二の丸から実城へ
三の丸、右手の道が当時のものか分かりません。
二の丸、実城城壁が見えています。ここが私の最も好きな縄張りです。
二の丸の北側、蔀土塁
三の丸を見下ろしています。
二の丸を振り返って見渡しています。
実城に入りました。
二の丸を見下ろしています。眼下に見える魚沼穀倉地帯。
看板から北側景色、634m少し大変ですが越後の山城を代表する山ですから一度はチャレンジしてください。(ただ無理をしてはいけません。健康の方が大事です。)
富士権現社
山城の楽しみは歴史だけでなく、雄大な自然も満喫できることにもあります。六日町市街(現在南魚沼市)
実城東下、ここから小城・大城へ通じていますが、次回とします。ロープはスズメバチ注意の表示
長尾政景について
天文16年(1547年)、府中長尾家家中で長尾晴景と景虎との間で抗争が起こると、政景は晴景側につく。政景が晴景の妹・仙桃院を娶っていたことや、上田長尾氏と対立していた古志長尾氏が景虎側だったことなどからであろう。天文17年(1548年)12月、晴景は景虎に家督を譲って隠居した。
天文19年(1550年)、景虎が家督を継いだことに不満を持って謀反を起こすが、天文20年(1551年)、景虎の猛攻に遭って降伏した。以後は配下の上田衆を率いて景虎の重臣として活躍し、弘治2年(1556年)に家督を捨てて出家しようとする景虎を説得して押し止め、復帰させる。また永禄3年(1560年)、春日山城の留守居役に任じられるなど、様々な功を挙げた。
永禄7年(1564年)7月5日、坂戸城近くの野尻池(現在の銭淵公園内にある池と、湯沢町にある大源太湖の二説がある)で溺死した。享年38。これには、舟遊びの最中、酒に酔っていたため溺死した説、謙信の命を受けた宇佐美定満による謀殺(『北越軍談』)、下平吉長による謀殺(『穴沢文書』)などの説があるが、真相は分かっていない。同船していた家臣(国分彦五郎)の母の後日談では、引き揚げられた政景の遺骸の肩下には傷があったという。彦五郎はこの事件で一緒に死んだといわれる。
政景が溺死したのは、宇佐美定行(定満)が城主だったとも伝わる野尻城(琵琶島城)のある野尻湖(芙蓉湖)という説もある。ウィキペディアより>
長尾政景の暗殺説は当時から残っています。政景は長尾氏として、越後の当主となる野心は抱いていたようです。晴景(謙信の兄)と弟景虎の権力争いで、政景は将来御しやすい晴景方に付き景虎と戦っています。ただ、謙信が京へ上洛を果たしたときに、春日城の留守を守っていますから、この時が謀反の大きなチャンスであったにも関わらず、謀反を起していませんので真相は闇です。
三の丸、右手の道が当時のものか分かりません。
二の丸、実城城壁が見えています。ここが私の最も好きな縄張りです。
二の丸の北側、蔀土塁
三の丸を見下ろしています。
二の丸を振り返って見渡しています。
実城に入りました。
二の丸を見下ろしています。眼下に見える魚沼穀倉地帯。
看板から北側景色、634m少し大変ですが越後の山城を代表する山ですから一度はチャレンジしてください。(ただ無理をしてはいけません。健康の方が大事です。)
富士権現社
山城の楽しみは歴史だけでなく、雄大な自然も満喫できることにもあります。六日町市街(現在南魚沼市)
実城東下、ここから小城・大城へ通じていますが、次回とします。ロープはスズメバチ注意の表示
長尾政景について
天文16年(1547年)、府中長尾家家中で長尾晴景と景虎との間で抗争が起こると、政景は晴景側につく。政景が晴景の妹・仙桃院を娶っていたことや、上田長尾氏と対立していた古志長尾氏が景虎側だったことなどからであろう。天文17年(1548年)12月、晴景は景虎に家督を譲って隠居した。
天文19年(1550年)、景虎が家督を継いだことに不満を持って謀反を起こすが、天文20年(1551年)、景虎の猛攻に遭って降伏した。以後は配下の上田衆を率いて景虎の重臣として活躍し、弘治2年(1556年)に家督を捨てて出家しようとする景虎を説得して押し止め、復帰させる。また永禄3年(1560年)、春日山城の留守居役に任じられるなど、様々な功を挙げた。
永禄7年(1564年)7月5日、坂戸城近くの野尻池(現在の銭淵公園内にある池と、湯沢町にある大源太湖の二説がある)で溺死した。享年38。これには、舟遊びの最中、酒に酔っていたため溺死した説、謙信の命を受けた宇佐美定満による謀殺(『北越軍談』)、下平吉長による謀殺(『穴沢文書』)などの説があるが、真相は分かっていない。同船していた家臣(国分彦五郎)の母の後日談では、引き揚げられた政景の遺骸の肩下には傷があったという。彦五郎はこの事件で一緒に死んだといわれる。
政景が溺死したのは、宇佐美定行(定満)が城主だったとも伝わる野尻城(琵琶島城)のある野尻湖(芙蓉湖)という説もある。ウィキペディアより>
長尾政景の暗殺説は当時から残っています。政景は長尾氏として、越後の当主となる野心は抱いていたようです。晴景(謙信の兄)と弟景虎の権力争いで、政景は将来御しやすい晴景方に付き景虎と戦っています。ただ、謙信が京へ上洛を果たしたときに、春日城の留守を守っていますから、この時が謀反の大きなチャンスであったにも関わらず、謀反を起していませんので真相は闇です。