待っていた想い、告げていく想い
萬紅、始暁act.2―another,side story「陽はまた昇る」
御岳山へと向かう車窓は、紅葉彩る稜線に青空がきれいだった。
ひとつのiPodイヤホンで繋いで、同じ曲。
ふたり並んで訊きながら、奥多摩の終わる秋を眺めていた。
「俺がね、いつも歩いている所を見てほしいんだ」
「ん、俺も見てみたいな」
いつも歩いている所、いつも話してくれる場所
そこを自分も歩けるのは、いつも聴く英二の日常に、自分も入れること。
そういうのは、うれしい。
この隣の日常を、すこしでも感じて、想いと一緒に刻みたい。
そうしてまた一つ勇気を育んで、この隣を見つめていたい。
「こんにちは、」
ケーブルカーの滝本という駅で、英二は気さくに駅員へ声をかけた。
すっかり顔なじみらしい駅員が、笑顔で話しかけてくれる。
「こんにちは、今日はプライベートなんだ?」
「はい、大切なひとに、御岳を見てもらいたくて」
ほら、また堂々と、こうして自分を紹介してくれる。
うれしい、やっぱりまだ気恥ずかしいけれど。
すこし頬熱いままで頭を下げると、駅員が微笑みかけてくれた。
「それは光栄だね。秋の御岳も良いですよ、楽しんで下さい」
「…っ、はい。ありがとうございます」
不思議だ。
この隣はいつも、こんなふうに。自分達を無理なく自然と、相手に受入れさせてしまう。
こんなところが、本当に大好きだ。そして幸せだ。
ケーブルカーは混んでいた。週末で晴天、みんな出掛けたいだろう。
隣では「人が多いな、」と呟いて、ハイカーの装備を目視確認している。
ほんとうに仕事熱心、そして心から山歩く人の無事を気遣っている。
そんな真面目さと、やさしい温かさが眩しい。周太は英二に笑いかけた。
「英二、山ヤの警察官の顔に、なってる」
「おう、俺は山ヤの警察官だから」
きれいに笑って答えた顔は、山ヤの警察官の誇り充ちていた。
こんなふうに、自分に素直に生きる英二の姿、ずっと願っていた。
この隣の目の底から、問いかけられた初対面の瞬間から、ずっと。
「ん、かっこいい、な」
「だろ、」
ずっと願っていた姿、笑顔、見られて、嬉しい。
車窓から眺める紅葉が、涙の紗にとけ一つ、周太の頬をこぼれた。
御岳山駅で降りて少し歩くと、富士峰園地展望台という所に着いた。
澄明に青い秋の空気に、あざやかな見晴らしは遠く見える。
「ほら、周太。御岳からな、新宿は見えるんだ」
英二が指さす方を周太は見た。
そこには見た事のある摩天楼が、遠く秋の陽射に輝いていた。
この奥多摩から、あの新宿が見えている。真直ぐに、周太は新宿を見つめた。
「…ほんとうだ、」
この奥多摩、御岳山。
愛する隣が毎日、巡回任務に登る山。そしてこの麓には、勤務する御岳駐在所がある。
毎日の巡回任務、この場所からいつも、自分のいる新宿まで巡回してくれる。
そんなふうに、いつも見守ってくれている?うれしくて周太は微笑んだ。
「いつも、ここから見てくれている?」
「そうだよ周太、いつも繋がって見つめているから」
きれいに微笑んで、答えてくれる。
いつも繋がって同じ東京の空で。
英二が立つ奥多摩の山嶺、自分が居る新宿の不夜街。
ほらこんなに隣だと、教えて勇気を育ててくれる。
その想いが、温かい。しあわせで周太は笑って、英二に答えた。
「…ん。ありがとう、英二」
「こっちこそだよ、周太。だって俺がね、周太をずっと見つめていたいんだ」
率直な想い、いつもこうして伝えてくれる。
うれしくて、きれいに周太は笑った。
「ん、見つめて?俺もね、あの街からいつも、奥多摩の空を見ている」
「ああ、見ていて周太。俺はここにいる、ここで想って見ているから」
「ん、」
笑いあって、また道を歩いていく。
年月ふりた産安社と書かれた社を通って、山道を歩いていく。
話しながら道を抜け、目を上げた光景に、周太の視線が止まった。
「…あ、」
天空の集落が、そこに現われていた。
蒼く苔むした茅葺の家々が、山の急斜にきれいに並ぶ。
立派な黒木の構えは、参詣者の宿坊らしい。
垣根には茶の花や、山茶花が静かに香っている。
モミジの赤に黄に、ケヤキの錆朱。色彩の豊かな木々の深閑に、その集落は鎮まっていた。
「ここもね、東京なんだよ周太」
隣から覗きこむように、英二が笑いかけてくれる。
ゆっくり歩きながら、教えてくれる。
「この御岳山に祀られている、武蔵御嶽神社の集落なんだ。約36世帯、160人が暮らしているよ」
「なんか、不思議なところだな」
「うん、神様の山だからな、御岳はさ」
神さまの山。
そんな不思議な場所で、英二は警察官として生きている。
きれいな笑顔、端正な姿、そして真直ぐな健やかな心。
そんな英二は、山にも神様にも愛される。そんな気が周太にはした。
「ほら、この木はね、神代ケヤキって言うんだ」
苔が蒼く覆う幹は、大きな孤を描く姿が印象的だった。
幹周りは8~9m位だろうか。
「…あ、そうか」
記憶を掠める『東京を代表する巨木』
そんな記事の切抜きを、幼い頃にしたことが、ある。
あれに載っていた、国の天然記念物の欅なら、樹高は23m、幹回りは8.2m。
周太は英二に訊いた。
「この木って、樹齢1000年以上って言われている?」
「ああ、そうだよ。周太、よく知ってるね」
やっぱりそうだった。
幼い頃に父と切り抜いた、あの記事。楽しくて何度も読んだ。
このケヤキは父も興味を持っていた。
奥多摩ならさほど遠くないから、見に行こうと約束もしていた。その約束は砕かれてしまった、けれど。
けれど、それをこうして、英二と見に来られた。うれしくて周太は微笑んだ。
「ん、父とね、読んだ記事に載っていたんだ」
きれいに笑って、英二が言ってくれた。
「周太の父さん、本当に博学だな。やっぱり俺、尊敬する」
「ん。英二、ありがとう」
微笑んで周太は、樹齢1000年の木を見上げた。
父と見に来るはずだった木。
それをこうして、父の合鍵を懐に大切に持つ、英二と見ている。
なんだか不思議で温かい、そう想う心に父の言葉がかすめた。
―周、自然にはね。不思議なことが沢山あるよ。それはきっとね、人間も同じ―
ほんとうにそうだと思える。
いま隣を歩く英二は、そうした不思議な廻りが多い。
世田谷の高級住宅街で、英二は不自由なく生まれ育った。
けれどこの奥多摩で、山ヤの警察官として山岳救助に生きる険しさを選んだ。
そうしてこの不思議な神の山を、日々巡回する警察官として勤務している。
そしてあの国村は、この麓で生まれ育ち、英二と同じように勤務している。
あのちょっと浮世離れした国村には、この不思議な山がとても似合う。
国村は山の申し子みたいだし。思って可笑しくて、ちょっと笑って周太は隣を見あげた。
その視線の先に、馴染み深い花姿が映りこんだ。
「あ、」
真白な山茶花「雪山」実家の庭に咲く、自分の誕生花。
うれしくて周太は微笑んだ。
「あの山茶花が、ここにも咲いている」
見上げる梢には、凛と真白な花が青い空へ咲いている。
自分が生まれた時、父が実家の庭へと植えてくれた花木。
周太の山茶花「雪山」は、父が愛する「山」にちなんだ種類。
そして生まれた11月は、寒さ厳しい冬を迎える時だから。
冬の氷雪にも愛される程、豊かに生きられるようにと「雪山」を選んでくれた。
この場所で、父の想いに出会えた、そんな想いが温かい。
自分の花木「雪山」その名の通りに、ここもじきに雪山になる。
この愛する隣は、この場所に立つ。そこには自分の花木が、父の想いと立っている。
そんな想いに見上げる隣から、英二が微笑んで言ってくれた。
「雪山、っていう名前だったな」
「ん、覚えてくれていたのか」
覚えてくれて、うれしい。
だからこの花木にすら、願ってしまう。
あなたの名前「雪山」を覚えた、愛するこの隣のこと。
あなたの名前の通り、ここが雪山になっても、どうか見守っていてほしい。
そしてどうか、あなたを誕生花に戴く自分の隣へと、ずっと無事に帰して下さい。
氷雪にも愛されるほど豊かに生きる、唯ひとり愛する隣を、必ず帰してください。
想い仰ぐ花に、さっと秋風が吹きよせた。
森から訪れた風に、白い花ひとひら、そっと舞い降りふっていく。
…あ、
真白な花びらが、静かに周太の掌におさまった。
この「雪山」が自分の願いを訊いてくれたのだろうか。
そう想えて、掌を見つめて周太は微笑んだ。
「なんか、嬉しいな、」
