萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

萬紅、第三夜act.2―side story「陽はまた昇る」

2011-11-16 23:59:55 | 陽はまた昇るside story
月のふる、山ふところで




萬紅、第三夜act.2―side story「陽はまた昇る」

奥多摩交番から河辺までは、代行運転される吉村医師の車に送ってもらえた。
飲む約束だったから、予め吉村は代行手配をしていたらしい。
河辺までの20分程を、3人のんびりと会話して過ごせた。

「お帰りなさい。二人の楽しそうな顔が見られて、良かったです」

そんなふうに吉村は、微笑んでくれた。
吉村の隣で、周太は嬉しそうに、山の植物の話をした。

「落葉松の黄色が、陽に透けると黄金みたいでした」
「そうか、うん。あれは本当にきれいだな」

吉村医師も山ヤのひとりだった。
高校生の頃から、地元奥多摩の山は全て歩いている。
けれど、この15年は山に登っていないと、英二は聴いていた。
医学部5回生だった次男を、吉村が失ったのは15年前だった。

彼は長野の山で遭難死した。その時の彼は偶然、救急用具を忘れていた。
そのことを、医師で父親である自分の不注意だと、今でも吉村は自分を責めている。
息子への想いを抱いて、吉村は大学病院教授の席を捨て、山岳地域の警察医になった。
そして出会った山岳救助隊員の英二に、吉村は息子の姿を見つめている。

「山の夜明けを見ました、豊かな紅色の雲が、きれいでした」
「きれいだったでしょう?雲取山荘の夜明けは、いいものです」

吉村は周太と、楽しそうに山の話をしている。
ほんとうは吉村は、山に登りたい。そんなふうに英二は感じられた。
それでも、息子を山で死なせた罪悪感が、吉村医師を山へ向かわせないでいる。

自分が山ヤだったから、息子を山ヤに育ててしまったから。だから息子は山で死んだ。
そんな悲しい「…だったから」に縛られて、吉村医師は自身の、山への想いを止めている。

大切なひとを失った人間は、その瞬間から時間が止まっている。
そういう人間は、大切なひとの記憶と向き合わなくては、新しい時間へは動けない。
その人にまつわる、自身の罪悪感をすら、肯定して飲みこまないと、心は進めない。
そんなふうに、新しい時間へと動きだせないことは、苦しい。

そのことが、父の記憶と向き合う周太と、寄り添っている英二には解る。
周太を見つめ続ける7ヶ月半の時間のなかで、その苦しみを痛いほどに英二は思い知らされてきた。
だから吉村医師の痛みも、英二には気付けてしまう。

吉村は英二に息子を見つめ、息子へ注ぎたい真心を英二に向けてくれる。
そんなふうに吉村は、母親に拒絶された英二の傷を癒してくれる。
そうして英二が大切にする周太の、父親の殉職に苦しむ想いまでも、穏やかに受け留めてくれた。
そんな吉村医師への感謝と想いを、英二は報いていきたかった。

吉村が息子をみつめるのは自分。
だから自分だけが、吉村を息子の記憶へ向き合わせることが出来るかもしれない。
山で死んだ彼の代りに、吉村をまた山へ登らせて、山ヤとしての笑顔を取り戻せるかもしれない。
山ヤが山へ登れない、その痛み苦しみは今はもう英二にも解る。その苦しみから吉村を救うことが出来たらいい。
そうして新しい時間を動かして、吉村の苦痛を少しでも楽に出来たらいい。

それを自分がすることは、本当はおこがましいのかもしれない。
それでも少しでも、この真摯に生きる山ヤの医師に、英二は心を懸けたかった。
そんな想いで英二は、吉村医師へと笑いかけた。

「吉村先生、俺と約束をしませんか?」
「宮田くんと約束ですか、楽しそうですね」

穏やかに吉村は微笑んでくれる。
はいと頷いて、きれいに笑って英二は言った。

「俺と一緒に、山に登りにいく。その約束をして下さい」

吉村医師の目が、ゆれた。
やっぱり想った通りなのだろう。吉村は、自分自身が山ヤであることから、目を背けている。
自分が山ヤだったから息子を死なせたという罪悪感。
山への想いと、山へ向かうことへの罪悪感。
痛みと苦しみの交錯が、吉村医師の瞳に燻っている。

