感覚、想い、それら全てが自分を浚って「きれい」に磨きださせていく。
だからもう解っている。この隣を失っては、自分はもう生きられない。

「俺だけの隣でいて、周太、」

きれいな低い声、熱い吐息。
唇、首筋、肩、胸、腕、腰、脚、そうして全て。
ふれられる唇が熱くて、痛くて、甘やかで。体ごと心も絡めとられていく。
肌の全て一面に、想いの熱の、赤い花が刻まれていく。

刻まれた想いが熱い、自分の想いも一緒になって、心にあふれて充ちていく。
それでも、声は出てくれない。

…隣でいさせて、英二、愛している

名前、呼べない。
言葉が出ない、想いを告げられない、だから心だけでも、呟かせて。
もうこんなに想っている、それでも出ない言葉。
どうして自分は、こんなに、弱いのだろう。かけらだけでも、伝えたいのに。

どうしても、かけらだけでも、想いを伝えたい。
そう見上げた想いの真中で、きれいな顔が見つめてくれた。

きれいな切長い目から、つっ、と涙がひとすじ、頬を伝って零れて砕けた。

…英二、

心でだけ呼んだ名前。
心でだけ呼ばれた、この隣。その端正な唇が静かに開かれて、きれいな低い声が告げてくれた。

「お願い、周太…俺だけの隣で、いてよ…」

周太の心に、かたんと響いた。

なんて切ない声だろう?
なんて美しい、きれいな声だろう?
そうしてどうしてこんなにも、想いを真直ぐに届けてくれるのだろう。

こんなに想いを届けてくれる、この隣。
こんなに自分はもう愛しい、それなのに。
自分は13年間の孤独と報復に引き摺られかけた、そして置去りにしようとした。
それがどんなに残酷だったのか、今もまた、この美しい涙に思い知らされる。

周太の心が、吐息をついた。
見つめる想いの中心で、きれいな切長い目に、きれいな涙が漲っている。
ああ、この涙だって、ずっと自分が拭っていたい。だって出会ってからずっと、自分が拭っていたのだから。

そう、もう、ずっと、そんなふうに、愛している

言えない想い。出ない声。それでもこれだけは、どうしても伝えたい。
黒目がちの瞳が微笑んで、唇がほころんだ。

「…ん、隣で、いさせて…」

声が、出た。
ほんとうに、かけらだけの想い。それでも伝えたい。
見つめる想いの真中で、きれいな切長い目が、見おろし見つめてくれる。
切長い目から、ひとつぶ、また零れて砕けていく。

「約束してよ、周太。もう、離れていかないで…俺の隣から出ていかないで、俺を、置いていかないで」

見つめる想いのまんなかで、きれいな想いが告げられる。
あの日この隣を、13年間の報復の為に置き去りにした、そんな自分の罪の重さを知らされる。
そして自分こそ離れられないと、あの日に思い知らされた。だって置去りにした瞬間、自分は壊れて立てなかった。
ほんとうにそう、自分だって、離れたくはない、隣にいたい、もう絶対に置いていきたくない。

「俺にはね、周太、帰る場所はもう、ここしかない…だから周太、いなくならないでよ…俺の隣にいて」

ここだけでいいの?
ずっと隣にいていいの?

見つめる瞳をつたわって、想いがそっと注がれる。
見つめる瞳の視界へと、やさしい水の帳がおりてくる。

この想いにどうしても、今、応えさせて。

動いてと願った、右腕が静かに上げられた。きれいな首元へ、そっと右腕がのべられる。
どうか出てと祈った、声が唇から零れだした。

「…俺の隣で、いいの?」

のべられた右腕の、周太の右掌が白い頬にふれる。
ふれた白い頬に、きれいな眦から熱が零れておちかかる。その熱が周太の掌にふりかかる。
きれいな切長い目からまた、ひとつぶ透明に、こぼれて砕けた。その煌めきが、愛おしい。
きれいな低い声が、微笑むように告げてくれる。

「周太の隣がいい、周太の隣だけに、いたい」

濡れた頬をそっと、周太の右掌が拭う。
どうか動いてと願った、左腕ものべられた。そうして左掌が、もう片頬にふれる。
両掌で包んだ白い頬の温もりが、そっと周太の心にふれて温かい。

「大好きなんだ、周太。息をするたびごとにね、周太のこと好きになってる」

きれいな低い声が告げてくれる。
きれいな笑顔が、自分だけを見つめて、言った。

「もうずっと周太だけ、ずっと想い続けていく」

ことば、お願い、今は出て。
そう祈った通りに、そっと周太の唇から言葉が零れた。

「…うれしい、」

ほんとうにかけらだけ、それでも想いを告げられた。
そうして想いを今、この隣から告げてくれた。
どちらも本当に嬉しくて、きれいに笑って周太は微笑んだ。
両掌に包んでいる白皙の頬、きれいな切長い目は、こうして見つめてくれている。

お願い、もっと近くへ来てほしい。
お願い、この想いは今、唇から零れでて。そっと周太は、唇を開いた。

「こっちに、きて…」

頬をくるんだままの掌を、そっと自分の方へと惹きよせる。
両掌で包んだ端正な顔、その端正な唇が、そっと周太の唇に重ねられた。

…英二、

呼べない名前。けれど想いのかけらなら、それだけなら告げられる。
気恥ずかしい、けれど迷わない。
そんな想いをこめた声が、そっと唇を拓いて出た。

「くれる初めての、全部が、うれしい…だからお願い、ずっと…隣にいて」
「ああ、ずっと隣にいる」

両掌にくるんだ、愛する隣の顔。
きれいに笑って見つめて、想いを言葉にして告げてくれる。

「ああ、ずっと隣にいる、繋げて離さない」

動いて、腕。
そんな願いの通りに、ぎこちなく目の前の頭を、そっと抱き寄せる。
ふれる温かな吐息、ぬくもりは穏やかで、幸せが静かに心を充ちていく。

…英二、愛している

本当に告げたい、名前と、想い。
けれど今はまだ、声になって出てくれない。けれど想いのかけらだけでも、伝えたい。
周太は、きれいな涙と微笑んだ。

「もうずっと本当はね、…好き、」

…もうずっと本当は― 英二、愛している。

いつかこんなふうに、言葉にして伝えたい。それでも少しでも、伝えられたことが、心から嬉しい。
抱きしめた隣の端正な顔が微笑んで、きれいに笑いかけて言ってくれた。

「これからもっと、好きにさせるから」

嬉しい、そして幸せだ。
きれいな笑顔が、見つめ合って、ふたつ咲いた。もう離さない、離れない。
うれしくて幸せで、周太は言葉をこぼした。

「…もっと、好きにさせて…そして、好きになって」

隣は笑って、きれいな笑顔で告げてくれる。

「そうだよ周太、お互いもっと大切になって、そうして一緒にいて」
「…ん、大切に」

本当はもう、とっくにそう。だって本当は、もう、愛している。
今まだ言えないけれど、想いのかけらだけは、今、告げたい。
微笑んで、周太は唇を開いた。

「…お願い、ずっと、隣で想いを告げて?」

Carry on, keep romancing,
止めないでいて、愛をささやき続けること

そうしたらきっと、自分だって言えるようになる。
だからお願い、ささやき続けて。そうしていつか、自分にも、この想いをすべて告げさせて。
そう見つめる想いの真中で、きれいな笑顔で笑ってくれた。

「ずっと、周太の隣にいる。そしてずっと想いを告げさせて。いつだって俺は周太だけを想うから」

いつかきっと、自分も、この想いを告げるから。
そんな想いに微笑んで、ゆるやかに熱い腕の中へと沈みこんだ。
熱い唇が唇に、深く重なって想いの吐息がおくられた。
そのまま体と心の全てに口づけされて、想いが深く刻み込まれていく。

…英二、

呼びたい名前、心に響く。
菫色の闇深く、甘やかに穏やかな、幸せな眠りにしずみこんだ。


ふっと唇に熱を感じて、ひとつ吐息が零れた。
なんだか幸せな熱さ、そんな想いを確かめたい。
周太は瞳をゆっくり披いた、その想いの真中に、きれいな笑顔が見つめてくれた。

「おはよう、周太」

きれいな笑顔がうれしい。隣の笑顔を見つめて周太は、やわらかく微笑んだ。
微笑んだ唇を、周太は静かに開いた。

「ん、おはよう…笑顔、うれしい」
「俺こそね、すごく嬉しいから」

きれいに笑って、隣は、そっと抱きしめてくれる。
こんな朝を毎日、ずっと迎えられたらいいのに。そんなふうに思ってしまう。
それでも明日も明後日も、こんな朝を一緒に迎えられる。
今朝の後もすぐ2回、一緒の朝が待っている。そんな幸せが嬉しくて、そっと周太は微笑んだ。

そして想ってしまう。
今日こそ勇気が生まれて、名前、呼べたらいいのに。




【歌詞引用:savage garden「carry on dancing」】


blogramランキング参加中!

ネット小説ランキング
http://www.webstation.jp/syousetu/rank.cgi?mode=r_link&id=5955

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

萬紅、初暁act.2―another,side story「陽はまた昇る」

2011-11-19 23:59:33 | 陽はまた昇るanother,side story
もうひとつの場所、迎えるとなり




萬紅、初暁act.2―another,side story「陽はまた昇る」

青梅警察署の診療室は、まだ明りが灯っていた。
ノックして扉を開けると、ロマンスグレーの横顔がゆっくり振り向いてくれる。
周太を見て、吉村医師は穏やかな微笑で迎えてくれた。

「こんばんは、またお会いできましたね」
「はい、」

穏やかな微笑みが、温かい。
またこの微笑みに会えた。うれしくて、周太も微笑んだ。

「急で申し訳ありません。あの、お邪魔しても大丈夫でしょうか?」
「もちろんです。もう診療時間も終わります、遠慮しないで下さい」

白い診療室は、蛍光灯の下でいっそう白く眩しい。
吉村医師は器具を消毒している、一日の終わりの手入れなのだろう。
まだすこし残っている様子だった、周太は訊いてみた。

「お手伝いを、させて頂けますか?」
「ああ、それは助かります。すみませんね」

周太は洗面台で消毒をすると、吉村医師を手伝って手を動かし始めた。
手際よく作業しながら、穏やかに吉村医師が話してくれる。

「明日は雲取山へ行くのでしたね、宮田くんから朝早いと伺いました。」
「はい。林道の巡視を兼ねることになって。それで俺、前泊になりました」
「ほんとうに彼は仕事熱心ですね。お蔭で今夜は、こうして君とお会いできました」

うれしいですね。そう言ってくれる吉村医師は温かい。
吉村医師には温かな包容力がある。繊細な性質の周太でも、気楽に寛ぎやすかった。
またこの笑顔に会えて、素直に周太はうれしかった。

「はい。先生にお会いできて、うれしいです」
「そう、それは光栄ですね。ありがとう、」

穏やかな微笑みが受け留めてくれる。
吉村医師は絶対に相手を否定しない。そんな温もりが周太に伝わってくる。
大きな人なのだな、思いながら周太は吉村医師の手を見た。
大きい手。けれど細く長い指が器用に動いている。あの大好きな隣の、長い指の掌と似ていた。
会いたい面影を見つけて思わず、周太の口から言葉が零れた。

「先生の手と宮田の手は、よく似ていますね」
「おや、そうですか?」

ふっと手を止めて、吉村医師は自分の手を眺めた。
それから優しい笑顔になって、周太に教えてくれた。

「息子は妻似だったけどね、手だけは私と似ていたんですよ」

はっと周太は息を呑んだ。
吉村医師は次男を、山の遭難死で亡くしている。

―息子は妻に似て、我が子ながら美形でね。そして同じ山ヤで。どこかね、雰囲気が似ています

彼は医学部5回生の時に、長野の高い山で不運な滑落事故に遭った。
いつも持っている救急用具を、その日だけ偶然に置き忘れていた。
そして骨折した足を処置できずに彼は、身動きが不可能なまま山の寒気に抱かれて眠りについた。

周太は吉村医師のデスクをそっと見た。
デスクには、山に立つ彼の写真が微笑んでいる。
端正な顔立ち、穏やかで健やかな優しい笑顔。どこか宮田と似ている、そう周太も思う。

医学部5回生、今の自分達と同じ年。
亡くなった息子と同年で、同じ山ヤで、そしてよく似た手を持った、きれいな笑顔の宮田。
吉村医師が、宮田と息子を重ねて見つめることは、当然だと周太も思ってしまう。

いま、この医師に自分は、どの言葉を掛けるべきなのか。
ゆっくり周太は瞬いて微笑んだ。思った通りを言えばいい、そう素直に口を開いた。

「先生、俺ね、宮田の手が大好きです。あの手で宮田は、いつも俺を救けてくれます」
「うん、彼らしいな」

穏やかに吉村医師が頷いてくれる。
はいと頷き微笑み返して、周太は続けた。

「宮田の手は本当に、きれいな手です。そして先生の手も、きれいだ好きだなって俺、いま見ていました」
「おや、光栄ですね、」

吉村医師は目を細めて、嬉しそうに周太を見つめてくれる。
その眼差しを見あげながら、すこしだけ周太は迷った。
こんなこと言っていいのかな、でも伝えたい。すこし息を吸うと、思いきって周太は口を開いた。

「だからね先生、きっと俺、息子さんの手も好きです。会ったらきっと、好きな人です」

すこしだけ、吉村医師の目が大きく見開かれた。
こんなこと言って失礼だったろうか、周太は少しだけ哀しくなった。
けれど心から思ったことを伝えてみたかった。だって自分は本当に、彼の笑顔を好きだと思ったから。
こんなふうに誰かを好きだと思うことは、周太には少ない。

小さな嘘、ほの暗い思惑、かすかな虚栄、無神経な好奇心、傲慢な憐憫。
そうしたものに気付かず済ませられない、繊細すぎる自分を周太は解っている。
そうした暗さを感じるたびに、心が竦んで動けない。
そして自分が抱いている、運命と痛みの重さも辛さも、よく解っている。
それはそう簡単に、誰かに見せて負わせて良いほどには、容易くははない。

相手に見えてしまう暗さが痛い、自分が与える痛みが辛い。
だからいつも周太は、簡単には人に心を開けない。
だからいつもどうしても、誰かを好きになることに臆病になっている。

けれど宮田だけは違った。

最初は大嫌いだった。
けれど大嫌いな顔は、無理に宮田が作っていた仮面だった。

素直になった宮田は別人だった。
思ったことしか言わない、出来ない、やらない。
何も隠さない宮田には、暗さの痛みは少しも感じられなかった。
そうして気付いたら、隣にそっと佇んでいた。きれいな笑顔で笑いかけて、大丈夫だと抱きとめてくれた。

そんな宮田と似た彼を、好きだと素直に周太は思える。
宮田とは違う人、宮田のように想うことは決してないだろう。
それでもきっと会えたなら、吉村医師を好きなように、彼のことも自分は好きなる。
そんなふうに好きになることは、周太にとって本当に幸せで嬉しいことだった。
だから伝えてみたかった。

「ありがとう、湯原くん」

穏やかに、けれど心から嬉しそうに、吉村医師が笑った。
明るい目で吉村医師は、周太を真直ぐ見て微笑んだ。

「ああ、うれしいですね。きっと雅樹もね、湯原くんのことは好きです」

受け留めてもらえた。その温もりが、そっと周太の心に添ってくれる。
うれしくて微笑んで、周太は訊いてみた。

「まさきさん、とおっしゃるんですか?」
「はい。私の名前とね、奥多摩の山に茂る樹木。そんなふうに名づけました」

吉村雅也、それが吉村医師のフルネームだった。
自分の一字と、自分の愛する故郷の山に因んだ名前。
吉村の息子への深い愛情が感じられて、そっと周太の心が温かく締められる。
父と同じ医者を志し、父の愛する山に登る。そんなふうに彼は名前の通りに生きた。
吉村医師の目を見つめて、周太は微笑んだ。

「雅樹さん。とても相応しい、良いお名前ですね」
「そうか、うん。ありがとう」

頷く吉村医師の目が、すこし光って見えた。
けれどその笑顔は嬉しそうで、穏やかに幸せが温かい。
心の中でそっと周太は呟いた。

…よかった、

いつも宮田は人を笑顔にしている。自分もそう出来たら良いと、ずっと思っていた。
あの隣のきれいな笑顔に、少しでも相応しい自分になりたい。そう思っている。
今きっと、吉村医師を笑顔にすることが、少しだけど自分も出来た。
自分が好きな人を笑顔に出来た、そうして少しでも宮田に相応しくなれたこと。
どちらも温かくて、うれしくて、そっと周太は微笑んだ。

作業が終わって、片付けると吉村が微笑んでくれた。

「さあ、では宮田くんを、一緒に出迎えに行きましょう」

ストレートに言われて、周太は気恥ずかしくなった。
吉村医師は、周太と宮田の関係を知っている。

―宮田くんと湯原くんが寄り添う姿は、とてもきれいでした
 だから私には解ります、君たちの心の繋がりは、とても美しいです

真直ぐに見つめて理解して、きちんと肯定してくれた。
それが嬉しくて、温かくて、この医師への信頼になっている。

けれどこんなふうに、微笑んで言われるのは、やっぱり気恥ずかしい。
でも今日の午後、もう胸を張ろうと自分は決めた。
だってこの想いは、唯一つのもの、大切な壊したくない想い。
赤らめた頬のまま、周太は微笑んだ。

「はい、ご一緒させて下さい」

うんと頷いて、吉村医師が微笑んでくれる。

「たいへん良い顔をね、していますよ?
 何かしっかりとした、きれいな勇気があふれている。こういう顔は素敵です。
 そして君がね、こんなふうに微笑む顔を、私にも見せてくれた。それが嬉しいです。」

こんなふうに真直ぐに、認めてもらえること。
ここへ来られて、この医師に会えてよかった。
そしてここへ連れてきてくれた、大切なあの隣にもうじき会える。
きれいな笑顔のあの隣、想うといつも、きれいな想いが自分にもあふれてくれる。

「ありがとうございます、」

赤らめた顔のまま、きれいに周太は笑った。
それから思い出して、吉村医師に持ってきた袋をみせた。

「コーヒーを買って来たんです、」
「ああ、うれしいですね。最近は宮田くんもね、上手に淹れてくれます」
「よかった、」

そんな話をしながら、ロビーの自販機のベンチへと向かった。
こちらへと、吉村医師が勧めてくれる。
並んで座ると、楽しそうに吉村が教えてくれた。

「いつもね、同じ場所に私は座って、待つんです」
「この場所ですね?」
「はい、そうです。こうね、『いつものように』という習慣が、うれしいんです」

『いつものように』という習慣。
習慣は毎日続いていくこと。そうした事への気持ちは、周太には解る。
父との夜の読書も『いつものように』だった。
吉村医師は亡くした次男とも、きっと『いつものように』があった。

息子との『いつものように』を、息子を重ねる宮田を通して、積み重ねたい。
そんな痛切な願いは、吉村医師の微笑みを、より温かくしているのだろう。
それをきっと宮田は、きれいな笑顔で受け留めている。
その手助けをすこしだけ、自分もしたい。周太は微笑んだ。

「先生、宮田が帰ってきたら、コーヒーを淹れさせて下さいね」
「ああ、それは嬉しいです。おいしいお菓子を開けましょう」

そんなふうに話している隣から、なつかしい声が呼んでくれた。

「周太、」
「あ、」

いつも想うひとが、活動服姿で立って、きれいに笑っていた。
無事な姿がうれしい。
無事に会えた、きれいな笑顔が見られた。全てがこんなに、うれしい。
きれいに笑って、周太は迎えた。

「宮田、お帰りなさい」

明日は雲取山へ行く、約束した通りに。
その約束を果たすために、今日も無事に帰ってきてくれた。
きっと今、うれしくて幸せで、きっと良い笑顔になっている。

「お帰りなさい、宮田くん。今ね、コーヒーを淹れようかと話していました」

立ち上がった吉村医師が、穏やかに立ちあがった。
その言葉に、うれしそうに隣は周太に笑いかけてくれる。

「お、いいですね。周太が淹れてくれるのか?」
「ん、そのつもりだけど」

もちろん周太は、そのつもりだった。
―俺にはさ、一生ずっと周太が淹れてくれること。それなら覚える―
そんなふうに、宮田は言ってくれた。一生ずっとだなんて気恥ずかしい、けれど嬉しかった。
宮田は周太に、きれいに笑いかけてくれる。

「嬉しいな。じゃ俺、仕度したら診療室に迎えに行くから」
「ん。解った」
「じゃ、またすぐに、後でな」

きれいな微笑みを残して、宮田は急いで寮へ歩いていった。
その背中がまた、なんだか頼もしくなっている。

―大切な人を背負える、大人の男の背中―

昼間に深堀に言われた、瀬尾の言葉。
瀬尾は絵を描く。その絵は繊細だけれど適確で、きれいな描写力がある。
誕生日に贈ってくれた絵は、周太と宮田が寄り添う姿が、やさしい穏やかな空気で描かれていた。
そういう観察眼を持った瀬尾が、宮田の背中をそう言ってくれる。
こういうのは、きっと、すごく幸せなことだ。

診療室でコーヒーを淹れる準備をする。
マグカップを3つ並べて、買ってきたドリップコーヒーをセットした。
湯を少しずつ順に注ぎ始めた時、扉がノックされて開いた。

「こんばんは、良い香りですね」

飄々と笑って国村が立っていた。
ペインターパンツに長袖のTシャツと、Gジャンのラフな格好をしている。
今日は宮田が日勤だから、交替の国村は非番だったのだろう。
吉村医師が微笑んで、国村を招じ入れた。

「こんばんは。ご実家からの帰りですか?」
「はい、山林の手入れをしてきました。よお、湯原くん。何時頃に着いたの?」

気さくに国村は、笑いかけてくれる。
周太も微笑んで国村に答えた。

「こんばんは。河辺には16時前位かな」
「ふうん、じゃあ夕焼けみられたね、きれいだったろ」

馴れた顔で国村は、椅子を隅から出してきて座る。
吉村医師も菓子をひとつ取出した、きっと国村に勧めるのだろう。
周太はもう1つマグカップを出して、ドリップコーヒーをセットした。

「湯原くんのコーヒー、旨いよね。好きだな、俺」
「そう?なら、良かった」

何気なく答えた周太に、国村が唇の端を上げた。

「コーヒーも好きだけどさ、湯原くんも好きだね。かわいくってさ、」
「…そういうこといわれるの、なれていないから…」

こういうことを平気で、国村は笑って言ってくる。
ちょっと困るなと周太は、この間も思わされた。
けれどまったく意に介さない顔で、国村は話しかけてくる。

「雲取山のさ、明日のルート俺も見たよ。たぶん紅葉が良いんじゃないかな」
「そうなんだ、うれしいな」

国村は奥多摩の地元っ子で、兼業農家の山岳救助隊員だから、奥多摩に詳しい。
幼い頃から山を歩き、心から山を愛していると、宮田から聞いた。
そんな国村の畏敬は、山と自然へ純粋に向けられる。だから人の作ったルールには縛られない。
そういう国村がくれる山の情報は、とても適確だと宮田も言っている。
紅葉が楽しみだなと想いながら、周太は4つのマグカップにコーヒーを淹れ終えた。

「どうぞ、」
「ありがとう。うれしいですね、湯原くんのコーヒー」

受取って吉村は、ひとくち啜って微笑んでくれる。

「おいしいです、何か工夫があるのでしょうか」
「いえ、ふつうに淹れるだけですが…」

そう、いつも普通に淹れている。
けれどなぜか、淹れると飲んだ人は褒めてくれる。
でも喜んでもらえると、うれしいなと思える。
国村も啜って、細い目を満足げに笑ませた。

「うん、湯原くんのコーヒー、ほんと旨いよね」
「そう?なら良かった、」

宮田の分も、一緒に淹れて置いてある。
冷めないうちに飲んでもらえるといい、そろそろ来るころかな。
そんなふうに思っていると、からり笑った国村が唇の端を上げた。

「その宮田の一杯はさ、特に旨いんじゃない?想いをこめてあってさ」
「…おなじようにいれただけだよどれも」

また玩具にされるのかな。
すこし困りながら周太は、マグカップに口をつけた。
そんな周太の様子を、機嫌よさげに眺めながら国村は、口を開いた。

「明日のルートはね、混まなくって良いよ。まだ閉鎖のところもあるからさ、人も少ないし」
「9月の台風の影響らしいな、でも人ごみが無いのは、うれしいかな」

何気なく答えた周太に、国村は唇の端を上げた。

「まあね、人気が少ないとさ、背中でのんびり出来て、良いんじゃない?」

また「背中」だ。今日はなんだか背中の話が多い。そして気恥ずかしくさせられる。
なんとなく気恥ずかしくて、なんて答えて良いのか困る。
困ったままの周太に、国村は笑いかけた。

「湯原くんてさ、ほんと初々しくて可愛いな。いつもこんな感じなの?」
「…どうだろう?仕事の時は違うと思うけど、」

なんとか普通に答えられて、ちょっと周太はほっとした。
国村はまた、周太に笑いかける。

「いろんな顔があるんだね。じゃあさ、あの時も顔、違うのかな?」
「あのとき?」

何気なく訊き返すと、国村は周太へ唇の端を上げた。

「白妙橋で話した“初めて”」

先週に周太は「白妙橋」の岩場で、宮田と国村の訓練に少し参加した。
救助者を背負うザイル下降訓練で、周太は救助者役で2人に背負われた。
そのときに国村は、背負った周太に言った。

―俺が訊いたのはね、キスとさ、ベッドの中ふたりでする “初めて” のことだけど?-

「…っ」

たった一言「白妙橋で話した“初めて”」それでも周太を、充分に真っ赤にさせる。
こんなに困っている自分と、こういう国村が同じ年だなんて、なんだか狡い。
そんなふうに思いながら周太は、涼しい顔の国村を見た。
そんな国村は、唇の端を上げると楽しそうに言った。

「まあでもさ、可愛い顔なんだろね。宮田を見てるとさ、そんな感じだよ。ねえ?」

恥ずかしすぎて声も出ない。
どうしていつもこのひとってこういうことばかりいうんだろう?
ほんとうに困ってしまう、だって今ここには吉村医師もいる。
そう思って周太は、そっと横の吉村医師の顔を見てみた。
その目と吉村医師の目が合って周太は困った、けれど吉村医師は穏やかに笑いかけてくれる。

「湯原くん。この焼栗きんとんはね、今の季節限定なんです。いかがですか?」
「あ、…はい、おいしいです」

周太は手もとの皿に目をおとした。
吉村が供してくれるこの菓子は、とてもおいしい。
けれど今は、食べても味が解らないかもしれない。
そうに困っている周太の前では、涼しい顔で国村が菓子を口に放り込んでいる。

「うん、うまいな、」

細い目を満足げに細めて、国村は笑っている。
この間も今日も周太は、国村には困らされた。けれどなんだか国村は憎めない。
それも仕方ないかなと周太は思う。だって国村の目は、とてもきれいで暗さが無い。

真直ぐで思ったことしか言わない、出来ない。
冷静沈着だけれど大胆で、山と自然への畏敬に生きている。
そんな国村には人間の枠は小さすぎ、だから執われずに自由人でいる。
そういう国村の目は、底抜けに明るくて、誇らかな快活が美しい。

だから納得できてしまう、宮田と国村が友達になっていくこと。
宮田はいつも、きれいな笑顔で穏やかに佇んで、全てを真直ぐ見つめて温かく受け留める。
そんな宮田には、国村は良い友人になるだろう。そういう友人と宮田が出会えてよかった。
そう思いながら微笑んで、周太はマグカップに口をつけた。

「失礼します、」

なつかしい声に、周太は顔を上げた。
がらりと開いた扉から、きれいな笑顔が笑いかけてくれる。
さっき会ったばかり、けれど顔を見れば嬉しくて、周太は微笑んだ。
そう見ている顔が、サイドテーブルを見て少し怪訝な顔をした。

「よお、勤務おつかれさまだね、宮田」

コーヒーを啜りながら、国村が涼しい顔で宮田に声を掛けた。
きれいな笑顔が、可笑しそうに国村に笑いかける。

「今日は実家で夕飯、食わなかったんだ?」
「いや。今日はウチさ、夕飯早かったんだよね」
「早かった、じゃなくて、自分で早くしたんだろ?」
「どうかな。ま、やけに腹減ったなぁってさ、祖母ちゃんには言ったね」

国村はクライマーの両親を山で亡くし、祖父母に育てられた。そう周太も聴いている。
その祖父母から地所の山林と農地を継いで、国村は兼業農家で山ヤの警察官となっている。
同じ年だけれど、どこか国村は落着いているのは、そういう生立ちの為かもしれない。
そう思っている周太に、国村が笑いかけた。

「湯原くんの淹れるコーヒー、ほんと旨いよ。食後のコーヒーがさ、旨いと嬉しいよね」
「そう?じゃあ良かった、お替りあるよ」

コーヒーは確か8つセットだった、だから大丈夫。
そう考えている周太の前で、国村は唇の端を上げた。

「今夜は背中の居心地が良いね、湯原くん。良かったな、ねえ?」

国村は飄々と笑いかけてくる。
どうしてまたこういうこというのだろう、やっぱり玩具にされている?
首筋が熱い、たぶんもう赤くなっている。
さっきから続く気恥ずかしさに俯いて、周太はマグカップを見つめた。

「…あんまりそういうことは、ここではさ…」

人を転がす癖が国村にはあるからさ。そんなふうに宮田も言っていた。
ほんとうに自分は転がされっぱなしだ。
こういうことには慣れていない、だって以前の自分は怖がられていた。

13年間ずっと、どこでも首席で寡黙に閉じこもっていた。
だから人からこんなふうに、気さくに話してもらうことも無かった。
だから慣れていない、困ってしまう。でも困るけれど、孤独よりはずっと温かい。

それに国村は厭味がない、からっと笑って楽しんでいる。
だから周太には解る、国村は単に楽しいだけ。そしてたぶん、周太のことを気に入ってくれている。
そして周太も、国村のことは好きだなと思う。
国村の細い目の底には、明るい快活さ、温もりと底抜けの優しさが、いつも楽しげに笑っている。

そういう目のひとは、いいなと素直に思える。
そう見ていた細い目を、また楽しげに笑ませて国村は言った。

「ほんとさ、まじ驚かされるよね。湯原くんには」
「なんで驚くんだ?」

何気なく訊いた周太に、また国村は唇の端を上げた。

「可愛くってさ。同じ年だなんて驚くよ、ねえ?」
「…そんなにかわいいとか言われると、ちょっと…」

やっぱり困ってしまう、どうしたらいいのだろう。
マグカップを見つめていると、宮田が微笑んで国村に言ってくれた。

「あんまりさ、周太を苛めないでくれよな?」
「苛めたことあったかな?かわいがった事はあるけどさ」

そんなことを言って、からりと国村は笑っている。
かわいがるだなんてちょっとやめてそんないいかた。
よけいに困って周太は、マグカップに口をつけた。
コーヒーを啜り始めた周太の前で、国村と宮田が話し始めた。

「あのさ。明後日さ、飲む場所って河辺でいいんだろ」
「おう、18時半で良かった?」
「いいよ。あ、ちょうど初雪が降るかもな」

初雪が降る。
ちょっといいなと周太は思った。
山では雪は滑落の危険を増す。そう思うと宮田が心配になる。
けれど一緒にいる時に、初雪を見られるのは、きっと嬉しいだろう。

国村は立ち上がって、宮田と何か話して笑いあっている。
それから、きちんとマグカップを洗った国村が、周太と吉村医師を振返った。

「お邪魔しました。先生、おやすみなさい」
「ああ、おやすみ。明日の巡回も気をつけて下さいね」
「はい、ありがとうございます。あ、湯原くんも明日、気をつけてね」
「ん、気をつけるよ?」

山での足許に気をつけるのかな。
国村の言葉を考えていると、本人が周太に耳打ちをした。

「山は人気が少ないからね、宮田が“あの時”になりやすいかもよ?」
「…っ」

ほんとうにもういいかげんにしてほしいんだけど。
そう言いたいけど言えない、だって慣れていない。




(to be continued)


【歌詞引用:savage garden「carry on dancing」】


blogramランキング参加中!

http://www.webstation.jp/syousetu/rank.cgi?mode=r_link&id=5949
ネット小説ランキング

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

萬紅、初暁act.1―another,side story「陽はまた昇る」

2011-11-18 23:33:55 | 陽はまた昇るanother,side story
息をするごとに、ずっと




萬紅、初暁act.1―another,side story「陽はまた昇る」

特練の練習を終えて、昼過ぎに周太は新宿署へ戻った。
今日は非番だから、午後からは時間がある。
携行品を戻して独身寮へ戻ると、周太は私服に着替えて外へ出た。今から少しだけ、実家へ顔を出しにいく。
13年前の真相を、母に話しておきたかった。

川崎駅のパン屋に寄って、遅い昼食を選んだ。
それから経年の美しい木造の門を潜って、実家の台所に立つ。
食事の支度を終えた頃、仕事を早退した母が帰って来てくれた。

「おかえりなさい、」

お互いに迎え合って微笑んで、食卓に着いた。
今日は何のために顔を合わせるか、電話でもう伝えてある。
急いで作ったスープと買ってきたパンで、食事をとりながら話した。

「お母さん。俺、お父さんを殺した犯人と、会えたよ」

ひとくちスープを飲んで、周太は言葉を押し出した。
母は、黒目がちの瞳を微笑ませ、訊いてくれた。

「…そう。宮田くんと一緒に、会えたのね?」
「ん、宮田のお蔭で、会う事が出来た…」

13年前に父を殺害した、元暴力団員の男。
父の同期の安本が、彼を更生させたこと。
今は新宿の片隅で、温かな店の主人として穏やかに生きていること。
懺悔の想いを抱いて、温もりで客を迎え贖罪を積んでいる姿。
その店に周太は、知らずに通っていつも、慰められていたこと。
それら全てを、宮田が周太に示してくれたこと。そうして周太の報復を止めて、泣かせてくれたこと。

