たいせつなひと、約束でむすばれて
萬紅、叔暁act.1―another,side story「陽はまた昇る」
あのブナの木に、もういちど会いたいな。
本当はそんなふうに、昨日からずっと想っている。
でもこの実直な隣は、たぶんコースを決めてあるだろう。だから、わがままになるかもしれない。
けれどいつも言ってくれる「頼って甘えて、わがまま言ってよ」
だから言っても良いのかな。仕度して山荘を出ると、周太は遠慮がちに口を開いた。
「あのさ、コースって決まっているよな」
「おう、計画書出してるし」
「そうか、」
登山計画書は何かあった時は、それを元に捜索救助を行うためのもの。
それに逸れることは、山岳救助隊員としての英二は肯えないだろう。
やっぱり、わがままは言えない。そう口を噤んだ周太に、英二は笑いかけてくれた。
「あのブナの木には、今日も寄るから」
どうしていつも、解ってくれるのだろう。
いつも自分から言う前に、この隣は解って言ってくれる。
驚いている周太に、英二は微笑んだ。
「言ったろ、あの場所は好きだって。だから俺、いつも往復で寄っているんだ」
言わなくても想いが解ってもらえる。
そうしていつも、そんな心遣いが温かくて、うれしい。
うれしくて気恥ずかしくて、周太は微笑んで答えた。
「…俺も、好きだ」
なんでも、同じように感じられることは嬉しい。
そうして想いも重ねられたら良いな。
そんなふうに思っていると、英二が笑いかけてくれた。
「好きな場所にさ、好きな人を佇ませて眺めたいし、俺は」
「…そういうことをさこういうところではちょっと、」
首筋が熱くなる、きっともう赤くなる。
それを隣は、うれしそうに笑っている。
こういうのは困ってしまう。けれど隣が喜んでくれるなら、いいのかなとも思ってしまう。
それでもやっぱり、気恥ずかしい。
雲取山頂では、今日も富士山が美しかった。
真白に頂いた雪が、朝の光にきらめいて眩い。
朝の富士は朝靄にたなびいて、日中の昨日とは表情を変えている。
「太陽の光の角度が違うからかな?」
「そうだな。あとさ、朝と昼だと空気も違うよな」
そんな話をしながら、一緒に歩くのが楽しい。
「山は厳しいけれど楽しいよ」と、英二はいつも話してくれる。
そんなふうに、聴かされていた世界に今、一緒に歩いていく。
もうずっと、この隣の世界を一緒に歩きたかった。だから今が幸せで、うれしくて。
こういう時をずっと、これからも何度も過ごしていけたらいい。
「ここがな、奥多摩小屋だよ」
英二に教えられて見た小屋は、風変わりだった。
赤い屋根のかわいい小屋、その前には丸太や枝で作られた鹿が立っている。
カラカラと乾いた音に見上げると、木を削って作られた風見鶏がゆれていた。
「8年くらい前までね、仙人が住んでいたらしい」
「仙人?」
確かに小屋の雰囲気は、仙人に相応しい遊び心が感じられる。
ほんとうに仙人っているのだな。周太は感心した。
仙人はいつも何していたのだろう。思って眺めていると、英二が教えてくれた。
「仙人はね、20年以上この小屋番をしていた人なんだ。奥多摩の有名人だったらしい」
「あ、人間なのか」
なんだ、「仙人」は人間のあだ名だったのか。
ぽかんとした声が出て、楽しそうに英二に笑われてしまった。
「周太、本物の仙人だと思ったんだ?」
「…だって、英二が言ったから俺、信じちゃったんだ…」
子供みたいって思われたかな。
気恥ずかしくて俯いてしまう。けれど英二は覗きこんで、微笑んでくれた。
「うれしいよ、そういうの」
うれしいなら、良いな。
熱くなった頬のまま、そっと周太は尋ねた。
「ほんと?」
「ほんとだよ、周太に信じてもらえて、俺は幸せだよ」
きれいに笑って、英二が言ってくれた。
そう、本当に自分は信じている。きっとどんな時も、どんな事も、この隣が言うのなら信じてしまう。
そういうのは子供っぽいのかなとも思う。けれど英二は喜んでくれるなら、良いのかもしれない
なんだか嬉しくて微笑んだ周太に、そっと穏やかに英二がささやいてくれた。
「愛してるよ、周太、」
「…ん、」
こんなふうに言われて、うれしい。
でも昼間の明るい外で、ほかの登山客も歩いていく中だと、さすがに気恥ずかしい。
それでも想いを伝えたくて、紅潮していく頬のままで周太は、見上げて微笑んだ。
「信じてるから、」
「おう。信じて、周太」
微笑み返す穏やかな、きれいな切長い目。
ほんとうに好きだ。思いながら、周太は訊いてみた。
「その仙人は、どんな人なんだ?」
「ギターが上手な生粋の山ヤだよ。
国村は何度かここで世話になって知っていてさ。今もどこかの山を登っているだろう、そんなふうに言っていた」
父の蔵書にあったフランス短編小説集『Nouvelles orientales』には、仙人の様な絵師の話が載っていた。
その絵師は自分が描いた絵の世界に入ってしまう。そんなふうに、ここにいた小屋番も山の世界へと入ってしまった。
やっぱりその人は、本物の仙人なのかな。
思いながら風見鶏を眺めていると、小屋番に声をかけられた。
「ヘリが来ますから、小屋に避難して下さい」
しばらくするとヘリコプターが来た。
ホバリングの風が強い、荷物を降ろすとすぐにまた飛び去っていく。
プロペラからが巻く風が、頬を撫でていく。物珍しげくて周太は見上げていた。
「こんなに近くでヘリを見たの、俺、初めてだ」
「あ、また“初めて”なんだ?」
“初めて”で首筋が赤くなる。昨夜のこと、想いださせられてしまう。
だって昨夜は、初めて自分から望んで、英二にキスをした。
―ねだらないでさ、周太からしてくれたの“初めて”だな―
そんなふうに言って笑った、隣の顔は幸せそうだった。
あんなふうに笑ってくれる、それがうれしくて。
笑ってほしくて、…また出来たら良いな。そんなことを考えだして、気恥ずかしい。
ヘリコプターの風が止んだ。
小屋に避難していた登山客が、山道へと動き出す。英二も微笑んで、周太を促してくれる。
「行こう、周太、」
「ん、」
歩きだした登山道は、さわやかな秋晴れだった。
朝の山にみちている、清澄な空気が心地いい。
道端にゆれる枯草の合間、アザミが咲いていた。
秋の名残の風情に、葉色が褪せているけれど、俯いた花は淡い赤紫がきれいだった。
下向き加減がホソエノアザミかな、そう考えながら歩いていると、英二が笑いかけてくれた。
「昨夜みたいに眠ったの、なんか警察学校の寮みたいだったな」
「…ん、そうだな。懐かしくて、…なんか嬉しかった」
気恥ずかしい、けれど嬉しくて、周太は微笑んだ。
その隣で英二が、笑って言った。
「卒業してからはさ、しないで寝たのは、“初めて”だよな」
「…っ」
そういうことをいわないでびっくりしてこまるから。
きっともう真っ赤になった、そんな自分の熱がまた、恥ずかしい。
うれしそうに笑いながら、英二が分岐点で道を示した。
「ほら、こっちの道に行くぞ。ちゃんと着いて来いよ、周太」
なんだか今は気恥ずかしい。
そんなふうに俯けた視線の先に、ふと周太の目が留る。
見つめた足許に、10cmほども伸びた霜柱が立っていた。
もう冬が近い。思った途端、ずきりと周太の心が軋んだ。
冬になれば山は雪に覆われる。
英二にとって初めての、警視庁山岳救助隊員として立つ雪山での任務が始まる。
低温、足許の不自由、滑落の危険。歩きやすい今の秋山とは、全く違う世界。
この隣はきっとだいじょうぶ、約束を守ってくれる。