「どう嬉しい?」
隣から覗きこんで英二が訊いてくれる。
周太は静かに英二を見、笑いかけた。
「ん。なんかね、迎えてもらう感じだな」
父の殉職から13年、山のことも木のことも、父との記憶と一緒に忘れていた。
だからこうして今、父の記憶と共に歩きだした、今この時に。
父の想い遺る花木が、この隣が生きる山で迎えてくれたこと。
忘れ去っていた自分を、こうして迎えてくれたことが、うれしい。
「ああ、きっとね、この木も周太を待ってたな」
一緒に花を見上げながら、英二が笑いかけてくれる。
こんなふうに、一緒に見上げてくれる隣がいてくれる。
その幸せがまた、なおさらに温かい。
手帳を出すと周太は「雪山」の花びらを静かにはさんだ。
武蔵御嶽神社は立派だった。
拝殿前に立つと、英二が周太に教えてくれた。
「御岳山はさ、ご神体の山なんだ。挨拶して行こう?」
「ん、そういうのは、大事だな」
そう、ほんとうに大事。
だってこの隣が、日々の巡回任務に立つこの御岳山。
この隣の日々を、どうか無事に見守って、いつも無事に帰してほしい。
だから御岳の山よ、願いを聴いて下さい。
この隣はいつも、あなたの懐を歩いています。
そうしていつも、あなたの美しさ豊かさを褒めて、楽しく話してくれます。
だから御岳の山、あなたを語る自由を許すため、この隣を無事に帰して下さい。
この隣が語ってくれる、美しさ豊かさを、自分も一緒に見つめて、あなたを愛するから。
「周太、お参り終わった?」
「ん、ご挨拶できたよ。待たせた?」
「いや、俺もね、ちょうど同じ位だったから」
そんなふうに話しながら、また歩き出した。
長尾平への山道へと入っていく。
さしかかる梢の木洩陽が、午後にかかる切ない色がある。
長尾平からの山並と眺めは、きれいだった。
「ほら周太、あっちに見えるのはね、横浜」
英二の指さす方に、遠く市街地が見える。
横浜まで見えるんだ、周太は驚いて見つめた。
「ん、そこまで見えるんだな」
「御岳山って、結構すごいだろ?」
そう言って笑う英二は、なんだか誇らしげだった。
山ヤの警察官として立つ、この山を愛し始めている。そんな様子が眩しい。
楽しそうな英二の笑顔が、周太には心からうれしい。
「ん、すごいね」
「だろ?」
そこから左斜め下へ伸びる道を下る。
随分と下るんだと思っていると、英二が左腕を見せてくれた。
英二のクライマーウォッチは170mのマイナスを示している。
「もうじきね、着くよ」
そんな言葉と一緒に分岐点を右へ行くと、水音が響き始めた。
「滝がある?」
「うん、七代の滝っていうんだ」
「ななよの滝?」
話す視界、岩場が急に開けて、小柄な滝が姿を現した。
「…あ、」
滝壺の岩場は、苔の蒼緑が清水に瑞々しい。
鎮まる森閑に、滝の水音が滔々と響いていく。
木洩陽が静かにふる滝は、幽玄な静謐をたたえて、山の水飛沫をあげていた。
And I again am strong:
The cataracts blow their trumpets from the steep;
No more shall grief of mine the season wrong;
“そして私には、強い心が蘇った
峻厳な崖ふる滝は、歓びの音と響き
この歓びの季節はもう、私の深い哀しみに痛むことはない
父の遺した「Wordsworth」詩集の一節。
ワーズワースは愛する自然に、想いを詠んだ英詩人。こんな光景を見て彼は、想いを歌ったのだろうか。
自分では詩を詠まないけれど、この詩を今の自分と重ねてしまう。
「驚いたろ、周太?ちょうど岩があるから、隠滝になっているんだ。」
「ん、驚いた…きれいだね」
「だろ、」
きれいな笑顔が、隣に佇んでくれる。その幸せが温かい。
もう独りじゃない、どんな時も、大切な隣がいてくれる。
だからもう、こんなふうに素直に。父の蔵書と自分の想いを、素直に重ねられる。
そして素直に父を認め、想えることが温かい。
「周太、木の根はなるべく踏まずにな。木に悪いから」
「ん、わかった」
頷いた周太に、ふっと英二が微笑んだ。
ちょっと休憩と立ち止まると英二は、長い指を胸ポケットに入れた。
長い指がオレンジ色のパッケージを取出す。
オレンジ色の飴をふたつ取りだして、その一つを周太の口許に運んでくれた。
「はい、周太」
そっと周太の口に長い指で入れると、英二は自分も飴をふくんだ。
オレンジの香がほっとする。おいしいなと思っていると、英二が微笑んだ。
「俺さ、前にもここで、この飴を口に入れた」
「ん、そうなのか?」
見上げて訊くと、すこし寂しげに微笑んで、英二は教えてくれた。
「田中さんをね、捜索した時だよ」
つきんと周太の心が痛んだ。
英二はこの御岳山で、親しい山ヤ仲間だった田中の死を看取った。
「あの時に俺、この場所でさ、心が折れそうになったんだ」
「…ん、」
あの夜の御岳山には、氷雨が降った。
まだ不慣れだった英二は、焦りに足許を崩されて、滑る木の根に足を取られかけた。
微笑んで、きれいな低い声で英二は話し始めた。
「あのとき俺は、経験のない自分がここへ配属された、その重みが苦しかった。
自分の経験不足を突きつけられて、そのせいで救けられないかもしれない。そんな焦りが募った」
ふたり話しながら、ゆっくり歩きだす。
足許を見つめながら、周太は隣の想いに心向けた。
「経験が少ない俺が、山岳救助隊を志願してしまった。その為に生命をひとつ、失わせるかもしれない。
そんな想いがね、心ごと足を竦ませて、俺、動けなくなった。
責任の重みが一挙に胸を迫り上げたよ。悔しくって俺、ほんとうに、あの時、俺は悔しかった」
鉄梯子を登っていく。周太の前を行く背中は、今はもう頼もしい。
でもあの時はまだ、英二は卒配されて3週間足らずだった。
責任感に押し潰される苦しみは、実直な英二は人一倍に強い。
あの夜の電話と田中の通夜の晩に、その苦しみを周太は受けとめた。
けれど英二はあの時に、自責の苦しみと田中の想いを、この背中に背負い生きていく覚悟を抱いた。
そうして背負った想いと苦しみ、その覚悟が、この隣の背中を頼もしくさせている。
「あの時さ俺、焦りが苦しくて胸を押さえたんだ。その掌にね、これ」
鉄梯子を登りきる。
そして山道に並んだ周太に、口許を示し英二は微笑んだ。
「この飴のパッケージがさ、掌に触ったんだ。それで俺、口に一個放りこんだ」
オレンジ色のパッケージ、「はちみつオレンジのど飴」
いつも周太が好んで、口にする飴だった。
卒業式の翌々日。
この奥多摩へ卒業配置された英二と、新宿で周太は待ち合わせた。
待合わせ見上げた英二の頬に、うす赤くうかんだ母親に叩かれた痕が、周太の心を刺した。
そして、いつものベンチで、周太は母の選択を英二に告げた。
そして英二と、ふたり寄り添って生きる選択をして、ずっと隣にいる約束をした。
時間が来た新宿駅のホーム、オレンジ色の電車に英二が乗り込んだ。
やっと想いを重ねたばかり、けれど卒業配置で離れ離れになる。
離れ難くて哀しくて、それでも微笑んで英二を見送ろうとした。
けれど電車の扉が閉じられる瞬間に、英二の腕に掴まれて、周太は車内に浚われた。
けれど立川駅では、別れなくてはいけなかった。
その別れ際、英二の切長い目が、泣きだしそうだった。
少しでも笑ってほしくて、この飴をひと粒、周太は英二の口へ投げて放りこんだ。
指で英二の目許を拭って、残りの飴をパッケージごと、英二に手渡した。
それからずっと、英二はこの飴を自分で買って、胸ポケットに入れている。
「この飴の香と味がね、周太を想いださせた。懐かしい、また会いたい。その想いがね、俺を冷静に引き戻してくれた」
―きのう御岳山で、本当は俺は、心が折れかけた。
けれどその時、周太を想いだした。
また会いたい、だから絶対に無事に帰ろうと思った。
そして気がつかされた、俺はもう、周太を遺しては死ねない―
田中の通夜の夜、英二から告げられた言葉。
あの夜に、周太は初めて河辺駅に降り立った。
田中の葬儀に出席するため、新宿署の先輩とシフト交換して外泊申請して、射撃特練の自主練もキャンセルした。
そして英二と共に、今回も泊ったビジネスホテルで2晩を過ごした。
田中の亡くなった夜。英二の連絡の遅さに、周太は心が壊れかけた。
夕食時に見た天気ニュース、奥多摩にふった氷雨を思って心が凍った。