すべてを静かに、母は聴いてくれていた。聴き終えて一言、母は言った。

「良かった、」

ひと滴の涙が、きれいな黒目がちの瞳から、言葉と一緒にこぼれた。
それから明るく微笑んで、きれいに笑いかけてくれた。

「お父さん、やっぱり素敵ね」

本当に母の言う通りだと思う。
父はどんな時でも、決して相手を責めない人だった。
そしていつだって、温かな眼差しで見つめて笑っていた。
自分が殺される瞬間にすら、いつものように、父は温かな眼差しのままだった。

父が掛けた命が、ひとりの人間を救って生き直させた。
救われた人間は、父の温かな想いのかけらを抱いて、周りへ温もりを与えて生きている。
そんなふうに、父の遺した想いと温もりが、今も生きて誰かを温め続けている。
その温もりに、父の息子である周太まで、いつも慰められ温められていた。

あの店の主人本人の口から、そう教えて伝えてくれたこと。
そのことが、周太と母にとって、どんなに誇らしく、うれしいだろう。

頷いて微笑みながら、周太は母に告げた。

「宮田はね、父さんを信じてくれたんだ。
父さんは立派で温かい男だから、きっと犯人にも温かいもの遺している。
そう信じて俺と犯人を会わせてくれた。
父さんを信じて、俺の馬鹿な行動を止めてくれた。そして俺に、彼の話を聴かせてくれたんだ」

きれいな黒目がちの瞳が、真直ぐ周太を見つめてくれる。
見つめながら、母は微笑んでくれた。

「宮田くんは、やっぱり素敵だね」

いつもなら恥ずかしくて、きっと頷けない。
でも今は素直に頷いてしまう、きれいに笑って周太は頷いた。

「ん、…宮田は素敵だよ。そして俺ね、すごく…大切なんだ」

そっかと微笑んで、きれいに笑って母も頷いた。

「うん、お母さんにとってもね、宮田くんは大切よ」
「ん、良かった」

うれしくて、周太は笑った。
だって本当に、自分たち母子には、宮田は大切だから。

あの日、宮田は奥多摩の山から駆けつけて、周太に追いつき掴まえてくれた。
報復へ向かう周太を抱きしめ止めて、大丈夫だと笑ってくれた。
そして周太から、警察官の制服を脱がせてくれた。周太の掌から、拳銃を離してくれた。
そうして周太を、ただ父の息子に戻してくれた。そして一人の客として、あの主人に会わせてくれた。
そんなふうに宮田は、主人の想いと父の想いに、周太と母を繋げてくれた。

もしあの日、13年の呪縛のまま報復へ向かって、主人を狙撃していたら。
父が遺した想いも温もりも、永遠に伝えられることは無かった。
もしあの日、宮田が止めてくれなかったら。周太も母も永遠に、冷たい孤独のままだった。

宮田はもう、周太にも母にとっても、かけがえのない大切な存在。
だから願ってしまう、あの笑顔を、自分に守らせてほしい。
きれいな大切な笑顔、どうか自分に守らせてほしい。そうしてずっと、隣で見つめていたい。

話と食事を終えてから、母とふたりで庭のベンチに座った。
父が母の為に作ったベンチは、陽だまりに木肌が温かかった。
そのベンチからは、真白に咲く山茶花が見える。周太の誕生花だからと、生まれた時に父が植えてくれたものだった。
真白な花を見あげて、母が微笑んだ。

「周太の誕生日の時ね、この花を見て、宮田くん幸せそうだった」

なんだかそういうのは気恥ずかしい。
首筋にのぼる熱を感じながらも、周太は母の横顔を見た。
木洩日の緑翳に白く浮かんだ横顔は、きれいだった。
そっと唇を微笑ませて、ささやくように母が言った。

「宮田くん、お父さんを背負っての制服姿だったね」

しんぞうが、大きく一度ことんと響いた。
母の言う通りだと、気付かされた。

あの日に初めて見た宮田の、警視庁青梅警察署の山岳救助隊服姿。
奥多摩の青空のような、ブルーのウィンドブレーカー姿が眩しかった。
その背中には「警視庁」とあざやかに白く染め抜かれていた。

―お客さん、警視庁の人だったんだ

警視庁の救助隊制服姿を、主人は少し驚いたように見て、それから微笑んだ。
そんな主人は、常連として3年間ずっと宮田を見ていた。

―笑顔がね、とてもいいなと思って、いつも拝見していました
 …人さまをね、殺しちまって。お客さんと同じ、警視庁の警察官でした―

そう話し始めた主人の目は、悲しげで、懐かしそうで温かかった。
あの時あの主人は宮田に、父の姿と救いを見つめて、話していた。

13年間、贖罪に生きる日々。その果てに現われた「警視庁山岳救助隊員」の、きれいな笑顔。
殺した相手と同じ「警視庁警察官」だけれど、人命救助の任務を背負う男。
その男は自分の店の常連で、いつも良い笑顔の男だった。
良い常連で、殺した相手と同じ立場で、けれど人の救いに生きている、きれいな笑顔の男。
そんな宮田だったから、主人は心を開いて話すことが出来た。

出所してからの3年間ずっとの常連として、宮田は笑顔であの場所に座った。
そして父と同じ「警視庁」の人間として、宮田はあの場所に座ってくれた。
同じ警視庁の制服、けれど父と宮田は違う制服姿だった。父は活動服だけれど、宮田は救助隊服姿だった。
同じ警視庁警察官、けれど宮田は人命救助の警察官として、主人の前に座ってくれた。

きっとあの時、あの主人の心も、宮田に救われた。
そしてあの時、周太の心も、父の遺した想いすら、宮田に救われて抱きとめられた。

もし宮田がいなかったら。
もし宮田が周太の隣に来てくれなかったら。
もし宮田が「警視庁警察官」ではなくて、人命救助の警察官じゃなかったら。
もし宮田があの店の常連じゃなくて、きれいな笑顔でいつも笑ってくれなかったら。
きっと誰もが救われず、誰もが冷たい孤独の底に閉じ込められていた。

宮田だから、宮田だったから。救うことが出来た。
あの大切な、きれいな笑顔。あの笑顔だけが救って、温もりを幸せを示してくれる。
だからもう、本当は解っている、気付いている。自分が本当は、あの隣を、どんなふうに想っているのか。
その想いに押されて、かすかな声が周太の唇からこぼれた。

「…みやた、」

ほんとうにもう、あの笑顔だけ。あの笑顔だけが、たった一つの自分の救い。
だから守りたい、見つめ続けたい。きれいな大切な笑顔、どうか自分に守らせて。
あの笑顔が守れるように、救いになりたい、寄り添っていたい。
あの笑顔を守れるのなら、自分の全てを掛けていい。本当はとっくに、そう想ってしまっている。

だってもう、本当は、愛している

生まれて初めての、この想い。
そしてきっと、たった一つのこの想い。
代りなんてどこにもない。ひとりだけの人、ひとつだけの想い。

愛している。
もうずっと愛している。あの隣だけを、自分はずっと、愛してしまう。

ふりつもった想いが、周太の心を浚っていく。
ふくらかに温かな熱が、心の底から瞳へあふれあがる。
そうして心の底から、ひとつの名前が唇から、秘められた声でこぼれた。

…英二…

父の植えた山茶花の前、父の作ったベンチに座って、母の横で周太は泣いた。
その横で、真白な花を見つめたままで、母も静かに泣いていた。

父が死んで13年ぶりに、周太と母は一緒に泣いた。


朝、目が覚めると周太は、窓際へ立つ。
静かに窓を開けると、雨後の匂いの風が吹きこんだ。
ビルの谷間の空を見上げて、ちいさく周太は呟いた。

「…奥多摩は、雨、どうなのかな」

右手に持ったままの携帯を、周太はそっと閉じた。
いつものように昨夜も、宮田は21時に電話をくれた。

「今日はな、滑落の遭難救助があったよ。でも擦傷で済んでいたから、良かった」

そんなふうに笑って、一日の話をしてくれた。
昨日は、本来宮田は週休だった。けれど明日の勤務を、国村とシフト交換して業務についていた。
周太は今日の午後から休暇に入る。射撃特練の練習が終わり次第、今日は奥多摩へ行く。
そして明日から雲取山へ登る。その明日の為に宮田は、昨日はシフト交換していた。

「ん、無事で良かったな」

そう言って周太は微笑んだ。けれど本当は、心が冷えて怖かった。
自分の為にシフト交換した日に、遭難救助が発生して現場へ宮田は立った。
自分の為に危険な場所へと向かわせた、その罪悪感と恐怖に心が凍えた。

本当は、いつも不安で怖い。
山岳救助隊員として、山の危険な場所へと遭難救助に宮田は向かう。
そんな任務には、簡単に助けを呼べない自然の厳しさと、いつも隣合わせ。
そんな任務に生きる以上、命の保証は誰に出来ると言うのだろう。

警察学校の山岳訓練で、滑落した周太を宮田は救ってくれた。
あの時のように宮田はいつも、一生懸命に救助をするのだろう。
あの隣は直情的なほど実直で、素直な想いだけを言い行動して。きれいに笑って、目の前の人を救ってしまう。

そういう健やかな心が、好きだ。
そういう一途な優しさが、ほんとうに好きだ。
けれど。そうした純粋な誠実さが、あの隣をなおさらに、遭難救助という危険へと向かわせている。
だから不安になる。あの13年前のように、父と同じように、帰ってこなかったら。

だってあんまりにも、二人は似ている。
純粋で温かい誠実な心、その心がいつも、人を救いたいと危険へ全力で走らせる。
きれいな笑顔が美しいのは、その想いの温もりと真摯な生き方だから。
けれど、その美しさのために、父は死んでしまった。
最期の瞬間まで、温かな想いに生きた父。その父と同じ想いを抱いて、あの隣も生きている。
だから不安になる怖くなる、どうか同じ結末にはならないで。どうか自分の隣に、必ず帰って来てほしい。

ほんとうは不安で怖い、いつだって。
だってもう、ひとつだけの想いだと、自分は気付いてしまったから。
この想いを失ったら、きっと自分も生きてはいられない。そう解っている、泣きだしそうな心を抱いている。

けれど、あの隣のために、笑っていたい。
だっていつも願ってくれているのを知っている「周太の笑顔を見たい」
だからいつも、あの隣に笑いかけたい。そうして笑って、自分を見つめて欲しい。

警察学校の山岳訓練、滑落した周太を宮田は救助した。
けれど、あの時ほんとうは、宮田は救助に来れるはずが無かった。

100ミリの雨、崩れやすい山の土。装備も不安定なチェストハーネスだけ。
そんな状況は、初心者が救助へ向かえる筈が無い。そしてあの時の宮田は、初めての山岳経験だった。
「必ず迎えに行く」そう宮田は約束をしてくれた。けれど叶うはずがないと、周太には解っていた。
父の生前には山へ行っていた経験から、無理なことだと知っていたから。

それでも約束はうれしくて、温かかった。
そんな温かな想いに包まれて、怪我を負う谷底でも、安らかだった。

それでも宮田は、救助に来た。
そして本当に背負って、崖を登攀して救ってくれた。
その不慣れな肩にはザイルが食いこんで、傷を残してしまった。
それでも宮田は、きれいに笑ったままで周太を背負って救ってみせた。

信じられなかった。
こんなことが出来るなんて、信じられなくて、驚いて。
そして気付いてしまった。この隣は、約束のために全力を掛けられる人だと。

だから今も、信じている、待っている。
必ず隣へ帰ると、約束してくれたから信じている。
どんな場所でも、どんな時でも、きっと必ず隣へ帰って来てくれる。

「…ん、だいじょうぶ」

そっと周太は微笑んで、窓を閉めて着替え始めた。
着替えたら、天気予報を見ながら食事する。
そうして術科センターへ行って、射撃特練の練習をする。
それが終わったら、仕度をして、奥多摩へ行く。
そうして今夜には会える。だから今は、それでだけを見つめて、笑顔でいたい。

射撃特練から戻り、携行品の保管返却をすべて終えた。
自室に戻ると、周太は私服に着替えて仕度する。
登山用ザックに荷物は全部納められた。登山靴は履いていく。
今来ている服も、登山ウェアも、着替えも。どれも宮田が選んでくれた。

「雲取山に連れていく約束だろ?その為のだから。約束の為だから、遠慮なく受取ってよ」

誕生日の時に、そう言って登山ウェアを贈ってくれた。
こんなふうにいつも、自分を想って尽くしてくれる。
そしていつも、うれしい。うれしくて幸せで、寄せられる想いが温かい。

自分も何か、あの隣に出来ないだろうか。
ぽつんと周太は呟いた

「でも、…どうすればいいのかな」

自分だって本当は、あの隣への想いの通りに尽くしたい。
でもどうすればいいのか、周太には解らないままでいる。
だって誰かに想われることも、誰かを自分が想うことも、それ自体が初めてのこと。
想いを伝える術も、想いのまま相手へ尽くす方法も、知る機会すらなかった。

「…でも、なんかしたい、な」

でも何をすれば、喜んでくれるんだろう?
少し考えて、思い出した宮田の言葉に、周太は微笑んだ。

―今まで食った中で、この肉ジャガが一番うまい
 周太の茶もコーヒーも俺、いちばん好きなんだ

自分の作ったものを、一番好きだと言ってくれる。
今夜の夕食、何か作るのはどうだろう?

今日泊まるのはビジネスホテル、もちろん調理器具は無い。
けれどトラベルナイフなら周太は持っている。これも父の遺品の一つだった。

「ほら周、こんなふうにね、野菜も果物も、きれいに切れる」

山に行くと父は、昼食にその場でサンドイッチを作ってくれた。
父はトラベルナイフで、野菜をきれいにカッティングしていた。
それが楽しくて、周太も父を真似て一緒にナイフの練習をした。
あれなら今夜も、出来るかもしれない。

「…ん、出来るな」

予定より早い、けれど料理の仕度をするなら調度いい時間。
それに少しでも早く、あの隣の近くへと行きたい。
周太は淡いグレーのショールカラーコートを羽織った。
デスクの棚から文庫本を一冊、手に取るとコートのポケットにしまう。
それから登山靴を履いて、ザックを片肩に掛けると廊下へ出た。

「あ、湯原、今から行くんだ?」

担当窓口に今から出ますと話し終えて、振り向くと深堀がいた。
これから当番勤務に出るのだろう、活動服姿に制帽を持っている。
頷いて周太は答えた。

「ん、明日は朝一の入山だから、前泊するんだ」
「朝一なんて大変だな。あ、途中まで一緒に行こうよ。俺、早めだけど今出るとこなんだ」
「ん、いいよ。調べごとか?」
「うん、ちょっと案件のファイルを見たいんだよね」

並んで話しながら歩きはじめた。
気さくな笑顔で深堀が訊いてくれる。

「朝一に入山だなんて、結構長いルートを登るの?」
「いや。宮田がね、登山道の巡視も兼ねているから、時間かかるんだ」
「なるほどね。山岳救助隊って忙しいんだな、宮田がんばってるんだ」

気さくで明るい深堀は、周太にも話しやすい。
深堀は遠野教場の同期だけれど、学校時代は話す機会は少なかった。
新宿警察署管轄は外国人居住者が多い、百人町交番がある。
語学に堪能な深堀は、そこに配属され、周太と一緒に新宿警察署へ卒業配置された。

周太の性格だから、最初は困った。
周太は慣れていない相手には、どう話していいか解らない。
けれど、深堀から気さくに声掛けて、いつも食堂で誘ってくれた。
そんな深堀のお蔭で、新宿署の先輩にも、何人か知り合いが出来ている。

「ほらこの間さ、俺も宮田に会っただろ?」
「あ、先週のことか?」

あの13年前に決着を付けた日。あの店の主人に会いに行った後、独身寮の廊下で深堀と宮田は会っている。
そういえば二人で楽しそうに話していたな。そう思っていると、いつもの笑顔で深堀が言った。

「ほんとにさ、宮田かっこよくなったよね」
「そう?かな、」
「うん、なんか頼もしくてさ、大人の男って感じかな」

こういうことは気恥ずかしくなる。
もちろん深堀は、周太と宮田の関係を知らない。
それでもなんだか困ってしまう、けれど深堀は普段通り、楽しく話している。

「この間さ、手話講習に俺、行っただろ?」
「ん、俺にも少し教えてくれたな。瀬尾も一緒に行ったのだったな」
「そう、それで瀬尾もね、言っていたよ」
「ん、何を?」

いつものように優しい笑顔で、深堀が教えてくれた。

「宮田の背中かっこいいね。大切な人を背負える、大人の男の背中だな。そんなふうに瀬尾はね、言っていたよ」

宮田は最近かっこよくなった。自分もそう思っている。
関根にも瀬尾にも、宮田の姉にも言われた。母も言っていた。
宮田は卒配後、急に大人びて表情にも深みが増している。
山岳救助隊員として、山に廻る生と死を見つめて、宮田は1ヶ月半を過ごしている。
そんな山ヤの警察官の日々が、宮田を急成長させた。そう周太は思っていた。

―大切な人を背負える、大人の男の背中―

けれど瀬尾は、そう言った。
そして、先週の白妙橋で言われた、宮田の言葉。

―もう俺、ちゃんと周太を背負えるから。安心して背負われてよー

宮田の大切な人は誰なのか、そんなことは自分が一番よく知っている。
直情的で思ったことしか言えない、出来ない宮田。
そんな宮田の想いの表現は、いつも堂々と明快でダイレクトに伝わる。
だから、気付いてしまった。宮田が最近かっこよくなった理由は、何なのか。

「…ん、」

相槌を打つ顔には出なくても、首筋は熱くなってくる。
気恥ずかしくて周太は、そっとコートの襟を直して首筋を隠した。
その横を歩く深堀が、何気なく言った。

「湯原もさ、宮田のこと好きだよな」

いまなんていわれたんだろう、なんでこんなことをいうのだろう。
驚いて途惑って、周太の頭のなかが真っ白になった。
けれど深堀は、いつも通りに笑いかけてくれる。

「俺もさ、宮田って好きだな。このあいだ話していて、そう思ったよ。
瀬尾はね、宮田と湯原が並んでいる姿をね、描くのが好きだって言っていたな」

「そう、なんだ」

答えながら、周太は少し自分が恥ずかしくなった。
こんなふうに、周太と宮田のことを、仲が良いと指摘されることがある。
そんなとき、宮田はいつも堂々として、少しも恥じることなく肯定してしまう。
いつも「俺の一番、大切なひとです」と、きれいな笑顔で誇らかに言ってくれる。

そんなとき本当は自分は、うれしくて、いつも幸せが温かい。
自分も、そんなふうに、宮田を温かく幸せに出来ないのだろうか。
そう思っていると、深堀が笑った。

「宮田もさ、湯原のこと大好きだよね。このあいだ見ていて思ったんだ」

きれいな大切な、宮田の笑顔。
あの笑顔だけが、たった一つの自分の救い。だから守りたい、見つめ続けたい。
あの笑顔が守れるように、救いになりたい、あの隣にふさわしい自分でいたい。
あの笑顔を守れるのなら、自分の全てを掛けていい。ひとつ息を吸って、周太は深堀を真直ぐ見た。

「ん、そうだね。宮田は大切にしてくれるな、」
「うん、仲良いっていいよね」

深堀は普通に笑ってくれる。
きっと本当のことなんか、思いもつかないだろう。
自分と宮田の繋がりは、今の日本では理解され難い。そう解っているから。

それでも。他がどう思っていても、もう、偽りたくはない

宮田は、代りなんてない唯一の人。生まれて初めての、唯一人だけ想う人、ひとつだけの想い。
きれいな笑顔も、この想いも、少しだって壊したくない。
だから今から胸を張って、偽らないでいたい。

周太は、きれいに笑って言った。

「俺もね、大好きなんだ。宮田が、いちばん大切だ」

だってもう、愛している。
この唯一の想いも、きれいな笑顔も、裏切らずに生きていたい。
今このとき、この想いすべて、大切に抱きしめていたい。

「そうなんだ、」

言って、深堀が少し首かしげて周太を見た。
それから微笑んで、言ってくれた。

「なんか湯原、今、すごく良い顔している。男だけど、きれいって感じだ。なんでだろうな?」

きっと良い顔だろうと自分でも思う。
だって今、きれいな笑顔に自分も、すこしだけ胸を張れると思う。
そんな自分が今、すこしだけ誇らしくて、信じられる。きれいに笑って、周太は言った。

「ん、ありがとう。宮田がね、隣にいるから、かな?」
「いいね、そういうの」

深堀は、いつも通りに優しく笑ってくれる。
それから他愛ない話を少しして、またねと駅近くで別れた。

そのあと少し歩いた先、街路樹の陰に周太は足を止めた。
ビルの谷間の、小さいけれど青い空を見あげる。
そっと両掌があがって口許を覆うと、ほっと息があふれ零れた。

「…俺も、言えた…」

ちいさなつぶやきと、一緒に涙がひとつ頬をこぼれた。

本当は、気恥ずかしい、すこし怖い。
けれどこうやって、自分だって守れるようになりたい。
自分を救ってくれる、あの隣、きれいな笑顔。いつも幸せが温かい。
すこしだけでも近く、きれいな笑顔の隣に相応しい、そんな自分に近づきたい。

「…ん、」

ひとつ頷いて、周太は微笑んだ。
それから駅の改札を通って、キオスクでオレンジ色のパッケージの飴を買った。
ひと粒ふくんで歩いて、オレンジ色の電車に乗る。
平日の真中で昼さがり、空いた車内はゆったり座って寛げた。
胸ポケットのiPodのイヤホンをセットして、スイッチを入れる。
あの穏やかな曲が、やさしく流れ始めた。

I'll love you more with every breath Truly, madly, deeply, do
I will be strong I will be faithful
‘cause I am counting on A new beginning A reason for living A deeper meaning

“息をするたびごとにずっと、君への愛は深まっていく ほんとうに心から、激しく深く愛している
僕は強くなっていく、僕は誠実になっていく
君への想いはきっと、新しい始まり、生きる理由、より深い意味 そう充たす引き金となる“

この歌詞は、自分の想い。そんなふうに思えてしまう。

なつかしい古い庭、真白な花の前で、昨日、自分の想いを見つめた。
あの隣だけを自分はずっと愛してしまう、もうずっと、愛している。
そしてさっき、すこしだけ、自分は強く誠実になれた。
初めての、唯一つの、唯一人だけに向ける、この想い。この想いのためになら、自分は全てを掛けるから。

ふっと思い出して携帯を取り出した。
天気予報のサイトにBookMarkから繋ぐ。
眺めた奥多摩の今の天気は晴天、気温も低くない。
微笑んで周太は、ちいさく呟いた。

「よかった、」

雨、雪、風、日照時間、気温の寒暖、かすかな地揺れ。
都会では問題ではない天気の変化すら、山では生死を分かつ。
だからいつも周太は、天気予報を見てしまう。
あの隣がいる山が、いつも気になってしまうから。

ほっと安心して携帯をしまうと、周太は文庫本をひらいた。
フランスの植物学者による、山行記が綴られている。
きのう実家に帰った時、父の蔵書から持ってきたばかりだった。

父の蔵書はフランス文学の原書が多い。それらを父は、翻訳しながら読み聴かせてくれていた。
そして父を亡くした周太は、父の軌跡を追いたくて、原書でも自力で読みはじめた。
そのお蔭でフランス語は、読み書きだけなら出来る。

この本も原書で、フランス語で書かれている。
目次を見ると、日本の山を歩いた項があった。
読みはじめると、日本とフランスの植生の差が解り易く記されている。
彼が歩いた山の名に“Mont-kumotori”があった。
なんども“Un hetre“と綴られている。周太は携帯から辞書で調べてみた。

「ブナの木、」

思わず周太は、その意味を呟いた。

宮田の大切な場所には、ブナの木の巨樹がある。

草地の真ん中に佇む、一本のブナの巨樹。青い空へとゆるやかに伸ばした梢は、雲のように立派だ。
掌で幹にふれると、表皮の奥には温もりが感じられる。耳を幹へとつけると、かすかだけれど、水の音が聴こえた。
ブナは、山の水を抱く木なんだ。ブナに抱かれた水が、伏流水となって山清水になる。
誰に知られず、ただ水を抱いて、たくさんの生命に寄り添って佇んでいる。

あの隣は、そんなふうに大切な、ブナの木の話をしてくれた。
そうして抱いている想いを、そっと教えてくれた。

「ブナはさ、どんな水も抱いて清水へ湧かせる。俺もそんなふうに、出会う人を笑顔にできたらいい」

もうそう出来ていると、周太は想う。
13年間の孤独を壊して、自分を笑顔にしてくれた。
それは他の誰にも出来なかった、宮田だから出来たこと。

そして自分は今、唯一つの想いを抱いている。
この想いを抱けることが、うれしくて幸せで。そう想える今は、もう13年間を恨めない。
あの苦しんだ13年間があったから、周太は警察官の道に立った。
その道に立ったからこそ、あの隣に会うことが出来た。
こんなふうに、13年間の冷たい孤独まで、宮田は温かな想いに変えてくれた。

―ブナはさ、どんな水も抱いて清水へ湧かせるー

宮田は、13年間の冷たい孤独も周太ごと抱いて、温かな想いを湧かせてくれた。
そうして今、周太の心を静かに、唯一つの想いが充ちて温かい。
唯一つの想いが、そっと周太の唇から、音にならない声で零れた。

…英二…

音にならない声と一緒に、ひとしずく涙が頬を零れる。
涙の軌跡に曳かれるように、周太の顔にそっと、静かな微笑みが咲いた。

河辺駅に着くと、駅のカフェでクロワッサンを買った。
そのあとタウンビルの食品店で、野菜やコールドミート類を選んだ。
陳列棚にドリップ式のインスタントコーヒーを見つけて、周太は手に取った。
青梅署警察医の、吉村医師の穏やかな笑顔が懐かしい。
あのひとは好きだ、周太は微笑んだ。

「いつでも、顔を見せに来て下さい。そして、コーヒー淹れて頂けたら嬉しいです」

先週お世話になった時、そんなふうに言ってくれた。
そして自分は、また来ると約束をした。
約束を果たしたい、会いに行きたい。
アポイントはしていない、急だけれど。でももし会えたら、うれしい。
手に取ったコーヒーを、周太は籠に入れた。

チェックイン手続きを周太は一人で出来た。
田中の葬儀に参列するために、一度ここに泊っている。
そのときの宮田の様子を見ていて、雰囲気は解っていた。

部屋に荷物をおろして、ショートコートを脱いだ。
トラベルナイフを出して、手を洗って袖を捲る。
捲った袖口の右腕に、赤い花びらのような痣が露わになった。

「…あ、」

あの隣が会うたびに、いつも唇で刻むから、もう痣になっている。
きっともう消えない、それくらい深く強く、いつも刻まれているから。
見るたびに気恥ずかしい、そして甘やかな幸せが温かい。
気恥ずかしく微笑んで、周太は野菜を洗い始めた。

トラベルナイフでのカッテイングは、13年ぶりになる。
手始めに、キュウリの飾切りをしてみる。
一個目がすこし失敗したけれど、一本分をきれいに作ることができた。
一度きちんと体で覚えたものは忘れない、そんな言葉は本当かなと思える。

キュウリの失敗作を口に入れながら、ラディッシュ、トマトとカッテイングしていく。
思ったよりも早いナイフ捌きで、きれいに造りあげられる。
ほんとうに切って並べるしか出来ないけれど、心づくしが出来たらいい。
そして想う、父に教えられた記憶があるから、大切な人へと想いを示せる。

13年前あの夜、父を失った瞬間。父の記憶は痛く冷たい傷へと、姿を変えた。
父との幸福な時間が、奪われ永遠に失われた「喪失」という冷たい現実。
その冷たい現実では、父の記憶がよみがえるたび、失った痛み哀しみが再生される。
そんなふうに、幸せだった日常の記憶は全て、辛く哀しい傷を裂く、そんな引き金になった。

けれど先週、宮田が犯人だった男の口を開かせて、父の想いの足跡を示してくれた。
それから奥多摩へ連れてきて、吉村医師と会わせてくれた。
吉村医師は全てを穏やかに受けとめて、一杯のココアを周太にくれた。

父が好きだったココア、自分も好きだった。
けれど父が殉職してから、飲めなくなった。一緒に飲んだ幸福な記憶が、辛く悲しく、蹲っていた。
「ゆっくり、飲んでごらん。きっと温まる」
そう差し出されて、13年ぶりに啜った。涙が零れて、甘くて、おいしくて、温かかった。
「そうか、良かったな。温かいのは、うれしいな」
そう言って吉村は肯定してくれた。
そうして13年ぶりに周太は、父親との幸せな記憶と素直に向き合えた。

あの時、ココアに周太の涙がおちた。
周太の涙がこぼれたココアを、宮田は横から受け取った。

―俺にも、ひとくち飲ませて…うまいな。温かくて、すごく甘い―

父の記憶と周太の心の傷が、溶けこんでいた、あのココア。
それを宮田は解ってくれて、きれいな笑顔で啜ってくれた。
そうして周太の傷も、父の記憶も、飲みこみ納めて、受け留めてしまった。
その事が嬉しくて幸せで。13年間の冷たかった細かい傷は、あの時から溶け始めた。

ひとつだけの想いを抱いて、ぽつんと周太は呟いた。

「ほんとにね…うれしかった、きっと…想ってくれたより」

自分の呟きが、なんだか甘く温かい。
そっと微笑んだ周太の手許で、カッティングが全て終わった。
盛り付けを終えて、フロントで借りたラップを掛ける。
冷蔵庫にしまい終えてから、ほっと息をついて周太はソファに座った。

コートから出したiPodのスイッチをいれる。
オレンジ色のパッケージから、ひと粒ふくんで、窓を眺めた。

あわいブルーの空は、菫色の紗に覆われはじめた。
薄暮に沈みはじめた稜線の近く、白い雲に薄紅が刷かれていく。
山の早い黄昏が、ゆるやかに街を浸して暮れる。

こんなふうにゆっくりと、夕暮れを眺めることは好きだ。
警察学校の寮でも、あの隣と眺めていた。
屋上で、ベランダで、ふたり並んで夕暮れを見た。
月が出るまで眺め、無言でいても穏やかで、温かかった。

ふとiPodの曲が、いつもと違うことに周太は気がついた。
みると1曲だけのリピートが解除されている。コートから出す時にボタンを押したのだろう。
「同じ人の曲だから、好きかも知れないだろ」
そう言って宮田は、何曲か入れてくれた。けれど周太は、いつも同じ曲ばかり聴いていた。

せっかく入れてくれたのだし、このまま他も聴いてみようかな。
そう傾けた耳元に、切ないビートが始まった。
ちょっと歌詞が気になる。
ベッドサイドのメモとペンのセットを持ってくると、周太はヒアリングを始めた。

The moonlight...Shines down interstellar beams 
And the groove tonight Is something more than you've ever seen
The stars and planets taking shape A stolen kiss has come too late
In the moonlight Carry on, keep romancing, Carry on, carry on dancing

You're never safe 'till you see the dawn 
And if the clock strikes past midnight The hope is gone To move under...

Move. Closer. Passion. Stronger

There's a magic only two can tell
In the dark night Ultra violet is a wicked spell

Moving on... Moving all night

なんだか不思議な雰囲気の単語が並んでいる。
父の蔵書にあった「Wordsworth」の詩集と、雰囲気が似ている。
蔵書には珍しく英文原書だったから、中学校にあがった頃には原文で読めた。
Wordswort、ワーズワースは自然を詩っている。だから自然が好きな周太には、親しみやすかった。

けれどワーズワースの詩は、自然の彼方にある神秘、魂の奥深い共感を喜びとして賛美する詩だった。
そういう神秘の意味をふくんだ文章は、原文のままの直訳では意味が解り難い。
だから最初に読んだ時、単語の一つ一つを辞書で調べて周太は意訳した。

いつもの曲もそうだけれど。
この曲は一層そんな雰囲気が強くて、原文だと意味が解り難い。
でも宮田が教えてくれた曲、やっぱり意味を知りたい。
周太は意訳をし始めた。

何度も現われるフレーズ “Carry on, carry on dancing” 
普通なら「踊り続けよう」だけれど、なんとなくこの歌詞の前後では、しっくりこない。
周太は携帯の辞書で、例文を調べた。

「…なんのことだろう?」

よく解らないけれど、意訳を当てはめた。
とりあえず、日本語にして全文を眺めると、解るかもしれない。
訳し終わって、周太は通して読んでみた。

月光…星と星をつなぐ光の梯子が、降り照らす
そして今宵の狭間 今まで見つめたよりもっと、君はなにか大きな存在となる
星や惑星が姿現して盗まれたキスは、盗まれ止められても手遅れ、それほどに想いが深い
月光の中で、止めないでいて、愛をささやき続けること 止めないでいて、抱きあげ揺らめき続けること

夜明けを見るまで君は、恐れる必要なんて無い
そして時が深夜を告げるなら、望みは君の奥深くへむかい去りぬ

来てよ。もっと近くに。激しい情熱に。激しく強い想いに

暗夜が抱く真深き菫色の闇は、激しい想いの呪文
その魔法には2つだけ、伝えられることがある

超えてしまおう…涙あふれる想いの今宵すべて


周太は真っ赤になった。
だってこれは、あんまりにも、激しすぎる想いを詩っている。

「…こんな歌詞だなんてどうしよう…」

思わず呟いてしまって、余計に気恥ずかしくなった。
なんとなく膝を抱えて、それでも歌詞を周太は見つめた。
だって宮田は「好きかも知れないだろ」そう言ってこの曲をくれた。
それってなんだかどういうこと?って思ってしまう。

いつものあの曲を使って、何度か宮田は想いを告げてくれている。
そしてこの曲を聴かされたら…どうしたらいいかわからない。

とりあえず気付かなかった事にしておこう。
そう周太は決めた。
だってこの曲で何か言われたら、それこそどうしたらいいか解らない。
気恥ずかしさと一緒に、メモを登山ザックのポケットに仕舞い込んだ。

ほっと息をついて窓を見遣ると、もう暗くなっている。
左腕の時計を見ると17時だった。ふっと周太は時計にふれる、この時計も父の遺品だった。
父の刻んでいた時を感じたくて、13年前あの日からずっと持っている。
それでいつも気がつくと、この時計を触っていることが多かった。
けれど最近は、あまり触れなくなっている。

「…宮田が隣に来てから、ふれていなかった、かな」

ぽつりと呟いて、急に想いが迫上げた。
いますぐに会いたい、出迎えたい― そんな想いが立ち上がらせて、コートに腕を通させる。
それからコーヒーの袋を持って、周太はホテルの扉を開いた。



(to be continued)


【歌詞引用:savage garden「truly madly deeply」「carry on dancing」】


blogramランキング参加中!