そう思っても、不安も心配も迫上げて、来る季節への恐怖が心覆っていく。
けれど。自分はもう、信じている、愛している。
約束も英二も信じて待って、どこまでも着いていく、想っていく。
だって自分はもう決めている、この隣を愛し続けること、もう離れないこと。だから信じて着いていく。
雲取山を連れられて歩いて、たくさんの喜びと初めてを見つめた。
この隣に連れられて歩くこと、こうして幸せな記憶に充たされていく。
だからもう決めた、自分から隣に着いていく。どんなに引き離されたって、どんな形でも繋いで離れない。
自分はもう決めた。これからずっと、こうして連れられて、歩いていく。
想い愛し、守って、見つめていく。
すこし唇をかんで、ひとつ息を周太は吐いた。
それから想いの中心を見あげて、見つめた瞳から微笑んだ。
「ん、着いていく…だからずっと連れて行って、英二」
見上げて見つめた端正な顔に、きれいな笑顔が咲いた。
うれしそうに英二は、きれいに笑って応えてくれる。
「ああ、ずっと連れていく。だからちゃんと着いてきてよ、周太」
告げて、応えられること。
こんなにうれしい、その温かさに周太は微笑んだ。
唐松谷という道を降りる足許を、黄金色の木洩陽が照らす。
きれいだなと目を上げると、落葉松の樹林帯に立っていた。
黄金の梢と華やぐ陽光が、林間を明るく金色の大気に充たしている。
そっと周太は息をついた。
「黄色の黄葉は、眩いな」
周太の言葉に、隣は立ち止って振り向いてくれる。
きれいに笑って、周太の言葉に頷いてくれた。
「うん、きれいだろ、」
きれいな笑顔は穏やかで、やさしい切長い目が見つめてくれる。
やさしい穏やかさが嬉しくて、周太は頷いた。
「ん、」
頷いて見つめて、周太は止まった。
いつものように穏やかな、静かに佇む隣の姿が、きれいだった。
金色の木洩陽に照らされて、深紅あざやかなウェア姿がきれいで。
白皙の貌にふる光に、端正な深みの表情が美しくて。
黄金の森ゆるやかに、陽光透ける髪を風が梳いていく。
自分の愛するひとは、こんなにきれいだ。
そっと息をついた心に、記憶の詩が静かにふれあがった。
When,in a blessed season
With those two dear ones-to my heart so dear-
And on the melancholy beacon,fell The spirit of pleasure and youth‘s golden gleam
祝福された季節に、
愛しい私の想いの人と、ふたり連れだって…
そして切なき山頂の道しるべ、その上に。あふれる喜びの心と、若き黄金の輝きとがふり注いだ。
慣れ親しんだ「Wordsworth」の詩の、あの光景。
ワーズワースは自然を通して心を歌う、本当にそうだなと思えてしまう。
だって今この目に映るのは、この詩そのままの光景だから。
「周太の服の色、ホリゾンブルーって言うんだ」
静かに英二が教えてくれる。
この登山ウェアも、英二が選んで贈ってくれた。
それだけでも嬉しい、そしてこの色を周太は好きだった。
「ほりぞんぶるー? …ん、きれいな色で、俺、気に入ってる」
「そっか、気にいってくれて、よかったよ」
きれいに笑って、英二が続けてくれる。
「地平線や水平線近くの空の色をな、ホリゾンブルーっていうんだ」
境界線の空の色。昨日と今日と見た、黄昏と暁の空の、あわいブルーの色。
広やかな空がうれしくて、この空の下でずっと、想う隣にいたいと願った。
その空が、日常を過ごす新宿に繋がって、想う隣と繋がっている。それを知って嬉しくて。
この隣と繋いでくれる、空の色の名前。
なんだか幸せで、周太は微笑んだ。
「きれいで、広々とした名前だな」
「だろ、」
黄金の木洩陽、深紅の隣。
自分とは正反対の色が映える、美しい隣、唯ひとり想うひと。
その深紅と同じ色が、自分の袖にも一すじ入っていた。
その色が、昨夜も唇よせられた右腕の、赤い痣を想わせる。
壁に凭れて並んで座って、窓を見あげて月と星を眺めた昨夜。
ひとつのiPod片方ずつのイヤホン、同じ曲で繋いで寄り添った。
そのまま眠った周太を、静かに抱きあげ横たえて、寝かせてくれた。
そのとき浅い眠りは覚めて、ひらいた瞳を英二が見つめてくれていた。
「ごめん、起こしちゃったな」
やさしい笑顔が幸せで、うれしくて。
もっと近くで笑ってほしいと、眠り覚めきらない意識に思った。
もっと、そんな想いで周太は右腕を伸ばした。
「…ん、…ちかくに、きて?」
伸ばした右腕の、Tシャツの長袖がすとんとおちた。
青い夜こめられた薄明かり、ほの白い腕に痣は赤くあらわれた。
「周太、」
長い指に絡めとられて右腕、熱い唇がよせられる。
そのまま抱きしめられて、温かくて、幸せだった。
腕に刻まれた熱と想い、見つめてくれる瞳、きれいな笑顔。
どれも幸せに抱きしめられて、昨夜は静かで穏やかな安らぎに眠った。
あわいブルーのウェア越しに、そっと周太は痣にふれた。
こんなに切なくて温かくて、幸せなこと。
与えられている今が、奇跡のように想えてしまう。
それくらい13年間の冬は長くて、冷たくて、孤独が痛かったから。
…英二、
心に呟いて見上げる隣は、登山地図をクリップボードにセットしている。
胸ポケットから鉛筆を出して、添えた手帳と地図へメモを取り始めた。
仕事へと向かう真摯な表情は、すっかり大人の男になっている。
鉛筆をはしらせる手元は、相変わらず白くきれいな手だった。
けれどその手も、1ヶ月半前とは違う。
自殺者の死体見分、遭難者の救助、そして親しい山ヤを看取った、手。
山に廻る生と死を、見つめて守って救けて。そして自分をも、支えて守ってくれた。
出会った時から見てしまう、きれいな白い大きな手。
けれど1ヶ月半で、より温かく美しい手になった。
大好きな、英二の掌。
あの手に繋がれていたい、だから自分があの手を守れたらいい。
そんなふうに湧きあがる、自分の想いが温かい。
…大好き、そして愛している
そっと心に呟いて、周太は足許に目をおとした。
落葉ふりつもる道に、ときおり綺麗な黄葉や紅葉がおちている。手をのばして拾い上げて、陽光に透かし見た。
きれいな葉脈が、金色のなかに浮かんでいる。きれいだなと微笑んで、手帳を出すと挟みこんだ。
幼い頃は山で、公園で庭で、こんなふうに木葉を集めた。
父に教わった方法で作る、押葉はきれいに色が残せた。
薬局で取寄せてもらった試薬を霧吹いて、シリカゲル粉末シートに挟んで、百科事典で重しをした。
そうして父が贈ってくれた専用の採集帳に、きれいにまとめて自分だけの図鑑を作った。
父と一緒に作った図鑑。だから13年前に、記憶と一緒に仕舞い込んでしまった。
あの採集帳は今、どうなっているのだろう。
思いながら周太は、落葉を挟んだページへと目をおとした。
あの頃は、落葉を拾ったらメモをとっていた。
拾った日時と天気と場所、葉の親木の様子。
それをラベルに転記して、葉と一緒に採集帳に貼ると、立派な図鑑らしくなる。
帰ってから学術名を父と調べて、ラテン語でラベルに書くのも楽しかった。
これもメモを書いてみようかな、周太は手帳のペンをとった。
「ん、楽しいな」
こういうのは久しぶりだった、けれどちゃんと覚えている。
手帳とペンをウェアのポケットにしまうと、周太は目を上げた。
その目に、赤い実と紅葉が茂る箒状の木が映りこんだ。木洩陽に照る朱赤の実が、温かく輝いて美しい。
