萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

萬紅、始暁act,5小春日和―another,side story「陽はまた昇る」

2011-11-30 22:27:25 | 陽はまた昇るanother,side story
長い冬の終わり、はじまる暁




萬紅、始暁act,5小春日和―another,side story「陽はまた昇る」

翌朝の目覚めは4時半だった。カーテンの外は暗い。
繋いだまま眠った携帯は、右掌に握ったままでいる。そのまま起きて、周太はデスクライトを点けた。
窓をそっと開けると、冷たい夜気が朝の気配を含んで頬を撫でる。
ふり仰ぐ空は、ビルの彼方に星が見えた。

「…奥多摩も、晴れている?」

静かに窓を閉めて、携帯のBookmarkをひらく。
天気ニュースに繋いで、奥多摩地方の天気情報を見た。
晴れのち曇り 気温最高16℃,最低5℃ 湿度35% 風向北西 風速1m/s
山では気温がもう少し低くなるだろう、でも悪い天気じゃない。うれしくて周太は微笑んだ。

「ん、」

そっと携帯を閉じようとした時、ふっと着信ランプが灯った。
穏やかな曲を1秒だけ聴いて、通話に繋ぐ。

「周太、起きていたんだ?」

きれいな低い声が、うれしそうに訊いてくれる。

「ん、さっき起きた。おはよう、英二」
「おはよう、周太。今さ、窓から空、見てくれたんだろ?」
「…ん、そう、」

言わなくても解ってくれる。こういう時いつも幸せが温かい。
静かだけれど明るい声で、英二が話してくれる。

「こっちはね、よく晴れてる。星がすごいきれいだ。たぶん夕方までは晴れだな」
「ん、よかった。仕度は済んだの?」
「ああ、これから飯食ってさ、その足で集合」
「ん、気をつけてね」

きっと食堂で、藤岡や国村と今日の訓練の話を楽しむのだろう。
国村には一昨日、一緒に呑んだ時のことで、すこし転がされるのかもしれない。
それを藤岡は、悪気なく突っ込んでしまうだろう。
訓練は勿論だけど、それもちょっと気をつけて?
そんな想いが楽しくて、幸せで、周太は微笑んだ。

「周太、」
「ん、なに?英二、」

ちょっと笑う気配がして、きれいな低い声が言ってくれた。

「今日もね、ここから周太のこと見てる。今日もずっと俺、周太を愛しているよ、」

朝から、こんなのは気恥ずかしい。
けれどもう自分は決めた。この隣が幸せに笑ってくれるなら、何だって出来る。
そうして愛されて、この隣がもっと自分に逢いたくなって、必ず無事に帰って来るように。
あわい赤に頬を染めながら、そっと周太は微笑んだ。

「…ん、俺もね、奥多摩の空を見る。愛している、英二」

ああやっぱり恥ずかしいいくら電話でもちょっと。
新宿署の寮が個室でよかった、そのことに心から周太は感謝した。
こちらが照れているの、きっと英二は解っているのだろう。楽しそうな声で話しかけてくれる。

「周太さ、iPodの曲って全部聴いた?」
「あ、ん、半分くらい?」
「じゃ、まだ聴いていないかな。12曲目くらいのも翻訳してみてよ、穏やかな曲調もね、きっと周太好み」
「ん。…ん、?」

いま、英二、なんて言った?…「のも翻訳してみて」って言った。
まるで他のも翻訳したの、知っているみたい。

「…あ、」

河辺駅のビジネスホテルで、あの曲を翻訳した時。
ベッドサイドのメモとペンのセットを使った。
あのとき、ペーパーボードごとメモ帳を抱えて、英文と和文の両方を書いている。
書いたメモは切りとって、持って帰ってきた。けれど、その下のメモ用紙は、そのまま。

…もしかして、その下のメモ用紙にも、筆圧で写っていた?

激しすぎる想いの歌だった。
気恥ずかしくなって、翻訳したことは黙っていようと思った。
でもなんだかこのいまの英二のようすはもしかして、

「…あの、英二、」

訊きかけても、なんて訊いていいのか、解らなくなる。
どうしようと思っている耳元に、楽しそうな声が携帯越しに届いた。

「Carry on, keep romancing, Carry on dancing もうずっと俺さ、周太には止めないから、」

お願い英二、朝からこんなに、真赤にしないで?
気恥ずかしくて、けれどほんとうは、うれしくて。
恥ずかしいのに、なんだか幸せが温かい。…だから想いは、伝えたい。

「ん、…ずっと、止めないで」
「おう、止めないよ。昨夜の電話みたいにさ、ずっと周太と繋げ続ける。どっちも」
「ん、…うれしいけどすごくはずかしいから、ね?」

昨夜は、電話を繋いだままで眠った。

昨夜は独身寮の前で別れた途端、離れた温もりが恋しくて。
自室に戻って、荷物を解くのも哀しかった。
それでも気を紛らわせたくて、解いた荷物を洗濯しながら、風呂も済ませた。
それから電話が来るまで、植物標本の作業に没頭した。

