蓬山城は栃木県佐野市作原町にあります。
蓬山城地図
県道201号線で佐野市作原町のバス停小戸口で二又になります。これを右手に進むと蓬山ログビレッジの施設があります。その施設の西山が城山です。
蓬山ログビレッジから見た城山
この建物の左手の所に山道があります。
縄張り図は「余湖くんのお城のページ」より、ログビレッジから右手の尾根を登ってゆきます。
尾根に着いて西に進んでゆくと、平地があって祠が祭られています。
細尾根を歩き
段曲輪(二の丸への通路)
段曲輪に守られた本丸
唐沢山城の北を守る支城とあります。
本丸を西から見ています。
東の石積の上にある祠から西を見ています。
本丸、西の祠
西の祠付近から東を見ています。本丸の長さは40mほどあります。
本丸東下の堀切
次回 二の丸へ
佐野氏の出自と鎌倉時代
佐野氏は、藤原秀郷の後裔足利七郎有綱の子基綱が、下野国安蘇郡佐野庄に住んで、佐野太郎を称したのに始まるという。寿永三年(1183)、志田義広の乱で、嫡流足利氏が義広に与して没落したのに対し、基綱は小山氏らとともに源頼朝方につき御家人となった。基綱の名は『吾妻鏡』にも佐野太郎基綱とみえている。
承久三年(1222)の「承久の乱」で功をあげ、その功により淡路国で地頭職に任じられた。しかし、宝治元年(1247)の「宝治合戦」で三浦氏に味方したため没落。わずかに本拠地佐野荘の地頭として存続するに至ったようである。その結果として、鎌倉時代における佐野氏の動向は不詳な部分が多い。
鎌倉幕府の滅亡
鎌倉幕府末期になると、北条執権体制にも緩みがみられるようなり、畿内には悪党が蜂起し、奥羽では安東氏の乱などが起ったが、それらに対する幕府の応対はなまぬるいもので、そのことが後醍醐天皇を中心とする討幕計画を進行させたのである。元弘元年(1331)討幕の計がもれた後醍醐天皇は笠置山に逃れて挙兵し、近隣の武士に参陣を呼び掛けた。これに対して幕府は大仏・金沢両氏を大将に命じて二十万の討伐軍を送り笠置山を攻略し、後醍醐天皇を隠岐に流した。このときの幕府軍のなかに「佐野安房弥太郎」の名がみえ、弥太郎は増綱であろうと考えられている。
その後、護良親王が吉野で、楠木正成が河内千早城で挙兵し、反幕の動きは全国的に広まり、天皇は隠岐を脱出して伯耆の船上山に拠ると諸国に討幕の綸旨を発した。幕府は名越高家と足利高氏を大将とする大軍を派遣し局面の打開に努めたが、高氏は丹波篠村で六波羅攻撃を決意し、京都に攻め入り六波羅を潰滅させた。一方、関東では上野の新田義貞が新田庄生品神社で挙兵し、鎌倉に進攻した。新田軍は迎え撃つ幕府軍を退け稲村ケ崎から鎌倉に突入し、激戦の末に北条一族は自刃して果て鎌倉幕府は滅亡した。このとき、佐野氏は新田氏に加わっていたものと考えられている。
かくして後醍醐天皇による「建武の新政」が発足したが、新政の時代錯誤な政策は武士たちから失望を受け、さらに尊氏と後醍醐天皇の対立が起るなどして崩壊し、時代は南北朝の内乱へと移行していった。この激動の時代における佐野氏の動向は必ずしも明確ではないが、佐野義綱の軍忠状案と佐野安房一王丸の軍忠状が伝えられている。これは安房一王丸が父義綱の戦功を挙げて忠節に対する恩賞を願ったもので、この軍忠状から佐野氏は尊氏方の斯波氏に属していたことが知られる。 武家家伝より
蓬山城地図
県道201号線で佐野市作原町のバス停小戸口で二又になります。これを右手に進むと蓬山ログビレッジの施設があります。その施設の西山が城山です。
蓬山ログビレッジから見た城山
この建物の左手の所に山道があります。
縄張り図は「余湖くんのお城のページ」より、ログビレッジから右手の尾根を登ってゆきます。
尾根に着いて西に進んでゆくと、平地があって祠が祭られています。
細尾根を歩き
段曲輪(二の丸への通路)
段曲輪に守られた本丸
唐沢山城の北を守る支城とあります。
本丸を西から見ています。
東の石積の上にある祠から西を見ています。
本丸、西の祠
西の祠付近から東を見ています。本丸の長さは40mほどあります。
本丸東下の堀切
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佐野氏の出自と鎌倉時代
佐野氏は、藤原秀郷の後裔足利七郎有綱の子基綱が、下野国安蘇郡佐野庄に住んで、佐野太郎を称したのに始まるという。寿永三年(1183)、志田義広の乱で、嫡流足利氏が義広に与して没落したのに対し、基綱は小山氏らとともに源頼朝方につき御家人となった。基綱の名は『吾妻鏡』にも佐野太郎基綱とみえている。
承久三年(1222)の「承久の乱」で功をあげ、その功により淡路国で地頭職に任じられた。しかし、宝治元年(1247)の「宝治合戦」で三浦氏に味方したため没落。わずかに本拠地佐野荘の地頭として存続するに至ったようである。その結果として、鎌倉時代における佐野氏の動向は不詳な部分が多い。
鎌倉幕府の滅亡
鎌倉幕府末期になると、北条執権体制にも緩みがみられるようなり、畿内には悪党が蜂起し、奥羽では安東氏の乱などが起ったが、それらに対する幕府の応対はなまぬるいもので、そのことが後醍醐天皇を中心とする討幕計画を進行させたのである。元弘元年(1331)討幕の計がもれた後醍醐天皇は笠置山に逃れて挙兵し、近隣の武士に参陣を呼び掛けた。これに対して幕府は大仏・金沢両氏を大将に命じて二十万の討伐軍を送り笠置山を攻略し、後醍醐天皇を隠岐に流した。このときの幕府軍のなかに「佐野安房弥太郎」の名がみえ、弥太郎は増綱であろうと考えられている。
その後、護良親王が吉野で、楠木正成が河内千早城で挙兵し、反幕の動きは全国的に広まり、天皇は隠岐を脱出して伯耆の船上山に拠ると諸国に討幕の綸旨を発した。幕府は名越高家と足利高氏を大将とする大軍を派遣し局面の打開に努めたが、高氏は丹波篠村で六波羅攻撃を決意し、京都に攻め入り六波羅を潰滅させた。一方、関東では上野の新田義貞が新田庄生品神社で挙兵し、鎌倉に進攻した。新田軍は迎え撃つ幕府軍を退け稲村ケ崎から鎌倉に突入し、激戦の末に北条一族は自刃して果て鎌倉幕府は滅亡した。このとき、佐野氏は新田氏に加わっていたものと考えられている。
かくして後醍醐天皇による「建武の新政」が発足したが、新政の時代錯誤な政策は武士たちから失望を受け、さらに尊氏と後醍醐天皇の対立が起るなどして崩壊し、時代は南北朝の内乱へと移行していった。この激動の時代における佐野氏の動向は必ずしも明確ではないが、佐野義綱の軍忠状案と佐野安房一王丸の軍忠状が伝えられている。これは安房一王丸が父義綱の戦功を挙げて忠節に対する恩賞を願ったもので、この軍忠状から佐野氏は尊氏方の斯波氏に属していたことが知られる。 武家家伝より