この木は実家の庭にもある、懐かしくて周太は微笑んだ。
「周太、」
大好きな声に呼ばれて、周太は振り向いた。
きれいな笑顔が温かい、うれしくて周太は赤いを指さした。
「ナナカマドだ、」
「へえ、きれいな赤い実だな。葉の色も良いな」
興味深そうに、隣もナナカマドの木を見てくれる。
同じものに興味を持ってもらえる。それが周太には嬉しかった。
父とこうして山や公園で楽しんだ。あの温かい記憶が今、この隣でも温かい。
幸せだ。そんな想いが心からノックするよう返響する。
「ヨウシュウヤマゴボウはな、布が染められる」
「ふうん、きれいな紫色に染まりそうだ、おもしろいな」
この黒紫の房状の実は山野に自生する。父と何度も見た、懐かしい記憶の植物。
少し前までは、見るたびに目を背けていた。けれどもう今は、温かな想いで見つめられる。
こうして今、英二の隣じゃなかったら。きっと、こんなふうに素直には想えなかった。
この隣が全て受けとめてくれる安堵が、痛みにされた記憶すら、素直に温もりへと還元させてくれる。
微笑んで周太は、英二に振り向いた。
「父さんがね、山で教えてくれた植物なんだ」
「そっか、」
頷いて、きれいに笑って英二が言ってくれる。
「周太の父さん、山ヤでも俺の先輩なんだな。こんなに山を知るのはすごいよ、尊敬する」
「ん、父さんはね、ほんとうに物知りで、立派なんだ」
そう、自慢の父。
だから誇らしい、自分があの父の息子であること。
そう素直に想えることが嬉しい。それもこの隣が全て、手を曳いてくれたこと。
父の真実の底に遺された温かな想い。それら全てに、英二が向き合わせてくれた。
そうして父の死の結末が、冷たい現実だけでは無く、温もり遺された今を教えてくれた。
だから、こうして今は、父の記憶全てを肯定できる。
今はだから胸を張れる、父の息子であること。そして想いの全てで、この隣を愛している。
ほんとうに、唯ひとりだけ、唯ひとつのこの想い
…愛している、英二
心に想いを響かせて、隣を見あげ周太は、きれいに笑った。
昨日も訪れた、あわい光の空間にまた立っている。
あわい苔緑、あわい金色の木洩陽、やわらかな蒼い木肌。
ふたつの切株と、ひとつの倒木の向こう側。そこには黄金の木洩陽が高くふる。
空を抱く黄金の梢を戴冠して、ブナの巨樹は佇んでいた。
「今日も、きれいだな」
「ああ、今日が一番きれいで、この秋の最後かもな、」
ふたり並んで倒木に座る。木洩陽は昨日よりやわらかい。
また秋が深まっていく。
もうじき冬、悲しみと喜びが交錯した、この秋が終わる。
寄り添う約束をした、初秋の9月の終わり。
初めて自分から求めた夜の、中秋の10月を了える候。
父の真実へと時が動き始めた、盛秋の11月の初まり。
そうして深秋、想いの深さを告げあって、昨日ここでキスをした。
想い深い秋が終わる。すこし切なくて、そしてきっと忘れない秋。
初めて一緒に迎える冬、山に生きる隣が心配にもなる。
けれど初めての冬にも、この秋のように、喜びがきっとある。
何気なく周太は、ポケットに手を入れた。
いつものオレンジ色のパッケージを取出して、最後のひと粒を口に含んだ。
さわやかな甘さ、馴染んだ味がほっと、心寛がせてくれる。
「俺もほしいな、」
隣からの声に振り向いて、周太は困ってしまった。
最後のひと粒だった。それなのに隣に訊かずに、何気なく口に入れてしまった。
いつも英二は、周太を必ず優先してくれる。それなのに自分は、どうしてこうも、気が利かないのだろう。
哀しい想いに周太は、掌の空になったパッケージを見せて、英二を見上げた。
「ごめん、最後の1個だった…下山したら買うな?」
「今、ほしいんだけど?」
謝る想いの先で、英二は少し拗ねた顔になってしまった。
どうしよう、怒らせてしまったのだろうか。
怒られても仕方ない、だって自分だけ黙って、口に入れてしまった。
「…ごめん、」
どうしたら許してもらえるのだろう、どうか許して。
途惑いに瞳の底が熱くなる。泣いたらいけない、そう思った頬に温もりがふれた。
大好きな掌が頬を包んでくれていた。
その温もりが嬉しい。うれしくて見上げると、英二が笑いかけてくれた。
「謝らなくていいよ、もらうから」
「…え、?」
もらうってどういうこと?
解らないまま見上げていると、きれいな口許が静かに近寄せられる。
周太の唇に、唇で英二がふれた。
ふれられた唇の温もりが、やさしくて甘い。
よかった。英二は怒っていない。だってこんなにキスが優しい。
うれしくて、重ねた透間そっと周太は吐息を零した。
その透間に、深く英二の熱が入りこんだ。
「…っまって、」
驚いた唇、やわらかいそのままに、ほどけて熱を受け入れてしまう。
驚いた瞳、瞠いたままに閉じられない。
ひらいたままの瞳、白い肌が映りこむ。きれいな瞼、濃い睫、それから揺らめく熱い想い。
途惑ったままの想いの底で、唇から探られる深い裡から、馴染んだ甘い香が奪われる。
…あ、
心の呟きと一緒に、静かに英二の唇が離れた。
きれいな唇ほころばせ、英二はきれいに笑っている。
「ありがと、」
くちびる離れても、近寄せられた顔。
英二の唇こぼれる甘い香が、周太の唇にふれる。
目の前のこの、きれいな唇が、自分の口から馴染み深い甘さを奪ってしまった。
こんなことってほんとうのことなんだろうか、なんだかなにもわからない。
「この飴、なんだか随分と甘いな、周太?」
瞳を覗きこまれて、きれいな笑顔に笑いかけられる。
やっぱりげんじつなんだ、想った途端に熱が一挙に昇りだした。
「返してほしい?」
きれいな笑顔が、笑っている。
のぼってしまった熱があつくて、なんだかなにもかんがえられない。
何も考えられなくて、素直に周太は呟いてしまった。
「…ん、かえして」
きれいな笑う唇に、そっと周太は唇をよせた。
なんだかなにもかんがえられない、いったいどうしたのだろう?
ぼんやりとした意識の表層に、あたたかな熱が唇にふれる。
一瞬のためらい、意識をよぎったけれど、甘い香りが誘い惹きこむ。
惹きこまれるままに、きれいな唇の裡へと深く重ねた。
どうしていいのかわからない、けれど。
馴染んだ香りと甘さ、入りこんだ裡に充ちて愛おしい。
けれど馴染んだそれ以外の、惹かれるなにかに満ちている。
わからない、そして探す目的が見つからない。
それに、もう、なんだか、はずかしくて、こまる。
頬が首筋が熱い、背筋だってもう熱い。
待って今、この状況は、どうしてこうなっているの?恥ずかしくて途惑って、周太はそっと唇を離した。
なんでだったろう?すこし考えて、飴を盗られたことを周太は思い出せた。
「…ない、」
ぼそりと周太は呟いた。
でもどうして無かったのだろう?気恥ずかしさに熱くても、不思議でしかたない。
すこし首傾げる周太に、可笑しそうに英二が白状した。
「ああ、俺、すぐ飲みこんだから」
「…え、」
どういうことなのだろう?
よく解らないでいると、悪戯っぽい目で、英二が教えてくれた。
「だって見つけたら周太、すぐ止めただろ?」
「…あ、ん、」
そう、きっとその通り。
「返して」と言ったからには、見つけて返してもらわないと。
けれどこんなの恥ずかしいから、見つけ次第に止めただろう。
そう想い廻らす周太に、きれいな笑顔が、嬉しそうに自白した。
「気持ちいいから、止めてほしくなかったからさ。見つけられたくないから、飲んじゃった」
……なんてこたえればいいの?