“ずっと一緒に暮らすこと
 いつかきっと絶対に、毎日を一緒に見つめること“

ひそやかな木蔭で結んだ、もうひとつの「絶対の約束」。
奥多摩で新宿で「絶対の約束」を結んだ、きれいな笑顔。
想いながら、奥多摩の葉や花びらに、ひとつずつ処置を施した。

幼い頃に父とした作業は、温かかった。
英二との時間と想いが、ひとつずつの作業に重なって、なんだか幸せで。
英二と離れた哀しみに、そっと温もりが寄り添って、気持ちが穏やかになった。

終わるころ、手元に置いた携帯に、ふっと着信ランプが灯った。

「周太、待ってた?」
「…ん、待ってた。すごく」

掛けてくれた電話、うれしくて。
さっきまで一緒だった、それなのに繋いだ電話が、切れなくて。
今日の訓練のために、英二を早く寝ませたい。
それでも切れなかった電話。

「周太、今夜はさ、携帯繋いだままで寝ようよ」

そう言って英二は、笑ってくれた。
そしてたぶん、先に寝たのは周太のほうだった。
そのこと、ちょっと謝らないと。周太は唇をひらいた。

「あの、英二。昨夜は俺、先に寝ちゃって、ごめん」
「ん、なんで周太、謝るんだ?」
「だって、…俺のわがままで、電話、繋いでくれていたのに」

ああ、と言って英二は笑ってくれた。

「俺だってね、周太。ずっと繋げていたいんだ。だから俺さ、こんな朝早くから電話してる」

明るい率直な声、信じられる。
きっと今、きれいな明るい笑顔が、向こうでは咲いている。
こういうところ、ほんとうに、いいなって想う。きれいに笑って、周太は告げた。

「ん。電話、うれしい。ありがとう、英二」

4:45になって「じゃあ、行ってくるな」と英二は笑ってくれた。
いってらっしゃい、必ず無事に帰ってきて。そう言って、電話をそっと閉じた。

「…12曲め?」

穏やかな曲調が周太好み、そんなふうに言っていた。
さっそくiPodをセットすると、やさしい曲がながれる。
きれいなアルトヴォイスと、やさしい穏やかな曲がしっくり馴染む。

「…ん、すきだな」

音楽も、人の話も、聴いてみないと解らないな。
そう思いながら周太は、レポート用紙を出した。

Maybe it’s intuition
But somethings you just don’t question
Like in your eyes I see my future in an instant
And there it goes
I think I’ve found may best friend
I know that it might sound more than little crazy
But I belive

I knew I loved you before I met you
I think I dreamed you into life
I knew I loved you before I met you
I have been waiting all my life

There’s just no rhyme or reason
Only this sense of completion
And in your eyes I see the missing pieces
I’m searching for I think I’ve found my way home

A thousand angels dance around you
I am complete now that I’ve found you

この歌を、英二は「翻訳して」と言ってくれた。
だからきっと英二は、この歌で伝えたい想いがある。
それがどこなのか?“But somethings you just don’t question”きっとそんなふうに、英二は信じてくれている。
だから自分が気になるところが、きっと英二の想い。

「ん、」

ひとつ頷いて、周太は和訳を始めた。
このなかだと、「completion」と「the missing pieces」の意味がきっと大切。
意訳と直訳を混ぜて訳すと、周太は通して読んでみた。
この間の不思議な歌とは、ずいぶんと曲も歌詞も雰囲気が違う。


きっとそれは、直感だろう
でも、なんにも訊く必要ないよね、君だって解っているはず
僕の未来を一瞬のうちに、君の瞳の中に見てしまうように
ほら、行こうよ 
僕はもう、一番大切な人を見つけた、そう思っている
この想いはね、もう全くお手上げなんだ。そんなの信じられないって、僕も解るけどね
でも僕は信じている

僕は君に出会う前からずっと、僕が君を愛しているって知っていたよ
君の人生に生きることを、僕は夢見ていたって思う
僕は君に出会う前からずっと、僕が君を愛していると解ってた
僕の人生全てを懸けて、ずっと待っていたんだ、君を見つける瞬間を