でも先生、大丈夫。
息子さんはきっと、山で死んだことを後悔なんてしていない。山ヤが山で死んだだけ、それが山ヤの本望なのだから。
遺された人間は悲しい。それでもきっと、愛する山に抱かれて、山ヤだった彼は幸せだった。
だから先生、もう自分を許してほしい。だって先生も彼と同じように、山を愛しているのでしょう?
そんな想いのなかで英二は微笑んだ。

「この奥多摩には、俺がまだ登っていない山がたくさんあります。けれど救助隊員として一度は登りたいと思っています」
「…はい、」

吉村は相槌を打ってくれる、その目はどこか切なげに見えた。
その切なさを受けとめたいと、願いながら英二は続けた。

「でも俺はまだ経験が浅い、初めての山への単独登山は難しいです。
ですから、奥多摩をよくご存知の先生と、一緒に登って勉強させて頂けたら嬉しいです」

「奥多摩の山を、ですか?」

ゆっくりと聴き返す吉村の気持ちが、英二には解る。
奥多摩の山は、吉村が次男を連れて登った山ばかりだった。
奥多摩の山を吉村に登らせることは、次男を山ヤに育てた記憶と、正面から向きあわせることになる。
それを自分が提案して良いのか、ほんとうは英二にも自信は無い。

けれど、吉村医師が息子の姿を見つめているのは、英二だった。
吉村医師は、亡くした息子の代りに、毎日夕方には英二を迎えに出る。
そして吉村医師は、英二に救急用具を与えてくれた。息子に渡したかったものを、そうして英二に与えてくれた。
そんなふうに吉村は、亡くした息子の面影と、息子の生きるはずだった人生を、英二のなかに見つめている。

息子の記憶と息子を山ヤに育てた日々を抱いて、英二と一緒に山を歩く。
そうしてまた英二が、山ヤとして育つ手助けをする。
その手助けが、山岳救助隊員として生きる英二を、山での死から救う事になる。
山で息子は死んだ、けれど山で英二を生かすことで、吉村の心は救えるかもしれない。
そうしたら吉村医師の新しい時間が、動き出すのかもしれない。
そうして心を少しでも軽くしてほしい、そんなふうに想って、英二は微笑んだ。

「先生、俺は一人前の山岳救助隊員になりたいです、だから奥多摩の山を知る必要があります。
奥多摩を俺に教えて下さいませんか?俺が山ヤとして生きるための、手助けを先生にお願いしたいんです」

「私が、君が生きるための、手助けを?」
「はい、山ヤの警察官として山で生きていく、その為の手助けです」

微笑んで吉村は、英二の目を真直ぐに見つめた。

「とても温かい約束ですね。はい、約束をさせてください」

見つめる吉村の目が明るく、そして底の方に涙の気配があった。
きっと大丈夫、想いながら英二は、きれいに笑った。

「また診療室で、登山計画を相談させて下さい」

河辺駅で吉村と別れて、ビジネスホテルに戻った。
先に周太に風呂をすすめると、英二はコーヒーを一杯だけ淹れてみる。
フィルターを通る湯が、香り高く燻らされる。
ゆっくり見つめ、マグカップいっぱいに満たされた時、浴室の扉が開いた。

「お先にごめん、英二」

大好きな瞳が微笑んで、名前を呼んでくれて、うれしい。
うれしさに笑って、英二はマグカップをサイドテーブルに置いた。

「周太、これ飲んでいて?」
「淹れてくれたの英二?ありがとう」

黒目がちの瞳が、うれしそうに笑ってくれる。
ありがとうの言葉に英二は微笑んだ。

「風呂、行ってくるから。のんびりしていて、周太」

髪を拭きながら部屋に戻ると、淹れたてのコーヒーが芳ばしかった。
そのマグカップの前には、恥ずかしげに周太がソファに座りこんでいる。

「周太のコーヒー、うれしいな。ありがとう」
「…ん、」

隣に座って、マグカップに口をつけた。
ほっと香に寛いで、背凭れる。
背凭れたまま隣を見ると、物言いたげに佇んでいた。
どうしたと目で訊くと、そっと周太の唇が開いた。

「さっき、吉村先生、約束うれしそうだった」
「山に行くこと?」

頷いて、黒目がちの瞳が微笑んでくれる。

「英二の笑顔は人を笑顔にできる、すごいな」

そんなふうに思ってくれて、うれしい。
この隣が、自分のことを見つめてくれている。そのことが嬉しかった。
自分も、いつも見つめて想っていることを、伝えたい。
きれいに英二は笑った。