だんだんと、自分のしたこと途惑いになる。
首筋から背筋まで熱い、きっともう体中が恥ずかしくて真っ赤だろう。
でも、止めてほしくなかった、て。
喜んでくれた、そういうことだろうか。
気恥ずかしくてたまらない、けれど喜んでもらえると、やっぱり嬉しい。
「こういうキスも周太からは、“初めて“だね」
きれいな笑顔、いま「初めて」て、言った…そう、初めてのこと。これも“初めて”
この場所で昨日、たくさんの“初めて”が出来た。
初めて、呼びたかった名前を呼べた。
初めて、したかったキスが出来た。
初めて、告げたかった想いを告げられた。
そして今この場所で、もうひとつの“初めて”が、出来た。
周太は真直ぐに英二を見つめた。
そう、自分はもう、この隣のためになら、何だって出来るから。
“初めて”はいつも途惑ってしまう。それでも自分は、この隣の為になら途惑いも越えたい。
だってもう、心から想っている、愛している。
この想いを伝えて告げて、そうして幸せをすこしでも、与えることが出来るなら。
そんな想いに見つめる真中で、きれいな切長い目が、どうしたと訊いてくれる。
お願い声、きちんと出て。祈るよう周太は、唇を開いた。
「…初めては全部うれしいから…」
言えた、想いを。
そっと吐息をついた周太に、英二は瞳を和ませて、きれいに笑いかけてくれた。
「うん。俺こそ、うれしいよ」
きれいな笑顔、自分に向けられている。
嬉しくて微笑んだ周太に、長い腕を伸ばしてくれる。きれいな低い声が誘った。
「おいで、」
長い腕に、そっと抱きしめられた。
包みこまれた胸が、温かい。この温もりに今まで、どれだけ幸せを贈られたのだろう。
そうして昨日も今日も、このブナの下で。いったい、どれだけ幸せだったろう。
あの日。報復の孤独へと堕ちかけた日。
この隣が追いかけて掴まえてくれなかったら、こんな幸せを自分は知らないままだった。
そうしてこの隣も、こんな幸せを失っていた。
あの日、離れて行こうとした自分の、罪の重さが思い知らされる。
許してほしい、どうか許して。
お願い、許して。
もう離れない、そしてもう何だって出来るから。
だからどうかお願い、この隣の、きれいな笑顔を守らせて。
この先きっと、自分には、辛い運命が現れる。
父の軌跡を追うと決めてしまった、それが終わるまで、自分の人生は生きられない。
父の真実の底にある、想いを見つめて受け留める。それが終わらなくては、自分の時は廻れない。
けれど13年間の孤独を壊されて、温かい想いを抱いた今。
その辛い運命をすら、自分は信じて越えられる。この隣を自分だけが、幸せにできること。
だってもう、愛している。
唯ひとり、唯ひとつだけの想い。愛している、英二だけ
この想いの為に、生きようと、もう決めた。
この想いの為に生きるため、父の軌跡を辿り終えて、自分の時を必ず動かして見せる。
そうして自分の時を廻らす瞬間から、この想いの為だけに生きる、自分の人生が始められる。
その時には、この隣の幸せの為だけに、自分は全てを選ぶだろう。
愛する隣の幸せが、きれいな愛する笑顔が、自分の全てなのだから。
そうしてずっと言い続ける、ふたつの言葉。
“お帰りなさい” そして “愛している”
そして全て叶えてみせる、この隣と結んだ “約束” の全てひとつ残らずに。
だから決めた。どんなに辛い運命でも、自分は必ず越えてみせる。
唯ひとつの想いを、唯ひとり愛する人を、守るために。
抱きしめてくれる隣が、微笑んで告げてくれる。
「愛してるよ、周太」
そっと見上げて、周太も微笑んだ。
そう、愛してほしい、もっとたくさん。
だって約束してくれた「信じて待っていて。愛しているだけ、必ず周太の隣へ、俺は帰られるから。だから信じて?」
だから愛して自分のこと、そして必ず帰ってきて。だってその為だけにもう、自分は生きる覚悟をした。
瞳を見つめてくれながら、英二が微笑んでくれる。
「周太は、きれいだ」
きっとそう、周太は微笑んだ。
だって今もう、自分の心に充ちている。今この目の前にいる、愛する人への想いだけに。
あなたへの想いが、唯ひとつ愛する心が、きっと自分をきれいに照らしだすから。
もう、あなたのためになら、自分はなんだって、出来る。
ふわり、白いはなびらが舞いおりた。
きれいな切長い瞳を、そっとかすめるように、やわらかな白がふってくる。
黄金の梢にかかる空から、あわい雪がしずかに降ってきた。
そっと英二が笑った。
「初雪だな、」
すこし紅潮した頬に、ふれる冷たさが温かい。
雪山のシーズンは不安にもなる。
けれど今は、事多かった秋を終え、冬を一緒に迎えられた。その喜びが温かい。
想い深い秋が終わる。哀しみと喜びと、痛切と幸せとが、織りこみ紡がれた秋。
それを今こうして、愛する腕に抱きしめられて、一緒に見ることが出来た。
この幸せが温かい。微笑んだ周太の唇が、そっと開かれた。
「これも…初めてだな、」
「そうだな、」
笑いかけてくれる、きれいな笑顔。
空を見あげる笑顔、その横顔が愛おしくて、一緒に周太も空を見あげた。
真白な空、けれど雲の流れは早い。
きっとこの雪は、すこしだけふる雪。きれいな青空がまた訪れる。
「ココア、作ってやるよ」
そう微笑んで、英二は周太にキスをした。
しずかに山にふる雪が、ほのかに白く初冬の紗をかける。
静かな山の音鳴りが、ふる雪に鎮まり深閑が返響した。
冬への眠りを望むよう、山の息吹が深く穏やかになる。
山が、ひと時の眠りにまどろんでいる。
そんなふうに想われて、そっと周太は山に佇んでいた。
見上げる空は、真白の奥ふわりと舞ってくる。
黄金の梢ふる白い雪、花びらのように穏やかに、やさしくふりかかる。
白い結晶の花びらの向こう、深紅のウェアが温かく美しかった。
「はい、周太」
深紅のウェアの腕を伸ばして、英二が微笑んで湯気くゆらすカップを渡してくれる。
ありがとうと受けとった、温もりが嬉しくて周太は微笑んだ。
「温かいね、」
「だろ、」
うれしそうな英二の笑顔が、きれいで温かい。
笑顔の温もりが嬉しくて、周太は両掌でカップを抱えた。
温かな甘さを大切に啜って、ほっと息をついた。
「ん、おいし、」
「よかった、」
甘く湯気の燻らせ頬撫でる、静かに啜るココアが温かい。
ときおり降りかかる雪が、そっと隣の深紅の肩に舞う。
やさしい穏やかな、静けさが居心地が良い。
かさりと音に振向くと、英二はパンを取出した。
さっとトラベルナイフで切れ込みを入れて、チーズを挟みこむ。
それからクッカーで軽くあぶって、周太に手渡してくれた。
手際の良さに驚きながら、周太は隣を見あげた。
「こんなことも出来るのか」
「うん、国村に教わったんだ」
ほんとうに色んなことを覚えたんだ。
思いながら周太は、頂きますと言って温かなパンを口にした。
香ばしいパンと熱に溶けたチーズが、温かくておいしい。
雪のふるなか、温かなココアとパンは似つかわしかった。
なによりも、心遣いがうれしい。隣へと周太は笑いかけた。
「ん、おいしい。すごいな、英二」
「よかった、」
きれいな笑顔で、英二が微笑んだ。
倒木に並んで座って、雪を眺めて温かい物を口にする。
山に森に静かにふる、あわい雪を見つめながら、静かな話に豊かな時が流れていく。
こういう時間っていいな。幸せに微笑んで、周太はココアを啜っていた。
ふっと英二は、白皙の顔を空仰がせた。
「雪、そろそろ止むな」
静かな声で英二は言った。
その言葉とともに、雪はひとひら、白い結晶を舞わせてやんだ。
「…ほんとにやんだ」
どうして解るのだろう?
不思議なままに、周太は隣を見つめた。
周太の声が聴こえたように、すこし首傾げて英二が微笑んだ。
「なんとなく、かな」
なんとなく。よく英二はそんなふうにいう。
いつもそんな時は周太は、不思議でならない。
そうして英二がそういう時は、不思議とその通りになる。
ほんとうに、自然も人も不思議が多い。
「そろそろ行こうか、周太」
きれいに笑って、英二が大きな掌で、周太の手を取ってくれた。
その掌が温かくて、うれしくて周太は微笑んだ。
もどった陽射に、樹林は光豊かな黄葉に佇んでいる。
初雪の水気をふくんだ道は、落葉の香が清々しかった。
足許に踏む、やわらかく瑞々しい落葉の感触が楽しい。
