猫城は群馬県前橋市敷島(旧赤城村)にあります。
猫城地図
県道255号線で宮田地区から敷島方面に向かい赤城郵便局手前50mくらいの市道を右折します。1kmくらいで
林道に入る前の集落の道は狭いため運転には注意が必要です。この土塁のような土盛りの脇に道があります。
少々の笹薮を抜けると5分で、この虎口になります。
第一曲輪
帯曲輪
南側に円形の台状
尾根を南西に歩き
堀切と虎口
第二曲輪(
赤城散歩の会はこちらを本丸としていますが、第一曲輪の方が、位置は高く周囲には帯曲輪を配しており、私は第一曲輪が本丸ではないかと思っております。また猫(根古)と表記され、根古谷を意味しているとのこと。
牧和と書かれていますが、正しくは牧和泉守です。北条方として真田軍と戦ったようです。長井坂城・棚下の砦、猫城と利根川沿いでの諸城は沼田城の真田氏と奪還を狙う北条氏との間で激戦が行われたと加沢記には記述されています。
やはり第二曲輪も南に円形の台状があります。
縄張り図は「群馬県古城塁祉の研究 上巻」これを見ると猫城としたのが納得できます。
「赤城村誌」の記述によれば、「加沢記」「吾妻記」などの記述から白井長尾家に属した東廻十騎と称したともいわれる当地の土豪である都丸氏(戸丸氏)の居館説を示している。この都丸氏の城は南南東約1kmの山上に猫城(猫山城とも)が所在しており、その地は現在も都丸姓の方が継承する山林となっていて東西2郭を軸とした遺構の残された山城である。
「加沢記」の記述によれば、天正10年6月下旬に沼田城代である矢沢頼綱(真田氏一族で重臣)の命により、金子美濃守、中山右衛門尉らが猫城を囲んだが、白井城を本拠とする白井長尾氏家臣である牧和泉守らが伏兵によりこれを退けたとのことである。無論後世の編纂である「加沢記」ではあるが、この天正10年(1582)6月下旬は武田氏の滅亡に続き、織田信長の横死と明智光秀の敗死という背景があり、一時的に中央権力不在となった時期である。その間隙をぬって一躍戦国大名化を目指す真田氏の思惑や後北条氏の北進などの軍事的緊張関係が深まってゆくというなかで、詳細な事実関係は別としてもその当時における混沌とした上野地域の政治情勢を伝える内容であるものと考えられるのではないのだろうか。
なお当該城館の名称については、「日本城郭大系」と「群馬県の中世城館跡(1988)」では「猫の寄居」と記している。一方「赤城村誌」では「猫寄居」としているが、無論同一の城館跡を指しているものである。「城跡ほっつき歩記」記事より
次回 群馬県吉岡町南下 桃井城
猫城地図
県道255号線で宮田地区から敷島方面に向かい赤城郵便局手前50mくらいの市道を右折します。1kmくらいで
林道に入る前の集落の道は狭いため運転には注意が必要です。この土塁のような土盛りの脇に道があります。
少々の笹薮を抜けると5分で、この虎口になります。
第一曲輪
帯曲輪
南側に円形の台状
尾根を南西に歩き
堀切と虎口
第二曲輪(
赤城散歩の会はこちらを本丸としていますが、第一曲輪の方が、位置は高く周囲には帯曲輪を配しており、私は第一曲輪が本丸ではないかと思っております。また猫(根古)と表記され、根古谷を意味しているとのこと。
牧和と書かれていますが、正しくは牧和泉守です。北条方として真田軍と戦ったようです。長井坂城・棚下の砦、猫城と利根川沿いでの諸城は沼田城の真田氏と奪還を狙う北条氏との間で激戦が行われたと加沢記には記述されています。
やはり第二曲輪も南に円形の台状があります。
縄張り図は「群馬県古城塁祉の研究 上巻」これを見ると猫城としたのが納得できます。
「赤城村誌」の記述によれば、「加沢記」「吾妻記」などの記述から白井長尾家に属した東廻十騎と称したともいわれる当地の土豪である都丸氏(戸丸氏)の居館説を示している。この都丸氏の城は南南東約1kmの山上に猫城(猫山城とも)が所在しており、その地は現在も都丸姓の方が継承する山林となっていて東西2郭を軸とした遺構の残された山城である。
「加沢記」の記述によれば、天正10年6月下旬に沼田城代である矢沢頼綱(真田氏一族で重臣)の命により、金子美濃守、中山右衛門尉らが猫城を囲んだが、白井城を本拠とする白井長尾氏家臣である牧和泉守らが伏兵によりこれを退けたとのことである。無論後世の編纂である「加沢記」ではあるが、この天正10年(1582)6月下旬は武田氏の滅亡に続き、織田信長の横死と明智光秀の敗死という背景があり、一時的に中央権力不在となった時期である。その間隙をぬって一躍戦国大名化を目指す真田氏の思惑や後北条氏の北進などの軍事的緊張関係が深まってゆくというなかで、詳細な事実関係は別としてもその当時における混沌とした上野地域の政治情勢を伝える内容であるものと考えられるのではないのだろうか。
なお当該城館の名称については、「日本城郭大系」と「群馬県の中世城館跡(1988)」では「猫の寄居」と記している。一方「赤城村誌」では「猫寄居」としているが、無論同一の城館跡を指しているものである。「城跡ほっつき歩記」記事より
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