山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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楽厳寺西城②

2017-05-17 19:48:16 | 山城ー信州
「戦国武田の城」中田正光氏の楽厳寺城の縄張り図をみると多くの未踏査の尾根があり、これを攻略してきました。多くのサイトでの楽厳寺城の紹介は薫風山荘の東にある曲輪のみとなっており、再登城してもらいたいものです。

武田氏が甲斐を統一させ、信州への侵攻、上州、三河への侵攻と兵を進めたルートに合わせて山城を紹介しています。

楽厳寺城から北尾根の遺構と薫風山荘の北尾根の遺構

布引観音(釈尊寺)の西尾根の遺構と西の堀之内城

薫風山荘の北尾根の遺構を歩いています。(便宜的に楽厳寺城から西にあるので楽厳寺西城とします。)

第二曲輪を土塁から見下ろしています。

第二曲輪を北から見ています。

第二曲輪から細尾根となり第一堀切
尾根が下って広くなり第三曲輪

第三曲輪を西から見ています。

尾根は再び登り

腰曲輪を配していて

薫風山荘北尾根の本丸

次回 楽厳寺城の北尾根遺構

楽厳寺雅方について
『甲陽軍鑑』によれば、天文17年(1548年)2月14日に甲斐武田氏と信濃小県郡の村上義清との間で行われた上田原の戦いで村上方の先鋒を務めたという[3]。『甲陽軍鑑』によれば、天文23年(1554年)に越後国・長尾氏(上杉氏)への内通嫌疑により飯富昌景(山県昌景)により成敗されたとされるが、これは誤りであることが指摘される[4]・その後、武田氏に従属し、弘治4年(1558年)3月7日に望月信雅が釈尊寺(長野県小諸市)を再興した際の棟札に「宗栄楽厳寺」の名が見られる[5]。
永禄10年(1567年)8月7日には武田氏に対する忠節を誓う下之郷起請文を生島足島神社に奉納し、雅方は譜代家老・金丸昌続(土屋昌続)に起請文を提出している[ ウィキペディアより


">「甲越信戦録」という江戸時代後期に書かれた古書に「額岩寺駿河守光氏讒言にあう」との項にやはり上杉氏に内通したとして自刃していると書かれています。果たして事実は


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