そう思って足許を見た視界に、あざやかな青紫色が映りこんだ。
「あ、」
陽のあたる枯葉の合間から、凛と青い花が咲いている。
そっと周太は傍に跪くと、英二を見あげた。
「りんどうだよ、英二」
田中の最後の一葉は、りんどうだった。
農家で写真家の田中は、生まれ育った御岳を愛し、国村を山ヤに育て上げた。
そんな山ヤの田中は、氷雨にうたれる青い花を、写真に納めて生涯を終えた。
あわい初雪のなか、青く輝いた、りんどうの花。
この花を愛した山ヤの生涯を、周太は美しいと思う。
凍える雪にも凛とした花姿、こういう美しさに心を留めて生きた人。
自分もそんなふうに、生きる場所を愛して見つめられたらいい。
周太の隣から、そっと英二が花を覗きこんでいる。
青い花に微笑んで、英二が笑いかけてくれた。
「きれいだ、」
そういう英二の笑顔が、きれいだな。
そんなふう思いながら見上げて、周太も微笑んだ。
「ん、きれいだね。見られて嬉しかった、ありがとう英二」
「うん、こちらこそ教えてくれて、ありがとうな」
微笑んでくれる隣が、愛しい。
初雪、奥多摩の山々は眠りに入る。
迎える冬には、山ヤの警察官は雪山での活動に入るという。
英二にとって初めての、雪山での山岳救助と山ヤの生活が始まる。
雪山はスノボ位だよと笑って、英二が教えてくれた。
「この雲取山もな、けっこう雪が積もるらしいんだ」
「きっと、きれいだろうな」
警察学校で一緒に眺めた、山岳救助隊の雪山訓練の写真。
雪山を見る英二の目は、憧れに楽しげだった。
きっとこれから始まる冬を、雪山の日々を、楽しみにもしているだろう。
その想いが自分には解ってしまう、そして願ってしまう。そっと周太は、想いのままを言葉にした。
「英二、」
「なに、周太?」
「雪山からもね、無事に帰って来て。俺は、信じて待っているから」
ああと頷いて、英二は笑って周太にキスをした。
そっと離れて瞳見つめて、約束だと告げて英二は微笑んだ。
「大丈夫だよ、周太。俺はね、必ず周太の隣に帰る。どこからも、いつでも、絶対だ」
絶対の、約束。
きっとこの隣は、全力で約束を守ってくれる。
だから信じて、愛して、自分は待って見つめていよう。微笑んで周太は頷いた。
「ん、絶対の約束、な」
(to be continued)
【詩文引用:William Wordsworth「Wordsworth詩集」】
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萬紅、叔暁act.1―another,side story「陽はまた昇る」
あのブナの木に、もういちど会いたいな。
本当はそんなふうに、昨日からずっと想っている。
でもこの実直な隣は、たぶんコースを決めてあるだろう。だから、わがままになるかもしれない。
けれどいつも言ってくれる「頼って甘えて、わがまま言ってよ」
だから言っても良いのかな。仕度して山荘を出ると、周太は遠慮がちに口を開いた。
「あのさ、コースって決まっているよな」
「おう、計画書出してるし」
「そうか、」
登山計画書は何かあった時は、それを元に捜索救助を行うためのもの。
それに逸れることは、山岳救助隊員としての英二は肯えないだろう。
やっぱり、わがままは言えない。そう口を噤んだ周太に、英二は笑いかけてくれた。
「あのブナの木には、今日も寄るから」
どうしていつも、解ってくれるのだろう。
いつも自分から言う前に、この隣は解って言ってくれる。
驚いている周太に、英二は微笑んだ。
「言ったろ、あの場所は好きだって。だから俺、いつも往復で寄っているんだ」
言わなくても想いが解ってもらえる。
そうしていつも、そんな心遣いが温かくて、うれしい。
うれしくて気恥ずかしくて、周太は微笑んで答えた。
「…俺も、好きだ」
なんでも、同じように感じられることは嬉しい。
そうして想いも重ねられたら良いな。
そんなふうに思っていると、英二が笑いかけてくれた。
「好きな場所にさ、好きな人を佇ませて眺めたいし、俺は」
「…そういうことをさこういうところではちょっと、」
首筋が熱くなる、きっともう赤くなる。
それを隣は、うれしそうに笑っている。
こういうのは困ってしまう。けれど隣が喜んでくれるなら、いいのかなとも思ってしまう。
それでもやっぱり、気恥ずかしい。
雲取山頂では、今日も富士山が美しかった。
真白に頂いた雪が、朝の光にきらめいて眩い。
朝の富士は朝靄にたなびいて、日中の昨日とは表情を変えている。
「太陽の光の角度が違うからかな?」
「そうだな。あとさ、朝と昼だと空気も違うよな」
そんな話をしながら、一緒に歩くのが楽しい。
「山は厳しいけれど楽しいよ」と、英二はいつも話してくれる。
そんなふうに、聴かされていた世界に今、一緒に歩いていく。
もうずっと、この隣の世界を一緒に歩きたかった。だから今が幸せで、うれしくて。
こういう時をずっと、これからも何度も過ごしていけたらいい。
「ここがな、奥多摩小屋だよ」
英二に教えられて見た小屋は、風変わりだった。
赤い屋根のかわいい小屋、その前には丸太や枝で作られた鹿が立っている。
カラカラと乾いた音に見上げると、木を削って作られた風見鶏がゆれていた。
「8年くらい前までね、仙人が住んでいたらしい」
「仙人?」
確かに小屋の雰囲気は、仙人に相応しい遊び心が感じられる。
ほんとうに仙人っているのだな。周太は感心した。
仙人はいつも何していたのだろう。思って眺めていると、英二が教えてくれた。
「仙人はね、20年以上この小屋番をしていた人なんだ。奥多摩の有名人だったらしい」
「あ、人間なのか」
なんだ、「仙人」は人間のあだ名だったのか。
ぽかんとした声が出て、楽しそうに英二に笑われてしまった。
「周太、本物の仙人だと思ったんだ?」
「…だって、英二が言ったから俺、信じちゃったんだ…」
子供みたいって思われたかな。
気恥ずかしくて俯いてしまう。けれど英二は覗きこんで、微笑んでくれた。
「うれしいよ、そういうの」
うれしいなら、良いな。
熱くなった頬のまま、そっと周太は尋ねた。
「ほんと?」
「ほんとだよ、周太に信じてもらえて、俺は幸せだよ」
きれいに笑って、英二が言ってくれた。
そう、本当に自分は信じている。きっとどんな時も、どんな事も、この隣が言うのなら信じてしまう。
そういうのは子供っぽいのかなとも思う。けれど英二は喜んでくれるなら、良いのかもしれない
なんだか嬉しくて微笑んだ周太に、そっと穏やかに英二がささやいてくれた。
「愛してるよ、周太、」
「…ん、」
こんなふうに言われて、うれしい。
でも昼間の明るい外で、ほかの登山客も歩いていく中だと、さすがに気恥ずかしい。
それでも想いを伝えたくて、紅潮していく頬のままで周太は、見上げて微笑んだ。
「信じてるから、」
「おう。信じて、周太」
微笑み返す穏やかな、きれいな切長い目。
ほんとうに好きだ。思いながら、周太は訊いてみた。
「その仙人は、どんな人なんだ?」
「ギターが上手な生粋の山ヤだよ。
国村は何度かここで世話になって知っていてさ。今もどこかの山を登っているだろう、そんなふうに言っていた」
父の蔵書にあったフランス短編小説集『Nouvelles orientales』には、仙人の様な絵師の話が載っていた。
その絵師は自分が描いた絵の世界に入ってしまう。そんなふうに、ここにいた小屋番も山の世界へと入ってしまった。
やっぱりその人は、本物の仙人なのかな。
思いながら風見鶏を眺めていると、小屋番に声をかけられた。
「ヘリが来ますから、小屋に避難して下さい」
しばらくするとヘリコプターが来た。
ホバリングの風が強い、荷物を降ろすとすぐにまた飛び去っていく。
プロペラからが巻く風が、頬を撫でていく。物珍しげくて周太は見上げていた。
「こんなに近くでヘリを見たの、俺、初めてだ」
「あ、また“初めて”なんだ?」
“初めて”で首筋が赤くなる。昨夜のこと、想いださせられてしまう。
だって昨夜は、初めて自分から望んで、英二にキスをした。
―ねだらないでさ、周太からしてくれたの“初めて”だな―
そんなふうに言って笑った、隣の顔は幸せそうだった。
あんなふうに笑ってくれる、それがうれしくて。
笑ってほしくて、…また出来たら良いな。そんなことを考えだして、気恥ずかしい。