山で氷雨にうたれ低体温症になったら、遭難死も免れない。
父が殉職した夜を思いだして、不安にうたれて。携帯電話を見つめ、気がついたら泣いていた。
そしてあの夜から自分は、素直に想いを伝えることが、出来るようになっていった。
「周太、」
名前を呼んでくれる隣を、そっと周太は見上げた。
やさしく英二は微笑んで、周太に言ってくれた。
「この飴がね、俺を救けてくれたんだ。この飴をくれた周太の笑顔をさ、想い出して俺は、救われた」
そんなふうに想われて、うれしい。
そうして自分が英二を救えた、そのことが周太はうれしかった。
「俺が、英二を救けられた?」
「うん、そうだよ周太。そんなふうにね、離れていても周太は、いつも俺を救けてくれている」
離れていても、いつも救けられる。
それこそ自分が望むこと。うれしくて周太は、微笑んで訊いた。
「ほんとうに?」
「ほんとだよ、周太。俺のね、一番の救いは周太」
いちばんの。
そんなふうに想われて、自分は本当に幸せだ。
そう、いちばんの救いに。それは心から自分が、いつも願っていることだから。
「…ん、うれしいな。ありがとう、英二。俺もね、同じだから」
「ああ、俺こそだよ、」
笑いあって、ふたり歩いた。
鉄梯子から直ぐに、大きな岩の前に出た。
岩の根には一面に木の根が張りめぐらされている。
「これがね、天狗岩」
言われてみれば、上を向いた天狗のようにも見える。
なんだか不思議な岩だなと眺めていると、英二は岩の根元の一か所に片膝をついた。
ザックをおろし、長い指で日本酒の小さな瓶をとりだす。
その瓶には奥多摩の蔵元の、特撰酒のラベルが貼られている。
…昨夜、国村と飲んでいたのと同じ?
はっと息を呑んで、周太は英二を見つめた。
もしかして、この場所なのだろうか。そっと周太は、英二の隣へと膝まづいた。
膝まづいて見つめた隣が、静かに周太へ微笑んだ。
「ここがね、田中さんが倒れていた場所なんだ」
ここが。
見つめた地面には、ひっそりと青い花が咲いていた。
きっと、この花は、あの写真の花。周太は手帳を出し、あるページを開く。
田中の絶筆になった、一葉の写真がはさまれていた。
「この、りんどうなんだね?」
「ああ、きっとね、そうだな」
御岳の山に、愛し愛されていた山ヤ。
この隣の背中に、美しい生涯を終えた山ヤ。
そうして英二は彼の想いを背負って、頼もしい背中の男へとなっていった。
その背中に自分は救われて、13年前の冷たい報復の呪縛から解かれた。
…ありがとう、
彼への想いが、そっと温もりになって、周太の瞳からこぼれた。
こぼれた想いと涙が、みつめる青い花にふりおちる。
りんどうに想いよせた、その山ヤ。
会った事のない周太にも、孫の秀介の手を通して、花の写真を贈ってくれた。
その想いが周太には、うれしかった。
「…ありがとう、ございます」
ちいさな呟きと一緒に、涙ひとしずく、りんどうに静かに零れた。
きれいな長い指が、そっと周太の頬を拭ってくれる。
そして微笑んで、英二は大きな掌を傾けた。奥多摩の酒が、静かに岩根へ注がれていく。
注がれる酒を、御岳の山は穏やかに呑んでいった。
ロックガーデンに入ると、午後にさしかかる陽射が明るかった。
苔の緑が清々しく、ふくむ水気を秋の日に輝かせる。
さわやかな緑ふくむ澄明な空気が、山懐の気配に鎮まっていた。
「ほんとうは俺ね、ここの早朝が好きなんだ」
「もっと空気が、気持ち良さそうだね?」
「ああ、目が覚めたばかりの山はね、いいよ」
そんなふうに笑いながら、英二は周太の掌をとってくれる。
そうして岩場を越えて、また山道へと立った。
その足許に、ふと周太は目を留めて屈みこんだ。
きれいだな、
きれいな赤い葉を2枚と、艶やかな木の実を2つ拾いあげる。
掌に載せながら見上げると、オオモミジと山栗の梢が周太を見おろした。
たぶんこの木が親木なのだろう、周太はその木の様子を見、記憶した。
「周太、いいものあった?」
英二が隣から、覗きこんでくれる。
興味を持ってもらえるのは嬉しい、微笑んで周太は掌をひらいた。
「オオモミジと、山栗だ」
ひらいた掌を、へえと感心しながら、英二が眺めてくれる。
「周太は良く、知っているな」
「ん、こういうの好きなんだ。父にも教わったし」
周太は手帳を取り出すと、2枚の赤い葉を挟んだ。
それから山栗をペーパーに包むと、ポケットにいれた。
あとで手帳に、親木と、拾った場所のメモをしよう。
考えている隣から、英二が笑いかけてくれた。
「この先のな、滝の傍の木も、きれいだよ」
「また滝があるのか。さっきの滝も、きれいだったな」
そう話すうちに、綾広の滝に着いた。
落差10m、綾広の滝の脇には「祓戸乃大神」と祀られている。
その滝よりも傍の木が、周太の目には映りこんだ。
「桂の木だな、」
「うん、樹齢300年らしい」
あわい黄と薄緑をまとった、桂の巨樹。
のびやかな梢から、淡黄と薄緑の木洩日がふってくる。
そっと桂の幹に掌ふれてみる。かすかな温もりふれる木肌が、やわらかい。周太は微笑んだ。
「やわらかくて、温かいな」
「うん、本当だ」
英二も隣に立って、ふれてくれる。
自分が感じることを一緒に感じて、ふたり感覚を繋ごうとしてくれる。
こういうのは幸せだ。うれしくて周太は微笑んだ。
「…ん、」
周太は軽く目を閉じて、頬を桂の幹によせた。
桂の木肌からふれあがる、温もり、鼓動、生きているという息吹。
桂の息吹の全てが、楽しそうに詠いあげる。
この場所に根を下ろし張り、梢に空を抱き生きる、歓び誇りの歌。
「周太は、木が好きなんだな」
きれいな笑顔で、英二が訊いてくれる。
うれしくて微笑んで、周太は素直に答えた。
「ん、好きだな。でもこういうのは、久しぶりなんだ」
そう、13年ぶりのこと。父の生前はよく、こんなふうに山や公園で過ごした。
けれど父が殉職した後は、こんなふうには過ごさなくなった。
幸福な記憶は、冷たい孤独の底では、ただ痛みだったから。
けれどもう英二が、冷たい孤独の痛みから温もりへと還元してくれた。
そのことが自分には、どれだけ幸せで、うれしいか。
そうして今、あなたを愛していく、唯ひとつの勇気、この心には生まれている。
―周、大切な想いこそね、きちんとその時に言わないと駄目だよ―
温もりに還元された、大切な父の言葉が温かい。
だから今、この想いも、今、このとき伝えておきたい。そっと微笑んで、英二は周太は話した。
「あの山岳訓練の時。滑落した谷底でね、俺、思っていたんだ。山や木のことを、すっかり忘れていたなって」
「うん…、」
そう、あの時まで。自分は13年間、ずっと忘れていた。
ゆっくり廻る山の時間、穏やかに佇む樹木の優しさ。
そんなふうに過ごした山での、なつかしく幸福な父との記憶。
「そのとき思ったんだ。いつかがあるなら、ゆっくり山で過ごしたい。そう思いながら、英二のことを、待っていた」
あの谷底で、くるんでくれた温かな約束。
真実の想い温かな、英二の真摯な約束。
―必ず自分が迎えに行く
その約束の温かさに、13年の哀しい封印が溶かされた。
そうして自分は、なつかしい幸福の記憶へと、素直に肯くことが出来た。
けれど、英二の約束は不可能だと、自分は思っていた。
初心者だった英二には、難しい条件での救助だったから。
それでも温もりがうれしくて、約束の言葉だけでも、幸せだと微笑んだ。
けれど。英二が崖を降りてきた。
信じられないそれでも。英二は周太を背負い登攀して、無事に救った。
そうして英二は笑って、けれど本当は歯を食いしばって、全力で約束を守った。
あの時ほんとうは、うれしくて幸せで、泣きたかった。
そしてあの時ほんとうは、この深い心の想いを、自覚しそうで哀しかった。
だってあの時の自分は、この想いを望んではいけないと、諦めの底にいたから。
父の殉職から廻らされる、自分が抱く冷たい運命。
その運命の冷酷には、誰も巻きこめない。だから自分は孤独に生きていく。
けれど、それでも、ほんとうは。そんな諦めの底ですら、それでも幸せで、うれしくて、そして…好きだった。
「俺もね、」
きれいな低い声が、周太に笑いかけてくれる。
うれしそうに笑って、英二が言ってくれた。
「俺もね、あの訓練の時にな、周太を山へ連れて来たいって、思っていたよ」
あの時に。
諦めの底、それでも温もりに、想いに、ただ自分は微笑んだ。
けれどあの時に?