ネット小説ランキング
http://www.webstation.jp/syousetu/rank.cgi?mode=r_link&id=5955

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログへにほんブログ村
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

萬紅、第四夜―side story「陽はまた昇る」

2011-11-17 21:20:10 | 陽はまた昇るside story
※前半1/5R18(露骨な表現も何も無いのですが念の為)

かさなる、場所と想いと




萬紅、第四夜―side story「陽はまた昇る」

夜半、ふっと英二は目を覚ました。
夜の気配を濃密に感じる、街も山もまだ眠りが深い。
たぶんまだ3時頃、長い腕をのばしてベッドサイドの腕時計をとった。
掌に納めたクライマーウォッチのLEDをつけると、思った通りの時間が照らされる。
まだ時間がある。微笑んで英二は時計を置くと、そっと隣を抱きしめて見つめた。

あわいダウンライトに照らされて、やわらかい黒髪が瑞々しい。
すこし紅潮した頬にふる、長い睫毛の翳がけぶっている。
しなやかに寄り添う肢体の、なめらかな肌理は赤い花の痕に埋もれていた。

― 抱いて、英二  
ひとしずくの涙と一緒に、とけるように小さな声で、周太は求めてくれた。
求められて、名前を呼ばれて、うれしかった。

約束の通りに雲取山へ行く、その為に周太はここへ来て、1夜を過ごした。
次の夜は雲取山で過ごして、それから今は3つめの夜。
3つの夜を共に過ごして、幸せで、“初めて”はふるように訪れてくれた。

初めて名前を呼んでもらえた。
初めてキスをしてもらえた。
山の沈む陽と夜と暁を、初めて一緒に見つめて抱きしめた。
錦繍の秋、初雪、半分ずつのリンゴ、山の水、ヘリコプターの風。全ての“初めて”がうれしい。

そうして今、腕の中で眠るのは、初めてキスで求めてくれた体。
夜の眠りを幸せへ浚う、それはもう何度目かのこと。
けれどこの3つめの夜に、浚われたいと求めて、この唇からキスをくれた。

この隣の肌に体に想いを刻む、その自分の頬に、ときおり掌がのべられた。
頬から惹きよせる、掌の温もりが嬉しくて、掌の熱のままに、求められる唇をよせた。
よせた唇へと隣から、そっと求めて唇を重ねてくれた。
そんなふうに隣から、求めて熱い唇をくれたのは、初めてのことだった。
熱い眩い幸せな、まぼろしだったのかと想ってしまう。
けれどこうして見つめていると、あざやかな唇の熱はよみがえる。

山の傍と山の上とで過ごした、3つの夜。
きっとずっと、どの“初めて”も、自分は忘れることは出来ない。

そしてこの後の4つめの夜は、新宿で次の約束をするだろう。
またこんなふうに寄り添って、夜と暁を過ごすために、約束を重ねられたらいい。
そうして約束を重ねていつか、毎日をこんな夜と朝で過ごせる幸せを、きっと掴んで与えたい。

ただ眠っている隣。
いま、言葉をかけてくれる訳じゃない。けれど、言葉無くても居心地いい。
こぼれる髪がうれしくて、ふれる吐息が甘やかで、よりそう肌が温かい。
穏やかで静かな、やさしい気配。透明で温かな想いの底は、幸せに安らいでいく。
眠り深い睫毛を眺めながら、穏やかな夜から朝を、英二は見つめた。

周太の目覚めは、ゆっくりだった。
ときおり吐息を零しながら、9時前まで眠りにまどろんだ。
途中そっと英二が起きて、浴室から着替えて戻っても、周太の眠りは穏やかだった。

久しぶりに山に登って疲れたのだろう。
それに夜は、英二の想いに応えてくれていた。
山上での夜は、ただ抱きしめて眠った。その分までたぶん、昨夜は求めてしまった。
でも許してほしい、だって昨夜は周太からも、何度もキスを求めたのだから。
眠りにまどろむ右腕の、華やかに赤い痣。そっと長い指でふれて、英二は微笑んだ。

「きれいだね、周太」

静かな低い声で呟いて、きれいに英二は笑った。
笑いかけた視線の先で、微笑む眠りの顔は、きれいで幸せに充ちている。
ずっと毎日この顔を、見られたらいいのに。そう思ってしまって英二は、ポケットから携帯を出した。
長い指の掌に包んで、かすかなシャッター音を切った。

「…ん、」

ちいさな溜息がこぼれて、長い睫毛がかすかに動いてくれる。
そろそろ起きてくれるのかな、見つめてくれるかな。
想いながら静かに、英二は顔を近寄せて覗きこんだ。

「…えいじ?」

ゆっくり披かれた睫の奥から、黒目がちの瞳が見つめてくれた。
ぼんやりとした瞳、けれど純粋な透明な、心が露わで惹きこまれる。
そして最初に名前を呼んでくれた。
今日の最初の言葉が、自分の名前。うれしくて、きれいに英二は笑いかけた。

「周太、おはよう」

コーヒーと買ってきたクロワッサンで、遅い朝食を軽めにすませた。
すこし気怠げだけれど、周太はコーヒーを淹れてくれる。
思ったより元気そうな様子が、英二は嬉しかった。

「はい、英二」
「ありがとう、周太」

渡されたマグカップの香が、うれしい。
英二はもう、コーヒーを巧く淹れられる。
つい先週に、御岳駐在所の休憩室で、周太が教えてくれたばかりだった。
けれどその時に約束をした「俺にはさ、一生ずっと周太が淹れてくれること。それなら覚える」
その約束通りに周太は、今日もコーヒーを淹れてくれた。
うれしいなと微笑んで、英二は口を開いた。

「周太、美代さんと楽しそうだったね」
「ん、なんか楽しかったな」

昨夕は国村の地所の河原で、夕食と酒を楽しんだ。
山の冷気に親しんで、焚火の前に座ることを好む、国村の趣向だった。
飲酒後の代行運転手にと、国村は美代を連れてきた。
幼馴染で恋人で一番大切な隣、美代は国村のそういう存在だった。
そんな美代は、穏やかで静かな包容力と、きれいな瞳の明るい素直さが、どこか周太と似ていた。

「国村がね、周太と美代さんは似ているってさ」
「英二は、どう思った?」
「うん、すこし雰囲気が似ているなって、俺も思うよ」

言われて少し考えこんで、周太は唇をひらいた。

「ん、なんか話しやすかったな?俺がね、好きな話ばかりだった」
「気が合うんだな、」
「そう?…ん、料理や植物をね、よく知っていて、話して楽しかった」

初対面から自然と周太が話せる。そういう相手と会えたことがうれしい。
でもちょっと拗ねてみようかな。すこしだけ低めた声で英二は言った。

「なんか、妬けるな」
「やける?」

不思議そうな黒目がちの瞳で、マグカップを抱えて見上げてくれる。
その様子を、かわいいなと思ってしまって、英二は拗ねきれなくなった。
やわらかく微笑んで、英二は隣を覗きこんだ。

「周太がね、他の人と仲良いとさ、俺、嫉妬しちゃうんだ」
「英二が、嫉妬?」

驚いた瞳が大きくなる。
そんなに意外だったのかな。思いながら英二は正直に白状した。

「警察学校の時からさ、ずっとそうだよ。俺の身勝手だけどね」
「ずっと?」
「ああ、ずっと。脱走した夜にさ、周太の部屋で泣かせてもらった。あの夜から」

ずっとだよ、言って英二は微笑んだ。
英二はあの夜からずっと、周太を見つめ始めた。

警察学校の寮から脱走した夜。
あの頃の彼女に「妊娠した、死にたい」そう告げられて、英二は規則違反を承知で寮を脱走した。
警察官の道と真剣に向き合い始めた、そんな矢先の事だった。
掴みかけた仕事への誇り、けれど男として責任をとる方を選ぼうと抜けだした。

「どうしても行くのなら、辞めてから行けよ!」

警察官としての覚悟を突きつけて、周太は英二を引き留めようとしてくれた。
周太に言われた通り、警察官になることを、本当は諦めたくなかった。
それでも英二は「退学届」を書き置いて、出ていった。
自分の将来を捨てても、ひとりの女性の人生を救ってやりたい、そんな想いだった。

けれど、全ては茶番だった。
ちょっと会いたかったのと、彼女は軽く「嘘よ」と笑った。

悔しかった。そして生まれて初めて、憎悪した。
愚かな自分も、無神経な彼女も、何もかもが憎かった。そして生まれて初めて、憎しみと怒りの涙があふれた。

要領良く生きていた。
本音の自分は生き難いから、自分すら誤魔化して、真剣に生きることは諦めていた。
でも本当はずっと、直情的な自分のままで、本音で素直に生きたかった。

けれど、警察学校で周太に出会った。
いつも一途に見つめる純粋な瞳、不器用なほど真摯に生きる端正な姿に、本当は憧れていた。
そんなふうに自分も、何かを掛けて本音で生きたい。そんな想いから、警察官の道に懸けようと思った。
自分らしく生きられる、そんな想いがうれしくて。生きる意味に初めて向きあえた。

けれど彼女は何も解ろうとしなかった。
他人に自慢して見せびらかせる彼氏がほしい、それだけだった。
虚栄心を満たす道具、ただそれだけ。英二はそんな道具に過ぎなかった。
警察学校に入って会えない英二は、役立たずだ用は無いと、嘲笑い罵って去っていった。

真剣に生きたい。
それだけだった、けれど心から願って叶えたい。そう思っていた。
そんな想いの全てが、残酷な虚栄心の軽い嘘に、踏みつけられて罵られて、否定された。

ずっと自分にも周りにも、嘘をついて誤魔化して生きてきた。
自分の本音と愚かさに気付かぬフリをして、真剣に生きる人間を馬鹿にしてきた。
そんな自分にはもう、本音で真剣に生きる資格はないのか。
そんな絶望が、英二を打った。

そんな想いが痛くて苦しくて、悔しくて。
いい加減な自分のことも、虚栄心だけの彼女も、憎んだ。
憎んで苦しくて痛くて、全てが何も信じられなくなった。
自分の中に、あんな憎悪があることを、英二はあの時に初めて知った。

憎悪と絶望と、哀しい諦め。
そんな想いのままで、遠野教官に寮へと連れ戻された。

この場所で自分は、本音の自分のままで生き直そうとしていた。
けれどもう、自分はここに居られなくなる。せっかく見つけた「警察官」には、もうなれない。
そんな想いを廻らして、暗く沈んだ憎悪と絶望、哀しい諦めの底を、ただぼんやり歩いていた。

そんな暗い目の視界に、隣室の扉の下から洩れる、デスクライトの光が映りこんだ。
警察学校の寮。英二の隣は、周太だった。

かわいい顔の癖に、体力も能力も抜群で、聡明にすぎて近寄り難い。
不真面目な自分を責めるような視線、生真面目で余裕が無くて、付き合い難い。
最初は周太を、そう思っていた。

けれど周太と英二は、職務質問の実習でパートナーにされた。
実習を合格するために、周太と英二は一緒に勉強せざるを得なくなった。
そして一緒に勉強するうちに、英二は気がついてしまった。
周太の本質が、純粋で繊細で、穏やかな優しさだということ。
そうした純粋な優しさが、他人に対する遠慮になって、周太が孤独に籠っていること。

周太の部屋は英二の隣で、いつも夜遅くまでデスクライトが点いていた。
純粋なままに一途に、一生懸命に勉強している。そんな気配は毎夜、そっと壁ごしに感じられた。
そしてあの夜も、デスクライトはそっと暗い廊下を照らしていた。

深夜の寮の暗く長い廊下、自分の足音だけが響く、夜の底の孤独な沈黙。
そんな昏さの底で、隣室の光だけが、英二の視界にあざやかだった。
ここだけが、自分を待ってくれている。そんなふうに思えた。

懐かしさに微笑んで、英二は周太に言った。

「あの夜の俺はね、生まれて初めて憎しみを知ったんだ。自分も相手も、何もかも憎くて孤独だった」
「…ん、」

黒目がちの瞳が、そっと静かに頷いてくれる。
哀しげな隣の瞳、今また、あの夜のように、自分の痛みを想ってくれる。
それがうれしくて、英二はそっと微笑んだ。

「けれど周太が泣かせてくれた。俺を徹夜勉強に誘って、一晩中を隣ですごして、孤独にしないでくれた」

黙ったまま、周太は見上げて聴いてくれている。
あの時と同じように、けれどあの時より、きれいに明るくなった瞳が見つめていた。

「あの夜にさ、周太の部屋からもれる光が、俺を待ってくれている一つだけの場所に思えたんだ。
 だから俺は扉を叩いた、そして周太に抱きしめられて泣いた。
 あの時ほんとうにね、受けとめてもらえて俺、うれしかったんだ。
 うれしくて、温かくて、居心地が良くて。それからずっと、周太を見つめてしまっている」

「…あの時、そんなふうに想ってくれたのか」

黒目がちの瞳が、真直ぐ見つめて聴いてくれる。
きれいに笑って英二は頷いた。

「あの夜に俺は、孤独と憎悪に捕まりかけていた。それを救ってくれたのは、周太だ。
あのときから、もうずっと、周太の隣の居心地が好きなんだ。だから俺、つい嫉妬する」

周太はひとつ息をすった。
それから、うれしそうに微笑んで、英二に告げてくれた。

「俺が、英二を救けられたんだ。それなら俺、うれしい…すごく、うれしい、な…」

微笑んだ黒目がちの瞳から、涙がこぼれる。
微笑んだ涙のまま、周太が告げた。

「いつも俺は、英二に救われて…そんな俺では、英二の重荷になってしまう…そう思って本当は、苦し…かった、んだ」

重荷だなんて、想わないでほしい。
そう想わせたことが、英二は哀しかった。周太との全ては、英二の喜びだったから。
それでも今は、周太の想いを聴いてやりたい。だから微笑んで、そっと周太のことばに寄り添った。

「だから…うれしいんだ、俺も、英二の救いになれるなら…俺は、英二の隣にいて良い。そう、信じられて、うれしい…」

涙のむこうで、黒目がちの瞳が、きれいに笑う。
どうしていつも、この隣はこんなに純粋なのだろう。
どうしてこの隣は、真直ぐに立とうと勁いのだろう。

ただ頼ってくれていい、甘えてくれればいい。そんな願いは心からのもの。
それでもこうして、自分を守ろうと手を伸ばしてくれる。その真摯な想いが、うれしい。
うれしくて、幸せで、きれいに英二は笑いかけた。

「そうだよ周太、ずっと隣にいて。周太はね、いつだって俺の救いになっている。だからずっと離れないでよ」
「…ん。離れない、英二の隣だけに、いたい」

今日は4日目、夜が来ればまた、新宿と奥多摩に分かれて暮らす。
けれどこんなにもう、お互いが願っている。
だから大丈夫、離れずきっと、隣にいられるだろう。
きれいに英二は笑いかけた。

「愛してるよ周太、ずっとだ」

そう告げた唇で、そっと隣の唇をふさいだ。


チェックアウトを済ませると、電車に乗った。
御岳山へと周太を連れていく。

「俺がね、いつも歩いている所を見てほしいんだ」
「ん、俺も見てみたいな」

そう話しながら、今日は滝本駅からケーブルカーに乗った。
もう顔なじみになった駅員と、あいさつを交して乗り込む。
いつもは駅近くの登山道を歩くが、周太に無理をさせたくなくて、ケーブルカーを使う。
それに今朝はゆっくり過ごしたくて、スタートも遅かった。

「人が多いな、」

週末の今日は、人出も結構多かった。
紅葉シーズンを手軽に楽しむ山として、御岳山は人気がある。
英二はつい、ハイカーの装備を目視確認してしまう。

「英二、山ヤの警察官の顔に、なってる」

隣から周太が笑ってくれた。
それが嬉しくて、英二は笑って答えた。

「おう、俺は山ヤの警察官だから」

あの脱走した夜。周太が英二を泣かせてくれた。
それから山岳訓練の山で、周太を英二に背負わせてくれた。
そんなふうに、周太と向合った全てが、自分の進む道と誇りを示してくれた。
そうして今ここで自分は、山ヤの警察官の誇りに生き始めている。

そんな自分の姿を、周太に見てほしかった。
こんなふうに自分に素直に生きる、その道を示して救ってくれた、この隣。
そんな周太にこそ、自分の今を見てほしかった。
そんな周太だからこそ、自分は全てを掛けて守りたい。ひとつでも多く、笑顔にさせて見つめたい。

御岳山駅で降りて、富士峰園地展望台へと歩いた。
秋晴れの澄明な空気に、新宿の市街地が遠望できる。
英二は隣に笑いかけた。

「ほら、周太。御岳からな、新宿は見えるんだ」
「…ほんとうだ、」

黒目がちの瞳を大きくして、真直ぐに周太は新宿を見つめた。
ほら大丈夫、いつもちゃんと見守っている。
そんなふうに周太に、伝えたくてここへ連れてきた。
そう想って見つめる横顔が、うれしそうに微笑んだ。

「いつも、ここから見てくれている?」

言わなくても解るのは、うれしい。
うれしくて微笑んで、英二は答えた。

「そうだよ周太、いつも繋がって見つめているから」
「…ん。ありがとう、英二」

こんなふうに、笑い合えて嬉しい。
笑い合いながら、また並んで歩き出す。
産安社から山道をぬけると、茅葺屋根の集落が現われる。
蒼く苔むした茅葺の家々、宿坊の豪壮な構え。秋に色づく木々の中、天空の集落は佇んでいる。

「ここもね、東京なんだよ周太」

大きくした黒目がちの瞳に、英二は笑いかけた。

御岳山は標高929m、そこに鎮まる武蔵御嶽神社の集落がある。
約36世帯160人が暮らしていた。
山の傾斜に沿うように、木造の家屋が立ち並ぶ。
垣根には茶の花や、山茶花が静かに香っていた。

「あの山茶花が、ここにも咲いている」

うれしそうに周太が微笑んだ。
黒目がちの瞳が見上げる梢には、凛と真白な花が青い空へ咲いていた。
周太の父親が実家の庭に遺してくれた、周太の誕生花の山茶花。

「雪山、っていう名前だったな」
「ん、覚えてくれていたのか」

きれいに笑って仰ぐ花に、さっと秋風が吹きよせる。
森から訪れた風に、白い花ひとひら、そっと舞い降りふっていく。
真白な花びらが、静かに周太の掌におさまった。
掌を見つめて、黒目がちの瞳が微笑んだ。

「なんか、うれしいな、」
「どう、うれしい?」

隣から覗きこんで英二は訊いてみた。
黒目がちの瞳が、静かに英二を見、笑ってくれる。

「ん。なんかね、迎えてもらう感じだな」

本当は繊細な周太の心。
花びらの1枚にも、こんなふうに微笑んで、その花の木に親しんでいる。
明るく穏やかに、周太の横顔はきれいだった。
出会った頃の、強くても頑なに孤独な姿とは、別人の貌で佇んでいる。

あの頃の周太は、どれだけの無理をしていたのだろう。
もっと早く出会って、もっとこんなふうに笑わせてあげたかった。
そう想う分だけ、笑顔にしていきたい。想いながら英二は微笑んだ。

「ああ、きっとね、この木も周太を待ってたな」

うれしいなと隣が笑ってくれる。
その笑顔に微笑んで、英二はふたり歩いていく。
ロックガーデンに入ると、午後にさしかかる陽射が明るかった。

「本当は俺ね、ここの早朝が好きなんだ」

そう話しながら、岩場に足許を気をつけながら歩いていく。
その足許に、ふと周太が目を留めて屈みこんだ。

「オオモミジと、山栗だ」

掌をひらいて、きれいな焦茶色の実と赤い葉を見せてくれる。
へえと感心しながら、掌を英二は眺めた。

「周太は良く、知っているな」
「ん、こういうの好きなんだ。父にも教わったし」

周太は手帳を取り出すと、大切そうに赤い葉を挟んだ。
うれしそうな様子に、英二は微笑んで言った。

「この先のな、滝の傍の木も、きれいだよ」
「また滝があるのか。さっきの滝も、きれいだったな」

そう話すうちに、綾広の滝に着いた。
落差10m、綾広の滝は神事を行う神域として、脇には祓戸乃大神が祀られている。
その滝よりも傍の木を、周太は見つめていた。

「桂の木だな、」
「うん、樹齢300年らしい」

あわい黄と薄緑をまとった、桂の巨樹。
のびやかな梢から、淡黄と薄緑の木洩日がふってくる。
そっと幹に周太はふれて、微笑んだ。

「やわらかくて、温かいな」

英二もふれてみると、かすかな温もりと木肌のあたりが柔かい。
隣は軽く目を閉じて、頬を木肌によせている。
うれしそうに寛いだ微笑みに、周太の顔が明るい。
かわいいなと英二は笑った。

「周太は、木が好きなんだな」
「ん、好きだな。でもこういうのは、久しぶりなんだ」

周太は父の生前は、山へ行ったと話していた。
その後は警察学校の山岳訓練まで、一度も山へは来ていない。
そっと微笑んで、周太が話してくれる。

「あの山岳訓練の時。滑落した谷底でね、俺、思っていたんだ。山や木のことを、すっかり忘れていたなって」
「うん…、」
「そのとき思ったんだ。いつかがあるなら、ゆっくり山で過ごしたい。そう思いながら、英二のことを待っていた」

周太が滑落したとき、英二は約束をした。
必ず自分が迎えに行く。そう言って崖から離れて、ザイルを持って戻った。
こんなふうに想ってくれていたんだ。うれしくて英二は笑った。

「俺もね、あの訓練の時にな、周太を山へ連れて来たいって思っていたよ」
「…そうなのか?」

そうだよと頷いて英二は微笑んだ。

「山の警察官っているのかな?そう訊いたの覚えてるだろ。
 あれはな、周太を背負って山を歩くのがさ、いいなって思っていたからなんだ」

訊いて周太が、うれしそうに微笑んで、気恥ずかしげに訊いてくれる。

「そうなのか?」
「そうだよ、」

こんなふうに打ち明け合って、笑いあう。
こういうのは幸せで、その時の想いのぶんだけ、温かい。
そうだと思いついて、英二は周太に訊いた。

「今日の夕飯、なに食いたい?」

訊かれて周太が、幸せそうに微笑んで答えた。

「ん、ラーメン」
「またかよ、」

またかよ。そうやって「また」があるのは嬉しい。
日常的な小さな決まりごと。
当たり前の様だけれど、どのひとつも、英二には嬉しかった。


新宿に着いたのは、17時半過ぎだった。
きらびやかな光の街を、いったん新宿署まで戻る。
周太が荷物を置いてすぐ、ふたりで街の夜を歩いた。
11月下旬に掛かる頃、クリスマスの空気が街を彩っている。
もうそんな季節になるのだなと、英二は隣へ笑いかけた。

「周太はさ、今、ほしい物とかってある?」
「…ん、」

ちいさく頷いた周太は、急に真っ赤になってしまった。
どうしたのだろうと覗きこむと、軽く瞳を伏せられる。
いつにない様子に、英二は口を開いた。

「どうしてそんなに、恥ずかしがるんだ?」
「…いや、あの、…なんでもないんだきにしないで」

そう言われたって気にする。
けれどきっと、今の様子では話してもらえそうにない。

「じゃあさ、約束。会う時にまで考えて教えて?」
「…ん、約束する、」

たぶん本当は、何か欲しいものがあるのだろう。
でもなぜ恥かしがるのか、まだちょっと解らない。
いつ話してくれるかな。思いながら英二は、いつもの店の暖簾を潜った。

「いらっしゃい、また来てくれたんですね」

温かな湯気の向こうから、主人の穏やかな笑顔が迎えてくれる。
いつもどおりの寛いだ雰囲気に、ふたり並んで座った。

「はい、また来ました。これを渡したくて」

英二は持ってきた袋を、主人に手渡した。
奥多摩の水の地ビールを2瓶、袋には入れてある。
驚いた主人に、きれいに英二は笑いかけた。

「いつもね、サービスだって、ご馳走してもらっているから」
「でも、あれは勝手に俺がね、していることですから、」

遠慮がちに主人が言ってくれる、けれど嬉しそうだった。
きっとビールは嫌いではないのだろう、英二は微笑んだ。

「奥多摩の水でつくったビールなんです。俺がいる山の水です、旨いですよ。おやじさんもね、飲んでみて下さい」
「じゃあ、すみません。ありがたく頂戴します」

他にも客はあったけれど、思ったより静かだった。
いつものように温かい丼を、周太も空にした頃。ちょうど残りの客が、暖簾から通りへと出た。
ありがとうございますと主人は見送ると、左足をすこし引きずるように、冷蔵庫を開いた。
それからコップを3つ出す。

「ひとりで飲むのはね、ちょっと寂しくて」

そう微笑んで、奥多摩のビールをコップに注いでくれる。
それから英二と周太に、温かく主人は笑いかけた。

「一杯だけお相手、お願いできますか?」

この主人は13年前、周太の父を殺害した。
けれど周太の父の想いを抱いて、罪を償うために生きている。
主人はまだ、周太が誰なのかを知らない。
けれどいつも笑顔で迎えて、ひとりの客である周太を温めている。

その主人と、周太と自分が、こうして奥多摩の水の酒を飲む。
その自分の首からは、周太の父の合鍵が提げられている。
不思議な巡り合わせ、こんな事もあるのだとう思う。けれどきっと悪くない。
きれいに笑って英二は、コップを受け取った。

「ええ、お相伴させて頂きます」

受け取って、周太に英二は手渡した。

「はい、周太?」
「ん、ありがとう」

黒目がちの瞳が、微笑んでくれる。
温かさに明るい、きれいな微笑みが周太の顔に咲いていた。
きれいに笑って、英二は主人と周太に言った。

「はい、乾杯」

コップに口をつけながら英二は、服に隠した合鍵に、そっと布越しにふれた。




blogramランキング参加中!

ネット小説ランキング
http://www.webstation.jp/syousetu/rank.cgi?mode=r_link&id=5955

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

萬紅、第三夜act.2―side story「陽はまた昇る」

2011-11-16 23:59:55 | 陽はまた昇るside story
月のふる、山ふところで




萬紅、第三夜act.2―side story「陽はまた昇る」

奥多摩交番から河辺までは、代行運転される吉村医師の車に送ってもらえた。
飲む約束だったから、予め吉村は代行手配をしていたらしい。
河辺までの20分程を、3人のんびりと会話して過ごせた。

「お帰りなさい。二人の楽しそうな顔が見られて、良かったです」

そんなふうに吉村は、微笑んでくれた。
吉村の隣で、周太は嬉しそうに、山の植物の話をした。

「落葉松の黄色が、陽に透けると黄金みたいでした」
「そうか、うん。あれは本当にきれいだな」

吉村医師も山ヤのひとりだった。
高校生の頃から、地元奥多摩の山は全て歩いている。
けれど、この15年は山に登っていないと、英二は聴いていた。
医学部5回生だった次男を、吉村が失ったのは15年前だった。

彼は長野の山で遭難死した。その時の彼は偶然、救急用具を忘れていた。
そのことを、医師で父親である自分の不注意だと、今でも吉村は自分を責めている。
息子への想いを抱いて、吉村は大学病院教授の席を捨て、山岳地域の警察医になった。
そして出会った山岳救助隊員の英二に、吉村は息子の姿を見つめている。

「山の夜明けを見ました、豊かな紅色の雲が、きれいでした」
「きれいだったでしょう?雲取山荘の夜明けは、いいものです」

吉村は周太と、楽しそうに山の話をしている。
ほんとうは吉村は、山に登りたい。そんなふうに英二は感じられた。
それでも、息子を山で死なせた罪悪感が、吉村医師を山へ向かわせないでいる。

自分が山ヤだったから、息子を山ヤに育ててしまったから。だから息子は山で死んだ。
そんな悲しい「…だったから」に縛られて、吉村医師は自身の、山への想いを止めている。

大切なひとを失った人間は、その瞬間から時間が止まっている。
そういう人間は、大切なひとの記憶と向き合わなくては、新しい時間へは動けない。
その人にまつわる、自身の罪悪感をすら、肯定して飲みこまないと、心は進めない。
そんなふうに、新しい時間へと動きだせないことは、苦しい。

そのことが、父の記憶と向き合う周太と、寄り添っている英二には解る。
周太を見つめ続ける7ヶ月半の時間のなかで、その苦しみを痛いほどに英二は思い知らされてきた。
だから吉村医師の痛みも、英二には気付けてしまう。

吉村は英二に息子を見つめ、息子へ注ぎたい真心を英二に向けてくれる。
そんなふうに吉村は、母親に拒絶された英二の傷を癒してくれる。
そうして英二が大切にする周太の、父親の殉職に苦しむ想いまでも、穏やかに受け留めてくれた。
そんな吉村医師への感謝と想いを、英二は報いていきたかった。

吉村が息子をみつめるのは自分。
だから自分だけが、吉村を息子の記憶へ向き合わせることが出来るかもしれない。
山で死んだ彼の代りに、吉村をまた山へ登らせて、山ヤとしての笑顔を取り戻せるかもしれない。
山ヤが山へ登れない、その痛み苦しみは今はもう英二にも解る。その苦しみから吉村を救うことが出来たらいい。
そうして新しい時間を動かして、吉村の苦痛を少しでも楽に出来たらいい。

それを自分がすることは、本当はおこがましいのかもしれない。
それでも少しでも、この真摯に生きる山ヤの医師に、英二は心を懸けたかった。
そんな想いで英二は、吉村医師へと笑いかけた。

「吉村先生、俺と約束をしませんか?」
「宮田くんと約束ですか、楽しそうですね」

穏やかに吉村は微笑んでくれる。
はいと頷いて、きれいに笑って英二は言った。

「俺と一緒に、山に登りにいく。その約束をして下さい」

吉村医師の目が、ゆれた。
やっぱり想った通りなのだろう。吉村は、自分自身が山ヤであることから、目を背けている。
自分が山ヤだったから息子を死なせたという罪悪感。
山への想いと、山へ向かうことへの罪悪感。
痛みと苦しみの交錯が、吉村医師の瞳に燻っている。

でも先生、大丈夫。
息子さんはきっと、山で死んだことを後悔なんてしていない。山ヤが山で死んだだけ、それが山ヤの本望なのだから。
遺された人間は悲しい。それでもきっと、愛する山に抱かれて、山ヤだった彼は幸せだった。
だから先生、もう自分を許してほしい。だって先生も彼と同じように、山を愛しているのでしょう?
そんな想いのなかで英二は微笑んだ。

「この奥多摩には、俺がまだ登っていない山がたくさんあります。けれど救助隊員として一度は登りたいと思っています」
「…はい、」

吉村は相槌を打ってくれる、その目はどこか切なげに見えた。
その切なさを受けとめたいと、願いながら英二は続けた。

「でも俺はまだ経験が浅い、初めての山への単独登山は難しいです。
ですから、奥多摩をよくご存知の先生と、一緒に登って勉強させて頂けたら嬉しいです」

「奥多摩の山を、ですか?」

ゆっくりと聴き返す吉村の気持ちが、英二には解る。
奥多摩の山は、吉村が次男を連れて登った山ばかりだった。
奥多摩の山を吉村に登らせることは、次男を山ヤに育てた記憶と、正面から向きあわせることになる。
それを自分が提案して良いのか、ほんとうは英二にも自信は無い。

けれど、吉村医師が息子の姿を見つめているのは、英二だった。
吉村医師は、亡くした息子の代りに、毎日夕方には英二を迎えに出る。
そして吉村医師は、英二に救急用具を与えてくれた。息子に渡したかったものを、そうして英二に与えてくれた。
そんなふうに吉村は、亡くした息子の面影と、息子の生きるはずだった人生を、英二のなかに見つめている。

息子の記憶と息子を山ヤに育てた日々を抱いて、英二と一緒に山を歩く。
そうしてまた英二が、山ヤとして育つ手助けをする。
その手助けが、山岳救助隊員として生きる英二を、山での死から救う事になる。
山で息子は死んだ、けれど山で英二を生かすことで、吉村の心は救えるかもしれない。
そうしたら吉村医師の新しい時間が、動き出すのかもしれない。
そうして心を少しでも軽くしてほしい、そんなふうに想って、英二は微笑んだ。

「先生、俺は一人前の山岳救助隊員になりたいです、だから奥多摩の山を知る必要があります。
奥多摩を俺に教えて下さいませんか?俺が山ヤとして生きるための、手助けを先生にお願いしたいんです」