ヘリコプターの風が止んだ。
小屋に避難していた登山客が、山道へと動き出す。英二も微笑んで、周太を促してくれる。
「行こう、周太、」
「ん、」
歩きだした登山道は、さわやかな秋晴れだった。
朝の山にみちている、清澄な空気が心地いい。
道端にゆれる枯草の合間、アザミが咲いていた。
秋の名残の風情に、葉色が褪せているけれど、俯いた花は淡い赤紫がきれいだった。
下向き加減がホソエノアザミかな、そう考えながら歩いていると、英二が笑いかけてくれた。
「昨夜みたいに眠ったの、なんか警察学校の寮みたいだったな」
「…ん、そうだな。懐かしくて、…なんか嬉しかった」
気恥ずかしい、けれど嬉しくて、周太は微笑んだ。
その隣で英二が、笑って言った。
「卒業してからはさ、しないで寝たのは、“初めて”だよな」
「…っ」
そういうことをいわないでびっくりしてこまるから。
きっともう真っ赤になった、そんな自分の熱がまた、恥ずかしい。
うれしそうに笑いながら、英二が分岐点で道を示した。
「ほら、こっちの道に行くぞ。ちゃんと着いて来いよ、周太」
なんだか今は気恥ずかしい。
そんなふうに俯けた視線の先に、ふと周太の目が留る。
見つめた足許に、10cmほども伸びた霜柱が立っていた。
もう冬が近い。思った途端、ずきりと周太の心が軋んだ。
冬になれば山は雪に覆われる。
英二にとって初めての、警視庁山岳救助隊員として立つ雪山での任務が始まる。
低温、足許の不自由、滑落の危険。歩きやすい今の秋山とは、全く違う世界。
この隣はきっとだいじょうぶ、約束を守ってくれる。
そう思っても、不安も心配も迫上げて、来る季節への恐怖が心覆っていく。
けれど。自分はもう、信じている、愛している。
約束も英二も信じて待って、どこまでも着いていく、想っていく。
だって自分はもう決めている、この隣を愛し続けること、もう離れないこと。だから信じて着いていく。
雲取山を連れられて歩いて、たくさんの喜びと初めてを見つめた。
この隣に連れられて歩くこと、こうして幸せな記憶に充たされていく。
だからもう決めた、自分から隣に着いていく。どんなに引き離されたって、どんな形でも繋いで離れない。
自分はもう決めた。これからずっと、こうして連れられて、歩いていく。
想い愛し、守って、見つめていく。
すこし唇をかんで、ひとつ息を周太は吐いた。
それから想いの中心を見あげて、見つめた瞳から微笑んだ。
「ん、着いていく…だからずっと連れて行って、英二」
見上げて見つめた端正な顔に、きれいな笑顔が咲いた。
うれしそうに英二は、きれいに笑って応えてくれる。
「ああ、ずっと連れていく。だからちゃんと着いてきてよ、周太」
告げて、応えられること。
こんなにうれしい、その温かさに周太は微笑んだ。
唐松谷という道を降りる足許を、黄金色の木洩陽が照らす。
きれいだなと目を上げると、落葉松の樹林帯に立っていた。
黄金の梢と華やぐ陽光が、林間を明るく金色の大気に充たしている。
そっと周太は息をついた。
「黄色の黄葉は、眩いな」
周太の言葉に、隣は立ち止って振り向いてくれる。
きれいに笑って、周太の言葉に頷いてくれた。
「うん、きれいだろ、」
きれいな笑顔は穏やかで、やさしい切長い目が見つめてくれる。
やさしい穏やかさが嬉しくて、周太は頷いた。
「ん、」
頷いて見つめて、周太は止まった。
いつものように穏やかな、静かに佇む隣の姿が、きれいだった。
金色の木洩陽に照らされて、深紅あざやかなウェア姿がきれいで。
白皙の貌にふる光に、端正な深みの表情が美しくて。
黄金の森ゆるやかに、陽光透ける髪を風が梳いていく。
自分の愛するひとは、こんなにきれいだ。
そっと息をついた心に、記憶の詩が静かにふれあがった。
When,in a blessed season
With those two dear ones-to my heart so dear-
And on the melancholy beacon,fell The spirit of pleasure and youth‘s golden gleam
祝福された季節に、
愛しい私の想いの人と、ふたり連れだって…
そして切なき山頂の道しるべ、その上に。あふれる喜びの心と、若き黄金の輝きとがふり注いだ。
慣れ親しんだ「Wordsworth」の詩の、あの光景。
ワーズワースは自然を通して心を歌う、本当にそうだなと思えてしまう。
だって今この目に映るのは、この詩そのままの光景だから。
「周太の服の色、ホリゾンブルーって言うんだ」
静かに英二が教えてくれる。
この登山ウェアも、英二が選んで贈ってくれた。
それだけでも嬉しい、そしてこの色を周太は好きだった。
「ほりぞんぶるー? …ん、きれいな色で、俺、気に入ってる」
「そっか、気にいってくれて、よかったよ」
きれいに笑って、英二が続けてくれる。
「地平線や水平線近くの空の色をな、ホリゾンブルーっていうんだ」
境界線の空の色。昨日と今日と見た、黄昏と暁の空の、あわいブルーの色。
広やかな空がうれしくて、この空の下でずっと、想う隣にいたいと願った。
その空が、日常を過ごす新宿に繋がって、想う隣と繋がっている。それを知って嬉しくて。
この隣と繋いでくれる、空の色の名前。
なんだか幸せで、周太は微笑んだ。
「きれいで、広々とした名前だな」
「だろ、」
黄金の木洩陽、深紅の隣。
自分とは正反対の色が映える、美しい隣、唯ひとり想うひと。
その深紅と同じ色が、自分の袖にも一すじ入っていた。
その色が、昨夜も唇よせられた右腕の、赤い痣を想わせる。
壁に凭れて並んで座って、窓を見あげて月と星を眺めた昨夜。
ひとつのiPod片方ずつのイヤホン、同じ曲で繋いで寄り添った。
そのまま眠った周太を、静かに抱きあげ横たえて、寝かせてくれた。
そのとき浅い眠りは覚めて、ひらいた瞳を英二が見つめてくれていた。
「ごめん、起こしちゃったな」
やさしい笑顔が幸せで、うれしくて。
もっと近くで笑ってほしいと、眠り覚めきらない意識に思った。
もっと、そんな想いで周太は右腕を伸ばした。
「…ん、…ちかくに、きて?」
伸ばした右腕の、Tシャツの長袖がすとんとおちた。
青い夜こめられた薄明かり、ほの白い腕に痣は赤くあらわれた。
「周太、」
長い指に絡めとられて右腕、熱い唇がよせられる。
そのまま抱きしめられて、温かくて、幸せだった。
腕に刻まれた熱と想い、見つめてくれる瞳、きれいな笑顔。
どれも幸せに抱きしめられて、昨夜は静かで穏やかな安らぎに眠った。
あわいブルーのウェア越しに、そっと周太は痣にふれた。
こんなに切なくて温かくて、幸せなこと。
与えられている今が、奇跡のように想えてしまう。
それくらい13年間の冬は長くて、冷たくて、孤独が痛かったから。
…英二、
心に呟いて見上げる隣は、登山地図をクリップボードにセットしている。
胸ポケットから鉛筆を出して、添えた手帳と地図へメモを取り始めた。
仕事へと向かう真摯な表情は、すっかり大人の男になっている。
鉛筆をはしらせる手元は、相変わらず白くきれいな手だった。
けれどその手も、1ヶ月半前とは違う。
自殺者の死体見分、遭難者の救助、そして親しい山ヤを看取った、手。
山に廻る生と死を、見つめて守って救けて。そして自分をも、支えて守ってくれた。
出会った時から見てしまう、きれいな白い大きな手。
けれど1ヶ月半で、より温かく美しい手になった。
大好きな、英二の掌。
あの手に繋がれていたい、だから自分があの手を守れたらいい。
そんなふうに湧きあがる、自分の想いが温かい。
…大好き、そして愛している
そっと心に呟いて、周太は足許に目をおとした。
落葉ふりつもる道に、ときおり綺麗な黄葉や紅葉がおちている。手をのばして拾い上げて、陽光に透かし見た。
きれいな葉脈が、金色のなかに浮かんでいる。きれいだなと微笑んで、手帳を出すと挟みこんだ。
幼い頃は山で、公園で庭で、こんなふうに木葉を集めた。
父に教わった方法で作る、押葉はきれいに色が残せた。
薬局で取寄せてもらった試薬を霧吹いて、シリカゲル粉末シートに挟んで、百科事典で重しをした。
そうして父が贈ってくれた専用の採集帳に、きれいにまとめて自分だけの図鑑を作った。