「周太もだよ、」
「俺も?」

すこし首かしげて、周太が訊いてくれる。
その言葉を軽く頷いて受けとめて、英二は言った。

「周太が笑うとさ、俺は一番うれしいから。」
「…いちばん?」

見上げる瞳が、すこし大きくなる。
この顔が英二は好きだった、愛しさに微笑んで、英二は続けた。

「周太の笑顔は、俺を幸せにしてくれているよ。いつもそうだ」
「俺が、英二を…幸せにできているのか」

見上げてくれる、黒目がちの瞳が潤んで充ちる。
自分を幸せにしていると、もっと自信を持ってほしい。
そう思いながら、きれいに笑って英二は告げる。

「そうだよ、周太が一番、俺を幸せにしてくれてるよ。だから、周太が笑ってくれた時、俺は一番いい笑顔になってる」

周太の瞳から、きれいに涙ひとしずく零れおちた。
こんなふうに、素直に涙を見せてくれること。
うれしくて、英二には幸せだった。
そんな想いで見つめる中心で、きれいな明るい笑顔が、周太に拓いた。

「ありがとう、英二。…でも、俺の方こそ、英二が笑ってくれると、本当に幸せなんだ」

笑顔が嬉しくて、告げられる言葉が嬉しくて。
きれいに笑って、英二は名前を呼んだ。

「周太、」

静かに抱き寄せて、唇に唇でふれる。
かすかなコーヒーの香と、吐息が穏やかだった。
微笑んではなれて、黒目がちの瞳を英二は覗きこんだ。

「ずっと一緒に笑って、一緒に生きよう?そうしたらきっと、俺たちは幸せになれるから」

黒目がちの瞳から、温かい涙がこぼれる。
幸せに微笑んで、周太が言ってくれた。

「ん。英二と一緒に、幸せになる」

そんなふうに想いを交わして、並んで座ったまま転寝をした。
ソファに凭れる英二の肩に、やわらかな黒髪がこぼれる。
凭れた周太の温かな重みが、英二には幸せだった。

笑って一緒に生きて幸せになる。
この約束は自分達には、きっと容易いことではない。

父の軌跡を追っていく周太、その歯車はもう回りだしている。きっともう、辿りつく所まで歩き続けるしかない。
その道は、本質が繊細で優しい周太には、辛く苦しい日々になる。
けれど周太には、純粋で潔癖で聡明という強さがある。だから逃げる事を、肯えない。

それでも構わないと、英二は微笑んで肚を決めている。
周太が望むのなら自分は、何をしてでも周太の願いを叶えるだけだから。
周太の父の軌跡を、周太が見つめたいのなら、一緒に自分も見つめればいい。
それにもう自分は信じている。周太の父は、冷たい真実の底にさえ、温かな想いを遺せる男だということ。

13年。父の軌跡の為に人生の全てをかけて、周太は孤独に生きてきた。
そして今は、父の軌跡を追いながらも、周太は自分と生きることを選んだ。
それでも今はまだ「父の殉職」が縛って、周太は自由な自分の人生を、見つめる事が出来ずにいる。
けれどいつか、父の真実と想いの、全てに向き合うことが終わる、そんな暁がくる。
その暁にこそ、周太は「父の殉職」という繋縛から自由になることが出来る。

自分を殺害した犯人にさえ、温かな想いを遺した周太の父。
そんな温かい男なら、どんなに冷たい悲しい場所に立たされても、真実の底に温かな想いを遺している。
自分は周太の父を信じている。だからこそ、周太に父の真実を見つめさせてやりたい。
そうして父の想いに向き合わせて、周太の新しい時間を動き出させたい。
「父の殉職」その繋縛から自由にして、周太の自身の人生を笑って生きさせたい。
周太の本来あるべき人生で、心から幸せな笑顔で充たして、寄り添って生きていきたい。

長い指で、カットソーの布越しに鍵にふれた。
周太の父が遺した合鍵を、丈夫な革紐で結んで首から提げて納めている。
生きて会った事は無い。けれど追い続け出会っていく、周太の父の軌跡はいつも温かい。
見守って下さい―そんな想いで英二は、いつも鍵にふれている。