説明できるような根拠は無いんだ
真実の姿に成った、この感覚ひとつ唯それだけ
だってもう、君の瞳の中にね、僕は見ているんだ。あるべき僕の大切なかけら、運命の相手である証を
僕だけの居場所に帰る、その道を見つけた確かな想いのために、僕は探している

君をとりまく、千の天使たちの祝福
君を見つけた今、僕は真実の姿に成る


英二が告げたい想い。
いつもの言葉、これまでの行動、そして周太に向けてくれる想い。
そっと周太は、歌詞を呟いた。

「…君の人生に生きることを、僕は夢見ていたって思う」

そう、そんなふうに。
英二は父の軌跡を追って、周太より先に真実を見つけ出した。
そうして周太の背負う全てを、あの頼もしい背中に笑って背負った。
そして今、英二は父が遺した合鍵を、いつも首から提げて大切にしている。

「…僕は君に出会う前からずっと、僕が君を愛していると解ってた…
 人生全てを懸けて、ずっと待っていた…真実の姿に成った、この感覚ひとつ唯それだけ」

初対面の瞬間からずっと、英二の目は周太に問いかけていた。
―ほんとうは、率直に、素直に、生きていきたい。生きる意味、生きる誇り、ずっと探している―
その問いかけに答えたかった。それを英二も、自分に望んでくれた。

「…君の瞳の中に見ている、あるべき大切なかけら、運命の相手である証
 僕だけの居場所に帰る、その道を見つけた確かな想いのために、僕は探して…」

―俺の帰る場所は、周太だけ。
 俺はね、周太ばっかり見つめて愛している。
 だから周太、いつか必ず、俺と一緒に暮らして? その絶対の約束がね、俺、今この時にほしい―

ゆうべの英二の言葉。
それから、そう、さっきの電話の言葉、

―Carry on, keep romancing…もうずっと俺さ、周太には止めないから、

訊かせて英二?
この曲で、ずっと、ささやき続けてくれる、そういうこと?

きのうまで一緒だった、4つの夜と3つの暁。
あんまり幸せで、ほんとうは、もう、離れられなかった。
初雪に不安になって、引き離される痛み哀しくて、泣きたくて、もう自分だけで立てなくて。
けれど「絶対の約束」を信じて、こうして新宿に戻ってきた。

―俺はね、周太ばっかり見つめて愛している
 Carry on, keep romancing…もうずっと俺さ、周太には止めないから

その言葉の通りに、きっと今日も奥多摩の山から、新宿を見つめてくれる。
そして言葉の通り、iPodの曲で、想いをささやき続けてくれる。
離れていてもずっと隣にいる。

―周太、いつも繋がって見つめているから

御岳山での、英二の言葉。

山から新宿の街を見つめ空で繋いで、iPodの曲で想いをささやいて繋いで。
ほんとうに言葉の通り、いつも繋げてくれる。

「…ほんとうに、約束、守ってくれている、ね…英二、」

ほんとうに約束守ってくれる。
このひとは、英二は、心から信じられる、信じて大丈夫。
だからきっと「絶対の約束」も全て叶えてくれる、大丈夫。

大丈夫、信じていい。

そんな想いが、温もりに心を充たしてせり上がる。
黒目がちの瞳から、想いの熱があふれて、雫がうまれる。
ふるえそうな唇から、繋げられた想いのかけらが、そっと零れた。

「…信じている、よ…英二、」

愛している。
唯ひとり、唯ひとつの想い。
そして唯ひとりとの約束に、自分は生きていく。
あふれる涙に頬を温めがら、周太はきれいに笑った。

「愛している、英二…」


6時半になって、周太は着替えて食堂へ向かった。
今日は週休、連続休暇の最後4日目。明日からまた交番勤務と射撃特練が始まる。
最後の休日になる今日は、実家でやりたい事があった。
朝食のトレイを受け取って、まだ空いている食堂の窓際に座る。
ビルの狭間から、あわい空のかけらが見えた。奥多摩も夜が明けただろうか。

「あれ、湯原?ずいぶん早いね」

声に振り向くと、深堀が私服で笑っていた。

「ん、おはよう深堀。そっちこそ当番明けだよな、もう上がりか?」
「うん、今日はさ、詩吟の催しがあるから、早く上げてくれたんだ」

深堀の祖母は、詩吟の世界では有名らしい。
深堀は、その祖母の師範代を務めている。
そんな深堀本人も結構、有名じゃないのかな。前に訊いたけれど、深堀はとんでもないと笑った。
けれど卒業配置期間なのに、こんなふうに早退を認められるのは珍しい。
たぶんやっぱり、深堀の詩吟は相当なのだろう。