父と一緒に作った図鑑。だから13年前に、記憶と一緒に仕舞い込んでしまった。
あの採集帳は今、どうなっているのだろう。
思いながら周太は、落葉を挟んだページへと目をおとした。
あの頃は、落葉を拾ったらメモをとっていた。
拾った日時と天気と場所、葉の親木の様子。
それをラベルに転記して、葉と一緒に採集帳に貼ると、立派な図鑑らしくなる。
帰ってから学術名を父と調べて、ラテン語でラベルに書くのも楽しかった。
これもメモを書いてみようかな、周太は手帳のペンをとった。
「ん、楽しいな」
こういうのは久しぶりだった、けれどちゃんと覚えている。
手帳とペンをウェアのポケットにしまうと、周太は目を上げた。
その目に、赤い実と紅葉が茂る箒状の木が映りこんだ。木洩陽に照る朱赤の実が、温かく輝いて美しい。
この木は実家の庭にもある、懐かしくて周太は微笑んだ。
「周太、」
大好きな声に呼ばれて、周太は振り向いた。
きれいな笑顔が温かい、うれしくて周太は赤いを指さした。
「ナナカマドだ、」
「へえ、きれいな赤い実だな。葉の色も良いな」
興味深そうに、隣もナナカマドの木を見てくれる。
同じものに興味を持ってもらえる。それが周太には嬉しかった。
父とこうして山や公園で楽しんだ。あの温かい記憶が今、この隣でも温かい。
幸せだ。そんな想いが心からノックするよう返響する。
「ヨウシュウヤマゴボウはな、布が染められる」
「ふうん、きれいな紫色に染まりそうだ、おもしろいな」
この黒紫の房状の実は山野に自生する。父と何度も見た、懐かしい記憶の植物。
少し前までは、見るたびに目を背けていた。けれどもう今は、温かな想いで見つめられる。
こうして今、英二の隣じゃなかったら。きっと、こんなふうに素直には想えなかった。
この隣が全て受けとめてくれる安堵が、痛みにされた記憶すら、素直に温もりへと還元させてくれる。
微笑んで周太は、英二に振り向いた。
「父さんがね、山で教えてくれた植物なんだ」
「そっか、」
頷いて、きれいに笑って英二が言ってくれる。
「周太の父さん、山ヤでも俺の先輩なんだな。こんなに山を知るのはすごいよ、尊敬する」
「ん、父さんはね、ほんとうに物知りで、立派なんだ」
そう、自慢の父。
だから誇らしい、自分があの父の息子であること。
そう素直に想えることが嬉しい。それもこの隣が全て、手を曳いてくれたこと。
父の真実の底に遺された温かな想い。それら全てに、英二が向き合わせてくれた。
そうして父の死の結末が、冷たい現実だけでは無く、温もり遺された今を教えてくれた。
だから、こうして今は、父の記憶全てを肯定できる。
今はだから胸を張れる、父の息子であること。そして想いの全てで、この隣を愛している。
ほんとうに、唯ひとりだけ、唯ひとつのこの想い
…愛している、英二
心に想いを響かせて、隣を見あげ周太は、きれいに笑った。
昨日も訪れた、あわい光の空間にまた立っている。
あわい苔緑、あわい金色の木洩陽、やわらかな蒼い木肌。
ふたつの切株と、ひとつの倒木の向こう側。そこには黄金の木洩陽が高くふる。
空を抱く黄金の梢を戴冠して、ブナの巨樹は佇んでいた。
「今日も、きれいだな」
「ああ、今日が一番きれいで、この秋の最後かもな、」
ふたり並んで倒木に座る。木洩陽は昨日よりやわらかい。
また秋が深まっていく。
もうじき冬、悲しみと喜びが交錯した、この秋が終わる。
寄り添う約束をした、初秋の9月の終わり。
初めて自分から求めた夜の、中秋の10月を了える候。
父の真実へと時が動き始めた、盛秋の11月の初まり。
そうして深秋、想いの深さを告げあって、昨日ここでキスをした。
想い深い秋が終わる。すこし切なくて、そしてきっと忘れない秋。
初めて一緒に迎える冬、山に生きる隣が心配にもなる。
けれど初めての冬にも、この秋のように、喜びがきっとある。
何気なく周太は、ポケットに手を入れた。
いつものオレンジ色のパッケージを取出して、最後のひと粒を口に含んだ。
さわやかな甘さ、馴染んだ味がほっと、心寛がせてくれる。
「俺もほしいな、」
隣からの声に振り向いて、周太は困ってしまった。
最後のひと粒だった。それなのに隣に訊かずに、何気なく口に入れてしまった。
いつも英二は、周太を必ず優先してくれる。それなのに自分は、どうしてこうも、気が利かないのだろう。
哀しい想いに周太は、掌の空になったパッケージを見せて、英二を見上げた。
「ごめん、最後の1個だった…下山したら買うな?」
「今、ほしいんだけど?」
謝る想いの先で、英二は少し拗ねた顔になってしまった。
どうしよう、怒らせてしまったのだろうか。
怒られても仕方ない、だって自分だけ黙って、口に入れてしまった。
「…ごめん、」
どうしたら許してもらえるのだろう、どうか許して。
途惑いに瞳の底が熱くなる。泣いたらいけない、そう思った頬に温もりがふれた。
大好きな掌が頬を包んでくれていた。
その温もりが嬉しい。うれしくて見上げると、英二が笑いかけてくれた。
「謝らなくていいよ、もらうから」
「…え、?」
もらうってどういうこと?
解らないまま見上げていると、きれいな口許が静かに近寄せられる。
周太の唇に、唇で英二がふれた。
ふれられた唇の温もりが、やさしくて甘い。
よかった。英二は怒っていない。だってこんなにキスが優しい。
うれしくて、重ねた透間そっと周太は吐息を零した。
その透間に、深く英二の熱が入りこんだ。
「…っまって、」
驚いた唇、やわらかいそのままに、ほどけて熱を受け入れてしまう。
驚いた瞳、瞠いたままに閉じられない。
ひらいたままの瞳、白い肌が映りこむ。きれいな瞼、濃い睫、それから揺らめく熱い想い。
途惑ったままの想いの底で、唇から探られる深い裡から、馴染んだ甘い香が奪われる。
…あ、
心の呟きと一緒に、静かに英二の唇が離れた。
きれいな唇ほころばせ、英二はきれいに笑っている。
「ありがと、」
くちびる離れても、近寄せられた顔。
英二の唇こぼれる甘い香が、周太の唇にふれる。
目の前のこの、きれいな唇が、自分の口から馴染み深い甘さを奪ってしまった。
こんなことってほんとうのことなんだろうか、なんだかなにもわからない。
「この飴、なんだか随分と甘いな、周太?」
瞳を覗きこまれて、きれいな笑顔に笑いかけられる。
やっぱりげんじつなんだ、想った途端に熱が一挙に昇りだした。
「返してほしい?」
きれいな笑顔が、笑っている。
のぼってしまった熱があつくて、なんだかなにもかんがえられない。
何も考えられなくて、素直に周太は呟いてしまった。
「…ん、かえして」
きれいな笑う唇に、そっと周太は唇をよせた。
なんだかなにもかんがえられない、いったいどうしたのだろう?
ぼんやりとした意識の表層に、あたたかな熱が唇にふれる。
一瞬のためらい、意識をよぎったけれど、甘い香りが誘い惹きこむ。
惹きこまれるままに、きれいな唇の裡へと深く重ねた。
どうしていいのかわからない、けれど。
馴染んだ香りと甘さ、入りこんだ裡に充ちて愛おしい。
けれど馴染んだそれ以外の、惹かれるなにかに満ちている。
わからない、そして探す目的が見つからない。
それに、もう、なんだか、はずかしくて、こまる。
頬が首筋が熱い、背筋だってもう熱い。
待って今、この状況は、どうしてこうなっているの?恥ずかしくて途惑って、周太はそっと唇を離した。
なんでだったろう?すこし考えて、飴を盗られたことを周太は思い出せた。
「…ない、」
ぼそりと周太は呟いた。
でもどうして無かったのだろう?気恥ずかしさに熱くても、不思議でしかたない。
すこし首傾げる周太に、可笑しそうに英二が白状した。
「ああ、俺、すぐ飲みこんだから」
「…え、」
どういうことなのだろう?
よく解らないでいると、悪戯っぽい目で、英二が教えてくれた。
「だって見つけたら周太、すぐ止めただろ?」
「…あ、ん、」
そう、きっとその通り。
「返して」と言ったからには、見つけて返してもらわないと。
けれどこんなの恥ずかしいから、見つけ次第に止めただろう。
そう想い廻らす周太に、きれいな笑顔が、嬉しそうに自白した。
「気持ちいいから、止めてほしくなかったからさ。見つけられたくないから、飲んじゃった」
……なんてこたえればいいの?