「…ん、」

そっとこぼれる、隣の吐息が温かい。
安心して掛けてくれている、この隣の重みが穏やかに、肩越しに馴染んでいる。
こんな時間をずっと、繋げて生きていけますように。
そんな想いで微笑んで、温かい腕を伸ばして英二は、眠る隣を抱きしめた。


18時半に、河辺駅前で国村と待ち合わせた。
「寒いから、登山ジャケット持参でね」
そんなメールが来ていたから、英二は2枚の登山ジャケットを携えた。
確かに少し、夜気が冷たい。英二は隣のマフラーを巻き直してやった。

「ほら周太、このほうが温かいだろ?」

あごにふれる長い指に、うれしそうに黒目がちの瞳が微笑んだ。

「ん、巻き方で変わるものなんだな」
「だろ?」

そんなふうに話していると、ミニ四駆が目の前に止まった。

「よお、お待たせ」

窓を開けた運転席から、からっと国村が笑った。
よおと答えて、すこし呆れたように英二は微笑んだ。

「呑みに行くのに車で、いいのかよ?」
「ああ、代行頼んであるからね、」

笑った国村の向こうから、きれいな瞳の笑顔が気恥ずかしげに覗いた。
その笑顔は、英二には見おぼえがあった。英二は笑いかけた。

「美代さん、ですね」

夜間捜索のビバークで、国村が見せてくれた笑顔の写真。
写真よりもずっと、きれいな瞳は明るく笑っている。

「はい、美代です。はじめまして、」

そんなふうに挨拶をしながら、四駆の後部座席に乗り込んだ。
運転席の背中越しに、いつもの口調で国村が声をかけた。

「ちょっとしたさ、ドライブの後に呑むからね」
「おう、任せるけど。どこまで連れて行ってくれるんだ?」

今日の場所は元々、国村の好きなところと決めている。
国村のことだから、面白い場所だろうな。
そう思いながら訊いた英二に、からっと国村が答えた。

「俺んちのね、河原」

それで「寒いから、登山ジャケット持参でね」だったんだな。
納得して、思い至って、英二は笑った。

「河原だったらさ、焚火できるからだろ?」
「そ。察しがいいね、宮田」

そんな会話をしながら、酒屋へと四駆が停まった。
店には食料品も並んでいる。美代が周太に笑いかけてくれた。

「あのね、料理の材料を一緒に見てくれる?」
「ん、いいよ。俺、料理作るの好きなんだ」
「やっぱり。なんかね、そんな感じがしたの」

二人で楽しそうに陳列棚を眺めている。
四駆でも助手席とその後ろから、味噌を作る話で楽しそうだった。
きれいな瞳の美代は、穏やかで素直さが明るい。そんな雰囲気が周太と似ている。
そういう美代とは波長が合うのだろう、初対面なのに周太は笑顔で話している。
こんなことは周太には、珍しい事だった。

そういう人と一人でも多く、周太には出会ってほしい。
そう思いながら眺めていると、からりと国村が笑って言った。

「瞳がきれいで、すぐ赤くなる位に純情で、笑顔が最高にかわいい。
 誰より大切で好きな人。そういう人がさ、俺も好きだって言っただろ」

そんなふうに美代と周太は似ている。国村が言う通りだった。
国村とは好みが同じなんだな。そう思うとなんだか可笑しい。
けれどこういうのは悪くない、笑って英二は答えた。

「うん。そうだな、ちょっと似ているな」
「だろ、」

言いながら、国村は一本の瓶を持つと唇の端をあげた。

「これさ、奢ってくれよ宮田」

奥多摩の酒造が作っている特撰酒の一升瓶だった。
呑んでみたいなと英二も思っていた銘柄、結構いい値段だが無理なものではない。
それに元々今夜は、国村への礼に奢るつもりでいる。

13年前の事件に決着をつけたあの日、15分を間に合わせたのは国村のお蔭だった。
緊急事態だから構わないと笑って国村は、ミニパトカーのスピードメータを振切らせてくれた。
そのお蔭で英二は、周太を捕まえ抱きとめて、悲しい報復を止めるが出来た。

農家で山ヤの国村は、自然への畏敬が絶対的で、人間の決めた枠には執われない。
山のルールに生き、偽らない自分の想いに従う健やかさが、国村の誇らかな自由になっている。
あの時も国村は、自由すぎる運転だった。けれどそれも、英二たちの為に国村が判断した行動だった。
そういう底抜けに明るい優しさが、国村にはある。