「私が、君が生きるための、手助けを?」
「はい、山ヤの警察官として山で生きていく、その為の手助けです」

微笑んで吉村は、英二の目を真直ぐに見つめた。

「とても温かい約束ですね。はい、約束をさせてください」

見つめる吉村の目が明るく、そして底の方に涙の気配があった。
きっと大丈夫、想いながら英二は、きれいに笑った。

「また診療室で、登山計画を相談させて下さい」

河辺駅で吉村と別れて、ビジネスホテルに戻った。
先に周太に風呂をすすめると、英二はコーヒーを一杯だけ淹れてみる。
フィルターを通る湯が、香り高く燻らされる。
ゆっくり見つめ、マグカップいっぱいに満たされた時、浴室の扉が開いた。

「お先にごめん、英二」

大好きな瞳が微笑んで、名前を呼んでくれて、うれしい。
うれしさに笑って、英二はマグカップをサイドテーブルに置いた。

「周太、これ飲んでいて?」
「淹れてくれたの英二?ありがとう」

黒目がちの瞳が、うれしそうに笑ってくれる。
ありがとうの言葉に英二は微笑んだ。

「風呂、行ってくるから。のんびりしていて、周太」

髪を拭きながら部屋に戻ると、淹れたてのコーヒーが芳ばしかった。
そのマグカップの前には、恥ずかしげに周太がソファに座りこんでいる。

「周太のコーヒー、うれしいな。ありがとう」
「…ん、」

隣に座って、マグカップに口をつけた。
ほっと香に寛いで、背凭れる。
背凭れたまま隣を見ると、物言いたげに佇んでいた。
どうしたと目で訊くと、そっと周太の唇が開いた。

「さっき、吉村先生、約束うれしそうだった」
「山に行くこと?」

頷いて、黒目がちの瞳が微笑んでくれる。

「英二の笑顔は人を笑顔にできる、すごいな」

そんなふうに思ってくれて、うれしい。
この隣が、自分のことを見つめてくれている。そのことが嬉しかった。
自分も、いつも見つめて想っていることを、伝えたい。
きれいに英二は笑った。

「周太もだよ、」
「俺も?」

すこし首かしげて、周太が訊いてくれる。
その言葉を軽く頷いて受けとめて、英二は言った。

「周太が笑うとさ、俺は一番うれしいから。」
「…いちばん?」

見上げる瞳が、すこし大きくなる。
この顔が英二は好きだった、愛しさに微笑んで、英二は続けた。

「周太の笑顔は、俺を幸せにしてくれているよ。いつもそうだ」
「俺が、英二を…幸せにできているのか」

見上げてくれる、黒目がちの瞳が潤んで充ちる。
自分を幸せにしていると、もっと自信を持ってほしい。
そう思いながら、きれいに笑って英二は告げる。

「そうだよ、周太が一番、俺を幸せにしてくれてるよ。だから、周太が笑ってくれた時、俺は一番いい笑顔になってる」

周太の瞳から、きれいに涙ひとしずく零れおちた。
こんなふうに、素直に涙を見せてくれること。
うれしくて、英二には幸せだった。
そんな想いで見つめる中心で、きれいな明るい笑顔が、周太に拓いた。

「ありがとう、英二。…でも、俺の方こそ、英二が笑ってくれると、本当に幸せなんだ」

笑顔が嬉しくて、告げられる言葉が嬉しくて。
きれいに笑って、英二は名前を呼んだ。

「周太、」

静かに抱き寄せて、唇に唇でふれる。
かすかなコーヒーの香と、吐息が穏やかだった。
微笑んではなれて、黒目がちの瞳を英二は覗きこんだ。

「ずっと一緒に笑って、一緒に生きよう?そうしたらきっと、俺たちは幸せになれるから」

黒目がちの瞳から、温かい涙がこぼれる。
幸せに微笑んで、周太が言ってくれた。

「ん。英二と一緒に、幸せになる」

そんなふうに想いを交わして、並んで座ったまま転寝をした。
ソファに凭れる英二の肩に、やわらかな黒髪がこぼれる。
凭れた周太の温かな重みが、英二には幸せだった。

笑って一緒に生きて幸せになる。
この約束は自分達には、きっと容易いことではない。

父の軌跡を追っていく周太、その歯車はもう回りだしている。きっともう、辿りつく所まで歩き続けるしかない。
その道は、本質が繊細で優しい周太には、辛く苦しい日々になる。
けれど周太には、純粋で潔癖で聡明という強さがある。だから逃げる事を、肯えない。

それでも構わないと、英二は微笑んで肚を決めている。
周太が望むのなら自分は、何をしてでも周太の願いを叶えるだけだから。
周太の父の軌跡を、周太が見つめたいのなら、一緒に自分も見つめればいい。
それにもう自分は信じている。周太の父は、冷たい真実の底にさえ、温かな想いを遺せる男だということ。

13年。父の軌跡の為に人生の全てをかけて、周太は孤独に生きてきた。
そして今は、父の軌跡を追いながらも、周太は自分と生きることを選んだ。
それでも今はまだ「父の殉職」が縛って、周太は自由な自分の人生を、見つめる事が出来ずにいる。
けれどいつか、父の真実と想いの、全てに向き合うことが終わる、そんな暁がくる。
その暁にこそ、周太は「父の殉職」という繋縛から自由になることが出来る。

自分を殺害した犯人にさえ、温かな想いを遺した周太の父。
そんな温かい男なら、どんなに冷たい悲しい場所に立たされても、真実の底に温かな想いを遺している。
自分は周太の父を信じている。だからこそ、周太に父の真実を見つめさせてやりたい。
そうして父の想いに向き合わせて、周太の新しい時間を動き出させたい。
「父の殉職」その繋縛から自由にして、周太の自身の人生を笑って生きさせたい。
周太の本来あるべき人生で、心から幸せな笑顔で充たして、寄り添って生きていきたい。

長い指で、カットソーの布越しに鍵にふれた。
周太の父が遺した合鍵を、丈夫な革紐で結んで首から提げて納めている。
生きて会った事は無い。けれど追い続け出会っていく、周太の父の軌跡はいつも温かい。
見守って下さい―そんな想いで英二は、いつも鍵にふれている。

「…ん、」

そっとこぼれる、隣の吐息が温かい。
安心して掛けてくれている、この隣の重みが穏やかに、肩越しに馴染んでいる。
こんな時間をずっと、繋げて生きていけますように。
そんな想いで微笑んで、温かい腕を伸ばして英二は、眠る隣を抱きしめた。


18時半に、河辺駅前で国村と待ち合わせた。
「寒いから、登山ジャケット持参でね」
そんなメールが来ていたから、英二は2枚の登山ジャケットを携えた。
確かに少し、夜気が冷たい。英二は隣のマフラーを巻き直してやった。

「ほら周太、このほうが温かいだろ?」

あごにふれる長い指に、うれしそうに黒目がちの瞳が微笑んだ。

「ん、巻き方で変わるものなんだな」
「だろ?」

そんなふうに話していると、ミニ四駆が目の前に止まった。

「よお、お待たせ」

窓を開けた運転席から、からっと国村が笑った。
よおと答えて、すこし呆れたように英二は微笑んだ。

「呑みに行くのに車で、いいのかよ?」
「ああ、代行頼んであるからね、」

笑った国村の向こうから、きれいな瞳の笑顔が気恥ずかしげに覗いた。
その笑顔は、英二には見おぼえがあった。英二は笑いかけた。

「美代さん、ですね」

夜間捜索のビバークで、国村が見せてくれた笑顔の写真。
写真よりもずっと、きれいな瞳は明るく笑っている。

「はい、美代です。はじめまして、」

そんなふうに挨拶をしながら、四駆の後部座席に乗り込んだ。
運転席の背中越しに、いつもの口調で国村が声をかけた。

「ちょっとしたさ、ドライブの後に呑むからね」
「おう、任せるけど。どこまで連れて行ってくれるんだ?」

今日の場所は元々、国村の好きなところと決めている。
国村のことだから、面白い場所だろうな。
そう思いながら訊いた英二に、からっと国村が答えた。

「俺んちのね、河原」

それで「寒いから、登山ジャケット持参でね」だったんだな。
納得して、思い至って、英二は笑った。

「河原だったらさ、焚火できるからだろ?」
「そ。察しがいいね、宮田」

そんな会話をしながら、酒屋へと四駆が停まった。
店には食料品も並んでいる。美代が周太に笑いかけてくれた。

「あのね、料理の材料を一緒に見てくれる?」
「ん、いいよ。俺、料理作るの好きなんだ」
「やっぱり。なんかね、そんな感じがしたの」

二人で楽しそうに陳列棚を眺めている。
四駆でも助手席とその後ろから、味噌を作る話で楽しそうだった。
きれいな瞳の美代は、穏やかで素直さが明るい。そんな雰囲気が周太と似ている。
そういう美代とは波長が合うのだろう、初対面なのに周太は笑顔で話している。
こんなことは周太には、珍しい事だった。

そういう人と一人でも多く、周太には出会ってほしい。
そう思いながら眺めていると、からりと国村が笑って言った。

「瞳がきれいで、すぐ赤くなる位に純情で、笑顔が最高にかわいい。
 誰より大切で好きな人。そういう人がさ、俺も好きだって言っただろ」

そんなふうに美代と周太は似ている。国村が言う通りだった。
国村とは好みが同じなんだな。そう思うとなんだか可笑しい。
けれどこういうのは悪くない、笑って英二は答えた。

「うん。そうだな、ちょっと似ているな」
「だろ、」

言いながら、国村は一本の瓶を持つと唇の端をあげた。

「これさ、奢ってくれよ宮田」

奥多摩の酒造が作っている特撰酒の一升瓶だった。
呑んでみたいなと英二も思っていた銘柄、結構いい値段だが無理なものではない。
それに元々今夜は、国村への礼に奢るつもりでいる。

13年前の事件に決着をつけたあの日、15分を間に合わせたのは国村のお蔭だった。
緊急事態だから構わないと笑って国村は、ミニパトカーのスピードメータを振切らせてくれた。
そのお蔭で英二は、周太を捕まえ抱きとめて、悲しい報復を止めるが出来た。

農家で山ヤの国村は、自然への畏敬が絶対的で、人間の決めた枠には執われない。
山のルールに生き、偽らない自分の想いに従う健やかさが、国村の誇らかな自由になっている。
あの時も国村は、自由すぎる運転だった。けれどそれも、英二たちの為に国村が判断した行動だった。
そういう底抜けに明るい優しさが、国村にはある。

そして今も遠慮なく、からり明るく笑って、高い酒を要求してくれる。
そういう態度で、貸し借り無しに対等な友人でいようと、国村は示している。
やっぱり国村は良い奴だ、笑って英二は頷いた。

「ああ、いいよ」
「うん、ありがとな」

けれど酒豪の国村は一本で足りるのだろうか。
そう思っていると、ビール瓶を何本か籠に入れている。
ラベルを英二に見せて、国村は細い目を笑ませた。

「水はさ、奥多摩なんだけどね。醸造は川越なんだよな」
「へえ、でも水がここだと嬉しいな。これも奢ればいい?」
「うん、よろしくね、」

飄々と笑っている国村の顔は、当然だろと言っている。
やっぱりねと英二は可笑しかった。
けれど随分と酒が多い気がする。今夜はだいぶ呑むことになりそうだ。
酔い覚ましのトマトジュースを、英二も籠に入れた。

国村の地所である河原は、静かな谷間にあった。
急峻な山林の麓、清冽な水が月明かりに砕けて光る。
河原の石をならして、国村と英二は焚火をつくった。

「両親とさ、こんなふうに飯、作って食べたんだ」

そう笑いながら国村は、細い目を明るく笑ませて、トラベルナイフを捌いていく。
刃先に岩魚が、きれいに腹を裂かれていく。ついさっき、渓流の仕掛けから揚げたものだった。
勤務前の今朝に仕掛けておいたらしい、その仕掛けは独特の作り方をしてあった。

「俺、釣りとか詳しくないけどさ、作りが変わっているよな?」
「ああ、それね。祖父さんに教わったのをさ、自分で工夫したんだよ」

話しながら国村は、焚火に白い頬を照らせながら、さっさと手を動かしていた。
掃除した魚の肚に、味噌を塗ると器用に枝で串打っていく。
その串もさっき、ナイフで器用に削りだして作っている。
こういうの出来ると便利だな、そう思った英二も、横で倣って手を動かしていた。

「いい匂いの味噌汁だな、」
「でしょ?豆と麦のね、配合率に工夫があるの」

楽しそうに話しながら、美代と周太は焚火に掛けた鍋の様子を見ている。
また味噌の話になったらしい。料理が好きな周太には、興味があるのだろう。

「自分で考えたのか?」
「母から教わったやり方にね、ちょっと手を加えたの。レシピあげようか」
「ん、ほしいな。でも、そんな大切なもの、いいのか?」
「嫌だったらね、自分から言わないでしょ?」

こんなふうに自分から初対面で話せる相手は、周太には中々いない。
美代には静かで温かい、穏やかな包容力があるようだった。
そういう彼女だからこそ、自由な国村と自然に寄り添えるのだろう。

「御岳山はね、月の御岳って言われているの。今夜も月、きれいでしょ」
「ん、半月だけど明るいな。きれいだな」

月を眺める2つの笑顔は、どちらも純粋で、ただ楽しげだった。
顔が似ている訳ではないけれど、双子のような雰囲気が微笑ましい。
寛いだ周太の笑顔が、英二には嬉しかった。

焚火を囲んで座ると、さっそく国村は地ビールの栓を抜いた。
早くしろよと英二にも目で促してくる。
笑って英二も、自分のトラベルナイフで栓を抜いた。

「はい、乾杯、」

ビバークの時と同じ調子で、国村は軽やかに瓶をぶつけた。
あのときと同じように、焚火の熱に冷たいビールが旨い。

「これ飲んだらさ、あの酒を飲もうな」

機嫌良く国村は、さっさと飲み干すと一升瓶の栓を開いた。
コップに注いで英二に渡すと、旨そうに啜って笑う。

「奢られた酒をさ、焚火を見ながら山の冷気と一緒に飲むのは、まじ旨いね」

ほんとうに山も酒も好きなのだろう。
そんな国村は、明るく楽しげで、こちらも嬉しくなる。
英二は笑って言った。

「じゃあさ、今度は俺のも奢ってよ」
「ああ、いいよ。もし俺が奢りたくなったらね」

飄々と笑う国村は、本当に憎めない。
そういう軽やかさが、英二は好きだなと楽しかった。

「光ちゃん、呑み過ぎないでね」
「俺が酒に呑まれたことなんて、あったっけ?」
「うん、見たこと無いけどね」
「だろ、」

帰りの運転をする美代は、ジンジャーエールの瓶を持っている。
たぶん周太は1本ビールを飲んだら、美代と同じ物を飲むだろうな。
そんなことを英二が思っていると、国村が唇の端を上げた。

「あのさ。その登山ジャケット、色違いのお揃いだよな」

あ、指摘されたな。ちょっと英二は可笑しかった。
一昨日から誰にもまだ、気付かれていない事だった。

誕生日を口実に贈った、周太の登山ジャケットを買った時に、見つけたものだった。
周太はホリゾンブルーの淡い地色に、腕に白とボルドーのラインが1本ずつ入っている。
英二の方は、深いボルドーに、白と黒のラインだった。
色のタイプが正反対だから、お揃いとは解り難い。

それでも多分、周太は恥ずかしがるだろうと英二は黙っていた。
どんな反応を周太はしてくれるのかな。思いながら笑って、英二は答えた。

「そうだけど?」

答えた隣で、黒目がちの瞳が大きくなった。
この顔やっぱり可愛いな。思っている英二を見上げて、周太が訊いた。

「…そうだったのか?」
「うん、なんか良いなって思ってさ」

正直に白状した英二を見ながら、周太は困ったような顔をしている。
そんな様子を眺めながら、からりと国村が笑って言った。

「あれ、気付いていなかったんだ?せっかくのペアルックなのにね、勿体無いな。ねえ?」
「…っ、」

ほら、やっぱり、また恥ずかしがる。
明るい夜に透けて、隣の首筋が赤くそまっていく。


21時前に河辺駅で、美代の運転する四駆から降りた。
運転席の窓へと顔をよせて、国村が笑いかける。

「美代、ありがとうな。気をつけて帰れよ」
「うん。光ちゃんもね、仕事とか気をつけて。梅林ちょっと明日、見ておくね」
「いつもすまないな、ありがとう美代、」

そんなふうに話して、国村は美代の額へと、そっと口づけた。
美代は国村を見あげて、幸せそうに微笑んでいる。

「おやすみ、美代」
「おやすみ、光ちゃん。宮田くんと湯原くんも、おやすみなさい」

きれいな瞳で明るく笑って、美代は四駆で御岳へと帰っていった。
ふるような星空の町、四駆が遠ざかっていく。
それを、幸せそうで少し寂しげな、国村の横顔が見送っていた。
いつも国村は飄々と笑っている、こういう国村の顔は見たのは、英二は初めてだった。

ずっと一緒に育って見つめていると、国村は美代のことを話してくれた。
警察学校に入るときが、ふたりの初めて離れる時だった。
そうして今も、青梅警察署の独身寮と御岳の農家へと、ふたりは別れて暮らしている。
四駆ですぐに会える距離。それでも隣同士でずっと一緒だった二人には、遠いのかもしれない。

国村の横顔に、ふたりの優しい絆が見える。
そういう国村が、なんだか英二には嬉しい。そっと微笑んで、英二は国村に訊いた。

「おでこにキスって、ふたりの決まりごと?」

見えなくなった四駆から、視線を英二に向けて国村が笑った。

「うん、もうずっと子供の時からね。いつからか覚えていないな」

そう話す国村の、笑んだ細い目は穏やかで、やさしい想いに充ちていた。
こういう奴と出会えて良かった、英二は微笑んだ。

「そういうのって、良いな」
「だろ、」

言って微笑んで、国村は周太に笑いかけた。

「湯原くんもさ、宮田とそういう決まりごと、たくさん作りなよね」

言われた周太の頬が、赤くなっていく。
また何も言えなくなってしまうかな。
思いながら微笑んだ、英二の視線の先で、周太の唇が開いた。

「…ん。たくさん作るよ」

意外だった。でも嬉しい、英二は嬉しくて微笑んだ。
横で国村が、ちょっと驚いた目を、すぐに優しく笑ませて笑った。

「うん、そういうのってさ、いいよ」

そんなふうに話しながら、またなと国村は青梅署独身寮へと帰っていった。

ビジネスホテルに戻って、風呂を済ませて着替えた。
ソファに並んで落着くと、英二は胸ポケットからオレンジ色のパッケージを出した。

「はい、周太これ」

はちみつオレンジのど飴の、半分減ったパッケージ。
さっきブナの木の下で、最後のひと粒だった飴と同じものだった。
黒目がちの瞳が大きくなって、周太が首をかしげる。

「…もしかして山でもずっと、英二、これ持っていた?」

気付かれたなと英二は微笑んだ。
でもわざと気付かれようとして、今。手渡している。
可笑しくて楽しくて、英二は笑って答えた。

「持っていないなんて俺、一言も言わなかったけど?」

ほら、首筋から頬まで赤らめてしまう。
初々しい反応が、かわいくて嬉しくて、幸せだ。
目の前の顔を見つめながら、ひと粒とりだして、英二は自分の口に入れた。

「周太、」

名前を呼んで、そっと唇をよせた。

やわらかな唇へ、オレンジの香をうつしこむ。
そして静かに離れて、黒目がちの瞳を覗きこんだ。

「ちゃんと返したからな、」
「…っ」

こんなふうに、赤らめた頬が愛しい。
どうしてこんなにも、初々しいのだろう。愛しくて嬉しくて、英二は笑った。
周太の口許が、物言いたげに見える。
話してみてよと目で訊くと、周太は口を開いた。

「あのさ、どうして隠していたんだ?」

ブナの木でのことかな。考えながら英二は、きれいに笑いかけた。

「ブナの木の下での、飴のこと?」

そう、と頷いた首筋が赤くなっている。
訊くのもきっと、恥ずかしかったのだろう。
そしてきっと、自分からした事に途惑っている。
やっぱり、かわいい。きれいに笑って、英二は言った。

「周太からね、俺のことを求めている、って感じたかったから」
「…俺から?」

そうだよと言って、英二は黒目がちの瞳を覗きこんだ。

「深いキスって、求められている感じするだろ?だからね、してほしかったんだ俺」

こんな話をしていいの?
そんなことを思いながら、英二は微笑んで答えた。
隣はすこし俯くようにして、頬に掌をあてている。
どうしたのかなと見つめていると、静かに黒目がちの瞳が見上げた。

「英二、…俺はずっと、英二のことを求めている…もうずっとそう、学校の時から、そうだったんだ」

こんなふうに告げてもらえる、そうは想っていなかった。
けれど告げられるなら、嬉しくて。訊いてみたくて、英二は言った。

「どんなふうに?」

訊いて、英二は隣の瞳を見つめた。
見つめた瞳は、今までと少し違った想いがゆれている。
どこか切なげで、初々しい艶がけぶって、きれいだった。

「…英二の、きれいな笑顔を、…ずっと見ていたいって、想っていた…警察学校の時から、ずっと」

うれしい。
そんなふうに想ってもらっていた、うれしくて英二は微笑んだ。
だってその頃にはまだ、片想いだと自分は想っていた。
けれどそれは片想いではなかったと、告げられて嬉しかった。
きれいに微笑んで、英二は答えた。

「ずっと見ていて、周太。笑顔もね、なにもかも。俺は全部、周太のものだから」
「…俺の?」
「そうだよ、」

腕を伸ばして、隣の小柄な体を抱き寄せて、きれいに英二は笑った。

「言っただろ?周太への想いがね、俺の生きる理由と意味。だから俺は全部、周太のものだよ」

黒目がちの瞳が、微笑んで、気恥ずかしげに唇を開いた。

「ん、…うれしい。俺のものでいて英二。…俺もね、同じだから。だから…」

見つめる瞳が、初めての感情に染まっていく。
信じられない、そんなふうに英二は見つめていた。
だってほんとうは、こんな瞳で見つめてほしいと想っていた。
こんなふうに、自分を求め惹きこもうとする、艶めいた感情の瞳。

ふっと英二は気がついて、微笑んだ。
息をするたびごとに、本当にこの隣は、きれいになって、想いを深めてくれている。
それは自分がずっと、望んできたこと、望むこと。
願いが叶っていく、目の前の黒目がちの瞳に、きれいに英二は笑いかけた。

「周太、求めて?」

黒目がちの瞳から、ひとしずく熱が零れた。
かすかで空気に溶けるような、ちいさい声で、かすかに告げてくれる。

「…抱いて、英二…」

こうして、今の想いを素直に告げてもらえた。
こういうことは、うれしい。
そして叶えてしまいたい。だって本当は、自分の方こそ求めたかったから。

「おいで、」

きれいに英二は笑って、抱きしめたまま、抱き上げた。
そのままそっと運んで、白いシーツへと静かにうずめた。




(to be continued)



blogramランキング参加中!

ネット小説ランキング
http://www.webstation.jp/syousetu/rank.cgi?mode=r_link&id=5955

人気ブログランキングへ

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 イラストブログ 風景イラストへにほんブログ村

にほんブログ村 小説ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

萬紅、第三夜act.1―side story「陽はまた昇る」

2011-11-15 21:22:48 | 陽はまた昇るside story
あざやかな夜明け、あたらしい陽




萬紅、第三夜act.1―side story「陽はまた昇る」

時計は5時半。黎明のときだった。
闇は夜明けの前が最も濃い。濃密な浄闇に鎮まる山上で、空を見上げていた。

「星がふってくる、そんな感じがするな」

濃い暗闇にも黒目がちの瞳が輝いてみえる。
座っている木のベンチも闇の底に沈み、すぐ隣の顔だけが、ほの白く見えていた。
冷気が最も凍るのも、夜明け直前の黎明どき。山上の大気は冷たくて、氷水が融けたようだった。

「…こほっ」

軽い咳の音に、英二は隣を見た。
平気と微笑んでくれるけれど頬が少し赤い。山上の冷気で紅潮しているのだと、英二には見れば解る。
冷たい空気がダイレクトに肺に入って、咳が出たのだろう。
きっと寒いのだろう、英二は長い腕を伸ばした。

「ほら周太、来いよ」
「…え、でも」

自分の前に座らせた周太を、ホリゾンブルーの登山ジャケットごと背中から抱きしめた。
ジャケット越しに、お互いの熱が寄り添って温かい。温もりが幸せで、英二は微笑んだ。

「隣に誰かいるって、温かいだろ?」
「…となりっていうかなんていうか…」

恥ずかしそうな声が、ちいさく呟くように答えてくれる。
けれど本当は、うれしくて幸せに微笑んで、きっと瞳は笑っている。
そう思って英二は、抱きしめた肩越しに覗きこんだ。

「今、うれしい?」
「…ん、…うれしい、な。でも、すごく、…はずかしいぞきっとおれたち」

言われて英二は顔を廻らすと、闇に馴れた目に周囲が映る。
いつのまにか、中年夫婦のハイカーと山仲間3人組も外へ出ていた。
自分達と同じように、朝日を迎えるのだろう。きれいに英二は笑いかけた。

「おはようございます、冷え込みますね」
「おはようございます。まあ、仲良しですね」

ハイカーの妻が可笑しそうに笑ってくれる。
ええと頷いて、英二はきれいに笑った。

「はい、仲良いです。こうすると温かいですよ」
「あら、いいわね。ちょっとあなた、私達もしましょう?」

妻が夫の手をひいて、向こうのベンチへ歩きだす。
ロマンスグレーの夫が、気恥ずかしげに微笑んでいる。

「若い頃にしたね、でも今は少し恥ずかしいよ」
「そうね、でも今もう寒くって私、」
「じゃあ仕方ないな、」

そんなふうに笑って、夫婦も真似て座りこんだ。
気恥ずかしげでも楽しそうに、夫婦で笑っている。
それを見て、3人組の男達が英二に笑いかけた。

「こういうのも、山ならではだな」

周太を抱きしめたまま、英二は微笑んで答えた。

「ええ。山の寒気には人も、温かく寄り添えて良いですね」
「そうだな。うん、山は良いな」

きれいに笑って、英二は答えた。

「はい。温かくて、山は良いですね」

へえと男達は英二を見、笑いかけてくれた。

「きれいな笑顔だな、山ヤって感じだ」
「うれしいですね、ありがとうございます」

そう笑いあって3人は、じゃあとカメラを担いで山頂へと歩いていった。
見送って英二は、肩越しに微笑んだ。

「ほらな、恥ずかしくないよ?周太、」

肩越しに、黒目がちの瞳が見つめてくれる。
すこし潤んだ瞳が、きれいだと英二は見つめた。
黒目がちの瞳を微笑ませて、そっと周太は言った。

「…ありがとう、英二」
「うん。こっちこそいつも、嬉しいから」

なんにも恥ずかしいことなんか、自分達はしていない。
英二はいつも、そう思っている。
なぜなら自分はこんなにも、自分の全てをかけて想っている。

いつだってそう。心の底から真直ぐに、見つめて偽らず寄り添っている。
きっとそれは得難いこと、きれいな想い、穏やかな温もり。真摯は涯なく続いてしまう、そう心から信じている。
だから自分はいつも誇らしい、この隣に座ること。

こわれないように、静かに腕に力をいれて、英二は周太を抱きしめた。
頬に頬よせるように、きれいに英二は微笑んだ。

「ほら、周太。夜が明ける」

東の方角に、稜線が赤く輝き始めた。
あわいブルーの輝きが、遠く空の境界を顕して透明になる。
紺青が透ける闇は中天へ払われて、星は眠りについていく。
彩る雲は、薄紅に朱金に艶めいて、白さが空にまばゆく浮かんだ。

「…きれいだ」

頬寄せた唇が、やわらかく吐息をついた。
心響かす気配がうれしくて、英二は微笑んだ。

「ああ。きれいだな、」

こんなふうに寄り添って、一緒に山の朝を見られた。
そしてこんなふうに、隣は嬉しそうに笑ってくれる。
そうして今、幸せがこんなに温かい。

仕度して山荘を出ると、周太が遠慮がちに口を開いた。

「あのさ、コースって決めてあるよな」
「おう、計画書出してるし」

そうかと呟いて、物言いたげな唇を噤んでしまう。
ああきっとこの事だ、気がついて英二は笑った。

「あのブナの木には、今日も寄るから」

黒目がちの瞳が大きくなる。どうして解るんだと瞳が驚いている。
ほら、やっぱりそうだと英二は嬉しかった。

「言ったろ、あの場所は好きだって。だから俺、いつも往復で寄っているんだ」
「…俺も、好きだ」

同じように好きなことは、嬉しい。そうして想いも重ねられたらいい。
気恥ずかしげな様子が可愛い、つい英二は意地悪したくなった。
笑いかけて英二は言った。

「好きな場所にさ、好きな人を佇ませて眺めたいし、俺は」
「…そういうことをさこういうところではちょっと、」

また首筋が赤くなる。かわいくて嬉しくて、英二は笑った。
こんな初々しい隣が、ほんとうに好きだ。

雲取山頂を通って、帰路は唐松谷林道へと向かう。
奥多摩小屋の前にさしかかると、小屋番に声をかけられた。

「ヘリが来ますから、小屋に避難して下さい」

しばらくするとヘリコプターが来た。
ホバリングの風が強い。荷物を降ろすと、すぐまた飛び去っていく。
物珍しげに周太は見上げ、プロペラが巻く風を頬に受けていた。

「こんなに近くでヘリを見たの、俺、初めてだ」
「あ、また“初めて”なんだ?」

“初めて”で首筋が赤くなる。
たぶん昨夜のことを、想いだしているのだろう。


昨夜の山荘は静かだった。
おかげで、山荘前の夜景もゆっくり眺められた。よく晴れた大気に、新宿の夜景も遠くあざやかだった。
ココアを啜りながら、遠く新宿の夜を見て、周太は言った。

「ほんとうに、ここの空と繋がっているんだな」

大都会の底で、ときおり寂しさを周太は感じている。
そのことは英二も気付いていた。だから周太を、ここへ連れて来たかった。
英二は微笑んだ。

「そうだよ周太。空で繋がって俺は、いつも周太の隣にいる」

黒目がちの瞳が、見上げて見つめて、微笑んだ。

「…ん、うれしいな。繋がっているんだな、いつも」
「そうだよ、」

そう微笑み返した英二に、黒目がちの瞳が静かに近づいた。
そうだといいなと思いながら、英二は軽く睫を伏せた。

そっと周太はキスをしてくれた。

長い指の掌で、なめらかな頬を抱きとめる。
ココアの香が甘くて、温かかった。

ふれるだけ。けれどおかしくなりそうで、ただ英二は受けとめていた。
ゆっくり離れられてから、きれいに英二は微笑んだ。

「甘いね、周太のキスは」

そんなふうに英二は笑った、でも、本当は泣きたかった。
幸せで、泣きたかった。

「ねだらないでさ、周太からしてくれたの“初めて”だな、」
「…ん。…あまりいわないで恥ずかしくなる…」

首筋から頬まで赤らめているのが、夜闇に透けて、きれいだった。

昨夜は、空いていたおかげで、個室でのんびりできた。
置かれた豆炭の炬燵が物珍しくて、周太は興味深げに構造をチェックしていた。

21時の消灯、山荘では早めに眠りに入る。翌朝の朝日を楽しみに、登山客は早寝も多かった。
着替えて布団を敷いて、壁に凭れて並んで、窓から空を見あげた。
星と月の明かりで、あわく青い夜が部屋に充ちていた。

iPodのイヤホンを片方ずつ繋ぐ。
穏やかな曲が流れ始めて、静かに周太が言った。

「英二、…聴いて?」

黒目がちの瞳は、真直ぐに見つめてくれる。
物言いたげな唇が、そっと開いて言葉が零れた。

「…I'll love you more with every breath Truly, madly, deeply, do」

“息をするたびごとにずっと、君への愛は深まっていく ほんとうに心から、激しく深く愛している“

この歌詞は本当に、自分の本音だと、いつも英二は想う。
そして、この隣にも想ってほしいと、もうずっと求め続けている。

どうしてこの歌詞を口にしてくれるのかな。
思いながら見つめる隣で、赤らめた頬のまま周太は告げてくれた。

「この歌詞はね…俺の、本音だから」

この隣にも想ってほしいと、もうずっと求め続けていた。
息をするたびごとに。それは生きている限りと言う意味。
この隣も、自分に捕まってくれたのかな。
そんな想いが心から溢れて、切長い目から一滴、白い頬を伝っておちた。

うれしい。
昼間告げてくれた言葉、「愛している」
あまりに幸せで、幻だったのかとすら、今も想っていた。
英二は告げた。

「周太、聴いて?」

黒目がちの瞳を覗きこんで、そっと告げる。

「 ‘cause I am counting on A new beginning A reason for living A deeper meaning」

“君への想いはきっと、新しい始まり、生きる理由、より深い意味 そう充たす引き金となる”