だんだんと、自分のしたこと途惑いになる。
首筋から背筋まで熱い、きっともう体中が恥ずかしくて真っ赤だろう。
でも、止めてほしくなかった、て。
喜んでくれた、そういうことだろうか。
気恥ずかしくてたまらない、けれど喜んでもらえると、やっぱり嬉しい。
「こういうキスも周太からは、“初めて“だね」
きれいな笑顔、いま「初めて」て、言った…そう、初めてのこと。これも“初めて”
この場所で昨日、たくさんの“初めて”が出来た。
初めて、呼びたかった名前を呼べた。
初めて、したかったキスが出来た。
初めて、告げたかった想いを告げられた。
そして今この場所で、もうひとつの“初めて”が、出来た。
周太は真直ぐに英二を見つめた。
そう、自分はもう、この隣のためになら、何だって出来るから。
“初めて”はいつも途惑ってしまう。それでも自分は、この隣の為になら途惑いも越えたい。
だってもう、心から想っている、愛している。
この想いを伝えて告げて、そうして幸せをすこしでも、与えることが出来るなら。
そんな想いに見つめる真中で、きれいな切長い目が、どうしたと訊いてくれる。
お願い声、きちんと出て。祈るよう周太は、唇を開いた。
「…初めては全部うれしいから…」
言えた、想いを。
そっと吐息をついた周太に、英二は瞳を和ませて、きれいに笑いかけてくれた。
「うん。俺こそ、うれしいよ」
きれいな笑顔、自分に向けられている。
嬉しくて微笑んだ周太に、長い腕を伸ばしてくれる。きれいな低い声が誘った。
「おいで、」
長い腕に、そっと抱きしめられた。
包みこまれた胸が、温かい。この温もりに今まで、どれだけ幸せを贈られたのだろう。
そうして昨日も今日も、このブナの下で。いったい、どれだけ幸せだったろう。
あの日。報復の孤独へと堕ちかけた日。
この隣が追いかけて掴まえてくれなかったら、こんな幸せを自分は知らないままだった。
そうしてこの隣も、こんな幸せを失っていた。
あの日、離れて行こうとした自分の、罪の重さが思い知らされる。
許してほしい、どうか許して。
お願い、許して。
もう離れない、そしてもう何だって出来るから。
だからどうかお願い、この隣の、きれいな笑顔を守らせて。
この先きっと、自分には、辛い運命が現れる。
父の軌跡を追うと決めてしまった、それが終わるまで、自分の人生は生きられない。
父の真実の底にある、想いを見つめて受け留める。それが終わらなくては、自分の時は廻れない。
けれど13年間の孤独を壊されて、温かい想いを抱いた今。
その辛い運命をすら、自分は信じて越えられる。この隣を自分だけが、幸せにできること。
だってもう、愛している。
唯ひとり、唯ひとつだけの想い。愛している、英二だけ
この想いの為に、生きようと、もう決めた。
この想いの為に生きるため、父の軌跡を辿り終えて、自分の時を必ず動かして見せる。
そうして自分の時を廻らす瞬間から、この想いの為だけに生きる、自分の人生が始められる。
その時には、この隣の幸せの為だけに、自分は全てを選ぶだろう。
愛する隣の幸せが、きれいな愛する笑顔が、自分の全てなのだから。
そうしてずっと言い続ける、ふたつの言葉。
“お帰りなさい” そして “愛している”
そして全て叶えてみせる、この隣と結んだ “約束” の全てひとつ残らずに。
だから決めた。どんなに辛い運命でも、自分は必ず越えてみせる。
唯ひとつの想いを、唯ひとり愛する人を、守るために。
抱きしめてくれる隣が、微笑んで告げてくれる。
「愛してるよ、周太」
そっと見上げて、周太も微笑んだ。
そう、愛してほしい、もっとたくさん。
だって約束してくれた「信じて待っていて。愛しているだけ、必ず周太の隣へ、俺は帰られるから。だから信じて?」
だから愛して自分のこと、そして必ず帰ってきて。だってその為だけにもう、自分は生きる覚悟をした。
瞳を見つめてくれながら、英二が微笑んでくれる。
「周太は、きれいだ」
きっとそう、周太は微笑んだ。
だって今もう、自分の心に充ちている。今この目の前にいる、愛する人への想いだけに。
あなたへの想いが、唯ひとつ愛する心が、きっと自分をきれいに照らしだすから。
もう、あなたのためになら、自分はなんだって、出来る。
ふわり、白いはなびらが舞いおりた。
きれいな切長い瞳を、そっとかすめるように、やわらかな白がふってくる。
黄金の梢にかかる空から、あわい雪がしずかに降ってきた。
そっと英二が笑った。
「初雪だな、」
すこし紅潮した頬に、ふれる冷たさが温かい。
雪山のシーズンは不安にもなる。
けれど今は、事多かった秋を終え、冬を一緒に迎えられた。その喜びが温かい。
想い深い秋が終わる。哀しみと喜びと、痛切と幸せとが、織りこみ紡がれた秋。
それを今こうして、愛する腕に抱きしめられて、一緒に見ることが出来た。
この幸せが温かい。微笑んだ周太の唇が、そっと開かれた。
「これも…初めてだな、」
「そうだな、」
笑いかけてくれる、きれいな笑顔。
空を見あげる笑顔、その横顔が愛おしくて、一緒に周太も空を見あげた。
真白な空、けれど雲の流れは早い。
きっとこの雪は、すこしだけふる雪。きれいな青空がまた訪れる。
「ココア、作ってやるよ」
そう微笑んで、英二は周太にキスをした。
しずかに山にふる雪が、ほのかに白く初冬の紗をかける。
静かな山の音鳴りが、ふる雪に鎮まり深閑が返響した。
冬への眠りを望むよう、山の息吹が深く穏やかになる。
山が、ひと時の眠りにまどろんでいる。
そんなふうに想われて、そっと周太は山に佇んでいた。
見上げる空は、真白の奥ふわりと舞ってくる。
黄金の梢ふる白い雪、花びらのように穏やかに、やさしくふりかかる。
白い結晶の花びらの向こう、深紅のウェアが温かく美しかった。
「はい、周太」
深紅のウェアの腕を伸ばして、英二が微笑んで湯気くゆらすカップを渡してくれる。
ありがとうと受けとった、温もりが嬉しくて周太は微笑んだ。
「温かいね、」
「だろ、」
うれしそうな英二の笑顔が、きれいで温かい。
笑顔の温もりが嬉しくて、周太は両掌でカップを抱えた。
温かな甘さを大切に啜って、ほっと息をついた。
「ん、おいし、」
「よかった、」
甘く湯気の燻らせ頬撫でる、静かに啜るココアが温かい。
ときおり降りかかる雪が、そっと隣の深紅の肩に舞う。
やさしい穏やかな、静けさが居心地が良い。
かさりと音に振向くと、英二はパンを取出した。
さっとトラベルナイフで切れ込みを入れて、チーズを挟みこむ。
それからクッカーで軽くあぶって、周太に手渡してくれた。
手際の良さに驚きながら、周太は隣を見あげた。
「こんなことも出来るのか」
「うん、国村に教わったんだ」
ほんとうに色んなことを覚えたんだ。
思いながら周太は、頂きますと言って温かなパンを口にした。
香ばしいパンと熱に溶けたチーズが、温かくておいしい。
雪のふるなか、温かなココアとパンは似つかわしかった。
なによりも、心遣いがうれしい。隣へと周太は笑いかけた。
「ん、おいしい。すごいな、英二」
「よかった、」
きれいな笑顔で、英二が微笑んだ。
倒木に並んで座って、雪を眺めて温かい物を口にする。
山に森に静かにふる、あわい雪を見つめながら、静かな話に豊かな時が流れていく。
こういう時間っていいな。幸せに微笑んで、周太はココアを啜っていた。
ふっと英二は、白皙の顔を空仰がせた。
「雪、そろそろ止むな」
静かな声で英二は言った。
その言葉とともに、雪はひとひら、白い結晶を舞わせてやんだ。
「…ほんとにやんだ」
どうして解るのだろう?
不思議なままに、周太は隣を見つめた。
周太の声が聴こえたように、すこし首傾げて英二が微笑んだ。
「なんとなく、かな」
なんとなく。よく英二はそんなふうにいう。
いつもそんな時は周太は、不思議でならない。
そうして英二がそういう時は、不思議とその通りになる。
ほんとうに、自然も人も不思議が多い。
「そろそろ行こうか、周太」
きれいに笑って、英二が大きな掌で、周太の手を取ってくれた。
その掌が温かくて、うれしくて周太は微笑んだ。
もどった陽射に、樹林は光豊かな黄葉に佇んでいる。
初雪の水気をふくんだ道は、落葉の香が清々しかった。
足許に踏む、やわらかく瑞々しい落葉の感触が楽しい。
そう思って足許を見た視界に、あざやかな青紫色が映りこんだ。
「あ、」
陽のあたる枯葉の合間から、凛と青い花が咲いている。
そっと周太は傍に跪くと、英二を見あげた。
「りんどうだよ、英二」
田中の最後の一葉は、りんどうだった。
農家で写真家の田中は、生まれ育った御岳を愛し、国村を山ヤに育て上げた。
そんな山ヤの田中は、氷雨にうたれる青い花を、写真に納めて生涯を終えた。
あわい初雪のなか、青く輝いた、りんどうの花。
この花を愛した山ヤの生涯を、周太は美しいと思う。
凍える雪にも凛とした花姿、こういう美しさに心を留めて生きた人。
自分もそんなふうに、生きる場所を愛して見つめられたらいい。
周太の隣から、そっと英二が花を覗きこんでいる。
青い花に微笑んで、英二が笑いかけてくれた。
「きれいだ、」
そういう英二の笑顔が、きれいだな。
そんなふう思いながら見上げて、周太も微笑んだ。
「ん、きれいだね。見られて嬉しかった、ありがとう英二」
「うん、こちらこそ教えてくれて、ありがとうな」
微笑んでくれる隣が、愛しい。
初雪、奥多摩の山々は眠りに入る。
迎える冬には、山ヤの警察官は雪山での活動に入るという。
英二にとって初めての、雪山での山岳救助と山ヤの生活が始まる。
雪山はスノボ位だよと笑って、英二が教えてくれた。
「この雲取山もな、けっこう雪が積もるらしいんだ」
「きっと、きれいだろうな」
警察学校で一緒に眺めた、山岳救助隊の雪山訓練の写真。
雪山を見る英二の目は、憧れに楽しげだった。
きっとこれから始まる冬を、雪山の日々を、楽しみにもしているだろう。
その想いが自分には解ってしまう、そして願ってしまう。そっと周太は、想いのままを言葉にした。
「英二、」
「なに、周太?」
「雪山からもね、無事に帰って来て。俺は、信じて待っているから」
ああと頷いて、英二は笑って周太にキスをした。
そっと離れて瞳見つめて、約束だと告げて英二は微笑んだ。
「大丈夫だよ、周太。俺はね、必ず周太の隣に帰る。どこからも、いつでも、絶対だ」
絶対の、約束。
きっとこの隣は、全力で約束を守ってくれる。
だから信じて、愛して、自分は待って見つめていよう。微笑んで周太は頷いた。
「ん、絶対の約束、な」
(to be continued)
【詩文引用:William Wordsworth「Wordsworth詩集」】
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