そして今も遠慮なく、からり明るく笑って、高い酒を要求してくれる。
そういう態度で、貸し借り無しに対等な友人でいようと、国村は示している。
やっぱり国村は良い奴だ、笑って英二は頷いた。

「ああ、いいよ」
「うん、ありがとな」

けれど酒豪の国村は一本で足りるのだろうか。
そう思っていると、ビール瓶を何本か籠に入れている。
ラベルを英二に見せて、国村は細い目を笑ませた。

「水はさ、奥多摩なんだけどね。醸造は川越なんだよな」
「へえ、でも水がここだと嬉しいな。これも奢ればいい?」
「うん、よろしくね、」

飄々と笑っている国村の顔は、当然だろと言っている。
やっぱりねと英二は可笑しかった。
けれど随分と酒が多い気がする。今夜はだいぶ呑むことになりそうだ。
酔い覚ましのトマトジュースを、英二も籠に入れた。

国村の地所である河原は、静かな谷間にあった。
急峻な山林の麓、清冽な水が月明かりに砕けて光る。
河原の石をならして、国村と英二は焚火をつくった。

「両親とさ、こんなふうに飯、作って食べたんだ」

そう笑いながら国村は、細い目を明るく笑ませて、トラベルナイフを捌いていく。
刃先に岩魚が、きれいに腹を裂かれていく。ついさっき、渓流の仕掛けから揚げたものだった。
勤務前の今朝に仕掛けておいたらしい、その仕掛けは独特の作り方をしてあった。

「俺、釣りとか詳しくないけどさ、作りが変わっているよな?」
「ああ、それね。祖父さんに教わったのをさ、自分で工夫したんだよ」

話しながら国村は、焚火に白い頬を照らせながら、さっさと手を動かしていた。
掃除した魚の肚に、味噌を塗ると器用に枝で串打っていく。
その串もさっき、ナイフで器用に削りだして作っている。
こういうの出来ると便利だな、そう思った英二も、横で倣って手を動かしていた。

「いい匂いの味噌汁だな、」
「でしょ?豆と麦のね、配合率に工夫があるの」

楽しそうに話しながら、美代と周太は焚火に掛けた鍋の様子を見ている。
また味噌の話になったらしい。料理が好きな周太には、興味があるのだろう。

「自分で考えたのか?」
「母から教わったやり方にね、ちょっと手を加えたの。レシピあげようか」
「ん、ほしいな。でも、そんな大切なもの、いいのか?」
「嫌だったらね、自分から言わないでしょ?」

こんなふうに自分から初対面で話せる相手は、周太には中々いない。
美代には静かで温かい、穏やかな包容力があるようだった。
そういう彼女だからこそ、自由な国村と自然に寄り添えるのだろう。

「御岳山はね、月の御岳って言われているの。今夜も月、きれいでしょ」
「ん、半月だけど明るいな。きれいだな」

月を眺める2つの笑顔は、どちらも純粋で、ただ楽しげだった。
顔が似ている訳ではないけれど、双子のような雰囲気が微笑ましい。
寛いだ周太の笑顔が、英二には嬉しかった。

焚火を囲んで座ると、さっそく国村は地ビールの栓を抜いた。
早くしろよと英二にも目で促してくる。
笑って英二も、自分のトラベルナイフで栓を抜いた。

「はい、乾杯、」

ビバークの時と同じ調子で、国村は軽やかに瓶をぶつけた。
あのときと同じように、焚火の熱に冷たいビールが旨い。

「これ飲んだらさ、あの酒を飲もうな」

機嫌良く国村は、さっさと飲み干すと一升瓶の栓を開いた。
コップに注いで英二に渡すと、旨そうに啜って笑う。

「奢られた酒をさ、焚火を見ながら山の冷気と一緒に飲むのは、まじ旨いね」

ほんとうに山も酒も好きなのだろう。
そんな国村は、明るく楽しげで、こちらも嬉しくなる。
英二は笑って言った。

「じゃあさ、今度は俺のも奢ってよ」
「ああ、いいよ。もし俺が奢りたくなったらね」

飄々と笑う国村は、本当に憎めない。
そういう軽やかさが、英二は好きだなと楽しかった。

「光ちゃん、呑み過ぎないでね」
「俺が酒に呑まれたことなんて、あったっけ?」
「うん、見たこと無いけどね」
「だろ、」

帰りの運転をする美代は、ジンジャーエールの瓶を持っている。
たぶん周太は1本ビールを飲んだら、美代と同じ物を飲むだろうな。
そんなことを英二が思っていると、国村が唇の端を上げた。