黒目がちの瞳が大きくなる。この顔が好きだなと、嬉しくなる。
隣を見つめながら、静かに英二は言った。

「ほんとうに俺、もうずっと、そう想っている。だからもう、離れてしまったら、俺はね、生きていられない」

夜の底に包まれた空間で、黒目がちの瞳が見上げてくれる。
きれいな頬に、きれいな涙が零れて、そっと答えてくれた。

「…俺も、そう…」

告げてくれた唇がいとしくて、そっと唇で英二はふれた。
やわらかな熱が幸せで、愛しくて嬉しかった。
英二は微笑んだ。

「約束して、もう離れていかないで。どんな時も、どんな所でも、俺を離さずにいてよ」

長い指で、目の前の涙を拭う。
拭われた瞳で真直ぐに見上げて、周太は言ってくれた。

「約束する…だからもう、ひとりにしないで」
「うん、」

拭った目許にくちづけて、黒目がちの瞳を覗きこんだ。
そっと笑って英二は、周太へと願った。

「約束する、だから笑って周太。俺の名前を呼んで、キスしてよ」

きれいに周太は笑ってくれた。

「英二、」

かすかなオレンジの香と、ほろ苦く甘い吐息。やわらかな唇の温もりが、愛しかった。

そっと離れた唇に、英二から口づけて抱きしめた。
英二は大好きな、黒目がちの瞳に笑いかけた。

「周太への想いがね、俺の生きる理由と意味。生きている限りずっと周太を想うよ。
 どんな時でも俺は、必ず周太の隣に帰る。
 ひとりになんかしない、一緒に生きていてよ。いつも、離れていても守り続けて、必ず笑顔にさせるから」

見上げてくれる、黒目がちの瞳が純粋だった。
周太は静かに唇を開いた。

「…ん、俺だって英二を守りたい、一緒に生きたい。…俺もう、いつも、ずっと、英二の帰りを待っているんだ」

純粋な瞳から、涙がこぼれて落ちた。

「ほんとうは、いつも俺は不安だ…山はなにが起きるか解らない、だから不安…いつも天気予報を見てしまう…」

山では天候が生死を支配する。
そのことを、不安に想って心配して、周太は泣いてくれている。
いつのまに、そんなふうに想ってくれたのだろう。そんなふうに想ってくれていた、その事が英二は嬉しかった。
嬉しくて見つめる視線の真中で、きれいな純粋な瞳が、微笑んでくれた。

「でも信じている、約束を信じて待ってる…愛している、英二」

しあわせだ、ほんとうに。
うれしくて幸せに、きれいに英二は笑った。

「信じて待っていて。愛しているだけ、必ず周太の隣へ、俺は帰られるから。だから信じて?」

抱きしめて頬寄せて、温もりが嬉しかった。
微笑んでくれる、黒目がちの瞳を見つめて笑って、穏やかな温もりに寄り添った。
そんなふうに寄り添って、ただ抱きしめて昨夜は、山の夜に眠った。
そうして目覚めた今朝は、ただ幸せで温かかった。


ヘリコプターの風が止んだ。
小屋に避難していた登山客が、山道へと動き出す。英二も隣に微笑んだ。

「行こう、周太、」

さわやかな秋晴れが、清澄な空気に心地好かった。
隣を歩くホリゾンブルーの登山ジャケット姿に、英二は笑いかけた。

「昨夜みたいに眠ったの、なんか警察学校の寮みたいだったな」
「…ん、そうだな。懐かしくて、…なんか嬉しかった」

気恥ずかしそうに、でも微笑んで周太は答えてくれる。
なんだか幸せで嬉しくて、つい英二は意地悪したくなった。

「卒業してからはさ、しないで寝たのは、“初めて”だよな」
「…っ」

ほら、やっぱり真っ赤になった。
見慣れたこんな反応も、幸せで。うれしくて笑いながら、英二は言った。

「ほら、こっちの道に行くぞ。ちゃんと着いて来いよ、周太」

笑って唐松谷への道を示すと、困った顔のまま少し俯いている。
けれど、すこし唇をかんで、ひとつ息を周太は吐いた。
そうして、どうしたのかなと見つめる英二を、黒目がちの瞳が見上げて微笑んだ。

「ん、着いていく…だからずっと連れて行って、英二」

いつのまにこんなふうに、言えるようになったんだろう。
思っていなかった予想外の、隣からの反応。
うれしくて英二は、きれいに笑った。

「ああ、ずっと連れていく。だからちゃんと着いてきてよ、周太」

唐松谷林道へ入ると、陽光が落葉松の森へと射しこんだ。
陽に透けた黄金の梢が華やいで、隣の頬をあかるく照らし大気を染める。
隣はそっと息を呑んだ。

「黄色の黄葉は、眩いな」
「うん、きれいだろ、」

微笑んだ英二の視界で、ホリゾンブルーの登山ジャケットがあざやかだった。
誕生日に贈った登山服を、きちんと周太は着てくれている。
あわいブルーが黄金に映える、この色を選んで正解だった。
そっと英二は話しかけた。

「周太の服の色、ホリゾンブルーって言うんだ」
「ほりぞんぶるー? …ん、きれいな色で、俺、気に入ってる」

よかったと笑って、英二は続けた。

「地平線や水平線近くの空の色をな、ホリゾンブルーっていうんだ」
「きれいで、広々とした名前だな」
「だろ、」

黄金の木洩日のなか、ホリゾンブルーの隣と歩く。
奥多摩をながれる渓流の色とも、すこし似た色で英二は好きだった。
きれいだなと隣を見遣りながら、英二は登山地図をクリップボードにセットする。
ここからまた、台風などの崩落で通行止めになっていた。

チェックポイントで立ち止まり、メモをとる。
この隣は、時折は、興味深そうに手元を眺めていた。
けれど黄葉とその足許の植物が、周太の心を惹きつけている。
メモを終わって周太の視線を追うと、きれいな赤い実をつけた木がたっていた。

「ナナカマドだ、」

楽しそうに植物の名前を教えてくれる。
周太の実家には、緑豊かな庭がある。周太の祖父が建てたという、木造の古い家だった。
古くても端正な家は植物に囲まれて、木肌の焦茶と白壁が緑に映えて美しい。
この隣の穏やかな静けさが育ったことが、頷ける家だなと英二も思う。
そんなふうに植物に囲まれて育った周太は、自然が好きらしく、花や木の名前を知っていた。

「ヨウシュウヤマゴボウ。これで布が染められる」

黒紫の実を眺めて、微笑んでいる。
懐かしそうに、けれど微笑んだまま、英二を振り向いて教えてくれた。

「父がね、山で教えてくれたんだ」

周太の父は、妻と息子を山に連れて、休日を過ごしたらしい。
アルバムにも山頂で撮られた、かわいい笑顔の写真があった。
13年前までの幸福な記憶を、こんなふうに笑顔で、話してくれている。

少し前まで、13年前までの幸福な記憶は、周太の心の傷にもなっていた。
それでも、警察学校の山岳訓練の時で少しだけ、周太は父の幸せな記憶を話している。
怪我をして背負われた英二の背中に、幼い日に父に背負われた記憶を重ねて、口を開いてくれた。

あのときと、今と。
話してくれる声もトーンも、同じようで全く違っている。
そして表情は、ずっと明るくて幸せで、きれいになった。

すこしは自分も、周太のために、生きられているのだろうか。
そんな想いの中心で、きれいに笑って草木を眺める笑顔が、愛しかった。

唐松谷林道を分岐まで降りて、野陣尾根へと入った。
登山道からすこし逸れる、隠された道を辿って、あの場所へと戻る。
ブナの巨樹を見あげて、黒目がちの瞳が微笑んだ。

「今日も、きれいだな」
「ああ、今日が一番きれいで、この秋の最後かもな、」

ブナの木を眺めて倒木に座る。木洩日の光が昨日よりもやわらかい。
また少し、秋が梢をおだやかに変えていた。
オレンジ色のパッケージから一粒、周太は口に含んだ。さわやかな甘い香が、森の香と馴染んでとけていく。

「俺もほしいな、」

笑いかけると、周太は困ったような顔になった。
掌の空になったパッケージを見せて、英二を見上げる。

「ごめん、最後の1個だった…下山したら買うな?」

謝られて、わざと英二は少し拗ねた顔をしてみせた。

「今、ほしいんだけど?」
「…ごめん、」

どうしようと黒目がちの瞳が困っている。
ふっと笑って英二は、周太の頬にそっと掌をよせた。

「謝らなくていいよ、もらうから」
「…え、?」

見上げる唇に唇をよせると、英二は深く重ねた。

「…っまって、」

驚いたままの唇はやわらかくて、そのままほどけて受け入れてしまう。
温かな感覚の底で、かわいいなと英二は微笑んだ。
かすかに視界を開くと、目の前の瞳は瞠いたままでいる。
その瞳には今、自分しか映っていない。それが英二には嬉しい。
甘さとガラスの様な感触をみつけて、英二はそっと唇を離した。

「ありがと、」

口の中で甘さを転がしながら、英二は笑った。オレンジの甘い香りが、英二の口許からこぼれる。
呆然としたままの隣は、赤くなるのも忘れて英二を見つめている。
その顔をのぞきこんで英二は微笑んだ。

「この飴、なんだか随分と甘いな、周太?」

たちまち目の前の顔が真っ赤になっていく。
かわいいなと英二は微笑んだ。

「返してほしい?」

ほら、もう真っ赤だ。そんな隣の反応が、かわいくて、楽しくて仕方ない。
こんなふうに、いつものように、予想した通りに初々しい。
うれしくて、英二は笑っていた。

けれど意外なことが起きた。

「…ん、かえして」

ぼそっと呟いて周太は、そっと唇をよせた。

端正な唇に、やわらかな唇が重なる。
ぎこちなく含まされる熱、困ったように探る温もり。

蕩かされていく

そんな熱にうかされて、英二はされるがままになっていた。

「…ない、」

離れて、困ったような真っ赤な顔が、ぼそりと言った。
可笑しくて、幸せで、英二は笑った。

「ああ、俺、すぐ飲みこんだから」
「…え、」

周太の意外な行動が、英二はうれしかった。
うれしくて、幸せで、止めてほしくなくて。
それで英二は、飴を飲みこんでしまった。

生真面目ですこし頑固な周太、「返して」と言ったらその通りにしようとする。
返してもらうまで、頑張って探そうとするだろう。
探す時間を引き延ばすには、探し物を消してしまえばいい。

悪戯っぽい目で、英二は教えた。

「だって見つけたら周太、すぐ止めただろ?」
「…ん、」
「気持ちいいから、止めてほしくなかったからさ。見つけられたくないから、飲んじゃった」

ほら、今度こそもう真っ赤になる。
今頃になって、自分のしたことに途惑っている。
こんなに赤くなって大丈夫なのかな。そう思いながらも、つい英二は言ってしまった。

「こういうキスも周太からは、“初めて”だね」

言われて、困っている。
けれど、黒目がちの瞳があげられて、真直ぐに見つめてくれた。
その瞳が、英二が見たことのない表情で、こっちを見ている。
どうしたと目だけで訊くと、物言いたげな唇が開いた。

「…初めては全部うれしいから…」

きれいに英二は、笑った。

「うん。俺こそ、うれしいよ」

おいで、と長い腕を伸ばして、そっと抱きしめた。
昨日も今日も、このブナの下で。いったい、どれだけ幸せだったろう。

あの日。報復の孤独へと周太が引き摺られかけた日。
もし15分を遅れていたら、こんな幸せを自分は知らないままだった。
そしてこの隣を、孤独のままに冷たく終わらせていた。

そして今日は、あの日からちょうど、1週間の日。
あの日に刻まれた周太と自分の傷は、もうこんなふうに癒えている。

もしも自分が、男ではなく、警察官ではなく、山ヤで山岳救助隊員ではなくて、ここに居なかったら。
どれが欠けてもきっと、あの15分で間に合った瞬間に、周太を掴まえられなかった。
自分が自分で、良かった。
こんな今の自分を与えられている、そういう自分で良かった。そんなふうに思える。

そして想ってしまう、願ってしまう。
こうして全てをかけるなら、きっと自分は、この隣を抱きしめ守って、生き続けていけるだろう。

卒配期間が終わって、初任科総合が終わって、本配属になる。
そのときにきっと、辛い運命と冷たい真実が、周太の前に現れる。そのことを、自分も周太の母も、もう知っている。
周太が、父親の軌跡を辿ることを望む以上、その未来を避ける事は、もう出来ない。
そして自分は、周太が望む場所の隣で、離さずに、ずっと守り続けていく。

きっとその時は「警察官」という立場が、自分達を引き離す。
それでも自分は、どんな手をつかっても、この隣を守るだろう。
自分達を引き離そうとする「警察官」の立場すら、追いつめ利用して自分は離れない。

直情的で思ったことしか言えない、出来ない。
けれど自分の能力は要領が良い。そして正直であるほどに、周りは自分に手を差し伸べる。
だからきっと大丈夫。
昨日から結んだ、いくつかの約束。その全てを自分は、果たすことが出来るだろう。

この隣への想いが、自分の生きる理由と意味。生きている限りずっと想い続ける。
どんな時でも自分は、必ずこの隣に帰る。ひとりになんかしない、一緒に生きていく。
もう自分は、名前を呼ばれて、求めてられている。
だからずっと自分は、この隣に帰って、守って微笑まられる。

抱きしめた隣に、英二は微笑んだ。

「愛してるよ、周太」

純粋な瞳が、そっと見上げて微笑んでくれる。
ほらもう、この隣はこんなにも、きれいに眩しくなっている。
だからきっと大丈夫。どんな場所に立たされても、この純粋さは誰にも冒せない。
目の前の瞳を見つめて、英二は微笑んだ。

「周太は、きれいだ」

ふわり、白いはなびらが舞いおりた。

黒目がちの瞳を、そっとかすめるように、やわらかな白がふってくる。
黄金の梢にかかる空から、あわい雪がしずかに降ってきた。
そっと英二は笑った。

「初雪だな、」

頬にふれる冷たさが、周太を微笑ませる。
微笑んだ唇がそっと開かれた。

「これも…初めてだな、」
「そうだな、」

純粋なこの隣を、自分はもう愛している。
そんな想いが温かい、英二は笑って、空を見あげた。
見上げる上空の、雲の流れは早い。すぐに雪は止んで、きっと晴れが戻るだろう。
念のために軽アイゼンは持っている、けれど使わずに済みそうだった。
よかったと思いながら、英二は周太に微笑んだ。

「ココア、作ってやるよ」

草地を少し整地する。
昨日より、馴れた手つきで英二は作れた。
あわい雪を眺めながら、大切そうに周太はカップを抱えてくれる。

「温かいね、」
「だろ、」

笑った周太の顔が、心から愛しかった。
甘く湯気の燻らせるココアが、温かい。
ときおり降りてくる雪が、そっと隣の黒髪に舞う。
穏やかな静けさが、居心地が良い。好きなこの空気に、英二は微笑んだ。

昨日カフェで買ったブレッドの袋を、英二は取り出した。
トラベルナイフでブレッドに切れ込みを入れ、チーズを挟む。
クッカーで軽くあぶってから、周太に渡した。

「こんなことも出来るのか」
「うん、国村に教わったんだ」

頂きますと、ひとくち齧ると微笑んでくれた。

「ん、おいしい。すごいな、英二」
「よかった、」

こういう時間は好きだ、英二は心から微笑んだ。

すぐにやんだ雪と一緒に、また歩き出す。
もどった陽射に、豊かな梢は明るい秋の空気に佇んでいる。
すこしだけ水気を帯びた道の、落葉の香が清々しかった。

「あ、」

隣の声に英二は、周太の視線の先を追った。
陽のあたる枯葉の合間から、凛と青い花が咲いている。
そっと周太は傍に跪くと、英二を見あげて教えてくれた。

「りんどうだよ、英二」

田中の最後の一葉は、りんどうだった。
農家で写真家の田中は、生まれ育った御岳を愛し、国村を山ヤに育て上げた。
そんな山ヤの田中は、氷雨にうたれる青い花を、写真に納めて生涯を終えた。

あわい初雪のなか、青く輝いた、りんどうの花。
あの氷雨の夜に背負った、美しい山ヤの生涯と、自分の想いが温かい。
そうして、凍える雪にも凛とした花姿に、この隣を重ねてしまう。
きれいに英二は、笑った。

「きれいだ、」

初雪がふれば、奥多摩は眠りの準備に入る。
そうして山ヤの警察官は、雪山での活動に入る。
英二にとって初めての、雪山での山岳救助と山ヤの生活が始まる。

奥多摩交番に戻ったのは14時だった。
日原林道から野陣尾根、唐松谷林道と報告をしていく。
全て終わると、後藤が楽しげに休憩室へと誘ってくれた。

「俺も今日は、ちょうど上がりだから」

そう言いながら、ミズナラの樽で醸造されたウィスキーを出してくれた。
周太には水割りで渡してくれる。
その水は、日原集落の水場で汲んできた、湧水だった。

「おいしいです、」
「そうだろう?」

微笑んだ周太に、嬉しそうに後藤は笑いかけた。
英二にはロックで渡してくれる。

「日原の秋は、どうだったかい?」
「はい、目の底が染まりそうでした」
「そうか、そんなにか、」

そんなふうに話していると、後藤の携帯が鳴った。
ちょっとごめんよと出て、少し話すとすぐに切る。
そのまま後藤はもう、ミズナラの酒のロックを作り始めた。

「今すぐな、俺の酒仲間が来るよ」

5分ほどして現われたのは、吉村医師だった。
ミズナラの酒を受取りながら、吉村は微笑んだ。

「往診の帰りに寄れと、きのう連絡をくれたんですよ」

笑いながら後藤が吉村を見た。

「だってなあ、吉村も一緒に飲みたかっただろう?」
「はい、そうですね。ご一緒出来て嬉しいです」

後藤は北国の出身だった。
高校時代から山ヤだった後藤は、高卒で警視庁警察学校に進んでいる。
そして、山ヤの警察官として奥多摩交番に配属された。
第七機動隊山岳救助レンジャーとして離れた時期もあるが、警察官の生涯の大半は奥多摩だった。

「吉村とは、俺が最初にここへ赴任した時からだな」
「そうですね、私の実家が、こちらですから」

吉村は奥多摩出身で、若い頃から地元の山に親しんでいる。
10年前に地元に戻って開業医となり、青梅警察署の警察医になった。
その前は医科大付属病院の教授として勤務している。

「では30年来の飲み仲間ですか?」
「そうだな、もうそんなになるか」

そんな話をしながら、ゆっくりとミズナラの香を楽しんだ。
吉村と周太が話す様子に微笑みながら、後藤は英二に訊いた。

「あの木な、元気にしていたかい?」
「はい、黄葉がとても綺麗でした」

そうかと微笑んだ後藤の顔が、懐かしそうで、英二は切なくなった。

―あのブナはな、かみさんを最初に山へ連れていった時、見つけたんだ
 けれどもう俺は行かない。だから誰かに座って欲しかった
 大切な人がいる。そういう奴に、あのブナを譲りたかったんだ

3年前に妻を亡くした後藤は、そんなふうに英二に話してくれた。
そんな後藤の気持ちが、英二は心から嬉しい。
けれどこの事について英二は、後藤に訊いてみたいことがあった。
でも訊いていいのか解らずにいた、今が良い機会なのかもしれない。

「副隊長に俺は、ずっと訊きたい事があります」
「おう、なんだい?」

気さくに笑って、後藤は促してくれる。
口を開いてしまったら、英二は基本止められない。
そんな俺でも受けとめてくれたらいいな、思いながら英二は微笑んだ。

「俺は率直にしか話せません、失礼を先にお詫びします」
「ああ、構わんよ。宮田のそういうところは、俺も好きだぞ」

微笑んで後藤は、英二の目を見てくれる。
真直ぐ見つめ返して、英二は訊いた。

「あの場所の事です。なぜ、国村に譲らなかったのですか」

国村は、才能あるクライマーとして、ファイナリストの素質を嘱望されている。
英二と同年の国村だが、高卒で警察官となり4年の長がある。そして山は18年のキャリアを持つ。
トップクライマーだった両親と田中の薫陶で、5歳から山ヤの経験を積んでいた。
そうして生粋の山ヤに育った国村は、純粋無垢な山への想いに生きている。

そんな国村は、山を甘くみる遭難者への怒りを隠さない。
冷静沈着だけれど大胆不敵、自由人で厳しい。そして山ヤらしい快活さが底抜けに明るい。
そんな国村は山ヤとして美しい。だからこそ、山岳救助隊員の全員が、国村のことを大切にしている。

そして後藤は国村のことを、本当に可愛がっている。
先日の不用意な道迷い遭難の夜間捜索でも、遭難者よりむしろ国村の心配をしていた。
そういう国村になら、あの場所を譲っても不思議は無かった。

笑って、後藤は答えてくれた。

「うん、あいつはな、もう昔から、自分の場所を持っているんだよ」

だから俺から譲る必要が無いんだ。
そう言って後藤は、グラスに口をつけた。
そうして深い目を微笑ませ、英二を見つめながら話してくれた。

「国村のことは、生まれた時から知っているよ。あいつの両親とはな、山ヤ仲間だったんだ。
 その両親にな、まだ5歳のあいつを、雲取山へ登らせると言われた時は、俺も驚いた。
 5歳児の脚では、とても無理だと思った。だからな、両親がおんぶしてだろうと思っていたよ」

雲取山は標高2,017.1m。東京の最高峰になる。
低山であっても、急峻な道も多く遭難者も出る。決して甘いコースとは言えない。

「でもなあ、あいつ、自分の脚で登ってさ、ちゃんと自分で降りて来たんだよ」
「5歳で、ですか」

そうだと頷いて、後藤は続けた。

「まだ5歳なのにと、俺も本当に驚いた。それでその時にな、俺は国村に訊いたんだよ。辛くなかったかとね」

あいつなんて言ったと思うかい?
そう首を傾げてから、後藤は破顔した。

「自分ちの山で仕事手伝うより、ずっと楽だ。ただ歩くだけなのに、楽しかったよ。そう言ってな、飄々と笑ったんだ」

国村らしい答えだった。
痩身だけれど国村は、持久力とパワーが並外れている。
体力をつけるコツを訊いた英二に「休日は農業やるからじゃない」と国村は答えた。
あいつ5歳の頃から変わっていないんだ。そう思うと英二は可笑しかった。

「国村らしいです、」
「だろう?」

後藤も楽しそうに笑った。

「俺もなあ、5歳で山仕事を手伝わせて、体力をつけたとは予想外だったよ。
 国村の家の山は、急斜面で険しいんだ。それを4歳頃には自力で登っていたらしい。
 そうやってな、あいつはずっと山で生きている。それでどうも、特別な場所を子供の時から、持っているらしいんだ」

「ああ、国村ならきっと、そうです」
「だろう?」
 
頷いて、温かな目を英二に向けてくれる。
グラスを啜って後藤は、真直ぐに英二を見て微笑んだ。

「あの場所、彼は気に入ったのかい?」

はいと頷いて英二は答えた。

「ずいぶん長い時間、ブナの水音を聴いていました。
 それから見上げて『こんなふうに静かに穏やかに生きられたらいい』そう言っていました」

後藤の目が、嬉しそうに笑っている。
静かに頷いて、ほっと息をつくと後藤は言った。

「きれいな瞳の通りに、純粋なのだな」
「はい、」

きれいに笑った英二に、ゆっくりと後藤は頷いて、温かく微笑んだ。

「大切にするといい、あの場所も、彼も」

やっぱり後藤は解っている。
そしてあの場所へ、連れていくに相応しいと認めてくれた。
自分達の繋がりが理解され難いことを、英二はよく知っている。
最上級の山ヤである後藤に、受けとめてもらえた。うれしいと心から英二は笑った。

「はい、ありがとうございます」

きれいに笑って、英二はミズナラの酒を飲みほした。




(to be continued)


【歌詞引用:savage garden「truly madly deeply」】


blogramランキング参加中!

ネット小説ランキング
http://www.webstation.jp/syousetu/rank.cgi?mode=r_link&id=5955

人気ブログランキングへ

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 イラストブログ 風景イラストへにほんブログ村

にほんブログ村 小説ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

萬紅 、第二夜―side story「陽はまた昇る」

2011-11-14 22:38:02 | 陽はまた昇るside story
佇んでいる、約束の場所で




萬紅 、第二夜―side story「陽はまた昇る」

ふっと英二は目を開いた。
カーテンの外はまだ、夜闇の気配に沈んでいる。
たぶん4時位。そんな見当をつけて見た時計は、その通りだった。
この奥多摩に卒業配置されてから、時間感覚が鋭くなっている。自然の近くに生活する為だろうか。
まだ少し余裕のある時間に、英二は微笑んだ。

肩に凭れる隣を、英二は見つめた。
やわらかな髪を英二の肩に零して、穏やかに眠っている。
きれいな頬に涙の痕をえがいたまま、微笑んだ唇がいとしかった。
ゆるやかに抱きしめると、なめらかな肌と温もりが寄り添ってくれる。
穏やかな寝息と規則正しい鼓動が、うれしかった。

雲取山へは任務も兼ねて、入山する。
9月の台風後に修復した林道の現況確認をする、その打合わせを朝一番の奥多摩交番で行う。
そのため今朝は、5時過ぎの電車を予定している。

だから昨夜は、ゆっくり周太を寝ませるつもりだった。
けれどやっぱり諦められなくて、肌でふれあったまま目覚めを迎えている。
ずいぶんと手加減をしたつもり、そんなふうに少しだけ自分に言い訳したくなる。
それでもやっぱり、こうして迎える目覚めは幸せで。どうしても後悔なんて出来ない。

見つめる寝顔は、すこし紅潮した頬が初々しい。
長い睫毛の翳がおちかかる、きれいな肌は清らかな艶がいとしい。
かるく微笑んだままの唇が、やわらかく零れそうで惹かれてしまう。
惹かれるままに英二は、そっと唇へと口づけをした。

「…ん、」

初々しい艶を含んだ吐息が、見つめる唇からこぼれた。
目を覚ましてくれるのかな、見つめてくれるかな。
そんなふうに見つめる真中で、長い睫毛がゆっくり披かれる。
ひらかれた睫の奥から、きれいな黒目がちの瞳が、英二を見つめてくれた。

「おはよう、周太」

うれしくて英二は、きれいに笑いかけた。
笑いかけた黒目がちの瞳が、やわらかく微笑んで見つめてくれる。
微笑んだ唇が、そっと開いて言ってくれた。

「ん、おはよう…笑顔、うれしい」

うれしくて、きれいに笑って、英二は隣をそっと抱きしめた。

「俺こそね、すごく嬉しいから」

こんな朝を毎日、ずっと迎えられたらいいのに。そんなふうに思ってしまう。
けれど今はまだ、それは出来ないことだった。
自分達はまだ卒業配置されたばかり。そして独身の新任警察官は、所属署へ入寮する規則だった。
それでも明日も明後日も、朝を一緒に迎えられる。いつもは朝は切ない、けれど今朝の英二は幸せだった。

初電に合せて開くカフェで、朝食と昼食を調達する。
それから目当ての電車に乗って、並んで座った。

「さすがにまだ空いているんだな」
「いまの時期、夜明けが遅いからな」

いつも周太は、翌朝は気怠げだけれど、今朝は元気そうだった。
自制心は無駄にならなかったな。思いながら英二は、胸ポケットに長い指を入れた。
iPodのイヤホンを取出すと、片方を隣に差し出す。

「はい、周太」

すこし首を傾げて、周太は英二を見あげた。

「俺も持ってきているけど、」
「同じのを一緒に聴くと、うれしいから。だから片方ずつ」

言いながら英二は、隣の耳許へとイヤホンをセットした。
首筋から耳まで、あわい紅潮が昇ってくる。
こんなことでも気恥ずかしがる、そういう初々しさが英二は好きだった。
曲が流れだすと、黒目がちの瞳は、うれしそうに微笑んだ。

「ん。なんだか、うれしいな」
「だろ?」

買ってきたサンドイッチを口にしながら、他愛ない話をする。
今月に入ってから、会える機会が多かった。
それでもやっぱり、一緒にいられることは飽き無くて、話も尽きてくれない。
けれど本当は、無言でいても居心地が良い。そんな隣だから今も、こうして並んで座っている。

パンの最後の欠片を飲みこんで、ふと周太が訊いてくれた。

「あのさ、一昨日のメールなんだけど」
「ああ、夜間捜索に入るときの?」

そうと頷いて、周太が首を傾げた。

「文面にあった、“話題はちょっと危ういかもしれない”って、どういうことなんだ?」

やっぱり訊いてきたと、英二は可笑しかった。
意味を気付いていたらきっと、恥ずかしがって文句を言うだろう。
けれど、年齢よりずっと初々しい周太では、何のことだか見当もつけられない。
そんな純粋な隣へと、英二は笑いかけた。

「ビバークの時にさ、国村に訊かれる話題が、危ういなってこと」
「どんな話題なんだ?」

そんなこと朝から訊いて大丈夫なの?
そんな心配を少しだけしながら、英二は笑って答えた。

「周太はね、全て俺が初体験だっていう話題」
「…っ、」

ほら瞳が大きくなる。
首筋だって真っ赤になっていく、きっと恥ずかしくてならない。
それでも周太は、かすかに唇を開いて訊いてくれた。

「…訊かれて、なんて言ったんだ?」

あ、こんなふうに訊いてくれるんだ。
すこし意外で驚きながら、微笑んで英二は口を開いた。

「運命だから。て、言った」

黒目がちの瞳が、一瞬で潤んだ。

「…そんなふうに、言ってくれたんだ」
「だって、そうだろ?」

見上げる瞳から零れかけて、英二は長い指で拭った。

「周太の初めてが俺で、ほんとに幸せなんだ」

言って、きれいに英二は笑った。
見上げていた真っ赤な顔を俯けて、周太は缶のココアを啜った。
飲みこんで、ほっと息をつく。その唇を、かすかに開いてくれた。

「…ゆうべ言ったとおり…くれる初めては全部うれしい…幸せだから」

言って見つめてくれた顔は真っ赤で、それでも瞳は真直ぐだった。

こんなふうに素直に言ってくれるなんて、思わなかった。
ただ真っ赤になって何も言えないだろう、そう思っていた。
いつのまに、言えるようになったのだろう。言葉で伝える勇気を、持ってくれたのだろう。
うれしくて英二は微笑んだ。

「この先もさ、初めてがあるから」
「ん、」

幸せそうに微笑んだ黒目がちの瞳が、きれいだった。
繋いだiPodから、やさしい穏やかな曲が流れる。
きれいな静かさの隣に座って、秋の長い夜に籠められる車窓を眺めていた。

この隣にいると、そっと心が安らいでいく。
それはもうずっと、警察学校時代から感じていたこと。
安らぎは、息をするたびごとに深く、やさしくなっていく。穏やかさが居心地良くて、温かい。
こんな隣を持ってしまった自分は、幸せなんだと心笑んだ。

ココアの缶を両掌に包んでいる、隣が英二を見上げた。
見つめ返すと、唇が物言いたげなのに恥ずかし気に見える。
言ってごらんと微笑むと、気恥ずかしげなまま周太は口を開いた。

「…あのさ、ああいう話って、どういう流れで出来るものなんだ?」
「ビバークで国村と話していたこと?」
「ん、」

夜の話など、周太はしたことが無い。
だから純粋に不思議で疑問なのだろう「どうしてそんな話が出来るのか」
あんまりに初々しくて可愛くて、英二は微笑んだ。
すこしだけ、からかおうかな。英二は正直に白状した。

「うん、酒を呑むとさ、楽しい話題かな」
「そうなのか、」

頷きかけて、黒目がちの瞳が大きくなった。

「でもそれって…捜索の任務中の、ビバークだったんだろう?」
「そうだけど?」

呆気にとられて周太は言った。

「…任務中に酒、呑んだのか?!」

あのとき少し予想していた「生真面目な周太は一体どんな顔をするのだろう」
予想通りの顔も、やっぱりかわいい。国村に見られたらさぞ、いい玩具にされるだろう。
絶対見せたくないなと思いながら、きれいに笑って英二は言った。

「仕方ないよ周太。山ではさ、山のルールで生きないと」

こんなふうに自分が言うなんて、なんだか嬉しいなと思える。
世田谷の住宅街育ちの自分が、山のルールで生きている。
不思議だと思う、けれどこういうのは悪くない。むしろ幸せで、もう馴染んでいる。


奥多摩交番に6時過ぎに着いた。
登山計画書を出し、後藤副隊長と打ち合わせを始める。

「日原林道は先週金曜から、通行可能になっている。土日の一般客通行後の様子を見て来てくれ」
「はい、」

9月の台風で崩落が起き、日原林道は八丁橋から先が一般通行止めになっていた。
10月の青梅署山岳救助隊の訓練登山も、その状況確認を兼ねている。
紅葉盛期を迎えた先日、林道は再開された。そして初雪が、もうじき雲取山には訪れる。

「雪山になって特に迷いやすいポイントではな、目印の赤テープを確認してくれ」
「外れていたら、直してよろしいですか」
「ああ、頼むよ。それと、私製の残置テープは回収してほしい。道迷いの原因にもなる」
「解りました、その場所も控えてくるようにします」

確認個所とポイントを登山地図に、鉛筆で書きこんでいく。
書きこむ長い指の手元を見守りながら、後藤が微笑んだ。

「宮田はもう、日原林道から野陣尾根は、何度か歩いているな」

田中の葬儀の翌朝、英二は単独登山を初めて行った。
そのルートに選んだのは、訓練登山でも歩いた日原林道から野陣尾根だった。
その時に後藤から、あのブナの木を教えられた。まだ数週間前のことだった。
けれど、もう何度も通っている。

「はい。状況確認を兼ねて、あの場所におじゃましています」
「そうか、あの場所か。今日も行くのか?」

―大切な人がいる。そういう奴に、あのブナを譲りたかったんだ―
そう言って後藤は「あの場所」を譲ってくれた。
だから、そこへ連れていく相手は「大切なひと」しかいない。
そして今日、英二は周太を連れている。