あの時にもう、そんなふうに、あなたも想ってくれていたの?
ほんとうに?そうならどんなにか、うれしいだろう。そっと周太は英二に訊いた。
「…そうなのか?」
「そうだよ、周太」
やさしく微笑んで頷いて、英二は教えてくれた。
「山の警察官っているのかな?そう訊いたの、覚えてるだろ。
あれはな、周太を背負って山を歩くのがさ、いいなって思っていたからなんだ」
ほんとうに?
嬉しくて微笑んで、気恥ずかしさにも周太は訊いてみた。
「そうなのか?」
「そうだよ、」
うれしい。
だって自分はあの時、自分だけの想いが、哀しくて痛かった。
求められない想い、求められぬ想いの人、求めてはいけない約束。
求めて得られない、そんな願いが哀しくて、苦しくて、泣きたかった。
だから、うれしくて。
あの時にもう全て、想いあっていた、求めあっていた。その真実が幸せで。
あの時に谷底で感じた温もり、その真実は求めあう想いだった。そのことが、うれしい。
「…ん、そう、なんだ」
ほらもう、微笑んでしまう、うれしくて。
こんなふうに打ち明け合って、求めあって、笑いあう。
こういうのは幸せで、その時の想いの哀しいだけ、なおさらに温かい。
「そうだ、周太?」
「ん?」
やさしく笑いながら、英二が訊いてくれる。
「今日の夕飯、なに食いたい?」
訊かれて、答えはそう、決まっている。
いつもの通り、その幸せが欲しいから。微笑んで周太は答えた。
「ん、ラーメン」
「またかよ、」
またかよ。そうやって「また」があるのは嬉しい。
日常的な小さな決まりごと。
当たり前の様だけれど、どのひとつも、周太には嬉しかった。
御嶽駅から青梅線に乗った。
16時前。山の早い夕空が、するり奥多摩に降りてくる。
ひとつのiPod繋いだイヤホン、同じ曲に車窓を見つめた。
「きれいだろ、周太?」
「ん、きれいだね」
車窓いっぱい、山嶺の黄昏がふれてくる。
あわい赤、あわい黄金にと雲、輝いて。
ふじいろ薄雲、うすずみ飛行機雲、それから真白に昇雲。
薄緑やさしい山の端、藍碧きらめく靄、紺青透明な中空、青紫の夜の闇。
そして、ホリゾンブル―輝く、稜線を辿る広い空。
光の色彩が、奥多摩の空に充ちていく。
…ここに、ずっと、隣に、居られたら…いいのに
そっと心つぶやき、ひそやかに。唯ひとつの想いに、こぼれて充ちる。
この隣の近くで、見守り傍近く、ふたり同じ光景に生きられたら。
この愛する隣が立つ、美しい空と豊かな山嶺が愛おしい。
この山嶺が愛する隣を背中ごと、自分を軽やかに背負う程までに育み、愛してくれている。
だからどうぞ願わせて、奥多摩の山嶺たち。
雪山の姿まとっても、変わらず英二を愛してください。
そして迎える美しい、雪輝く冬の姿を見せて、きれいな笑顔を愛しんで。
そうしてどうか必ず無事に、どんな時いつも絶対に、自分の隣へ帰らせて。
初雪が降った、奥多摩は雪に眠る。
雪に眠る美しい奥多摩、その氷雪に廻る冬山の生死。
凍傷、凍死、凍結滑落、埋める雪崩。冷厳な死の罠が、支配していく冬山の掟。
氷雪の硲から、ひそやかに伺う死。
それでも雪山の秀麗に、山ヤは求めて冬山に生きる。
そうした同じ山ヤの求めに、潔く明るく微笑んで、英二は雪山遭難の救助に立つ。
山ヤの誇り、山守る救助の誇り。その誇りに立って、きれいに笑って生きていく。
その姿、きっと、眩しい。
まばゆくて、美しくて、愛しい、その姿。
毎日を無事に顔見て、毎日を傍近く見守れたなら、どんなに幸せなのだろう?
だから願ってしまう、祈ってしまう、「いつか」を信じて。
いつか必ずそんな日が、ふたり訪れるその日まで。その日が訪れたそれからの日々も。
ずっとどうか無事に、この愛する隣を自分の隣へ、きれいな笑顔のままに帰らせて。
「周太、」
「ん、?」
ひとつのiPod繋いだ隣、きれいに笑って告げてくれる。
「‘cause I am counting on A new beginning A reason for living A deeper meaning
I want to stand with you on a mountain Then make you want to cry
The tears of joy for all the pleasure and the certainty こんなふうにね、ずっと周太の隣に、俺はいるよ」
“君への想いはきっと、新しい始まり、生きる理由、より深い意味 そう充たす引き金となる
君と一緒に山の上に立ちたい そして君を泣かせたいんだ 確かな幸福感の、全てに満ちた、嬉しい涙で“
ひとつのiPod繋いだ曲。
穏やか流れるのは、この隣に座ってくれる、愛するひと真実の想い。
「…ん、隣に、帰ってきて」
よせられる想い、うれしくて温かい。
想いが、しあわせにそっと、瞳から涙になって頬伝う。
想いが、しずかな穏やかさにそっと、周太の唇からこぼれた。
「また、一緒に、山へ連れて行って。そうしてまた、幸せにして?」
そう、また一緒に山に。
そう、また、あなたの幸せに、抱きしめて。
「うん。また一緒に山へ行こう、周太。あのブナの木にもさ、また会いに行こう?」
「ん、また行きたい」
いくつでも、何度もほしい「また、」の約束。
ふたりの約束、いくつでも重ねさせて。そうして必ず帰ってきて。
ふたりの約束、いくつも重ねて、全て必ず果たすと言って。そのために、どうか帰ってきて。
「英二、」
「うん?どうした、周太」
名前を呼ぶ。頷いて微笑んで、名前を呼び返してくれる。
呼べた名前がうれしくて、呼ばれる名前がうれしくて。この想いを告げる、勇気がうまれる。
ほら、もう、唇から想い告げられる。
「英二、必ずね、俺の隣に帰ってきて?そうして約束を全部、守って」
真直ぐに見つめる隣、この想いの真中に、いつも佇む愛しい笑顔。
真直ぐに見つめ返してくれる、きれいに笑って答えてくれる。
「うん、絶対の約束だよ、周太。俺は必ず周太の隣に帰る。だから俺だけを待っていて?」
そう、あなた、英二だけ。
自分の隣に帰るのは、この愛するひと、唯ひとり。
「ん、英二。俺の隣は英二だけ。ずっと信じて待っている、だから帰ってきて?」
自分の隣に唯ひとり、帰ってくるひと。
自分が深く心から唯ひとり、信じて望んで求めている。
「ああ。帰るよ周太。だって俺、こんなに周太を愛している」
愛している。
率直に告げてくれる、想いが温かい。
すこし気恥ずかしくて、困ってもしまう。
けれど昨日に初雪が降ってしまった、だから告げるのは、今この時だけ。
愛してる、
「ん、俺もね英二、ほんとうに…愛してる」
想いに素直なままに告げて、きれいに周太は笑った。
(to be continued)
【歌詞引用:savage garden「truly madly deeply」詩文引用:William Wordsworth「Wordsworth詩集」】
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萬紅、始暁act.2―another,side story「陽はまた昇る」
御岳山へと向かう車窓は、紅葉彩る稜線に青空がきれいだった。
ひとつのiPodイヤホンで繋いで、同じ曲。
ふたり並んで訊きながら、奥多摩の終わる秋を眺めていた。
「俺がね、いつも歩いている所を見てほしいんだ」
「ん、俺も見てみたいな」
いつも歩いている所、いつも話してくれる場所
そこを自分も歩けるのは、いつも聴く英二の日常に、自分も入れること。
そういうのは、うれしい。
この隣の日常を、すこしでも感じて、想いと一緒に刻みたい。
そうしてまた一つ勇気を育んで、この隣を見つめていたい。
「こんにちは、」
ケーブルカーの滝本という駅で、英二は気さくに駅員へ声をかけた。
すっかり顔なじみらしい駅員が、笑顔で話しかけてくれる。
「こんにちは、今日はプライベートなんだ?」
「はい、大切なひとに、御岳を見てもらいたくて」
ほら、また堂々と、こうして自分を紹介してくれる。