「あのさ。その登山ジャケット、色違いのお揃いだよな」

あ、指摘されたな。ちょっと英二は可笑しかった。
一昨日から誰にもまだ、気付かれていない事だった。

誕生日を口実に贈った、周太の登山ジャケットを買った時に、見つけたものだった。
周太はホリゾンブルーの淡い地色に、腕に白とボルドーのラインが1本ずつ入っている。
英二の方は、深いボルドーに、白と黒のラインだった。
色のタイプが正反対だから、お揃いとは解り難い。

それでも多分、周太は恥ずかしがるだろうと英二は黙っていた。
どんな反応を周太はしてくれるのかな。思いながら笑って、英二は答えた。

「そうだけど?」

答えた隣で、黒目がちの瞳が大きくなった。
この顔やっぱり可愛いな。思っている英二を見上げて、周太が訊いた。

「…そうだったのか?」
「うん、なんか良いなって思ってさ」

正直に白状した英二を見ながら、周太は困ったような顔をしている。
そんな様子を眺めながら、からりと国村が笑って言った。

「あれ、気付いていなかったんだ?せっかくのペアルックなのにね、勿体無いな。ねえ?」
「…っ、」

ほら、やっぱり、また恥ずかしがる。
明るい夜に透けて、隣の首筋が赤くそまっていく。


21時前に河辺駅で、美代の運転する四駆から降りた。
運転席の窓へと顔をよせて、国村が笑いかける。

「美代、ありがとうな。気をつけて帰れよ」
「うん。光ちゃんもね、仕事とか気をつけて。梅林ちょっと明日、見ておくね」
「いつもすまないな、ありがとう美代、」

そんなふうに話して、国村は美代の額へと、そっと口づけた。
美代は国村を見あげて、幸せそうに微笑んでいる。

「おやすみ、美代」
「おやすみ、光ちゃん。宮田くんと湯原くんも、おやすみなさい」

きれいな瞳で明るく笑って、美代は四駆で御岳へと帰っていった。
ふるような星空の町、四駆が遠ざかっていく。
それを、幸せそうで少し寂しげな、国村の横顔が見送っていた。
いつも国村は飄々と笑っている、こういう国村の顔は見たのは、英二は初めてだった。

ずっと一緒に育って見つめていると、国村は美代のことを話してくれた。
警察学校に入るときが、ふたりの初めて離れる時だった。
そうして今も、青梅警察署の独身寮と御岳の農家へと、ふたりは別れて暮らしている。
四駆ですぐに会える距離。それでも隣同士でずっと一緒だった二人には、遠いのかもしれない。

