松平大和守の菩提寺は群馬県前橋市朝日町にある考顕寺です。
考顕寺地図
考顕寺
松平直克について
生い立ち
天保11年(1840年)2月26日、筑後久留米藩の第9代藩主・有馬頼徳の十三男として[1][2](数え方により、五男とも記される[3])江戸で生まれる。頼徳には多くの男子があったが、成長したのは頼永(四男)、亀井茲監(六男、有馬頼功)、孝五郎(七男、頼咸)および富之丞(有馬頼敦→松平直克)の4人のみであった。富之丞は幼少より俊敏利発で[1]、また末弟であったことからも、第10代藩主となった長兄・頼永に鍾愛されたという[1]。
川越松平家相続と幕政への参与[編集]
文久元年(1861年)12月6日、川越藩の第6代藩主・松平直侯の婿養子となり、家督を継いだ。文久2年(1862年)12月15日に従四位下・侍従・大和守に叙位・任官する。
文久3年(1863年)10月11日、前任の松平春嶽の辞職以降空席となっていた政事総裁職に就任、親藩大名ながら幕政に参画する。文久4年(1864年)1月には、将軍・徳川家茂と共に上京し、朝廷及び参預会議との折衝にあたった。その後は孝明天皇の意向に沿い、禁裏御守衛総督の一橋慶喜とともに横浜港の鎖港を推進、同港鎖港を名目に挙兵した天狗党の乱の鎮圧にも反対したことから、他の幕閣と激しく対立した。元治元年(1864年)6月、政争は両派共倒れの形となり、直克は政事総裁職を罷免され、以後は幕政から退いた。
前橋への復帰と明治維新[編集]
直基系越前松平家は18世紀半ばの松平朝矩の代までは前橋城を本拠としていたが、度重なる利根川による浸食被害を受けて崩壊の危機に晒された前橋城を放棄し、幕府の許可を得て武蔵川越城に本拠を移転(川越藩)、前橋は分領として派遣の代官支配とした。前橋城は明和6年(1769年)に廃城・破却されていたが、旧来の藩都である前橋領では前橋城再建と藩主の前橋復帰の要望が強かった。天保年間に郡代奉行の安井政章(安井与左衛門)の指揮の下で利根川の改修が進められたことに加え、横浜開港後に前橋領の生糸の外国輸出によって財を成した前橋商人の間に、前橋城再建・藩主「帰城」のため藩に献金する経済力と気運が高まった[5]。直克は文久3年(1863年)、幕府に願い出て前橋城の再築城を開始(工事の開始は5月であるが[6]、幕府から正式な許可が下りたのは年末である)。慶応3年(1867年)3月、直克は前橋に本拠を移し、再び前橋藩となった。
慶応4年(1868年)3月、新政府に帰順して上野全土の鎮撫を務め、続いて会津藩と戦った。明治2年(1869年)6月、版籍奉還により前橋藩知事に任じられるが、8月17日に、長男・恒之丞(後の直之)が幼少であったため、家督を養子の直方に譲って隠居した。明治30年(1897年)1月に正三位に叙位されるが、1月25日に死去した。享年58。 ウィキペディアより
考顕寺地図
考顕寺
松平直克について
生い立ち
天保11年(1840年)2月26日、筑後久留米藩の第9代藩主・有馬頼徳の十三男として[1][2](数え方により、五男とも記される[3])江戸で生まれる。頼徳には多くの男子があったが、成長したのは頼永(四男)、亀井茲監(六男、有馬頼功)、孝五郎(七男、頼咸)および富之丞(有馬頼敦→松平直克)の4人のみであった。富之丞は幼少より俊敏利発で[1]、また末弟であったことからも、第10代藩主となった長兄・頼永に鍾愛されたという[1]。
川越松平家相続と幕政への参与[編集]
文久元年(1861年)12月6日、川越藩の第6代藩主・松平直侯の婿養子となり、家督を継いだ。文久2年(1862年)12月15日に従四位下・侍従・大和守に叙位・任官する。
文久3年(1863年)10月11日、前任の松平春嶽の辞職以降空席となっていた政事総裁職に就任、親藩大名ながら幕政に参画する。文久4年(1864年)1月には、将軍・徳川家茂と共に上京し、朝廷及び参預会議との折衝にあたった。その後は孝明天皇の意向に沿い、禁裏御守衛総督の一橋慶喜とともに横浜港の鎖港を推進、同港鎖港を名目に挙兵した天狗党の乱の鎮圧にも反対したことから、他の幕閣と激しく対立した。元治元年(1864年)6月、政争は両派共倒れの形となり、直克は政事総裁職を罷免され、以後は幕政から退いた。
前橋への復帰と明治維新[編集]
直基系越前松平家は18世紀半ばの松平朝矩の代までは前橋城を本拠としていたが、度重なる利根川による浸食被害を受けて崩壊の危機に晒された前橋城を放棄し、幕府の許可を得て武蔵川越城に本拠を移転(川越藩)、前橋は分領として派遣の代官支配とした。前橋城は明和6年(1769年)に廃城・破却されていたが、旧来の藩都である前橋領では前橋城再建と藩主の前橋復帰の要望が強かった。天保年間に郡代奉行の安井政章(安井与左衛門)の指揮の下で利根川の改修が進められたことに加え、横浜開港後に前橋領の生糸の外国輸出によって財を成した前橋商人の間に、前橋城再建・藩主「帰城」のため藩に献金する経済力と気運が高まった[5]。直克は文久3年(1863年)、幕府に願い出て前橋城の再築城を開始(工事の開始は5月であるが[6]、幕府から正式な許可が下りたのは年末である)。慶応3年(1867年)3月、直克は前橋に本拠を移し、再び前橋藩となった。
慶応4年(1868年)3月、新政府に帰順して上野全土の鎮撫を務め、続いて会津藩と戦った。明治2年(1869年)6月、版籍奉還により前橋藩知事に任じられるが、8月17日に、長男・恒之丞(後の直之)が幼少であったため、家督を養子の直方に譲って隠居した。明治30年(1897年)1月に正三位に叙位されるが、1月25日に死去した。享年58。 ウィキペディアより