大きな岩がある北4曲輪といたしましたが、三の丸に訂正しました。
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三の丸
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三の丸の東側、土塁
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三の丸を見下ろしています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/92/3e1bbf2ecffc5d266898539f339dd77b.jpg)
尾根を登り
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二の丸
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二の丸の中にある本丸に祭られている八幡社への階段
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/d4/250db1e8a50d23d5633abcd18293bc7d.jpg)
二の丸の北から南を見ています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/b2/d03e509f71198686471091aacd34b380.jpg)
二の丸は本丸を北・東・南と囲んでいます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/30/abf663774d8fcdbac0f8cc097b844c5b.jpg)
階段を登り、二の丸を見下ろしています。
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本丸(八幡社が祭られています。)
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縄張り図は「余湖くんのお城のページ」より。本丸まで歩いてきました。図のように日向城は、この先に大きな竪堀四本が西尾根に築かれています。
次回 大堀切から曲輪4へ
日向氏②
日向是吉・虎頭の活動
戦国時代には、大永8年/享記元年(1528年)の比志神社(山梨県北杜市須玉町比志)の本殿再興の棟札において、大檀那として日向是吉のほか母牛御・妻・子息虎忠・被官らの名が記載されている[4]。日向是吉に関しては同棟札が唯一の史料であるが、是吉と日向図書助は活動時期が近接し、さらに両者は双方とも惣領的立場にあると想定されていることから、是吉と日向図書助は親子関係であった可能性が考えられている[5]。
晴信期には信濃侵攻を本格化させる。『甲陽軍鑑』では是吉に否定される日向大和を侍大将の一人に数え、天文7年(1538年)から日向大和に関する合戦記事を記しているが、これらの諸合戦の存在や年紀には問題が多いことが指摘されている[6]。武田氏は天文19年(1550年)7月に深志城を陥落させているが(『高白斎記』『山梨県史』資料編中世3上県内記録所載)、『軍鑑』では日向大和は馬場信春とともに城代に任じられたとしている。天文19年10月、武田氏は小県郡において村上義清に敗退しているが(砥石崩れ、「高白斎記」に拠る)、『甲陽軍鑑』では砥石崩れを境に同じ大和守を称した日向虎頭に既述が変わっていることから、是吉は同合戦において死去していたとする説がある[7]。
信玄は天文20年(1551年)において同郡松原上下大明神(松原諏訪神社、南佐久郡小海町)に伊那郡征圧を祈念する先勝祈願の願文を奉納しているが、これに大和守虎頭の名が見られ[8]、日向是吉に関する記録は比志神社棟札が唯一のものであるため天文20年以降の「日向大和守」は虎頭を指していると考えられている。
虎頭の深志城代継承は不明だが、弘治3年(1557年)4月には長坂筑後守(虎房)とともに第三次川中島の戦いに際して北信地域の探索を命じられており[9]、松本方面での活動が確認されることから深志城代の立場も継承していたと考えられている。 ウィキペディアより
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三の丸
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三の丸の東側、土塁
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三の丸を見下ろしています。
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尾根を登り
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二の丸
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二の丸の中にある本丸に祭られている八幡社への階段
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二の丸の北から南を見ています。
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二の丸は本丸を北・東・南と囲んでいます。
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階段を登り、二の丸を見下ろしています。
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本丸(八幡社が祭られています。)
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縄張り図は「余湖くんのお城のページ」より。本丸まで歩いてきました。図のように日向城は、この先に大きな竪堀四本が西尾根に築かれています。
次回 大堀切から曲輪4へ
日向氏②
日向是吉・虎頭の活動
戦国時代には、大永8年/享記元年(1528年)の比志神社(山梨県北杜市須玉町比志)の本殿再興の棟札において、大檀那として日向是吉のほか母牛御・妻・子息虎忠・被官らの名が記載されている[4]。日向是吉に関しては同棟札が唯一の史料であるが、是吉と日向図書助は活動時期が近接し、さらに両者は双方とも惣領的立場にあると想定されていることから、是吉と日向図書助は親子関係であった可能性が考えられている[5]。
晴信期には信濃侵攻を本格化させる。『甲陽軍鑑』では是吉に否定される日向大和を侍大将の一人に数え、天文7年(1538年)から日向大和に関する合戦記事を記しているが、これらの諸合戦の存在や年紀には問題が多いことが指摘されている[6]。武田氏は天文19年(1550年)7月に深志城を陥落させているが(『高白斎記』『山梨県史』資料編中世3上県内記録所載)、『軍鑑』では日向大和は馬場信春とともに城代に任じられたとしている。天文19年10月、武田氏は小県郡において村上義清に敗退しているが(砥石崩れ、「高白斎記」に拠る)、『甲陽軍鑑』では砥石崩れを境に同じ大和守を称した日向虎頭に既述が変わっていることから、是吉は同合戦において死去していたとする説がある[7]。
信玄は天文20年(1551年)において同郡松原上下大明神(松原諏訪神社、南佐久郡小海町)に伊那郡征圧を祈念する先勝祈願の願文を奉納しているが、これに大和守虎頭の名が見られ[8]、日向是吉に関する記録は比志神社棟札が唯一のものであるため天文20年以降の「日向大和守」は虎頭を指していると考えられている。
虎頭の深志城代継承は不明だが、弘治3年(1557年)4月には長坂筑後守(虎房)とともに第三次川中島の戦いに際して北信地域の探索を命じられており[9]、松本方面での活動が確認されることから深志城代の立場も継承していたと考えられている。 ウィキペディアより