山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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和合城

2018-12-20 21:45:35 | 山城ー信州
和合城は長野県上田市下塩尻にあります。

和合城地図

アクセスは国道18号線で戸倉方面に向かい、信号ねずみを右折し、山裾に向かいねずみ団地方面に走ると
墓地の間を登り、右手の山の頂部に和合城があります。

虚空蔵山から太郎山まで5時間

尾根に着いて西に進むと大堀切

四の曲輪・三の曲輪・二の曲輪・本丸と階段状に並んでいます。

二の丸にある縄張り図

三の曲輪

二の曲輪

北方、尾根中央くらいに葛尾城(村上氏本城)

虚空蔵山から太郎山までの村上氏の支城群

和合城は葛尾城の支城であった。
概要(葛尾城)
戦国時代、北信で最大の勢力を誇った村上氏の居城であった。近辺に氏族の支城や砦の跡がいくつもある。
天文年間、小県郡の村上義清は甲斐国の武田晴信(信玄)が開始した信濃侵攻に対抗し、上田原の戦いと砥石崩れと2度もの南面からの武田軍の攻撃を破った。しかし、天文22年(1553年)葛尾城は村上氏の背部を支える北に位置する支族の屋代氏や雨宮氏、塩崎氏らが武田方の真田幸隆らの調略により離反し、背後の戸倉方面からの攻撃を受けることによって自落した。義清は、それまで仇敵の間柄であった高梨氏の仲介を得て越後国の長尾景虎(上杉謙信)を頼って落ち延びた。これが12年にわたり5度に及ぶ川中島の戦いのきっかけになった。


上田原の戦い
合戦
天文17年2月1日(1548年3月10日)、晴信は5000人の兵力を率い北信濃に向けて進軍を開始した。武田軍は上原城で板垣信方の率いる諏訪衆や郡内衆と合流し、大門峠を越えて小県郡南部に侵攻。
一方、村上義清は天白山の居城葛尾城と北東部の戸石城を拠点に陣を敷く。さらに岩鼻まで南下して上田平に展開し、産川(千曲川支流)を挟んで武田方と対陣。2月14日(3月23日)に両軍は合戦となった。
上田原合戦の概況を伝える史料に『勝山記』(『妙法寺記』)がある。『勝山記』によれば、この合戦で武田軍は小山田信有の郡内衆が奮戦したものの板垣信方、甘利虎泰、才間河内守、初鹿伝右衛門が討ち死にし敗北したという[1]。
合戦の具体的な経過について書き記した同時代の史料はないが、江戸時代に書かれた軍記物『甲陽軍鑑』などによると、武田軍は8000余、村上軍は5000余(または7000余)で、武田軍は先陣を願い出た真田幸綱を退け、板垣信方を先陣に栗原左衛門尉・飯富兵部少輔・上原昌辰(小山田虎満)・小山田信有・武田典厩信繁らが村上方に攻撃をしかけた[2]。先陣の板垣勢は村上勢を撃破して敵陣深く突進するが、勝ちに奢った信方は敵前で首実検を始めた。
板垣信方の油断をついた村上勢は反撃に出て、不意を突かれた板垣勢は混乱状態に陥り、信方は馬に乗ろうとしたところを敵兵に槍で突かれて討ち取られた[2]。これにより板垣衆は崩れ、村上勢は勢いに乗って猛攻をしかけ、先陣が敗れたことで後続の武田軍は突き崩される[2]。
『甲陽軍鑑』では上田原合戦における戦死者は武田軍は700人(または1200人)、村上軍は300人(または1700人)としているが、その根拠は不明[2]。ウィキペディアより







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