「どんな催しなんだ?」
「うん、まあ、非公式なんだけどね、ちょっと出稽古っていうか」

非公式の出稽古、と深堀は言った。
一体何なのだろう?よく解らなくて、周太は訊いてみた。

「出稽古って、どこかに行くのか?」
「うん、祖母のアシスタントでね、」

深堀は頷いて、ちょっと周太を見て考える顔になった。
話していいのかな、そんな目になっている。
けれどすぐ、いつものように微笑んで、低めた声で一言教えてくれた。

「皇族にもさ、詩吟のファンっているんだ」

そんなところに出稽古って。

「…だから、早上がり認められたんだな」
「うん、まあね」

いつものように、深堀は気さくに笑っている。
この1ヶ月半で気付いた。深堀は言わないだけで本当は、結構すごい面を持っている。
語学の能力も相当に高い、刑事課勤務の佐藤も驚いていた。

この新宿署は、有能で正義感が強いタイプが配属されるときく。
深堀がここにいるのは、適性があると遠野教官も判断したことだ。
警察学校時代は、どちらかと言えば目立たない方だった。けれどそれも、見せないだけだったのだろう。

ほんとうに、人は話してみないと解らない。
そう思っていると、にこにこと深堀が訊いた。

「湯原、奥多摩は楽しかったみたいだね」
「ん、山きれいだった。あ、土産あるんだ」
「うれしいね、ありがとう。なんの土産?」
「奥多摩の蕎麦なんだ。友達が勧めてくれて」

何気なく「友達」と言って、周太はすこし自分で驚いた。
顔に出さずに驚いていると、深掘が訊いた。

「友達って、宮田じゃないの?」
「ん、違うんだ。青梅署の同じ年のやつと、その彼女」

友達、そんなふうに国村と美代を呼んでいる。
もうそういう存在なんだ。自分のそんな想いが、周太はうれしかった。
あのふたりには、また必ず会いたい。もっと話してみたいなと思える。
でも出来れば国村は、もうちょっと転がさないでくれると、助かるけれど。

「同じ年だと、高卒で奉職ってこと?」
「ん、そう。英二の同僚で仲が良いんだよ。皆で飲んだ時にね、勧めてくれた」

河原へ行く時に寄った酒屋で、美代が勧めてくれた。
「この蕎麦ね、光ちゃんが作った蕎麦が原料なの。おいしいのよ」
国村は兼業農家の警察官で、蕎麦畑と梅林を主に作っている。
せっかくだしと思って、周太は美代の勧めに素直に従った。

「そういうの、楽しいよね」
「ん、楽しかったよ。それで土産の蕎麦もね、その友達が作った蕎麦が原料なんだ」

焼鮭をほぐしながら、周太は説明をした。
深堀は楽しそうに、人の好い笑顔で頷いてくれる。

「あ、兼業農家なんだ?へえ、奥多摩の警察官って感じだな」
「ん、ほんとうにね、そんな感じだよ」

ひさしぶりの深堀との、他愛ない会話が楽しい。
本当は奥多摩で、英二の傍にずっといたかった。今だってそう。
けれどこうしていると、今ある新宿の日常も必要だと解る。
こんなふうに、今を、きちんと見つめて大切にしていけたらいい。

いつか、きっと英二と一緒に暮らせる日が来るだろう。
その時にはきっと、今の新宿での日々があって良かったと、心から笑えると思う。
あの苦しい13年間ですら、あの日々が必要だったと今、心から感謝できているから。

「じゃあ、その友達も宮田と同じ、山岳救助隊員なんだ?」
「ん、そう。英二とは山でもパートナー組んでいる。トップクライマーを期待されている男だよ」
「へえ、そんな男とパートナー組めるなんて、宮田も凄いんだ」

そういえばそうだ。言われて、改めて周太は気がついた。
英二の山岳経験は、警察学校以降の7ヶ月程度しかない。
それでも、国村のようなトップと組んでいる。

「あ、…ん、そうだな」

初心者の英二を、国村が面倒を見ているのだと、最初は思っていた。
けれど実際は、対等な山ヤ仲間で友人としての姿だった。
あの国村のことだ。英二に優れた山ヤの姿を見なければ、あんなふうにはきっと仲良くならない。
まだ今の英二は技術も経験も、国村には遠く及ばないだろう。
けれど英二の成長速度は速い。一緒に登山した英二は、警察学校時代とは別人だった。

きっと本当に、適性があるんだ。
山を愛し始めた英二にとって、それはきっと幸せだ。
うれしくて周太は微笑んだ。

「ん、英二はね、すっかり山ヤになってた。ほんとうに山の警察官って顔だったよ」
「山ヤ?」
「ん、そう。職人気質な登山家をね、そう謂うらしい」
「へえ、かっこいいな」

