山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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祢津下の城③

2018-12-19 20:49:53 | 山城ー信州
東斜面から曲輪4そして池


三の丸の東腰曲輪から

東側武者走り

東武者走りから本丸と二の丸との堀切を見上げています。

曲輪3の北側に横堀

小曲輪で受けて

曲輪4

曲輪3の城壁を見返しています。

曲輪4の先に宮坂氏の縄張り図では池とされています。

曲輪4の西側には土塁

土塁の西に二重竪堀

二重竪堀は西側斜面を下っています。

今度は東の竪堀を見上げています。

東の竪堀も二重堀となって東から南まで200mほども下っています。

二重堀の内側には石垣で囲んだ根小屋?畑?が所々に見られます。

次回 和合城(上田市と坂城町との境界にあります)

祢津氏③

戦国期
戦国時代には、天文10年(1541年)5月には甲斐国の武田信虎が村上義清・諏訪頼重と共同で滋野三家の小県郡海野平へ侵攻した(海野平の戦い)
滋野一族のうち、海野棟綱は嫡男海野幸義が討死し、真田幸綱(幸隆)、根津政直らと上野国に逃亡したが、根津元直は諏訪猶子であり神氏を理由に許され、本領安堵(ほんりょうあんど)された。
『高白斎記』によれば、根津氏の当主・根津元直は天文11年(1543年)に武田氏に臣従し、同年12月15日には元直の娘・禰津御寮人(根津元直次男、根津政直の妹)が晴信に嫁いでいる。晴信と禰津御料人の間には武田信清が誕生している。
ちなみに政直の正室は、武田信虎の娘であることから、武田氏と根津氏は重縁関係で結ばれていたことが判明していることや、妻の父である武田信虎は、根津政直の信州高遠知行地内で根津政直の庇護の下終焉(しゅうえん)まで暮らしたことから、両家が非常に密接な関係を結んでいたことがうかがえる。
元直の嫡男・勝直は早世しており、三男の信忠は真田幸綱の妹と婚姻を結んだものの、病弱のため、潜竜斎と号して出家し、真田昌幸に招かれ岩櫃城下の根津屋敷(通称:志摩小屋)に入ったため、家督は元直死後は次男の根津政直(以降松鴎軒常安)が継いだ。
松鴎軒常安は、以降上野国方面の武田氏の勢力の拡大に真田氏とともに貢献している。
永禄10年(1567年)8月には武田家臣団が生島足島神社に起請文を提出しており、根津氏では松鴎軒常安が単独で起請文を提出し、他に根津被官として小田中氏、桜井氏、別府氏、岡氏ら被官の連名起請文が存在している[1]。
天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いにおいて武田軍は織田・徳川連合軍に敗退し、松鴎軒常安の嫡男・根津月直も原隼人正配下として奮戦するものの討死した。
現在も長篠古戦場には根津月直と根津家被官の須藤豊後守、土屋助丞などの墓石が、同族真田信綱、昌輝一族などと共に並んで弔われている。
なお、松鴎軒常安自身は天正10年(1582年)3月の織田・徳川連合軍による甲州征伐の際は信濃国北部の飯山城に飯山城代として居り、上杉景勝への援軍要請に当たったため、難を逃れている。
分家による上野豊岡藩立藩と断絶[編集]
武田家滅亡後の天正11年(1583年)、松鴎軒常安は甥の根津昌綱と行動を別にして、本家を昌綱に継がせ自身は徳川家康に臣従した。
松鴎軒常安は徳川家家臣になると「禰津」から「根津」に名字を変えている。
その後は甲斐国黒沢や駿河国厚原などに350貫の所領を得るが、家康の関東移封後、上野国豊岡に5000石の所領を得た。
松鴎軒常安の家督は実弟潜竜斎の子・根津昌綱(根津信光)が継ぎ、上野国豊岡は松鴎軒常安のもう一人の甥・根津信政が継いでいる。
信政は1602年に5000石の加増を受け、1万石の譜代大名として上野豊岡藩を立藩した。
古来より大族であり平安初期より続く滋野三家の中で、大名として残ったのは唯一根津氏のみであった。
その後初代藩主根津信政の嫡男・根津政次には男子が無かったため、信政次男更級庄内の根津吉直がその跡を継いだ。
しかし1626年にその吉直も若くして死去。3代で無嗣断絶となり、連なる一族は幕臣として鷹匠元締めとなったと伝わっている。


祢津氏は徳川時代に高崎市豊岡に所領を得たとは初めて知りました。私にとって
身近なところにいたとは驚きです。






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