うれしい、やっぱりまだ気恥ずかしいけれど。
すこし頬熱いままで頭を下げると、駅員が微笑みかけてくれた。
「それは光栄だね。秋の御岳も良いですよ、楽しんで下さい」
「…っ、はい。ありがとうございます」
不思議だ。
この隣はいつも、こんなふうに。自分達を無理なく自然と、相手に受入れさせてしまう。
こんなところが、本当に大好きだ。そして幸せだ。
ケーブルカーは混んでいた。週末で晴天、みんな出掛けたいだろう。
隣では「人が多いな、」と呟いて、ハイカーの装備を目視確認している。
ほんとうに仕事熱心、そして心から山歩く人の無事を気遣っている。
そんな真面目さと、やさしい温かさが眩しい。周太は英二に笑いかけた。
「英二、山ヤの警察官の顔に、なってる」
「おう、俺は山ヤの警察官だから」
きれいに笑って答えた顔は、山ヤの警察官の誇り充ちていた。
こんなふうに、自分に素直に生きる英二の姿、ずっと願っていた。
この隣の目の底から、問いかけられた初対面の瞬間から、ずっと。
「ん、かっこいい、な」
「だろ、」
ずっと願っていた姿、笑顔、見られて、嬉しい。
車窓から眺める紅葉が、涙の紗にとけ一つ、周太の頬をこぼれた。
御岳山駅で降りて少し歩くと、富士峰園地展望台という所に着いた。
澄明に青い秋の空気に、あざやかな見晴らしは遠く見える。
「ほら、周太。御岳からな、新宿は見えるんだ」
英二が指さす方を周太は見た。
そこには見た事のある摩天楼が、遠く秋の陽射に輝いていた。
この奥多摩から、あの新宿が見えている。真直ぐに、周太は新宿を見つめた。
「…ほんとうだ、」
この奥多摩、御岳山。
愛する隣が毎日、巡回任務に登る山。そしてこの麓には、勤務する御岳駐在所がある。
毎日の巡回任務、この場所からいつも、自分のいる新宿まで巡回してくれる。
そんなふうに、いつも見守ってくれている?うれしくて周太は微笑んだ。
「いつも、ここから見てくれている?」
「そうだよ周太、いつも繋がって見つめているから」
きれいに微笑んで、答えてくれる。
いつも繋がって同じ東京の空で。
英二が立つ奥多摩の山嶺、自分が居る新宿の不夜街。
ほらこんなに隣だと、教えて勇気を育ててくれる。
その想いが、温かい。しあわせで周太は笑って、英二に答えた。
「…ん。ありがとう、英二」
「こっちこそだよ、周太。だって俺がね、周太をずっと見つめていたいんだ」
率直な想い、いつもこうして伝えてくれる。
うれしくて、きれいに周太は笑った。
「ん、見つめて?俺もね、あの街からいつも、奥多摩の空を見ている」
「ああ、見ていて周太。俺はここにいる、ここで想って見ているから」
「ん、」
笑いあって、また道を歩いていく。
年月ふりた産安社と書かれた社を通って、山道を歩いていく。
話しながら道を抜け、目を上げた光景に、周太の視線が止まった。
「…あ、」
天空の集落が、そこに現われていた。
蒼く苔むした茅葺の家々が、山の急斜にきれいに並ぶ。
立派な黒木の構えは、参詣者の宿坊らしい。
垣根には茶の花や、山茶花が静かに香っている。
モミジの赤に黄に、ケヤキの錆朱。色彩の豊かな木々の深閑に、その集落は鎮まっていた。
「ここもね、東京なんだよ周太」
隣から覗きこむように、英二が笑いかけてくれる。
ゆっくり歩きながら、教えてくれる。
「この御岳山に祀られている、武蔵御嶽神社の集落なんだ。約36世帯、160人が暮らしているよ」
「なんか、不思議なところだな」
「うん、神様の山だからな、御岳はさ」
神さまの山。
そんな不思議な場所で、英二は警察官として生きている。
きれいな笑顔、端正な姿、そして真直ぐな健やかな心。
そんな英二は、山にも神様にも愛される。そんな気が周太にはした。
「ほら、この木はね、神代ケヤキって言うんだ」
苔が蒼く覆う幹は、大きな孤を描く姿が印象的だった。
幹周りは8~9m位だろうか。
「…あ、そうか」
記憶を掠める『東京を代表する巨木』
そんな記事の切抜きを、幼い頃にしたことが、ある。
あれに載っていた、国の天然記念物の欅なら、樹高は23m、幹回りは8.2m。
周太は英二に訊いた。
「この木って、樹齢1000年以上って言われている?」
「ああ、そうだよ。周太、よく知ってるね」
やっぱりそうだった。
幼い頃に父と切り抜いた、あの記事。楽しくて何度も読んだ。
このケヤキは父も興味を持っていた。
奥多摩ならさほど遠くないから、見に行こうと約束もしていた。その約束は砕かれてしまった、けれど。
けれど、それをこうして、英二と見に来られた。うれしくて周太は微笑んだ。
「ん、父とね、読んだ記事に載っていたんだ」
きれいに笑って、英二が言ってくれた。
「周太の父さん、本当に博学だな。やっぱり俺、尊敬する」
「ん。英二、ありがとう」
微笑んで周太は、樹齢1000年の木を見上げた。
父と見に来るはずだった木。
それをこうして、父の合鍵を懐に大切に持つ、英二と見ている。
なんだか不思議で温かい、そう想う心に父の言葉がかすめた。
―周、自然にはね。不思議なことが沢山あるよ。それはきっとね、人間も同じ―
ほんとうにそうだと思える。
いま隣を歩く英二は、そうした不思議な廻りが多い。
世田谷の高級住宅街で、英二は不自由なく生まれ育った。
けれどこの奥多摩で、山ヤの警察官として山岳救助に生きる険しさを選んだ。
そうしてこの不思議な神の山を、日々巡回する警察官として勤務している。
そしてあの国村は、この麓で生まれ育ち、英二と同じように勤務している。
あのちょっと浮世離れした国村には、この不思議な山がとても似合う。
国村は山の申し子みたいだし。思って可笑しくて、ちょっと笑って周太は隣を見あげた。
その視線の先に、馴染み深い花姿が映りこんだ。
「あ、」
真白な山茶花「雪山」実家の庭に咲く、自分の誕生花。
うれしくて周太は微笑んだ。
「あの山茶花が、ここにも咲いている」
見上げる梢には、凛と真白な花が青い空へ咲いている。
自分が生まれた時、父が実家の庭へと植えてくれた花木。
周太の山茶花「雪山」は、父が愛する「山」にちなんだ種類。
そして生まれた11月は、寒さ厳しい冬を迎える時だから。
冬の氷雪にも愛される程、豊かに生きられるようにと「雪山」を選んでくれた。
この場所で、父の想いに出会えた、そんな想いが温かい。
自分の花木「雪山」その名の通りに、ここもじきに雪山になる。
この愛する隣は、この場所に立つ。そこには自分の花木が、父の想いと立っている。
そんな想いに見上げる隣から、英二が微笑んで言ってくれた。
「雪山、っていう名前だったな」
「ん、覚えてくれていたのか」
覚えてくれて、うれしい。
だからこの花木にすら、願ってしまう。
あなたの名前「雪山」を覚えた、愛するこの隣のこと。
あなたの名前の通り、ここが雪山になっても、どうか見守っていてほしい。
そしてどうか、あなたを誕生花に戴く自分の隣へと、ずっと無事に帰して下さい。
氷雪にも愛されるほど豊かに生きる、唯ひとり愛する隣を、必ず帰してください。
想い仰ぐ花に、さっと秋風が吹きよせた。
森から訪れた風に、白い花ひとひら、そっと舞い降りふっていく。
…あ、
真白な花びらが、静かに周太の掌におさまった。
この「雪山」が自分の願いを訊いてくれたのだろうか。
そう想えて、掌を見つめて周太は微笑んだ。
「なんか、嬉しいな、」
「どう嬉しい?」
隣から覗きこんで英二が訊いてくれる。
周太は静かに英二を見、笑いかけた。
「ん。なんかね、迎えてもらう感じだな」
父の殉職から13年、山のことも木のことも、父との記憶と一緒に忘れていた。
だからこうして今、父の記憶と共に歩きだした、今この時に。
父の想い遺る花木が、この隣が生きる山で迎えてくれたこと。
忘れ去っていた自分を、こうして迎えてくれたことが、うれしい。
「ああ、きっとね、この木も周太を待ってたな」
一緒に花を見上げながら、英二が笑いかけてくれる。
こんなふうに、一緒に見上げてくれる隣がいてくれる。
その幸せがまた、なおさらに温かい。