にこにこと頷いて、深堀は炒り卵を口に入れている。
それから、すこし首傾げて周太に笑いかけてくれた。

「湯原さ、宮田のこと、名前で呼ぶようになったんだ?」

つきん、心が小さく刺されて、周太は止まった。

そういえば、自然と名前で「英二」と呼んで話していた。
なんだか気恥ずかしい、なんだか意識してしまいそうになる。
でもあの隣は、英二は、いつも自分を堂々と、どこでも名前で呼んでくれる。
そして、もう、自分は決めている。

ひとつ息吸って、周太は微笑んだ。

「ん、そうなんだ。前よりね、もっと大切になったから」
「宮田のこと?」

変に思われるだろうか?
そんな迷いもすこしだけあった。

「ん、そう。だから、名前で呼ぶほうがね、自然になった」

それでも、英二は堂々としている。だから自分も、それに相応しくなりたい。
きれいに笑って、周太は言った。

「だからね、俺、これからはずっと、英二って呼ぶんだ」

すこし驚いたように、深堀が周太を見た。
けれどすぐに微笑んで、言ってくれた。

「湯原さ、またなんか、きれいになったな。すごく良い顔で笑ってる」

深堀は詩吟の師範代、人を見る機会も多い。
きっと師匠の祖母の許、幼い頃から人選眼を鍛えられている。
そういう所も、この新宿署へ配置になった適性の一つだろう。
そういう深堀に「良い顔」と言われるのは、うれしい。
素直に周太は笑った。

「ん、ありがとう。深堀」

朝食のあと、深堀に土産の蕎麦を渡せた。
明日の勤務の時には、東口交番の先輩たちにも渡せたらいい。
あと刑事課の佐藤には、夕食の時にでも会えるだろうか。

仕度すると周太は、実家に向かう電車に乗った。
7時半前の日曜、車内には静かな空気が佇んでいる。
席に座って、iPodのスイッチを入れた。
さっき訳したばかりの曲を、リピート設定にしてある。

「…ん、」

やわらかな旋律が、穏やかに心地いい。
この曲を贈ってくれた人、その想いの温かさにくるまれる。
いつもの車窓がどこか、やさしく穏やかだった。

いまごろ、英二は山にいるだろう。
きっと山の朝に佇んで、山はいいなあと笑っている。
どうか笑っていて、どうか無事に、幸せに微笑んでいて。
そうして帰ってきて、今夜も自分の隣と電話で繋いで、今日の話を聴かせて欲しい。

ふるい木造の門をくぐると、懐かしい花の香が迎えてくれる。
飛び石をつたって、周太は白い花の木の下へ立った。
父が植えてくれた、周太の誕生花「雪山」という名の山茶花。
御岳山にも、同じ花木が佇んでいた。

そっと幹に耳をあててみる。
ひんやりとした木肌の奥に、どこか温もりが懐かしい。
ふれる花木に、ただ想いを周太は訊いた。

…御岳山で、迎えてくれた?…俺、うれしかった

ふっと穏やかな風が、梢ゆらす。
花びらが一ひら、周太の掌に真白く納まった。
こういうのは、なんだかうれしい。周太は微笑んだ。

「ありがとう、」

白い花びら手帳にはさみこんで、周太は庭から玄関へと向かった
母は今日も仕事に出ている、昼過ぎには戻ってくるだろう。
玄関から台所にそのまま立って、先に昼食の支度を済ませた。

そのあと、2階の自分の部屋に行った。
きっとここにあるはず。
思いながら懐中電灯を持って、木造りの押入を開く。
2段目へと身軽にあがると、押入の天袋の板をずらした。

「…こほっ」

かすかな埃に軽くむせた。
そんなにも長い間、ここを放っていたな。
思いながら天井裏を覗きこんで、懐中電灯で照らした
思ったよりも、埃が薄い。これなら午前中で何とかなるだろう。

「ん、」

一旦押入から出ると、雑巾とハタキとバケツを用意した。
それから箪笥を開いて、古い服に着替える。英二から贈られた服は、出来るだけ汚したくない。
着替えたシャツの胸ポケットに、iPodを納めた上から掃除用のエプロンをした。
それから雑巾とハタキとバケツを、押入から天井裏へと上げた。

「あ、あれもいるか」

ゴミ袋に、挿し油とヤスリを持ってきて、天井裏へあげる。
懐中電灯はスイッチを入れてから、そっと天井裏へと置いた。
それから周太も、押入の2段目から身軽に天井裏へ上がった。

