山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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ケムリの城

2018-12-24 20:25:37 | 山城ー信州
虚空蔵山の山城群は

山道マップにありますように、和合城、物見城、ケムリの城、燕城、高津屋城、鳥子屋城、虚空蔵山城、持越城、飯綱城、牛臥城、荒城、花古屋城とあります。この山城群は上田原の合戦、そして川中島の戦いにも上杉謙信が利用したとされています。

ケムリの城

物見城への案内板から北尾根を登ると、ケムリの城の案内があります。慌てて下って行かないよう、よく案内図を見てください。鉄塔26から南に下ってゆけば物見城になります。図のように鉄塔から東に道があり(鉄塔25)、10分ほどでケムリの城となります。

大堀切エ

堀切ウ

堀切ウを尾根から見ています。

本丸北城壁(切岸)、この岩を西回りに道がありますが、途中、道が半分と崩れておりますので滑落しないように注意して進んでください。

曲輪3(鉄塔25)

曲輪2の上に本丸

本丸、ケムリの城と呼ばれていることから、狼煙台があったものと推測されます。

曲輪2、曲輪3を見下ろしています。

曲輪3(鉄塔)まで降りて本丸を見上げています。

曲輪3の南西下に曲輪4

横堀

縄張り図は「信濃の山城と館」上田・小県編より

次回、虚空蔵山の山城から離れて(また後日挑戦します。)、砥石城

板垣信方(上田原で戦死)
生涯①
信方は武田氏の宿将として信虎の代から活躍したといわれ、天文9年(1540年)の信虎の信濃国佐久郡侵攻の際に敵城十数を落とす活躍をしたという[2]。
天文10年(1541年)には信虎嫡男晴信(信玄)による信虎の駿河国追放が起きている。[3]。『甲斐国志』によれば、晴信が家督を継ぐと、信方と甘利虎泰は武田家最高職の「両職」に任じられたという[4]。
同11年(1542年)7月、晴信は高遠頼継と結んで諏訪郡へ侵攻して諏訪頼重を降し、頼重は板垣郷東光寺で自害させられた。同年9月、諏訪家惣領職を望む頼継は藤沢頼親と結んで諏訪郡へ侵攻して上原城を落した。晴信は直ちに信方を先陣とする救援の軍を送り、安国寺の戦いで頼継を打ち破った。[5]
『高白斎記』に拠れば、高遠頼継を追い藤沢頼親を屈服させた晴信は天文12年(1543年)4月に信方を「諏訪郡代(上原城代)」に任じ、翌5月には上原城を整備して入部している。なお、信方はこれに先んじて諏訪・佐久両郡において判物による所領宛行を行っているが(「千野家文書」)、この際の所領宛行は後に再安堵されている点から仮約束的なものであったと考えられている。諏訪支配を担当した信方の立場については『神使御頭之日記』や『甲陽軍鑑』においては「郡代」の呼称が用いられ「諏訪郡代」とされているが、永禄8年(1565年)「諏方神者祭祀再興次第」においては「諏方郡司」の呼称が用いられている点が指摘される[6]。
天文14年(1545年)、晴信は高遠城を攻略し、高遠頼継は没落した。続いて晴信は再び背いた藤沢頼親の福与城を攻めるが頼親は信濃守護小笠原長時と結んで抵抗した。信方は藤沢氏・小笠原氏に与する龍ヶ崎城を攻め落とし、孤立した頼親は降伏した[7]。ウィキペディアより





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