「はい、」

きれいに笑って、英二は頷いた。

後藤は交番表へと目を遣った。
その視線の先では、奥多摩交番所属の畠中と話す、周太の笑顔が咲いている。
そっと後藤は微笑んだ。

「きれいな瞳をしているな、」

そうかと頷いて、後藤は英二を振り返った。
そして真直ぐに英二の目を見、嬉しそうに後藤は微笑んだ。

「あの木にな、よろしく伝えておいてくれ」

野陣尾根の下部にある美しいブナ林。
その奥に隠れた「あの場所」は、元々は後藤の大切な場所だった。

「はい、必ず伝えます」
「うん、頼むよ」

登山地図を片付けて、生分解性の赤テープを受け取る。
このテープは、土に還元される成分だった。こういう山の生態系への、配慮は必須になる。
英二が仕度を整えていると、後藤が周太に笑いかけた。

「日原は今、最高の錦繍の秋だぞ」
「うれしいです、」

きれいに笑って、いつもの落着いた声で周太は答えた。

「そんな良い時に来させて貰えて、ありがたいです」
「そうか、ありがたいか」

嬉しそうにい後藤が微笑んだ。それから周太を見て言ってくれた。

「明日、下山したらまた寄ると良い。一杯おごってやろう」
「はい、」

返事した周太の声が、朗らかだった。そのトーンがうれしい。

後藤の一杯は、たぶんミズナラの酒だろう。
ときおり英二や国村も馳走になる。そういう自慢の酒だった。
周太への言葉にこもる、後藤の心遣いが英二には解る。ありがたくて嬉しくて、英二は微笑んだ。

今日の東京の日の出は6:18。山嶺の屏風に囲まれる奥多摩は、それより遅い。
それでもバスに乗る頃には、だいぶ空が明るみはじめていた。
山の稜線あざやかな、夜明けを迎えていく。
車窓から見つめる隣は、ただ静かに空を瞳に映していた。
純粋に山と空をうつす、黒目がちの瞳が微笑んでいる。そんな様子がみてとれて、英二は嬉しかった。

終点でバスを降りる。標高620m東日原、ここから林道を2時間ほど歩く。
英二はクライマー時計の時刻を確認した。
周太と歩く場合のペースチェックを、ここからする。
明日の帰路での、ペース配分の参考にしたかった。

早朝の日原集落は、かすかな活気が静かだった。
集落内の水場に寄って、水筒へと給水をする。
ひとくち飲んで、周太が微笑んだ。

「あ、水が軟らかいな」
「うまいだろ、」

こんな会話が出来ることが、英二はうれしかった。
こうして山へ来る約束をして、こんなふうに現実に出来る。
ありふれた事だと思う。けれど自分達には得難いことだった。

警察官は非常事態に向かう任務、それは周太も同じこと。
そして自分は山岳救助の現場にいる。
自分が所属する奥多摩は、遭難事故は年間40件を超えている。
その数はそのまま、自分が危険に立つ回数になる。

警察官で山ヤであることは、危険な日々だと知っている。
そんな自分が約束を果たせるのか、本当は解らない事だった。
ほんとうは、約束をする資格すらないのかもしれない。
それでもこの隣とだけは、たくさん約束をしていたい。

―大切な人がいる奴は救助隊員には向いている
 その人に会いたくって必ず生還しようとする
 その生きたいという救助隊員の気持が、遭難者をも救うんだ

そんなふうに後藤副隊長は教えてくれた。
だから自分も信じられる。
隣への大切な想いがある限り、どんな現場からも自分は、生きて必ず帰ることが出来る。
だから、この隣との約束ならば、しても良いのだと信じられる。
その約束を大切に想う、そんな気持ちが生きたい意思になって、遭難者をも救えるのだから。

八丁橋を越えると、英二はクリップボードに登山地図をセットした。
手帳を添えて、確認個所をチェックしながら歩いていく。
隣から興味深そうに、ときおり視線が覗きこんでくる。
副都心という大都会で勤務する周太には、物珍しいのだろう。英二は微笑んだ。

「周太、興味あるんだ」
「ん。俺の業務とは全く違うから、おもしろいな」

こんなところに来てまで、生真面目な隣は警察官の顔をしている。
なんだか可笑しくて、英二は笑った。

「そうだな、でも折角の山だよ。景色もちゃんと楽しんでくれな」
「あ、そうだな」

日原川の渓流を眺めての、山歩きになる。
白妙橋でも日原川を周太は見ているが、こうした上流は美しい。
碧い水の飛沫に、うれしそうに周太が呟いた。

「この水が、新宿にも来るんだな」
「ああ、そうだな」

真摯に見つめる瞳がいとしい。
微笑んで英二は促した。

「ほら周太、川だけじゃなくて、周りも見てよ」
「ん、」

顔をあげた周太の、黒目がちの瞳が大きくなった。

「…すごい、」

錦繍の秋が、周太を迎えていた。

落葉松の黄金、漆の朱色、蔦の深い赤紫。
目を醒ます真赤な紅葉、そして常緑樹と針葉樹の濃緑と黒い幹。
あざやかな紅から黄色のグラデーションと、濃緑から黒へ深まる森閑の、コントラストに山が染まっていた。
梢からふる木洩日も、赤に黄、あわい緑と明滅して道を照らしだす。
日原の秋は色彩も光も、あざやかだった。

「うれしい、」

見あげて呟いた声が、明るく微笑んだ。
そんな周太の声が、英二は嬉しい。

周太は今、都会の真ん中で勤務している。
けれど、ほんとうは周太は自然の方が好きだ。
あの公園のベンチに座るのは、英二を慕う気持ちの他に、木々の蔭を好むからだった。

そういう周太の自然に親しむ目を、ゆっくりと楽しませたい。
錦繍を迎えた雲取山の、輝くような紅葉を心ゆくまで、眺めてほしい。
そんな想いを英二は、後藤副隊長に相談した。

「日原林道の巡視任務を、兼ねたらどうだ。それなら一般で入山出来ない、静かなポイントも通れるぞ」

そんなわけで今日は、早朝からの巡視登山も兼ねる事になった。
そういう経緯からも、周太が英二のどういう存在なのか、もう後藤には解っているだろう。
そんな後藤は、ミズナラの酒を周太に誘ってくれた。

男同士の関係は、現代日本では受入れられ難い。
法学部に在籍した英二には、元から解っていた事だった。
そしてまた英二は、実の母親に拒絶もされた。あの朝に叩かれた頬は、まだ心で痛んでいる。
それでも隣への想いは、諦めるどころか、もうずっと深まって今がある。

この隣への想いを抱いて、山ヤの警察官として英二は生き始めた。
そうして出会った人達に、この隣への想いごと今、こんなふうに受入れられている。
その人達もみんな、英二の大切な存在になった。こういうことは、きっと得難いことだろう。

想い廻らす英二の隣で、黒目がちの瞳が微笑んだ。

「目の底まで、紅葉で染まりそうになる」
「ああ、きれいだろ?」
「ん、…連れてきてくれて、ありがとう」

きれいに笑った周太の笑顔が、幸せだった。
この笑顔が見たかった、うれしくて英二は微笑んだ。

この笑顔を見られること。
自分を受入れてくれた人達が、支えてくれたから見る事が出来る。

吉村が、13年前の心の傷まで癒してくれた。
国村が、飄々と笑って転がしながら、英二と周太を繋いでくれた。
後藤が、山のように微笑んで、そっと受けとめて頷いてくれた。

どの人も大切で大好きで、出会えたことが幸せだ。
そっと英二は心の裡で、その幸せに感謝した。
そんな温かな想いに、英二は隣に笑いかけた。

「俺のさ、一番好きな場所へ寄ってもいい?」
「ん、俺も、行っていいの?」

相変わらずの遠慮に、英二は笑ってしまった。

「周太だけをさ、連れて行きたいから」
「…そういうふうに言われると恥ずかしいけど…うれしい」

気恥ずかしげに黒目がちの瞳が、微笑んでくれた。
ちらっと登山地図を確認して、英二は隣に笑いかけた。

「ちょっと歩くけど、連れていくな」

唐松谷林道分岐点から、右へと野陣尾根へ入る。
ブナ林の黄葉が、朝陽にきらめいて光をおとしていた。
足許へ気を配りながら見上げる横顔に、英二は声をかけた。

「ここへと、入っていくから」
「…ここ、道なのか?」

周太が驚くのも無理は無いな。
そう思いながら、林道をすこし逸れる、消えかけた仕事道へと英二は入った。
不思議そうな顔をした隣と、落葉ふりつもった道を辿っていく。
歩を進めるたびに、乾いた葉の崩れる音と香が、静かな山の空気にとけこんだ。

「もう、着くよ」

並ぶ木々を縫っていくと、ぽっかりとした空間が急に拓けた。
急に開けた空間に、黒目がちの瞳が、大きくなる。

やわらかい草が覆う地面は、あわい枯葉色の布を広げたようだった。
切株が2つと倒木が1つある。その奥には、豊な梢を戴いた、大きな木が佇んでいる。
後藤から譲られた、ブナの巨樹だった。見上げた周太は溜息をついた。

「…きれいだ、」

ブナは用材に不向きなために「用の無い木」と書く。
けれどブナは、山の貯水力を担う木だった。
ただ静かに佇んで、ブナは今日も山の水を抱いている。そんな大きな包容力が、ブナにはある。
そんなブナが、英二は好きだ。

隣で見上げている横顔は、葉影に照らされて、ほの白くうかんでみえる。
きれいで、見つめた視線が英二は離せなくなる。
この隣はいつも、きれいで穏やかで、静かだ。
梢を見上げたまま、そっと周太は呟いた。

「ここが宮田の、好きな場所なんだ」
「ああ、」

そっと頷いて、英二は微笑んだ。
少し恥ずかしそうに、周太も笑った。

「連れてきてくれて嬉しい、ありがとう」

そう言ってもらえて、うれしい。
英二はそっと幹にふれた。後藤の挨拶を伝えたかった。
ブナの幹に掌をあてながら、英二は隣に笑いかけた。

「触れてみろよ、木の温もりが伝わると思う。それと、耳を幹へつけると、かすかだけど水音が聴ける」
「こう?」

周太は掌で幹にふれた。それから耳を幹へとつけて、そっと瞳を閉じる。

「…ん。さぁっ、て聞こえるな」
「だろ?人間でいうと、血流の鼓動と同じなんだ」
「…そうか、…そうだな、すごいな…」

ブナにながれる水音を聴いている、その横顔が穏やかで、きれいだった。
ずっと見つめていられたらいい。
そう想いながら英二は、根を踏まないように、ブナの幹に凭れて座った。

「…ん、水音がはっきりしてくる」
「聴いていると、耳が馴れるんだ」

ブナに耳を澄ます隣を見あげながら、英二は静かに気配をひそめた。
水音に親しんでいる周太の、邪魔をしたくない。
時間は余裕をもって、登山計画を組んである。心ゆくまで周太に、自然とふれ合わせてやりたかった。

渋めの黄色にそまる梢から、やわらかな光がふりかかる。
午前中の明るい陽だまりは、森閑として穏やかだった。谷川の水の香が、時折の風にふれてくる。
ちいさな草地に横たわる、倒木をおおう淡い苔が光に瑞々しい。
その傍の切株に、小さな芽ぶきの気配が見てとれた。
春には新芽が現われるかもしれない。その時はまた、連れて来られたらいい。そっと英二は微笑んだ。

いつのまにか隣は、すぐ傍に座って幹へと頬を寄せていた。
伏せた長い睫毛に、やわらかな光がけぶっている。
瞳を閉じていても、樹幹へ耳澄ませていても、顔はこちらに向いていた。
顔を向けてくれることが、うれしい。
こんなに近くで顔を、見つめていられることが、嬉しい。
そしてこの顔を、独り占めに出来る今が、嬉しくて幸せだった。

穏やかな時間が、ゆっくりと黄葉の木蔭をめぐる。
すぐ隣に佇む、静かで穏やかで、無言でも温かい居心地。
しみいるような幸せが、そっと英二の心を安らがせ、寛がせていく。

ああ、こういう時間が俺は好きだな。
居心地が良くて、英二は静かに笑った。

ブナの幹に頭を凭せて、隣の顔を静かに見つめていた。
ぼんやりと見つめていた長い睫毛が、ゆっくりと上げられる。
こっちを見つめてくれるのかな。
そんな想いの向こうから、黒目がちの瞳が微笑んでくれた。

「ここに連れてきてくれて、ありがとう」

きれいな微笑みが、うれしい。
きれいで、うれしくて、英二はまたつい本音を言った。

「好きな場所にさ、好きな人を佇ませて、眺められたら幸せだろ?」
「…そういうこと言われると恥ずかしくなるから…」

恥ずかしそうに呟いて、周太は視線を落としてしまった。
俯いた首筋が、ほのかに赤くなっている。
初々しくて、いとしくて、もっと近づきたいなと想ってしまう。

本当は前から、気になっていることがある。
たぶん周太にとっては、これも初めてなのだろう。
だから願いを聴いてほしい、英二は口を開いた。

「名前で呼んでくれないの?」
「…え、」

黒目がちの瞳が、すこし大きくなった。
この顔かわいくて好きだな、想いながら英二は微笑んだ。

「俺のこと、名前で呼んでよ」

名前で呼んで欲しい。ずっと英二はそう思っていた。
あの夜に繋がれて、それから一カ月半を過ごした。けれどいまだに周太は「宮田」としか呼んでくれない。
名字じゃなくて、名前で呼んで欲しかった。名前で呼んで、自分だけを求めてくれると感じたかった。
きれいに笑って、英二は言った。

「英二、って呼んで」

黒目がちの瞳がゆれて、困ったように唇が動いた。

「…そういうの、慣れてなくて…名前で呼ぶとか、無かったから」

それでも、気恥ずかしそうに見つめてくれる。
いつもの初々しい純粋さが、きれいだった。

「じゃあ、それも “初めて” なんだ?」
「…ん、そう、だな」

それなら尚更、名前で呼んで欲しい。
そうしてまた一つ、“初めて” を自分のものにしたい。
覗き込むようにして微笑みかけた。

「その“初めて”も俺にしてよ、周太。名前で、英二って呼んでよ」
「初めて…?」

恥ずかしそうな声が、かわいい。
どうしてこんなに、初々しいのだろう。
そんな純粋さが嬉しくて、いとしくて、英二は微笑んだ。

「わがまま訊いてよ、周太。ずっと俺の名前を呼んで?」
「わがままを、ずっと?」

やわらかな黒髪の頭を傾げて、英二の顔を見つめてくれる。
そっと見つめ返して、きれいに英二は笑った。

「そう、ずっと名前で呼んでもらう、わがまま」
「…ん、」

呼んでくれたら良いな。
そんなふうに見つめる想いの真中で、黒目がちの瞳が微笑んだ。

「…英二?」

英二を見つめて、呼んで、きれいに周太が笑った。

やっと名前で呼んでもらえた。
うれしくて、きれいに英二は笑って、名前を呼んだ。

「周太、」
「…ん、なに?英二」

また呼んでくれたのは、頬赤らめた初々しい、幸せな笑顔だった。
幸せだなと、英二は穏やかに微笑んだ。
名前を呼んでくれた隣の唇が、いとしかった。

「大好きだ、」

名前を呼んでくれた唇に、そっと英二は口づけた。
しずかに離れて、見つめた黒目がちの瞳が、笑ってくれる。
そうして、ためらいがちに唇を開いてくれた。

「英二、…俺も、大好きだから」

素直な言葉がうれしい。
きれいに笑って、英二は言った。

「知ってるよ、でも俺の方がもっと好きだ」

笑って英二は、また口づけた。
かすかな震えが伝わってくる、そんな唇が愛しくて、英二は深く重ねた。
静かにふれあう、ぬくもりが愛しい。この隣に、ずっといたい。

ようやく離れて、黒目がちの瞳を見つめた。
黄葉の木洩れ日の下で、あわい紅に染まった頬が、きれいだった。
見つめたまま英二は、周太に言った。

「周太から、キスしてよ」

目の前の頬の、紅色が深くなる。黒目がちの瞳が、途惑って大きくなっている。
きっと困らせるだろう、そんなこと解っていた。
けれどいつも、自分からばかりで、本当は寂しいと思っていた。
微笑んで、英二は少しだけ嘘を言った。

「まだ、一度もしてもらったこと、無いんだけど?」

ほんとうは一度だけ、周太からした事がある。
田中の通夜の翌朝、まだ目覚めきらない周太が、寝惚けたままキスをした。
けれど本人は全く覚えていない様子でいる。
だからあの朝ほんとうは、しずかに英二は傷ついた。
それくらい周太からのキスは、本当は嬉しかったから。だから余計に傷ついている。

周太がくれる傷は、いちばん痛くて悲しい。
それを癒して治してくれるのは、周太だけ。だからずっと英二は、周太からのキスを待っていた。
黒目がちの瞳を見つめて、静かな口調で、英二はねだった。

「ほんとうは、俺、ずっと待っていたんだけど。わがまま訊いてよ、周太」

ほらまた困っている。きっとすごく今、困っているだろう。
けれど、どうしてくれるのか、知りたい。
そして出来れば周太から、望んで自分に唇をよせてほしい。

「…わがまま?」
「そう、わがまま。俺のわがまま訊いてよ、周太」

本当は考えていた。

このブナの木の下で、初めて名前で呼んでくれたら、いい。
そして周太から望んで、初めての口づけをして欲しい。
大切なこの場所で、大切な隣との、大切な記憶。
そんな想いのなかで、今日はここに連れてきた。
だからお願い、願いを叶えてよ。そんな想いのなかで、英二はきれいに笑った。

「名前で呼んで、キスして」

見つめる視線の向こうから、初々しい恥じらいが見つめてくれる。
それでも純粋な覚悟がそっと、黒目がちの瞳におりるのが見えた。
ほら、きっと、名前を呼んでくれる。

「…えいじ、」

呼んでくれた名前と一緒に、そっと黒目がちの瞳が近くなる。
きれいな瞳は真直ぐに、英二の目を見つめてくれる。
見つめる想いの真中で、やわらかな唇がふるえている。
ふっと英二は微笑んで、見つめる瞳へと願いを告げた。

「笑顔を見せて。俺の名前を呼んで、キスして」

黒目がちの瞳が微笑んで、きれいに周太は笑った。

「英二、」

英二の唇に、周太の唇が、穏やかに重なった。

ふれる熱が、あたたかい。
ふれる温もりが、やわらかい。
重ねただけのキス。けれど、こんなに温かで穏やかで、いとしい。
こんなくちづけは、英二は知らなかった。

捕まった ―ふれる温もりに、軽く閉じた瞳の奥で、英二は感じた。

深みにそっと、ひとつの想いが響いてしまった。
ひとつの想いの切なさが、穏やかに静かにこだまする。

愛している そんな想いに捕まった。

要領良く生きていた、そんな自分はどこか冷たいと思っていた。
きっと自分は本当は、人を愛するなんて出来ないと思っていた。

けれど警察学校で、この隣と出会ってしまった。
それから素直に自分のままで生き始めて、直情的な自分でいる。
そうしてずっと、この隣を見つめて、深まる想いに浚われている。

よりそった唇が、しずかに離れてしまう。
目の前の顔が、きれいに笑って呼びかける。

「英二、」

笑顔が、きれいで眩しくて、痛いほどに愛おしい。
英二はただ微笑んで、黒目がちの瞳を見つめた。

この瞳から自分は離れない。そんな確信が肚にすわって動かない。
もう自分は、捕まったから。ほんとうに愛してしまった。
温かな覚悟がそっと、心から肚から充ちてくる。愛している、ただそれだけ。

いつか命は終わる、その日を想うともう今、怖くなる。
愛してしまった自分は、この隣を失う日には、壊れるかもしれない。
けれどその時も、この隣のためになら、きっと笑顔で見送るだろう。
この隣の笑顔と幸せを、これからずっと、願って祈って生きていく。

英二は笑った。

「周太のキス、すげえよかったんだけど」

赤い頬のまま、黒目がちの瞳が見上げてくれる。
消えそうな小さな声で呟いた。

「…ほんと?」「ほんとのほんと」「…よかった」

安心したような溜息と、周太の言葉が愛しい。
ほらもう、こんなに、ひとつひとつが、愛おしい。

「おいで、」

腕を伸ばして、小柄な体をそっと抱きしめた。
やわらかな黒髪の、おだやかな香が愛しくて、抱きしめる温もりが幸せだった。

このブナの木の下で、捕まって、気づいた愛に、おちるだろう。
ほんとうはそんなふうに、解っていて、ここに来た。

黒目がちの瞳を見つめて、それから英二はキスをした。
静かに重ねて離して、周太の瞳を覗きこんで、きれいに笑って英二は告げた。

「愛している、」

黒目がちの瞳が、大きくなる。
みるまに温かく漲って、瞳から熱がこぼれて雫がおりた。

「…俺で、いいのか」

純粋な瞳が愛おしい。
愛しい瞳を真直ぐに見つめて、きれいな笑顔で英二は告げた。

「周太だから、愛している、」

黒目がちの瞳が、きれいに笑った。
その瞳に真直ぐに見つめられて、英二は告げられた。

「…英二だから、愛している」

いま、なんて言ってくれたのだろう。

驚いて英二は、目の前の瞳を覗きこんだ。
覗きこんだ瞳は微笑んで、きれいに笑って頬染めて告げてくれる。

「もう、ずっと、愛している…言えなかったけれど、本当はもうずっと、愛している」

きれいな笑顔から、涙のしずくが零れて微笑む。
きれいに笑って周太は言った。

「愛している、英二」

切長い目から、涙がこぼれた。
自分はもう、この隣を愛してしまった。そして自分はもう、この隣に愛されている。
大切なこの場所で、大切なひとと告げあって、大切な想いにおちる。
幸せで、きれいに笑って英二は言った。

「きっと、俺の方がたくさん愛している」

隣から見上げて、微笑んでくれる。
見つめていれば幸せで、今の瞬間が永遠になると思ってしまう。
これからきっと、ずっとこうして、隣で見つめていくのだろう。

見つめ合って、ふたりはお互いから、キスをした。


倒木に並んで腰掛けて、ブナの木を見あげていた。
隣の見つめる横顔に、あわい木洩日の光が、温かくふりかかる。
森と山の香が、やわらかく頬を撫でて、あたりの空気にとけていく。
いつものように穏やかな隣は、ゆっくり瞬きながらそこに居る。

周太はこの場所を、気に入ったらしい。
嬉しいなと微笑んで、英二はリンゴを1個とりだした。
ハンカチを持つと、静かにリンゴを磨き始める。
日原集落の軒先で見かけて、きれいだなと1つ買ってみた。

「こんなふうに、静かに穏やかに、生きられたらいいね」

静かに周太が呟いた。
ブナの木を見ながら、いつも英二も想う事だった。
同じように思ってくれる。嬉しくて英二は微笑んだ。

「俺もね、いつも、そう思って見あげるよ」

誰にも知られず静かに、水を蓄える包容力を抱いて、ブナは佇んでいる。
そんなふうに、周太の隣で生きていきたい。
そんな事を思いながら、英二はリンゴを素手できれいに割った。

「はい、周太」
「ん、ありがとう」

微笑んで受取ってくれる。
さわやかな香が、かじった口許をかすめた。
甘酸っぱい果汁が、山歩きの体においしかった。
山頂まではあと、3時間ほど歩くことになる。ちょうどいいおやつだった。

登山道へ戻って、山頂へと歩く。
野陣尾根は急峻な地点が多い、隣のペースに気をつけて登った。
英二の足運びを見ながら、周太が褒めてくれた。

「山岳訓練の時とは、本当に別人だな」

登山地図と手帳を片手に、英二は笑って答えた。

「ああ、ほとんど毎日、山を歩くから」

1ヶ月半で、英二の足運びは確かになっていた。
業務としての御岳山と大岳山の巡回、毎日の国村との自主訓練。
予定が合わせられれば、国村や藤岡と奥多摩の山を歩いていた。
余暇は今日と同じ道を、ブナの木に会いに歩いている。

「こうしてさ、山にいることが、楽しいんだ」
「そう、良かった」

見上げて微笑んでくれる、けれど少しだけ寂しげに見えた。
ああそうか。英二はすぐに解って、隣の瞳を覗きこんだ。

「だいじょうぶ、無茶は絶対にしない。俺は必ず周太の隣に帰るから」
「…ん、」

頷いて微笑んでくれた。
こんなふうに、言わないでも解ることは、幸せで。
そんな相手と想いを、大切な場所で告げあえた。
きっと今日のことを、自分はずっと忘れない。そう思いながら、きれいに英二は笑った。


山頂はもう、紅葉の季節は終わっていた。
澄んだ秋の空気の向こうに、青い単独峰の姿が優雅に佇む。
晴れた空の下、青い霞をまとった富士は、きれいだった。

「写メールで送ってくれた?」
「そうだよ、」

カフェで買ってきた握飯を頬張って、英二は笑った。
あのカフェは焼き立てパンが看板になっている。
けれど弁当用に握飯も置いてくれていた。山ではこっちの方がいいと、英二は思って選んだ。

「こういうところで食べると、うまいね」
「だろ、」

隣も嬉しそうに口を動かしてくれる。
明るい笑顔がうれしい。嬉しくて、英二は微笑んだ。


山荘は空いていた。
他には中年の夫婦が一組と、山ヤ仲間だという男3人組があるだけだった。
この紅葉の時期、空いているなんて滅多にないことだった。
平日なのと先週末に人出が集中した為かなと、山荘の主人も笑った。

「静かで今夜はいいよ。山の夜に、存分にふれられる」

静かな山荘におりる夜は、訓練で来た時とは雰囲気が違う。
森閑とした空気が穏やかだった。
空いているおかげで、部屋は個室で使えた。繁忙期だと雑魚寝になる。

山荘での早めの食事の後、山荘前の広場に出た。
夜の山上は晴れていた。
半月に近い月と、無数の星が透明な夜空を輝かせる。
夜闇に沈んだ足許は、夜空との境界をなくして融けあっていた。

「ほんとうに、宇宙のなかに立ったみたいだな」

冷たい山の夜気のなかで、周太は笑った。
快活な笑顔が、山の夜に透かして見える。
この笑顔が見たかったんだ。微笑んで英二は、手元を動かした。

クッカーをセットして、少量の湯を沸かす。
そこへたココアを入れて、ゆっくり練り混ぜていく。
パックの牛乳を少しずつ足して、調度よさそうな濃さに伸ばした。
そろそろいいかな。夜空を見上げている周太に、英二は声をかけた。

「はい、周太」

温かい湯気を立てるカップを、周太に渡した。
カップを抱えて、驚いた顔で英二を見あげた。

「こんなこと出来るんだ、」
「ああ、国村に教わったんだ。だから旨く出来ていると思うけど」

今日のシフト交換の話から、察しの良い国村は、雲取山だなと笑ってくれた。
そして、このクッカーを国村から英二は渡された。

「貸してやるからさ、夜にでも何か、作ってやんなよ」
「でも俺、料理って出来ないんだけど」
「あ、そう。じゃあ練習してやるよ」

山で温かいもの作って飲むと旨いから。
そう言いながら、クッカーの使い方を実習させてくれた。

「なんか作りたいもの、あるでしょ?」

訊かれて、英二はココアを選んだ。
器用な性質の国村だから、何でもクッカーで作るらしい。ココアも旨かった。

周太は微笑んで、抱えたカップに口付けてくれた。
ひとくち啜って、英二を見あげて微笑んだ。

「ん、おいしい」
「そうか、良かった、」

山の夜気は冷たいけれど、並んで飲んだココアは、温かかった。
カップを持った隣は、うれしそうに啜ってくれる。
その笑顔がうれしくて、英二は心から国村に感謝した。

明日夜の飲みでは、ちょっと高い酒を要求されても、断れないな。
そんなことを思いながら英二も、甘いココアを啜った。




(to be continued)


blogramランキング参加中!

ネット小説ランキング
http://www.webstation.jp/syousetu/rank.cgi?mode=r_link&id=5955

人気ブログランキングへ

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 イラストブログ 風景イラストへにほんブログ村

にほんブログ村 小説ブログへにほんブログ村
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

萬紅 、第一夜―side story「陽はまた昇る」

2011-11-13 21:41:02 | 陽はまた昇るside story
※後半部R18(露骨な表現はありませんが念の為)
約束を、つないで、むすんで




萬紅 、第一夜―side story「陽はまた昇る」

御岳駐在所での日勤を終えて、英二は青梅警察署に戻った。
いつものようにロビーの自販機へ向かうと、吉村医師が指定席のベンチで微笑んでいる。
その隣には、なつかしい笑顔が楽しげに座っていた。
うれしくて、英二は笑った。

「周太、」
「あ、宮田、お帰りなさい」

見上げてくれた顔が、きれいで明るい。
明日は雲取山へ行く、約束した通りに。
そのことと、またここで会えた人が嬉しくて、明るい笑顔になっている。
その横で、吉村医師が穏やかに微笑んで、立ち上がった。

「お帰りなさい、宮田くん。今ね、コーヒーを淹れようかと話していました」
「お、いいですね。周太が淹れてくれるのか?」

笑いかけた隣は、気恥ずかしそうに微笑んだ。

「ん、そのつもりだけど」
「嬉しいな。じゃ俺、仕度したら診療室に迎えに行くから」
「ん。解った」

また後でと別れて、英二は急いで寮へ戻った。
さっと汗を流して着替えて、仕度しておいた荷物を登山用ザックに入れる。
それを担ぐと、吉村医師に借りていた本を携えて、自室の扉を開けた。
申請書はもう提出してあるけれど、担当窓口に念のため声をかける。

「今夜からだね、日原林道の確認だろう?」
「はい、台風後の状況確認をして来ます」

明日は周太と雲取山へ行く。
そのルート設定は、山岳救助隊副隊長の後藤と相談して決めた。
雲取山は9月の台風で、いくつかの登山道はまだ閉鎖されている。
初雪が降る前に、それらの現況確認をする必要があった。
だから明日は、任務も兼ねての登山になっている。

「仕事熱心だね、くれぐれも気をつけて。それから休日も楽しんでおいで」

仕事とはいえ本当は、後藤の粋な計らいでもある。
それになにより、明朝出発の時間が早まったおかげで、周太は前泊の為に今夜来てくれた。
会える時間が長くなった、それが嬉しい。英二は笑った。

「はい、楽しんできます」

そんな会話を交わしてから、英二は診療室へと向かった。
ノックして扉を開けると、いつものように吉村の温かい笑顔が振向いてくれる。

「失礼します、」
「ああ、待っていましたよ」

ふっと芳ばしい香が頬をかすめた。
香に微笑んでふと見ると、サイドテーブルにマグカップが4つ並んでいる。
1つ多いなと視線をあげると、困った顔の周太の前で、国村が涼しい顔でコーヒーを啜っていた。

「よお、勤務おつかれさまだね、宮田」

今日の国村は非番で、実家に帰っていた。
明日は本来週休の国村だけれど、英二とのシフト交換で出勤になっている。
実家に帰ると国村は、夕食を済ませてから帰寮する習慣だった。
けれど今はまだ18時半、国村にしては帰りが早い。

「今日は実家で夕飯、食わなかったんだ?」
「いや。今日はウチさ、夕飯早かったんだよね」

言っている国村の唇の端が、すっと上がっている。
たぶん周太をからかおうと、早めに夕食を済ませたのだろう。
可笑しくて、英二は笑ってしまった。

「早かった、じゃなくて、自分で早くしたんだろ?」
「どうかな。ま、やけに腹減ったなぁってさ、祖母ちゃんには言ったね」

国村は中学1年の春、トップクライマーの両親を山で亡くし、祖父母に育てられた。
その祖父母から家業の農家を継ぎ、兼業農家で山ヤの警察官となっている。
地所の山林と農地をみるため、休日は実家へ帰っていた。
そんな国村は、農閑期が山ヤの本領発揮となるらしい。

からっと国村が、周太に笑いかける。

「湯原くんの淹れるコーヒー、ほんと旨いよ。食後のコーヒーがさ、旨いと嬉しいよね」

国村に言われて、素直に周太は微笑んだ。

「そう?じゃあ良かった、お替りあるよ」

先週末に、国村と周太は初対面をした。
そのときの国村の感想は「ああ、まじ驚いたよ。かわいい玩具でさ」
そんな感想の通りに、初対面から周太をさんざん転がして楽しんでいた。
文学青年ふうの上品な風貌の癖に、国村は結構オヤジでえげつない。

そんな国村は、冷静沈着だけれど自由人で、山ヤの純粋さが快活だ。
そして思ったことしか言わない、やらない。けれど、底抜けに明るい性質で厭味が無い。
そういう国村が、英二は好きだった。

でも、あまり、周太の事は苛めないで欲しい。
だってその権利は、隣にいる自分だけで独占していたい。
けれど、そう思っているはしから、国村は唇の端を上げた。

「今夜は背中の居心地が良いね、湯原くん。良かったな、ねえ?」

国村は飄々と周太に笑いかけている。
笑いかけられた方は首筋を赤くして、マグカップを見つめてしまった。

「…あんまりそういうことは、ここではさ…」

年齢よりだいぶ初々しい周太は、いちいち反応が可愛い。
そんな可愛い反応を見たくて、つい英二もからかってしまう。
ただでさえ、人を転がす癖がある国村は、周太をからかう事が楽しくて仕方ないらしい。

「ほんとさ、まじ驚かされるよね。湯原くんには」
「なんで驚くんだ?」
「可愛くってさ。同じ年だなんて驚くよ、ねえ?」
「…そんなにかわいいとか言われると、ちょっと…」