「…こほっ、」

天井裏は、埃のベールと暗闇に鎮まっていた。
ここには13年分の時が、沈黙に積もっている。

たしかあの辺り。
見当をつけて暗闇のむこうを見つめた。
ほんのかすかな光が、むこうの壁に見える。微笑んで、周太は呟いた。

「…ん、そう、あの辺り」

iPodのイヤホンを右耳だけセットして、スイッチを押す。
今朝聴いたばかりの、穏やかな曲が流れる。
この曲は好きだ。聴きながら、周太は雑巾を軽く絞った。

あがった場所から、軽く雑巾で拭いていく。
かすかな細い光のある壁際まで、ざっと拭きあげた。
ゆっくり立ち上がりながら、懐中電灯で壁を照らしていく。

「…あった、」

なつかしい、窓の鍵。

埃がうすく積っているのを、きれいに雑巾で拭く。
思ったより錆てはいない。
そっと指に力を入れて動かすと、かちりと音がなって、窓が開いた。
微笑んで、そっと周太は呟いた。

「まず、ひとつめ」

窓のむこうの、鎧戸の錠。
こちらは埃はほとんど無かった。けれど錆がまわっている。
挿し油とヤスリを持ってくると、懐中電灯で照らしながら丁寧に錆を落とした。
鎧戸の蝶番と把手も同じように、きれいに磨き上げていく。

「…これで、開くかな」

錠を、しずかに指で動かしていく。
かたんと錠は外れて、鎧戸が軋みを立てた。蝶番は大丈夫なようだ。
微笑んで、周太は軽くうなずいた。

「ん、」

鎧戸の把手を掴んで、ゆっくりと押し開いた。

天井裏に、あかるい陽光が射しこんでいく。
ゆっくり開かれる軋音と一緒に、ゆるやかな小春日和が部屋を充たしていく。
陽射に周太は、すこし瞳をほそめた。

屋根裏部屋が、あかるい陽光に温められて姿を顕した。

開かれた鎧戸、木枠の窓から太陽がふる。
おだやかな陽の光に、かすかな埃がきらめく。
窓から外を見ると、庭の樹木が美しかった。周太の山茶花も、ここから良く見える。
右耳に繋いだiPod、穏やかな旋律はどこか懐かしい。
そっと頬を撫でていく風は、樹木の息吹と落葉の香、それから山茶花の香。

また、この部屋に帰って来られたな。
うれしくて、周太は微笑んで、窓辺から部屋を振り向いた。

四畳半くらいの、白と木肌の空間。
漆喰塗の白い壁と白い傾斜の天井、無垢材の床。木造りの窓枠、床の片隅に木製の梯子。
無垢材の作りつけの本棚、ふるい木製のトランク、頑丈な木箱、ちいさなサイドテーブル。
頑丈な木造りのロッキングチェア。

それから天窓。

雑巾で床の全面をざっと拭きあげた。
それから木箱を拭いて踏み台にすると、天窓の錠を確認してみる。

「ん、開くな」

かちんと鳴って錠が外れる。
窓を開けると、鎧戸の錠も外す。
天窓の鎧戸はほとんど錆がない、そのままスライドに開いた。

青空が、漆喰塗の白い天井に、四角く姿を顕した。

「きれいだな、」

白い天井に、青い色が咲いた。なんだかうれしくて周太は微笑んだ。

天窓を拭いて、梯子を降りた。
それから天井から壁、書棚にハタキをかけていく。
雑巾をなんどか絞って、上から順に部屋中を拭き上げていった。
ロッキングチェアーも磨くにつれて、さわやかに木肌が蘇っていく。この椅子に座るのが、周太は好きだった。
ふるいトランクの錠は錆ていない、きっと開けられるだろう。

右耳から届く、やわらかな旋律がうれしい。
時計は10時、午前中の陽射が明るい。
この曲に想いを告げてくれる、あの隣。今頃は山の上だろうか。

ちいさな空間は、1時間ほどで埃は消えた。
開け放した窓と天窓からながれる風が、13年の澱みを払っていく。
あたたかな小春日和の陽光が、無垢材の床を温めてくれる。

小部屋は息を吹き返した。

白とベージュ、それから青空。
あたたかで穏やかな、やさしい小部屋。
2階の自室の上にある、もうひとつの周太の部屋だった。

「…ん、いいな」

もうひとつの部屋、大切な部屋。
この小部屋に幼い周太は、大切な宝物をたくさん仕舞いこんだ。
そうしていつも、ここで穏やかな時間と遊んでいた。

あたたかい、

うれしくて懐かしい、想いが温かい。
そっと微笑んで周太は、木製の梯子を床穴から降ろした。
13年前はこんなふうに、ずっと梯子を部屋へとかけてあった。

けれど13年前。
梯子を外して、天井裏へと放りこんでしまった。
この小部屋には、父との記憶がたくさん刻まれているから。

「ん、大丈夫だな」

13年ぶりに、梯子から部屋へと降りた。
押入の天井穴から、部屋の床へと架けわたした梯子。
13年前までは、毎日ここを通っていた。

掃除道具をきちんと片付けて、周太自身もシャワーを使った。
朝着ていた服に着替えると、脱いだ服を入れてから洗濯機をまわす。
それから台所へ行って、買ってきた袋からココアを取りだした。
小鍋でゆっくり練って、牛乳で伸ばしていく。

