山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

新潟、山梨、長野、群馬、栃木、埼玉県などの埋もれた城跡を探索しております。カテゴリ「城郭一覧」で簡単にアクセス。
 

安土城④

2017-12-04 19:12:07 | 滋賀県の山城
二の丸から本丸へ


この本丸大手階段を登って左手に

二の丸

二の丸西奥、階段を登ると

信長霊廟

二の丸を見渡し

登ってきた本丸大手の階段から見下ろしています。

大手本丸階段を右手に進み

天守閣東城壁に沿って北に本丸が展開します。

本丸



こんな立派な建物が建てられており、信長が居住したと書かれております。

本丸から西階段を登ると

さらにもう一段、階段を登れば天守閣跡ですが次回とします。

織田信澄(津田信澄)の生涯の続き
同年4月4日、織田家当主・信忠に付き従い、石山本願寺攻めに参陣[20]。8月15日の安土城における相撲興行では堀秀政、蒲生氏郷、青地与右衛門らと共に奉行を務めた[21]。9月に信長が津田宗及宅を訪問した際にはこれに供奉した[22]。それから10月から翌年11月までは、荒木村重討伐に従軍し[23]、開城した摂津伊丹城には信澄が置かれて、村重の正室ら一族37名を捕えて京都に護送する役目を負った[24]。また、この頃(または天正2年[25])に信長は明智光秀の娘と信澄とを結婚させている[26]。
天正7年(1579年)5月27日の安土宗論の時には警護役の1人だった[16]。天正8年(1582年)8月の石山本願寺からの一向宗の退城の際に大坂に下向して、検使・矢部家定を警固した。以後、大坂に常駐し、耶蘇会宣教師は信澄を「大坂の司令官」と称している[16]。
天正9年(1581年)正月15日の左義長、2月27日の京都御馬揃えに参加。連枝衆の参加者で信澄は5番目に名前が挙がっており、10騎を率いて行進した。これは叔父信包と従弟信孝と同格の扱いである。4月、和泉国の検地に逆らった槇尾寺の僧侶800名を信長の命令で皆殺にした後、5月10日、信澄・堀秀政・蜂屋頼隆・丹羽長秀・松井友閑で伽藍の部材を検分して仕えそうな部材は没収し、その他の堂塔・僧坊を焼き払った[17]。また6月、信澄は高島郡の国衆多胡左近衛門を御内衆として召し抱えているから、高島郡の一職支配権を委ねられていたと考えられる[16]。信澄は9月の伊賀攻めに従弟・北畠信意(織田信雄)の指揮下で従軍[16]。鎮圧された後の10月、信長・信忠が伊賀国を検分した際にも同行した[27]。恐らくこの時、信澄は信長に大和国の拝領を直訴したが、信長に「大和国は神国である」と諌められ、拒否されたと伝わる[28][30]。
天正10年(1582年)、甲州攻めでは信忠の指揮下に入らず、信澄らは信長に従って後から出張し[16]、3月19日に上諏訪の法花寺に陣を構えた部将の中に名が見える。土佐国の長宗我部元親と信長の関係が決裂して、5月7日に従弟の神戸信孝を総大将する四国遠征軍が編成されると、丹羽長秀、蜂屋頼隆、信澄の3名が副将として付けられ[31]、11日、信澄は住吉で四国に渡海する準備に入った[16]。また、21日に安土の信長は、京都から堺に向かうという徳川家康の大坂での接待役を丹羽長秀と信澄に命じている[17]。
6月2日、舅の光秀が京都の本能寺、妙覚寺にいた信長、信忠を襲撃した本能寺の変が起こった。四国遠征軍は翌3日が淡路渡海の予定であったが、急遽中止される。信澄が光秀の娘婿であった事が災いし、市中には謀反は信澄と光秀の共謀であるという事実とは異なる噂が流れており[34]、疑心暗鬼に囚われた信孝と長秀は、5日、信澄を襲撃して大坂城千貫櫓を攻撃した。信澄は防戦したが、丹羽家家臣・上田重安によって討ち取られた。謀反人の汚名を着せられたまま、信孝の命令で、堺の町外れに梟首とされた[16][35]。享年は25[16]とも28[1][4]とも言う。ウィキペディアより