手帳を出すと周太は「雪山」の花びらを静かにはさんだ。
武蔵御嶽神社は立派だった。
拝殿前に立つと、英二が周太に教えてくれた。
「御岳山はさ、ご神体の山なんだ。挨拶して行こう?」
「ん、そういうのは、大事だな」
そう、ほんとうに大事。
だってこの隣が、日々の巡回任務に立つこの御岳山。
この隣の日々を、どうか無事に見守って、いつも無事に帰してほしい。
だから御岳の山よ、願いを聴いて下さい。
この隣はいつも、あなたの懐を歩いています。
そうしていつも、あなたの美しさ豊かさを褒めて、楽しく話してくれます。
だから御岳の山、あなたを語る自由を許すため、この隣を無事に帰して下さい。
この隣が語ってくれる、美しさ豊かさを、自分も一緒に見つめて、あなたを愛するから。
「周太、お参り終わった?」
「ん、ご挨拶できたよ。待たせた?」
「いや、俺もね、ちょうど同じ位だったから」
そんなふうに話しながら、また歩き出した。
長尾平への山道へと入っていく。
さしかかる梢の木洩陽が、午後にかかる切ない色がある。
長尾平からの山並と眺めは、きれいだった。
「ほら周太、あっちに見えるのはね、横浜」
英二の指さす方に、遠く市街地が見える。
横浜まで見えるんだ、周太は驚いて見つめた。
「ん、そこまで見えるんだな」
「御岳山って、結構すごいだろ?」
そう言って笑う英二は、なんだか誇らしげだった。
山ヤの警察官として立つ、この山を愛し始めている。そんな様子が眩しい。
楽しそうな英二の笑顔が、周太には心からうれしい。
「ん、すごいね」
「だろ?」
そこから左斜め下へ伸びる道を下る。
随分と下るんだと思っていると、英二が左腕を見せてくれた。
英二のクライマーウォッチは170mのマイナスを示している。
「もうじきね、着くよ」
そんな言葉と一緒に分岐点を右へ行くと、水音が響き始めた。
「滝がある?」
「うん、七代の滝っていうんだ」
「ななよの滝?」
話す視界、岩場が急に開けて、小柄な滝が姿を現した。
「…あ、」
滝壺の岩場は、苔の蒼緑が清水に瑞々しい。
鎮まる森閑に、滝の水音が滔々と響いていく。
木洩陽が静かにふる滝は、幽玄な静謐をたたえて、山の水飛沫をあげていた。
And I again am strong:
The cataracts blow their trumpets from the steep;
No more shall grief of mine the season wrong;
“そして私には、強い心が蘇った
峻厳な崖ふる滝は、歓びの音と響き
この歓びの季節はもう、私の深い哀しみに痛むことはない
父の遺した「Wordsworth」詩集の一節。
ワーズワースは愛する自然に、想いを詠んだ英詩人。こんな光景を見て彼は、想いを歌ったのだろうか。
自分では詩を詠まないけれど、この詩を今の自分と重ねてしまう。
「驚いたろ、周太?ちょうど岩があるから、隠滝になっているんだ。」
「ん、驚いた…きれいだね」
「だろ、」
きれいな笑顔が、隣に佇んでくれる。その幸せが温かい。
もう独りじゃない、どんな時も、大切な隣がいてくれる。
だからもう、こんなふうに素直に。父の蔵書と自分の想いを、素直に重ねられる。
そして素直に父を認め、想えることが温かい。
「周太、木の根はなるべく踏まずにな。木に悪いから」
「ん、わかった」
頷いた周太に、ふっと英二が微笑んだ。
ちょっと休憩と立ち止まると英二は、長い指を胸ポケットに入れた。
長い指がオレンジ色のパッケージを取出す。
オレンジ色の飴をふたつ取りだして、その一つを周太の口許に運んでくれた。
「はい、周太」
そっと周太の口に長い指で入れると、英二は自分も飴をふくんだ。
オレンジの香がほっとする。おいしいなと思っていると、英二が微笑んだ。
「俺さ、前にもここで、この飴を口に入れた」
「ん、そうなのか?」
見上げて訊くと、すこし寂しげに微笑んで、英二は教えてくれた。
「田中さんをね、捜索した時だよ」
つきんと周太の心が痛んだ。
英二はこの御岳山で、親しい山ヤ仲間だった田中の死を看取った。
「あの時に俺、この場所でさ、心が折れそうになったんだ」
「…ん、」
あの夜の御岳山には、氷雨が降った。
まだ不慣れだった英二は、焦りに足許を崩されて、滑る木の根に足を取られかけた。
微笑んで、きれいな低い声で英二は話し始めた。
「あのとき俺は、経験のない自分がここへ配属された、その重みが苦しかった。
自分の経験不足を突きつけられて、そのせいで救けられないかもしれない。そんな焦りが募った」
ふたり話しながら、ゆっくり歩きだす。
足許を見つめながら、周太は隣の想いに心向けた。
「経験が少ない俺が、山岳救助隊を志願してしまった。その為に生命をひとつ、失わせるかもしれない。
そんな想いがね、心ごと足を竦ませて、俺、動けなくなった。
責任の重みが一挙に胸を迫り上げたよ。悔しくって俺、ほんとうに、あの時、俺は悔しかった」
鉄梯子を登っていく。周太の前を行く背中は、今はもう頼もしい。
でもあの時はまだ、英二は卒配されて3週間足らずだった。
責任感に押し潰される苦しみは、実直な英二は人一倍に強い。
あの夜の電話と田中の通夜の晩に、その苦しみを周太は受けとめた。
けれど英二はあの時に、自責の苦しみと田中の想いを、この背中に背負い生きていく覚悟を抱いた。
そうして背負った想いと苦しみ、その覚悟が、この隣の背中を頼もしくさせている。
「あの時さ俺、焦りが苦しくて胸を押さえたんだ。その掌にね、これ」
鉄梯子を登りきる。
そして山道に並んだ周太に、口許を示し英二は微笑んだ。
「この飴のパッケージがさ、掌に触ったんだ。それで俺、口に一個放りこんだ」
オレンジ色のパッケージ、「はちみつオレンジのど飴」
いつも周太が好んで、口にする飴だった。
卒業式の翌々日。
この奥多摩へ卒業配置された英二と、新宿で周太は待ち合わせた。
待合わせ見上げた英二の頬に、うす赤くうかんだ母親に叩かれた痕が、周太の心を刺した。
そして、いつものベンチで、周太は母の選択を英二に告げた。
そして英二と、ふたり寄り添って生きる選択をして、ずっと隣にいる約束をした。
時間が来た新宿駅のホーム、オレンジ色の電車に英二が乗り込んだ。
やっと想いを重ねたばかり、けれど卒業配置で離れ離れになる。
離れ難くて哀しくて、それでも微笑んで英二を見送ろうとした。
けれど電車の扉が閉じられる瞬間に、英二の腕に掴まれて、周太は車内に浚われた。
けれど立川駅では、別れなくてはいけなかった。
その別れ際、英二の切長い目が、泣きだしそうだった。
少しでも笑ってほしくて、この飴をひと粒、周太は英二の口へ投げて放りこんだ。
指で英二の目許を拭って、残りの飴をパッケージごと、英二に手渡した。
それからずっと、英二はこの飴を自分で買って、胸ポケットに入れている。
「この飴の香と味がね、周太を想いださせた。懐かしい、また会いたい。その想いがね、俺を冷静に引き戻してくれた」
―きのう御岳山で、本当は俺は、心が折れかけた。
けれどその時、周太を想いだした。
また会いたい、だから絶対に無事に帰ろうと思った。
そして気がつかされた、俺はもう、周太を遺しては死ねない―
田中の通夜の夜、英二から告げられた言葉。
あの夜に、周太は初めて河辺駅に降り立った。
田中の葬儀に出席するため、新宿署の先輩とシフト交換して外泊申請して、射撃特練の自主練もキャンセルした。
そして英二と共に、今回も泊ったビジネスホテルで2晩を過ごした。
田中の亡くなった夜。英二の連絡の遅さに、周太は心が壊れかけた。
夕食時に見た天気ニュース、奥多摩にふった氷雨を思って心が凍った。
山で氷雨にうたれ低体温症になったら、遭難死も免れない。
父が殉職した夜を思いだして、不安にうたれて。携帯電話を見つめ、気がついたら泣いていた。
そしてあの夜から自分は、素直に想いを伝えることが、出来るようになっていった。
「周太、」
名前を呼んでくれる隣を、そっと周太は見上げた。
