山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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蟻城⑥(北城)

2018-09-05 20:15:14 | 山城ー信州
佐久穂町の蟻城の略図

略図にある左手中央の卍の記号には善福寺がありましたが、現在は廃寺になっています。地図の通り、林道を車で行けば南城へは容易です。西城へは尾根歩きは已むを得ません。

善福寺(お堂は残っています。)の裏側に進むと墓石があります。

碑文があり、青柳家の方が建てたものです。
青柳城地図
資料に基づいての考えではありませんが、もしかすると蟻城は青柳氏が居住したのかもしれません。今後調べてみる価値はあります。

麓に東屋があり、ここから山に入りますと、すぐに堀切があります。

奥に曲輪があり

北方には烽火台があります。

縄張り図は「信濃の山城と館」佐久編の北城部、左手の曲輪3の北側を歩いています。

曲輪3から北城の主郭部の城壁を見ています。

曲輪2

本丸城壁の下方に堀

本丸城壁

次回 本丸から圧倒される空堀遺構

平賀氏(大井小笠原氏族)
「妙法寺記」には、文明元年(1468年)や文明4年(1472年)に大井氏など信濃勢(佐久の国人衆)が甲斐国に攻め入り、文明9年(1477年)には甲斐勢が佐久に侵攻して敗北した記録が残されており、当時守護武田氏の力が弱かった隣接する甲斐にも侵攻していた事が分かる。しかし、文明11年(1479年)には同じ佐久郡内の同族・伴野氏との戦いに大敗し、大井政朝が生け捕りとなり、大井氏の執事相木氏が討死を遂げる。この戦いで、伴野氏方には大井氏に度々侵攻されていた甲斐の武田信昌が加担していたといわれる。文明16年(1484年)、大井政朝から弟の安房丸への代替わり時に、小県郡から佐久郡に勢力を伸ばそうとしていた村上氏の攻勢を受け、大井城は落城し大井宗家は滅亡する。
宗家は滅亡したが、甲斐武田氏系統の永窪大井氏の大井玄慶(安房丸の子・政信との説もある)が大井城を継ぎ、岩尾・耳取・芦田・相木など一門や家臣も存続した。これら残された一族は、村上氏の与力豪族的な位置付けとされるが、確定的な資料は残されていない。ただ依田氏など、それまで大井氏に従属していた諸族の多くは村上氏の下に移っており、実質的に佐久郡は村上氏の影響下に置かれた。
永正6年(1509年)、将軍足利義尹は関東管領上杉顕定に命じて大井行満と伴野貞慶の和睦を図ったが、劣勢に陥った伴野氏は甲斐の武田信虎を頼った。その後、永正16年(1519年)に信虎が佐久郡平賀城を攻めたのを皮切りに、武田氏と村上氏の争いの場となり、大井氏・平賀氏・依田氏をはじめとする佐久郡の豪族も村上氏や武田氏、更に関東管領山内上杉氏などの間で離合集散を繰り返し、やがて天文12年(1543年)には長窪城の大井貞隆が武田晴信(信玄)に敗れ、弟の大井貞清は岩尾城の大井行頼とともに武田氏に臣従した。
戦国末期になると武田氏が滅亡し、徳川氏・後北条氏・上杉氏の勢力が信濃に伸び(天正壬午の乱)、大井氏一族も巻き込まれていく。天正11年(1583年)、佐久で唯一残った後北条方の岩尾大井氏(大井朝光の孫光泰が祖)の大井行吉が立て篭もる岩尾城攻めで、徳川方の依田信蕃と弟の信幸が戦死を遂げている。一方、耳取大井氏の大井政成が徳川氏の家臣となり、旗本として存続した。長窪氏などの支族がある。ウィキペディアより