「ん、いいかな」

2つのマグカップについで、残りはそのまま蓋をしておいた。
2階へあがって、父の書斎の扉をあける。
カーテンを開けて、書斎机の父の写真に微笑んだ。

「お父さん、俺ね、ひさしぶりに作ってみたんだ」

ココアのマグカップを1つ、そっと父に供えた。
父はココアが好きだった。
周太自身も好きだった、休日の父と一緒に作って飲んだ。

「あのね、あの小部屋をさっき、開いたんだ」

写真から、おだやかな父の瞳が見つめてくれる。
そっと微笑んで、周太は伝えた。

「また本、貸してもらうね」

書棚から1冊取りだして、それから自室へと戻った。
マグカップと本を持ったまま、小部屋への梯子を登る。
小部屋は小春日和に温められて、居心地よく迎えてくれた。
マグカップと本をサイドテーブルに置くと、木製のトランクの前に座り込んだ。

「…やっぱり、聴きたいな」

ポケットからiPodのイヤホン、右耳にセットする。
やさしい穏やかな旋律が、ゆるやかに心に流れ込んだ。
なんだか、うれしい。

「ん、」

やさしい歌詞を聴きながら、ふるい木製のトランクを開く。
周太の祖父の物だったトランク、宝箱にしていた。

開いたトランクには、何冊かの採集帳と、きれいな木箱が2つ。

「…あった、」

うれしくて微笑んで、そっと採集帳を開いてみる。
ページはきれいなままだった。

押花や押葉たちも、13年前と変わらない。
植物標本に添えられたラベルも、筆跡があざやかに読める。
幼い自分の筆跡が、なつかしい。
学術名を記すラテン語は、父の筆跡で端正に綴られている。

なつかしい、父の筆跡。

ずっと放ったままだった、父の記憶も、山も、採集帳も。
けれどこうして自分をまた、迎えてくれる。
奥多摩で会った草木に、ラベルの筆跡に、父の記憶と温もりは佇んでいた。

筆跡を見つめる瞳に、そっと想いが昇っていく。

「…お父さん、ただいま」

涙と一緒に、想いはそっと小部屋に響いた。

右耳からは、やさしい曲がどこか懐かしい。
この曲を贈ってくれた人は今もう、山を下りただろうか。
微笑んで周太は、いちばん上の採集帳を取りだした。これは持って帰りたかった。

ちいさな木箱を開くと、きれいな貝殻が納められている。
海に行ったとき、父と母と拾ったもの。微笑んでまた蓋を閉じた。
もうひとつの木箱には、いろんなものが入っていた。
きれいな小石、ガラスが波に洗われ磨かれたもの、そうした小さな宝物。

なつかしくて切ない、けれど温かい記憶たち。
すこし前までは、向き合うことが出来なかった。現実が冷たかったから。
けれど今はもう、素直にこうして見つめられる。

“I knew I loved you before I met you 
 I think I dreamed you into life …I have been waiting all my life“

 僕は君に出会う前からずっと、僕が君を愛しているって知っていたよ
 君の人生に生きることを、僕は夢見ていたって思う…僕の人生全てを懸けて、ずっと待っていたんだ

右耳から繋がれる、やさしい曲によせてくれる想い。
この詞のとおり、英二は隣にいてくれる。
周太の隣で生きるために、英二は人生の全てを懸けてくれる。
そして周太の冷たい過去も、温もりに還元して救ってくれた。

だから自分も、英二に全て懸けたい。
いまこうして生きている、英二の隣にいる人生が、心から愛しい。
だから素直に想える。英二と出会わせてくれた、13年間の全てをも愛おしい。

この13年間が無かったら、きっと自分は警察学校へは行かなかった。
そしてきっと、英二とは出会えなかった。
だから想ってしまう。英二と出会うための13年間なら、その全ても愛しい時間。