やさしく英二は微笑んで、周太に言ってくれた。
「この飴がね、俺を救けてくれたんだ。この飴をくれた周太の笑顔をさ、想い出して俺は、救われた」
そんなふうに想われて、うれしい。
そうして自分が英二を救えた、そのことが周太はうれしかった。
「俺が、英二を救けられた?」
「うん、そうだよ周太。そんなふうにね、離れていても周太は、いつも俺を救けてくれている」
離れていても、いつも救けられる。
それこそ自分が望むこと。うれしくて周太は、微笑んで訊いた。
「ほんとうに?」
「ほんとだよ、周太。俺のね、一番の救いは周太」
いちばんの。
そんなふうに想われて、自分は本当に幸せだ。
そう、いちばんの救いに。それは心から自分が、いつも願っていることだから。
「…ん、うれしいな。ありがとう、英二。俺もね、同じだから」
「ああ、俺こそだよ、」
笑いあって、ふたり歩いた。
鉄梯子から直ぐに、大きな岩の前に出た。
岩の根には一面に木の根が張りめぐらされている。
「これがね、天狗岩」
言われてみれば、上を向いた天狗のようにも見える。
なんだか不思議な岩だなと眺めていると、英二は岩の根元の一か所に片膝をついた。
ザックをおろし、長い指で日本酒の小さな瓶をとりだす。
その瓶には奥多摩の蔵元の、特撰酒のラベルが貼られている。
…昨夜、国村と飲んでいたのと同じ?
はっと息を呑んで、周太は英二を見つめた。
もしかして、この場所なのだろうか。そっと周太は、英二の隣へと膝まづいた。
膝まづいて見つめた隣が、静かに周太へ微笑んだ。
「ここがね、田中さんが倒れていた場所なんだ」
ここが。
見つめた地面には、ひっそりと青い花が咲いていた。
きっと、この花は、あの写真の花。周太は手帳を出し、あるページを開く。
田中の絶筆になった、一葉の写真がはさまれていた。
「この、りんどうなんだね?」
「ああ、きっとね、そうだな」
御岳の山に、愛し愛されていた山ヤ。
この隣の背中に、美しい生涯を終えた山ヤ。
そうして英二は彼の想いを背負って、頼もしい背中の男へとなっていった。
その背中に自分は救われて、13年前の冷たい報復の呪縛から解かれた。
…ありがとう、
彼への想いが、そっと温もりになって、周太の瞳からこぼれた。
こぼれた想いと涙が、みつめる青い花にふりおちる。
りんどうに想いよせた、その山ヤ。
会った事のない周太にも、孫の秀介の手を通して、花の写真を贈ってくれた。
その想いが周太には、うれしかった。
「…ありがとう、ございます」
ちいさな呟きと一緒に、涙ひとしずく、りんどうに静かに零れた。
きれいな長い指が、そっと周太の頬を拭ってくれる。
そして微笑んで、英二は大きな掌を傾けた。奥多摩の酒が、静かに岩根へ注がれていく。
注がれる酒を、御岳の山は穏やかに呑んでいった。
ロックガーデンに入ると、午後にさしかかる陽射が明るかった。
苔の緑が清々しく、ふくむ水気を秋の日に輝かせる。
さわやかな緑ふくむ澄明な空気が、山懐の気配に鎮まっていた。
「ほんとうは俺ね、ここの早朝が好きなんだ」
「もっと空気が、気持ち良さそうだね?」
「ああ、目が覚めたばかりの山はね、いいよ」
そんなふうに笑いながら、英二は周太の掌をとってくれる。
そうして岩場を越えて、また山道へと立った。
その足許に、ふと周太は目を留めて屈みこんだ。
きれいだな、
きれいな赤い葉を2枚と、艶やかな木の実を2つ拾いあげる。
掌に載せながら見上げると、オオモミジと山栗の梢が周太を見おろした。
たぶんこの木が親木なのだろう、周太はその木の様子を見、記憶した。
「周太、いいものあった?」
英二が隣から、覗きこんでくれる。
興味を持ってもらえるのは嬉しい、微笑んで周太は掌をひらいた。
「オオモミジと、山栗だ」
ひらいた掌を、へえと感心しながら、英二が眺めてくれる。
「周太は良く、知っているな」
「ん、こういうの好きなんだ。父にも教わったし」
周太は手帳を取り出すと、2枚の赤い葉を挟んだ。
それから山栗をペーパーに包むと、ポケットにいれた。
あとで手帳に、親木と、拾った場所のメモをしよう。
考えている隣から、英二が笑いかけてくれた。
「この先のな、滝の傍の木も、きれいだよ」
「また滝があるのか。さっきの滝も、きれいだったな」
そう話すうちに、綾広の滝に着いた。
落差10m、綾広の滝の脇には「祓戸乃大神」と祀られている。
その滝よりも傍の木が、周太の目には映りこんだ。
「桂の木だな、」
「うん、樹齢300年らしい」
あわい黄と薄緑をまとった、桂の巨樹。
のびやかな梢から、淡黄と薄緑の木洩日がふってくる。
そっと桂の幹に掌ふれてみる。かすかな温もりふれる木肌が、やわらかい。周太は微笑んだ。
「やわらかくて、温かいな」
「うん、本当だ」
英二も隣に立って、ふれてくれる。
自分が感じることを一緒に感じて、ふたり感覚を繋ごうとしてくれる。
こういうのは幸せだ。うれしくて周太は微笑んだ。
「…ん、」
周太は軽く目を閉じて、頬を桂の幹によせた。
桂の木肌からふれあがる、温もり、鼓動、生きているという息吹。
桂の息吹の全てが、楽しそうに詠いあげる。
この場所に根を下ろし張り、梢に空を抱き生きる、歓び誇りの歌。
「周太は、木が好きなんだな」
きれいな笑顔で、英二が訊いてくれる。
うれしくて微笑んで、周太は素直に答えた。
「ん、好きだな。でもこういうのは、久しぶりなんだ」
そう、13年ぶりのこと。父の生前はよく、こんなふうに山や公園で過ごした。
けれど父が殉職した後は、こんなふうには過ごさなくなった。
幸福な記憶は、冷たい孤独の底では、ただ痛みだったから。
けれどもう英二が、冷たい孤独の痛みから温もりへと還元してくれた。
そのことが自分には、どれだけ幸せで、うれしいか。
そうして今、あなたを愛していく、唯ひとつの勇気、この心には生まれている。
―周、大切な想いこそね、きちんとその時に言わないと駄目だよ―
温もりに還元された、大切な父の言葉が温かい。
だから今、この想いも、今、このとき伝えておきたい。そっと微笑んで、英二は周太は話した。
「あの山岳訓練の時。滑落した谷底でね、俺、思っていたんだ。山や木のことを、すっかり忘れていたなって」
「うん…、」
そう、あの時まで。自分は13年間、ずっと忘れていた。
ゆっくり廻る山の時間、穏やかに佇む樹木の優しさ。
そんなふうに過ごした山での、なつかしく幸福な父との記憶。
「そのとき思ったんだ。いつかがあるなら、ゆっくり山で過ごしたい。そう思いながら、英二のことを、待っていた」
あの谷底で、くるんでくれた温かな約束。
真実の想い温かな、英二の真摯な約束。
―必ず自分が迎えに行く
その約束の温かさに、13年の哀しい封印が溶かされた。
そうして自分は、なつかしい幸福の記憶へと、素直に肯くことが出来た。
けれど、英二の約束は不可能だと、自分は思っていた。
初心者だった英二には、難しい条件での救助だったから。
それでも温もりがうれしくて、約束の言葉だけでも、幸せだと微笑んだ。
けれど。英二が崖を降りてきた。
信じられないそれでも。英二は周太を背負い登攀して、無事に救った。
そうして英二は笑って、けれど本当は歯を食いしばって、全力で約束を守った。
あの時ほんとうは、うれしくて幸せで、泣きたかった。
そしてあの時ほんとうは、この深い心の想いを、自覚しそうで哀しかった。
だってあの時の自分は、この想いを望んではいけないと、諦めの底にいたから。
父の殉職から廻らされる、自分が抱く冷たい運命。
その運命の冷酷には、誰も巻きこめない。だから自分は孤独に生きていく。
けれど、それでも、ほんとうは。そんな諦めの底ですら、それでも幸せで、うれしくて、そして…好きだった。
「俺もね、」
きれいな低い声が、周太に笑いかけてくれる。
うれしそうに笑って、英二が言ってくれた。
「俺もね、あの訓練の時にな、周太を山へ連れて来たいって、思っていたよ」
あの時に。
諦めの底、それでも温もりに、想いに、ただ自分は微笑んだ。
けれどあの時に?