けれど国村は、生真面目で純粋な周太を、真直ぐ見て気に入っている。
そんなふうに、ただ純粋に楽しんでいる国村には厭味が無い。
仕方ないなと英二は微笑んだ。

「あんまりさ、周太を苛めないでくれよな?」
「苛めたことあったかな?かわいがった事はあるけどさ」

そんなことを言って、からりと国村は笑っている。
その向こうの困った顔が、かわいくて英二は微笑んだ。
あのさと、いつもの素知らぬ顔で国村が言った。

「明後日さ、飲む場所って河辺でいいんだろ」
「おう、18時半で良かった?」
「いいよ。あ、ちょうど初雪が降るかもな」

そう言って立ち上がると、温かく笑んだ細い目で、ちらっと英二を見た。

「今夜もさ、幸せに笑わせてやんなよね」

言ってからりと笑って、マグカップを洗うと国村は寮へと戻っていった。

本当に国村は面白い、そして良い奴だ。
そんな事を思いながら英二は、借りていた本を書棚に戻した。
その傍らで、周太は吉村医師と、和やかに話している。

「俺、この間もココア飲んだんです」
「そうか、温かかっただろう?」
「はい、温かくて、落着けました」

息子を亡くした吉村医師と、父親を亡くした周太。
相対する立場の二人は、同じように、亡くした人への想いの為に道を選んでいる。
そんな二人はきっと、解りあうものがあるのだろう。
楽しそうな二人の様子がうれしい、引き合わせて良かったなと思える。
きれいに微笑んで英二は、周太のコーヒーの最後の一口を啜った。


河辺駅近くのビジネスホテルで、英二はチェックインの手続きをする。
周太は先に済ませていたから、預けていたカードキーだけを受け取った。
田中の葬儀の時にも泊っているから、周太は自分で手続きが出来たらしい。
英二はフロント担当と、明日の確認をした。

「明日の出発は5時前を予定しています、チェックアウト手続きは大丈夫でしょうか」
「かしこまりました、その時刻には待機するように致します。お戻りは、翌金曜の午後でよろしかったですか?」
「はい、16時前位かと思います」

明日は林道や登山道の、状況確認を務めながらの登山になる。
そのため、早朝からの入山予定だった。
当日に新宿からでは、早くても7:30奥多摩到着になる。それで周太は前泊する事になった。
そして雲取山上での一泊後、後泊もここにしてある。同じ場所の方が、荷物預かりに便利だった。

部屋に荷物を置くと、周太が言ってくれた。

「あのさ、夕飯、すぐ食べるよね?」
「うん、俺、腹減ってるんだ」

そう、と呟くと、周太は冷蔵庫から皿を取出した。
その皿には、きれいにカットされた野菜と、コールドミート類が鮮やかに並んでいた。
野菜の端正なカッティングに見覚えがある。嬉しくなって、英二は微笑んだ。

「これ、周太が用意してくれたんだ?」
「ん、そう…でも台所じゃないし、本当に切って並べただけ」

恥ずかしげな困ったような顔で、隣は英二を見あげている。
こういう顔もかわいい、嬉しくて英二は笑いかけた。

「でもすごく、きれいに作ってある」
「…ごめん、包丁も無くて、トラベルナイフで作ったんだ」

周太は料理が上手い。父を亡くし仕事に出た母のために、周太は家事全般を身につけた。
元来が端正な性質だから、料理も掃除もきれいにこなす。
そんな周太はきっと、間に合わせの料理では不本意なのだろう。
それでも英二には、周太の心遣いが嬉しい。うれしくて、英二は笑った。

「充分だよ周太。こういうの俺、すげえ嬉しいんだけど」
「…そう?」

そうだよと頷いて、きれいに笑って英二は言った。

「周太が作ったものがさ、俺、いちばん好きだから。だから嬉しい、ほんとだよ」
「よかった、」

きれいな素直な笑顔が、周太の顔に咲いた。
あ、こういう顔を、自分は見たかったんだな。
そう思ったとき、きれいに笑う隣の唇に、そっと唇を重ねていた。
すぐに静かに離れて、覗きこんだ黒目がちの瞳は、恥ずかしげに幸せに微笑んだ。
うれしくて、英二は笑った。

「俺ね、今、すごい幸せだ」

周太が浴室を使う間、英二はパンのカッティングをした。
いつもの新宿のパン屋で、周太が買ってきてくれた。
袋からクロワッサンを取出して、慣れた手つきで切り込みを入れる。
さくりと音を立てて、香ばしさと一緒に、生地が刃面に分かれていく。
この1ヶ月半で、英二もトラベルナイフに慣れていた。

「山ではさ、必要になるよ」

そんなふうに国村に、これ良いよと言われたものを買い、練習してある。
ナイフ捌きの手本は国村だったから、すぐ上手に使えるようになった。
一袋6個全部を切り終えて、ナイフを拭って片付ける。
終って登山地図を眺めていた英二は、かすかな軋音に振返った。

「お先に、ごめん」

浴室の扉が空いて、湯に上気した頬が現われた。
さっぱりして気持ちいいのだろう、黒目がちの瞳が快活に微笑んでいる。
あわく赤く染まった肌が、白いシャツを透かすようで、きれいだった。

見惚れてしまう。
このまま抱きしめて、ずっと見つめていたい。そんなふうに思ってしまう。
けれど仕度してくれた食事がある、そう思いだして英二は微笑んだ。

「大丈夫だよ。俺、着替えた時に風呂はさ、済ませてあるんだ」
「あ、それなら、よかった」

ほっとして笑ってくれる顔が、素直で明るい。
この隣はまた、きれいになっている。なんだか眩しくて、英二は少し困った。
腹は減っているのに、つい見惚れてしまう。でも、腹は満たさないと、困るだろうに。
皿に盛ったクロワッサンに、気付いて周太が訊いてくれた。

「これ、宮田が切ったのか?」
「そうだけど?」

訊いて、隣は微笑んでくれた。

「きれいに出来てる、料理もやれば出来るんじゃないか」
「周太と暮らし始めたら、やってみる」
「…うれしいけどそういうの恥ずかしいから…」

そんなふうに笑いながら、ソファに並んで座った。
食べている口許を、隣から微笑んで見上げてくれる。
こういう顔もかわいいなと思いながら、英二は微笑んだ。

「うまいよ、周太。ほんと、ありがとうな」
「そう、良かった。うれしいな、」

気恥ずかしそうに、幸せそうに周太が微笑んだ。
好みかなと見つけてきた、オレンジビールは口に合うらしい。
うれしそうに、缶に口を付けてくれている。

「これ、うまいな」

その所為か、その頬があわく赤くなっている。
けれど口調はいつものように、周太は話してくれた。

「昨日は特練の練習の後、俺、実家にすこし帰った」
「お母さんに話せたんだ、あの店のこと」

そうと頷いて、黒目がちの瞳が微笑んだ。

「良かった、って、明るく笑ってくれた」
「そうか、」

あのひとらしい、そんなふうに英二は思った。
きっと彼女なら、解っていただろう。そんなふうにも思う。
隣を見ると、嬉しそうな微笑みのままで、オレンジビールを啜っていた。
その口許の、きれいなほくろが気になってしまう。

この隣はほんとうに、呼吸するごとに、きれいになっていく。
そんなふうに1ヶ月半、ずっと見つめている。

田中の通夜の夜に、この部屋で抱き寄せた。

―約束通り…シャツ着て、会いにきた…だから、…このままどうか浚って…幸せを俺に刻みつけて

そんなふうに告げて、周太は初めて自分から望んで、抱かれてくれた。

卒業式の翌朝も、きれいになったと感じた。
けれどあの通夜の夜から、突然に、きれいになってしまった。
それからずっと、会うたびに、この隣は、きれいになっていく。

見つめるたびに、新ためて恋をする。そんな感覚だろうか?

食事を終えた皿を、洗面台で英二はきれいに洗った。これくらいなら、英二も出来る。
自分がやると周太は言ってくれたけれど、ちょっと譲れないなと英二は笑った。
だってこの皿は、周太の心づくしが載せられていた。だからきちんと全部、英二が受けとめたかった。

皿を片付けて部屋を振り返ると、窓辺に小柄な背中は立っていた。
少し開いた窓から、夜の森の香がそっと、部屋へとけこんでくる。
すこし落としたルームライトの下で、白いシャツ姿が穏やかだった。
見つめる気配に気がついて、黒目がちの瞳が振り向いてくれる。

「月がね、すごくきれいなんだ」

隣に並んで見上げると、半月に近い。
あの卒業式の夜に見たときは、月は満月に似ていた。
静かに英二は訊いた。

「卒業式の時は、いざよいだったな」
「ん、そう。不知夜月はね、一晩中月が出ている」

そんなことを前にも聴いた。あと、と英二は思いだした。

「いざよいは、ためらう、って意味だったな」
「ん、」

あの卒業式の夜、月を見て、ためらっていた。
この隣を抱いて奪ってしまいたい、そんな想いに引き摺られそうで耐えていた。
けれど今はもう、ためらう事なんて無い。

「周太、」
「ん、?」

名前を呼んで、隣が見上げてくれる。
その瞳がいとしくて、唇にそっと唇でふれた。

「…っん、」

よせた唇、かすかな吐息。
小柄な肩を抱き寄せて、細い腰を抱いて、そっと抱き上げる。
前には重たいと感じた体、今はもう、軽々と抱き上げられる。

「…あ、」

白いシーツの上に横たえて、そのまま腕の中に抱き込める。
見つめる瞳が、すこし不思議そうに見上げてくれる。
いとしくて、英二は微笑んだ。

「好きだよ、周太」
「…ん、うれしい…俺も、好きだ」

告げられる言葉が嬉しい。こんなにも素直に、言ってもらえて嬉しい。
本当は明日は朝早くて、だから寝ませてあげたいと思う。
けれどやっぱりもう、どうしても、離せそうにない。
許してほしい、

「大好きだよ、周太。だから今も、抱かせて繋がらせて?」
「…っ」

ほらこんなふうに、顔を赤らめてくれる。
恥ずかしがって困っている、そんな心がにじんだ紅潮は、透明にきれいだった。
あわい紅は、初々しい艶をあざやかにして、なおさらに惹きつけられてしまう。
だからもう今、この腕を止めることなんて、出来ない。

「きれいだ、」

ささやいて、唇をよせる。
喘ぐように唇がふるえる、けれどそれも、心を惹きこんでしまう。
襟元から指をおろして、ひとつずつ外して、肌にふれていった。
一瞬のこわばり、それもすぐとけて、ゆるやかに肢体が添われてくれる。

そっと白いシャツの袖を、ぬいて脱がせた右の腕。
やわらかに白い肌裡に咲いた、赤い痣がある。
いつものようにその赤に、唇をよせて口づけた。

「…っ、ん、」

吐息が自分の髪にふれる。
すこし強く口づけすぎて、歯の跡をつけたかもしれない。
けれどこの赤い色は、自分のものだと言う標。他の誰にもこの隣は、渡さない。
ようやく唇を離した肌は、あざやかな赤い花びらが刻まれたように見えた。
そっと長い指でふれると、赤い色の奥には熱を感じられる。
また痕をつけられた。そんなことでも嬉しくて、英二は微笑んだ。

「きれいだね、周太」

見おろす唇は、もう言葉を奪われている。
見おろす体はもう、あわく赤い透明に、艶やかな肌をさらして魅せる。
見つめてしまう、黒目がちの瞳には、ただ受け入れる純粋な艶が、透明にきれいだ。
きれいで嬉しくて、きれいに笑って英二は訊いた。

「周太、好きにして、いい?」

「…、」

ほら訊いても、もう、言葉なんか言えない。
見おろしながら、首に掛けた鍵を、そっと外してベッドサイドへと置く。
自分の白いシャツに手をかけて、脱ぎ捨てると床へ、さらりとおちた。

「明日が辛くないように、しすぎないから、許してよ」

そんな一方的な約束をして、きれいな頬に頬寄せる。
そのまま艶やかな肌に、静かに肌を重ねて抱きしめた。
一瞬こわばって、少し腕に力をこめると、やわらかく添ってくれる。

「大好きだ、」

肌と肌にうまれる温もりが、いとしい。
よせる唇の熱がいとしくて、涙が零れそうになる。
やわらかな髪に埋める顔を、そっと迎える香が、穏やかで幸せで。

失うことが怖くなる。

だって本当に寸でのところで、失うところだった。
だからこんなふうに、抱きしめられる時を、与えられてしまったら。きっともう、諦めるなんて出来ない。

「俺だけの隣でいて、周太、」

ささやいて口づける。
唇に、うなじに、肩へ胸へ、腕へ腰へ、脚へ、全てへ。
唇をおとしながら少しずつ、洗練された肢体を絡めとっていく。
なめらかな肌いっぱいに、赤い花びらが咲いていく。

肩を抱きよせて、左の肩へと強く、くちづけて深く痕を刻む。
右の腕は会うたびに、左の肩へはこんなふうに肌を重ねるたびに、赤く花のように標を刻んでしまう。
肌と肌のあいだをうずめる、穏やかな温もりと熱が、いとしくて幸せで。
つっ、と涙がひとすじ、白い頬を伝って零れて砕けた。

心から言葉が、あふれるように、英二の口を開かせた。

「お願い、周太、俺だけの隣で、いてよ」

見つめる想いの真中で、黒目がちの瞳が見上げて、吐息をついた。
それから少し見つめて、そうして微笑んだ唇がほころんだ。

「…ん、隣で、いさせて…」

切長い目から、ひとしずく、また零れて砕けていく。

「約束してよ、周太。もう、離れていかないで…俺の隣から出ていかないで、俺を、置いていかないで」

ほんとうは、ずっと、怖かった。
どんなに努力しても、掴もうとしても、叶わないのかもしれない。
そんな不安と闘って、自分の弱さと向き合って、自分は出来ると信じてきた。
ほんとうは、いつだって怖い。それでも手放したくなくて、必死にいつも、もがいている。

「俺にはね、周太、帰る場所はもう、ここしかない…だから周太、いなくならないでよ…俺の隣にいて」

黒目がちの瞳が、水漲って見つめてくれる。
きれいな右腕が、そっと英二の首元へとのべられた。

「…俺の隣で、いいの?」

のべられた右腕の、右掌が白い頬にふれる。
ふれられた頬に、眦から熱が零れておちる。切長い目からまた、透明に一滴、こぼれて砕けた。
きれいな低い声が、微笑むように告げる。

「周太の隣がいい、周太の隣だけに、いたい」

濡れた頬をそっと、すこし小さな右掌が拭う。
それを追うように、左腕ものべられて、左掌がもう片頬にふれる。
頬を包む温もりが、そっと英二の心にふれて、温かい。

「大好きなんだ、周太。息をするたびごとにね、周太のこと好きになってる」

頬にふれる掌が、温かくて嬉しくて、きれいに英二は笑った。

「もうずっと周太だけ、ずっと想い続けていく」

「…うれしい、」

黒目がちの瞳が、きれいに笑って、涙がこぼれて落ちる。
見つめる想いの真中で、静かに唇が微笑んで、言葉が零れおちた。

「こっちに、きて…」

頬をくるんだ掌の、温もりがそっと惹きよせる。
掌の温もりに導かれるままに、唇に、唇を重ねた。
重ねる想いのはざまから、恥かしげでも、迷わない声が告げてくれる。

「くれる初めての、全部が、うれしい…だからお願い、ずっと心ごと繋いで…隣にいて」

ああ、もう、自分は、捕まる。
こんなに想う相手から、こんなふうに告げられて、捕まらないわけがない。
けれどそれは幸せだ、だってずっと自分から、望んで叶えたかったことだった。

「ああ、ずっと隣にいる、繋げて離さない」

きれいな腕が、ぎこちなく英二の頭を抱き寄せてくれる。
ぬくもりは穏やかで、幸せが心にそっと、温かに熱くはいりこむ。
黒目がちの瞳が、きれいな涙と微笑んだ。

「もうずっと本当はね、…好き、」

もうずっと本当は― その想いはもう、とっくに解っていた。
それでもこうして、言葉にして告げて欲しかった。
それでもきっとどうしても、自分の方が深く激しく、想っている。
けれどそれは仕方ない。自分はいつも、あんまり正直すぎるから。なおさら想いは誤魔化せない。
うれしくて、幸せで、きれいに英二は笑った。

「これからもっと、好きにさせるから」

きれいな笑顔が、見つめ合って、ふたつ咲いた。

もう離さない、離れない。



(to be continued)


blogramランキング参加中!

ネット小説ランキング
http://www.webstation.jp/syousetu/rank.cgi?mode=r_link&id=5955

人気ブログランキングへ

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 イラストブログ 風景イラストへにほんブログ村

にほんブログ村 小説ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

不夜、想話 act.2 ― another,side story「陽はまた昇る」

2011-11-12 19:46:46 | 陽はまた昇るanother,side story
気がついたら、もう、ずっと


不夜、想話 act.2 ― another,side story「陽はまた昇る」

朝起きると、窓から見える小さな空は曇りだった。

少しだけ窓を開けると、すこし湿った冷たい風が部屋へと吹きこんだ。
明方に雨が降った、そんな気配を周太は感じた。
まだ空に残る、薄墨色の雲を見あげて周太は呟いた。

「奥多摩にも、降ったのかな…」

山では雨も風も、遭難の危険性を高くする。
明方の雨が降れば、朝の巡回の山道が気になる。
けれど、今日の宮田は非番。だから少しは安心できる。

それでも、山岳救助隊員は、非番でも召集を受ける事がある。
遭難事故が発生すれば、場合によっては呼ばれる。そんなふうに聴いている。
だから本当は、非番でも週休でも安心なんて、できない。

でもきっと大丈夫、もうそんなふうに信じている。
だってもう約束をしている。宮田は必ず自分の隣に帰ってくる。

「出会った時から、もうずっと俺はね、
I'll love you more with every breath Truly, madly, deeply, do そんなふうにさ、周太も、なってよ」
―息をするたびごとにずっと、君への愛は深まっていく ほんとうに心から、激しく深く愛している

出会って7ヶ月半、寄り添う約束をして1ヶ月半。
それなのにどうして、もう、こんなふうに想ってしまうのだろう。
ぽつんと周太は呟いた。

「…息をするたびごとに、ずっと」

生きている限り、ずっと ― そういう意味を、宮田は言ってくれた。

あの隣は、思ったことだけしか言わない、出来ない。
だからもう、きっと、ずっと、離れることは出来ない。
だからきっと大丈夫、あの隣は必ず、自分の隣へと帰ってくる。

ふっと窓からの風が強くなった。
見上げた空の、グレーの雲の動きが速い。
上空の風はきっと強い、このまま空は晴れていくだろう。

「よかった、」

呟きと一緒に窓を閉めて、振り向いた時計は6:20だった。
まだのんびりできる、周太はベッドに座ってiPodのスイッチを入れた。
こういう朝の余裕ある時間は好きだ。
今日は昼過ぎから特練に行って、それから当番勤務。だから午前中は時間がある。
だから昨夜はいつもより、ゆっくり電話が出来た。

会ったばかり、けれど少しでも長く、話していたい。
お互いに、翌朝の余裕があった昨夜。だからつい、少し、長電話になった。
電話を通して想いを繋げる。ささやかなこと、けれどこんな小さな日常が、幸せで。
昨夜も嬉しかった、けれど少し困った。

「さっきさ、藤岡に会ったって周太、教えてくれたよな」
「ん、なんかね、最初は俺だって解らなかったって」

そうしたら隣は、笑って訊いてくれた。

「なんで周太だって、解らなかったんだ?」

藤岡が周太を解らなかった理由「なんかきれいになった」
関根にも瀬尾にも言われて、宮田の姉にも言われた。そして母にも。
あの隣とこうなって1ヶ月半、なんだか同じ事をよく言われてしまう。

なんだか、じゃない。
本当はその理由を、自分はもう知っている。

一昨日、白妙橋で、国村に背負われてザイル下降をした。
作業着に軍手でも、軽快な動きで適確に国村は降りていく。
ほんとうに凄いクライマーなんだ。そう感心していた背中に、話しかけられた。

「湯原くん。ご協力をさ、悪いね」
「あ、いや、こっちこそ」

気さくな明るい話し方が、国村は楽しい。
やっぱり良い奴なんだなと、思っていたら国村が続けた。

「宮田くんの背中ほどはさ、居心地良くないだろうけど」
「…え、?」

なんでそんなこと言うのだろう。
思わず聴き返したら、ちらっと細い目がこちらを見て笑った。

「ま、夜じゃないからね、我慢してよ」

なんてこというのだろうこのひと。
“背中、居心地、夜じゃないから ”…何なのか解ってしまう。だってこの1ヶ月半、宮田にもう、言われてばかり。
このひとなにか気づいているんだ、でも宮田は何も言っていなかった。
どうしよう、なんて答えればいいのか解らない。
困っていたら、器用にレストして空いた片手で、ぽんと背中を叩かれた。

「宮田くんと会うまでずっとさ、初めては何も、していなかったんでしょ?」

“初めて” ?
どの初めてのことなのだろう。

いつも同じ誰かと必ず話すこと、誰かと一緒に食事に行くこと、誰かと買物に行くこと。
誰かの隣で過ごすこと、「いつものとおりに」誰かと一緒に笑うこと。
そして「絶対に」と約束をすること。
どれも初めてばかり、どれも宮田が初めてだった。
そしてどれも、幸せで、いつも嬉しい。

周太は訊いてみた。

「初めて、って、どの初めてのこと?」
「ああ、そうか、」

細い目がちらっと見て、唇の端があがった。

「俺が訊いたのはね、キスとさ、ベッドの中ふたりでする “初めて” のことだけど?」

きっと、首筋も顔も、真っ赤だったと思う。だって掌まで赤くなっていたから。
でも、国村に言われたことは、どちらも本当のこと。
それでもう、解ってしまった。

自分がなぜ最近「きれいになった」と言われるのか。
あの隣がいつも、笑顔にして幸せにしてくれる。だから言われるのだと思っていた。
けれどほんとうは、それだけじゃない。そのことを、国村に言われて、気付かされた。

「きれいになった」ことは、国村に言われた「初めて」のことに絡まっている。

そう気づいから恥ずかしくて。
宮田の質問「なんで周太だって、解らなかったんだ?」
その答えの「なんかきれいになった」からだなんて、とても今は言えそうにない。
それでも、なんとか周太は口を開いた。

「…なんだかもう、気恥ずかしくて…今夜は無理」

なぜだか電話の向こうは、大喜びして笑っていた。
もう恥ずかしい、首筋も顔もきっと真っ赤になっていた。
それなのに嬉しそうに、あの隣は訊いてくれる。

「どうしてそんなに周太、気恥ずかしいんだ?」
「…藤岡に言われて俺、…困った、から」

電話の向こう、きれいな笑い声が聞こえた。
そんなふうに、何度か訊かれては、赤くなって。笑われて。
でもぜったいにいえないこんなこと。昨夜はそう、思ってしまって、言えなかった。

けれど国村のことば。
国村に言われて、初めて気がつけた「卒業式の夜」の意味。
それから奥多摩で、川崎の家で、一昨夜のあの場所で。
鏡に映った顔を見るたびに、なぜ自分の顔が変わっていくのか。その意味とその理由。

背負われて逃げ場のない場所で、国村に言われたこと。
ほんとうに恥ずかしくて、どうしていいか解らなかった。
けれど、そのお蔭で気付くことが出来た。

自分にとって、ほんとうに、すべて “初めて” は、あの隣。
そんな “初めて” からずっと、自分は、きれいになっている。

I'll love you more with every breath Truly, madly, deeply, do 
―息をするたびごとにずっと、君への愛は深まっていく ほんとうに心から、激しく深く愛している

あの隣に「そんなふうにさ、周太も、なってよ」と願われた。
けれどもう、とっくに自分は、そうなっている。
そのことに、気付くことが出来た。

国村は同じ年、けれどなんだか底が知れない。でも嫌な感じがしない。
細い目は底抜けに明るくて、飄々と笑って気さくに話してくれる。
パトカーの使い方も自由すぎるけれど、宮田と自分を気遣ってくれてのこと。
そしてこんなふうに、さり気なく、大切な事を気付かせてくれた。

そしてどこか、あの隣と似ているところがある。
同じ山ヤの警察官、危険の中に居るはずなのに、明るく笑って逞しい。
ちょっといじわるで困るけれど、思った事しか言えない、出来ない。

国村は、良い奴で良い男だ。
また会ってみたい、そんなふうに想わされる。
また玩具にされるのは、困るけれど。

宮田の隣にいると、こんなふうに。
会いたい人が増えていく。それはきっと、とても幸せな事だ。


食堂に行くと、深堀と佐藤が一緒に座っていた。
おはようございますと声かけて、深堀の横に座った。
先輩の佐藤は水を一口飲んで、それから静かに口を開いた。

「新宿駅の痴漢冤罪の公判が、ニュースなっている」

周太と深堀は、同時に佐藤の顔を見た。
そのニュースは、新宿署が抱えている闇の一部だった。

2年前の冬の早朝。20代半ばの男性が、母校の最寄駅ホームで自殺した。
理由は「痴漢」と言われ学生グループに暴行を受け、警察に連行されたこと。
その連行された先は、新宿警察署だった。
彼の死から一ヶ月後、新宿警察署は痴漢容疑で送検した。その根拠は開示されない、防犯カメラの映像だった。
書類送検は、東京都迷惑防止条例違反容疑。東京地検は被疑者死亡で不起訴処分とした。

「事件があった夜、宿直の職員が条例違反を主に取り扱う生活安全課だったんだ。
だから迷惑防止条例違反で片付けよう、そんな理屈だったのだろう。
あの時は彼の手に繊維が付着しているか、担当者はその検査も怠っていたんだ」

佐藤の声は低い。そして佐藤の目は、真直ぐに怒っている。
けれど微笑んで、佐藤は周太と深堀に謝った。

「こんな重たい話を、朝から済まない」
「いいえ、」

佐藤は卒業配置で新宿署へ来て、4年目の今は刑事課勤務だった。
この新宿署は、正義感の強い人間が配属希望すると言われている。
佐藤の目は、そんな性質が覗いて真直ぐだった。

周太が射撃特練に異例の抜擢をされた為、佐藤は特練を外された。
そのことで周太に厭味を言い、それがきっかけで親しくなった。
厭味を言われた時は、本当に嫌だった。けれど今は、佐藤の気持ちも周太は解る。
努力を重ねた人間ほど、異例の扱いを受ける人間を見れば、悔しく感じて当然だろう。
そして佐藤はそれだけの、努力を重ねて警察官として勤めている。
だから今もこんなふうに、佐藤は自分の勤務先の闇にさえ、真直ぐな目を厭わない。

少し空いた食堂の隅で、佐藤は低い声のまま続けた。

「冤罪で連行した彼が、その直後自殺した。それでは警察のは立場は厳しくなる。
だから彼に痴漢の冤罪を着せようと画策した。被疑者死亡なら不起訴にできる、死人に口無しだからね」

真直ぐな佐藤の目が、怒りに悲しそうだった。
そっと深堀が口を開き、佐藤に尋ねた。

「佐藤さん、どうして俺達に、そんな大切な話をしてくれるんですか?」
「うん。2人とも、遠野教場の出身だろう?」

そうですと頷くと、佐藤が微笑んだ。

「遠野さんが捜査一課の時、管内の傷害事件でご一緒したことがあるんだ。
真実を明らかにするためには、手段を選ばない。そういう刑事だと思ったよ」

「教官をご存知だったんですね」

ああと頷いて、懐かしそうに佐藤が目を細めた。

「その時に、遠野さんが言ったんだ。
“ずっと背を向けて来た事と決着をつける それしか筋を通す方法はない ” 
だから俺も、この事件のことは真直ぐ見ていたい。そんなふうに思っている」

遠野教官らしいと周太は思った。
きっと同じように感じたのだろう、微かに頷きながら深堀が言った。

「そういう教官の生徒だからと、信頼してくれたんですね」
「ああ、」

頷いて、佐藤は少し寂しげに笑った。

「この新宿署は警視庁でも最大規模だ。だから人間の種類も様々だよ。
 そんな大規模だからこそ、本当に話せる相手を、署内に探すことは難しい。よく、俺はそう感じるよ」

佐藤の様な警察官もいれば、その冤罪事件の発端を作った警察官もいる。
副都心警察、新宿警察署。この署内にはきっと、端正と頽廃の2つの姿勢が共存している。
この新宿という場所自体、その2つの顔がある。

都庁と公式園遊会が開かれる公立苑池の所在地である、副都心新宿。
その片隅に繁華をほこり、東洋一の歓楽街と呼ばれる歌舞伎町。
相反する性格が、この新宿では共栄し建っている。

そして13年前、公式園遊会の警邏任務後に、歌舞伎町の銃弾で父は斃された。
この新宿の二面性、端正と頽廃の狭間に、警察官として父は殉職した。

―俺達の仕事はな、人間と、その生きる場所を学ぶ事なんだろうな―

御岳駐在所長の岩崎が教えてくれた事。
壊れた父の人生のパズルを、復元するために自分はこの街に来た。
パズルピースの大きな一つ、13年前の殉職事件。
そのことからも、岩崎の言葉は本当だと実感が出来る。

朝食を済ませて自室へと周太は戻った。
写しかけの専門書と、鑑識のファイルをデスクに広げた。
宮田に借りた専門書は、思った以上に専門性が高くて、周太は驚いている。

警察学校時代から、本気を出した宮田は怜悧だった。
そして卒業後の宮田は、驚くほど早く大人びていっている。
一昨日に背負ってくれた背中も肩も、一ヶ月半前よりずっと頼もしかった。

「毎日さ、こんなふうに短時間でも訓練するんだ」

そう言って笑って、あざやかに岩場を登ってくれた。
頼もしくて嬉しくて、背負ってもらえる幸せが、いとしかった。
この隣が、こんなふうに大人になった卒業配置先。
その場所に一緒に立つことができて、幸せで、嬉しかった。

卒業式のあの夜は、ただ離れ難くて、あの笑顔が好きで、ただ傍にいたかった。
ほんとうはあの夜、自分はなにも、解っていなかった。
キスくらいは聞いたことはあった、抱き寄せるくらいも。どちらも経験は無かったけれど。
けれど、キスの意味を知らなかった。抱き寄せられた、その後のことも意味も、何も知らなかった。

ほんとうは不安で怖くて、どうしていいか解らなかった。
けれどそれでも、きれいな笑顔を、ほんの少しの瞬間でも多く、隣で見つめていたかった。
ただそれだけの理由。でも自分には、あの笑顔しかなかったから。
なにより大切で、たったひとつの温もりだった。

卒業配置されて現場に立つ、そうしたらもう、孤独の底で父の軌跡を見つめていく。
そんな覚悟だけを抱いて、卒業式の場に立っていた。
この隣ともきっと、遠く離れていく。そう覚悟して諦めていた。

卒業配置先での配属挨拶が終わって、南口改札で待ち合わせた時。
中央線ホームから階段を上る、あの隣の姿が、眩しかった。
希望していた卒業配置先は、宮田の性分に合っていた。それが解って、嬉しかった。

「山岳救助隊員のさ、救助服の採寸をしたんだ。結構ね俺、似合ってた」

あの公園のベンチに座って、嬉しそうに話してくれる笑顔。
山岳訓練の日に話していた通りに、奥多摩へと宮田は配置された。
警視庁青梅警察署。奥多摩の山に囲まれた、のどやかな田舎の風光と人の心。
けれどそこは、警視庁管内で最も厳しい、生死を見つめる山岳救助の現場だった。

「奥多摩はさ、遭難者と自殺者の件数が多いんだ。だから死体見分も多くなる」

警察学校時代、一緒に資料を眺めた学習室で、宮田は寂しげに微笑んだ。
凍死者遺体と自殺遺体の行政見分は、警察官の業務になる。
あのとき周太は、宮田の長い指の掌を見つめていた。
きれいな白い大きな掌、それが遺体の見分をする。そう思うと、切なかった。

それでもさと、きれいに笑って宮田は言った。

「登山家をね、山ヤって言うらしい。山ヤの警察官が山岳救助隊員なんだ。
 山の安全とさ、山を好きな人達を、手助けして守ることが、任務なんだ」

ほらと開いてくれた資料には、奥多摩地域の雪山での救助訓練姿が写っていた。
真白な雪山は、厳しいけれど本当にきれいだった。
その白銀の世界に立つ救助隊員の、スカイブルーのウィンドブレーカー姿が鮮やかだった。
かっこいいだろと微笑んで、あの隣は教えてくれた。

「山岳経験は俺、まだ本当に少ない。でもな、こうして見ているだけで、山にはなんか惹かれるんだ」

それから、きれいに笑って、教えてくれた。

「俺、山ヤの警察官になりたいよ」

そして宮田は本当に、山ヤの警察官として卒配された。
卒業配置挨拶の後、あの公園のベンチに座って、卒業配置先での話を嬉しそうにしてくれた。
それから、ふっと宮田は黙って、ぼんやり空を見上げていた。

いつものように、やさしい穏やかな静かな時間が、あの隣をつつんでいた。
そんな隣の気配が、本当はずっと好きだった。

あの時の自分はその事すら、まだきちんと自覚していなかった。
ただ、もう二度とこんな時間はないだろうと、諦めの底にいた。
そしてただ、隣の気配の穏やかな、やさしい記憶を少しでも、自分の中に遺したかった。

そして、あの夜の、あの瞬間が、自分を壊して浚ってしまった。

― お前が、好きだ ―

しんぞうが、とまる、と思った。
聴いてはいけない事を、非現実的な事を、言われたような気がした。

だって信じられなかった。
どうして自分なんかに、そんな事を言えるの?
どうして、そんなにきれいな笑顔なのに、自分の事を選ぼうとするの?
だって宮田なら、普通の幸せを、いくらでも手に入れられる。
きれいな笑顔にふさわしい、きれいな幸福を手に入れられる。
それなのに、なぜ? そんな疑問ばかりが途惑っていた。

けれど、きれいな笑顔で、宮田は真直ぐに見つめて、言ってくれた。

―湯原の隣で、俺は今を大切にしたい
 湯原の為に何が出来るかを見つけたい。そして少しでも多く、湯原の笑顔を隣で見ていたい―

あんなきれいな笑顔で、こんなふうに言われたら、身動きなんか、出来ない。
きれいな笑顔をずっと、見つめていたい。そう願ってしまった自分がいた。
もう二度と会えなくなるかもしれない。
そんな覚悟が余計に、自分の唇をほどいて心を吐かせてしまった。

「お前の隣が、好きだ。明日があるか解らないなら、今、俺は、宮田の隣に居たい」

涙と一緒に零れた言葉は、きれいな笑顔が、きれいに全て受け留めてくれた。
ほんとうはもう、解っていた。きっともう隣から離れられない。
だってあの、きれいな笑顔に自分は、支えられ与えられ、卒業式を迎えたから。
もうあの笑顔が無くては、もう、生きられない。そんな自分になっていた。

だから、心ごと、体も、全てを、差し出してしまった。

初めて、名前を、呼んでくれた。
生え際の小さな傷にふれて、初めての口づけをくれた。
きれいな長い指でふれた唇に、唇を重ねて、初めてのキスをくれた。
瞳、覗きこんで胸射して熱い、初めての視線をくれた。

こんなに近く隣にいる事も、触れられる事も、初めてで。
誰かが自分だけを見つめている事が、嬉しくて、そして怖くて、初めてで。

肌に肌でふれられることも、初めてで。
髪に頬に唇に、隠していた全てにも、熱くふれられることも、初めてで。
熱くて、痛くて、けれど甘やかで嬉しくて、そんな想いも、初めてで。

たった一夜のこと。
けれどその一夜で、差し出した心も体も声すらも、全てが変えられてしまった。

そんな事になるなんて、なにも、自分は解っていなかった。
途惑いと、途惑いのまま独りになる悲しみが、涙に変わってとまらなかった。
そんなに辛いのに、それでも自分は、後悔なんて出来なかった。

そして本当はもう、願ってしまっていた。
警察官の道を捨ててでも、大切な母を捨てでも、この隣に座っていたい。
そんなふうに本当は、心の底で泣いていた。

ファイルに添えたペンを持った右掌。その捲ったシャツの袖の翳、赤い色が咲いている。
あの夜からずっと、あの隣が刻み続けてくれる痣。
あの翌朝は、この痣はいつか、消えてしまうのだろうかと思っていた。
けれどもう、この痣は、消えることは無い。

だって。自分にとって本当に全て “初めて” は、あの隣。
そんな “初めて” からずっと、自分は、きれいになっている。

I'll love you more with every breath Truly, madly, deeply, do 
息をするたびごとにずっと、君への愛は深まっていく ほんとうに心から、激しく深く愛している

あの隣に「そんなふうにさ、周太も、なってよ」と願われた。
けれどもう、とっくに自分は、そうなっている。

なんだか今朝は、あの隣のことばかり考えてしまう。
木曜日には会える。そして一緒に雲取山へ登る。
けれど今すぐにもう、あの隣の気配を感じたい。

借りた専門書と鑑識のファイルをまとめて、鞄にしまう。
クロゼットを開けて、Gジャンを出して羽織った。
あの隣が選んで買ってくれた服、一昨日の奥多摩でも着ていた。
それからiPodとオレンジの飴を胸ポケットに入れて、周太は廊下に出た。

いつものパン屋によって、クロワッサンとオレンジデニッシュを買った。
そのまま、いつもの公園に行って、いつものベンチに座る。
自販機で見つけた、焦茶色の缶のプルリングをひいた。
ほろ苦くて甘い香が、かわいた落葉の香と混じり合う。
そっと啜ると、甘くて温かくて、嬉しかった。
それから、あの隣に借りた専門書を開いて、そのまま時間まで過ごした。


22時、当番勤務の休憩時間、休憩室で周太は鑑識のファイルを開いた。
借りた専門書からメモをとっていく。
肌の付着物についての記述は、特に気になって二回読み返した。

ふっと見た時計が、22:45になっている。
いつもなら21時が電話をくれる時間、けれど今夜は無理だった。
当番勤務の合間、軽い夕食をと休憩に入った時、携帯が3秒間を振動した。
開いてみると、大好きな名前だった。

From  : 宮田
subject: 今から山に
本 文 : 遭難救助の召集が来た。道迷いの捜索、今からだとビバークになると思う。
     大丈夫、必ず俺は隣に帰るから。
     でもさ、話題はちょっと、危ういかもしれない?