国村の横顔に、ふたりの優しい絆が見える。
そういう国村が、なんだか英二には嬉しい。そっと微笑んで、英二は国村に訊いた。

「おでこにキスって、ふたりの決まりごと?」

見えなくなった四駆から、視線を英二に向けて国村が笑った。

「うん、もうずっと子供の時からね。いつからか覚えていないな」

そう話す国村の、笑んだ細い目は穏やかで、やさしい想いに充ちていた。
こういう奴と出会えて良かった、英二は微笑んだ。

「そういうのって、良いな」
「だろ、」

言って微笑んで、国村は周太に笑いかけた。

「湯原くんもさ、宮田とそういう決まりごと、たくさん作りなよね」

言われた周太の頬が、赤くなっていく。
また何も言えなくなってしまうかな。
思いながら微笑んだ、英二の視線の先で、周太の唇が開いた。

「…ん。たくさん作るよ」

意外だった。でも嬉しい、英二は嬉しくて微笑んだ。
横で国村が、ちょっと驚いた目を、すぐに優しく笑ませて笑った。

「うん、そういうのってさ、いいよ」

そんなふうに話しながら、またなと国村は青梅署独身寮へと帰っていった。

ビジネスホテルに戻って、風呂を済ませて着替えた。
ソファに並んで落着くと、英二は胸ポケットからオレンジ色のパッケージを出した。

「はい、周太これ」

はちみつオレンジのど飴の、半分減ったパッケージ。
さっきブナの木の下で、最後のひと粒だった飴と同じものだった。
黒目がちの瞳が大きくなって、周太が首をかしげる。

「…もしかして山でもずっと、英二、これ持っていた?」

気付かれたなと英二は微笑んだ。
でもわざと気付かれようとして、今。手渡している。
可笑しくて楽しくて、英二は笑って答えた。

「持っていないなんて俺、一言も言わなかったけど?」

ほら、首筋から頬まで赤らめてしまう。
初々しい反応が、かわいくて嬉しくて、幸せだ。
目の前の顔を見つめながら、ひと粒とりだして、英二は自分の口に入れた。

「周太、」

名前を呼んで、そっと唇をよせた。

やわらかな唇へ、オレンジの香をうつしこむ。
そして静かに離れて、黒目がちの瞳を覗きこんだ。

「ちゃんと返したからな、」
「…っ」

こんなふうに、赤らめた頬が愛しい。
どうしてこんなにも、初々しいのだろう。愛しくて嬉しくて、英二は笑った。
周太の口許が、物言いたげに見える。
話してみてよと目で訊くと、周太は口を開いた。

「あのさ、どうして隠していたんだ?」

ブナの木でのことかな。考えながら英二は、きれいに笑いかけた。

「ブナの木の下での、飴のこと?」

そう、と頷いた首筋が赤くなっている。
訊くのもきっと、恥ずかしかったのだろう。
そしてきっと、自分からした事に途惑っている。
やっぱり、かわいい。きれいに笑って、英二は言った。

「周太からね、俺のことを求めている、って感じたかったから」
「…俺から?」

そうだよと言って、英二は黒目がちの瞳を覗きこんだ。

「深いキスって、求められている感じするだろ?だからね、してほしかったんだ俺」

こんな話をしていいの?
そんなことを思いながら、英二は微笑んで答えた。
隣はすこし俯くようにして、頬に掌をあてている。
どうしたのかなと見つめていると、静かに黒目がちの瞳が見上げた。

「英二、…俺はずっと、英二のことを求めている…もうずっとそう、学校の時から、そうだったんだ」

こんなふうに告げてもらえる、そうは想っていなかった。
けれど告げられるなら、嬉しくて。訊いてみたくて、英二は言った。

「どんなふうに?」

訊いて、英二は隣の瞳を見つめた。
見つめた瞳は、今までと少し違った想いがゆれている。
どこか切なげで、初々しい艶がけぶって、きれいだった。

「…英二の、きれいな笑顔を、…ずっと見ていたいって、想っていた…警察学校の時から、ずっと」

うれしい。
そんなふうに想ってもらっていた、うれしくて英二は微笑んだ。
だってその頃にはまだ、片想いだと自分は想っていた。
けれどそれは片想いではなかったと、告げられて嬉しかった。
きれいに微笑んで、英二は答えた。

「ずっと見ていて、周太。笑顔もね、なにもかも。俺は全部、周太のものだから」
「…俺の?」
「そうだよ、」

腕を伸ばして、隣の小柄な体を抱き寄せて、きれいに英二は笑った。

「言っただろ?周太への想いがね、俺の生きる理由と意味。だから俺は全部、周太のものだよ」

黒目がちの瞳が、微笑んで、気恥ずかしげに唇を開いた。

「ん、…うれしい。俺のものでいて英二。…俺もね、同じだから。だから…」

見つめる瞳が、初めての感情に染まっていく。
信じられない、そんなふうに英二は見つめていた。
だってほんとうは、こんな瞳で見つめてほしいと想っていた。
こんなふうに、自分を求め惹きこもうとする、艶めいた感情の瞳。

ふっと英二は気がついて、微笑んだ。
息をするたびごとに、本当にこの隣は、きれいになって、想いを深めてくれている。
それは自分がずっと、望んできたこと、望むこと。
願いが叶っていく、目の前の黒目がちの瞳に、きれいに英二は笑いかけた。

「周太、求めて?」

黒目がちの瞳から、ひとしずく熱が零れた。
かすかで空気に溶けるような、ちいさい声で、かすかに告げてくれる。

「…抱いて、英二…」

こうして、今の想いを素直に告げてもらえた。
こういうことは、うれしい。
そして叶えてしまいたい。だって本当は、自分の方こそ求めたかったから。

「おいで、」

きれいに英二は笑って、抱きしめたまま、抱き上げた。
そのままそっと運んで、白いシーツへと静かにうずめた。




(to be continued)



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