あの時にもう、そんなふうに、あなたも想ってくれていたの?
ほんとうに?そうならどんなにか、うれしいだろう。そっと周太は英二に訊いた。
「…そうなのか?」
「そうだよ、周太」
やさしく微笑んで頷いて、英二は教えてくれた。
「山の警察官っているのかな?そう訊いたの、覚えてるだろ。
あれはな、周太を背負って山を歩くのがさ、いいなって思っていたからなんだ」
ほんとうに?
嬉しくて微笑んで、気恥ずかしさにも周太は訊いてみた。
「そうなのか?」
「そうだよ、」
うれしい。
だって自分はあの時、自分だけの想いが、哀しくて痛かった。
求められない想い、求められぬ想いの人、求めてはいけない約束。
求めて得られない、そんな願いが哀しくて、苦しくて、泣きたかった。
だから、うれしくて。
あの時にもう全て、想いあっていた、求めあっていた。その真実が幸せで。
あの時に谷底で感じた温もり、その真実は求めあう想いだった。そのことが、うれしい。
「…ん、そう、なんだ」
ほらもう、微笑んでしまう、うれしくて。
こんなふうに打ち明け合って、求めあって、笑いあう。
こういうのは幸せで、その時の想いの哀しいだけ、なおさらに温かい。
「そうだ、周太?」
「ん?」
やさしく笑いながら、英二が訊いてくれる。
「今日の夕飯、なに食いたい?」
訊かれて、答えはそう、決まっている。
いつもの通り、その幸せが欲しいから。微笑んで周太は答えた。
「ん、ラーメン」
「またかよ、」
またかよ。そうやって「また」があるのは嬉しい。
日常的な小さな決まりごと。
当たり前の様だけれど、どのひとつも、周太には嬉しかった。
御嶽駅から青梅線に乗った。
16時前。山の早い夕空が、するり奥多摩に降りてくる。
ひとつのiPod繋いだイヤホン、同じ曲に車窓を見つめた。
「きれいだろ、周太?」
「ん、きれいだね」
車窓いっぱい、山嶺の黄昏がふれてくる。
あわい赤、あわい黄金にと雲、輝いて。
ふじいろ薄雲、うすずみ飛行機雲、それから真白に昇雲。
薄緑やさしい山の端、藍碧きらめく靄、紺青透明な中空、青紫の夜の闇。
そして、ホリゾンブル―輝く、稜線を辿る広い空。
光の色彩が、奥多摩の空に充ちていく。
…ここに、ずっと、隣に、居られたら…いいのに
そっと心つぶやき、ひそやかに。唯ひとつの想いに、こぼれて充ちる。
この隣の近くで、見守り傍近く、ふたり同じ光景に生きられたら。
この愛する隣が立つ、美しい空と豊かな山嶺が愛おしい。
この山嶺が愛する隣を背中ごと、自分を軽やかに背負う程までに育み、愛してくれている。
だからどうぞ願わせて、奥多摩の山嶺たち。
雪山の姿まとっても、変わらず英二を愛してください。
そして迎える美しい、雪輝く冬の姿を見せて、きれいな笑顔を愛しんで。
そうしてどうか必ず無事に、どんな時いつも絶対に、自分の隣へ帰らせて。
初雪が降った、奥多摩は雪に眠る。
雪に眠る美しい奥多摩、その氷雪に廻る冬山の生死。
凍傷、凍死、凍結滑落、埋める雪崩。冷厳な死の罠が、支配していく冬山の掟。
氷雪の硲から、ひそやかに伺う死。
それでも雪山の秀麗に、山ヤは求めて冬山に生きる。
そうした同じ山ヤの求めに、潔く明るく微笑んで、英二は雪山遭難の救助に立つ。
山ヤの誇り、山守る救助の誇り。その誇りに立って、きれいに笑って生きていく。
その姿、きっと、眩しい。
まばゆくて、美しくて、愛しい、その姿。
毎日を無事に顔見て、毎日を傍近く見守れたなら、どんなに幸せなのだろう?
だから願ってしまう、祈ってしまう、「いつか」を信じて。
いつか必ずそんな日が、ふたり訪れるその日まで。その日が訪れたそれからの日々も。
ずっとどうか無事に、この愛する隣を自分の隣へ、きれいな笑顔のままに帰らせて。
「周太、」
「ん、?」
ひとつのiPod繋いだ隣、きれいに笑って告げてくれる。
「‘cause I am counting on A new beginning A reason for living A deeper meaning
I want to stand with you on a mountain Then make you want to cry
The tears of joy for all the pleasure and the certainty こんなふうにね、ずっと周太の隣に、俺はいるよ」
“君への想いはきっと、新しい始まり、生きる理由、より深い意味 そう充たす引き金となる
君と一緒に山の上に立ちたい そして君を泣かせたいんだ 確かな幸福感の、全てに満ちた、嬉しい涙で“
ひとつのiPod繋いだ曲。
穏やか流れるのは、この隣に座ってくれる、愛するひと真実の想い。
「…ん、隣に、帰ってきて」
よせられる想い、うれしくて温かい。
想いが、しあわせにそっと、瞳から涙になって頬伝う。
想いが、しずかな穏やかさにそっと、周太の唇からこぼれた。
「また、一緒に、山へ連れて行って。そうしてまた、幸せにして?」
そう、また一緒に山に。
そう、また、あなたの幸せに、抱きしめて。
「うん。また一緒に山へ行こう、周太。あのブナの木にもさ、また会いに行こう?」
「ん、また行きたい」
いくつでも、何度もほしい「また、」の約束。
ふたりの約束、いくつでも重ねさせて。そうして必ず帰ってきて。
ふたりの約束、いくつも重ねて、全て必ず果たすと言って。そのために、どうか帰ってきて。
「英二、」
「うん?どうした、周太」
名前を呼ぶ。頷いて微笑んで、名前を呼び返してくれる。
呼べた名前がうれしくて、呼ばれる名前がうれしくて。この想いを告げる、勇気がうまれる。
ほら、もう、唇から想い告げられる。
「英二、必ずね、俺の隣に帰ってきて?そうして約束を全部、守って」
真直ぐに見つめる隣、この想いの真中に、いつも佇む愛しい笑顔。
真直ぐに見つめ返してくれる、きれいに笑って答えてくれる。
「うん、絶対の約束だよ、周太。俺は必ず周太の隣に帰る。だから俺だけを待っていて?」
そう、あなた、英二だけ。
自分の隣に帰るのは、この愛するひと、唯ひとり。
「ん、英二。俺の隣は英二だけ。ずっと信じて待っている、だから帰ってきて?」
自分の隣に唯ひとり、帰ってくるひと。
自分が深く心から唯ひとり、信じて望んで求めている。
「ああ。帰るよ周太。だって俺、こんなに周太を愛している」
愛している。
率直に告げてくれる、想いが温かい。
すこし気恥ずかしくて、困ってもしまう。
けれど昨日に初雪が降ってしまった、だから告げるのは、今この時だけ。
愛してる、
「ん、俺もね英二、ほんとうに…愛してる」
想いに素直なままに告げて、きれいに周太は笑った。
(to be continued)
【歌詞引用:savage garden「truly madly deeply」詩文引用:William Wordsworth「Wordsworth詩集」】
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