非番でも召集がかかることもあるんだ。
微笑んで、そう教えてくれた事が、現実になった。
明方の雨はもう、昼間の晴天に乾いただろう。けれどまだ強い、上空の冷たい風が吹いている。

救けに来てくれた金曜日、初めて見た山岳救助隊服姿。
そして一昨日、初めて見た山ヤの警察官としての姿。
どれもが全て、眩しくて。頼もしくて、嬉しかった。見惚れてしまいそうで、困ってしまった。
だから信じている、きっといつも大丈夫。必ず自分の隣へと、帰ってきてくれる。
信じて待っている、そう伝えたくて、周太もメールを送った。

それにしても、宮田のメールの最後の一文。
「話題はちょっと、危ういかもしれない?」て、なんだろう?
ほんとうにいつも、あの隣のメールは謎かけが多い。

ふっと、気配に目が覚める。
鑑識のファイルに頬埋めて、いつのまにか眠っていたらしい。
携帯の時計が23時を示している。あの隣は今どこで、どうしているのだろう?
信じている、でも想ってしまう。ぽつんと呼び声が唇を零れた。

「…みやた、」

ぼんやりとした視界の真中で、そっと携帯の着信ランプが灯った。

「…あ、」

携帯を開いて、耳にあてた。
きれいな低い声が、やさしく言葉を聴かせてくれた。

「待ってた?」

声が聞けて、嬉しい。声を聴けた今、こんなにあなたの無事がうれしい。
微笑んで周太は、答えた。

「…ん、待ってた」

答えた微笑みに、そっと涙がひとすじおりた。





【歌詞引用:savage garden「truly madly deeply」】


blogramランキング参加中!

ネット小説ランキング
http://www.webstation.jp/syousetu/rank.cgi?mode=r_link&id=5955

人気ブログランキングへ

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 イラストブログ 風景イラストへにほんブログ村

にほんブログ村 小説ブログへにほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

不夜、想話 act.1―another,side story「陽はまた昇る」

2011-11-11 22:44:25 | 陽はまた昇るanother,side story
つながれた想い、うれしくて



不夜、想話 act.1―another,side story「陽はまた昇る」

射撃の特練が終わって周太は新宿駅まで戻ってきた。

今日は日勤だからこのまま東口交番へと出勤する。
改札を出ようとしたとき目に入った時計は11時過ぎ、正午に出勤予定だから時間は余裕がある。
このまま昼休憩に入るとちょうど良いのかもしれない、周太は東口交番へと連絡を入れてみた。

「ああ、そうしてくれると助かるよ。うまいもん食ってこいな」

応対してくれた柏木はそんなふうに言って笑ってくれた。
柏木とは同じシフトで、いつも一緒に勤務している。
安本の事もよく知っていて機動隊時代に一緒だったらしい。

そして柏木は茶飲み話が上手だ。
ときおり新宿では、ビルの谷間ぼんやりと、自暴自棄に座りこむ人間がいる。
都会の底で虚ろな目をして、その後、ビルや駅のホームから転落してしまう。
そういう人間をみつけては、柏木は交番で茶を出している。

茶を啜っただけで、人は少し和やかになって、すこし話してくれる。
そんなふうに心を少し解いて、柏木は話を聴いてやる。そうして帰っていく人は、転落する事は無い。

「こういう都会はね、人が多すぎて逆に孤独っていうかな。人波に自分が埋められてしまう、そんな気がするんだろうな」

柏木はそう言って、周太に教えてくれる。
周太自身が新宿での勤務中、寂しいと時折に感じてしまう。
けれど勤務の合間に柏木と話す時は、すこしだけ寛げた。
そんなふうに頼もしく和やかな柏木の雰囲気と、昨日会った御岳駐在所長の岩崎は、どこか似ていた。

「俺達の仕事はな、人間と、その生きる場所を学ぶ事なんだろうな」

岩崎は、昨日そう教えてくれた。
宮田の勤務するう御岳駐在所は、新宿駅東口交番とは、業務が全く違っていた。
山岳地域の警察と、副都心の警察。同じ警察官でも全く違う世界だった、
御岳駐在所は山岳地域であり、山での遭難救助と自殺遺体収容が主な業務だった。
山で起きる生死を見つめる現場。人は温かく、自然は美しく厳しかった。

青梅署で出会った警察医の吉村は、それら全てを見つめる人なのだと感じた。
山に廻る生死と向き合い、そうする事で山に亡くした息子を見つめている。
警察官として生きる事で、殉職した父を見つめる自分と、どこか吉村は似ていた。
そんな吉村は、周太の茶を啜って微笑んだ。

―湯原くんは、端正に生きてきた人ですね。そういう方は私は好きです

周太の事を真直ぐに見つめてくれた。
そして、あの隣との繋がりも、全てを肯定して微笑んでくれた。

―宮田くんと湯原くんが寄り添う姿は、とてもきれいでした
 だから私には解ります、君たちの心の繋がりは、とても美しいです

そんなふうに、周太の心に寄り添って、13年前の事も穏やかに話させてくれた。
数時間を一緒に過ごしただけで、あんなふうに心を開いた事は、周太には初めてだった。

とても不思議で温かい、自分の悲しみも他人の想いも、全て真直ぐに見つめる人。
また吉村に会ってみたい。雲取山に行く時も、少し会いに行けたらいい。
そして、そう思う自分も周太には不思議だった。

自分は簡単には、心を開けない。
どうしてなのか自分でよく解らない。けれど、誰かといて心から寛げることは、ずっと無かった。
元からそういう所はあった。そして父が亡くなってからは、ただ、孤独になっていた。

けれど気がついたら、きれいに笑って宮田が、そっと隣に座っていた。
宮田の気配は周太を邪魔しない、ただそっと温もりを伝えてくれる。
静かに穏やかに佇んで、けれど強い腕で掴んで離さない。たまに強引だけれど、それもほんとうは、いつも嬉しい。
だからいつも思ってしまう、あの隣だけが自分の居場所。
宮田だけ。あの、きれいな笑顔の隣だけ。あの場所にだけは、心から座っていたい。

宮田は吉村医師を、とても信頼していた。
そして吉村医師も宮田を、心から信頼して息子のように想っている。
そういう吉村だからこそ、周太も好きになれるのかもしれない。

「…あ、」

周太は目を上げて驚いた。
気がついたら、あの店の前に立っている。
昼休憩はどこに行くか、まだ決めていない。
けれどたぶん、あの隣の事を考えていたから、ここに来てしまった。

「…どうしよう、」

暖簾を見あげて、周太は小さく呟いた。

昨日の夜、奥多摩から送ってくれる宮田と、この暖簾を潜った。
土曜夜の20時頃、ちょうど帰る客と入れ違いになった。
あたたかな湯気の、寛ぎが温かな店には、あの主人だけが立っていた。

「また、来てくれたんですね」

主人は嬉しそうに笑って、小さめの中華丼をサービスしてくれた。
打ち明け話をして、主人も少し、心配だったのだろう。
嬉しそうな温かい主人の笑顔が、周太も嬉しかった。
中華丼は美味しかった。うまいと宮田も主人に微笑んだ。

「本当うまいです、もっと食いたくなります」

そんなふうに、きれいに笑って、お代りを貰っていた。
宮田は正直だ。思った通りにだけ言い、行動する。
そんな率直さがいつも、相手の心の引き出しを開いてしまう。
だから昨夜もきっと宮田の笑顔に主人はつい、サービス過多になったのだろう。

「お客さん、ほんとうに良い笑顔するね。こっちが嬉しくなっちまう」

そんなふうに笑った主人の顔は、本当に嬉しそうだった。
でも、サービスだったのに、ちょっと図々しかったかもしれない。
すこし周太は心配になった。お礼とお詫びを伝えた方が、良いかもしれない。
このままこの店で、食事していこうか。

けれど、と周太は気がついた。
自分は今、活動服姿で立っている。

気がついて、ひやりと心を冷たい何かが撫でた。

一昨日の自分は、同じ姿でこの店に向かった。
今と同じように特練の帰り道、活動服姿で拳銃を携行して、ここへ来ようとした。
殺害された父の報復。父の遺体と同じ姿で、父が殺されたのと同じように、犯人を殺す。
そんな冷たい目的に、心ごと縛られ引き摺られ、孤独の中を歩いていた。

「…ごめん、なさい」

ぽつんと呟きが唇から零れた。
今更ながらに、自分の犯そうとした事の冷たさ。
その重み冷たさ全てが、自分自身に跳ね返って刺さって痛い。

周太は店から離れ、すこし離れた街路樹の陰に佇んだ。
その周太の視界に、自販機が映りこんだ。

「…あ、」

HOTのスペースに、ココアの表示が見える。
周太はそっと自販機へと歩み寄った。

昨日の夕方、吉村医師は、一杯のココアを周太に差し出してくれた。
父が好きだったココア、自分も好きだった。そして父が殉職してからは、飲まなかった。
父の生前の幸福だった時間、その全てが、喪失という名の悲しい傷になっている。
だからココアも飲めなくなった。一緒に飲んで過ごした幸せな時間が、冷たく痛い傷になって蹲っていた。

―ゆっくり、飲んでごらん。きっと温まる

そう言って差し出されて、13年ぶりに啜った。
涙が零れて、甘くて、おいしくて、温かかった。

―そうか、良かったな。温かいのは、うれしいな

そんなふうに言って、吉村は肯定してくれた。
そうして13年ぶりに周太は、父親との幸せな記憶と素直に向き合えた。
その隣では、きれいな笑顔が佇んで、穏やかに優しく見つめてくれていた。

「俺にも、ひとくち飲ませて」

きれいに笑って宮田は、周太の手から紙コップを受け取ってくれた。
そうしてまた微笑んで、周太が唇をつけた所へと、きれいな口許を寄せて、ひとくち啜った。

「うまいな。温かくて、すごく甘い」

そんなふうに微笑まれて、嬉しかった。けれどちょっと困った。
だってあんなのってほら、きいたことのあるあれじゃないだろうか。
真っ赤な首筋は、たぶん2人に見られていただろう。

でも本当は解っている。
父の記憶と周太の心の傷が、溶けこんでいた、あのココア。
それを宮田は解っていて、きれいに笑って、一緒に啜ってくれた。
その事が嬉しくて幸せで。13年間の冷たかった細かい傷は、あの時から溶け始めた。

あの隣が、すきだ

周太は小銭を出して、自販機に入れた。
がたんと出てきた焦茶色の缶を、そっと掌に持ってみる。
熱い温もりが、少しだけ冷えていた掌に沁みるようだった。
プルリングをひく、すこしほろ苦い甘い香りが起ちあがる。そっと唇をつけて啜ると、温かかった。

ほっと息をついて空を見あげる。
ビルの谷間にも青空が眩しい。街路樹の銀杏は秋にうつり、あわい黄色がきれいだった。
また少し冷え込むと天気予報は言っていた。
きっと木曜日の奥多摩は、深まる秋が美しいだろう。

この同じ空の下、奥多摩の山あいで今、宮田も吉村も笑っている。
秀介も岩崎も元気でいるだろう。国村はまた誰かを転がして、笑っているかもしれない。
あの場所へと自分も、木曜日には立っている。

「ん、」

幸せに微笑んで、周太はココアを飲みほした。
今すぐに、あの隣の気配を感じたい、寛ぎたい。
それを叶えてくれる、温かい場所は今、目の前に佇んで待っている。

空けたココアの缶を、自販機のダストボックスへ入れた。
その手を胸ポケットへ入れて、オレンジ色のパッケージを出す。
昨日の朝、あの隣が河辺駅のカフェでくれた飴。
気恥ずかしさと幸せが、首筋を昇ってしまう。それでも周太は一粒とりだした。

「…ん。おいし、」

含んだ甘さと、オレンジの香りが嬉しい。この飴をくれた、きれいな笑顔が温かい。
ほら今もう、自分はこんなふうに幸せで温かい。
いつもこんなふうに、あの隣は必ず自分のことを、温かさから離さない。

だからきっと大丈夫、もう冷たい孤独は、自分を掴めない。

周太は制帽を脱いだ。
それから振返って、いつもの店の暖簾を活動服姿のままで潜った。

「へい、いらっしゃいませ、」

あたたかな湯気と、笑顔の主人の声が迎えてくれる。日曜11時過ぎ、店には客はまだいなかった。
微笑んで、周太は主人へと挨拶をした。

「こんにちは、」

声を聴いて、主人の瞳が大きくなった。

「お客さんも、警視庁の人だったんだ」
「はい。昨日はすみません、ご馳走様でした」

カウンターに座る周太に、意外ですと主人は笑った。

「こんなに驚いて、すみません。てっきりね、学生さんか学者の卵さんだと思っていました」
「はい。前髪おろしていると、言われます」

学生時代まで、周太の前髪は長めだった。
そうしていると、穏やかで繊細な雰囲気が、学者風だとよく言われた。
けれど警察学校に入る時、ばっさり髪を切った。
入寮前に偶然会った宮田に「かわいい」と言われた事がきっかけだった。

片意地を張っていた、今ならそう素直に認められる。
だから今はもう、前髪は長めに戻した。
仕事の時は今みたいに、あげてあるけれど。

「そうですか。でも今も、お話しすると学者さんみたいです」
「どんなふうに?」

そうですねと水を渡してくれながら、主人は微笑んだ。

「真面目で一途で、きれいな純粋な目をされています。そういうお客さんは、学者さんが多いんですよ」

母は周太のことを学者になると信じていた。

東大でもどこでも進学できた、けれど母を独りにしたくなくて近所の公立大学に進んだ。
その時も母は「大学院で行ってもいいね」と笑ってくれた。
進学後も本当は、アメリカの大学への留学の話もあった。
そこは世界最高峰の工学研究学府だった、本当は少しだけ心がゆれた。
それでも母に内緒で断ってしまった、そのことは今でも母に秘密にする唯一の事でいる。

この主人も「学者」と言ってくれる。
そして父も、自分にそう望んでいたと、母の言葉の欠片から解る。
「周太」と言う名前の意味は「周=あまねくめぐらし 太=度量が大きい」
全てあまねく学び大きな器の人間になるように。学者になるには相応しい、そういう名前だった。

この主人の心には父の心の欠片が生きているのかもしれない。
そう思うと温かくて周太は嬉しかった。
カウンター越しに主人を見上げて、周太は微笑んだ。

「ありがとうございます、」

主人も微笑んでくれた。

「そんなこちらこそ。いつも来てくれて、ありがとうございます」

それから注文をして、水を飲みながら、周太は携帯を開いた。
メモリーを呼びだすと、きれいな川の写真が現われる。
昨日、白妙橋の岩場から撮った、日原川の画像だった。
碧い水と砕ける透明な飛沫。こんな水が東京にあることが嬉しい。
今飲んでいる水も、もとはあの場所を流れていた。そう思うとなんだか温かい。

昨日は周太はザイル登攀を1度しただけで、救助者役を手伝った。
背負われた宮田の背中で、本当は少し、周太は泣いた。
警察学校時代の山岳訓練を、思い出したから。

崖を滑落した周太を救助した宮田は、あの時が初めての山岳経験だった。
不慣れなザイルが肩に食い込んで、きっと宮田は痛かった。
もう降ろしてと言いたかった、けれど背中の温もりが嬉しくて、言葉は出なかった。

怪我の当日は風呂は止められた。けれど翌日は、宮田が介助してくれて風呂を済ませた。
その時も周太を支えてくれた肩には、やっぱりザイルの痕と擦過傷が出来ていた。
ごめんと呟いた周太に、きれいに笑って宮田は言ってくれた。

「大丈夫、遠慮するな。むしろ俺はさ、頼ってもらえるのが嬉しいから」

それに怪我の世話も約束しただろ?そう言って微笑んで、その後も毎日世話してくれた。
言ってもらって嬉しかった。世話をしてくれて、ほんとうは幸せで嬉しかった。
あの時は自覚していないけれど、あの時から本当は、あの隣を頼り始めていたかもしれない。
そしてたぶん、好きだった。

「山の警察官っているのかな」

山岳訓練で怪我した周太を、背負ってくれる下山の道で。宮田は、そんなふうに訊いてきた。
訊かれて、幼い日に登った奥多摩の山を想った。
奥多摩の山中で会った「警視庁」と書かれたウィンドブレーカー。
警視庁の山の警察官は、山岳救助隊だと思いだして答えた。

「山岳地域の警察官なら警視庁は奥多摩方面」

そうかと言って、宮田はあのとき微笑んだ。
そして今、宮田はあのウィンドブレーカーを着、山ヤの警察官として奥多摩の山岳救助隊員になっている。
そうして一昨日この場所で、周太のことも、主人のことも、13年前の後悔から救ってくれた。
今、座るこの席の、隣に座って微笑んで、きれいに笑って救ってくれた。

自分はどうしたら、あの想いに答えられるのだろう?

だって本当は気付いている、あの時に宮田が来てくれた理由。
自分がもしも犯人を撃つと願ったら、宮田は代りに撃つ覚悟でいた。

「周太、」

名前を呼んで抱きとめてくれた瞬間から、新宿署の保管へ戻すその瞬間まで。
きれいな切長い目は、本当はずっと周太のホルスターを見つめていた。
あの時は何故だろうと思っていた。
けれど昨日、奥多摩で、吉村医師と国村に会って、気がついてしまった。

―あの日の彼の目は覚悟していた…ただ見送って後悔するのは、あの一度だけで終わらせたかった

吉村医師はそう言った。
吉村医師が後悔した「あの一度」それは愛する息子を死なせた時のこと。
吉村医師はきっと、宮田の覚悟が何なのか、気づいていた。

―宮田くんのさ、大切な人の緊急時だった。問題無いだろ?…山ヤはね、仲間同士で助け合うんだ

国村はそう言った。
宮田はいつも笑顔でいる、だから「緊急時だった」と言われるのは、余程の表情をしていたこと。
そして国村は言った「山ヤは仲間同士で助け合う」
父に聴いたことがある。登山中に遭難事故が起きたら、山ヤは自分の計画を中断して、遭難した山ヤを助ける。
国村は、宮田自身の遭難だと言っている。それ位にきっと、宮田の表情は緊迫していたということ。

あの隣は、自分の身代わりになっても、守ろうとしてくれた。
そのことに、気がついた今朝から、ほんとうはずっと、涙が止まらない。

ほんとうはずっと、どこかで解っていた。
あの隣はきっと、身代わりになってでも、自分を守ろうとしてくれること。
だから自分はあのとき、独りでこの店へ向かってしまった。
あの隣の、きれいな笑顔を、自分だって守りたい。だからもう、巻き込めなかった。

それなのに、追いついて掴まえて抱きしめてくれた。身代わりになろうと、微笑んで佇んでくれた。
そして怒ってくれた。離れる事が、いちばん残酷な事だと悲しんでくれた。
だからもう解ってしまった。きっと、逃げても離れても無駄なこと。
きっともう自分達は、どんな時でも離れることは出来ない。

そのことに、今朝、ベッドの上で気がついた。
早めに目が覚めた寮の自室、昨日一緒に選んでくれたiPodに、いれてくれたあの曲を聴いていた。
そして昨夜送ってくれる電車の中、言ってくれた言葉を想いだした。

「出会った時から、もうずっと俺はね、I'll love you more with every breath Truly, madly, deeply, do そんなふうに周太もなってよ」

―息をするたびごとにずっと、君への愛は深まっていく ほんとうに心から、激しく深く愛している

出会って7ヶ月半、こうなってから1ヶ月半。
それなのにもう、こんなに想いが深い。
それなのにこれから、息をするたびごとに深まったら、どうなってしまうのだろう。

宮田はいつも、思ったことだけを言葉にして、行動する。
だからきっと本当に、宮田はこれからずっと、そんなふうに思い続けてしまう。
だから思う、あの隣から、逃げても離れても無駄なこと。きっともう自分達は、どんな時でも離れることは出来ない。

「はい、おまちどうさま」

温かな声と一緒に、丼が差し出されて周太は我に返った。
ありがとうございますと受取って、箸を割る。
ひとくち啜ると、温かかった。

この温かさも、宮田が連れてきて教えてくれた。
それなのに宮田は、自分はそんな温もりを捨ててでも、周太を守ろうとしてくれた。
こうやっていつも、全てを掛けて、尽くして支えて、想いを届け続けてくれる。

どうして自分の為に?そう思ってしまう。
どうしてなのと、嬉しくて、温かくて、どうしていいのか解らない。
どうしたら自分は、あの想いに答えて、自分の想いを届けられるのだろう。

「さ、どうぞ、」

温かな声に、周太は顔をあげた。
一枚のティッシュペーパーを、大きな掌が差し出してくれていた。
いま気がついた、自分の頬が濡れている。

ほんとうはずっと、朝から泣きたかった。
けれど任務があったから、警察官の一日が始まったから、泣かずに今日を過ごしていた。
でも今、温かくて涙が止まらない。

主人が温かく微笑んで周太を見てくれる。
温かな声がそっと笑って言ってくれた。

「温かいうちにね、召し上がって下さい。肚が温まるとね、元気が出て笑顔になれますよ」

そんなふうに微笑んで、温かな丼に、煮玉子と野菜炒めをよそってくれた。
キャベツがひとつ、カウンターにこぼれる。思わず周太は笑った。

「すごい大盛りですね、宮田なら食べきれるかもしれないけど」
「いつも一緒に来るお客さんだね、よく食べて、よく笑う。彼はいつも本当に、良い笑顔ですね」
「はい、」

笑って頷いた周太に、おやと微笑んで主人は言ってくれた。

「ああ、お客さんもね、良い笑顔です」

そんなふうに言ってもらえて嬉しい。
父の心の欠片をもった、目の前の人。
この人の温もりは、きっと、父の温もりの欠片が種になっている。
きれいに笑って、周太は言った。

「おやじさんも…温かな、良い笑顔ですね」



一日の勤務が終わって、寮に戻って夕飯を食べた。
週休だった深堀が、一緒に席についてくれる。

「今日も詩吟の稽古を祖母がつけてくれたんだ」

気さくに笑いながら、お弟子さんが上達した話をしてくれた。
深堀は、祖母の師範代を務めている。日曜日の今日は稽古が多いらしい。
周太の顔を見て深堀は、微笑んで訊いてくれた。

「一昨日と、昨日もだよね。宮田と楽しかった?」

一昨日の夕方に深堀とは、寮を出る前に廊下で会っている。
あのときは恥ずかしくて困った、そう思いながら周太は頷いた。

「ん、楽しかったよ。昨日は岩場で、ルートクライミングをしたんだ」
「へえ、すごいな。俺、警察学校の訓練だけだ」
「最近はね、ボルダリングが流行っているらしい」

そんな他愛ない話が楽しい。
でもやっぱり、あの隣といる時がいちばん楽しい。
そんなことを思っていたら、ふと深堀が訊いた。

「一昨日のオールはさ、どこで飲んだの?」
「…っ」

危うく茶碗を落としそうになった。

でもちょうど深堀は、秋刀魚の骨を器用に外す最中で、気づかなかった。
動揺を気づかれなくて良かった、けれど、この質問どうしよう。
ほんとうのことなんてとてもいえないはずかしすぎるから。
けれど困っていたら、深堀が言ってくれた。

「新宿で飲んだの?それとも青梅まで行ってから?」
「あ、新宿…」

ほんとうに場所の事だけだった。
深堀はもう、秋刀魚の季節だと鰯雲とかさと、秋の季語の話に入っている。
なんだか秋刀魚に助けられた。思いながら周太も、秋刀魚に箸をつけた。


食事が済んで風呂も済ませて、ほっと周太はデスクの前に座った。
鑑識の勉強ファイルを出して、ペンを持つ。
ペンを持った右腕の、シャツの袖を捲ると、すこし赤い痣がのぞいた。

昨夜あの店を出てから、南口のテラスのベンチに座った。
あのカフェでテイクアウトして、前にも座ったベンチで並んだ。
オレンジラテ?は温かくて、おいしかった。

「周太はさ、オレンジの味が好きだな」
「ん、すきだな」

11月の夜風は冷たかったけれど、きれいな笑顔の隣は温かかった。
寒いからと、いつもより肩が近くて。気恥ずかしくて、嬉しかった。
そしてまた、この痣に唇がふれてくれた。

「今日は周太、腕を引込めようとしなかったね」

そう言って宮田は微笑んで、長い指でそっと痣にふれた。

「きれいだね、周太」

あわいデスクライトに照らされた、右腕の赤い色。
卒業式のあの夜からずっと、同じところに咲き続けている。
きっともう、消えることは無い。
だって、もうそれくらい、ほらこんなにもう、想いが深いから。

鑑識のファイルに、借りてきた本からメモをとる。
木曜日に返せば良いからと、宮田が貸してくれた。
書籍自体の厚みは薄めなのに、内容は思った以上に厚く専門的で、周太は驚かされた。

宮田と吉村医師の会話にも驚いた。
宮田は救急法の成績が良かった、検定も好成績で合格している。
青梅署に配属されてからは、警察医の先生に教わっていると聴いていた。
けれどあんなに、専門的な話をしているとは思わなかった。

「救命救急士の資格はさ、学校通わないと難しいんだけどね」

それでも俺の現場には必要な知識なんだ。
そんなことを言って、あの隣は微笑んでいた。
救命救急士の資格は普通、消防庁勤務者が取得することが多い。
けれどあれだけ努力できるなら、警察官でも宮田は、いつか取得するかもしれない。

デスクに置いた父の時計が、21時前を指している。
その隣に置いた携帯が、気になってしまう。
もう鳴るかな。そう思った視線の真中で、ふっと着信ランプが灯った。

「はい、」
「今日、楽しかったんだ?」

言わなくても解ってしまう。
そんなふうにいつも、やさしい繊細な、この隣。

「ん、楽しかった。俺ね、あの店へひとりで行ったんだよ」
「そうか、おやじさん元気そうだった?」

こんなふうに訊いて、話を聴いてくれる。
きれいな低い声、やさしい穏やかな気配。
こうして電話で繋がれて、今も話で離してくれない。
こんなふうに、ほんとうに、この隣はいつも、必ず隣にきてくれる。
'Cause it's standing right before you All that you need will surely come 
―君に必要なもの全てになった僕は、必ず君の元へたどりつく

そうだと言って、宮田が訊いてきた。

「白妙橋でさ、国村さんに背負われて、ザイル下降しただろ」
「ん、したね」

宮田以外の背中は嫌だな。ほんとうは、そんなふうに思ってしまった。
けれど、あんなふうに言われてしまって、宮田に背負われるのが恥ずかしくなった。
でもやっぱり、宮田の背中にすれば良かったと、すぐに後悔させられた。
だってあんなこと言われたなんて、この隣が知ったらなんて言うのだろう。
そんなふうに考えていたら、きれいな低い声が訊いた。

「あの時さ、周太、国村さんとどんな話したんだ?」
「…っあの、っ」

どうしよう、やっぱり訊かれた。
でも約束している「隠し事はしない」って。
二度も、もう破ってしまった約束。だから今もう、隠すわけにはいかない。
そっと息を吸って、周太は呟いた。

「…みやたの背中ほどは居心地良くないだろうけど、夜じゃないから我慢して」

電話の向こう、きれいな笑い声が聞こえた。
きっと笑うだろうなと、そして首筋が熱くなるだろうと、どっちももう、予想通り。

「他もさ、なんか言われただろ」
「…ん、…みやたとあうまでずっと初めては何もしていなかったでしょ…って…」

この2つだけ。
たった2つの文章なのに、もう、キャパオーバーになってしまう。
そしてこんな時はつい、自分の記憶力がちょっと憎らしい。
それになにより困るのは、どちらの指摘も本当だと言うことだ。

この2つで済んで本当に良かった。国村のザイル下降技術に、ちょっと感謝したい。
もっと時間がかかったら、きっともっと、恥ずかしかった。
言い終って、ほっとしていたら、きれいな低い声が言った。

「さっきさ、藤岡に会ったって周太、教えてくれたよな」
「ん、なんかね、最初は俺だって解らなかったって」

ふうんと呟いて、笑って訊いてくれた。

「なんで周太だって、解らなかったんだ?」

お願い今、ちょっとそれは言えない。
藤岡が周太を解らなかった理由「なんかきれいになった」
「きれいになった」そのことが、国村に言われた「初めて」のことに絡まっている。
そう思ってしまって恥ずかしくて、とても今は言えそうにない。
それでも、なんとか周太は口を開いた。

「…なんだかもう、気恥ずかしくて…今夜は無理」

なぜだか電話の向こうは、大喜びして笑っている。
もう恥ずかしい、首筋も顔もきっと真っ赤になっている。
けれどこんなふうに、電話ででも想いを繋いで、時を共有できる。
そんな今この一瞬が、嬉しくて、幸せで、温かくて。

こうしていつまでも、やさしく繋いで、ずっと掴まえていてほしい。
だから考えしまう、どうしたら自分は、この想いに応えていけるのだろう?

こんなふうに誰かを、想うことすら初めてで。
こんなふうに誰かの為にと、応えたいことも初めてで。
想いの真ん中の、あの隣のために。きれいな笑顔のために、自分は何が出来るだろう?





(to be continued)


【歌詞引用:savage garden「truly madly deeply」】


blogramランキング参加中!

ネット小説ランキング
http://www.webstation.jp/syousetu/rank.cgi?mode=r_link&id=5955

人気ブログランキングへ

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 イラストブログ 風景イラストへにほんブログ村

にほんブログ村 小説ブログへにほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする