本丸から西尾根にある出丸へ、実は今回の山城報告での目玉はこの西尾根遺構です。かつて二度ほど登城しましたが、その都度ひどい薮で西尾根は全く遺構の姿が分かりませんでした。しかし今回、薮が一切払われ、現れた遺構はとても素晴らしく感激しました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/ea/e398901b42a214727928254058a69058.jpg)
本丸西下曲輪
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/8a/65615326d2f44224eb82dc2328441681.jpg)
西尾根第一堀切
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/64/d34ef084a66446ff6a2be98a99e5135c.jpg)
西下曲輪を見返しています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/06/273d56af666db7fc521848054acc90d7.jpg)
西尾根第一堀切を見返しています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/3c/2a5355c8adc0ad8cc4fbe2a1f4f2b4c7.jpg)
西尾根第一曲輪と第二堀切
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/9d/dce7d5382d4c4914dade9eb074edb9f7.jpg)
第一曲輪から本丸西城壁を見返しています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/3e/4c3b62d04dd8ce92a3d15e9a90d90507.jpg)
西尾根第三堀切
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/66/276518d211fc13b22039de1832192979.jpg)
第三堀切を越えて、尾根を振り返って見ています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/b7/66a210cdad5fb031b33141147b856d48.jpg)
西尾根第二曲輪(曲輪4)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/fe/0822a80786cc02d7f786024f21bff65c.jpg)
第二曲輪の西側![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/04/95/a8c1d04a9fad73dad688861bf27bc5c4.jpg)
第二曲輪の西に素晴らしい土橋と虎口
西尾根遺構はまだ続きます。
小幡信貞
父は上野小幡氏の小幡憲重(重貞、重定)。(ただし、重貞と名乗ったのは信貞とも、信真や信定は信貞の子の名ともいわれ、はっきりしない)。尾張守、上総介を称す。上野国峯城城主。『甲陽軍鑑』によれば憲重と併せて500騎持ちで、これは武田家中でも最大である。
小幡氏は元々上野の国人であった。上杉憲政を関東管領に擁立に貢献するなど、長野氏と並ぶ有力な存在であったが、後に憲政と対立すると離反して武田晴信(信玄)仕え、後北条氏の上野進出後も両属の関係を続けた。天文22年(1553年)、憲重は息子を連れて信濃国塩田城にいた武田晴信に出仕し、間もなく息子は元服して「信」の字を与えられ「信真」と称した[1]。
信貞も父と共に信玄に仕えて、上野攻略戦を始め、三増峠の戦いや三方ヶ原の戦い等の主要な合戦に参加して武功を挙げている。
なお信貞の小幡氏は、小畠虎盛(小幡)・昌盛・景憲などの甲州小幡氏とは別系統である(甲州小幡氏は武田信玄の命で改姓して「小幡」姓となった)。
1575年、長篠の戦いで父が戦死したため、家督を継いだとされる異説もある。『甲陽軍鑑』中に「信用できない木曾義昌の代わりに(織田領との国境である)木曾に小幡を入れたらどうか」という意の記述があり、『甲陽軍鑑』の信憑性はともかくとして、準譜代的な扱いを受けていた様である。
天正10年(1582年)武田氏が織田信長によって滅ぼされると、家老・森平策之進の献言を容れて、信長軍に降伏。滝川一益の与力として配属させられた。しかし、同年に信長が本能寺の変で横死、それを受け北条氏直が滝川一益を神流川の戦いで破り織田氏の勢力を上野から駆逐したため、信貞は氏直に降伏して北条氏の家臣となった。実子はなく、1585年に養嗣子(弟・信高の子)に家督を譲って隠居身分となる。
1590年の小田原征伐では小田原城に籠城したが、北条氏が敗北すると、真田幸綱の流浪時代から武田氏時代を通じて親交の深かった真田氏(当時の当主は昌幸で勝頼時代は上野方面攻略の責任者)を頼り、そこで余生を送った。1592年に死去。享年52。
ブログの氏族の追跡 小幡氏⑥で「七月五日には北条氏も秀吉に下った。十三日秀吉は小田原城へ入城している。小田原に加勢に行った信貞は十月十八日に死んだ。(諸説あり、根羽砦の記事に別所温泉にある安楽寺に小幡信貞の墓があり、小田原城の落城の後、上田の真田氏を頼って逃れ、真田氏ゆかりの安楽寺にて余生を送ったようです。」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/ea/e398901b42a214727928254058a69058.jpg)
本丸西下曲輪
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/8a/65615326d2f44224eb82dc2328441681.jpg)
西尾根第一堀切
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/64/d34ef084a66446ff6a2be98a99e5135c.jpg)
西下曲輪を見返しています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/06/273d56af666db7fc521848054acc90d7.jpg)
西尾根第一堀切を見返しています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/3c/2a5355c8adc0ad8cc4fbe2a1f4f2b4c7.jpg)
西尾根第一曲輪と第二堀切
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/9d/dce7d5382d4c4914dade9eb074edb9f7.jpg)
第一曲輪から本丸西城壁を見返しています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/3e/4c3b62d04dd8ce92a3d15e9a90d90507.jpg)
西尾根第三堀切
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/66/276518d211fc13b22039de1832192979.jpg)
第三堀切を越えて、尾根を振り返って見ています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/b7/66a210cdad5fb031b33141147b856d48.jpg)
西尾根第二曲輪(曲輪4)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/fe/0822a80786cc02d7f786024f21bff65c.jpg)
第二曲輪の西側
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第二曲輪の西に素晴らしい土橋と虎口
西尾根遺構はまだ続きます。
小幡信貞
父は上野小幡氏の小幡憲重(重貞、重定)。(ただし、重貞と名乗ったのは信貞とも、信真や信定は信貞の子の名ともいわれ、はっきりしない)。尾張守、上総介を称す。上野国峯城城主。『甲陽軍鑑』によれば憲重と併せて500騎持ちで、これは武田家中でも最大である。
小幡氏は元々上野の国人であった。上杉憲政を関東管領に擁立に貢献するなど、長野氏と並ぶ有力な存在であったが、後に憲政と対立すると離反して武田晴信(信玄)仕え、後北条氏の上野進出後も両属の関係を続けた。天文22年(1553年)、憲重は息子を連れて信濃国塩田城にいた武田晴信に出仕し、間もなく息子は元服して「信」の字を与えられ「信真」と称した[1]。
信貞も父と共に信玄に仕えて、上野攻略戦を始め、三増峠の戦いや三方ヶ原の戦い等の主要な合戦に参加して武功を挙げている。
なお信貞の小幡氏は、小畠虎盛(小幡)・昌盛・景憲などの甲州小幡氏とは別系統である(甲州小幡氏は武田信玄の命で改姓して「小幡」姓となった)。
1575年、長篠の戦いで父が戦死したため、家督を継いだとされる異説もある。『甲陽軍鑑』中に「信用できない木曾義昌の代わりに(織田領との国境である)木曾に小幡を入れたらどうか」という意の記述があり、『甲陽軍鑑』の信憑性はともかくとして、準譜代的な扱いを受けていた様である。
天正10年(1582年)武田氏が織田信長によって滅ぼされると、家老・森平策之進の献言を容れて、信長軍に降伏。滝川一益の与力として配属させられた。しかし、同年に信長が本能寺の変で横死、それを受け北条氏直が滝川一益を神流川の戦いで破り織田氏の勢力を上野から駆逐したため、信貞は氏直に降伏して北条氏の家臣となった。実子はなく、1585年に養嗣子(弟・信高の子)に家督を譲って隠居身分となる。
1590年の小田原征伐では小田原城に籠城したが、北条氏が敗北すると、真田幸綱の流浪時代から武田氏時代を通じて親交の深かった真田氏(当時の当主は昌幸で勝頼時代は上野方面攻略の責任者)を頼り、そこで余生を送った。1592年に死去。享年52。
ブログの氏族の追跡 小幡氏⑥で「七月五日には北条氏も秀吉に下った。十三日秀吉は小田原城へ入城している。小田原に加勢に行った信貞は十月十八日に死んだ。(諸説あり、根羽砦の記事に別所温泉にある安楽寺に小幡信貞の墓があり、小田原城の落城の後、上田の真田氏を頼って逃れ、真田氏ゆかりの安楽寺にて余生を送ったようです。」