そう想えた時に、13年間の冷たい孤独も全て、認めることが出来た。
この想いがあるから、今こんなふうに温かく見つめられる。

「ん、」

トランクを閉じて、1冊の採集帳をサイドテーブルに置いた。
それから書棚を覗いて、目当ての本を探す。
すぐに見つけて手に取ると、ロッキングチェアーに静かに座った。
ココアを啜りながら、ゆっくりと本のページを開く。

幼い頃に大好きだった、すこし大きな字の植物図鑑。
きれいな植物の挿絵が好きで、毎日ここで眺めていた。
四季ごとに4巻に分けられて、その季節ごとに毎日見ていた。

「…ん、楽しいな」

こういう時間を、もう、ずっと自分は忘れていた。
でも今はもう、思い出せている。

英二の隣で過ごした4つの夜と3つの暁。
あの隣で見つめた、唯ひとつの想いと幸せな“初めて”
それらの想いと記憶が、ふるよう自分をくるんで温かい。

そうして、この今が温かい。そして幸せな時にいる。
だからもう認められる、13年前のこと、そして13年間の長い冬の意味。
認めた今こうして、この小部屋にまた帰って来られた。

ゆっくり植物図鑑を眺め終ると、書棚の元の位置に戻した。
こんどはサイドテーブルの本を手にとって、ロッキングチェアーに座りこむ。
さっき父の書棚から借りた「Wordsworth詩集」のページを開いた。

Five years have past;five summers,with the length Of five long winters!
and again I hear
These waters, rolling from their mountain-springs with a soft inland murmur.-Once again
過ぎ去りし五年の月日 五つの長き冬と、同じく長き五つの夏は、諸共に過ぎ去りぬ
そして再び、私に聴こえてくる 
この水は再び廻り来て 陸深き処やわらかな囁きと共に 山の泉から流れだす

雲取山で思いだした、「Wordsworth」の詩の一篇。
この詩の水は、きっと止められていた記憶と時間、そして想い。
自分もこんなふうにきっと、時が流れ始めている。

全てを懸けて「絶対の約束」を英二と結んだ。
そうして刻まれた勇気が、この小部屋の時間すら開いた。
こんなふうに、自分が強くなれること。それが心から誇らしい。

「…ん、幸せだな」

微笑んで周太はページを捲った。
御岳山の滝に思いだした詩、その詩の後半を読みたかった。

And I again am strong:The cataracts blow their trumpets from the steep;
No more shall grief of mine the season wrong;
そして私には、強い心が蘇った 峻厳な崖ふる滝は、歓びの音と響き
この歓びの季節はもう、私の深い哀しみに痛むことはない

この詩の後半。
初めて読んだときは「そんなことあるだろうか」と疑問に思ってしまった。
けれどきっと今なら。思い繰るページの狭間に「XI」が現れた。

「…これ、」

The innocent brightness of a new-born Day  Is lovely yet;
The Clouds that gather round the setting sun
Do take a sober colouring from an eye That hath kept watch o’er man’s mortality;
Another race hath been,and other palms are won.
Thanks to the human heart by which we live. Thanks to its tenderness,its joys,and fears,
To me the meanest flower that blows can give Thoughts that do often lie too deep for tears.

生まれた新たな陽の純粋な輝きは、いまも瑞々しい
沈みゆく陽をかこむ雲達に、謹厳な色彩を読みとる瞳は、人の死すべき運命を見つめた瞳
時の歩みを経、もうひとつの掌に勝ちとれた
生きるにおける、人の想いへの感謝 やさしき温もり、歓び、そして恐怖への感謝
慎ましやかに綻ぶ花すらも、私には涙より深く心響かせる。

この詩には、自分の今の想いが見える。
初めて読んだ時には解らなかった、けれど今はもう解る。
そんな想いに、周太は微笑んで呟いた。

「…ん、ほんとにそう」

唯ひとり想う、愛する隣。
その隣で温かな想いに充たされて、父の死と記憶を自分は見つめられた。
その隣への想いに、自分は全てを懸けられた。そして勇気をひとつ刻めた、強い心を勝ちとれた。
そんな今の、愛する隣との時が愛おしい。
そんな今を支えてくれる、会いたい人達、会いたい場所、そして相手を想う心。
この13年間の全てが、この今に出会わせてくれた。

だからもう、感謝できる。自分の運命に。

これから先、冷たい真実、辛い現実が現れる。
けれどその時にも、もう自分は運命を恨んだりはしないだろう。
だってきっとその全てが、いつか良かったと思える日を信じている。
この13年間をすら、今は愛しいと想えるのだから。

唯ひとつの想い。その為に、自分は全て愛しい。




【歌詞引用:savage garden「I Knew I Loved You」詩文引用:William Wordsworth「Wordsworth詩集」】

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